協議離婚したら、忘れていた夢が叶い始めた

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協議離婚したら、忘れていた夢が叶い始めた

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全身血まみれで救急処置室に運ばれた妻。その時、夫と娘は――夫の憧れの人と遊園地で笑い合っていた。 この瞬間、吉川杏奈(よしかわ あんな...

Chương (1)

第1章

全身血まみれで救急処置室に運ばれた妻。その時、夫と娘は――夫の憧れの人と遊園地で笑い合っていた。 この瞬間、吉川杏奈(よしかわ あんな)はついに離婚を決意する。 周囲は彼女を「地位ある夫・吉川蒼介(よしかわ そうすけ)にしがみつく無能な妻」と嘲笑った。 けれど、誰も知らない。 ジュエリー業界で「天才」と崇められるデザイナーが彼女であり、ウォール街を震撼させた伝説のトレーダー「L」の正体もまた、彼女であることを。 そして何より――蒼介が憧れの人、藤本紗里(ふじもと さり)を救うために必死に探し求めていた「特効薬」その供給者リストには、吉川家がゴミ屑のように捨てた書類に記された、杏奈本人だったことを。 離婚届を突きつけられてもなお、蒼介は「気を引くための駆け引きだ」と冷笑し、娘の吉川小春(よしかわ こはる)は「自業自得よ」と母の杏奈を蔑んだ。二人は高を括っていたのだ。彼女がいずれ泣いて戻ってくるのを。 だが、運命は逆転する。 彼女が何気なく描いた指輪のスケッチはオークションで高額落札され、国連医療機関のヘリが轟音と共に実家の庭に降り立つ。彼らが迎えに来たのは、極秘手術の執刀医としての杏奈だった。 一方、蒼介が大切に育てた娘は、非情な診断結果を握りしめて震えることになる。 「遺伝子バンクで唯一適合した骨髄ドナー……それがママだったなんて……」 暴風雨の夜。 蒼介は、冷たい床に膝をつき、絶望に打ちひしがれていた。 そんな彼を見下ろすように、杏奈はレッドカーペットを踏みしめる。サファイアのヴェールの下、紅い唇が残酷に弧を描いた。 「吉川社長。あなたの大事な人を救う手術費――代償として、吉川グループの全株式51%、いただくわ」 第1話 濱海市中央病院の診察室―― 吉川杏奈(よしかわ あんな)は血まみれの姿で、看護師が手の甲に点滴の針を刺す様子を、どこか他人事のように眺めていた。痛みはもう、麻痺して感じない。 「すみません!通ります!」 濃密な血の匂いと、鼻をつくガソリンの臭いが混じり合う。ストレッチャーが目の前を通り過ぎていった。横たわる人のありえない方向に曲がった脚にはフロントガラスの破片が突き刺さり、衣服は赤黒く染まっている。 医師たちの声がざわめきのように遠く近く響く。次々と運び込まれる患者、絶え間ない慟哭…… ふと指を曲げると、掌の皺の間に白い粉末が残っていた。エアバッグが開いた時の名残だ。 「ご家族の方は?どなたか、ご家族の方!」 まるでその場にいる全員が、杏奈の答えを待っているかのように、ふいに周囲が静まり返った。 けれど、思い通りにいかないのが人生というものだ。 「吉川様、他の方に比べれば軽傷ですが、玉突き事故ですので。ご家族に連絡して、念のため精密検査を受けられた方が……」 杏奈は看護師の気遣わしげな言葉に頷き、携帯を取り出す。通話ボタンを押した。 しかし、聞こえてきた声に心は冷たく沈んでいく。 「杏奈様。社長は会議中で、今はお電話に出られません。ご用件を承りましょうか?」 吉川蒼介(よしかわ そうすけ)の秘書だった。 