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再会した元カレ上司は、私の愛娘の父親でした
数年ぶりの再会は、会社の会議室でのことだった。 立花遥(たちばな はるか)の目の前に現れたのは、かつての恋人で、子供の父親でもある九条...
Chương (1)
第1章
数年ぶりの再会は、会社の会議室でのことだった。
立花遥(たちばな はるか)の目の前に現れたのは、かつての恋人で、子供の父親でもある九条湊(くじょう みなと)だ。
子供を奪われるかもしれない。そして、今の生活を壊されたくもない――遥はただ、逃げ出したい一心だった。
「俺たちの関係はただの遊びだ」と、湊は言った事がある。だから遥は彼とあくまで上司と部下という関係を保つことにした。
周囲の女たちが湊に媚びを売ろうとも、彼が冷ややかな目で誰にもなびかない様子を、遥はただ他人事のように見つめていた。
一方、湊は誤解していた。遥が自分を捨て、すぐに他の男と結婚し、子供まで作ったのだと。
裏切られた憎しみで、湊は彼女を追い詰め、後悔させてやろうと画策した。
しかし、彼女が窮地にある姿を見ると、湊は隙をついて彼女に近づき、いっそ子供ごと自分のそばに置いて暮らしたいという衝動に駆られた。
湊は、真実を知った日、自分がしていた復讐は結局自分自身を傷つけていただけだと悟った。
「距離を置くって、あなたが言ったのよ」
そう言い返す遥の顎を強引にすくい上げ、湊は妖しく目を細めた。
「距離か、ゼロ距離にしてやってもいいんだぞ」
第1話
まさか、送り込まれてきた新任の社長が、自分の娘の実の父親だなんて――立花遥(たちばな はるか)は夢にも思わなかった。
ここで九条湊(くじょう みなと)に再会すると知っていれば、死んでもこの会社には入らなかったはずだ。
数日前から、若くて超エリートな社長が着任するらしいと、部署内は騒然としていた。
噂によれば、グループ総帥の息子であり、生まれながらにして富と権力が約束されたような御曹司だそうだ。
その経歴の一つ一つが、地べたを這う社畜の自分たちには到底手の届かない、雲の上の存在であること。
会議室に立つその男は、片手をポケットに入れ、オーダーメイドのスーツを完璧に着こなしている。
すらりと伸びた長身、かつての青臭さは消え失せ、研ぎ澄まされた刃物のような冷徹な威厳を放っている。
すらりと長い指先でリモコンを握り、スライドの内容について淀みなく語っている。
その腹の底に響くような声で会議室を支配している。
誰もが息を潜め、この絶対的な権力者に悪い印象を与えないよう、戦々恐々としている。
遥は叶うことなら今すぐこの場から消え失せたいと願った。
しかし残念なことに、会議室の床は鏡のように磨き上げられている。
入り込めるような「穴」などどこにもないどころか、そこには気まずさと困惑に満ちた自分の顔が、残酷なほど鮮明に映し出されているだけだ。
グループ名が「九条」だと知っていたとしても、まさかあの九条湊の「九条」だとは思いもしなかったのだ。
遥は靴の中で足の指をギュッと縮こまらせ、背中にはじっとりと冷や汗が伝う。
息が詰まるような圧迫感が、正面から押し寄せてくる。
三年だ。
別れてからも三年が経っていた。
「このプロジェクトの責任者は誰だ?」
壇上から、低く冷ややかで、突き放すような声が降ってくる。
湊が冷たい視線で社員たちを見下ろすと、一瞬にして現場は凍りつき、誰も口を開こうとしなかった。
湊は不快げに眉をひそめ、声を荒らげた。
「自分が担当したプロジェクトさえ忘れたのか?」
遥の隣にいた同僚が震えながら立ち上がり、怯えた様子で答えた。
「申し訳ありません……わ、私です」
錯覚だったのかもしれないが、遥が顔を上げた瞬間、湊と視線が交差したような気がした。
全身の血液が凍りつくような感覚に、遥は一瞬、呼吸すら忘れた。
湊はすぐに視線を外し、吐き捨てるように言った。
「内容の詰めが甘い。よくも恥ずかしげもなく、こんなものを提出できたものだな」
遥はほっと胸を撫で下ろした。
彼はたぶん、私を見ていない。
今の遥はもう三年前の自分とは違う。
彼女はうつむき、自分の気配を完全に消そうとした。
視線を床に固定していると、不意に、丁寧に磨かれた高級革靴が視界に入り、目の前で止まった。
まるで深海に突き落とされたかのように、冷たく重い水圧が遥の呼吸を奪い、一瞬にして手足が痺れた。
湊が、遥のすぐ横に立っている。
同僚が必死に弁解する。
「あの、クライアントの承認はすでに得ておりますが……」
湊が手に持っていたリモコンが机の上に放り投げられた。
大きな音に全員が肩を震わせた。
湊は目を上げ、漆黒の瞳に冷徹な光を宿して、遥の隣にいる同僚を睨みつけた。
一語一語、区切るように冷たく言い放った。
「未熟な案は未熟だ。クライアントを盾にするのが、お前の仕事の流儀か?
それとも、仕事をおままごとか何かだと勘違いしているのか?」
その瞳は、まるで罪人を裁くかのように冷徹に見下ろしていた。
だが、彼が見ているのは報告中の同僚ではなく……遥だ。
誰もが嵐が過ぎ去るのを待つように息を殺して俯き、社長の怒りの火が自分たちのような下っ端に降りかからないことを祈っている。
遥は深く息を吸い込んだ。
できるだけ自分を落ち着かせようと努める。
湊は冷ややかに付け加えた。
「修正してから再提出しろ」
「はい、承知いたしました!」
全員が安堵の息を漏らしたその時、湊の視線もまた、遥を捉えた。
彼女の顔は相変わらず美しかったが、随分と痩せてしまっている。
今はビジネスライクなスカートに身を包み、髪はきっちりと耳にかけられている。
肌はかつてのように透き通るほど白いままだが、目の下のクマと滲み出る疲れだけは、どうしても隠しきれていない。
彼女の視線は彼に向いてはいなかった。
湊の口元があざけるように歪んだ。
「二度とこんな案を持ってくるな。次はただじゃ済まないと思え」
すらりと、湊の長い指が遥のデスクに置かれ、不規則なリズムでコツコツと音を立てる。
遥にはわかる。その仕草は彼が今、非常に機嫌が悪いというサインだ。
漆黒の瞳には読み取れない感情が渦巻いており、ただ一目見ただけで、遥の手のひらには汗が滲んだ。
幸い、彼はそれ以上何も言わず、他のプロジェクトの進捗確認へと移っていった。
しかし、遥の足の震えは、まだ止まらなかった。
会議後。
遥は他の同僚と共に自席に戻り、コップ半分の水を一気に飲み干してようやく落ち着いた。
湊が難癖をつけた中には、遥たちのチームのプロジェクトも含まれていた。
これで、部署全体がほぼ残業確定だ。
隣の同僚が悲鳴のような声を漏らす。
「新任早々厳しすぎるよ、完全に見せしめにされたわ。
ねえ、立花さん、社長なんでずっと私たちのそばに立ってたの?怖くて死ぬかと思ったのよ!」
遥は少し呆然とした。
湊がそばに立っていたのは、おそらく返答をよりはっきりと聞くためだったのだろう。
しかしその後、他のチームが返答している間も、彼はずっと、遥のそばに立ち続けていたのだ。
遥は顔を上げる勇気がなく、会議が終わるとすぐ逃げたように退室したため、彼の方を見る余裕などなかった。
だが、湊の様子を見る限り、あの滑稽で短かった過去など、とうに忘れているはずだ。
でなければ、なぜずっと遥のそばから離れようとしなかったのか。
気にしていないからこそ、平気でいられるというものだ。
かつての湊は帝都大学経済学部の雲の上の存在であり、四年連続で「ミスター帝大」に輝いた伝説的な男だった。
そして、名家の令嬢である遥とのロマンスも当時は周囲を騒然とさせたものだ。
あの頃、彼女は湊をヒモにしていると陰口を叩かれていた。金に物を言わせて、好き勝手に遊んでいるのだと。
遥自身も、そう思っていた。
何しろ当時の湊は、苦学生にしか見えなかったからだ。
だが、彼が遥の渡した金に手を付けることは一度もなかった。
湊の誕生日に、遥は彼が欲しくても手が出せない高価な品をプレゼントしようと、彼のスマホを借りて通販アプリの「お気に入りリスト」を眺めていた。
その時、画面上部にLINEの通知がポップアップした。
その相手は、湊のことを親しげにと呼んでいた。
メッセージには、湊が遥のような女を本気で相手にするはずがない、という嘲りめいた言葉も添えられていた。
そのメッセージを見た瞬間、遥は全身の血の気が引いていくのを感じた。
まるで頭から冷水を浴びせられたかのように、指先まで冷え切ったのを覚えている。
それでも、遥は自分に言い聞かせた。
湊が返信したわけではないのだから、と。
遥は動揺を押し殺し、予定通りにプレゼントを買ってしまったのだ。
誕生日のパーティーでプレゼントを受け取った時も、湊は驚きもせず、喜びもせず、淡々と「ありがとう」と言っただけだった。
トイレに行くふりをして、遥は会計を済ませた。
戻ってきた時、個室の中から耳障りな嘲笑が聞こえてきた。
「あの立花のお嬢様が恥も外聞もなくすり寄ってこなけりゃ、湊さんがあんな俗っぽい女を相手にするわけないだろ」
「そうだよ。ちょっと小銭持ってるからって、いい気になりやがって」
湊の一言がはっきりと遥の耳に届いた。
「俺にとって、立花なんてどうでもいい存在だ」
周囲の爆笑が彼の語尾をかき消した。
「ほら、やっぱりな!湊さんがあんな親の七光だけの女を本気にするわけないって言ったろ!」
心臓が張り裂けそうなほど痛み、指先まで凍りついたように痺れた感覚を、遥は今でも忘れられない。
ちょうど実家でトラブルがあり、父は彼女を海外へ送り出した。
それから三年。
三年後に帰国して、まさか新しく赴任してきた上司が湊だなんて、誰が想像できただろう?
