死に戻りの妻は、妹を愛する夫を完全に見限る

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死に戻りの妻は、妹を愛する夫を完全に見限る

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中村夏美(なかむら なつみ)は、夫である中村湊(なかむら みなと)のサブアカに投稿された「再会のきろく」を見て、結婚して3年もの間、彼が...

Chương (1)

第1章

中村夏美(なかむら なつみ)は、夫である中村湊(なかむら みなと)のサブアカに投稿された「再会のきろく」を見て、結婚して3年もの間、彼が愛していたのは自分の妹・御手洗美優(みたらい みゆ)だったと知った。 それは夏美が余命1ヶ月と宣告された日だった。その日、湊は美優と楽しく食事をしていた。そして、夏美からの着信を受けてもスマホの画面を伏せて無視していた。 湊は、「美優が今月、珍しく帰ってきているから、彼女に付き合ってやらないと」と言った。 そして夏美が抗がん剤の副作用で意識を失うほど苦しんでいる時、湊は日記にこう綴った。【母校の並木道を一緒に歩いていたら、あの頃に戻ったみたいだ】 さらに彼女が湊の目の前で血を吐いて苦しんでいる時も、彼は駆け足で走り去りながら言った。「美優の愛犬が病気になったから、病院に連れて行かないと」 ついに大晦日の夜、夏美が病室で孤独に息を引き取る時、湊は彼のいわゆる家族と乾杯をしながら、年越しをしていたのだった。 一方息を引き取ったはずの夏美がふたたび目を開けると、なんと生まれ変わって運命の岐路に舞い戻っていた。 目の前には、血走った目で雨の中に飛び出し、彼女の手を掴もうとする湊がいた。「夏美、約束する、一生お前に尽くしていくから!」 しかし、今度の夏美は冷静に振り返って言った。「湊、通らせてください。それからこれからも関わるつもりはないから」 第1話 「余命は長くて1ヶ月、年を越すのは難しいでしょう」 医師は検査結果をデスクに置き、対面に座る中村夏美(なかむら なつみ)を見つめた。「中村さん、病状の悪化は予想よりも早いです。今後の治療や介護の方針を決めるためにも、家族の方を呼ぶべきです。お一人では無理だと思われますので」 そう言われ、夏美はゆっくりと顔を上げて言った。 「家族はいません」 医師は少しきょとんとして答えた。「カルテには旦那さんの連絡先も記載されていますが……」 「それはもう過ぎた話です」夏美は言葉を遮った。「今の私は独り身です」 そう言われ、数秒の沈黙が続いたあと、医師はパソコンに目を落とし、複雑な表情で操作を行った。 「痛みが強い時は我慢せず、鎮痛剤を倍にして飲んでください」処方箋を渡しながら、彼は続けた。「栄養剤も朝晩忘れずに、来週、必ず再検査しにきてください。治療方針を考え直さなければなりませんので」 「わかりました」 夏美は短く答え、診察室をあとにした。 そして、彼女はスマホに目を落とした。 通知画面には天気の予報が一つだけ。 着信も、新しいメッセージも、何もなかった。 バスに乗り込むと、夏美は座席の背もたれに寄りかかり、目を閉じた。 中央通りを通過する時、霧雨の向こうに、有名な鍋料理のお店が見えて、ネオンの看板がチカチカしているのだ。 そして店内の明かりも煌々としていて、窓越しに客たちの賑わっている姿が見えているのだった。 その瞬間、夏美の体は、石のように固まった。 窓際の席に座る四人は誰もが彼女の見慣れた顔ぶれだった。 夫の中村湊(なかむら みなと)は、朝自分がアイロンをかけたばかりのシャツを着ていた。そして今、彼は隣の女性に何かを囁きながら、優しい眼差しで笑っている。 その隣にいた女性はまさに、3年ぶりに戻った妹の御手洗美優(みたらい みゆ)だった。 そして向かい側の席には、自分の両親が座っていた。 父親の御手洗大輔(みたらい だいすけ)は楽しそうに美優に取り皿を差し出し、母親の御手洗香織(みたらい かおり)も目を細めながら笑って頷いているのだった。 それは夏美がもう3年間も見ていない、混じりけのない幸福そうな笑みなのだ。 こうして彼らは熱々の鍋を囲み、ぐつぐつとスープが沸き立つ中、美優の前の取り皿には、たっぷりと具が積まれていた。 一方その頃、バスがゆっくりと減速し、信号待ちで停まった。 夏美はスマホを取り出し、連絡先の筆頭にある「湊」という名前をタップした。 そして無機質な呼び出し音が鳴り響いた。 一度、二度、三度。 窓の内側に目を向けると、そこでテーブルに置かれた湊のスマホの画面が明るく光った。 だが、彼はチラリと画面を一瞥しただけで、音を立てることなく画面を下に向けて、テーブルに置き直した。 そしてまた美優の方を向き、彼女が差し出したグラスを受け取りながら笑いかけているのだった。 一度切れた電話を再度掛ける。 夏美はそんな風に掛けては切る、という動作を機械的に繰り返した。 