結婚は公表できない、秘密にしなければと、蒼介は確かに言っていた。 だから結婚して七年が経っても、秘書は彼女を「奥様」ではなく、「杏奈様」としか呼ばない。 口を開こうとした瞬間、受話器の向こうから、場違いなほど明るい女性の声が飛び込んできた。 「ねえ小林さん、蒼介は準備できた?そろそろ出ないと。小春ちゃん、下で待ちくたびれてるわよ」 「はい、藤本様。すぐ社長にお伝えします」 受話器を手で覆ったのだろうが、その声は残酷なほどはっきりと聞こえた。 「藤本様」……藤本紗里(ふじもと さり)のことだ。 蒼介の憧れの人。 特別秘書の小林洸平(こばやし こうへい)は、二人への態度が雲泥の差だった。 一方には即座に取り次ぎ、もう一方には会議中で時間がないと告げる。 杏奈は自嘲気味に唇を歪めた。 そうか。蒼介の周りの人間は、とっくに彼の嘘のつき方を心得ているのだ。 憧れの人は彼のすぐ傍にいて、妻である「杏奈様」は愚かにも、まだ彼が来てくれると期待していたなんて。 聞き慣れた低い声が響く。「誰からだ?」 「杏奈様です」 二秒の沈黙。そして、冷たい声が聞こえた。 「用件は?」 「……何でもないわ」 初めて、自分から電話を切った。 運び込まれては運び出される重傷者たちを虚ろに眺めながら、冷たい悲しみが心を満たしていく。 もし今、救急処置が必要なのが自分だったら。きっと死ぬまで、誰にも気づかれないのだろう。 アレルギー体質の杏奈は、病気になることさえ怖くなるほどに、昔から注射一本打つのにも神経を尖らせていた。 ここの看護師は親切だった。付き添いがいないのを見て、忙しい中でも時々様子を見に来てくれる。アレルギー反応が出ていないか確認するために。 かすかに聞こえる看護師たちの囁き。「誰も付き添いがいないなんて……」 そう。赤の他人だって心配してくれるのに、夫である蒼介は冷淡なだけだ。 ふと、暗い衝動が湧き上がった。いっそ、もっとひどい怪我であればよかった。死にかけてもなお、蒼介の視線ひとつ向ける価値もないのかどうかを、そうして確かめたかった。 携帯を取り出し、ラインを開く。蒼介との最後のやり取りは三年前、入院した時の音声メッセージだ。 既読がついたまま返信のない画面を見つめる。胸が苦しい。 三年前に答えは出ていたのに、どうして諦められないのだろう。 あの時――空から降ってきたガラス板。娘の吉川小春(よしかわ こはる)を庇って、杏奈は血まみれになった。 小春は怯えて、彼女の腕の中で泣きじゃくっていた。 ……その娘が今、SNSで紗里がくれたアイスを「世界一美味しい」と自慢している。 写真の中の紗里は楽しそうに笑い、蒼介の視線は彼女を見つめ、優しさと溺愛に満ちていた。小春は特大のアイスを持って二人の間に立ち、嬉しそうに笑っている。 背景は市内の新しい遊園地。これが、さっきの電話で紗里が言っていた場所だ。 どんな気持ちなのか自分でも分からなかった。ただ、妙に冷静だった。 点滴を終え、傷の処置を済ませ、処方された薬を手にする。病院を出る頃には、杏奈は魂が抜けたような抜け殻だった。 家に戻ると、使用人の安達(あだち)が駆け寄ってきた。「奥様、お帰りなさい」 杏奈はかすかに微笑む。この家で自分をそう呼んでくれるのは安達だけだ。 安達は彼女が持つ薬と、その緩慢な動作に気づいて顔色を変えた。 「奥様!どうなさったんです?お怪我を?」 「交通事故よ。軽いものだから」 「交通事故で軽いわけないでしょう!病院には?ああ、これは……」 七年間。安達は変わらず優しく、思いやりを持って接してくれる。 考えてみれば、安達は夫より、よほど自分を心配してくれていた。 