愛娘を殺したクズ夫。後悔して泣き叫んでも遅い

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愛娘を殺したクズ夫。後悔して泣き叫んでも遅い

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末期の腎不全に苦しむ隠し子の山口啓太(やまぐち けいた)を救うため、宮崎正人(みやざき まさと)は妻である宮崎紬(みやざき つむぎ)に黙...

Chương (1)

第1章

末期の腎不全に苦しむ隠し子の山口啓太(やまぐち けいた)を救うため、宮崎正人(みやざき まさと)は妻である宮崎紬(みやざき つむぎ)に黙って、まだ5歳になったばかりの娘・宮崎葵(みやざき あおい)の腎臓を啓太に移植することを勝手に決めた。 そのことを聞いた紬は、ひどく取り乱して車を飛ばして病院へと向かった。 病院に到着したときには、既に手術室のランプが赤く点灯していた。 紬は泣き叫び、狂ったように手術室の扉を叩いた。 「止めて!この子の母親よ!腎臓移植なんて認めないわ!」 すると、正人が紬の背後から泣き崩れた彼女を強く抱きしめ、悲しげな声で反省した。 「紬、悪かった。啓太の身体はもう限界なんだ。葵から腎臓をもらうしか、生き延びるチャンスがなかったんだ」 紬は信じられないというように目を大きく見開き、長年愛し続けてきた夫を見つめた。これまでずっと愛おしく感じていたその横顔が、今では知らない人のようにしか見えなかった。 第1話 末期の腎不全に苦しむ隠し子の山口啓太(やまぐち けいた)を救うため、宮崎正人(みやざき まさと)は妻である宮崎紬(みやざき つむぎ)に黙って、まだ5歳になったばかりの娘・宮崎葵(みやざき あおい)の腎臓を啓太に移植することを勝手に決めた。 そのことを聞いた紬は、ひどく取り乱して車を飛ばして病院へと向かった。 病院に到着したときには、既に手術室のランプが赤く点灯していた。 紬は泣き叫び、狂ったように手術室の扉を叩いた。 「止めて!この子の母親よ!腎臓移植なんて認めないわ!」 すると、正人が紬の背後から泣き崩れた彼女を強く抱きしめ、悲しげな声で言った。 「紬、悪かった。啓太の身体はもう限界なんだ。葵から腎臓をもらうしか、生き延びるチャンスがなかったんだ」 紬は信じられないというように目を大きく見開き、長年愛し続けてきた夫を見つめた。これまでずっと愛おしく感じていたその横顔が、今では知らない人のようにしか見えなかった。 隠し子の命のことしか頭にない正人は、葵が早産でずっと体が弱かったことを忘れたのか? 腎臓を一つ失えば、幼い葵の体はどうなってしまうの? 手術室に灯る赤色のランプが、紬にとって葵の命をいつでも奪える爆弾のように視えた。紬は震えながら言った。 「正人、啓太くんはあなたの血を引く子供かもしれないけれど、彼のためなら葵を犠牲にしていいっていうの!? お願いよ。手術をすぐに止めてちょうだい」 堪えきれなくなった涙が、紬の頬を伝った。 正人はいとも悲しそうな表情で紬の涙を拭ったけれど、紬を背後から拘束するように抱きしめたその腕の力をまったく緩めなかった。 「大丈夫だ、紬。腎臓が一つなくなるだけだ。葵の命に別状はない」 完全に絶望した紬は、必死にもがきながら正人の腕に噛みついた。 皮膚が噛み千切られても、正人は決してその腕を離そうとはしなかった。 それからどれほど経ったのか、ようやく手術室の扉が開けられた。 主治医が出てきて、一つの容器を大事そうに手に抱えて慌ただしく上階へと駆け上がっていった。 正人は安堵した表情を浮かべると、紬の体を離してさっさと階段を上った。 紬はよろめきながら、手術室へと駆け込んだ。 そこには手術台の上に横たわっている顔面蒼白の葵の姿が目に入り、悲しさと申し訳なさで胸が締め付けられた。 「葵、ごめんね。ママが遅かったわ。本当にごめんなさい……」 かすかに目を開いた葵は、震える小さな手で紬の頬に触れた。 「ママ……パパは遊園地へ連れて行くって言ったのに、どうして病院にいる?私、何か悪いことしちゃった?」 葵の言葉を聞いた瞬間、紬は息が詰まり、声が出せなかった。 