信号が変わるまで、あと30秒。 その頃、お店の窓からは、大輔がスマホを掲げて写真を撮っているのが見えた。 左から湊、美優、その後ろに両親。美優は楽しそうに指を立ててVサインを作っていた。 すると、カシャ、という音が聞こえたような気がして、夏美はそっとスマホを置いた。 もっと早く気づくべきだったんだ。 3ヶ月前、湊のサブアカを見つけた時から。彼がそのアカウントを「再会の記録」と名付けて、日々他の女との日常を記録していると知ったときから気づくべきだった。 そうこうしているうちに、信号が青に変わり、バスが動き出した。 夏美はガラスの冷たさを感じながら、窓枠に頭を預けた。 しばらくして、彼女は手を伸ばし、掌で顔を覆った。 彼女はこの時3年前、実家が倒産した日の夜を思い出していたのだ。 あの日もこんな雨の降る晩だった。両親は最後の貯金が入った通帳を美優に押し付けてこう言った。「美優、これでしっかり勉強してきて。家のことは気にしないでいいから」 そう言われ、美優は泣きながら香織に抱きつき、「でも、お母さんたちのことが気がかりだわ」と言った。 すると、大輔は彼女の肩を叩き、「バカだなぁ、そんなことより自分を大事にして」と答えた。 その時自分は扉のところで、古いカバンを背負ってただ突っ立っていた。誰からも気づかれることなく、声を掛けられることもなかった。 そして、雨脚が強まった頃、20年住んだ家を自分は一人で出た。傘もささず、全身ずぶ濡れになりながら。 そして湊が車を運転して見つけ出してくれた時、自分はバス停で震えながらしゃがみこんでいた。 あの時彼は車から飛び出し、上着をかけてくれた。「夏美、帰ろう」とだけ言って。 突然、車内のアナウンスで、夏美は思い出から現実へ引き戻された。 目を開けると、車内は静まり返っており、運転手が心配そうに振り返って自分を見ていた。 「すみません、終点ですよ」 すると、夏美は薬袋を手に取ると、バスを降りた。 家の中は暗かったが、玄関のライトが反応して灯った。靴を脱ぎ、靴箱に薬袋を置いてから、ふと壁に視線を向けると、そこには、今もまだ湊との結婚写真が飾られているのだった。 写真の中の湊は自分の肩を抱き寄せ、穏やかな笑みを浮かべていた。 夏美はその写真をじっと見つめた後、すっと視線を逸らした。 そして、キッチンに明かりがついているのが見えたので、行ってみると、炊飯器の保温ランプがついていた。蓋を開けると、温かなシチューが入っていた。 付箋にはこう書かれていた。【最近、胃の調子が悪そうだから。よく噛んで食べるんだよ。冷めないうちに。帰りは少し遅くなる】 それを見て夏美はお皿にシチューをよそうと、ダイニングテーブルの横に腰を掛けた。 シチューはまだ湯気が立つほど温かかった。 その時、スマホが震えた。 【シチューは食べたか?クライアントとの付き合いで遅くなるかもしれない。胃が弱いんだからあまり冷たいものは食べないようにね。冷蔵庫に切っておいた果物があるから、それも少し常温になるまで待ってから食べて】 その文字をじっと見つめて、夏美はスマホの電源を切った。 そして、半分ほど食べたところで、突然、強烈な吐き気が込み上げてきて、夏美は慌てて立ち上がり、洗面所へ走った。 洗面台に縋り付き、身体を折り曲げて、激しく吐き戻した。 しばらくして、ようやく収まると、彼女は蛇口をひねって水を出して、鏡の前に立った。 そして、冷たい水を顔に叩きつけた後、顔を上げて、鏡の中の自分を見つめた。 するとそこに映る自分は青ざめた顔で、唇も血色がなく、髪は乱れ、瞳は真っ赤に腫れ上がっていた。 こうして夏美は、鏡の中の自分を暫く見つめていた。 それから、不意に、フッと笑った。 幸い、あと1ヶ月の我慢だ。 第2話 こうして夏美はベッドに横たわると体を丸めて、自分をぎゅっと抱きしめた。そして暗がりの中、スマホの画面の光に青ざめた顔を照らされながら彼女は、あの日、美優が「戻ってきた」時のことを思い出していた。 あの日、家は至る所が飾られていてお祝いムードだった。両親もまたこれまでにないほどの満面の笑みを浮かべていた。彼らは怯える美優を囲んで温かく迎え入れ、最高の部屋を用意してあげて、とびきりの優しい言葉をかけてあげた。 一方自分はリビングの隅に立ち、10年以上過ごしてきた家で、一夜にして居場所をなくしてしまったのだった。 それ以来、両親の視線はほとんど自分に向けられなくなった。 ただ、湊だけは違った。 幼い頃から共に育ち、一緒に木に登り、凧を揚げた湊は、変わらず自分のそばにいてくれた。 「夏美、怖がらなくていい。お前には俺がいるよ」と、あの時彼は自分の手を握り締めてくれたのだ。 だから、自分は湊を、せめてもの救いのように掴んで離そうとしなかった。 家が倒産したあの日。 修羅場と化した家には借金取りが押し寄せ、両親は頭を抱えていた。 部屋で震えていると、外から低い声の言い争いが聞こえた。やがて母が目を赤くして入ってきて、掠れた声で言った。「もうどうにもならないの。