風雨に別れを告げ、花の季節を迎える

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風雨に別れを告げ、花の季節を迎える

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彼氏と一緒にウェディングドレスの試着に来て、ちょうど会計しようとしたそのとき、手にしていたドレスをいきなり別の女にひったくられた。 「...

Chương (1)

第1章

彼氏と一緒にウェディングドレスの試着に来て、ちょうど会計しようとしたそのとき、手にしていたドレスをいきなり別の女にひったくられた。 「ごめんなさいね、これ、私が先に目をつけてたの!」 私は眉をひそめた。すると友人がふいに私の肩を叩き、小声で言った。 「大丈夫、彼氏に言ってもらいなよ。そのドレス、新作が出たときにもう予約してたんでしょ。絶対、あんたのために取っておいたんだって」 私は反射的に森田和真(もりた かずま)へ視線を向けた。案の定、彼は前へ歩み出た。 けれど――彼がしたのは、女の腕からずり落ちた裾を、何気なく整えてやることだった。 「向こうが先に気に入ってたなら、仕方ないだろ」 彼は私の頬をつまんで、優しく、それでいてどこか軽い調子で笑った。 「うちの咲良ちゃんはいちばん聞き分けがいいもんな。どうせこの一着じゃなきゃ駄目ってわけでもないだろ?」 私は、その女の得意げで勝ち誇ったような顔を、ただぼんやりと見つめていた。 何も答えなかった。 ただ、気まずそうな顔をしている友人に向かって、小さく笑ってみせた。 「大丈夫。このドレスは、もういらない」 ウェディングドレスなんて、別にこの一着じゃなきゃいけないわけじゃない。 結婚する相手だって同じだ。 和真でなければ駄目というわけでも、もうなかった。 第1話 彼氏と一緒にウェディングドレスの試着に来て、ちょうど会計しようとしたそのとき、手にしていたドレスをいきなり別の女にひったくられた。 「ごめんなさいね、これ、私が先に目をつけてたの!」 私は眉をひそめた。すると友人がふいに私の肩を叩き、小声で言った。 「大丈夫、彼氏に言ってもらいなよ。そのドレス、新作が出たときにもう予約してたんでしょ。絶対、あんたのために取っておいたんだって」 私は反射的に森田和真(もりた かずま)へ視線を向けた。案の定、彼は前へ歩み出た。 けれど――彼がしたのは、女の腕からずり落ちた裾を、何気なく整えてやることだった。 「向こうが先に気に入ってたなら、仕方ないだろ」 彼は私の頬をつまんで、優しく、それでいてどこか軽い調子で笑った。 「うちの咲良ちゃんはいちばん聞き分けがいいもんな。どうせこの一着じゃなきゃ駄目ってわけでもないだろ?」 私は、その女の得意げで勝ち誇ったような顔を、ただぼんやりと見つめていた。 何も答えなかった。 ただ、気まずそうな顔をしている友人に向かって、小さく笑ってみせた。 「大丈夫。このドレスは、もういらない」 ウェディングドレスなんて、別にこの一着じゃなきゃいけないわけじゃない。 結婚する相手だって同じだ。 和真でなければ駄目というわけでも、もうなかった。 ぎこちない空気の中で、友人がその場を取りなした。 「たぶん私の聞き間違いだよ。あっちにもまだいろんなデザインがあるし、もう少し試してみよう……」 ほかの人たちも口々に調子を合わせた。 和真はかすかに笑って、もう一度視線を落としてスマホを見た。 空気はまた賑やかさを取り戻し、さっきの小さないざこざなど最初からなかったかのようだった。 店員は先ほどの女にウェディングドレスの保管について熱心に説明していた。 女の子はにこやかに聞いていたが、その視線はときどき和真のほうへ向いていた。 彼女はうつむいて、しばらくスマホに文字を打ち込んでいた。 すると次の瞬間、和真のスマホが鳴った。 