安達をなだめて、ゆっくり階段を上る。二階に着いた時、階下から安達の電話の声がした。 「旦那様、お戻りください。奥様が交通事故に……」 足がふと止まった。 自分が蒼介に連絡するには、仕事用の携帯にかけるしかない。電話に出るのも大抵は秘書の洸平だ。 でも安達は、蒼介の私用携帯に直接かけられる。 病院であんなに辛かったのに、この理不尽なルールを守って、何もおかしいと思わなかった。習慣とは恐ろしいものだ。 「ええ、それほど重症には見えませんが、奥様は確かにお怪我を……」 それ以上聞かずに、痛みをこらえながら寝室へ入った。 蒼介が帰ってくるか知りたかった。 すぐに安達がお粥を運んできた。 彼女は心配そうに言った。「奥様、少しお粥を。お怪我の時は食事に気をつけないと。旦那様にはもうお電話しましたから、すぐお戻りになります」 「ありがとう」 安達の「すぐ」は、三時間後だった。空はもう暗い。 車のエンジン音が聞こえ、安達は安堵して玄関へ走った。 小春を連れて、蒼介の長身が現れた。 一緒に入ってきたのは、小春の不満げな声だった。 「パパったら!安達さんがママは大丈夫だって言ってたのに。どうしてそんなに急いで帰らなきゃいけないの?イルミネーションショー見られなかったじゃない。紗里ちゃんががっかりしてたの、気づかなかったの?」 廊下に立ち尽くす杏奈。その全身が、音を立てて凍りついた。 第2話 杏奈は、蒼介が優しく娘の頭を撫でながら、冷ややかだがどこか穏やかな声で話すのを聞いていた。 「もう午後いっぱい遊んだだろう。十分だ。今はママが交通事故に遭って、誰かの世話が必要なんだ」 「安達さんが家にいるじゃない。安達さんに面倒を見てもらえばいいでしょ?あたしたち、お医者さんじゃないんだから、帰ったって、あたしたちじゃ何もできないよ」 小春は食い下がった。その言葉に、杏奈は喉が詰まりそうになる。 「それに、パパ忘れちゃったの?ママはスーパーマンだから、痛くないんでしょ?」 小春の言葉とともに、三年前の光景がコマ送りのように杏奈の脳裏に蘇った。 蒼介のビジネス上の敵が、事故に見せかけて吉川グループの取引を横取りしようと、高層階から巨大なガラス板を落としてきたのだ。 通りかかった杏奈と小春。娘の小春を守るため、杏奈は自分の体で全ての衝撃を受け止めた。ガラスの破片が体に深く食い込んだ。 幼い小春は血まみれの杏奈を見て泣きじゃくった。怯える娘を安心させるため、杏奈は自分はスーパーマンだから痛くないのだと告げたのだ。 そして今――スーパーマンのママは交通事故に遭い、全身が痛くてどうしようもないというのに、小春が気にしているのは、遊園地で見逃した花火だけ。 何かに気づいたのか、蒼介がふいに顔を上げた。視線が、二階の廊下に立つ杏奈を捉える。小春もつられて顔を上げ、杏奈と目が合った。 小春は少しばつが悪そうに俯いたが、それでも強がって言った。「ほら、やっぱりママは大丈夫でしょ」 杏奈はいつだって強いから、何があってもうまく対処できるはず。事故なんて大したことない。 今から戻れば、イルミネーションショーにまだ間に合うかもしれない。 蒼介が階段を上がってくるのを見て、小春は唇を尖らせながらも後を追った。だが、胸の不満は募るばかりだ。 これってわざとじゃないの?大したことないくせに、安達さんにあんなに大げさに言わせて。 紗里もがっかりしてたし、自分だってがっかりしたのに。 もし紗里が怒って、もう二度と遊びに連れて行ってくれなくなったらどうしよう。 「顔色が悪いな。ちゃんと横になっていればいいものを。安達さんに味噌汁を作らせた。