夏美、借金のことはごめんね。美優はまだ小さいから……」 そんな風に見捨てられたあの夕暮れ、湊は自分を探し出し、何も聞かずに立ち上がらせると、ギュッと力いっぱい抱きしめてくれた。 そして彼は言った。「夏美、結婚しよう」 この3年間、湊が自分にしてくれることは非の打ち所がなかった。 だから彼女は、苦難は去り、二人で助け合って一生歩んでいけると、当時は信じて疑わなかった。 3ヶ月前に、あのサブアカを偶然見つけるまでは。 それは「再会のきろく」と名付けられたサブアカだった。 湊のかつてのトキメキ、思い出、そして激しい憎しみが溢れていた。 湊が、かつて彼をすべて置いて去った美優をいかに憎んでいた。 信じていた愛情を裏切られたから。 それに対して、自分は最初から最後まで、湊にとっての復讐道具でしかなかったのだ。 ピンポーン――ピンポーン―― そう思い巡らせていると、インターホンの音にハッとした夏美は、歯を食いしばりながらベッドを支えに扉へ向かった。 そしてドアスコープを覗くと、暗い廊下に湊が立っていて、腕には誰かを抱きかかえているのだった。 それは美優だ。彼女は目を閉じ、顔を赤くし、髪を乱して彼のジャケットにくるまり、無防備な顔で眠っているのだ。 すると、湊が顔を上げ、眉をひそめて小声で指示を出した。「ドアを開けて。彼女寝てしまったから、静かにしよう」 そしてドアが開いた瞬間、湊は隙間から中へ入ると、寝室へと直行し、ドアを静かに閉めた。 すぐに中からは、耳元でささやくような優しい声と、布団を掛ける小さな音が聞こえてきた。 しばらくして湊が出てくると、また丁寧にドアを閉めた。 「まだ起きてたのか?」と彼は小声で聞いた。「美優が飲みすぎて気分が悪いみたいで。タクシーも拾いにくいし、ここに連れてきた。今夜は彼女をここで寝かせるから。お前はゲストルームを使ってくれ」 そう言われ夏美の視線は湊の顔から、固く閉ざされた寝室の扉へ移り、そしてまた彼へ戻った。 すると、湊は何かに気づいたように近づいてきた。「そういえば昼間、たくさん電話してきただろ?何かあったのか?」 そう言いかけて彼はまた夏美の顔色と額に浮いた冷や汗を見て、眉をひそめた。「顔色が悪いぞ。また胃が痛いのか?」 夏美はかぶりを振ったが、声を出すことはなかった。 「ならいいんだけど。美優もそう長居はしないだろう。正月が過ぎればまた行かないといけなくなるから。この1ヶ月は、彼女とゆっくり過ごしたいんだ」 そう言われている最中も胃の痛みが次々と押し寄せ、夏美は全身の力が抜けそうだった。 彼女は口を開き、掠れた声で言った。「湊……私もちょっと具合が悪いの」 そして彼女は彼がまた、昔のようにすぐ心配して、病院に付き添ってくれるかもしれないという期待を込めて湊を見つめた。 しかし、そう言われた湊はさらに眉間にしわを寄せ、責めるような目で夏美を見た。「夏美、美優は滅多に帰ってこないんだぞ。子供の頃から張り合っているのを、大人になっても続ける気なのか?」 そこまで言って彼はため息をつき、「もういいだろ?俺たちにはたっぷり時間があるんだから。今月くらい彼女と一緒にいさせてくれよ」と言った。 それを聞いて、胃の痛みと、心を突き刺されるような感覚に、夏美はぼうっとしてしまった。 彼女はかすかに口角を動かして言った。「分かったわ」 第3話 それからの1週間、湊が家に帰ってくることはほとんどなかった。 それでも、夜の7時半になると夏美のスマホには決まってデリバリーが届いたという通知がきた。 そしてそれに続けて湊からこんなメッセージが届くのだ。【出前、温かいうちに食べろよ。食事はしっかりとらないと。俺を心配させるな】 そんな中彼女は昔を思い出した。湊はどんなに忙しくても必ず帰ってきて、キッチンで1時間も2時間もかけて、自分のために料理を作ってくれたものだ。 あの時彼は、「デリバリーなんて体に悪い。手料理じゃないと安心できない」と言っていた。 だが今はただ出前が届けられるだけだ。そう思って、夏美は出前に口をつけることはなかった。 そして、その度に彼女は、あのサブアカを静かに開くのだった。 予想通り、サブアカには毎日のように投稿が更新されていた。 【再会65日目。彼女と母校へ行った。昔歩いた並木道も、何もかもが変わっていなかった】 【再会67日目。彼女が風邪を引いた。薬と温かい飲み物を差し入れた。相変わらず大雑把なんだから】 【再会70日目。彼女と一緒に物件を見てきた。彼女は国内でも家を構えたいらしい】 こうして、2週目に入り、夏美は一人で病院の検診に向かった。 抗がん剤治療は、痛みも伴う苦しくて長い闘いだ。 強烈な吐き気に襲われ、彼女はトイレに駆け込むと、内臓まで吐き出してしまうほどだった。 そして鏡に映る自分のやつれたつやのない顔と、地肌が見えるほどスカスカに抜けた髪を見て、彼女は蛇口をひねり、冷たい水で何度も顔を叩いた。 それから階段の踊り場に出たところで、スマホが鳴った。