けれど彼はすぐにはスマホを見ず、先に顔を上げて、反射的に私をちらりと見た。 私がこちらを見ていないのを確認してから、ようやく視線を落としてメッセージを返し、口元をわずかに緩めた。 その女が帰ってまもなく、和真もすぐにスマホを軽く持ち上げて、私たちに向かって言った。 「咲良ちゃん、あとで会議があるんだ。先に行くよ」 私は答えず、そのまま試着室に入った。 カーテンを閉める寸前、視界の端には、店を出ていく和真と、あの女の子がほんのひととき言葉を交わす姿が映っていた。 しばらくして、親友からメッセージが届いた。 【ウェディングドレス、前に気に入ってたあれじゃないの?】 私はありのまま事情を親友に話した。聞き終えた彼女は、たちまち激怒した。 【またあの女?あの石川?】 石川結奈(いしかわ ゆいな)は、和真が新しく採用したアシスタントだった。 今日、私は初めて正式に彼女と顔を合わせたけれど、その名を聞くのはこれが初めてではなかった。 半月前の婚約パーティーは、進行も滞りなく、招かれたのも親しい身内や友人ばかりで、何から何まできちんと整っていた。 ただ一つ、来賓リストに私の両親の名前だけが載っていなかった。 私は腹も立ったし、悔しくもあって、その段取りを担当した結奈を解雇してほしいと和真に言った。 けれど彼はただ私の肩を抱き寄せ、彼女は初めてで経験がないのだから、大目に見てやれと言った。 「彼女だって善意で手伝おうとしたんだ。そんなに目くじら立てるなよ」 親友の言葉に、私の意識は引き戻された。 「言っとくけど、この女、絶対にただ者じゃないよ!結婚なんて明らかにあんたたち二人のプライベートなことなのに、わざわざ首を突っ込んでくるなんて。それに和真も……」 ちょうど外で友人が私を呼んでいたので、あとでまた話そうと伝え、カーテンをめくって外に出た。 ウェディングドレスの試着は夕方までかかって、ようやくまあまあ納得のいく一着を選び出した。 そのころ、ちょうど和真が戻ってきて、友人がすぐ彼をつかまえてどうかと尋ねた。 和真は一目見て、軽く笑った。 「いいんじゃないか」 それから視線を引っ込め、またスマホの画面を見続けた。 まるで彼の目の前にいるのが、これから妻に迎える花嫁ではなく、どうでもいい通行人ででもあるかのようだった。 店員がウェディングドレスを包み終えてから、ようやく和真はスマホをしまった。 彼はいつもの癖で、こちらへ来て荷物を持とうとしたが、私は身をひねって避けた。 「私が持つ。そうやって持ったら汚れちゃうから」 それを聞いた和真は思わず吹き出したように笑って、私の頭をくしゃりと撫でた。 「そんなに大事にしてるのか?」 第2話 私は彼の手を軽く払いのけ、そのまま後部座席に滑り込んだ。 道中、私は窓の外を眺めていたが、ふいに彼の名を呼んだ。 「あのドレス、最初から彼女のために取り置きしてたんでしょう?」 和真はハンドルを握る手をぴたりと止めた。 しばしの沈黙のあと、和真は否定しなかった。 「実は……お前が最初に選んだあの一着は、お前にはあまり似合わないんだ。あれは体のラインの欠点が目立つ。お前にはマーメイドラインのほうが合ってる。だから彼女に譲ったところで、別に構わないだろ?」 少し間を置き、それでも私が黙ったままでいるのを見て、和真は小さくため息をついた。 「咲良ちゃん、たかが一着のドレスだ。それでも気に入らないなら、少し時間を置いてからまた選びに行けばいい。そのときはお前の好きなものを選べばいい。もう少し大人になれよ。そんなに目くじら立てるな」 また、その言葉だった。 私が大人になるべきだから、彼女に私の婚約パーティーを台無しにされても、我慢しろというのだ。 私が大人になるべきだから、大勢の友人の前で挑発されても受け入れろというのだ。 私が大人になるべきだから、今度はウェディングドレスまで彼女に譲れというのだ。 私は体を起こし、バックミラー越しに和真の顔を見つめた。 