輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした

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輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした

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新浜市の上流社会の頂点に立つ天野家の夫人である天野紬(あまの つむぎ、旧姓は綾瀬、あやせ)は、その夫・天野成哉(あまの せいや)との関係...

Chương (1)

第1章

新浜市の上流社会の頂点に立つ天野家の夫人である天野紬(あまの つむぎ、旧姓は綾瀬、あやせ)は、その夫・天野成哉(あまの せいや)との関係は、礼儀正しく整っているにもかかわらず、どこか他人行儀で、温度のないものだった。 結婚して三年。紬は海原と新浜の間を絶えず行き来し、いつかは夫と子供の心に寄り添える日が来ると、ひたむきに願い続けてきた。 しかし待ち受けていた現実は、成哉が別の女性をかいがいしく世話する姿だった。 夫が息子の手を引き、その女性のために祈りを捧げ、自分との約束をすっかり忘れてしまう光景を、紬はただ呆然と見つめるしかなかった。 やがて紬は、すべてを諦めた。きっぱりと離婚を切り出し、家庭を捨てた。 高級ドレスを纏い、しなやかで気品ある立ち居振る舞いで、海原市の富豪たちのサロンを悠然と歩む彼女は、まるで別人のように輝いていた。 ほどなくして、海原市の名門の御曹司までもが紬の魅力に心を奪われ、彼のプロポーズの報せは瞬く間に海原のメディアを埋め尽くした。 そのときだった。後悔に苛まれたのは、他ならぬ成哉だった。 その夜、成哉は紬を壁際へと追い詰め、目を赤くしながら低く言い放った。 「紬、俺たちはまだ離婚していない。他の男と結婚するなんて……俺が許したとでも思っているのか?」 第1話 海原市から新浜市へ戻った日、それは天野紬(あまの つむぎ)と天野成哉(あまの せいや)の結婚三周年の記念日だった。 紬は新浜へ着く前にインフルエンザにかかり、咳も決して軽くはなかった。 それでも、成哉と息子、娘の三人とはすでに三か月も会っていない。会いたい気持ちが勝ち、無理を押して帰ってきたのだった。 天野家は新浜の名家である。 のちに事業を海原へと広げ、家族も海原へ移り住んだものの、本宅だけは変わらず新浜に残っていた。 その本宅に足を踏み入れた瞬間、紬のスマホにニュースがポップアップで浮かび上がった。 【天野の御曹司、気前よく大金を投じ、人気女優・橋本望美(はしもと のぞみ)のためにキャンプファイヤーを開催】 紬の表情からすっと血の気が引いていく。 天野家で働く家政婦、田中恵子(たなか けいこ)は海原出身で、ニュースを見るなり、慌てて紬に声をかけた。 「メディアなんてデタラメを書くのが大好きなんですよ、奥様。どうかお気になさらないでください。旦那様は今夜、お仕事でお忙しいのですから」 しかし紬は何も言わなかった。 帰る前、紬はわざわざ成哉にメッセージを送っていた。 ただ、そのメッセージはいまもスマホの中で静かに眠っている。 返信は、ひとつもない。 紬はくよくよする性格ではない。それでも考えてしまう。ピラミッドの頂点に立ち、新浜全体の経済の生命線を握るあの男は、一体どれほど忙しいのだろうか。 妻からのたった一通のメッセージに返信する暇もないほどに。 これ以上考えてはだめだ、と紬は自分に言い聞かせた。 コートを脱ぎ、キッズスペースにいる息子と娘のもとへ向かう。 三か月会わないうちに、二人はずいぶんと成長していた。 紬はそっと笑みを浮かべ、おままごとに興じる双子の前でしゃがみ込んだ。 二人は砂で小さな家をつくり、その中に二つの人形を置いていた。一目で、それがパパとママを表しているのだとわかる。 紬は娘の天野芽依(あまの めい)に、からかうように尋ねた。 「ねぇ、この二人は誰なの?」 芽依は砂を盛りながら、顔も上げずに答えた。 「パパと望美さん」 「違うよ」息子の天野悠真(あまの ゆうま)が首を振る。 「僕のおうちに住んでるのが望美さんで、芽依のおうちに住んでるのはママだよ」 「でも私、望美さんにママになってほしいもん」芽依は唇を尖らせた。 紬は思わず動きを止め、そっと芽依のおさげを撫でた。 「ママじゃ、だめなの?」 「ダメなわけじゃないけど、やっぱり望美さんのほうがパパとお似合いだもん」 悠真も自然に頷き、娘は真剣な顔のままだった。 芽依はおしゃれが大好きだ。紬の手を不機嫌そうに払いのけた。 「それにママ、風邪ひいてるでしょ。私から離れててよ。頭も触らないで、髪、ぐちゃぐちゃになるじゃん。これは望美さんが結んでくれた三つ編みなんだよ。崩れたら、望美さんが悲しむでしょ」 紬はそっと自分のマスクに触れた。子どもたちが望美の人形の服をどう作るか、興奮気味に話し合っている。その一方で、ママを表す小さな人形は隅に追いやられ、誰からも見向きされていない。 胸がきゅっと締めつけられ、口の中に苦味が広がる。 娘の言う望美は、夫・成哉の「心を許した相手」だった。 新浜メディアがもてはやす、運命のカップル。 紬と成哉が内密に結婚していたこの数年間、望美こそが誰もが認める天野家の夫人かのようだった。 だがまさか、たった数か月会わない間に、血のつながった我が子までもが望美のほうに懐いているとは。 紬は目を伏せ、長く黙って子どもたちを見ていた。やがて恵子に促され、シャワーを浴びるために二階へと向かう。 ちょうどその時、成哉の秘書である木村健一(きむら けんいち)が駆けつけ、紬の姿を見て一瞬、目を見開いた。 「奥様。社長は今夜、ご用事でお戻りになれません。望美さんへのプレゼントを、こちらへ持ってくるよう仰せつかりまして」 「ええ、わかったわ」紬は静かに答えた。 健一が去ると、胸の奥が鋭く痛んだ。 自分の夫は、他の女性への贈り物のことは覚えていても、妻との三周年の記念日は覚えていない。 紬は成哉にビデオ通話をかけた。 電話はすぐにつながる。 「どうした?」 画面に映ったのは、成哉専用のラウンジ。 煌びやかな照明に照らされた室内は、隙間なく行き届いた贅沢で埋め尽くされ、新浜市の富が凝縮された空間だった。 成哉は千万円もするオーダーメイドのスーツを身にまとい、ワイングラスを片手にソファに身を沈めていた。 その姿には、新浜の実業家にありがちな小利口な雰囲気は一切ない。洗練された気配と、どこか冷ややかな整った眉目。高嶺の花のように遠い存在感を漂わせている。 多くの人が決して手の届かない、憧れの象徴。 そんな男を、紬は丸六年間、変わらず愛してきた。 紬は口調を和らげた。「私たち、ずいぶん会ってないわ。今夜……」 「天野さん……」 紬の言葉が終わらないうちに、電話の向こうから甘くか細い女性の声が響いた。 望美だった。 すぐにビデオ通話は切られた。 切れる直前、成哉は淡々と一言だけ言い残した。「帰ってから話す」 紬はスマホを強く握りしめた。 そして、静かに窓の外へ目を向ける。 高層ビルの群れが夜の闇を押し上げるようにそびえ立ち、車の流れは光の帯を織り成し、息をのむほどの華やぎで街を染めていく。 その喧騒の中心で、夫の成哉は数兆もの資産を操り、新浜の世を動かしている。 ただ、妻である彼女にだけには、微塵の優しさも示さない。 六年間、成哉の態度は変わらず冷淡で、よそよそしかった。 穏やかな眼差しの奥には、隠しきれない無関心が潜んでいる。 紬は長い間、その心を取り戻そうと努めてきた。 だが今日、ふと、自分でも驚くほどに疲れ切った、と感じた。 かけ直すこともせず、紬はそのまま眠りに落ちた。 翌日、ようやく成哉からメッセージが届く。 【すまない。3周年おめでとう】 続いて、短い一文。 【これは埋め合わせだ】 直後、銀行口座に九桁の入金通知が届いた。 紬は無言でメッセージをスワイプした。 そのとき、望美のSNS投稿がポップアップで浮かび上がる。 【F国で8ヶ月かけてオーダーメイド、生涯に一度しか作れないダイヤモンドリング。天野さん、ありがとう】 望美は微笑み、白い指先には大粒のダイヤがきらめいている。 高くそびえるタワーのふもと、ローズレッドのスカートが風に揺れ、その贅沢な気配は見る者を酔わせるほど艶やかだった。 「心を込めた」という事実は、痛いほど伝わってくる。 紬の脳裏に、嫁ぐ前の記憶がよみがえった。 静かで古風な本宅。成哉は廊下をすっと通り過ぎ、その瞳は波立つことなく、紬の幼い期待を簡単に見抜いた。 