少し食べなさい」 味噌汁? その味噌汁は、安達が杏奈の帰宅時にすでに作ってくれていたものだ。夫としての蒼介の気遣いは、優に三時間も遅れてやってきたことになる。 それでも杏奈は何も言わず、ただ頷いて部屋へ戻った。 もう「痛い」と訴える気力さえ残されていなかった。 安達がすぐに味噌汁を運んできた。味気ないだろうと、美味しい食材まで加えてくれている。 「小春ちゃんも少し食べなさい。夜中にお腹が空いちゃうわよ」 目の前の味噌汁を見て、小春の唇はさらに尖った。 本当なら紗里と一緒に豪華なディナーに行くはずだったのに、杏奈の電話一本で全部台無しになった。 でも、そんなこと口に出せない。言ったら蒼介が絶対怒る。 杏奈には全く食欲がなかった。身体中が痛み、横になっていることさえ苦痛だ。 安達は何かに気づいたようで、慌てて声を上げた。「旦那様、奥様はお怪我をされています。そろそろお薬を塗り直さなければ」 蒼介の冷たい視線が杏奈の身体を見渡す。にじみ出た血痕を見つけると、眉をひそめた。 「怪我をしてるなら、なぜ言わない」 「別に、言うほどのことでもないわ」 初めてじゃないもの。杏奈の心はとっくに冷え切っていて、今さら何も感じなかった。 安達が薬を全て取り出すと、蒼介は立ち上がって受け取った。 「俺がやる」 彼は薬を開けながらゆっくりと手を伸ばし、杏奈のパジャマのボタンに手をかけようとした――その時、紗里専用の着信音が鳴り響いた。 蒼介の手が微かに止まる。そして薬を置き、携帯を手に取った。一連の動作に淀みはない。 「もしもし、蒼介?私、足を捻挫しちゃって、すごく痛いの。小林さんに頼んで、病院まで送ってもらえない?」 紗里の声が受話器越しに漏れ聞こえてくる。微かな泣き声さえ混じっていた。 小春はすぐに半分も食べていない味噌汁を置いて、蒼介のそばへ駆け寄った。腕を引っ張りながら、焦りと緊張の入り混じった声で言う。 「紗里ちゃんが怪我したの?どうしよう、紗里ちゃん痛いのが一番苦手なのに。パパ、早く様子を見に行って。彼女、大丈夫かな」 杏奈の胸が詰まる。小春を見つめながら、心の中が苦しくて重かった。 自分はスーパーマン、紗里は痛いのが苦手……なんて残酷な対比だろう。 蒼介は杏奈を見た。たった二秒。そして決断を下す。 「安達さんに薬を替えてもらいなさい。できるだけ早く戻る」 そう言うと手にしていた薬を棚に戻し、踵を返した。 小春もついていこうとしたが、蒼介に止められる。 「お前はママと一緒にいなさい」 そう言い放つと、小春に反論の隙も与えず部屋を出て行った。 小春はベッドに横たわる蒼白な顔の杏奈を見て、どこに目をやればいいのか分からなくなった。 何か、間違ったことを言っちゃったかも…… 「ママは怪我してるから休まなきゃ。あたし、自分の部屋に戻るね」 小春はそう言うともう走り出していた。自室に戻るのも待ちきれないかのように、電話の発信音が聞こえてくる。 「あっ、紗里ちゃん!パパから聞いたよ!怪我はひどい?すごく痛い?……」 杏奈はそこに横たわりながら、あの窒息するような感覚が続くものだと思っていた。けれど今、感じているのは静けさだけだった。 薬は替えてもらったものの、身体中の傷が多すぎて痛くて眠れない。横になれば傷口を圧迫してしまう。立っている方がまだましだ。 杏奈は起き上がり、階下へ降りて少し歩こうと思った。部屋を出ようとした時、隣の部屋のドアが開く音がした。 窓辺へ歩み寄ると、小春が星空柄のブランケットにくるまってガレージへ走っていくのが見えた。携帯の光がちらちらと明滅している。 「運転手さん、急いで。紗里ちゃんが西通りのお店屋さんのが食べたいって……」 杏奈はゆっくりと携帯を取り出し、長い間かけていなかった番号に発信した。 