葵が悪い子だからじゃなくて、パパがもう葵が大事じゃなくなったからだって、そんなことをこの子に言えるわけがなかった。 5歳の幼い子供が背負うには、あまりに重すぎる現実なのだ。 葵は涙目になって、正人の姿を探した。 「でも、パパはママと私のことを世界で一番愛してるし、絶対に怒らないって言ってたでしょ?」 紬はとうとう耐えきれず、その場で泣き崩れた。 かつて正人が愛していたのは自分と葵だけだったはずなのに、今はもう違うみたいだ。 業界で有名な「仏頂面」として知られている正人が、唯一優しい表情を見せていたのは、幼馴染である紬の前だけだった。 紬の体調が少し悪くなっただけで、億単位の商談を蹴って海外から飛んで帰った。 紬が展示されている骨董品に少し目を止めただけで、とんでもない値段で所有者から買い上げた。 紬の妊娠がわかると、24時間彼女の傍に付き添った。 金持ちの夫妻はみんな、時間が経てば関係が冷め切っていくと言われた。 紬は、自分と正人だけは特別だと信じて疑わなかった。 しかし、妊娠7ヶ月の頃、正人と一人の女子大生が同じベッドで寝ている光景を目にした。 ショックでそのまま倒れた紬は病院に運ばれ、娘の葵もそのせいで早産した。 正人は紬の病床に跪き、何度も自分の頬を手で叩き、涙を流しながら許しを請うた。 「紬、ハメられたんだ。俺を信じてくれ。裏切るなんてこと、断じてない」 生まれたばかりの葵を抱きしめ、紬は正人を許すことにした。 正人はその女子大生を金で解決し、また良き夫、良き父親としての日常に戻った。 しかし1ヶ月前、紬は正人がある女と一緒に一人の男の子を連れて歩いているところを目撃した。 男の子の姿は、どう見ても若い頃の正人にそっくりだった。 その女は男の子の肩を抱き寄せ、紬に臆することなく言った。 「奥様、啓太は私一人の子供で、娘さんと宮崎家の跡継ぎの座を奪い合うつもりはありません」 正人は珍しく取り乱し、必死で紬にしがみついて弁明した。 「紬、彼女はあの5年前に俺をハメた女なんだ」 その時初めて、5年前のあの晩正人と一緒にいた女は妊娠し、産んだ子を一人で育てていたことを知った。 少し前、山口美羽(やまぐち みう)はその子を連れて宮崎グループの採用試験を受けに来た時、偶然に正人と出会ったのだ。 正人はすでに美羽の顔も忘れていたが、啓太の顔つきで彼は自分の血を引いていることを確信した。 帰宅すると、正人は紬に誓った。 「啓太は俺と血の繋がりはあるが、葵こそが正統な後継者だ。それは誰にも変えられない事実だ」 父親に懐いている葵のことを思うと、紬は泣く泣く正人から離れたい気持ちを飲みこんだ。 その後間もなくして、啓太が腎不全を患っていることが発覚した。 ただでさえ山口母子に申し訳なく思っていた正人は、そのことを知ると必死に腎臓提供者を探し回っていた。 皮肉にも、唯一適合したドナーは葵だけだった。 紬は、葵をあんなに愛していた正人がその子から腎臓を奪い取るとは夢にも思わなかった。 しかしそんな残酷な現実は彼女の目の前で起きたのだ。 正人は紬が強く反対しているのにも関わらず、葵を騙してまで手術を強行した。 弱っていな葵を見つめながら、紬は悔しくてたまらなかった。 「葵、パパのことはもういいわ、ママとここを出ようね」 「パパは怒ってるのかな……謝らなきゃ……パパ、病院は嫌だよ」と葵は弱々しい声で言った。 その声はどんどん小さくなり、最後には静かに瞼を閉じた。 紬の鼓動が速まり、冷たくなった葵の手を強く握りしめた。 「葵、どうしたの?目を開けて、ママを怖がらせないで」 しかし、葵からは一切の反応がなかった。 紬は狂ったように医師を呼び立てた。 駆けつけた看護師が、動かなくなった葵を見て悲鳴を上げた。 「術後感染です!すぐに処置が必要です!」 紬は涙で声を枯らした。 「早く助けてください!医者を連れてきてください!」 しかし看護師はどこか困った様子で答えた。 「院内の医者は全員ご主人の命令であちらの男の子の診察に向かっていて、手が空いている医者は……」 紬は震える手で必死にスマホを探した。 「今すぐ夫を呼びます!」 しかし彼女が何度電話をかけても、正人と一切繋がらなかった。 紬は諦めずに、何度も何度もかけ直した。 