成哉は言った。「お前と結婚はする。だが、それだけだ」 以前は、「お金なんていらない、たくさんの愛がほしい」なんて言葉は気取りだと思っていた。 だが今になって、ようやく悟る。 六年間抱き続けてきた望み――欲しかったのは、成哉の愛だけだったのだ。そしてそれを一度も手にしたことはなかった。 胸に渦巻く思いを押し込み、紬は階下へ降りた。 小さな庭園から、芽依の無邪気な声が響く。だがその声には、不満の色がはっきりと滲んでいた。 「ママ、なんで帰ってきたの?本当は今日、望美さんがコンサートに連れて行ってくれるって言ってたのに……クマさんが踊るショーを見るはずだったのに……あーあ、ママが永遠に帰ってこなければよかったのに……」 「そうだよ。パパだって望美さんのほうが好きだよ。成実おじさんが言ってたもん。パパは望美さんと結婚できなかったから、ママと結婚したんだって。ママもきれいだけど、僕は望美さんのほうが好きだな……」 悠真はしょんぼりとうつむいていた。 その無邪気な残酷さが、紬の胸に容赦なく突き刺さった。 結婚できなかったから? 驚愕に心が止まり、痺れたように感覚が遠のく。 紬は二人の子供に目を落とした。 悠真と芽依を出産したとき、紬は難産で大出血し、生死の境をさまよった。 二人の子供は生まれつき体が弱かった。睡眠時間を削ってまで尽くした献身的な育児が、やがて紬自身の身体を壊す原因となってしまった。 その後、新浜で問題が起きた。 天野家当主・天野崇(あまの たかし)が重病になったのだ。 成哉は新浜へ戻って采配を振るうことになり、子供たちも連れて帰ることになった。 紬は近年ずっと二つの都市を往復していたが、悠真と芽依は、紬からどんどん離れていった。 紬は気づけば部屋に戻っていた。 子供たちには家庭教師の授業があり、恵子が二人を送り出している。 紬は多忙の合間を縫い、成哉に会う約束を取った。 自分は成哉の妻だ。 子供のことも、望美のことも、夫に確かめるべき理由がある。 だが返ってきたのは、「重要な用事があるから、明日の夜にしよう」 ただそれだけ。 紬は言葉にならない苦さを噛みしめた。 気づけば足は家を離れ、無意識のまま、かつて成哉と出会った寺へ向かっていた。 新浜の寺院は規模こそ小さいが、敷地に足を踏み入れた瞬間、静謐な空気が身を包む。 荘厳な仏塔の前、そこで娘の明るい声が響いた。 「望美さん、これ、本当にどんな願いでも叶えてくれるの?」 「もちろんよ」 紬は息を呑んで顔を上げた。 少し離れた場所で、望美と成哉が二人の子供の手を引いていた。 まるで家族そのもののように寄り添い、仏塔の前で仲睦まじく手を合わせていた。 第2話 すぐに、二人の子供の声が紬の耳へと届いた。 「じゃあ、望美さんとパパが、ずっと健康で幸せでいられますように!」 望美は微笑み、からかうように言った。 「ママの分はお願いしないの?」 「ママは意地悪だもん!いつも望美さんをいじめてばかり。神様も仏様も、そんなママのこと見放すよ!」 その無邪気な言葉に、紬は底なしの冷たさの中へ突き落とされるような感覚に襲われた。 しばらくして、紬はただ黙って、寺の前で望美のために祈りを捧げる夫と子供たちを見つめていた。 そこにあるのは、紬が六年間深く愛してきた男と、血の繋がった我が子たち。 やがて紬はふいに立ち上がり、ためらいなくその場を離れた。 六年間、紬はただ一心に尽くしてきた。 いつか成哉の心が自分に向く日を夢見て――ただそれだけを支えに、耐え続けてきた。 しかしその果てに目にしたのは、神仏の前で別の女性を慈しむ夫の姿だった。 ここまで執着してきた自分が、ひどく哀れに思えた。 紬は旧宅に戻ると、自分の荷物をすべてまとめた。 そして成哉に、最後のメッセージを送った。 【成哉、離婚しましょう】 ベッドサイドに結婚指輪を置き、紬は振り返ることなくタクシーに乗り込んで空港へ向かった。 寺を出た成哉は子供たちを連れて旧宅へ戻った。 人の行き交う寺の外では雑踏が渦巻き、その中で成哉のスマホの着信音が鳴り響いた。 彼がメッセージを確認しようとした、まさにその時だった。 「泥棒だ!」 騒がしい叫び声が次々と湧き上がる。 ボディガードが成哉を庇おうと身を寄せるその瞬間、人混みに押された望美は、ぐらりとバランスを崩し、成哉の胸元に倒れ込んだ。 その拍子に成哉の手から滑り落ちたスマホは、地面に叩きつけられ、続いて押し寄せる人波に踏みつけられて、画面が無惨にも粉々に割れた。 「ごめんね、成哉……あなたのスマホが……」 成哉は眉をわずかにひそめただけで、淡々と告げた。 「構わない。新しいのに替えればいい」 そのスマホは、ほとんど家族との連絡のためだけに使っていた。 天野家の人間はメッセージを好まず、送ってくるのはせいぜい紬くらいのものだ。 だが、紬のことはいつだって重要ではなかった。 帰り道、芽依と悠真はずっとはしゃいでいた。 芽依が成哉の服の裾を掴み、甘えるように見上げる。 「パパ、数日後に望美さん、本当に私たちの家に来てくれるの?望美さん、私をキャンディランドに連れて行ってくれるって言ったんだよ」 つられて悠真も期待に胸を膨らませた。 「いいよ」成哉は穏やかに頷いた。 しかし悠真は少し不安げに眉を寄せた。 「でもパパ……ママが、僕たちは体が弱いからキャンディランドの匂いはよくないって……行っちゃダメって言ってたよ。ママ、止めないかな?それに……ママが望美さんが家に来るって知ったら、怒るんじゃ……」 成哉は落ち着いた声で言った。 「望美さんは医術の心得がある。昔、パパの命を救ってくれた人だ。望美さんがいれば心配はいらない。ママは長くはいないし、望美さんも一時的に滞在するだけだ。ついでに君たちの体の調子も整えてくれる」 子供たちは生まれつき体が弱い。望美が手伝ってくれるなら、少しは良くなるかもしれない。 「やったー!」 二人は喜びの声を上げながら家へと走り込んだ。 家に戻ると、さらに嬉しい知らせが待っていた。 ママが海原へ帰ったというのだ。 成哉はベッドサイドテーブルに置かれた結婚指輪を見て、少し驚いた。 結婚以来、どれほど喧嘩をしても、紬が決して外さなかった指輪。 今回は何も言わずに去り、そのうえ指輪まで置いていくとは。 冷遇されたと思い込み、癇癪を起こしているのだろうか。 以前の紬は、穏やかで従順だった。海原の人間特有の、どこか伝統的で内向的な気質を持ち、成哉がどれほど冷たくしても怒ったことは一度もない。 珍しいこともあるものだ。 大人しい人間でも、さすがに少しくらいは怒るのだろう。 だが成哉は、そこに深く思い至ることはなかった。 彼は結婚指輪を無造作に放り投げると、淡々と言い放った。 「紬はしばらく戻らない。彼女の物は片付けておけ。部屋を整理して、二、三日したら望美が泊まりに来る」 その言葉に、芽依と悠真はぱっと目を輝かせた。 ママがいなくなったから、望美さんが泊まりに来られる――そう思うと胸が弾む。 もうママにしつけられることも、医者に運動状況を問い合わせられることもなくなる。 ママはいつも大げさだった。 毎月決められた運動を無理にでもこなさせ、帰宅のたびに芽依と悠真をじっと見張っていた。 「でも残念だな。この前、ママが宇宙船のパズルを一緒に組み立ててくれるって言ってたのに。あの宇宙船、すっごく難しいんだ」 悠真はその約束を思い出し、しょんぼりとうつむいた。 何千ものピースがあるパズルで、完成させれば壮麗な宇宙船となる。 悠真はそれを仕上げて望美へ誕生日プレゼントにしたかった。 だが、目が疲れるうえ手間もかかる代物で、悠真はママがやってくれるのを待つつもりだった。 芽依も不機嫌そうに口を尖らせた。 「ママ、行く前に私の人形の服を作ってくれるはずだったのに」 以前は帰ってくるたびに、人形のためにたくさんの服を作ってくれたのだ。望美はいつも芽依のコーディネートを褒めてくれた。 だが今回は、ママがあまりに早く発ってしまい、肝心の服が完成していない。 望美に見せられなければ、褒めてもらうこともないだろう。 ママは望美には及ばなかったが、こうした細やかな作業は彼女の得意分野だった。 …… 同じ頃、千里離れた海原。 紬は成哉との新婚の家に戻っていた。 成哉が子供たちを連れて新浜へ移ったあと、紬は海原に残った。 仕事のためでもあったが、多くは成哉の両親を世話するためだった。 崇は長年新浜に暮らしているものの、その他の家族は十年前に海原へ移っている。 新浜の名家はしきたりが厳しく、衣食住すべてにうるさい。 成哉の母・天野絵美(あまの えみ)は崇と折り合いが悪いうえ贅沢に慣れており、新浜への帰還を嫌がった。