「もう新しいウェディングドレスを選びに行ってる時間なんてないの、和真」 風が窓から吹き込み、少し赤くなった私の目をかすめていった。 「お母さんは、そのときまで待てないの」 …… 和真と付き合い始めて一年目、母の病状が突然悪化し、ICUに入ることになった。 医者から危篤を告げられて、私は頭が真っ白になり、病院の廊下にしゃがみ込んで、壊れたように泣き崩れた。 そんな私のもとへ真っ先に駆けつけてくれたのが和真だった。彼は私を強く抱きしめて、「大丈夫だ、俺がいるから」と言ってくれた。 彼は手元の仕事をすべて放り出し、あちこち駆け回って伝手をたどり、国内でも指折りの専門医を呼んで母の診察にあたらせてくれた。 それだけじゃなく、自分で病室の手配までして、付き添いのこともきちんと整えてくれた。毎日、仕事が終わると病院に駆けつけて、私に食事を買ってきてくれて、母に付き添う私のそばにいてくれた。自分のことは後回しで、水を一口飲む暇もないほどだった。 あのころの彼は、目の下に赤い血管が浮かぶほど疲れ切っていたのに、一度も弱音を吐かなかった。それでもいつも私の頭を撫でながら、こう言ってくれた。 「咲良ちゃん、きっとおばさんは良くなる。これからは俺がいる。お前とおばさんのことは、ちゃんと俺が守るから」 あのころ、忙しく立ち働く彼の背中を見つめながら、私はただ、自分はなんて幸運なんだろうと思っていた。和真に出会えたこと、それだけで、この先の人生はもう十分だとさえ思えた。 だからこそ、その情に引かれて、私は何度も彼の不注意を見逃し、彼の上の空な態度を許してきた。 たとえ結奈に対するあからさまな肩入れがあっても、私の考えすぎなんだ、彼はただ部下に情をかけているだけで、気が優しすぎるだけなんだと、自分に言い聞かせてきた。 けれど今の彼の振る舞いは、まるで一本の槌のように、少しずつ、私の期待も幻想も、すべて打ち砕いていく。 沈黙の中で、和真はハンドルを握る手にどんどん力を込めていった。 そして最後には、折れたように小さくうなずいた。 「明日でいいか?」 その声は少し冷たく、硬かった。 「明日、俺が付き添って新しいのを選びに行く。必ずお前が満足するものを選ぶ」 そう言ったきり、彼はもう何も口にしなかった。 車内は完全に沈黙に包まれた。 それなのに車の速度だけは少しずつ上がっていき、カーブでは通りかかった車に危うく擦りそうにすらなった。 私もひどく疲れていて、シートにもたれたまま、一言も話したくなかった。 マンションの下まで送ると、和真は会社にまだ用があると言い訳して、そのまま車を走らせて去っていった。 私は部屋に戻り、どうにか選んだあのウェディングドレスをほどいて、ゲストルームのクローゼットに掛けた。 その白さを見つめても、胸の内にはただ荒れ果てた空虚しかなかった。 スマホが鳴った。着信相手の名前を見て、私は深く息を吸い、通話ボタンを押した。 「お父さん」 「咲良ちゃん。お前と和真くんの結婚の準備は、どんな具合だ?」 私は唇を軽く噛み、胸の奥にある迷いを父に打ち明けようとした。けれど、そのとき、受話器の向こうで小さなため息が聞こえた。 父の声は、少し低くなった。 第3話 「父さんだって、これが人生の大事な節目だってことは分かってる。ちゃんと準備しなきゃいけないし、焦って決めるものでもない。 でも……今日の午後、看護師さんが、お母さんの容体が悪化して、どの数値もあまり良くないって…… お母さんは、もうそこまで待てないかもしれな――」 「そんなことない!」 私は即座に父の言葉を遮り、無理に笑みを作った。 「お父さん、何があっても、お母さんには私の結婚式を見届けてもらうから」 電話の向こうでしばらく雑音がして、それから少しして、今度は母の声が聞こえた。 「咲良ちゃん、母さんはどうしてもあんたの結婚を見たいって言ってるんじゃないの。ただ、あんたが幸せでいてくれたら、それでいいの。 和真くんは人柄のいい子だし、あんたにもよくしてくれてる。