画面には「お父さん」の文字が表示されていた。 大輔が自ら電話をしてくることなど、滅多にないと思い、夏美は足を止めた。 しかし、電話に出るやいなや、大輔の怒鳴り声が飛んできた。「おい夏美!今日はいったいどうしていたんだ?お母さんの誕生日だって知っているんだろう!家族みんなで待っていたんだぞ。お母さんが一日中準備していたのに、それも忘れたのか?」 そう言われ、夏美は思わず手に力が入り、爪を手のひらに食い込ませた。 ここ一か月、繰り返される治療と増していく病の苦しみに押しつぶされそうで、彼女はそのことを本当にすっかり忘れていたのだ。 「ごめん、お父さん」彼女は弱々しく、精一杯絞り出した声で言った。「私……」 「言い訳するな!」大輔は言葉を遮った。「今すぐ来い!料理が冷めてしまうだろうが!」 すぐに、電話はガチャリと切れた。 一方、通話終了の音を聞きながら、夏美は病院の通路で長い間、立ち尽くした。 そして胃の中のムカムカが治まらず、先ほど抑え込んだばかりの吐き気がぶり返してくるようだった。 冷たい壁に手を突き、彼女は何度も深く息を吸い込んで、ようやく襲い来る目眩を堪えられた。 そして向かう途中、彼女はデパートで車を止めさせると、店に走り、口座に残されたわずかな残高で、店員おすすめの最新のスカーフを買った。 これは多分香織に贈れる最後の誕生日プレゼントになるだろう。 到着後、家のドアはすぐに開いた。 そして玄関先には上機嫌な様子の香織がいたが、夏美の姿を見た瞬間、その笑顔はさっと消え、隠そうともしない嫌悪と不機嫌さが露わになった。 彼女は夏美の白くてやつれた顔と、精気のない瞳を値踏みするように見た。 「なによ、そのみすぼらしい顔は!」香織は吐き捨てるように言った。「生気のない顔で、見ているだけでイライラするわ!その分美優はあなたとは大違いね。あの子はいつだって明るくて、見ているだけで華やかな気分になれるわ!」 そう言われ夏美は胸が、ぎゅっと締め付けられるのを感じた。 目線を落とし、彼女は反論もせずに小さく言った。「お母さん、お誕生日おめでとう」 そう言って彼女は美しいスカーフの箱を差し出した。 しかし、香織は一瞥しただけで受け取ろうともせず、身をわきへ避けた。「さっさとお入り、皆あなたを待ってるんだから」 夏美は言われたまま、部屋へ足を踏み入れた。 テーブルには豪華なエビや、カニなど海鮮料理がずらりと並んでいて、ご馳走ばかりだ。 すると、湊はすっと立ち上がり、隣の椅子を引いてあげた。「ごめんね、夏美」と彼が耳元でひっそり言い訳をした。 「仕事が忙しくて。美優から今日がお母さんの誕生日だって聞いて、急いで駆けつけたところなんだ。本当は事前に教えようとしたんだけど、仕事が忙しくてすっかり忘れてしまって、俺も急に呼ばれたからさ」 それを聞いて、夏美は淡々と頷いた。「いいよ、大丈夫」 あまりにも静かな彼女の反応に、湊のほうがかえって戸惑ったように目を瞬かせた。 すると、美優が香織にカニを取り分けてあげて言った。「お母さん、お疲れ様!この料理、最高だよ!腕を上げたね!」 「もう、あなたは本当にお上手なんだから!」香織も表情を緩め、美優にエビを取り分けてあげた。「たくさんお食べ!」 こうしてテーブルに和やかな笑いが戻った。大輔は酒をあおり、香織と美優は楽しそうに話をしていて、湊が時折その会話に入っては、自然と美優のことを見つめていた。 一方夏美はただ静かに座り、手元の空のお皿を眺めていた。 彼女は自分に近いブロッコリーを少しだけ取り、ご飯と一緒にちびちびと食べた。 「夏美、なんで食べないの?」香織の鋭い声がその和やかなムードを砕いた。「実家で暮らさなくなったからって、私の作ったものまで口に合わなくなったの?」 すると場の空気が、凍りついた。 湊がテーブルを見回し、呆然と口を開いた。「お母さん、夏美は甲殻類のアレルギーです。この料理、彼女はほとんど食べられないはずです」 それを聞いて香織は息を呑み、テーブルのエビやカニ、海鮮を眺めてから、夏美の前にぽつんと置かれたブロッコリーを一瞥し、表情にわずかな気まずさがよぎったが、すぐに消え、代わりに不機嫌さが浮かんだ。 「面倒くさい子だねえ」と香織はぶつぶつ文句を言った。「あれもこれも食べられないから、そうやって痩せこけていくわけだわ」 そう言って、彼女はもう夏美を見ようとせず、すぐに美優に向かって微笑みかけた。「美優、今日の海鮮は新鮮で美味しいから沢山食べて!エビの殻も剥いてあげるね」 一方、湊は夏美のがらんとしている取り皿をちらっと見てから、彼女のやせ細った横顔に目を向けると、すこし不憫に思い、少し離れた場所にあったスペアリブを取り、彼女に取り分けてあげた。 「とりあえず、これを。帰ったらまた何か美味いものを……お前が食べられるようなさっぱりしたものを作ってあげるから」 一方、夏美は取り皿に置かれた脂ぎったスぺアリブを見つめていると、胃の奥からムカムカが込み上げてきた。 