けれど、二回コールしただけで電話は切られた。 口元に、自嘲的な笑みが浮かぶ。 やはり、自分の扱いは使用人以下なのね。 愛情はなくとも血の繋がりはある。杏奈は小春を完全に見捨てることはできなかった。メッセージを編集して送る。小春が家を出たことを蒼介に知らせた。 今回は返信が早かった。たった一行だけ。【分かった】 暇に任せて携帯の中の情報を眺めていく。各種アプリ、SNS……蒼介との連絡は、広告メールよりも少ない。 見ているうちに、タイムラインを開き、写真フォルダを開き――杏奈は突然気づいた。 自分の全てのアプリ、生活の全ての軌跡が、蒼介と娘の小春を中心に回っている。 写真でさえ、そこには自分のものが一枚もない。全部蒼介と小春の写真だ。 彼女はいつもカメラの後ろにいる記録者で、まるで二人の結婚のように、いつも半分が欠けている。 突然、反骨心が芽生えたかのように、杏奈は携帯の中の写真を一枚一枚削除していった。完全に空になるまで、自分に関する写真を一枚も残さなかった。 杏奈は諦めた。 もう目を覚ますべきだった。 誰もいない静かな夜の中で、杏奈はボーッとしながら自分の荷物を整理し、プリントアウトした離婚協議書を見つめる。 親権の項目を見た時、長い間躊躇した。けれど最終的に【財産・親権放棄】の文字を書き込み、結婚指輪とともに封筒に入れた。 疲れた。もう愛なんか、したくないのだ。 第3話 夜が白む頃、杏奈は凝り固まった身体をゆっくりと動かした。蒼介に何度かけても繋がらなかった電話の履歴を見つめ、口元に自嘲の笑みを浮かべる。 もし蒼介が、自分が離婚のために呼び戻そうとしていると知ったら、今のように電話を無視できるだろうか。 杏奈はもう待つ気になれなかった。 荷物を持って階下へ降りると、安達が慌ててエプロンを握りしめながらキッチンから出てきた。その目には心配の色が浮かんでいる。 「奥様、これは……」 「安達さん、仕事も探さなきゃいけないし、これから……たぶん、もう戻ってこないわ。これ、安達さんへのプレゼント」 杏奈はそう言って、手にした白檀の小箱を安達の手に押し付けた。 中には七年前、デザインコンテストに出すために作ったネックレスが入っている。けれど思いがけず妊娠してしまったせいでのせいで、激怒した蒼介に壊されてしまったものだ。 安達が夜中も眠らずに、宝石を一粒一粒拾い集めて修復し、自分の手に返してくれた。 振り返ってみれば、杏奈のキャリアは、あの瞬間に止まったのだ。 そして、この七年間、安達だけが自分を気にかけてくれた。「奥様」と呼んでくれる唯一の人だった。 本当は思い出として取っておくつもりだったけれど、もう前に進むと決めたのだから、過去のものは過去に置いていこう。 「安達さん、お元気で。また会う時があれば、私のことは三浦杏奈(みうら あんな)と呼んでください」 その言葉に、安達は直感的に異変を察した。慌てて携帯を取り出して電話をかけるが、一度コールしただけで切られてしまう。かけ直しても、また切られた。 安達は焦りながら顔を上げ、杏奈の背中を見つめる。そして首の後ろに残る傷痕に視線が引きつけられた。 三年前の大晦日の夜、小春が煮立った鍋をひっくり返した時、杏奈が娘を庇って負った傷―― 結局、電話は繋がらなかった。安達はゆっくりと携帯を下ろし、それ以上かけることもせず、ただ静かにそこに立って杏奈の背中を見送った。その姿が消えていくまで、ずっと。 三十分後、杏奈は小さなアパートの前に立っていた。鍵を開けた瞬間、懐かしさと安らぎが一気に押し寄せてくる。 