海原なら、すべてが思い通りになったからだ。 天野家では、女が表立って活動したり、仕事に熱心になりすぎたりすることを良しとしなかった。 だからこそ紬は成哉のために海原に残り、彼の両親に尽くした。 天野グループでの仕事も、名義を置いているにすぎなかった。 だが今、紬は離婚を決めた。天野家のことは、もう彼女に関わる話ではない。 紬は新婚の家の荷物をすべてまとめ、鍵を成哉の執事・安藤慎之介(あんどう しんのすけ)に返すつもりでいた。 ちょうど階下へ降りていくと、慎之介が彼女に気づいた。 「紬様、お戻りでしたか。紬様が前回作られたシロウオの煮込みが食べたいと、絵美様が仰っていますが……」 しかし、紬の手のスーツケースを見た瞬間、慎之介は言葉を失った。 紬は静かに鍵を差し出した。 「私はもう、ここを出ます」 そして穏やかに微笑む。 「シロウオの煮込みは、専門の料理人に頼んでください」 唖然とする慎之介を振り切るように、紬は背を向けて去った。 その日、絵美はシロウオを食べられなかった。 夜。 成哉は絵美にビデオ通話を入れた。 絵美は開口一番、愚痴をこぼした。 「だから言ったでしょう。最初から海原の女なんて嫁にもらうべきじゃなかったのよ。シロウオの煮込みひとつ作れないなんて」 成哉はわずかに驚いた。 以前の紬なら、どんな時でも目上の者には恭しく従った。 これほど怒りを露わにするとは意外だった。 「たかが料理じゃないか。作れないなら料理人に作らせればいい」 絵美は気まずそうに視線をそらした。 何人かの料理人に頼んだが、誰も紬ほど上手には作れなかったのだ。 しかし息子の前でその事実を認める気はなく、曖昧に言葉を濁した。 その横で控えていた慎之介は、紬が家を出たことを伝えるべきか迷っていた。 「成哉様、紬様が……」 引っ越されました――と言い終える前に、成哉が淡々とした声で遮った。 「紬のことは、俺に報告しなくていい。お前が適当に処理しておけ」 慎之介の言葉は、そのまま飲み込まれた。 第3話 次の瞬間、成哉はすでに電話を切っていた。 フロアから天井まで続く窓ガラスに、成哉の完璧なまでに整った顔が映っている。その目元には、かすかな翳りが漂っていた。 彼は新しく買い替えたスマホに視線を落としながらも、結局は一番上にある番号へかけ直すことはなかった。 あの日、寺でスマホはカードごと無残に壊れてしまったのだ。 本来なら、そのことを紬に知らせるつもりでいた。 彼女は、どうあっても彼の妻なのだから。 だが、ここ数年の手厚い扱いが、この女の生意気をわずかに増長させたのかもしれない。 成哉は紬に一度、痛い思いをさせるべきだと考えていた。 紬はそんな成哉の思惑など露ほども知らなかった。 一晩ぐっすり眠り、翌朝には天野グループに出向いて退職届を提出した。 辞職の手続きは驚くほど滞りなく進んだ。 そもそも、成哉が彼女に与えたのは、ただの小さな肩書きに過ぎず、社内の誰一人として紬の素性を詳しく知る者はいなかった。 そのため、業務の引き継ぎさえ終えれば、彼女は静かに会社を去ることができた。 紬が辞職を申し出たと知った同僚は、思わず感嘆の声を上げた。 「子どもたちの面倒を見るためでしょ?四、五歳って親から離れられないし、ほんと甘えん坊だものね。それに、あなたはあの子たちをすごく大事にしてたじゃない。デスクに写真を飾ってたし、ネックレスにも入れてたでしょ?」 紬はふと手を止めた。 彼女は成哉を深く愛し、そして当然ながら、二人の子供たちも心から愛していた。 たとえ遠く離れていても、芽依と悠真のことはいつも胸にあった。 ただ…… 紬は首を振り、やわらかく笑った。 「あの子たちとは関係ないわ」 その言葉は紬の本心だった。 天野グループは大手で海外とも取引があるが、扱うのは建材と不動産ばかりで、紬の興味とは合わなかった。 以前は成哉の妻として、天野家の事情もあって仕事にこだわりを持つ余裕などなかった。 しかし離婚を選んだ今、自分自身のキャリアをあらためて考え直さねばならない。 紬はスマホの画面に映るイベント告知──「和香百景」に目を留めた。 香道、煎茶。 そして…… 現代の感性で味わう「和」の美学。 胸の奥がふと浮き立った。 紬はしばし考え、いとこの綾瀬亮(あやせ りょう)にメッセージを送った。 【このチケット、何とか手に入れてくれない?】 すぐに亮から折り返しの電話がかかってきた。 「いいよ、任せとけ!……って、紬ちゃん、ずっと忙しかったんじゃないの?天野家の世話とか子どものこととかで。そんな中、時間作れるの?」 「作れるわ」 紬は一呼吸置いて、静かに告げた。 「私、離婚したの」 亮は一瞬言葉を失った。 「本当に離婚したのか?相手はあの天野家だぞ!」 一等地の新浜に、孫専用の屋外遊園地まで作ってしまう、あの天野家である。 それにあの時、紬の両親が亡くなった際、もし祖父が天野家に恩義を持っていなければ、天野家が成哉に大学教授の娘を無理やり娶らせることなどなかったはずだ。 たとえ紬の祖父が、あの有名な人間国宝・綾瀬正造(あやせ まさぞう)であったとしても。 「気が晴れないから、離婚したの」 紬は穏やかに笑った。 亮は残念がっているのか、それとも賛同しているのか判断がつかず、ただ苦しげに言った。 「じゃあ……芽依ちゃんたちのことは、もう諦めるのか?」 紬はそっとスマホを見下ろした。 二人が新浜に行った後、紬は子供たちに新しいスマホを持たせた。母親を恋しがって泣き出すかもしれないと心配したからだ。 しかし、この一年、紬がかけない限り、子供たちのほうから電話してきたことは一度もなかった。 芽依と悠真には、圧倒的な権力を誇る家柄があり、そして、彼らが懐くもう一人の「母親」がいる。 それなら、血のつながりに縋る理由など、どこにあるのだろう。 …… その頃、新浜。 天野家の本宅では、栄養士の平田紀子(ひらた のりこ)が穏やかな声で諭していた。 「悠真くん、芽依ちゃん。ママのお言いつけを忘れたのですか?好き嫌いはよくありませんよ。あなたたちは体が弱いのだから、元気に育つためには栄養をバランスよく摂る必要があります。甘いものも、食べ過ぎてはいけませんよ」 「ママ」という言葉を耳にして、悠真は小さく肩をすくめた。 一方、そばの芽依はまるで気にする様子もなく胸を張った。 「ママが電話してくる時間なんて、とっくに過ぎてるわ!バレっこないじゃない!それに、望美さんが言ってたもん。私たちは子供なんだから、楽しく過ごすべきだって!今、私がいちばん楽しいのは、このケーキを食べることよ!」 その言葉が終わるや否や、二階から望美の澄んだ笑い声が降ってきた。 「フフッ……」 望美は軽やかに階段を降り、ふたりのそばへ歩み寄ると、芽依の額をそっと指でつついた。 「芽依ちゃんたら、ほんとにいたずらっ子ね。いいわ、芽依ちゃんも悠真くんも、食べたいものを食べなさい」 「イェーイ!望美さん大好き!望美さんがずっと一緒に住んでくれたらいいのになあ!」 子供たちの無邪気な歓声に、望美は口元を綻ばせた。 対照的に、紀子はひそかに眉をひそめる。 言いかけた言葉は、望美の顔を見るなり喉奥へと飲み込まれた。 紬こそこの家の女主人だと思っていたが、望美はまるで当然のように天野家を出入りし、しかも子供たちは彼女にすっかり懐いている。 もし自分が望美に逆らえば、成哉の機嫌を損ねるのは目に見えていた。 悠真はひとり胸の内で揺れていた。 前にママの言いつけを守らなかったとき、自分はひどく病んだ。 望美は優しくしてくれるし、自分も望美が大好きだ。けれど、ママは言っていた──また同じことをしたらもっと重い病気になって、パパもママも心配する、と。 ――食いしん坊のせいで、パパとママを困らせてはいけない。 そう思うと、悠真は食べるときも常に細心の注意を払うようになっていた。 だがその一方で、芽依は冷たいものと温かいものを一緒に食べ、さらにクリームたっぷりのデザートを欲張って食べすぎたせいで、夜になるころにはひどい腹痛に襲われた。 小さなベッドの上で体を丸め、震えるほど痛みに顔を歪める。 白くもちもちした愛らしい顔も、下痢の苦しさでみるみる憔悴していった。 成哉は娘の異変を聞くや否や、急いで家へ戻ってきた。 芽依はしょんぼりと成哉の服の裾をつまみ、小さな声で訴えた。 「パパ、私がいい子にしてなかったから、ママが罰としてお腹を痛くしたの……?ママ、この前言ってたの。またケーキを欲張って食べたら、魔女になって私を罰するって…… わざとじゃないの。