そしてようやく電話が繋がり、紬は慌てて葵の事情を説明しようとした。 「正人、葵が……」 ピ── その瞬間、心電図モニターから、命が終了する合図の音が鳴り響いた。 紬はその場に凍りつき、目の前で静かになった葵を見つめた。 そして電話の向こうから、正人の嬉しそうな声が聞こえてきた。 「紬、手術は成功したよ!啓太はもう元気になるんだ! さっきは電話に出れなくてすまないな。葵が俺を呼んでるのか?今すぐ行くよ」 紬は静かに目を閉じ、力なく言い放った。 「もう来なくていいわ」 葵にとっても、自分にとっても、この男と二度と顔を合わせる必要がなくなったのだ。 第2話 看護師は同情するように紬を一瞥し、手術室の片付けを始めた。そして、子供を亡くしたばかりの母親に気を遣い、静かに病室を後にした。 手術室のドアが閉まった瞬間、紬は力が抜けたようにその場へへたり込んだ。瞳には、光がなくなっていった。 生まれたばかりの小さな葵の姿、初めて「ママ」と呼んでくれた瞬間、初めて自分の足で立ち上がった時のあの笑顔…… 脳裏を駆け巡る思い出の最後の光景は、手術台の上で、冷たくなった葵の顔だった。 苦しくて叫び出したいくらいなのに、どうしてか涙は一滴もこぼれなかった。 どれほどの時間が経っただろう。紬はゆっくりと立ち上がると、生まれたばかりの葵を寝かす時と同じようにその体を優しく抱きかかえ、ゆっくりと揺らした。 「葵、ママがここから連れて帰ってあげるからね」 両足は鉛のように重く、一歩踏み出すことさえ簡単ではなかった。 なんとか手術室を出た後、満面の笑みを浮かべた正人がやってきた。 「紬、啓太は無事に手術室から出てきたよ。葵の様子を見に来たんだ」 無事、だと? 紬は唇を噛みしめ、呼吸すらうまくできなくなった。 その隠し子の命は、葵の命を犠牲にして助かったのに…… 「葵は、彼女を大切にしない父親なんていらないわ」 正人は驚き、さきほどの笑顔がこわばった。 「何を言ってるんだ、紬。葵が大切じゃないなんて……葵は俺の宝物で、命をかけてでも守りたいお姫様なんだぞ。 もしできるなら、葵のすべての苦しみは俺が代わって受けてやりたいくらいだ。葵には何事もなく幸せに育ってほしいと願っているからね」 正人の言葉や真剣な表情は、娘を愛してやまない良き父親そのものだった。 しかしその言葉を聞いた紬は、思わず声を出して笑った。そして言いようのない悲しみに襲われた。 正人、葵の人生で一番の苦しみを与えたのは、あなたじゃないの? 「あらそう?葵を愛しているのなら、なぜ手術台に乗せたりできるの?葵は……」 葵は死ぬ直前、自分が何か悪いことをしたから病院に送られたのだと思い込み、「ごめんなさい」って謝っていたよ。 残りの言葉は喉に詰まり、どうしてもうまく言えなかった。 紬の真っ赤に充血した瞳を見て、正人は申し訳なさそうに口ごもった。 「こんなことはもう二度とないと誓う。啓太の命は本当に危ない状態だったんだ。それに、二人だって血のつながりがある兄妹……」 ますます青ざめていく紬の表情を見て、正人はとっさに話題をそらした。 「麻酔がまだ切れないのか?俺が病室まで運ぼう。目を覚ますまでずっと傍にいよう」 紬は葵を抱きしめる手に力を込めた。息もできないくらい、全身が悲しみに押しつぶされそうになった。 目を覚ます? 正人はまだ知らない。葵はもう、二度と目を覚まさない。 正人が葵の体に触れようとしたその時、一人のボディーガードが駆けつけてきた。 「社長!啓太様が目を覚まして、社長に会いたいと泣き喚いています。もし会えないなら病院から出ていくと騒いでおり、山口さんでも止められていません!」 「あの子、手術が終わったばかりだというのに、なんて無茶なことを!」口では叱りつつも、その眉間には明らかな焦りが見える。 結局正人は葵の様子を確認することなく、ただ申し訳なさそうに紬の顔を見た。 「紬、葵を頼んでいいか?啓太を落ち着かせたらすぐに戻ってくるから」 「正人」紬は極めて冷静な声で言った。「これが最後よ」 このまま行ってしまったら、この一生、もう葵と会えるチャンスなんて二度と訪れない。 正人は、自分の行いを許されたのだと思い込み、どこか安堵した表情を浮かべた。 