かつては食事代すらバイトと奨学金で工面していた湊が、まさかグループ総帥の一人息子だったなんて、夢にも思わなかった。
だが、さっきの態度を見る限り、彼はおそらく赤の他人を装うつもりなのだろう。
なら、それでいい。
社長室にて。
湊は柔らかな本革のソファに座り、繊細で長い指でマウスを操作し、社員たちの情報を軽々と呼び出している。
そこには、立花遥の情報もあった。
一年前、彼女はこの会社に入社していた。華やかな経歴と優れた実務能力を武器に、短い時間で正社員になったどころか、プロジェクトリーダーにまで昇進していた。
湊は不快げに目を細め、指でコツコツと机を叩いた。
秘書の木下健太(きのした けんた)が傍らに立ち、上司の顔色を窺う。
「社長、何かご指示でしょうか?」
湊は手元のコーヒーカップを手に取り、優雅に飲むと、落ち着いた声で言った。
「着任したばかりでプロジェクトの詳細は把握していない。この数名のリーダーについて説明してくれ」
健太は意図を理解し、順に説明していった。
最後に、遥の番になった。
「立花さんはまだ若いですが、本部に異動してまだ一年目です。以前、海外事業部で実績を上げていました」
実績だと?
湊の口元が、あざけるように歪んだ。
あの立花家のお嬢様が、わざわざ平社員に身をやつして働いていただと?
その「実績」とやらも、どうせ立花家の金で買ったものに違いない。
何しろ、彼女は札束で人の横っ面を叩くような女だったから。
そして何より、二人の仲が深まった矢先に、何も告げずに去るのが得意だ。
湊が黙っているのを見て、健太はその顔色を窺いながら言葉を続けた。
「このプロジェクトは彼女が一人で取り仕切っており、役員会でも評価は高いです」
健太は小さく溜息をついた。
遥は入社ばかりの時から健太の下についており、彼が手塩にかけて育てたようなものだった。
余計なことをせず、仕事には手際と実力がある遥のような若者を、彼は高く評価している。
それゆえ、つい余計なことまで口にしてしまった。
「もし彼女のやり方に不備があれば、厳しく叱ってください。ただ、チャンスは与えてやってほしいのです」
湊は冷ややかに顔を上げ、その瞳には、見る者を震え上がらせるような冷気が満ちている。
たった一年で、自分のために口添えする味方を作ったのか?
どうやら、人の心を手玉に取る手腕は相変わらずらしい。
健太は湊の表情に気づかなかった。
溜息交じりに続ける。
「立花さんはいろいろ大変なんです。
お父様は他界され、お母様は重病、さらに病弱な娘さんまで抱えて、それなのに旦那さんは……」
湊は冷たく言葉を遮り、鋭い視線を突き刺した。
「木下、給料を払っているのは、下らない噂話をするためか?」
健太は激しく身震いし、何度も謝罪した後、湊にそれ以上追及する気配がないのを見て、一礼して退室した。
この新社長の気性は、まだ掴みきれない。今後はもっと慎重に振る舞わなければならないようだ。
オフィスに再び静寂が戻った。
湊は先ほど誤ってこぼしたコーヒーのしずくを拭き取り、マウスを滑らせて画面をスクロールした。
クリックして開いたのは立花遥の社員データだ。
写真は大学時代のままだ。湊に付き合えとせがみ、無理やり撮らせた写真だ。
スクロールして、婚姻状況の欄に目を落とす。
既婚だ。
第2話
本社から送り込まれてきた落下傘上司のプレッシャーに晒され、部署全体が重苦しい空気に包まれていた。
全員が残業を余儀なくされ、手元の業務が片付いたのは夜の九時を回ってからだった。
特に湊に名指しで指摘を受けた数名のプロジェクトリーダーたちは、苦虫を噛み潰したような顔でモニターを睨みつけ、誰一人として帰ろうとは言い出せない状況だ。
その時、遥のスマホが鳴った。
娘の結衣(ゆい)からだ。
「ママ、いつ帰ってくるの?」という幼い問いかけが聞こえる。
遥は声を潜め、受話口に囁いた。
「結衣ちゃん、おばあちゃんと先に寝ててね。ママ、帰るの遅くなっちゃうから」
結衣は愛らしい声で健気に答える。
「わかった。ママ、あんまり無理しないでね。結衣もおばあちゃんも、ご飯を食べるの我慢できるから」
その言葉に、遥は鼻の奥がツンと痛くなった。
失態を見せないよう、慌てて通話を切る。
だが、心臓の鼓動は落ち着くどころか、先ほどの娘の言葉が頭の中で反響し続けていた。
遥の父はもうなくなった。亡き父を偲び、遥は娘にも自分と同じ立花の姓を与えていた。
だから、結衣が実は湊の実の娘だということは、誰一人として知らない。
湊本人でさえ、この世に自分と血の繋がった娘が存在することを知る由もないだろう。
結衣は今年で二歳になる。免疫系に問題があり、幼い頃から病気がちだった。
医者には「金持ちにしか育てられない、お姫様のような体質だ」と言われた。生かしておくには、莫大な金がかかるのだ。
遥は結衣を専門医に通わせているが、保険適用外の薬代だけで月に数十万円が飛んでいく。
それでも、娘の体が良くなるなら、いくらかかっても構わない。
立花家が破産した後、遥は手持ちのブランドバッグや宝石、車や不動産をすべて売り払い、どうにか借金の一部を返済した。
今では母も結衣も薬が欠かせず、一家の生活は遥の細腕一つにかかっているのだ。
だからこそ、湊を見て動揺しようが、逃げ出したくなろうが、足が震えて止まらなかろうが……彼女はこの仕事を失うわけにはいかないのだ。
彼女には、金が必要だ。
隣の席の同僚が、遥の電話の様子を見て笑いかけた。
「びっくりした。そんな若さでもう大きいお子さんがいたの?旦那さんは?」
周囲の社員たちは顔こそ上げないものの、一斉に耳をそばだてた。
遥は小さく笑い、髪を耳にかけた。
その何気ない仕草さえ、艶やかで美しい。
彼女は口から出まかせを言った。
「夫は体が弱くて、家で寝たきりなんです。毎月、薬代がとんでもない額になるんです」
その一言で、同僚たちは口をつぐんだ。
遥の娘と母親が病弱だということは知れ渡っている。
そこに旦那まで寝たきりとなれば、家族全員が病人で、遥一人が大黒柱ということになるではないか。
そこまでくると、もはや同情を通り越して言葉もなかった。
皆、一刻も早く帰宅するために再び手元の仕事に没頭し始めた。
部署の外。
ピカピカに磨き上げられた革靴が廊下で止まっていた。
オーダーメイドのスーツを纏った男がスマホを握りしめ、受話口からの催促に耳を傾けている。
「もしもし?湊?聞いてるかよ。俺の母さんが、週末空いてるか、だとさ。家で飯でもどうだってさ」
湊は踵を返し、大股で近くのエレベーターへと向かった。
「無理だ」
「じゃあ、再来週は?」
「それも無理だ」
電話の相手である江藤瞬(えとう しゅん)は手詰まりだった。
湊を食事に誘うというのは建前で、瞬の母親が湊に見合いをさせようとしているのはバレバレだったからだ。
「会社継いだばっかでそんなに根詰めてどうすんだよ?飯の時間もないのか?この前、遥を飯に誘った時も忙しいって断られたし。
どいつもこいつも、国連事務総長にでもなるつもりかよ」
遥の名前を出した瞬間、瞬は凍りついた。
つい口が滑ってしまったが、電話の相手は遥の元カレである湊だった。
「やばい……」と、瞬は自らの軽率さを悔いるように口元を押さえた。
瞬と遥は親友だ。
大学時代はいつも一緒にゲームをしてつるんでいた。
以前、湊は二人の間に何かあるのではないかと疑い、密かに嫉妬し、張り合っていたこともある。
しかしその後、遥が瞬を男として見ていないことが判明した。
ある時、バスケの試合で遥が瞬をボコボコに負かしたことがあった。
その後、酒を飲みながら瞬はこう言ったものだ。
「遥は顔こそいいけど、あんなじゃじゃ馬、誰が手懐けられるんだよ?