ママに戻ってきてほしいよ……魔法を解いてほしい……うわぁぁん……」 さらに、具合が悪いとき、いつもママが美味しいスープを作ってくれたことを思い出したのだろう。 芽依は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして泣き続けた。 そばの望美は唇を噛みしめ、申し訳なさそうに成哉へ言った。 「成哉、全部私のせいよ……芽依ちゃんをちゃんと見ていなくて、あんなにケーキを食べさせてしまったわ……」 すると芽依は慌てて頭を振り、望美をかばうように言った。 「パパ、望美さんのせいじゃないよ。ママが電話で注意するのを忘れちゃったんだもん!ママは全然、私のこと気にしてないんだ……」 その言葉に、悠真は不思議そうに瞬きをした。 前に病気になったとき、ママの言葉をちゃんと覚えておけばよかったと思ったのだ。 ママは望美にはかなわないことが多いかもしれない。でも、いつも自分たちを気にかけてくれている。 ただ、望美が自分に優しくしてくれたことも思い返し、悠真もそっと弁護した。 「パパ、前はママがいつも僕と芽依ちゃんに言い聞かせてくれてたんだ。芽依ちゃんは子供だから、覚えてられないのは仕方ないよ」 「分かった」 成哉は少し厳しい口調で言った。 「これからは栄養士さんの言うことをちゃんと聞くんだ。食いしん坊はダメだよ」 もちろん、成哉はこれが望美のせいだとは露ほども思っていなかった。 むしろ、紬への不満が心の奥で静かに膨らんでいく。 かつて紬は、二人の子供に口酸っぱく言い聞かせるほど細やかに世話をしていた。 もし紬が知らんぷりしていなければ、芽依がこんなふうに苦しむこともなかっただろう。 夫である自分に腹を立てたからといって、海原へ戻った途端に子供たちを顧みないとは、一体どういうつもりなのか。 第4話 紬は、娘が病気になっていたことをまるで知らなかった。 それでも日曜日になれば、二人の子どもにビデオ通話をかけようと思った。 紬はやはり母親であり、たとえそこに深い愛情がなくとも、果たすべき責任と義務はある。 電話をかけた時、芽依と悠真は、望美がイブニングドレスを試着するのに付き添っていた。 二日後には、崇が退院する。 本来なら、崇が退院した後は成哉が新浜に留まる必要はなく、海原に戻って事業の版図を広げ続けるはずだった。 しかし海原へ帰ることを思うと、芽依と悠真はどうにも名残惜しい。 二人とも、そんなに早く母親に会いたいとは思っていなかった。 ましてや、望美さんと離れたくなかった。 子どもたちがしょんぼりしているのを見て、望美は笑いながら二人の頭を撫でた。 「さて、二人とも、どうしてそんなに浮かない顔をしているのかしら……?」 一呼吸おいて、またわざとらしく言う。 「海原に帰るからじゃない?ママに会えるんだから、本当は喜ぶと思ったんだけどな」 その言葉に、芽依の目には涙が滲んだ。 小さな唇を尖らせ、思わず呟く。 「ママに会って何が嬉しいの?望美さんと離れたくないもん」 悠真もこくりと頷いた。 彼は少しだけ母親に会いたい気持ちもあったが、それ以上に望美と離れるのが辛かった。 「そっか……じゃあ、いいニュースを教えてあげる」 望美はわざと少し間を置き、口角を上げて告げた。 「私、海原で仕事があってね。しばらく海原にいることになるかもしれないの……だから今回は、私もあなたたちと一緒に海原に帰るわ!」 「本当?」 芽依はぱっと顔を輝かせ、歓声を上げた。 望美さんが一緒に帰ってくれるなら、ずっと会える――その考えが胸いっぱいに広がった。 ちょうどその時、紬から電話がかかってきた。 スマホのビデオ通話の着信音が続けざまに鳴り響き、芽依はわざと少し待ってから通話を切った。 紬は何度もかけ直してきたが、やがて芽依は痺れを切らし、紬をブロックリストに入れてしまった。 望美は笑いながら芽依の頭を指先でつついたが、叱ることはなかった。 「芽依ちゃん、どうしてママの電話に出ないの?」 「一昨日、わざと私に電話してくれなくて病気になっちゃったんだもん。ママ、意地悪だから、もう知らない!」 芽依は唇を尖らせて言い放った。 ――どうせ二日後には海原へ戻る。これからはずっとママに会える。もしママは自分が望美さんと一緒に住むと知ったら、きっと不機嫌になるだろう。 芽依は、紬に自分たちと望美の生活を邪魔されたくなかった。 望美は芽依の頬を軽くつねり、にこやかに言った。 「芽依ちゃんが楽しいなら、それでいいのよ」 悠真は、芽依の行動はよくないのでは……と一瞬思ったが、望美の表情をちらりと見て、その考えを押し込めた。 パパは言っていた。望美さんはとても優秀で、他の女性とは違う、と。 その望美が芽依のしたことを間違っていると思わないなら、大した問題ではないのだろう。 それに、もうすぐ帰って母親に会えるのだから。 一方の紬は、全然つながらない電話を見て、しばし呆然とした。 このスマホは、紬が二人の子供のために特別に用意したものだ。 芽依は、見知らぬ人に自分のスマホを触らせるような子ではない。 紬は、子どもたちが新浜に行ってから距離を感じていた。 それでも、芽依にブロックされるとは夢にも思わなかった。 やはり心配になり、紬は別荘で子どもたちの世話をしている恵子に電話をかけた。 「奥様、坊っちゃまとお嬢様は望美さんによくお世話されていますよ。今は望美さんのお着替えに付き添っておられます」 望美の名前を耳にした瞬間、紬の胸に鋭い痛みが走った。 命懸けで産んだ子どもたちが、結局は別の女性に懐いているその現実。 「二人が元気なら、それでいいの」 紬は、芽依にブロックされたことには触れなかった。 彼女は子どもたちの性格を知っている。 幼い頃から甘やかされて育ったせいで、この程度のことで意地を張るのは珍しいことではない。 以前の紬なら、根気強く電話をかけ続けたに違いない。 けれど、今は…… ふと、どうでもよくなった。 子どもたちが無事だと分かっただけで、胸の奥が静かに緩んでいく。 芽依と悠真が自分を母親として心に留め続けるかどうか、それはもはや、紬の力でどうにかできることではなかった。 二日後、崇の病状は回復した。 成哉はすぐに海原へ戻り、天野家のビジネスをさらに拡大する方針を固めた。 出発に先立ち、芽依と悠真は学校でクラスメイトに別れを告げた。 配られたプレゼントは望美が準備したものだったが、受け取った子どもたちはどこか不満げだった。 「こういうバービー人形とか車って、もう時代遅れだよ。やっぱり君のお母さんが作ってくれたクマのケーキの方がいいな。どうして今回は持ってきてくれなかったの?」 仲の良い友達の何気ない言葉が、二人の胸に鋭く刺さった。 芽依は唇をきゅっと結ぶ。 あのクマのケーキは紬が作ったものだ。 作り方はとても複雑で、紬は何度も手を火傷させながら仕上げてくれた。 しかし、望美には作れない。 ――ママがいてくれたらよかったのに。 悠真も、胸の奥にかすかな落胆を覚えた。 芽依が紬をブロックしてから、紬はまったく電話をかけてこなくなった。 もうずいぶん、ママの声を聞いていない。 ふと、ママに会いたいという気持ちが湧き上がる。 でも、もうすぐ会えるはずだ。 それにママが側にいることで、望美と過ごす時間が前より減ってしまうかもしれない。 一方その頃、成哉は子どもたちの心の揺れなど露ほども知らずにいた。 主人が海原へ戻ると聞いた慎之介が、気遣うように電話をかけてきた。 「成哉様、紬様はもう一週間、別荘にお戻りになっておりません。ご帰宅の件、お伝えいたしますか?」 成哉は眉根を寄せ、表情を冷たく引き締めた。 「その必要はない。帰ってこないのなら、新居を空けて俺と芽依、悠真、そして望美の四人で暮らす」 もともと成哉が新居に戻るのは、子どもたちに会うときだけだった。 紬が意地を張るのなら、彼女のために居場所を空けておく義理はない。 その頃、紬は元のアパートへ戻り、バルコニーでいくつか花を育て始めていた。 だが、紬はどうにも花の扱いが得意ではない。 それでも、結婚という束縛から解き放たれたせいか、心は以前よりずっと軽くなっていた。 隣に住む老人――神谷浩之(かみや ひろゆき)は、むしろ花や草が気の毒だと言わんばかりに、しょっちゅう紬に目を光らせた。 「お嬢ちゃん、花を育てるのが下手なら、やみくもに植えるんじゃない。この花なんて、あんたに水をやり過ぎて殺されるところだぞ」 浩之が丹念に手入れを終えると、隣人が気まずそうに紬に説明してくれた。 「紬さん、気にしないでね。神谷さん、最近ちょっと機嫌が悪いのよ。お孫さんが結婚したくないって反抗して、大喧嘩したんですって。それで家出して、ここに来たの」 紬はただ静かに微笑んだ。 