「啓太が回復して退院したら、お前たちをしっかりと時間を割こう。前と同じ、幸せな生活が待ってるんだからな」 紬は葵を抱いたまま、早足で立ち去る背中を見送った。紬は、冷たい自嘲の笑みを浮かべた。 かつての幸せな生活なんて、もう過去にしか存在しないものよ。 …… 紬は葵の小さな体を抱え、葬儀場へと向かった。 小さな体の一部が、白くて軽い灰へと変わっていく光景を、最後まで瞬きもせず見届けた。 その間、紬は相変わらず涙が出ず、まるで魂が抜けた人形のようだった。 葵の遺灰を受け取り、それを首飾りに加工して、肌身離さず身につけることにした。 葵は暗くて冷たい場所に閉じ込められるより、自分のそばにいたいに決まっているから。 気持ちを落ち着かせると、紬はまっすぐ法律事務所へと足を向けた。 「5年前の、あの離婚届をください」 正人と美羽の関係がバレたその翌日、正人自ら署名し、紬の面前に突きつけたあの離婚届だ。 正人は言った。「紬、もし俺が二度とお前を裏切ったら、これにサインして離婚してくれ。もう俺から離れるんだ!」 紬はてっきり、この離婚届を使う日なんて永遠に来ないものだと思っていた。 まさかこんなに早く、この離婚届が役に立つなんて思ってもみなかった。 紬は離婚届を受け取り、一画一画、力を入れて名前を書き連ねた。 第3話 家に戻ると、紬は気づけば葵の部屋へ足を運んでいた。 部屋の中は整然としていて、今朝出かけた時と少しも変わらない。 けれど、ここからもう二度と、葵の楽しそうな笑い声が聞こえてくることはないのだ。 視線をゆっくりと部屋を見回し、最後に枕元に置かれたぬいぐるみに目線が止まった。 それは自分が葵に贈った、録音機能付きの誕生日プレゼントだった。 再生ボタンを押すと、あどけない葵の声が響いた。 「わあ、ママがくれたぬいぐるみ可愛い!毎日一緒に寝るね。ママ、大好き!」 その一つ一つの言葉が重いハンマーのように、紬の心を強く叩きつけた。 ついに、今まで流せなかった涙が一気に溢れ出した。 紬はぬいぐるみを強く抱きしめ、ベッドの上で小さく丸まった。葵の温もりがまだそこに残っている気がするのだ。 紬は悔しかった。 今朝、なぜ葵を正人に渡してしまったのだろうと。 なぜ昔、離婚しなかったのだろうと。 そして何より、なぜ正人なんていう男を愛してしまったのだろう…… 紬は胸の前にある首飾りを強く握りしめた。 葵、もう少し待っていてね。すぐに連れ出すから。 涙が頬を伝って、首飾りの上に落ちた。 翌朝、階段を下りるとリビングには見慣れない女の姿があった。 正人は美羽の手にある小さな傷を見つめ、丁寧に消毒している。 美羽は少し目を赤くしていたが、頑なに正人を見ようとせず横を向いた。 「社長、親切にされても心が揺らぐことはないです。啓太は私が一人で育ててきた、かけがえのない息子なのですよ」 冷たく突き放されても正人は怒る様子もなく、美羽の傷口に優しく息を吹きかけてから、柔らかい表情で彼女と向き合った。 「啓太を取り上げるつもりはない。だが、あの子は俺たちの子だ。これまで俺が傍にいてあげられなかった時間を、せめてこれから埋め合わせたいんだ」 紬の拳を強く握りしめ、爪が手のひらに食い込んだ。 埋め合わせ? 正人がこの母子に対して犯した罪を、なぜ葵の命を犠牲にして償おうとするの? 視界の端に紬を見つけた正人は、手元のガーゼを放り出し、すぐに彼女に近づいて抱き寄せた。 「紬、美羽は啓太のために料理を作ってあげようとして、その時に手を切ってしまったんだ。手当てをしていただけさ。気にしないでくれ。 葵はどうなったの?もう目を覚ました?」 紬は体の震えを我慢して言った。 「してないわ」 葵はもう、二度と目を覚まさないのよ。 正人は予想外の答えに目を丸くした。 手術のために麻酔を打ったとは言え、なぜ今日まで覚めないのかと疑問に感じた。 正人が何かを言いかけた時、スマホの着信音がそれを遮った。 通知の内容を目にした正人は眉間にしわを寄せる。 「紬、会社で少し揉め事があった。急いで行ってくる」 言い終わると、彼は美羽にも丁寧な言葉を残した。 「傷を濡らさないように気をつけて。