シンプルな内装、自分の好きなレイアウトと色使い。中に入ると、空気までもが馴染み深い。 窓辺のイーゼルには、まだ完成していない作品が置かれている。隣には「モンドリアン構図解析」が立て掛けられていた。 ここは、大学時代に長い間お金を貯めてようやく手に入れた自分だけの城だ。中のレイアウトは全て、彼女が心を込めて設計したものだった。 蒼介と結婚してからは、デザインの下書きをする以外、ほとんどここには来なくなっていた。 杏奈は荷物を置き、イーゼルのそばへ歩み寄る。作品に触れながら、十九歳の頃の、夢を抱いていた自分が見えるようだった。 どうして諦めてしまったのだろう。 棚の上で携帯がバイブ音を立て、すぐに吉川美南(よしかわ みなみ)専用の着信音が鳴り響いた。 「十時までに、今期のオートクチュールのラフを送って!」 通話ボタンを押すや否や、杏奈が言葉を発する前に、美南の甲高い声が受話器から飛び込んできた。 美南は蒼介の妹。ジュエリーデザイナーになりたいと言いながら、実力がなく、いつも自分にデザインを要求してくる。 最初の頃はまだ丁寧にお願いしてきた。蒼介の妹だからと、杏奈も妥協していた。 けれどいつの間にか、美南のお願いは横柄な命令に変わっていた。量は増え、要求も高くなる一方だ。 顧客の要望からコンテストの作品まで、さらには蒼介に内緒で、確実に入賞できる作品を作れと言ってくる。 家のことも世話しながら、美南の時間構わず送られてくる要求に応え、忙しい時には食事も睡眠も取れないほどで、苦痛に苛まれていた。 今回の事故も、元々は美南のデザインを仕上げるために急いでいたせいだった。 電話の向こうではまだ、延々と不満をぶちまけている。 「本当にもう。毎回私が催促しないと。自分から持ってくるくらいできないの……」 「事故に遭ったのよ!」 美南の愚痴をこれ以上聞く気にはなれず、杏奈は言葉を遮った。受話器の向こうが一瞬静まり返る。 けれど三秒もしないうちに、美南の軽蔑するような鼻で笑う声が聞こえてきた。 「ちっ、聞いたわよ。その事故を言い訳にして、兄さんと紗里さんのデートを台無しにしたんでしょ。杏奈、よくそんな図々しいことできるわね。事故って言ったって、あなた死んでないじゃない。 いい?私は兄さんと違って、あんたのそういうやり方には引っかからないから。今すぐデザインを送りなさい。もし本当にいい成績が取れたら、兄さんの前であんたのことを少しは良く言ってあげてもいいわ。でなければ……」 ある程度予想はしていたけれど、美南がここまで悪意のある言葉を吐くとは思わなかった。 「でなければ、あなたの大好きな紗里さんに描いてもらえばいいじゃない。もう私は知らないわ!」 杏奈はそう言って即座に電話を切り、ブロックした。美南に反論の余地さえ与えない。 手が微かに震える。心の中には怒りと、解放されたような爽快感が入り混じっていた。 この七年間、蒼介のために、この家のために、どれだけ多くを捧げてきたことか。それなのに、当然の尊重も見返りも得られなかった。 蒼介への献身という愛情の幻想に縛られ、ただの自己満足だった。完全に失望してようやく気づいた。昔の自分がどれほど愚かだったか。 テーブルの上に置いた離婚協議書を見つめ、杏奈はそれを手に取った。 彼が家に帰らない、電話にも出ないというなら、こちらから届けに行けばいい。 吉川グループの専用エレベーター上部の指紋認証を見て、杏奈はふと思い出した。結婚二年目に、蒼介は祖父・吉川政夫(よしかわ まさお)が特別に与えてくれた彼女のアクセス権限を、来客用に格下げしたのだ。 彼は言った。「吉川家の妻に、そんなものは必要ない」 それ以来、彼女は会社に姿を現さなくなった。 