天野家にいた頃はしきたりが厳しく、いつも振る舞いに気を遣わねばならなかった。 だからこそ、堅物で厳格な浩之の指導は、不思議と心地よかったし、花や草の手入れはずっと楽になった。 やがて二人の間には、年齢差を超えた柔らかな友情のようなものが芽生えていった。 夜。紬は帝大の先輩から誘いの連絡を受けた。 紬が人気イベント「和香百景」に足を運ぶと聞き、先輩の島崎美咲(しまざき みさき)は迷いなく同行を申し出た。 紬は大学でデザインを専攻していた。 その発想は鋭く、多くの作品が斬新だった。 学生時代、「Smile」というハンドルネームで美咲のスタジオに参加し、驚くほど優れた作品を次々生み出していたが、結婚を機に引退した。 美咲は自らの手でスタジオを育て、今や業界でも一目置かれる存在になっていた。 会場に入ると、彼女の周りには多くの人々が集まっていた。 キャリアを築いた女性の輝きは、ひときわ強い。 その場では、男性ですら添え物でしかないように見えた。 紬はその光景に、ふと目を伏せる。 この数年、夫と子供たちの世話を焼き続け、自分の夢はほとんど手放してしまった。 今の自分は、本当にあの頃のように輝けるのだろうか。 そんな思いを胸にのぞかせていると、美咲が紬へ歩み寄ってきた。 「今回のイベントね、新進気鋭のデザイナーが勢揃いしてるの。みんなを見てると、昔の紬を思い出すわ。あのとき、あなたをノヴァに引き留めておけばよかったって、今でも思うのよ」 ノヴァ――NOVA DESIGNは、美咲が学生時代に立ち上げたスタジオで、今の会社の前身だ。 紬は苦笑した。 「私がいなくても、ノヴァは十分素晴らしいものよ」 デザインの世界には新しい天才が次々と現れる。 ずっと光を浴び続けられる者などいない。 まして、紬は長い間、デザインに触れていなかった。 「私はそう思わない」 美咲はタバコに火をつけ、唇の端をふっと上げた。 「紬、ノヴァはあなたがいなくても動く。でも、デザイン界にあなたがいないことは、大きな損失よ。賢くて才能のある女性、特にあなたほどの人が、何かに足をとどまるべきではないと思うよ」 第5話 紬はその言葉にそっと顔を上げ、展示された作品へと視線を向けた。長いまつげがわずかに震える。 美咲は眉を軽く上げ、楽しげに言った。 「神谷商事はここ二年、宝飾品からアパレルまで、新しいスタイルのデザイン開発と提携に力を入れてるの。それって、まさにあなたの得意分野じゃない。紬、戻ってきなさいよ」 美咲の口にした神谷商事という名を、紬はもちろん知っていた。 近年急成長を遂げ、特に実業界での存在感は群を抜いている。 その御曹司・神谷雅彦(かみや まさひこ)は若くして辣腕を振るい、冷酷非情とさえ噂されるほどの先見の明で有名だった。 美咲が神谷商事と手を組み、新しいスタイルの道を切り拓こうとしていることに、紬は驚かなかった。 ただ…… 自分は果たして、もう一度デザインの世界へ戻れるのだろうか。 思考の淵に沈んでいた紬の耳に、不意に遠くから天野凛花(あまの りんか)の冷ややかで傲慢な声が届いた。 「紬さん?お母さんのお世話もしないで、こんなところで何してるの?」 凛花は成哉の妹であり、帝大が誇る才媛として知られていた。 紬が天野家に嫁いで以来、凛花は終始紬に冷たく当たってきた。 彼女は、男に頼って家庭に収まるだけで、実際には何の取り柄もない女――すなわち紬のような女を、心の底から嫌っていた。 紬もまさかここで凛花に出くわすとは思っていなかった。 彼女は多くを語らず、ただ「ちょっと寄っただけ」とだけ答えた。 「展示されてる作品は芸術的価値の高いものばかりよ。たとえ一番ありふれたデザインだとしても、あなたに理解できるような代物じゃないわ。お兄ちゃんと悠真くん、芽依ちゃんがもうすぐ帰ってくるんだから、そっちに集中したら?」 凛花の声音は冷え切っていた。 彼女にとって紬は、高学歴でデザインの才能があると聞いてはいたが、所詮は無名の人間にすぎない。 男に頼ることしかできない女に、何の価値があるのかと、常日頃から見下していた。 しかし紬は、その場で呆然と立ち尽くした。 成哉が、海原に帰ってくる? 指先がかすかに丸まり、胸の奥に苦いものが込み上げる。 離婚するつもりでいるのに、彼は子供たちを連れて帰ることさえ、自分には一言も知らせたくないのだろうか。 成哉にとって、自分はもう取るに足らない存在なのだ。 凛花は、紬と話す価値などないと判断していた。 立ち去ろうとしたとき、ふと母がずっと食べたがっていたシラウオの煮込みのことを思い出す。 「それから、時間がある時にシラウオの煮込みを作って持ってきて。どうせ暇でしょ。料理の腕だけは、まあまあなんだから」 気軽な調子で言いつける凛花。 いつもなら紬は当然のように引き受けただろう。 天野家に認められるため、どれほど面倒でも姑の望みには必ず応えてきた。 だが、今の紬はもう違った。 「ごめんなさい、私にも用事があるから。お料理は、シェフの方にお願いしてちょうだい」 凛花は眉をぴくりとひそめ、不快げに紬を見つめた。 ――紬が自分の要求を断るのは、これが初めてだった。 用事って何?紬にそんなものがあるはずがない。 凛花は、心の中でそう吐き捨てた。 その時、凛花の親友の一人が、紬と凛花が言葉を交わしているのに気づき、凛花のそばへ歩み寄ってきた。 「凛花さん、こちらの方は?」 凛花はわずかに眉をひそめ、興味もなさそうに答えた。 「たいして親しくない友人よ。気にしなくていいわ」 紬の胸に、ひと筋の皮肉がよぎる。 自分は凛花の義理の姉であるというのに。 それでも成哉も凛花も、一度として紬を家族として扱ったことはなかった。 天野家で過ごした年月、身を粉にして尽くし、自分を犠牲にしてきたというのに、その扱いはまるで家政婦以下だった。 凛花が去ったのを見届け、紬はゆっくりと美咲に向き直った。 「先輩、さっきの話……考えてみるわ。ただ、デザインから長く離れていたから、がっかりさせないか心配だわ」 美咲は胸をなでおろし、悪戯めいた表情で言った。 「何を言ってるのよ。紬は、かつて名を馳せた『Smile』じゃない」 その言葉に、紬の目にふっと笑みが浮かんだ。 長くキャリアを離れていた。もしかしたら――本当に、自分の人生を取り戻すべき時が来たのかもしれない。 その夜。 成哉は望美を伴い、子供たちを連れて海原市へと飛んで戻ってきた。 海原に着くと、まず子供たちを連れて実家へ向かった。 絵美は、堰を切ったように不満をこぼし始める。 「もう一週間よ。紬が一度も顔を見せないなんて……このところ、ろくに食べられもしないし眠れもしないで、肌の調子まで悪くなったわ」 絵美は、紬の手厚い世話にすっかり慣れ切っていた。 紬がいた頃、絵美の枕は彼女が安眠できるよう特別に調香した香で焚きしめられ、食事も毎日手の込んだものばかりだった。 だが今回、紬は戻って以来、一度も天野家へ姿を見せなかった。 成哉は、それを気にする様子もなく、ただ母を宥めるように言った。 「代わりになる人を何人か探せばいいでしょ。どうせ大差ないから」 大差ない? 絵美は眉をひそめ、露骨に不満を浮かべた。 ――差があるのよ、絶対に。 紬は人の世話をすることしか能がないくせに、この姑である私を放っておくなんて……どういうつもりなのか。 しかし、息子の言葉を無下にはできず、絵美は感情を飲み込んで静かに頷いた。 その後、一行は新居へ戻った。 慎之介の言った通り、紬の荷物はすべて消えていた。 二人の子供部屋でさえ、以前のような温もりある内装は影を潜め、どこか冷え冷えとした空気が漂っている。 それでも、成哉は気にも留めなかった。 紬が拗ねたいなら勝手にさせればいい。 そんなことで頭を下げて妻をなだめるつもりなど、毛ほどもなかった。 一方で、悠真は少し落ち込んでいた。 もう長い間、ママに会っていない。ママは、怒っているのかな……? 芽依が紬をブロックして以来、紬は別の番号で電話をしてくることもなかった。 そんなことを考えていると、芽依が望美の手を引き、興奮した声で成哉にねだった。 「パパ、望美さんをママの部屋に住まわせてあげて。望美さんは体が弱いから、日当たりのいい部屋が必要なの。どうせママはもう家を出たんだし」 子供部屋を除けば、日当たりが良い部屋は、以前紬が使っていた部屋しか残っていなかった。 第6話 成哉の視線が部屋をゆっくりと走り、瞳に落ちる陰りは、時間とともに深さを増していった。 しばし沈黙の後、彼はすぐには頷かなかった。 その間に、望美が芽依の小さな手をそっと取って、気遣うように柔らかく言った。 