後で戻るから、一緒に病院へ啓太に会いに行こう」 正人の優しい声を聞いた瞬間、紬は苦しくて息ができなかった。 かつて正人がそんな優しい顔を見せていたのは、自分と葵の前だけだったのに。 今は、自分たちの特権じゃなくなったようだ。 正人がリビングを去ると、紬と美羽は二人きりでこの家に残された。 美羽は先ほどまでの悲しそうな様子を一変させ、冷たい態度になった。 「奥様。ご安心ください。社長に恩があるとはいえ、自分の息子を隠し子のままにする気はありません。養育権は絶対に渡しませんから」 「ここにはもう私たちしかいないわ。気を遣う必要なんてないのよ」 紬は美羽を見下ろし、彼女の仮面を剥ぎ取るように言った。 「本当は隠し子で構わないんじゃないの?欲しいのは、宮崎家の正式な跡継ぎとしての権利でしょ」 昔、正人は美羽に多額の慰謝料を支払うと同時に、ボディーガードに命令して、子供を堕とすよう薬を飲ませていたはずだ。 けれど美羽はそれでも妊娠できて、一人でその子を育てたのだ。 そして今、偶然を装って啓太を連れて宮崎グループの面接を受け、正人に近づこうとした。 資産家一家で育った紬には、美羽の浅ましい思惑などすぐに見抜けた。 美羽は一瞬固まったけれど、すぐに悲しそうな表情を作って立ち上がった。 「お金持ちの方はそんなふうに人の心を疑うのですね。 私はただ小さな命を守りたかっただけですよ!社長が啓太だと気づいたのだって、偶然のことです!」 堂々と振る舞う美羽を冷めた目で見下ろし、紬は黙って階段を上がった。 美羽が何を考え、何を企んでいようとも、今の紬にはどうでもよかった。 「宮崎夫人」という肩書も、欲しければあげる。 葵の部屋へ戻り、紬は荷物を整理し始めた。 ここにあるすべてが葵の記憶そのもので、何一つ残したくなかった。 テーブルの上に並べられたアルバムに目が行き、紬はそのページを広げた。 そこには、家族3人で写っている写真ばかり。 旅先で楽しそうに笑っている自分たちを、優しく見守る正人の眼差し…… 幸せで、胸がいっぱいになりそうな写真しかなかった。 もう、あんなに幸せそうな家庭には二度と戻れないというのに。 紬はすべての写真を取り出し、正人が写っている部分をちぎってゴミ箱へ投げ捨てた。写真に自分と葵だけを残して懐に入れた。 整理の途中、突然鼻をつく嫌な臭いに気づいた。 部屋から出てリビングへと歩を進めると、その臭いはさらに濃くなった。 数歩歩いたところで急に強いめまいに襲われ、壁に体を預けた。 意識が遠のいていく頭の中で、紬はハッと現状を理解した。 ガスが漏れている…… ハンカチで口元を押さえ、必死に足に力を入れながら階段を急いで下りた。 リビングには、すでにソファーの上で気絶している美羽の姿があった。 朦朧とする意識の中で紬は力が入らなくなり、床に倒れた。 助けを呼ぼうと必死でスマホを探したが、瞼は鉛のように重かった。 意識を失う直前、ドアが力強く開け放たれる音が聞こえた。 紬は最後の力を振り絞り、必死に正人に手を伸ばした。 「正人……助け……て……」 「美羽!」 しかし正人は紬には目もくれず、迷うことなく美羽へ駆け寄ると彼女を抱きかかえた。 「しっかりしろ!すぐに病院に連れて行く!」 正人の足取りは速く、目の前で彼に手を差し伸べた紬の存在に気づかなかった。 冷たい床に横たわったまま、一生大切にすると誓った夫が他の女を助けたその光景を見つめ、紬は静かに瞼を閉じた。 第4話 次に紬が目を覚ました時、頭はまだ重たいままだった。 「紬、やっと目が覚めたんだね」 紬がまぶたを持ち上げたのを見て、正人はすぐに彼女の手を取り、優しく口づけを落とした。 「お前が床に倒れた時、心臓が止まるかと思った。本当に、無事で良かった」 ビジネスの世界で恐れられている正人が、この時は震える声で話し、手のひらには冷や汗でびっしょりになった。 誰が見ても、紬に深い愛情があるように見えるだろう。 しかし、紬は顔を背け、彼から目を逸らした。 自分が助けを求めようと手を伸ばした時、正人は美羽を優先したことが信じられなかった。氷のように冷たい床に倒れた自分には、気づきもしなかったのだ。 紬のあまりに冷たい態度を見て、正人の心の中に、焦燥感のようなものが広がった。 