気に入らなきゃすぐにビンタが飛んでくるぞ。なぁ湊、お前まさかあいつに叩かれたことないよな?」
周囲の人間が即座に突っ込んだ。
「遥ちゃんは湊のこと崇拝してるんだぞ、叩くわけないだろ!逆立ちしたってそんな度胸ないって!」
「それもそうか」
……
話題を変えて誤魔化そうとした矢先、湊が淡々とした口調で尋ねてきた。
「立花家は、破産したんだったな?」
瞬は一瞬呆気にとられ、頭をかきながら答えた。
「ああ、数年前の話だ。なぁ湊、遥ももう結婚してるんだし、お前まさかまだ気になるか……」
「気になるだと?何にだ?東区の再開発用地か、それとも北区の工場か?」
それらはすべて、江藤家も狙っているプロジェクトだった。それを聞いて瞬も軽口を叩くのをやめ、身を乗り出した。
「湊!お前が美味しいところを全部持っていくのはいいが、せめておこぼれぐらいくれよ!」
湊が短く鼻を鳴らすと、瞬はほっと胸を撫で下ろした。
やはり今後、湊の前で遥の話をするのは避けたほうがよさそうだ。
深夜。
修正案を書き終え、遥が顔を上げると、同僚たちはすでに帰宅していた。
広々としたオフィスには彼女一人だけが残されている。
こんな光景には慣れっこだ。
遥はパソコンをシャットダウンし、立ち上がって凝り固まった首を回した。
オフィスの戸締まりを確認し、椅子をすべて机の下にしまってから、エレベーターホールへと向かう。
深夜のオフィスビルは不気味なほど静まり返っており、遥のパンプスの乾いた足音がコツコツと響き渡る。
その背後から、明らかに自分のものではない足音が聞こえてきた。
重く、硬い革靴の音だ。
遥は角を曲がるふりをして、そっと後ろを確認した。
背後の人物は背が高く、遥の目線よりも頭一つ分高いみたい。
男だ。
監視カメラがあるとはいえ、深夜に作動しているかはわからない。
他部署の人間がわざわざこの階に来るとは思えない。
それに、うちの部署の人間は全員帰ったはずだ……
遥の心臓が早鐘を打った。
真夏だというのに、腕の毛穴が粟立つほどの悪寒が走る。
以前、このビルで深夜残業していた社員が変質者に遭遇したというニュースがあった。
それ以来、グループ全体で深夜0時以降の残業は控えるよう通達が出ていたはずだ。
なのに、遥は今日、深夜一時半まで残業していた。
まさか自分が、そんな不運に見舞われるなんて思いもしなかった。
遥は震える手でスマホを取り出し、電話をかけるふりをした。
わざと声を張り上げる。
「もしもし?あなた?今どこにいるの?仕事終わったから、早く迎えに来てよ。もう眠いから。
もうすぐ着く?わかった、待ってるね」
錯覚だったのか、その通話のふりをした直後、背後から忍び寄ってきていた足音はピタリと止んだ。
遥は安堵の息を吐き、逃げるようにエレベーターに飛び込み、震える指で一階のボタンを押した。
暗転したスマホの画面が、彼女の引きつった顔を映し出す。
エレベーターが下降していく。
廊下の角、非常口の暗がりにその男は立っていた。
暗闇の中でライターの火が一瞬だけ灯り、紫煙が立ち上る。
煙が湊の表情を覆い隠し、その瞳をより一層深く沈ませていた。
やがてタバコが燃え尽き、火が指先の皮膚を焼きそうになる。湊は無造作に灰を払い落とし、ようやく我に返った。
この階の明かりがついていたので、ついでに様子を見に来ただけだった。
まさか、残業していたのが遥だとは思わなかった。
どうやら彼女は、あの病弱な夫を養うために、随分と努力しているらしい。
湊はスマホを取り出し、健太にメッセージを送った。
【もう一度全部署に通達を出せ。今後、深夜0時以降の残業は原則禁止だ!】
第3話
タクシーで帰宅した遥は、音を立てないよう忍び足で身支度を済ませ、母と結衣が眠る寝室を覗いた。
母が眉を寄せ、寝息のような小声で囁く。
「こんなに遅かったの?お腹空いてない?ご飯でも作ろうか?」
そう言って起き上がろうとする母を遥は慌てて制した。
「もう食べたから大丈夫。寝てて」
母が再び布団に入ったのを確認して、遥は息をついた。
遥の仕事の邪魔にならないよう、母は普段から結衣と同じ部屋で寝ている。
立花家が破産した後、遥は母と娘を連れて、会社から少し離れた場所にある築古の団地に移り住んでいた。
遥はキッチンの電気もつけず、薄暗がりの中でカップ麺にお湯を注ぎ、スマホの画面を眺めた。
社内掲示板は、例外なく「九条湊」の話題で持ちきりだった。
遥のスマホの画面も、湊の情報で埋め尽くされている。
突然の新任社長、しかもあれだけのイケメンだ。
掲示板には社員たちが隠し撮りした湊の写真が溢れていた。
湊の経歴も詳しく掘り起こされていたが、どれもこれも輝かしいものばかりだ。
遥の目は、ある一文に釘付けになった。
【大学時代は苦学生として働き、卒業後は家族の支援を一切受けずに会社を設立。アジア最年少で富豪ランキング入りを果たし、九条グループ唯一の正統後継者となる……】
苦学生?