「ありがとう、芽依ちゃん。でも大丈夫よ。私はどこでも平気だから。もし紬さんが嫌なら、私のほうが出ていくわ」 そう告げた瞬間、ガラス玉のような彼女の淡い瞳に、ちょうどよい塩梅の寂しさが掠めた。 「だめ!」 「だめだよ!」 焦りを帯びた二つの子供の声が、同時に空気を震わせた。 悠真の幼い顔が悩ましげにゆがむ。 ママに会いたい気持ちはあるけれど、ママがいつ帰ってくるのかは分からない。 それなら、せっかく帰ってきた望美さんを、一時的にママの部屋に泊まらせるくらい……きっと大丈夫なはずだ。 「望美さんは絶対に残らなきゃ!ママはケチなんだから、出ていくべきなのはママのほうよ!」 ママのことになると、芽依の小さな頬はふくれっ面になる。 ママはもうここにいないくせに、どうしてまだみんなに迷惑ばかりかけるの? 芽依は成哉の袖を強く引き、懇願するように見上げた。 「パパ、何か言ってよ!あの部屋はもともと望美さんのだったんだから、パパは望美さんのことが一番好きなんでしょ?」 望美は耳の先をほのかに赤く染め、恥ずかしそうに芽依の口をそっとふさぎ、柔らかく声をかけた。 「芽依ちゃん、もういいの……どうしてもだめなら、私、芽依ちゃんと一緒の部屋でいいから」 「いや、それはできない」 成哉はわずかに眉を寄せ、迷いのない口調で言った。 「望美に芽依との相部屋を強いるなんてありえない。君を子供たちの世話役として呼んだのではないから」 望美は白くほっそりとした首を上げ、赤みを帯びた澄んだ瞳で成哉を見つめた。 「大丈夫……私は辛くないわ」 その姿に、成哉はひと瞬きした。かつてのあの少女の面影が、不意に目の前の彼女に重なったのだ。 気づけば、成哉の手は望美の頭に伸びていた。 「部屋ひとつのことだ。泊まればいい」 紬が戻ってきたら、自分と同じ部屋に住まわせればいい。 フッ、それくらい紬にとっても都合がいいだろう。 そうして、成哉が最終決定を下した。 「イェーイ!」 芽依は二人の手を左右に取り、歓声を上げてぴょんと跳ねた。 ママなんて、永遠に帰ってこなければいいのに。 そう思った次の瞬間、ほんの少しだけ胸の奥が沈んだ。 あの口うるさいママのことだ、どうせそう長くはかからずに邪魔をしに帰ってくるに違いない。 前にママをブロックしたから、今ごろきっと必死に電話をかけてきているはず。 芽依はスマホを取り出し、誇らしげにブラックリストを開いた。 着信拒否の列までスワイプすると、表示されたのは、紬が最初にかけてきた数件だけで、新しい拒否履歴は0件。 芽依の瞳が一瞬固まった。 心の奥に、正体の知れない不安が細い影となって差し込む。 ママから、一度も電話が来ていない? ぼんやりと画面を見つめる芽依に気づいた望美は、わざと彼女の小さな手を包み込んだ。 「芽依ちゃん、行きましょ。まずは夕食ね。夜は一緒にパズルをしよう?」 「望美さんが一番大好き!」 芽依は不安の影を一気に振り払い、スマホの画面を消した。 ――ママが電話してこないなら、それでいい。全然、気にしないんだから。 永遠に私を煩わせなければいい。望美さんがいれば、それで十分なんだから。 …… 夜八時。海原の空に、しとしとと細かな雨が降り始めた。 「和香百景」が終盤に差し掛かったころ、美咲は急用で先に帰った。 紬は見送りを済ませた後も、一人静かに展示を回り続けた。 その間に、業界の若手有望株たちといくつも連絡先を交換し、得られた収穫は予想以上だった。 長く離れていたというのに、再びこの世界に触れると、自分の血がまだこんなにも熱く沸き立つとは思わなかった。 さまざまな場所から集まった人々との語らいは、長年乾いていた心に、まるで新しい息吹を吹き込んでくれるようだった。 まだ何もかも、手遅れじゃない。 イベントが終わると、紬は入口で車を待っていた。 そのとき、一台の黒いSUVが静かに道端に滑り込み、窓がするりと下がった。 「紬さん、雨が強くなってきましたね。お送りしましょうか?」 顔を上げると、紬の視線は親切なまなざしと交わった。 今日、連絡先を交換したばかりの男性――小林慎吾(こばやし しんご)。 木彫りの無形文化財の継承者で、その技は評判に違わず卓越していた。 紬が微笑み、丁寧に断ろうと口を開いた、その瞬間。辛辣で嘲るような女の声が、鋭く雨の夜を裂いた。 「フン、お母さんの面倒を家でまともに見ないと思えば……心が浮ついてたのね。お兄ちゃんに隠れて男遊びなんて、いい度胸じゃない」 紬は眉をひそめ、後ろに現れた人物へと振り向いた。「あなたが思っているようなことじゃない」 凛花は鼻で笑い、侮るような視線を紬から車内の男性へと移した。「これがあなたの言う『用事』?お兄ちゃんから離れた途端、センスまで落ちたのね」 かつて紬は、成哉に薬を盛り、無理やり肉体関係を結ばせた――そう噂されてきた。 それでも成哉は、紬の体面を守るため方々で彼女を庇い、できちゃった結婚へと踏み切り、その結果望美を言葉にできない苦境へ追いやった。 まさか、ほんの数年で、紬が機会を見つけては外で男とイチャつくようになるなんて。 こんな売女じみた女、見るだけで吐き気がする。 凛花はあからさまな嫌悪を浮かべて言い放った。 「紬さん、自分の立場を忘れないで。芽依ちゃんと悠真くんが、あなたが外でこんなことしてると知ったら、母親だなんて認めるわけないでしょう?他の男と遊びたいなら、さっさとお兄ちゃんと離婚することをお勧めするわ!」 紬のまつ毛が震え、胸の奥に苦いものがじわりと広がった。 天野家に嫁いだ数年間、紬は「ふしだら女」と烙印を押され、無理やり全ての交友関係を断たれてきた。 だが、あの夜――紬もまた、不意に薬を盛られたのだ。 警察に通報しようとした時、成哉は紬を抱き締めた。ほとんど焼けつくような体温だった。 そして「責任は取る」の一言で、あの夜の過ちと、結婚後六年間に及ぶ、果てしない――流刑のような冷遇が始まった。 成哉の言う責任とは、紬と結婚し、彼女を「天野成哉の妻」という枷に閉じ込めることだった。 それなのに、この数年間、紬は愚かにもそれを甘んじて受け入れていた。 紬は胸の内で自嘲しながら、力なく口を開いた。「あなたの望み通り、もう離婚は切り出したわ」 凛花は一瞬驚いたが、すぐさま呆れた顔に戻った。「そうだといいけど?」 紬のように、誰かに絡みついて生きる蔦のような女が、お兄ちゃんに離婚を切り出す? 笑わせないで。 本当にそんな日が来たら、海原のゴールデンロードで一晩中ストリップダンスを踊ってやってもいいくらいだ。 凛花は振り返ることなく車に乗り込んだ。 紬は顔をそむけ、無理に慎吾へ笑みを作った。「お見苦しいところをお見せしてしまって、本当にすみません」 「きっと何か誤解があるのでしょう。紬さんがご自分を責める必要はありません」 慎吾は静かに頷き、紳士の礼儀で彼女を慰めた。 彼はそれ以上詮索せず、紬の車が到着したのを確かめて、静かに去っていった。 風に吹かれ、雨に濡れたせいか、車に乗り込んだ途端、紬は鋭い頭痛に襲われた。 そのうえ、少し前のインフルエンザもまだ治りきっておらず、全身が冷えきり、顔色は血の気を失っていた。 「お嬢さん、大丈夫ですか。病院にお送りしますか?」 運転手は心配してアクセルを普段より強く踏み込み、車は速度を上げた。 紬はスマホを握り締め、呆然と画面を見つめていた。 芽依が、いつの間にか紬をブロックリストから外し、珍しく一枚の写真をSNSに投稿していたのだ。 写真には、望美が悠真と芽依を腕に抱き、満面の笑みを浮かべていた。その背後に立つ成哉の眼差しは、優しく望美へと向けられている。 そして決定的だったのは、四人が身に着けているクマの親子パジャマ。 それは、紬がデザインの世界から離れたあと、家族のためだけに唯一手ずから仕上げたパジャマだった。 縫い目の一つひとつまで百回以上も修正し、心を込めたもの。 だがあの日、紬が期待に満ちて子どもたちに見せた瞬間、二人は満面の拒絶を示した。 芽依は即座に拒否した。「こんなの幼稚すぎるよ。着たくない」 いつもは聞き分けの良い悠真でさえ泣き叫んだ。「こんなの全然かわいくない!僕も着たくない!うわーん!」 紬が必死になだめても、芽依はその場で大泣き。 成哉が帰宅すると、芽依は不満げに告げ口し、成哉はハンガーのパジャマを冷たい目で一瞥して言い放った。 「紬、お前は何歳だ?」 そして今。あの時、みんなに嫌われたそのパジャマが、夫と子どもたちの身体を包み、別の女のもとで笑い合っていた。 第7話 紬は全身から一気に血の気が引いていった。 冷えきった指先で震えながら娘へ電話をかける。 ただ一つ、何が起きているのか、それだけを確かめたかった。 