「紬、お前も倒れていたなんて気づかなかったんだ。だから美羽を先に助けようと……」 自分が倒れていたのは、美羽からわずか1メートルの距離だった。 正人は本当に気づかなかったのだろうか?それとも美羽のことしか目に入っていなかっただけなのだろうか? 紬は正人に握られている手を引き抜き、疲れ切ったように目を閉じた。 意識が回復したばかりの体はあまりに弱くて、もはや本当のことを探る気力さえ残されていなかった。 紬が口を閉ざすと、正人は渋々切り出した。 「美羽はまだ体調が悪くて、啓太も手術を終えたばっかりなんだ。俺は……」 言葉の続きはなかったけれど、紬にはその真意が分かった。 笑わせないでくれる? 正人は自分の前にいるけれど、心はとっくの昔に美羽母子のところへ飛んでいってしまっていたようだ。 「行っていいわよ」 どのみち、もうどうでもいいことなのだ。 正人は紬の静かな横顔をしばらくじっと見つめていたが、彼女が目を瞑ったままでいるのを見て、ようやく肩の力を抜いた。 「すぐに戻るから。しっかり休んでいろ」 その「すぐ」という言葉は、7日間後を意味していた。 退院の日、紬は一人で退院手続きを済ませた。 ある病室の前を通りかった時、聞き覚えのある声に足が止まった。 「啓太、ちゃんとパパを繋ぎ止めておくのよ。これからの生活がかかっているんだから」 「でもママ、あの人はパパじゃないよ……」 紬の心臓がドキリと跳ねた。 どういうことだ?啓太は、正人は自分の父親じゃないと言っているのか? 紬は息を潜め、スマホの録音アプリを起動した。 人前で見せる善人の仮面を脱ぎ捨てた美羽が、啓太を罵った。 「何を言っているの?息子だと認めてくれれば、啓太は堂々とした宮崎家の息子なのよ。 また昔の貧しく惨めな生活に戻りたいの?啓太が良くても、ママはもう二度とごめんなんだから!」 一人の看護師が通りがかり、紬に不思議そうに声をかけた。 「すみません、何か困りごとですか?」 病室の中の声が途切れたことを察し、紬は小さく首を横に振り、急いでその場を立ち去った。 退院手続きを終え、紬は病院から帰ろうとした。 しかし、病院の入り口で二人のボディーガードに行く手を阻まれた。 「奥様、社長からお話があるようです」 紬は眉をひそめた。 この1週間、正人は顔すら見せなかったのに、急に何の用だというのか? スマホを取り出して彼にメッセージを送ろうとした瞬間、ボディーガードがスマホを奪った。 「社長の命令です。すぐにお越しください。社長にお会いすれば理由も分かります」 二人が左右から紬の腕を固め、ほとんど力ずくで連れ去った。 馴染み深い病室の前へ辿り着いた瞬間、彼らが自分を美羽母子の病室へ連れてきていることに気づいた。 部屋に入ると―― パシッ! 美羽が、紬の頬を思いっきり叩いた。 その横には正人が立っていて、冷めた目で彼女を見下ろした。 美羽は目を真っ赤に潤ませ、悲痛な声で訴え始めた。 「奥様、私と啓太は宮崎家のことなど全く興味がないんです。ただ、啓太を無事に健康に育てたいだけなのに、どうしていつまでも啓太を追い詰めようとするのですか!?」 第5話 美羽の細長い爪が紬の頬をかすめ、深い切り傷を残した。 美羽の言葉に、紬は呆気にとられた。 「何のこと……知らないわ。離して」 「まだとぼける気ですか!」美羽はベッドの上の青ざめた啓太を指さし、涙をこぼした。「啓太はまだ4歳なのですよ。腎臓移植の手術をしたばかりで、よくそんなひどいことができたんですね!奥様だって一人の母親でしょう!」 美羽が正人の前で見せていたのはいつも強い姿だったけれど、今日は初めて心の脆い部分を見せた。 正人は胸を痛めて美羽を抱き寄せ、頬を伝う涙をそっと拭った。 「俺が何とかする。必ず君と啓太を安心させてやる」 そう言うと正人は紬を振り返った。いつもの優しい瞳は冷たくなって、声色はイラついていた。 「紬、美羽たちのことはもう話が済んだのだろう?それなのに、なぜ4歳の子供さえ許せないんだ!? 葵に指示して、啓太を池に突き落とさせるなんて。もし美羽がすぐに気づいていなければ、啓太は死んでいたんだぞ!」 紬はベッドで目を閉じたままの啓太を見て、言葉を失った。 葵に指示して、池に? そんなこと、あり得ない。 