あの数年間、遥は彼を貧乏人だと思い込み、彼のプライドを傷つけないよう必死に気を使い、お金を渡す時でさえ彼が傷つかないよう注意を払っていたというのに。
あれは全部、大財閥の御曹司による「お遊び」だったのだ。
遥はかつて湊が言い放った言葉を思い出した。
「俺にとって、立花なんてどうでもいい存在だ」
確かにそうだった。
昔から、二人は住む世界が違っていたのだ。
彼は孤高で成績がいい、帝都大学に首席で合格したエリートだ。
彼女はわがままで、勉強も嫌い。定員拡大で辛うじて滑り込んだ芸術学部の落ちこぼれだ。
今も昔も、何も変わらなかった。
同じ会社の上司と部下という関係であっても、湊は雲の上の存在であり、彼女のような平社員には決して手の届かない存在だ。
心臓に鈍い痛みが走る。
カップ麺の湯気が立ち上り、彼女の視界を白く曇らせた。
遥は掲示板を閉じ、麺を大口で啜り込んだ。
翌日。
健太が社内チャットで、残業に関する新たな通達を発表した。
深夜0時以降の残業は原則禁止となり、そして深夜残業代はカットされることになった。
深夜まで残る社員は少ないため、影響を受ける者はほとんどいない。
だが、遥の顔色は優れなかった。
隣の席の同僚、秋山楓(あきやま かえで)が小声で話しかけてくる。
「遥ちゃん、これじゃあお給料、だいぶ減っちゃうんじゃない?」
楓は、遥の状況を知る数少ない存在だ。
最初は遥のことを、若いくせにガツガツ働いて点数稼ぎをしているのだと誤解していたが、事情を知ってからは同情的だった。
遥の給料は、二人分の薬代、家賃、生活費、そして借金の返済に消え、手元にはほとんど残らない。
深夜残業代は、彼女にとって貴重な収入源だったのだ。
それがなくなれば、遥は収入の一部を失うことになる。
楓は遥の肩を突っついた。
「思い切って社長に相談してみたら?事情を話して頼めば、今月だけでも見逃してくれるかもしれないよ?」
湊に頼む?
何と言えばいい?
たかだか数万円の残業代のために生活が苦しいんです、お願いしますと、彼に頭を下げろというのか?
たとえ湊が聞いてくれたとしても、遥自身のプライドがそれを許せない。
遥はため息をついた。
「ううん、大丈夫です。何かバイトでも探します。
それに、早く帰って娘といられる時間が増えると思えば、それも悪くないですし」
娘の話になり、楓の声が弾んだ。
「そういえば、うちの子がサイズアウトした服があるんだけど、結衣ちゃんにいらないかな?
一度しか袖を通していないものもあるし、もしよければ……」
以前の「立花お嬢様」なら、古着など見向きもしなかっただろう。
だが今は違う。彼女自身が着ている服さえ、破産前に買ったものだ。新しい服を買う余裕などどこにもない。
遥は笑顔で答えた。
「ありがとうございます、楓さん、子供服はお古のほうが生地も柔らかくていいって言いますし、嬉しいです」
楓の実家は裕福で、ポルシェで通勤しているようなお嬢様だ。
彼女が「一度しか袖を通していないもの」と言うなら、間違いなくハイブランドの新品同様だろう。
持ち帰って洗濯すれば、結衣にいい服を着せてあげられる。
楓は遥が素直に受け取ったことに安堵したようだった。
恩着せがましくなるのを恐れていたが、新品を買って気を遣わせるより、これなら角も立たない。
同じ会社にいる以上、湊との接触を避けたくても、避けられない時がある。
昨夜の睡眠不足を引きずりながら、遥がコーヒーを淹れようと給湯室に入ると、そこには圧倒的な威圧感を放つ男が立っていた。
給湯室は決して狭くはない。だが、湊の長身と鍛え上げられた肉体が発するプレッシャーが、空間の酸素を奪っているかのような錯覚を覚えさせた。
今さら引き返すわけにもいかず、遥は覚悟を決めて視線を伏せた。
「社長、おはようございます」
「ああ」
湊の視線が淡々と遥を掠めたが、それ以上話そうとする気配はない。
かといって、立ち去る気配もない。
遥は手早くアイスコーヒーを作り、逃げるように給湯室を出ようとした。
その背に、湊の冷たい声が投げかけられた。
「企画書の修正は終わったのか?」
遥はカップを持つ指に力を込め、一歩後ずさりした。
「はい、終わりました。後ほどお持ちします」
その怯えようは、まるで湊が猛獣か何かであるかのようだ。
湊は冷たく言い放った。
「必要ない。メールで送れ。
仕事以外で、君と関わるつもりはない」
その声は、氷のように冷徹だった。
彼は重心を後ろにかけて立ち、長い脚をラフに伸ばし、ポケットに手を突っ込んでいる。
その気だるげな姿でさえ、まるで絵画のようだ。
遥の視線は無意識に、彼の足元から上へと移っていった。
仕立ての良いスラックスに、一目で高級ブランドとわかるベルトだ。
その姿は、ため息が出るほど洗練されていた。
実家が破産したとはいえ、遥の目は肥えている。
彼が身に纏うものの総額が、数百万円は下らないことぐらい一目瞭然だった。
ふと、彼女の視線が無意識のうちに、そのベルトの下あたりに留まってしまった……
無視できないほどの存在感だ。
一瞬見ただけで頬がカッと熱くなり、彼女は慌てて視線を逸らした。
付き合っていた頃、二人は若さに任せて貪り合い、あらゆるプレイを試した。
結衣ができたのも、そんな無茶がたたった結果の、予期せぬ妊娠だった。
だが授かった以上、それは天からの贈り物だ。
あの子は大切に育てていくと決めている。
さらに視線を上げると、湊の首筋に赤い痕が残っているのが目に入った。
それがどういう状況でつけられたものなのか、大人なら誰でもわかる。
以前の湊は、人に見られるのを嫌がり、首にキスマークをつけるのを嫌がっていたはずだ。
それなのに今は、堂々とそんなものを会社で見せびらかしているのか。
それもそうだ。
湊のような男なら、女に不自由することなどないだろう。
学生時代ですらそうだったのだ。ましてや今、大財閥の御曹司という肩書きまで手に入れた彼に、言い寄る女は後を絶たないだろう。
遥は心の中でため息をついた。
湊が関わりたくないと言うなら、それは彼女にとっても好都合だ。
胸の奥に走る棘のような痛みを押し殺し、遥は努めて明るく笑ってみせた。
「良かったです。私も同じ考えですので。
仕事以外で、社長と関わるつもりはありません」
第4話
遥は顔を上げなかった。
湊の顔色が最悪なことにも気づかない。ただ彼に凝視されているだけで、全身の筋肉が強張り、この場から逃げ出したい一心だった。
言い終わるや否や、遥は踵を返して給湯室を出て行った。
重荷を下ろしたかのような遥の後ろ姿を見送りながら、湊は手に持ったコーヒーカップを強く握りしめた。
彼女は昔、ブラックコーヒーなんて飲まなかったはずだ。昔は苦いと文句を言って、ブラックなんて飲まなかったくせに。
いつから飲めるようになったんだ。
遥の姿が見えなくなっても、湊はその去り際をじっと見つめていた。
充血した瞳の奥には複雑な感情が渦巻いている。
湊は深呼吸をして高ぶる感情を抑え込み、最後に苛立ち紛れに舌打ちをした。
社長室に戻った湊は、スマホを取り出して瞬に電話をかけた。
「もしもし、湊?どうした?」
「立花遥の夫は誰だ?」
電話の向こうで、瞬が「え?ああ……」と素っ頓狂な声を上げた。
湊の真意が読めず、瞬は言葉を濁した。
「知らねえよ。あいつ、海外で籍を入れたんだよ。
なんでも……妊娠がわかったから、そのまま結婚したとかでさ。俺も旦那の顔は見たことない」
「いつの話だ?」
瞬は言葉を濁し、しばらく口ごもっていたが、観念したように言葉を絞り出した。
「まあ……お前と……別れた直後だ。遥は旦那と一緒に海外に行ったって聞いたけど……」
それ以上、瞬は何も言えなかった。
別れた直後にスピード婚、そして妊娠だと?
たとえ当時、湊が遥を本気で好きではなかったとしても、自分が寝取られていたかもしれないとなれば、男として面白くないだろう。
瞬が何か言おうとするが、湊は一方的に電話を切った。
ツーツーという無機質な電子音を聞きながら、瞬は逆に安堵の息を吐いた。
これ以上追及されても、どう答えばいいのか分からないからだ。
あれこれ考えた末、瞬は遥にLINEを送った。
【湊がお前の旦那について探りを入れてきたぞ】
遥からの返信は早かった。
【残念ながら、うちの夫はたぶんゲイじゃないわよ】
瞬はスマホの画面を見て絶句した。
そこじゃねえよ!