電話先では、芽依がぬいぐるみを抱え、望美に寄り添って写真を撮っていた。 着信画面に表示された名前を見ると、芽依は小さく眉をつり上げ、瞳に不機嫌な影を落とす。 着信音はしつこいほど鳴り続けたが、望美が柔らかい声で言った。 「芽依ちゃん、ママから電話よ。出なくていいの」 芽依はぷいと首を振る。「ママって超うざいんだもん。出たらまた根掘り葉掘り聞かれるし、絶対イヤ」 そう言って、鳴り止まない電話を容赦なく切った。 そして振り返りざま、悠真に文句を言う。 「お兄ちゃん、だからママを着信拒否のままにしとけばよかったのに。ほら見て、ちょっと外しただけでガンガンかけてくるじゃん。お兄ちゃんは何ビビってんの?」 「ビビってなんかないよ!ただ、ママが言い忘れたことでもあるかと思っただけだし。それに、拒否外したのは芽依ちゃんだよ」 強がった声とは裏腹に、悠真の表情には妙な苛立ちが浮かんでいる。 ――まったく、ママは少し時間を置いてからかけてくればいいのに。これじゃ僕の立つ瀬がないじゃないか。 芽依は唇を尖らせ、突き放すように言った。 「ママが言い忘れるわけないじゃん。一回話し出したら止まらないんだから、うるさいって」 新浜にいた頃、紬は毎日決まった時間に二度電話をしてきた。 朝食時に一度、夕食時に一度。細かな衣食住に至るまで、まるで息をするようにあれこれ口を出してきたのだ。 最初はママと離れたばかりで心細く、二人も決まった時間に電話を待っていた。 だが、成長するにつれて自分たちの世界ができ、望美がそばにいてくれるようになると、次第に電話が重荷になっていく。 一日二回が一回になり、通話時間は十分にも満たなくなった。 そしてここ二日間、芽依はついに直接着信拒否にしていた。 紬の手の中で、スマホの画面はゆっくりと暗転していく。それと同じように、胸の奥に灯っていた微かな光も、音もなく消えていった。 自分は、いったい何を期待していたのだろう。 突如、紬は激しく咳き込み、鮮血を点々と吐き出した。 運転手は顔を青ざめ、アクセルを踏み込み、最寄りの病院へ急行する。 一方その頃、新居では―― 望美との撮影を終えた芽依を見て、悠真が服の裾をつまみ、照れくさそうに言った。 「芽依ちゃん、僕も一枚撮ってよ」 本当は、ママがこの服を作ってくれた時、彼はひそかに気に入っていた。 ただ男の子が着るにしては少し幼い熊柄だったので、意地を張って「かわいくない」と言っただけだった。 まさか望美のおかげで、背が伸びて着られなくなる前に袖を通すことになるとは思わなかった。 しかも望美は優しく言ってくれたのだ。 「悠真くん、たまにはヒーロー活動をお休みするのもいいのよ。だって悠真くん、かわいいんだもの」 悠真は顔を真っ赤にした。 「望美さんが見たいなら……僕、毎日でも着るよ」 新しいパジャマは、見た目が良いだけでなく、肌触りも柔らかく、まるで綿雲に包まれているようだった。 実のところ、小言さえなければ、ママの服作りの腕はかなりいい。 仕方ないし、一枚くらい写真撮って……ママに送ってあげてもいいかな。 「ちょっと!お兄ちゃん、もっと早く言いなよ。望美さん、さっき牛乳取りに行っちゃったじゃん」 芽依が不満げに睨む。 悠真は慌てて言い返そうと口を開いた。 別に望美さんとツーショットが撮りたいわけじゃない。もうたくさん撮ったんだから。 ただ、ママに見せたくて…… 「ちびっ子たち、何のお話してるの?」 背後から、望美の穏やかな声がふわりと落ちてきた。 振り返ろうとした拍子、悠真は妙な後ろめたさに突き動かされ、勢いよく体をひねった。その動きのまま望美にぶつかってしまう。 「きゃっ――!」 望美の手から、温かい牛乳がこぼれ落ち、悠真のパジャマに飛び散った。 もともと可愛らしかった熊の柄に、瞬く間に大きなシミが広がる。 芽依も思わず声を上げた。 「お兄ちゃん、なんでそんなに不注意なの!望美さんにぶつかるなんて……早く謝ってよ!」 悠真は濡れてしまったパジャマを呆然と見下ろし、悔しさを滲ませながらも深く頭を下げた。 「ごめんなさい、望美さん」 望美は、悠真の表情に、謝罪よりも強い悲しみが宿っていることに気づき、その瞳にわずかな鋭さを走らせた。 やはり、この子が気にしているのは服のほうなのだ。 望美はすぐに悠真の頭をそっと撫で、柔らかな声で言った。「悠真くん、謝るのは私のほうよ。急に声をかけて驚かせちゃったわよね」 悠真は慌てて首を横に振った。「違うよ、僕が不注意だったんだ」 望美は上品に目を細め、わざと自分の過失にしてみせた。「私が入るときにノックを忘れたのが悪いの。ごめんね、悠真くん。お詫びに、今度最新の限定版ウルマンパジャマを買ってあげる。それでどうかな?」 悠真の瞳が一瞬で輝いた。「本当に?!」 前のクラスでは、男の子のほとんどがウルマンの服を持っていた。 けれどママはいつも「あそこのウルマンの服は染料の細菌が基準値を超えてる」とか、何かと理由をつけて買ってくれず、着せてもくれなかった。 今思えば、全部、ただ買いたくなかっただけなんだ。 見てよ、望美さんは大人なのに、ちゃんと買ってくれるじゃないか! 望美はくすっと笑い、悠真の鼻先を軽くつまんだ。 「もちろんよ。私があなたたちに嘘をついたこと、一度でもあった?いい子だから、早く汚れた服を脱いでゴミ箱に捨ててきなさい。風邪ひいちゃうわ」 悠真は嬉しさを抑えきれず、勢いよく走り出して着替えに向かった。 汚れたパジャマを手に一瞬だけためらったものの、望美の言葉を思い出し、そのままゴミ箱に放り込んだ。 ――こんなかわいくない服、捨てたって全然惜しくなんかない! 書斎では、成哉が修理の終わった古いスマホを受け取っていた。 その中には、コピーしそびれていた会社の機密資料が残っており、健一に頼んで復旧させたばかりだった。 SIMカードを差し替えると、いくつかのメッセージが消えていた。 紬とのトーク画面は、新浜にいたあの日で時が止まったままだ。 紬:【今日新浜に着くわ、十時に着陸よ】 その日は、望美が高級ブランド「Lucas」のアンバサダー契約を結んだ日で、成哉の会社もまた、そのブランドと十年がかりの重要な提携交渉の最中だった。 晩餐会で望美と顔を合わせる必要があり、成哉は紬のメッセージを確認できていなかったのだ。 成哉は唇を引き結び、ネクタイを緩めた。 ――たったそれだけのことで、紬は自分に怒りをぶつけているのか? 画面を更新すると、不在着信が三件。 すべて一時間前、紬からだ。 成哉は苛立ちを押し殺しながら折り返しの電話をかけたが、ちょうど繋がった瞬間、ドアのほうから二つの悲鳴が響いた。 …… 同じ頃、海原市立病院。 「もしもし?あの、天野紬さんのご主人でしょうか?こちら海原市立病院です。緊急連絡先として登録されていまして……奥様の容態が緊急を要する状態で、その……」 看護師は続けたが、電話の向こうからは何の反応もなかった。 不思議に思って手元を見ると、スマホの電源が切れ、画面が真っ黒になっていた。 …… 「パパ!大変!望美さんが――!」 「望美さん、死んじゃう!パパ、早く来て!」 悠真と芽依が泣き叫びながら書斎に飛び込んできた。 「どうした?」 成哉は顔色を変え、二人を押しのけるようにして寝室へ向かった。 ベッドの上では、望美が全身真っ赤に腫れ上がり、露わになった腕や首には広範囲に発疹が浮かんでいた。 呼吸も苦しげで、涙が滲んでいる。 「天野……さん……わたし……死ぬの……?」 悠真は震える声で叫んだ。「望美さん、急に痒いって言い出して、パジャマが触れてるところ全部、こんなふうに……!」 この服はママが作ったものだ。まさか、ママが望美さんを……? いや、そんなはずない。ママは望美さんが自分のパジャマを着るなんて知るわけが―― 悠真が必死にその考えを振り払おうとしたとき、芽依が先に叫んだ。 「絶対ママの仕業よ!ママが望美さんをいじめようとしたんだわ!」 成哉の表情が、みるみる陰りを帯びていく。 少し前、望美は自分のパジャマを新浜に置き忘れ、仕方なく紬が置いていったパジャマを借りた。 それを見た子どもたちが「着たい」と騒ぎ、流されるように成哉まで巻き込まれた。 たかが服一着。着るくらい、どうということもないと思っていた。 まさか、こんな事態に転がるとは。 成哉は暗い目つきで紬に電話をかけた。 しかし聞こえてきたのは「電源が入っていません」という無機質なアナウンスだけ。 その瞬間、整った横顔に怒気が鋭く走った。 わざと電源を切っているのか? 紬……俺は、お前を甘やかしすぎたようだな。 そのとき、望美が激しく呼吸困難を起こした。 