けれど政夫の命令のおかげで、会社内の他の指紋認証は取り消されていない。問題なく通過できた。 「杏奈?」 エレベーターのドアが開くと、中から美南の驚いた声が響いた。 杏奈は彼女を無視して中に入り、最上階へのボタンを押す。 美南は我に返ると、鼻で笑いながら高慢に手を伸ばした。 「ちょうだい」 「何を?」杏奈は訝しげだ。 「とぼけないでよ。コンテスト用のデザインに決まってるじゃない……」 美南はそう言って、目を見開いた。「まさか持ってきてないなんて言わないわよね!」 杏奈の表情は相変わらず淡々としている。「ええ、持ってきてないんじゃなくて、そもそも描いてないのよ」 「何ですって?」 「あなた、藤本紗里を義姉さんにしたいんでしょ?彼女に描いてもらえばいいじゃない。赤の他人に頼む必要なんてないわ」 エレベーターのドアが開き、杏奈は微笑みながら外へ出た。 美南が罵ろうとした瞬間、気づいた。なんと最上階に着いている。 もしかして杏奈は蒼介に告げ口しに来たのだろうか。この数年間のデザインが全て彼女の手によるものだと暴露するために? その可能性を考えただけで、美南は心臓が早鐘を打つ。慌てて追いかけた。 「ねえ、待ちなさい!」 「杏奈様、申し訳ございません。社長はあいにく不在で……」 洸平が社長室のドアの前に立ち塞がり、杏奈を見つめる。その目には嘲りの色があった。 杏奈は洸平の冷たい態度にはとっくに慣れていた。手にした封筒を差し出す。 「では小林さん、これを彼に……」 第4話 洸平は、彼女と蒼介の関係を知る数少ない人間の一人だ。蒼介からの信頼は厚い。 洸平のネクタイに留められたサファイアのタイピンでさえ、少し前に杏奈が厳選して蒼介の誕生日に贈ったプレゼントだった。 そして今この瞬間、そこには彼女の背後にある巨大スクリーンのニュースが映り込んでいる。 【新進気鋭のジュエリーデザイナー藤本紗里、本日、吉川グループ代表吉川蒼介と来月のジュエリー展に参加予定。二人のゴールインも間近との噂】 「だから!」 杏奈が呆然としている隙に、追いついてきた美南が彼女の手から封筒を奪い取った。 「一体何をするつもり?その幼稚園レベルの落書きで兄さんを騙して、あんたのデザインだって言うつもり?信じてもらえると思ってるの?」 美南の慌てふためく様子を見て、杏奈は気を取り直す。「信じないなら、何を怯えてるの?」 「誰が怯えてるって言うのよ?兄さんの気を引くための手段でしょ。兄さんが信じるわけないじゃない」 「信じる信じないは、開けて見てみればわかることよ」 杏奈が相変わらず平然としているのを見て、美南は何か違和感を覚えた。封筒を開け、中を一瞥する。 一目見ただけで、彼女は固まった。 離婚協議書? 自分の、見間違い? 杏奈が自ら蒼介と離婚するなんて、ありえない。 まあいい。デザインじゃなければそれでいい。 封筒を洸平の腕に放り投げ、美南は軽く笑いながら杏奈を見た。 「これがあんたの新しい手段?無駄な努力はやめときなさい。兄さんを本気で怒らせたら、家にも帰ってこなくなるわよ。泣きを見ることになるわよ」 「好きに言えばいいわ」 杏奈はこれ以上言い争う気にもなれず、洸平に視線を向けた。 「できるだけ早くサインして返してもらえるよう伝えてください。待ってますから」 そう言うと振り返りもせずに立ち去った。美南は苛立ちを隠せない。 「何なの?自分で姑息な手を使うだけじゃ飽き足らず、小林さんまで巻き込むつもり?もし兄さんが本気で怒ったら、叱られるのは小林さんよ。あんたって本当に悪質ね」 けれど何を叫ぼうと、杏奈は振り返らなかった。 