「やってない!」紬はもがいて否定した。「葵はもう……」 「私は見たのですよ!」美羽は声を詰まらせて紬の言葉を遮った。「自分の息子の命をかけて嘘をつくなんてこと、するわけないでしょう?」 言葉が止むと、啓太のかすかな声が響いた。 「お姉ちゃん、パパを奪ったりしないよ。だから、押さないで……パパ、助けて……」 啓太の弱弱しい声を聞き、正人の怒りは爆発した。 「葵はまだ子供だ。こんなえげつない手段は思いつかないはずだ、誰かにそそのかされたとしか考えられない」正人は氷のような目で紬を見下ろした。「お前以外に誰がいる?」 あまりに理不尽な言葉が、剣のように紬の心を貫いた。 えげつない、そそのかし…… 20年以上も一緒に過ごしてきたのに、正人は自分の人柄をわかっていないというのか? 一人の母親として、子供をそんな目に遭わせるはずがない。 頬の傷口から鮮血が滴り、紬は真っすぐ正人を見つめ返した。 「何度でも言うわ。私はやってない」 正人はがっかりした。 「紬、どうしてそんなに悪どい人間になってしまったんだ?もう別人に思えるよ」 紬は口角を歪めた。底なしの絶望が、少しずつ全身に広がる。 変わったのは自分か?それとも正人が元々自分だけを愛していた心の中に、別の誰かを入れたのか? 病室に重い空気が流れた。 一人のボディーガードが入室し、正人の耳元で何かをささやいた。 正人は眉をひそめて言った。 「紬、葵はなぜ病室にいないんだ?」 紬が口を開く前に、美羽は拳を握り締め、目を潤ませた。 「啓太を押したのが奥様からの指示だったとしても、娘さん自身が手を出した事実は変わりません。謝るべきではないでしょうか? なのに何も言わずに入院先を変更するなんて……」 正人の紬を見る目がさらに冷たくなった。 「葵がここにいないなら、お前が代わりに謝れ」 胸を刺されるような痛みを感じながらも、紬は譲らなかった。 「やってないことを、どうして謝らなきゃいけないの?」 正人は紬の頬にある傷口をしばらく見つめた。悲しみ、怒り、失望……感情が複雑に入り混じった最後、静かに口を開いた。 「紬。啓太は俺の息子だ。こんな惨めな思いはさせたくない。 こいつを池に放り込め!」 美羽をしっかりと守り、氷のような冷たい目で自分を見る正人を見つめて、紬はふっと笑った。 「正人、必ず後悔することになるわ」 自分と血の繋がりすらない子供のために、葵の腎臓を抜き取り、手術台の上で死なせたなんて。 あの嘘ばっかりの女のために、幼馴染で妻だった自分を池に放り込むなんて。 正人は紬の瞳を直視できず、目を逸らして叫んだ。 「何をしている?さっさと池へ連れて行け!」 ボディーガードに引きずられ、紬は池のそばまで連行された。 ドボン! 氷のように冷たい池の水がたちまち全身を飲み込み、容赦なく口と鼻へとなだれ込む。 溺れる感覚がゆっくりと紬を呑み込んでいった。 意識が遠のく中、昔のことをふと思い出した。学生時代、たった自分にちょっかいをかけただけの人間を、正人は即座にその人の指を折り、殴りながら謝らせたはずだ。 「紬に指一本でも触れたら、タダじゃ済まないから」ってかつて正人はそう言って守ってくれた。 今、正人は美羽母子のために、他の誰かに命じて自分を池に投げ入れた。 約束したのは正人なのに。 その誓いを破るのも、正人だった。 紬はあがくことなく、池の底へと落ちていった。 正人、あなたと出会ったことを、本当に後悔している。 第6話 紬が再び目を覚ますと、正人は彼女の手を固く握りしめていた。その目元には、深い隈ができている。 「紬、どうしてあんなところで動かなくなってたんだ?溺れたんじゃないかと、どれほど心配したのか」 紬は手を引き抜き、淡々とした口調で言い放った。 「それを望んでいたのは、あなたでしょ?」 正人はその場で固まり、表情を曇らせた。 「俺はただ、美羽と啓太に納得させる必要があっただけだ。お前を傷つけるつもりなんてなかった。ただ、まさかこうなるとは……」 すべての言い訳が、虚しく聞こえた。正人は力なく紬を抱きしめ、何度も謝り続けた。 「すまない、紬。もう二度と、そんな危ない思いはさせない」 紬は目を閉じ、それ以上は何も答えなかった。 