これが、自分が願って、待ち焦がれた「家族揃った誕生日パーティー」だと思うと彼女はもう思い残すことがないように思えた。 第4話 翌日、夏美は鉛のように重い体を引きずって銀行を出た時、スマホの画面には、振り込み完了の通知が表示されていた。 それを見て彼女は冷たいATMの機械に背を預け、大きく息を吐き出した。 これでやっと、返せた。 実家が倒産したときに抱えた最後の借金を、死ぬ前にようやく清算できたのだ。 そう思っていると突然、目の前がクラッとなり、銀行のホールがぐるぐると回り、周囲の喧騒が遠ざかっていくように感じた。 彼女は何かにつかまろうとしたが、力が入らず、手を上げることさえできなかった。 そして夏美が再び目を開けると、視界がぼやけていて、ピントが合うまでに少し時間がかかった。 「気がつきましたか?」横から心配したような女性の声がして、夏美がなんとか視線を向けると、病床の傍らに親切そうな女性が座っているのだった。 そして、女性は顔を寄せて話しかけてきた。「あなたが銀行で倒れたんですよ。緊急連絡先が旦那さんになっていたから何度か電話したんですけど、誰も出なかったんです。ご両親にも連絡しましたが、みんなダメでした。仕方ないので、ここまで私が付き添ってきたんです」 そう言われ夏美はスマホを受け取って通話履歴を確認したが、家族のそれぞれの名前に残る「応答なし」の文字に、彼女の指先が固まった。 その時、スマホが震え、画面に湊の名前が躍った。 「あら、早く出なさい!きっと旦那さんが探してますよ!」親切な女性が横から促した。 「もしもし?」電話口から湊の声がした。「夏美か?今、電話してた?スマホをマナーモードにしてて聞こえなかった。何かあったか?」 夏美は口を開いたが、喉に何かが詰まったようで、一言も言葉が出てこなかった。 一方で見ていられなくなった女性がスマホを手に取り、言った。「もしもし!奥さんが銀行で倒れて、今、盛沢市第一病院にいます!」 すると電話の向こうが一瞬静まり、やがて湊の明らかに動揺した、焦るような声が聞こえた。「病院?倒れたって……彼女は今大丈夫ですか?」 それから約20分後、湊が急ぎ足で救急治療室へやってきた。 額にはうっすらと汗をかき、呼吸を荒くしていた。そして、特に異状は見当たらない様子の夏美を見て、彼は険しい顔つきになった。 「どうなってるんだ?」湊は近づきながら言った。「お母さんから聞いたぞ。お前はまた仮病を使って俺を呼び出そうとしたのか?夏美、いつまでそんなことをしているんだ? 今日が何の日か分かってるのか?美優がどうしても見たいって言ってたミュージカルのチケットを、やっと手に入れたんだぞ!彼女が海外に行く前に、家族みんなで見たかった最後の公演だ!お前のせいで、全部台無しだ!」 「家族みんな?」夏美がようやく口を開いた。その声は、囁きのようにか細かった。「あなたたちにとっての『家族みんな』に、私は含まれていないのね?」 その問いに湊は一瞬詰まり、虚ろな夏美の瞳を見て、胸の奥で言い知れぬ不安と呵責が走るのを感じた。 彼は視線をそらし、少しトーンを落として言った。「そんな意味じゃない。見たいならまた今度見ればいい。ただ今回はチケットが手に入りにくくて、4枚しか用意できなかったんだ。美優はすぐに遠くへ行ってしまうし……」 「4枚ね」夏美は繰り返すと、力なく笑った。「お父さん、お母さん、美優、そしてあなた……確かに、4枚でちょうどよかった」 そんな風に笑う彼女を見て、湊は言いようのない不安を感じた。彼は夏美の冷たい手を握って言った。「そんなこと言うな。美優が海外に戻ったら、お前も演劇を見に連れていってやるから」 「私はもう大丈夫だから」夏美は手を引き抜き、湊を遮った。「ただの貧血。持病だし気にすることないから。早く行って、舞台に遅れるわよ」 そう言われ湊は平静な彼女の顔を見て、腕時計を確認すると、迷ったように言った。「本当に大丈夫か?自分で帰れるのか?」 「ええ」夏美は頷いた。「このままタクシーで帰るから」 数秒間逡巡した末に、湊は何も言わず救急治療室を出て行った。その間彼は一度も振り返ることはなかった。 それを見ていた女性は呆然と口を開けたが、やがてため息をついて夏美に水を差し出した。 夏美は一度も、舞台というものを見たことがなかった。 湊がこれほど大切にし、美優が「家族で見たい」と期待を寄せる、その公演がどんなものなのか、彼女はふと知りたくなった。 そう思って彼女も行った。劇場の入り口は華やかにライトアップされ、人が行き交っていた。そんな中、夏美は窓口に近づいた。「『時の回旋』のチケットはまだありますか?どんな席でもいいです。倍払います」 そう言われ係員は不思議そうな顔をした。「『時の回旋』?まだまだ空席がいっぱいですよ。倍払わなくてもチケットはありますので、何席必要ですか?」 それを聞いて、夏美は立ち尽くした。 そして、薄暗い客席に入ると、公演はすでに始まっていた。 舞台は光に彩られ、キャストの歌声が響く。だが彼女には何も聞こえなかった。