なぜ二人がまた関わり合っているのか聞きたかったが、瞬はこれ以上首を突っ込むのをやめることにした。
触らぬ神に祟りなしだ。
湊はメールのチェックを済ませ、定時まで、特に何事もなく過ぎていった。
遥は昨晩の出来事を思い出し、まだ心臓がバクバクしていたため、定時に退社することにした。
パソコンをシャットダウンする遥を見て、楓が驚いたように声を上げる。
「あれ?今日は残業しないの?」
「ええ、今日は定時で帰って、娘と遊ぼうと思って」
二人は談笑しながらエレベーターに乗り込んだが、一日中姿を見なかった湊と、まさかこのタイミングで鉢合わせるとは思わなかった。
楓と遥は顔から笑みを消し、戦々恐々として隅に立った。
幸い、湊は二人に気づいていないようだった。耳にイヤホンをつけ、誰かと通話中だ。
「わかってる。今夜は必ず帰って一緒に食事をするから。
ああ、花もちゃんと買っていくよ」
その口調は優しく、穏やかで、まるでさざ波のようだった。相手を大切に想っていることが声の端々から伝わってくる。
三年前、遥もベッドの上でだけは、湊のあんな甘い声を聞いたことがあった。
おそらく電話の相手は、彼の首にあの痕を残した人なのだろう。
エレベーターの中での数十秒があっという間に過ぎ、湊が先に降りていった。
楓は胸を撫で下ろした。
「今の電話、彼女かな?すっごく優しかったよね。どんな鉄仮面な男でも、愛する女の前ではデレデレになるんだねぇ」
遥は一瞬呆然とし、無意識に答えた。
「そうですね……」
送るという楓の申し出を丁重に断り、遥は満員電車に揺られた。
車内は帰宅ラッシュの人でごった返している。
瞬からのLINEを思い出す。
おそらく健太が社員情報を紹介した際に、ついでに家庭の事情も話したのだろう。
以前の上司は、遥の見た目が浮世離れしたお嬢様風だったため、金に困っていないと思い込み、昇進や昇給の機会を与えようとしなかった。
それを健太が取りなし、彼女のために昇進のチャンスを作ってくれたのだ。
遥は彼に恩を感じている。
だが、湊が夫のことを聞いてくるとは意外だった。
そもそも、遥の夫など存在しないのだ。
以前、父の治療のために海外へ渡った際、飛行機の中で同じ病気の家族を持つ人と知り合った。
双方の親の最後の願いは、子供たちが家庭を持つのを見届けることだった。
遥はその人の息子と、病床の父たちの前で一緒になることを約束しただけだ。
間もなくして二人の父は他界し、遥とその「彼」もそれきり連絡をとっていない。
既婚というのは、遥が口から出まかせに言った設定だ。周囲には、ずっと既婚者だと言い通している。
当時、遥は結衣を産んだばかりだった。
今の世の中、結婚後に夫が育児をしないワンオペ育児なら、まだ同情もされる。
だが、未婚の母で父親が誰かもわからないような女性は、後ろ指を指される。
遥自身は何を言われても構わないが、娘まで色眼鏡で見られるのだけは、どうしても避けたかった。
形だけでも、子供には父親が必要だったのだ。
しかし、何があっても、遥は湊に結衣の存在を知られるわけにはいかない。
九条家のような大財閥が、結衣の存在を知ったらどうなるか。
遥から子供を取り上げるか、あるいは親子共々見下され、子供が冷遇されるか……
そのどちらもあり得る。
結衣は女の子だ。たとえ引き取られたとしても、九条家で重んじられることはないだろう。
遥はこれまで、名家による子供の奪い合いを嫌というほど見てきた。
心の中に、ずっと棘のような不安が残っている。
湊の目的が何であれ、彼女には関係ない。
彼女にとって大切なのは、娘だけだ。
……
九条家の本宅。
抱えきれないほどの深紅の薔薇を手に、湊はダイニングテーブルで待つ母にそれを手渡した。
「欲しがってた花だ」
九条夫人は嬉しそうに受け取りながらも、不満を口にした。
「欲しがってたなんて人聞きが悪いわね。帰国してからちっとも顔を見せないから、母親のことなんて忘れたのかと思ったわ」
「手を洗ってくる」
湊はそれだけ言うと、洗面所へと向かった。
「まったく、あの子ったら!」と九条夫人は鼻を鳴らしたが、すぐに笑顔を取り戻し、手にした花束を隣に座る江藤玲奈(えとう れな)に差し出した。
「ほら、湊が買ってきた花よ。あなたにあげるわ。こういう鮮やかな花は若い子にこそふさわしいわ。私みたいな年寄りには似合わないもの」
玲奈は可憐な顔を赤らめ、驚きと喜びを露わにした。
しかし手は出さず、洗面所から出てきたばかりの湊を熱っぽい視線で見つめながら、唇を噛んで言った。
「おば様、せっかく湊お兄様がおば様のために選んだものですから、私がいただくわけにはいきません。
それに、おば様はまだまだお若くて綺麗ですわ」
九条夫人の目尻の皺が笑みで深くなる。
玲奈は口が上手い。湊の冷たい言葉よりよほど耳に優しい。
「遠慮しないで、受け取ってちょうだい。元々あなたのために買わせたようなものなんだから」
玲奈が食事に来ると聞いて、九条夫人は急遽、湊に花束を買って帰るよう命じたのだ。
湊は完璧な息子だが、恋愛に関しては白紙も同然で、普段から興味すらなさそうなのが悩みの種だった。
湊は九条家の長男であり、嫡孫でもある。
九条グループ総帥には三人の息子がおり、その下に湊を含めて、四人の孫と一人の孫娘がいるが、誰も身を固めていない。
下の者たちはまだ若いが、適齢期を迎えた子たちでさえ皆、「湊兄さんがまだ結婚していないのに、先を越すわけにはいきませんよ」と言い訳にしている。
九条夫人にしてみれば一人息子だ。早く孫の顔が見たいと思うのは当然だろう。
玲奈の瞳は湊に釘付けだった。
ジャケットを脱ぎ、ジレ姿になった彼は、その完璧なスタイルが際立ち、何気ない仕草一つにも気品が漂っている。
「湊お兄様、この花束、いただいてもよろしいですか?」
「その呼び方はやめろ」
湊は冷ややかな視線を向け、頬を染める玲奈を一瞥した。
「その花は君への贈り物じゃない。欲しければ自分で買え」
玲奈はあざとく下唇を噛み、上目遣いで切り出した。
「湊さん……立花遥さんのこと、まだ覚えてますか?」
第5話
大学時代、玲奈は兄である瞬の名目を使い、足繁く帝都大学へ通って湊に会いに行っていた。
そしてその頃、湊の傍らにはいつも影のように寄り添う一人の女性がいた。
長身でスタイル抜群、鮮やかな服を纏うその姿は、まるで真夏の太陽のように眩しく、華やかだった。
一目で、蝶よ花よと育てられたお嬢様なのだとわかった。
玲奈は瞬から、その子が芸術学部の立花遥であり、湊の彼女だと聞いていた。
あれほど孤高で気高く、月のように冷ややかな気質を持つ湊が、見るからに俗っぽくてワガママそうなお嬢様と付き合っているなんて、誰も想像できなかっただろう。
「湊も金には困ってるからな。たぶん立花が金積んで落としたんだろ」と瞬は言っていた。
玲奈もそれを信じていた。
しかしその後、ある提携案件を通じて、湊が実は九条家の長男であり、九条グループの後継者であることを知った。
その時、湊と遥の関係は、ただの火遊びに過ぎないのだと玲奈は悟った。
その後、湊の口から似たような言葉を聞いたこともある。
だが不思議なことに、玲奈の心は晴れなかった。
湊が顔を上げ、冷ややかな視線を向けてくる。
玲奈は背筋が凍る思いがした。
湊はすでに箸を置き、立ち上がっていた。
「俺は部屋に戻る。今後、誰かに花を贈りたいなら、俺をダシに使うな」
九条夫人はムッとして、顔を曇らせた。
「どういう意味?私が玲奈ちゃんに花をあげちゃいけないって言うの?」
湊は答えることなく、階段を上がっていった。
玲奈はその背中を見つめ、瞳に悔しそうな感情を滲ませた。
九条夫人は玲奈の手を取り、ひとしきり慰めてから切り出した。
「玲奈ちゃん、さっき言ってた立花って誰のこと?聞いたことのない名前だね」
玲奈は自分が失言し、せっかく会えた湊を怒らせてしまったことを悟っていた。
「いえ、ただの昔の同級生です。それより、おば様、さっき湊お兄様に九条グループでのインターンの件を話し忘れてしまって……反対されないでしょうか?」