あんたが幸せに暮らしてくれさえすれば、母さんは安心して逝けるから」 私は泣き出したくなるのをこらえながら、母に約束した。 「お母さん、私はきっと幸せになるよ。 だからお母さんも約束して。絶対に、ちゃんとしてて」 電話を切ると、部屋はまたすっかり闇と静寂に沈んだ。 私は涙を拭い、和真にメッセージを送った。 【明日、ウェディングドレスを選びに行くの、忘れないで】 彼から返信はなかった。 翌日になっても、結局一日じゅう姿を見せなかった。 午後になってようやく、和真から電話がかかってきた。声には申し訳なさそうな色が混じっていた。 「咲良ちゃん、こっちで急な大事な会議が入った。ウェディングドレスを選びに付き合えそうにない。 何日かあとにできないか?こっちは――」 「できない」 私は静かに遮った。 和真は一瞬言葉を詰まらせ、それから声を和らげた。 「咲良ちゃん、もうわがまま言うな。こっちが本当に手を離せないのは、お前だって分かってるだろ。最近ずっと忙しくて……」 「私は今日、新しいウェディングドレスを選びに行く。式の日取りも変えない。明後日」 電話の向こうが一瞬止まり、聞き返してきた。 「何を言ってる?」 私は「そのまま」とだけ返した。 「もう親しい人たちには連絡してる。2月23日」 和真は信じられないというように笑った。 「咲良ちゃん、自分で言ってておかしいと思わないのか? 招待状の作成、会場の段取り、司会との進行確認、どれ一つだって時間がかかるだろ。 それに俺は最近本当に忙しい。いろんなことに気を取られたくないんだ。どうしてお前はいつも俺を理解できない?」 私は目を閉じた。けれど心の中は、自分で思っていた以上に静かだった。 「和真」 私は彼の言葉を遮った。声はとても静かだった。 「言ったはずだよ。お母さんには、もう待つ時間がないの」 向こうはしばらく黙り込んだ。そして和真の声は、氷のように冷たくなった。 「ここまで何年も待ってこられたのに、よりによってこの数日が待てないっていうのか? お前の母親が焦ってるのか、それともお前が焦ってるのか、自分がいちばん分かってるだろ!」 電話は乱暴に切れた。 私はソファに、一時間ものあいだ座り込んでいた。 それでも最後にはスマホを手に取り、ある番号へ電話をかけた。 「明後日、結婚するの。新郎が一人足りないんだけど、来る?」 夕方、私は昨日予約したウェディングドレスを返品しに店へ向かった。 すると店の前で、ショーウィンドウ越しに見覚えのある二つの姿が目に入った。 ドアは開いていて、二人の会話がはっきり耳に届いた。 「森田社長、もともと私のためにウェディングドレスを押さえていただいただけでもご迷惑をおかけしているのに、今度はデザインの変更まで付き添っていただいて……全部私のせいです。最近ちょっと太っちゃって、まさか入らなくなるなんて……」 何度も忙しい、手が離せないと言っていた和真は、そのときカウンターにもたれながら、のんびりとした口調で言った。 「お前は十分細いよ。少しくらいふっくらしたほうが、むしろ可愛い」 ちょうどそのとき、店員が新しいウェディングドレスを抱えてやってきた。 二人の会話を耳にして、笑いながら言った。 「でも、お客様のサイズでしたら、まだ十分お痩せになっているほうですよ。 少しくらいふっくらするのも悪くないですよ。彼氏さんと一緒で幸せだからこそですもんね。こういうの、幸せ太りって言うんです」 結奈は恥ずかしそうにうつむき、店員が二人の関係を誤解していることを否定しなかった。 第4話 和真はただ笑って、いかにもどうでもよさそうにその話を流した。 「会計してくれ」 店を出ると、二人は店先に立ち、結奈が探るように口を開いた。 「森田社長、あの日ドレスを私に譲ってくださったとき、東条さんのお顔色、あまりよくなかったですよね。でも今はもう新しいのに替えましたし、あの元の一着は、東条さんもかなり気に入っていらしたみたいですし、いっそ……」 「必要ない」 和真は煙草をくゆらせていた。