視線は、一列目の真ん中に釘付けになったままだった。 そこには、四人の人間が並んでいた。 大輔は誇らしげに顎を上げ、香織は体を斜めにしながら美優に何かを耳打ちして、慈しむような笑顔を見せているのだった。 美優は舞台に集中し、時折驚きの声を漏らした。湊は一番端に座っていた。照明に照らされた彼の横顔は穏やかで、時々舞台を見つめては、ふとした瞬間に美優の方に視線を移していた。 そんな彼らを夏美は遠く離れた隅の席で、他人の幸福を垣間見る泥棒のように覗き込んでいた。 やっとの想いで終演まで耐えたが、灯りがつくと、夏美は慌てて顔を下げ、彼らを避けるようにして人混みに紛れて外に出た。 そして慌ててトイレに駆け込んだ、夏美は個室の冷たい扉に背中を預け、激しく鼓動する心臓と荒い息を必死に抑え込もうとした。 その時、外から聞き慣れた声が聞こえた。 「お母さん、今月の生活費!」それは甘えたような美優の声だった。 「あら、うっかり忘れるところだったわ」香織の声には笑いと愛情が満ちている。「朝、夏美から最後の手切れ金が振り込まれたからね。そっくりそのまま渡してあげる。向こうじゃお金のことなんて気にしないで、好きなものを買って」 「ありがとう!でも、お姉ちゃんあの借金を返すのに必死で働いて来たんでしょ……本当はそこまで必要ないって知ったら怒るかな?」美優の声に、わずかな後ろめたさが混じっていた。 一方、個室の中で、それを聞いた夏美は完全に固まってしまった。 だがすぐにまた、香織の全く気にしないような声が聞こえてきた。「何を怒るのよ?彼女は姉なんだから、妹であるあなたの面倒をみるのは当然でしょ?それくらい彼女だって分かっているんだから」 そして、蛇口が回され、水の音が続きの言葉をかき消した。 夏美は狭い個室の中で、震えを止めることができなかった。 あれから、どれくらい立ち尽くしたか、足が痺れるようになってから、彼女はようやく機械的に扉を押し、おぼつかない足取りで出てきた。 そして、劇場の出口まで近づいたところで、夏美がふと前の方を見ると、そこには、香織の腕に親しげに寄り添い、もう一方の手で高級そうな子犬を連れている美優の姿があった。 そして香織にプレゼントした、自分が最後に思いを込めたスカーフは無造作に折られ、両端を結んだだけの簡素な首輪に作り変えられ、その子犬の首に巻き付いていた。 子犬が跳ねるたびに、そのスカーフはつるっとした床を引きずられていたのだった。 第5話 それから、正月まであと1週間になった頃。 痛み止めの効果が切れたせいで、また胃の奥底から鈍い痛みが広がった夏美はベッドで身が縮こまっていると、インターホンが鳴った。 それを聞いて夏美はドアを開けに行った。 「お母さん」 一方、ドア先に立つ香織は夏美をじろりと見て、いつものように眉間にしわを寄せた。「こんな真昼間に、どうしてそんなに顔色が悪いの?よく眠れてないわけ?」 「うん」夏美はそう頷くと、体を横にずらして香織を招き入れた。 「今日来たのは、大事な話があるからだよ」香織は咳払いを一つすると、夏美の顔を真っすぐに見つめた。「実はね、友人の話だと、正月明けに親戚の息子さんが海外から帰国するんだって。とても優秀で人柄もいいのよ。二人でお見合いをしてみたらどうかなって」 そう言われた夏美は呆気にとられ、言葉が出てこなかった。 「お見合いよ、聞こえた?」香織は繰り返して言った。「美優と湊のこと、あなたも知ってるでしょ?あの時は家の問題とか、美優の留学とかで別れることになったじゃない?でも、今回美優が戻ってきてから、もう海外に行きたくないそうよ」 香織は間を置き、夏美の様子を窺った。夏美が真っ青な顔で沈黙しているのを見て、彼女は言葉を重ねた。 「あなたと湊の結婚も、当時は仕方なかったんだから。今、美優に彼を譲る気はないかしら?どうせ、離婚してもあなたは私たちの家族なんだから。お母さんがもっといい人を探してあげるからさ」 そう言って香織は夏美を見つめた。彼女が拒絶したり、号泣したり、あるいは不満をぶちまけてくるんじゃないかと思った。 しかし夏美は静かに座ったままで、ふと顔を上げて答えた。「わかったわ。美優がそうしたいなら、それで構わない」 すると、今度は香織の方が呆気にとられた。 ちょうどその時、ドアが開いて湊と美優が一緒に入ってきた。 香織は慌てて口を開いて言った。「湊、美優、ちょうどいいところに来たわね。今、夏美にお見合いの話をしていてね。とてもいい人よ。夏美も了承してくれたから。二人の将来のためにも……」 「お母さん、やめてください!」湊が大きな声で香織の言葉を遮った。そして、明らかに怒りを堪えているかのように、数歩で夏美の前に進むと、信じ難いような表情で彼女を見つめた。 「夏美、お前はどうしてこんなにも冷たいんだ?どうして俺を簡単に他の人に譲れるんだ?」 「湊さん、そんなに怒らないで」美優は怯えた様子で湊の腕を掴もうとした。 だが、湊はその手を激しく振り払った。