「なーんだ、そんなこと。お安い御用よ。あとで私から言っておくわ」
「ありがとうございます、おば様」
二階、書斎にて。
モニターにはグループの財務レポートが流れており、各プロジェクトチームの情報が明確に表示されている。
湊の視線は、無意識のうちに最も成長率の高い立花遥のチームに吸い寄せられていた。
昼間に見た彼女は、随分と痩せていた。
以前は標準的な体型で、よく「ダイエットしなきゃ」と騒いでいたものだ。
今の彼女の肩や背中は、あまりに華奢で薄く、見ているだけで胸が痛むほど儚げだった。
認めるしかない。企画書に責任者として立花遥の名前を見つけた時、彼は奇妙な期待を抱いたのだ。
同姓同名の別人かとも思ったが、やはり彼女だった。
芸術学部にいた遥は、昔から勉強嫌いだった。
「うちは使いきれないほどお金があるから、働く必要なんてないの」と豪語したこともある。
それが今や、よりによって自分の会社できちんと働いているとは、予想外だった。
さらに驚いたことに、彼女の企画案は他のどのチームよりも優れている。
最初、遥と付き合い始めたのは、賭けのようなものだった。
遥の猛アタックに根負けし、恋人になった。
大学を卒業して九条家に戻ったら、彼女とは別れるつもりだった。
だがその遊びのつもりだった関係も、いつしか本気の恋へと変わっていった。
彼女は情熱的で、明るく、強くてしなやかな花のような女性だった。
彼女を見るだけで、自然と口元が緩んでしまう。
人前では高慢なお嬢様だが、二人きりの時は従順で、愛くるしかった。
幾度となく体を重ねるうち、遥が自分のあらゆる癖を完璧に受け入れてくれることに驚き、そして溺れていった。
まるで治らない病にかかったかのように、湊は彼女を手放せなくなっていた。
彼女を愛していたのだ。
思わずに、二人の未来を描いていた。
卒業後に一度別れ、正式に身分を明かして彼女に告白しようとさえ考えていた。
もし許してくれないなら、一生困らないだけの金と、ありったけの愛を注いで償おうとさえ思っていた。
以前、遥のトラブル解決法はすべて「金」だった。
授業の代返も、課題の代筆も、宅配便の受け取りも、すべて金で人を雇っていた。
彼女の目には、金で買えないものなどない。
湊を口説く時も「お金をあげるから、付き合って」と高飛車に言ってきたほどだ。
だが、立花家の全財産をかき集めたところで、九条グループが動かす金の足元にも及ばないのだが。
結果として、振られたのは彼の方だった。
遥の去り際は鮮やかだった。
彼の連絡先をすべてブロックし、荷物を運び出し、ある日突然、蒸発するように消えた。
湊が人を遣って調べさせると、遥はすでに海外へ行っていた。
一言の別れも告げず、鮮やかに湊の世界から消え失せた。
瞬でさえ彼女の出国を知っていたというのに、それどころか、彼女は重課金して装備を最強にしたゲームアカウントも、瞬に売りつけていた。
湊は怒りを通り越して笑ってしまった。
彼を挑発し、あらゆる手段を使って彼の世界に侵入してきたのは彼女だった。
それなのに、今になって勝手に出て行くとは、あまりにも馬鹿げている。
九条湊が、ミスター帝大であり、九条家の後継者として、幼い頃からちやほやされて傅かれてきた。
女に捨てられるなど信じられるものか?
彼は遥を探したこともあった。
何度もメッセージを送り、連絡を取ろうと試みたが、すべて梨のつぶてだった。
彼は遥の身に何かあったのではないかと疑い、九条家の情報網を使って彼女を探し出そうとさえした。
その矢先、寮の部屋で、隣のベッドにいた瞬が受話口を手で覆い、声を潜めて電話に出ているのが聞こえた。
遥からだった。
あの一瞬、湊の心には野火のような憎しみが広がり、彼自身の理性さえも焼き尽くそうとしていた。
その通話は、まるで湊をあざ笑っているかのようだった。
それ以来、誰も遥の話をしなくなった。
会社を継ぐことは既定路線だったが、まさか遥も自分の会社にいるとは思いもしなかった。
彼女を見た瞬間、湊は呆然とした。
彼女は以前より落ちぶれていたが、湊の心に快感はなく、むしろ棘が刺さったように胸が詰まった。
彼女は結婚した。
時期は、彼と別れてすぐのことだった。
自分との別れを急いだのは、他の男と結婚するためだったのか?
湊はそう疑わずにはいられなかった。
しかも子供まで産んでいた。
遥は昔、「二人の時間を楽しみたいから、子供なんて当分いらない」とよく言っていたはずだ。
欲しくないのは俺の子供だけで、他の男のガキなら、喜んで産むというのか。
湊の胸に重い鉛がのしかかり、言いようのない窒息感だけが残った。彼は苛立ち紛れに机を蹴り飛ばした。
「立花遥……やってくれたな」
書斎のドアがノックされ、九条夫人が夕食の載ったトレーを手に部屋に入ってきた。
「玲奈ちゃんが気に入らないの?普段、瞬くんとも仲良くしてるんだから、親戚付き合いも悪くないと思ったんだけど」と単刀直入に言った。
食事もせずに部屋を出て行くなんて、九条夫人は母として息子を心配しているのだ。
普通の母親なら、とっくに匙を投げているだろう。これでも、彼女なりに湊の気難しい性格に耐え、歩み寄ろうとしているのだ。
湊と九条夫人は、昔からあまり親しくなかった。
幼少期、湊は祖父の元で育てられ、成人してからは事業に忙殺されていた。
近年、湊が実権を握るようになると、その身に纏う冷徹な威厳が増し、九条夫人でさえ湊に畏怖を抱くようになっていた。
「気に入らないんじゃない。嫌いだ」湊は箸を取り、一口食べた。
湊はああいう女を嫌というほど見てきた。
その瞳の中に、彼への欲望が透けて見え、それを隠そうともしない。
そのような女、大嫌いだ。
ふと、別の一対の瞳が脳裏をよぎる。
かつては優しさを湛え、今は氷のように冷たい瞳だ。
湊の心は再び底へと沈み、冷え切った。
「今度客を呼ぶなら、事前に言え」
客がいるなら、俺は帰らない。
「どういう意味?たとえ気に入らなくても、少しは愛想よくしなさいよ!」
あんな風に顔を背けて出て行かれては、九条夫人の面目も丸潰れだ。
「客と俺、どっちが大事なんだ?」と湊は冷たく言い捨てた。
九条夫人は胸の中に煮えたぎる怒りを覚えたが、吐き出すことも飲み込むこともできず、半ば噎せるように言った。
「そんな可愛げのない性格じゃ、どんな子だって逃げ出すわよ!
せっかく玲奈ちゃんが好いてくれてるのに、何が不満なの?」
湊は箸を置き、口元を拭った。
「そうか」
九条夫人がふと顔を上げると、湊の首筋にある痕に気づいた。
「その首、どうしたの……」
第6話
湊は引き出しを開け、薬のシートを破って抗アレルギー薬を飲み込んだ。
「ただのアレルギーだ」
湊の首の痕を見た時、ついに息子にも彼女ができ、ただ家に連れてくるのが気恥ずかしいだけなのだと期待していたのだ。
まさか、ただのアレルギーだったとは。
九条夫人はがっくりと肩を落とした。
「そういえば、玲奈ちゃんが会社でインターンしたいって言ってるの。
なんとかならない?」
「正規のルートで応募させろ。面接に通れば採用する」
九条夫人は不満げに眉を寄せ、愚痴をこぼした。
「玲奈ちゃんは名門大学卒よ?たかがインターンくらい、少しは融通を利かせなさいよ」
湊は気だるげに瞼を持ち上げた。
「却下だ」
玲奈は容姿も良く、家柄も釣り合っている。何より、数年も前から湊に想いを寄せているのだ。
一体どこが不満なのか。
九条夫人は湊をじっと見つめるうちに、ある疑念が頭をもたげ、思わず声を張り上げた。
「湊、あなたまさか……男が好きなの?」
「……」
湊は疲れたように眉間を揉み、苛立ちを抑えながら答えた。
「俺だって、女と付き合ったことくらいある」
九条夫人が安堵の息を吐きかけたその時、湊が追い打ちをかけるように付け加えた。
「そういうのって遺伝するらしいぞ。
もしそうなら、責めるべきなのは俺じゃなくて親父だろ」
九条夫人は言葉を詰まらせた。
なんて屁理屈を!