芽依も悠真も、泣きながら部屋の中を右往左往するしかない。 成哉は大股でベッドに近づき、望美を抱き上げた。 「……紬の過ちだ。必ず償わせる」 第8話 海原の雨は一晩中降り続き、手術室の灯りは点いては消え、また点いた。 夜が明ける頃、紬は重たいまぶたをようやく持ち上げたが、全身を焼くような痛みはまだ収まっていなかった。 「天野さん、ウイルス感染ですね。幸い、運ばれてくるのが早かったので何とか助かりましたが、もう少し遅れて肺炎を起こしていたら命の危険がありました。 昨日、ご主人に連絡を試みたんですが、何度かけても繋がらなくて……最後は携帯の充電が切れちゃったんです。 早めにご連絡してあげてくださいね。ご家族、きっと心配してますよ」 薬を替えに来た若い看護師が、耳元で小言をこぼしながら、充電の終わったスマホを紬に手渡した。 紬はその言葉にも微動だにしなかったが、胸の奥には苦いものが溜まっていく。 口元を無理に引き上げて微笑む。「ええ、ありがとう」 あの四人家族は、今も仲睦まじく暮らしている。紬の電話に出る暇など、あるはずがない。 紬はスマホの電源を入れた。 画面が明るくなり、成哉からの不在着信が瞬時に目に飛び込んでくる。 紬は一瞬固まった。 その刹那、芽依のために設定していた専用の着信音が病室に響いた。 芽依に何かあったのでは――そう思うと胸がざわつき、紬は慌てて電話を取った。「もしもし、芽依ちゃん?どうしたの……」 「ママ」 その冷たい一語が、紬の声を容赦なく遮った。 「ママのせいで、望美さんが死にかけたってわかってるの!?」 紬は呆然とした。「……芽依ちゃん、何を言ってるの?」 芽依の声は怒りに震え、さらに鋭さを増した。 「お医者さんが言ってた!望美さんはママの服を着たせいで、ヨモギのアレルギーが出たんだって!パパが徹夜で看病して、やっと助かったんだよ! ママがパジャマにヨモギを焚きしめたりしなければ、望美さんは危険な目に遭わなかった!この人殺し!どうして病院に運ばれたのがママじゃないの!?」 その言葉は、紬の胸の奥を錆びた刃物でゆっくり切り裂くようだった。 ヨモギの香りがする服…… 芽依も悠真も体が弱かった幼い頃、漢方で体を整えていた。ヨモギの香りだけは、あの子たちが唯一受けつける薬草だった。 だから紬は、何年も自分の服にヨモギを焚きしめ続けてきた。 薬も度を過ぎれば毒となる。紬も初めてその服を着た時、体にかゆみを伴う赤い発疹が出たことがあった。 それでも子どもたちの健康のためだと耐え続けた。 やがて体は慣れ、常に淡くヨモギの香りを纏うようになった。 その匂いを、成哉が「薬漬け」だと軽蔑したこともあった。 「芽依ちゃん、落ち着いて聞いて」 紬は声の温度を落とし、鋭い静けさで言った。 「断りもなく私のパジャマを持ち出して着たのは望美さんよ。アレルギーが出たからって、どうして私のせいになるの?」 芽依は、母にこんな調子で言われたのは初めてだった。 一瞬息を呑んだが、すぐに反発が燃え上がる。 「たかが服一着で、なんでママに許可が要るの?ママはもう引っ越したんでしょ。望美さんが着てもいいって、パパが言ったんだよ。 それに昨日、望美さんが大変だったのに、ママはわざとパパの電話に出なかったじゃない!ひどいよ。もう二度と話しかけない!」 芽依は怒気をぶつけるように電話が切れた。次の瞬間、紬の番号は再びブラックリストに入れられた。 今度こそ一年間、ママを無視してやる! 芽依が一番年下だから、紬はいつも芽依のことを一番気にかけてくれる。 でも今は、もうママと話したくない。今度こそママに自分の過ちをしっかり反省させなければ! 紬は手足の血が引いていくのを感じ、手のひらが細かく震えた。 娘の口から放たれた言葉だとは、どうしても信じられない。 視界がかすみ、心臓の麻痺していた疼きが再び反応を示したその時―― 小さな白い手が、ふわりとティッシュを差し出してきた。 「きれいなお姉ちゃん、おめめ、あめふってるよ。ふいて?」 顔を上げると、四歳ほどの女の子が患者服のまま立っていた。透き通るように白い肌、少し乱れた黒髪。 女の子は、ぶどうのように大きな瞳で心配げに紬を見つめながら、ふわふわした手でティッシュをそっと目元へ運ぶ。 隣のベッドの子だ。 今朝、紬が目を覚ましたとき、たまたまこの子の点滴が切れかけ、血液が逆流しそうになっているのを見つけた。 第9話 紬は看護師を呼んで点滴を換えてもらったが、その子は意識が朦朧とする中で人違いし、紬を掴んで「ママ」と呼んだ。 「ありがとう、唯ちゃん」 紬は少女が好意で差し出したティッシュを受け取り、ここ数日で初めて心からの笑顔を見せた。 神谷唯(かみや ゆい)は、ぱっと小さな手で口元を覆った。 「わあ、きれいなお姉ちゃんが笑ったら、まるで女神様みたい。絶対、たくさん笑ったほうがいいよ」 紬は子どもの純粋な称賛に、さらにやわらかく微笑んだ。 「残念だけど……パパにはもうママがいるんだ」 唯は小さく頭を揺らし、ため息をついた。 ふと何かを思いついたように、両目をきらきらさせる。 「じゃあ、きれいなお姉ちゃん、私の叔父さんと結婚してよ!叔父さん、まだ奥さんいないの」 紬は思わず目尻を下げ、小さな櫛で唯の髪を梳いてやった。 「唯ちゃん、お姉ちゃんはもう結婚してるんだよ」 唯はショックを受けたように顔を曇らせた。 「え?きれいなお姉ちゃん、結婚してるの?そっか……こんなにきれいなんだもん、旦那さんがいて当然だよね。でも、なんでお見舞いに来てくれないの?ママが病気になった時は、パパ、一晩中寝ないでそばにいたよ」 今回、唯が急に帰国して環境が合わず体調を崩して入院した時、両親はすぐに戻れず、叔父に世話を任せていた。 ところが唯の父親は当てにならず、叔父が出張中であることすら把握していなかったらしい。 昨夜は唯の祖父が食事を届け、付き添いのヘルパーを手配してくれたものの、すぐに家の植物の世話をしに帰ってしまった。 紬の笑顔がゆっくりと薄れていく。 頭の奥で、先ほどの娘の言葉が蘇った。 昨夜、成哉は一晩中望美に付き添っていたはずだ。 唯一の着信も、おそらく責め立てるためのものだったのだろう。 唯はぱちぱちと大きな瞳を瞬かせ、紬に髪を撫でられながら大人しくしていた。 ――きれいなお姉ちゃん、また悲しくなっちゃったみたい。旦那さんのせいかな? …… VIP病室では、芽依と悠真が朝早くから望美の見舞いに来ていた。 昨夜は遅すぎたため、成哉は子どもたちを連れてこられなかったのだ。 二人とも望美のことが心配で、一晩中ビデオ通話をかけ続けていたらしい。 「ママってば本当にひどいよ。電話したのに自分の間違いを認めないんだもん!許可もなくママの服を着た望美さんのせいだ、なんて言うし」 芽依はベッドの端に寄りかかり、恐る恐る望美の服の裾を引っ張りながら憤っていた。 望美はベランダで電話を切った成哉を横目で見て、口元をわずかに歪めた。 「芽依ちゃん、凛花さんが言ってたわ。昨夜、ママが外で知らないおじさんと一緒にいるのを見たって。ママも用事があって、わざとあんなこと言ったわけじゃないと思うの」 「用事?」 成哉の声は、骨まで凍りつくほど冷たかった。全身から放たれる寒気が、周囲の空気をも震わせる。 その一言を、彼は歯ぎしりしながら吐き捨てた。 紬が電話に出なかったのは。他の男といたからか。 そうか、それは随分と結構なことだ。 望美の顔に狼狽が走る。「成哉、凛花さんもたまたま見かけただけだし……何か誤解があるのかもしれないわ……」 望美の声は次第にしぼんでいった。 成哉は曇った表情のまま病室を出ると、怒りを押し殺しながら再び紬に電話をかけた。 数回のコールののち、ようやく電話がつながる。 「今どこにいる?」 「病院」 成哉は眉をひそめ、冷笑を漏らした。 芽依から聞いたのだろう。 「今更?用事は済んだのか?」 紬には何のことかわからない。「どういう意味?」 成哉の声はさらに冷えた。「もう病院に着いているなら、とぼけるのはやめろ。506号室だ。すぐに来い」 言うが早いか、彼は冷酷に電話を切った。 紬は、このまま放置すれば、状況がさらに悪化することを理解していた。 彼女は深く息を吸い、パジャマの襟元をそっと整える。 成哉は病室の外で苛立ちを隠さず待っていた。 紬を急かそうと電話をかけたその時、向かいの一般病室のドアが「カチャ」と音を立てて開いた。 そこに立っていたのは、華奢な人影。血の気のない顔色をした紬は、片手で点滴ボトルを苦しげに支えている。 成哉の黒い瞳がわずかに揺れ、その表情が一瞬にして読めないほど暗く沈んだ。 「なぜ……その部屋にいる?」