そして彼は夏美を見つめたまま、彼女の平然とした表情から何かを探り出そうとしていた。 「お母さん、余計な世話を焼かないでください」湊は続けて香織に向き直り、断固とした態度で言った。「俺と夏美はもう結婚しています。昔のことは過ぎたんです。美優のことはもう、妹としてしか見ていません」 彼は最後の一言を振り絞ったかのように言い放った。 そう言われ、香織は顔を引きつらせ、湊、そして真っ青な顔で唇を噛みしめる美優を交互に見て、最後に夏美に視線を戻した。 「俺と夏美のことは俺たちが自分たちで解決しますので」湊は冷たく言い放った。「お母さん、もう遅い時間ですから、美優を連れて帰ってください」 それから、湊は彼女らを送り出してから、ドアを閉めると、再び夏美の前に歩み寄った。 リビングの電気は消えたままだった。薄暗い部屋の中、彼の苛立ちと不安は次第に広がっていった。 「夏美」湊は声を絞り出した。「最近は構ってあげられなくて悪かった。美優が帰ったら……」彼は決意したように言葉を並べた。「約束する。もう二度と彼女に想いを寄せないようにする。だから、俺たち前みたいに戻ろう」 そう言われ、夏美は静かに湊を見つめていた。その時、予期せぬ激痛が胃を締め上げて、まるで内臓をひっかきまわされたかのようだった。 彼女は湊の手を振り払い、口を押さえて激しく咳き込んだ。 「夏美?」湊は慌てて立ち上がった。 夏美は前屈みになり、ついに喉の奥から込み上げる鉄の味がする熱いものを堪えきれなくなった。 「っ……」 暗赤色の鮮血が噴き出し、カーペットに大きな紅い染みが広がった。 それを見た湊の表情は固まり、驚きから恐怖へ、そして混乱へと変わっていった。 こうして彼は呆然と立ち尽くし、青白い顔で苦しむ夏美と足元に広がるあの大きな血の跡を眺めていた。 「夏、夏美?」震える声で叫ぶ。「どうしたんだ?血……血を吐いたのか?」 第6話 そして、再び目を開けた夏美がゆっくりと意識を取り戻すと、改めて思った。 湊に見られてしまった。 きっとすごく驚いたに違いない。 最後に見せた彼の怯えた表情を思い出し、夏美の胸中には言いようのない複雑な感情が渦巻いた。 彼女はなんとか首をベッドの端へと向け、湊に胃の病気が悪化して少し吐血しただけだと、単なる持病だから大丈夫だと、説明する言葉を考えていた。 しかし、そこには誰の姿もなかった。 ただ冷たい椅子が、ポツンと置かれているだけだった。 しばらくして、病室のドアが静かに開き、看護師が薬の入ったトレイを持って入ってきた。 「目が覚めましたか?気分はどうですか?」看護師は手慣れた手つきで点滴やモニターをチェックしながら声をかけた。 「まあまあです……」夏美はひどくかすれた声で言った。「夫は?」 看護師の動きが一瞬止まり、彼女を覗き込んだ。その瞳には、隠し切れない同情と困惑の色が混じっていた。 「旦那さんね……」と看護師は声を潜めた。「電話がかかってきて、急いで出て行かれましたよ。なんでも義理の妹さんの犬の具合が悪くなったそうで、急いで獣医さんのところへ連れて行かないとって言ってました」 「そうですか……」と夏美は答えた。 その後の2日間、病室はしんとしていた。 年末年始という時期もあって、病院内は普段よりもひっそりとしており、あたりは一層静まり返っていた。 夏美はほとんどの時間を寝て過ごし、窓の外に広がる灰色に霞んだ空をただ眺めていた。 彼女の体はひどく衰弱していて、身動き一つするのにも力を振り絞らないとできないほどだった。 その日、枕元に置いたスマホが突然に震え出して、静まり返った病室に振動音が響いた。 夏美は力を振り絞って腕を伸ばし、スマホを手にした。画面には、湊の名前が表示されていた。 「もしもし?」電話越しに湊の声が響いた。背景の雑音からすると車の中のようで、音楽と風の音が混じっていた。「夏美か?体調はどうだ?少しはよくなったか?」 「うん、だいぶ楽になったわ」夏美は静かに答えた。 「ならよかった」湊の声には安堵の色が浮かんでいた。 「ユキちゃん、美優が飼ってる犬が胃腸炎でね。地元の獣医じゃ手に負えなくて、隣の市にある大きな動物病院まで連れて行くことにしたんだ。美優が取り乱して泣き叫ぶし、ご両親も心配で……だからみんなで車で移動しているところだ。 せっかくだから連泊して、この正月はそっちで少し遊んでくるつもりだよ」 一方、そう言われた夏美はスマホを握りしめ、ただ黙って彼の言葉に耳を傾けていた。 「お前の体調がまだ優れないから、連れ回したら負担がかかるだろう」そう言って湊は気遣ったように続けた。「心配しなくていいよ。正月用の食材は全部買い揃えて家にあるから。食べ物には困らないはずだろうから。家でおとなしく待っていてくれ。戻ったら、また、二人でゆっくり過ごそう」 そう言われ、夏美は何かを言おうと口を開いたが、喉が渇きすぎて言葉が出てこなかった。 すると、彼女が声を発する間もなく、電話の向こうから香織の弾んだ声が聞こえてきた。「湊、もういいわよ!夏美と話すのはあとでいくらでもできるでしょ!