怒るに怒れず、かといって反論もできず、九条夫人は行き場のない拳を振り上げたような気分になった。
これ以上ここにいては、寿命が縮まるだけだ。
九条夫人はさっさと食器を片付け、部屋を出て行った。
翌日。
湊は従姉である工藤恵(くどう めぐみ)に頼まれ、彼女の息子の迎えに来ていた。
車を止め、外に降り立った瞬間、周囲の保護者たちの視線が一斉に彼に注がれた。
高級SUVの傍らに立つだけで、優雅かつ冷ややかなオーラを放つその姿は、どこにいても人目を引く。
近くで芸能人の撮影でもあるのかと囁く声さえ聞こえてきた。
肝心の甥っ子は現れず、代わりに顔を真っ赤にして恥じらう幼稚園の保育士がやってきた。
「あの、工藤悠斗(くどう ゆうと)くんの保護者の方ですか?実はお友達と少しトラブルになりまして……」
湊はサングラスを外し、保育士の後について園内へと入った。
園内、白いワンピースを着た小さな女の子が地面に座り込み、肩を震わせて泣いている。
白磁のような腕には、細かい引っかき傷ができている。
その横に、甥の悠斗が立っていた。
丸々とした顔には、傲慢な色が浮かんでいる。
「結衣!僕が遊んでやるって言ってるんだぞ、ありがたく思えよ!
なんで無視すんだよ!泣くなよ、みっともない!」
湊は眉をひそめ、大股で近づくと、喚き散らす甥の襟首を片手で掴み上げた。
「悠斗、何をしている」
湊の姿を見た瞬間、小太りの悠斗から威勢の良さが消え失せ、まるで借りてきた猫のように震え出す。
一人息子として甘やかされて育った悠斗が、唯一恐れているのがこの湊だ。
湊を怒らせれば、家ごと終わることを本能で悟っているのだ。
保育士の話を要約すると、ガキ大将の悠斗が結衣を遊びに誘って拒否され、その腹いせに結衣を突き飛ばして服を破いた、ということらしい。
湊は身を屈め、地面から結衣を抱き上げた。
涙に濡れた大きな瞳と目が合う。
その瞬間、湊の胸に不意に温かいものが込み上げた。
なぜか、妙に見覚えがある。そして、どこか懐かしい。
自然と、声のトーンも優しくなった。
「痛いか?病院へ連れて行ってやる?」
そして保育士に向き直る。
「この子の親に連絡を、治療費も慰謝料も、全てこちらが持つと伝えてくれ」
その時、風のように駆け込んできた遥は、娘を抱いているのが湊だということすら気づかなかった。
彼女の目には、泣いている娘の姿しか映っていなかったのだ。
結衣は誰に似たのか、感情を内に秘めるタイプだ。
大声で泣くこともなく、ただ大粒の涙をポロポロとこぼす。
その姿は、見る者の心を締め付けるほど痛々しい。
遥は湊の腕から結衣を奪い取るように抱きしめ、必死になだめた。
「結衣ちゃん、いい子ね、泣かないで。ママが来たからね」
結衣は遥の肩に顔を埋め、小さな腕を遥の首に回した。
遥は娘の腕の傷を見て、血の気が引いた。
結衣は他の子よりも免疫力が弱く、生まれつき血小板が少なく、血が止まりにくい体質だ。
一度怪我をすると、治るのに大変時間がかかる。
娘の怪我を目の当たりにし、遥の態度は強硬になった。彼女は保育士を鋭く見据えた。
「一体どういうことですか?ちゃんと説明してください!」
横にいた湊が口を開いた。
「悪いのはうちの悠斗だ。治療費も慰謝料も、全てこちらが持つ」
遥は背が高いが、以前より随分と痩せていた。
腕の中の結衣はまるでフランス人形のように華奢で、遥にしがみついている。
この子が彼女の娘か?どうりで、見覚えがあるわけだ。
だがそれとは別に、湊はこの子に対して不思議な縁を感じていた。
湊が結衣を見つめていることに気づき、遥の心臓が早鐘を打った。
まるで誰かに奪われるのを恐れるかのように、彼女は結衣を隠すように抱き直した。
顔を上げると、漆黒の深淵のような瞳と目が合った。
彫りの深い顔立ちに、冷徹さを湛えた瞳、一見冷酷で怖そうに見えるが、その実、細部まで整った美しい造形をしている。
娘をいじめた男の子は、湊の子供なのか?
いや、あの子の姓は工藤だ。
それとも、惚れた女の産んだ子なら、姓が違っても構わないほど溺愛しているというのか?
急に、胸が締め付けられるようだった。
遥の手は無意識に震えていたが、娘を守ろうとする怒りが勝った。
「賠償ですって?あの子が娘をいじめるのは、これが初めてじゃありませんよ。
娘の心の傷は深いんですよ!九条社長、どう落とし前をつけてくださるんですか?」
初めてではないだと?
隣で項垂れている甥を一瞥し、湊も甥の性格はよく知っている。
この状況なら、口で謝罪するより、まずは行動だ。
「車に乗れ、病院へ行くぞ」と遥に短く告げた。
遥が動こうとしないのを見て、湊はさらに促した。
「早くしろ!」
遥の腕の中で、結衣が泣き止み、荒い息を吐きながら顔を赤くしている。
遥も躊躇っている場合ではないと悟り、急いで湊の車に乗り込んだ。
病院に着くと、遥は一言も発さず、結衣を抱いて救急外来へと走った。
一通りの検査を終え、その手には、処方された薬の入った袋がいくつも提げられていた。
湊は後ろからついていき、支払いを済ませた。やはり、この子の体は相当弱いらしい。
会計の際、チラリとカルテが見えた。
【立花 結衣】
母親と同じ姓……
旦那は、婿に入ったのか?
悠斗も、まさかここまで事態が大きくなるとは思っていなかったようだ。
最初はただの遊びのつもりだったのだ。
結衣が泣き出したのも単なる甘え泣きだと思っていたが、本当に痛がっているのを見て、悠斗は自分のしたことを後悔し、青ざめている。
帰りの車中、赤信号で車が止まると、悠斗は助手席の後ろに座る遥と結衣に向かって謝った。
「ごめんなさい」
遥は顔を背け、何も言わなかった。
相手が子供だろうと、許せることではない。
湊にとって悠斗が大事なように、彼女にとっても娘はかけがえのない宝物なのだ。
遥がいつも注意を払って、結衣を大切に守ってきたのだ。
怪我はもちろん、泣かせることだってほとんどない。
娘の病状は、激しい感情の起伏を禁忌としている。
駆けつけた時の涙と腫れ上がった瞼を思い出し、遥の胸は張り裂けそうだった。
遥に取り合ってもらえず、悠斗は結衣の方を見た。
結衣は彼に向かってパチパチと瞬きをした。
彼女は本当に愛らしい。
雪細工のように白く、写真を公開すればキッズモデルのスカウトが殺到しそうな顔立ちだ。
その目鼻立ちには、どことなくハーフのような彫りの深さがある。
以前、遥も結衣の顔立ちを不思議に思ったことがあった。
そういえば、湊の母親は外国の血を引いていると湊が言っていた。
おそらく、結衣にもその隔世遺伝が現れたのだろう。
そのせいで、結衣の父親は外国人なのかと誤解されることも多かった。
第7話
悠斗が結衣にちょっかいを出したのは、単に彼女が可愛いからだ。
「許してくれ、これから幼稚園であなたを守ってやるから!