煙がその顔を覆い、表情ははっきり見えなかった。 ただ、その声だけが冷たい風に乗って、私の耳へ届いた。 「俺だって、そんなに早く結婚したいわけじゃない」 これまで彼が口にしてきた言い訳も理由も、その軽く放たれた一言の前では、すべて粉々に砕け散った。 そうだ。 理由なんていくらでも並べられる。けれど、一番根っこのところにあるのは、結局たった一つだけだった。 ただ、したくないのだ。 私と結婚したくない。自分の約束を果たしたくない。ただ、それだけだった。 結奈は小さく息をのんだ。 「でも、東条さんのSNSで、もう結婚の日取りを公表なさったのを見た気がします。 それだけじゃなくて、招待状ももう出来上がってるって聞きましたし…… 東条さん、これは……結婚を迫っているってことなんでしょうか?」 それを聞いた和真の笑みは、少し冷えたものになった。 「あいつにそこまでのことはできないさ。せいぜい母親をだしにして、結婚を急かしてるだけだ」 風がいっそう強くなり、舞い上がった雪が視界を覆った。 私は服をかき合わせ、ウェディングドレスの袋を提げたまま背を向けてその場を離れた。 家に戻ると、私はドレスショップの店員に連絡し、自宅まで引き取りに来てもらって返品の手続きをするよう頼んだ。 電話を切ったあと、私は机の前に座り、パソコン画面に映る結婚式の招待状のテンプレートを見つめた。 箔押しの文字、繊細な模様、そのどれもが、かつて私と和真が思い描いていた通りの、あたたかくてロマンチックなものだった。 ただし、新郎の名前だけは、彼ではなかった。 翌朝、印刷した招待状を手に、私は車で病院へ向かった。まずは母に見せて、安心させたかったのだ。 けれど病室の前まで来て、扉を開けたその瞬間、私は立ち尽くした。 和真と結奈が、母の病床の前に立っていた。 二人は楽しげに話していて、私の姿を見ると、結奈はさらに笑みを深めた。 「東条さんじゃないですか!私たち、さっきからずっとおばさまとお話ししてたんですよ!」 その目の奥では、鋭い得意げな色と挑発の気配がきらついていた。 私の胸には一瞬で怒りが込み上げ、それと同時に、母の前で何か吹き込まれたのではないかという不安も走った。 私は早足で前に出て病床の前に立ち、和真を問い詰めた 「何しに来たの?誰が入っていいなんて言ったの?」 和真は私を見ると、一瞬だけ意外そうな顔をした。だがすぐにまた冷たい表情へ戻り、その声には濃い非難がにじんでいた。 「おばさんの様子を見に来たんだよ。お前が毎日耳元で病状が悪化した、もう長くないって言ってたんじゃないか。 東条咲良(とうじょう さくら)、お前はいったい何がしたい?母親の病気まで利用して俺を騙して、結婚を迫るつもりだったのか?本当に大したもんだな」 その言葉は鋭い刃のように、深く私の胸へ突き刺さった。同時に、ベッドの上の母の顔色もみるみる変わった。 母は戸惑ったように私を見て、それから和真を見た。唇がかすかに動き、何か言おうとしたのに、結局言葉にはならなかった。 その様子を見て、私は目を赤くしながら和真を突き飛ばし、病室から追い出そうとした。 「出ていって! ここにあなたたちの居場所はない。出てって!」 けれど結奈がいきなり一歩前に出て、私の腕をつかんだ。目元を赤く染めながら言う。 「東条さん、怒らないでください。もしまだあのウェディングドレスのことで怒ってるなら、今すぐお返ししますから。それでいいでしょう?」 彼女の声はやけに大きく、まるでわざと病床の母に聞かせるためのようだった。 案の定、母は眉をひそめ、弱々しくも切迫した声で尋ねた。 「ウェディングドレスって……何のこと?咲良ちゃん、いったいどういうことなの?」 私は心臓が跳ねるのを感じ、慌てて結奈を制した。これ以上話を続けさせたくなかった。 第5話 だが、彼女は私の手をぱっと振り払うと、わざとらしいほど無垢な口調で言った。 