運転に集中してちょうだい。美優、ほらミカン食べて」 続いて、美優の甘く弾んだ声が続いた。「ありがとう、お母さん!湊さん、安全運転してね!」 そう言われ、湊は一瞬躊躇ったようだったが、すぐに慌てて電話を切った。「じゃあ、夏美、運転に集中するから切るぞ。ちゃんと休んで、飯と薬は忘れずに。戻ったらまた連絡する」 プッ……プッ……プッ…… こうして通話は切れた。 一方、夏美は病床に横たわり、微動だにしなかった。 しばらくしてから、彼女はようやく腕を下ろした。 そして目から熱い涙が前触れもなくこぼれ落ち、一滴、また一滴とあふれ出した。 すぐに、その雫は止めどない線となって枕を濡らしていった。 第7話 ついに大晦日の夜がやってきた。 夏美が入院していた個室の窓からも、煌めくネオンで宝石のように輝く街が見えた。そして、時折遠くから子供がはしゃぐような声が聞こえてきていた。 テレビからは小さな音で、賑やかな年越し番組が流れていた。 そんな中スマホが光り、薄暗い病室で眩しく輝いた。 湊からのビデオ通話だ。 夏美はその通知をじっと見つめ続けた。 結局、彼女は最後の力を振り絞って、震える手で応答ボタンを押した。 すると、画面越しに、湊の顔が映し出された。 「夏美!」湊の弾んだ声が聞こえる。「年越しそばは食べた?テレビ見てる?」 夏美は自分を映すことはせず、枕にスマホを立てかけ、カメラを天井の方へ向けた。 「うん、すこし食べたよ」彼女の声はとても小さく、テレビの音にかき消されそうだった。「テレビも見ているよ」 「どうして顔を見せてくれないんだ?」湊がいつものような甘えた声で尋ねてきた。「また痩せたのか?ちゃんと食べなきゃダメだって言っただろ」 「大丈夫だから」夏美はそれでもカメラを自分に向けることなく答えた。 その時、電話越しに香織の楽しそうな声が聞こえた。どうやら彼女たちもそばにいるらしい。「湊、夏美とビデオ通話中?顔を見せてもらうように言って、挨拶くらいしなきゃ!」 そしてそれと共に背景で美優の笑い声も重なった。 これらを聞いて、夏美の胸は締め付けられたようだった。 「お母さんが会いたがってるよ」湊がスマホを二人に向けた。 画面には、果物やスナックを広げたソファに座り、テレビを楽しんでいる香織と美優の姿があった。 華やかな柄の服を着た美優の肌は白く輝いていて、甘い笑顔を見せている。香織も新しい服を着て、心底嬉しそうに笑っていた。 「夏美、ほら!お母さんたちとも何か話して!」香織が画面越しに笑いかけた。 夏美は指を小さく動かしたが、画面の位置は動かさなかった。 鏡に映る自分は、見る影もなくやせ細り、顔色も悪い。帽子をかぶっていても病気の影は隠せないでいたから。 家族みんなが幸せそうに過ごすこのひと時をぶち壊すような、自分のみすぼらしい姿を見せたくはなかった。 「少し具合が悪くて、動けないんだ」そう言い訳をすると、彼女の声はよりか細くなった。 すると、画面の向こうが一瞬静まり返った。 続いて香織が声を強め、苛立ちを隠さずに言った。「まだ拗ねているの?私たちが遊びに行っているのに連れて行かなかったから?夏美、あなたは姉なんだから。いつまでも美優と比べてばかりいるのはダメでしょ?大人げないわよ」 「お母さん、夏美をそんなふうに言わないでください」湊が割って入った。「彼女の体調が悪いのは知ってるでしょう」 湊は夏美を安心させるように微笑むと、席を立った。それから彼はベランダへ移動したのか、周囲の音が静かになり、遠くで街の賑わう音だけが少し明瞭になった。 「夏美、ここから見える景色はなかなかいいよ」 彼はカメラを外へ向けた。 すると画面の向こうでは、夜空を埋め尽くすほどキラキラと輝くネオンが夜景を彩っていた。 とてもきれいだ。 その眩い光を見つめる夏美の視界は、徐々にぼやけていった。 そしてテレビの騒がしい音に混じって、湊は屈託のない声で美優の愛犬の調子が良くなったことや、美味しかった料理など、旅先の様子を話していた。 これらあらゆる音が、次第に遠ざかっていった。 「夏美?聞いてる?」湊が夏美の沈黙に気づいたようだ。 「うん……」夏美はかろうじて反応を返すのが精一杯だった。 そんな中、テレビではゆく年くる年のカウントダウンが始まっていた。 「10! 9! 8!」 カウントダウンの音は次第に大きくなっていき、テレビ越しに伝わってくるようだった。 「7! 6! 5!」 そして湊の弾んだ声と、テレビのカウントダウンが重なった。「夏美!もうすぐ新しい一年がやってくるね……」 「4! 3! 2!」 しかし、最後の1秒になった瞬間、病室のモニターが鋭い音を響かせた。 ピーッ―― 必死に画面を隠そうとしていた夏美の手が、ついに力が抜けたようにそのまま白シーツの上へと落ちていった。 そしてそれと共にスマホも手から滑り落ち、枕の脇へ転がった。 一方、電話の向こうで、湊がまだ興奮から覚めない様子で言った。「あけましておめでとう!夏美、もうすぐ帰るよ」