誰にもいじめさせないって約束する!」と悠斗は必死に訴えた。
この件で結衣の母親が怒って、結衣を転園させてしまうのではないかと悠斗は怯えている。
遥は確かにそう考えている。
だが、転園したところで、また同じような目に遭わないとは限らない。
「結衣ちゃんはどうしたい?別の幼稚園に行く?
それとも、ここに残る?」と彼女は優しく娘に尋ねた。
結衣は少し考えてから、こくりと頷いた。
「先生もお友達も、みんないい人だから」
遥にも打算はある。
今回の件で、湊は少なからず負い目を感じているはずだ。
彼が裏で圧力をかければ、幼稚園側も悠斗のようなガキ大将を厳しく監視するようになるだろう。
そうすれば、結衣はかえって安全に過ごせるかもしれない。
謝ることができるなら、悠斗もまだ救いようがあるのだろう。
自宅近くの交差点で、遥は車を停めさせた。
結衣を連れて車を降りると、彼女は湊と会話を交わすこともなく立ち去った。
彼女は、話す気分ではなかったのだ。
その背中を見るだけで、湊にも分かっている。
遥は今、怒っている。
数年前とは違い、今の遥は鎧を纏ったように心を閉ざしているが、その短気な性格や細かな癖は昔のままだ。
彼女は怒ると、口を利かなくなる。
以前はただ、湊に怒りをぶつけるのを嫌い、自分の機嫌が直るまでじっと我慢してから、また彼に会いに行っていただけだ。
湊は周辺の景色を見渡す。
築古の団地が立ち並ぶエリアだ。
家賃は安いが、会社までは通勤で一時間はかかるだろう。
遥は今、こんな場所に住んでいるのか?
どうやら彼女の夫とやらは、本当に甲斐性のない男らしい。
湊は胸の奥に広がる違和感を押し殺し、ハンドルを切った。
「お前、あの子をよくいじめてたのか?」
悠斗は唇を尖らせた。
何度か聞き返して、悠斗がようやく口を開いた。
「あいつにはパパがいない、パパに捨てられた野良犬だって言った。
だって本当だもん!あいつのパパなんて一度も見たことないし。
遊んでくれないから、おやつとか果物を取り上げたこともある。
あと、何回か突き飛ばした。
あいつのスカート、千円の安物なんだよ?おじさん、千円の服なんて見たことある?
超ボロくて、ちょっと引っ張っただけで破れちゃったんだ。
あとは、あいつが飲んでる薬、捨てたこともある……」
湊は眉間を揉んだ。
今にして思えば、あいつが遥の前で余計なことを言わなくてよかった。
もし彼女が聞いていたら、あの親バカな性格だ、もっと激怒していただろう。
湊は悠斗を恵の家に送り届け、事の顛末を説明した。
車を発進させる間もなく、その家の中から悠斗の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。
車内、湊はすぐに立ち去ろうとはせず、その泣き声をBGMにスマホを取り出した。
社内チャットを開き、実名登録されているアカウントの中から遥を探す。
遥のアイコンは、ゆるいタッチで描かれた犬のイラストだ。
大きな口を開けて間抜けな顔で笑い、手には花を持っている。
昔の彼女によく似ている。
メッセージを送ろうとしたが、送信エラーが出た。
【社内規定により、他部署への直接連絡は制限されています。上長の承認が必要です】
と小さな文字で書いてある。
湊はスマホを見つめ、眉をひそめた。
社長である自分が、社員に連絡するのに秘書を通さなければならないとは。
湊は健太のLINEを開いた。
【俺のアカウントを立花遥に教えろ】
健太は遥の企画書にまた何か不備があったのかと思い、スマホを握りしめて平謝りする勢いで遥に湊の連絡先を送信した。
しかし遥からは、【?】という一文字が返ってきただけだった。
そして、遥は【何の用ですか?】と打ちかけて削除し、【了解です】とだけ送る。
健太から送られてきた【連絡先】をタップする。
湊のLINEは彼自身と同じく、得体が知れない。
アイコンは真っ黒で、名前はただの【K】だ。
IDは彼のイニシャルと誕生日の組み合わせだ。
すぐに友達追加が完了した。
【娘さんの怪我について、今後の治療費などは全て俺が持つ】
【わかりました】
湊から動画が送られてきた。
動画の中では、小太りの悠斗が床を這いずり回り、まるで出荷前の豚のように泣き叫んでいる。
遥は一度だけ再生し、湊の意図を察した。
「もう十分にお仕置きはしたから、この件はこれで手打ちにしてくれ」ということだろう。
見て取れるのは、湊があの子をどれほど可愛がっているかということだ。
おそらく、彼が愛してやまない女性との間に生まれた子なのだろう。
遥の胸がチクリと痛んだ。
午後、幼稚園で湊が悠斗を庇っていた姿が脳裏に焼き付いている。
お仕置きだって、ポーズだけで、本気で叩いてなどいないはずだ。
それもそうだ。
湊のような男なら、子供が欲しければ喜んで産んでくれる女などいくらでもいる。
遥は自嘲気味に笑い、動画メッセージを引用して返信した。
【了解しました】と送って、遥は全ての感情を押し殺した。
その日の夜、結衣が熱を出した。
感染症を防ぐため、遥は自分と結衣にマスクをつけさせ、急いで病院の救急外来へと向かった。
診察の結果は、いつもの持病の発作だった。
医師は奥のカーテンを指差した。
「お子さんを抱いてそこで待っていてください。点滴の準備をしますから」
「はい、わかりました!」
小さな娘を抱いて仕切りの中に座り、遥は片手でスマホのメッセージを確認した。
彼女は芸術学部出身で、大学時代からずっとイラストを描いている。
当時は金に困っていなかったため、趣味でゲームやアニメの二次創作を描いていただけだったが、それがかえって評判を呼び、ファンが増えていった。
今ではフォロワー数30万人を抱える有名イラストレーターだ。
依頼のDMはひっきりなしに届くが、余裕がある時だけ受けるようにしている。
ただ、絵を描くのは時間も体力も使う。
彼女の場合、一枚仕上げるのに一週間はかかる。
結衣の看病もある今は、どうしても作業効率が落ちてしまう。
依頼の問い合わせをいくつか開き、見積もりを送ってからアプリを閉じた。
その時、湊からLINE通話がかかってきた。
「娘さんの上着、俺の車に忘れてるぞ」
「明日の朝、駐車場へ取りに伺います」
遥が声を潜めているのに気づき、今は都合が悪いのだと察した湊が、電話を切ろうとした。
その時、向こうから騒がしい声が聞こえてきた。
老婦人の不機嫌な声だ。
「まったく、湊もどうかしてるわ。
うちの悠斗は幼稚園でお友達を作ろうとしただけなのに、それをいじめだなんて言うんだから!
見てごらんなさい、可哀想に。うちの悠斗は、怖くて熱出しちゃったじゃない!」
湊の従姉、恵が呆れたように諌める。
「お義母さん、湊が悠斗を叱ったのはあの子のためですよ。それに、悠斗に何をしたか聞いてごらんなさい。
あれはお友達付き合いじゃありません、ただのいじめですよ!」
「だとしても、手を上げるなんて!悠斗は生まれてから一度も叩かれたことなんてないのに!」
老婦人は引かなかった。
「悠斗から聞いたわよ。そのガキ、千円の服着て、父親も一度も姿を見せたことがないってね。
どうせそのガキも母親も、玉の輿狙いでわざとセレブな幼稚園に潜り込んだに決まってるわ!
じゃなきゃ、あの湊がわざわざ車で送っていくわけないじゃない!
悠斗も言ってたわ、そのガキの母親は顔がいいって。どうせ尻軽女よ!
許せない、明日学校に乗り込んで、あの図々しいガキを退学にさせてやるわ!」
恵も我慢の限界だった。
「その言葉、湊の前で言えるんですか?」
老婦人は湊の前では借りてきた猫のようになる。
カーテンの中で、遥は手足が冷たくなるのを感じた。
耳を覆いたくなるような罵倒が突き刺さり、鼓膜が痛む。
耳鳴りが渦を巻き、思考をかき乱す。
あまりのショックに、通話がまだ繋がっているままであることに気づきもしなかった。