「おばさま、東条さんったら、私のドレスを欲しがったのに、私が譲らなかったから怒ってるんです。 でもあれは森田社長が私のために仕立ててくださったものですし、仮にお譲りしたって、東条さんにはお似合いになりませんもの」 その言葉が落ちた瞬間、母の顔色はみるみる青ざめた。 結奈の言葉に込められた意味を、母ははっきり聞き取ったのだ。 胸を激しく上下させながら、母は和真を見つめた。その目には、失望と痛みがあふれていた。 何か言おうとしたそのとき、母は突然胸を押さえ、激しく咳き込み、息ができなくなった。 「お母さん!どうしたの、お母さん!」 私は血の気が引き、慌てて母を支えながら大声で叫んだ。 「先生!先生!」 医者と看護師がすぐに駆けつけ、慌ただしく母を手術室へ運び込んでいった。 手術室の扉が閉まり、赤いランプが点いた。その光が、私の目を焼くように痛かった。 それなのに結奈は私のそばまで来て、相変わらず無垢を装った声で言った。 「東条さん、私、また何か失礼なことを言ってしまいましたか?ただ謝りたかっただけなんです。まさか、おばさまがあんなに動揺なさるなんて……」 その白々しい態度が、私の胸の奥にたまっていた怒りにとうとう火をつけた。 もう我慢できなかった私は、手を振り上げ、彼女の頬を思いきり叩いた。 「黙って!お母さんに何かあったら、絶対に許さない!」 すると和真がすぐに前へ出て、彼女を背中にかばった。私を見る目は氷のように冷たく、怒りに満ちていた。 「咲良、お前、頭でもおかしくなったのか? 結奈は本当のことを少し言っただけだろ。それでここまでなる必要があるのか? お前の母親なんて、この数年、手術室に入る回数が食事より多いくらいだ。今日この件がなかったところで、どうせ手術室には入ってたさ。これもあの人の運命だ」 その一言は毒を塗った刃のように、まっすぐ私の心臓をえぐった。 こんな言葉が和真の口から出るなんて、信じられなかった。 和真も、自分がどれほどひどいことを口にしたのか気づいたのだろう。その目に一瞬、狼狽の色がよぎり、慌てて言い繕った。 「咲良ちゃん、違う、そういう意味じゃない。口が滑っただけだ。気にするな……」 「出てって!」 私は涙を流しながら、廊下の出口を指差した。声はかすれていた。 「今すぐ出てって!」 真っ赤に充血した私の目と、取り乱した私の様子を見て、和真は口を開きかけた。 何か言おうとしたのだろう。 けれど結局、泣きじゃくる結奈を支えるようにして、そのまま背を向けて去っていった。 廊下には私一人だけが残された。私は冷たい壁にもたれ、涙を抑えることもできずに流し続けた。 どれほど時間が経ったのか分からないころ、息を切らして駆けつけた父がやって来た。 そして同時に、手術室の灯りも消えた。 …… 結婚式当日、陽射しは穏やかだった。和真はいつも通り会社へ入っていった。 すれ違う同僚たちは皆、笑顔で彼に声をかけた。 「森田社長、おめでとうございます!」 彼はその場で足を止め、困惑した顔を浮かべた。何について祝われているのか、まるで見当がつかなかったのだ。 昨日から、彼が私に送ったメッセージはすべて返事がなく、電話も一度もつながらなかった。 胸の奥にはかすかな不安があったが、かといって自分から私を訪ねるほどには、まだ意地を捨てきれずにいた。 彼は眉をひそめ、近くにいた社員を一人呼び寄せた。 社員は彼の前まで来ると、恭しく尋ねた。 「社長、何かご用でしょうか?」 和真は眉を寄せたまま、不機嫌そうに言った。 「みんな俺におめでとうと言ってくるが、何のお祝いだ?」 それを聞いた社員は、かえって不思議そうな顔をした。 「まだご存じなかったんですか?昨日、石川アシスタントが社内で話してたんです。前から森田社長につきまとっていた東条咲良さんが、今日、別の方と結婚するそうです。 ようやくお別れできたんだって、みんな思ってましたから。それで、自由になられたお祝いを申し上げてたんです」