それから数日間、罪悪感からか、正人は毎日紬の病室で彼女を見守った。 飲み物を温め、食事を食べさせ、体を綺麗に拭って……何から何まで、献身的に世話を焼いた。 ただ、毎日決まった時間に1時間だけ、正人は部屋を抜け出した。 紬は分かっていた。美羽たちのいる病室へ行っているのだ。 戻ってきた正人の額に滲む汗を見て、紬は静かに口を開いた。 「正人、疲れない?」 自分と美羽母子の間を行き来して、本当に疲れることはないのだろうか? 入院して以来、ずっと沈黙を守っていた紬からの、初めての問いかけだった。 正人は、紬がようやく自分を受け入れてくれたと思い込み、大きな手で彼女の頬を優しく撫でた。 「紬のためなら、何をしても少しも苦じゃない。 安心しろ、美羽と啓太のことも考えたんだ。二人を別の場所に送り出してから、葵と一緒に、昔みたいに家族3人で暮らそう」 紬は目を伏せ、目の奥に潜んでいる失望を隠した。 葵は、もうこの世にいない。 昔のような日々なんて、二度と戻らない。 正人は少し間を置き、言葉を続けた。 「啓太を海外へ留学させ、美羽ももちろんついていく。もう二度と、お前の前に姿を現すことはない。 ただ……」正人は紬の表情を伺い、慎重に口を開いた。「啓太を俺の戸籍に入れて、正式に息子として認めてあげたい。美羽にも話を通してある」 紬が怒り出すことを恐れたのか、正人は慌てて補足した。 「安心しろ、宮崎家の財産を継ぐのは葵だけだ。啓太には、毎月の生活費と学費をあげて、時折海外へ会いに行くだけだ。 啓太は俺の血を引いた子供だから、完全に切り離すことはどうしてもできないんだ」 紬は顔を下げ、憤怒を噛み殺した。 それは海外で二人と別の家庭を築くことと、何が違うというのだろう? ただ、もうそれすらもどうでもよかった。 紬は静かに頷いた。 正人は準備した言い訳をその場で飲みこみ、少し驚いた表情を見せた。 紬がこれほど穏やかに承諾するとは、予想外だったからだ。 正人は信じられないといった顔で彼女を見つめた。 「紬……怒らないのか?」 紬は淡々と告げた。 「別に」 どうせ自分はもうこの家から離れる。正人が美羽母子をどう扱うなんて、もう自分には関係ないことだ。 正人は何度も確認するように紬の顔色を伺い、怒っていないのを見てようやく胸をなでおろした。 「紬、啓太を宮崎家の戸籍に入れることを記念して、宴会を開くことに決めたんだ。世間にその子の立場を公表したくてね。 お前には出席してほしいんだ……お前がいてこそ、世間も納得しやすいわけだから」 必死に説明するその様子を見て、紬は思わず笑ってしまった。 「いいよ」 正人は完全に気を緩めて、愛おしそうに、紬の額にキスをした。 「紬、わかってくれて本当にありがとう」 その後、宴会の準備で忙しくなった正人が病室に来ることはなくなった。 退院当日も、迎えに現れたのは運転手一人だけだった。 車に乗り込むと、正人から電話が入った。相変わらず優しそうな声だった。 「紬、啓太へのお祝いのプレゼントを用意しておいてくれないか?そうすれば、寛大な妻だってみんなに伝わるはずだから」 その緻密な提案に、紬は鼻で笑った。 「わかった。準備しておくわ」 誰もが一生忘れられないような、最高のプレゼントを。 紬は宴会の会場に向かわず、運転手に車を役所へ向かわせた。 離婚届の、受理証明書を手に入れるために。 役所でしばらく順番待ちをすると、順調にその証明書を受け取った。 20年にわたる情も、今日で終わりだ。 紬は茶封筒の中に、3つの品を入れた。 1つ目は、葵の死亡届。 2つ目は、美羽母子の本音を録音したUSBメモリ。 そして3つ目は、二人の離婚届の受理証明書だ。 正人の犯した罪がどれほど深いか、嫌というほど思い知らせてあげる。 封筒を必ず正人の手に渡すよう運転手に念押しすると、紬はそのまま家に戻り、詰めてあった荷物を持って空港へ直行した。 機体が上昇したとき、ふと、愛していた頃の正人が目の前で優しく手を振っているような気がした。 「紬、それでいい。もう昔のようにお前を愛せない俺から離れて、葵と一緒に幸せになれ」 紬は胸元の首飾りを握り締め、久しぶりに心からの笑顔を見せた。 正人、これからはもう、二度とあなたと関わらないから。