美南は悔しげに足を踏み鳴らしたが、結局追いかけていった。 洸平は手にした封筒を見つめ、先ほどの美南の言葉を思い返す。 この数年、杏奈は蒼介の気を引くために様々な手を尽くしてきた。今、蒼介はまさに紗里のことで忙しい最中だ。こんな時に、杏奈のくだらない手段のために邪魔をすれば、クビになりかねない。 そう考えると、洸平は鼻で笑い、封筒をデスクの下の棚に放り込んだ。 蒼介が紗里の件を片付けて、機嫌のいい日を見計らって渡せばいい。 どうせ渡さなくても、杏奈は返事が来ないと分かれば、また何か新しい手を考えるだろう。一つくらい無くても変わらない。 吉川本社ビルを出ると、杏奈はタクシーを拾おうとした。美南がついに我慢できなくなり、力任せに彼女の腕を掴む。 「デザインを渡しなさい。今度こそ本当に、兄さんに取り成してあげるから」 ラインストーンの飾られた爪が、腕の古傷に食い込む。杏奈はぼんやりと思い出した。新婚二日目、美南も同じように自分の腕を掴んで、卒業制作の修正を頼んできたことを。 あの時は「お義姉さん」と呼んでくれていたのに、今は…… 「もう必要ないわ」 杏奈は相手の指を外し、薬指の根元に残る淡いピンク色の指輪の痕を露わにした。 「蒼介がサインさえしてくれれば、私と吉川家は、もう何の関係もなくなるの」 美南は、杏奈がそんなことを言うとは思わなかった。コンテストの締め切りを思い出し、顔色を変えた。 「あんた、いい加減にしなさい!本気でコンテストの邪魔をするつもりなら、すぐに兄さんに離婚してもらうわよ!」 杏奈がそんな強気に自分から離婚するなんて信じられない。 コンテストまでまだ時間がある。夜まで待つ必要もない、きっと杏奈の方から完成したデザインを持ってくるはずだ。 こんなことは今までだってあった。蒼介に無視されれば、杏奈はすぐ低姿勢になり、あの手この手で機嫌を取り、蒼介に自分のいい評判を吹き込んでもらおうとする。 実際は何も言わないし、蒼介も気にしていないけれど。 ただ、杏奈が今日持ってきた離婚協議書で、美南は別のことを思いついた。 そう遠くないうちに、蒼介は本当に杏奈と離婚して紗里と結婚するかもしれない。だったら今のうちにデザインのストックを作っておいた方がいいんじゃないか? 杏奈が簡単には離婚に同意しないことは分かっている。いや、たとえ本当に離婚したとしても、美南が必要とすれば、きっとまた描いてくれるはずだ。でも念のため、先に蓄えておいた方がいい。 そんなに多くなくていい。一枚あれば、離婚直後の三日間くらいは何とかなるだろう。 下手をすれば一日も経たないうちに、杏奈の方から頼みに来るかもしれない。 その時は、何枚デザインを描けと言っても、彼女は作り笑いで引き受けるしかなかった。 そう考えると、美南の気分も少しは晴れた。踵を返して戻り、杏奈が頼みに来るのを待つことにした。 吉川グループを離れた杏奈は、生活必需品といくつか画材を買った。 家に戻って荷物を片付け、この数年間のデザイン作品を整理する。 徐々に輝きを失っていく作品を見つめながら、杏奈は信じられない気持ちだった。これらが全て自分の描いたものだなんて。 美南のために会社に提出する作品で、家のこともあったから、多くの作品に十分な全力を注げなかった。 大きな間違いはないけれど、光るものもない。 当時は気づかなかったけれど、今改めて見ると、自分の才能がほとんど擦り切れていることに気づいた。 デザインを置いて、杏奈はすぐに番号を押した。 「来月のジュエリー展の招待状が欲しいんだけど」 電話の向こうが一瞬止まり、続いて男の冷淡な声が聞こえた。 「本気か?これまで何度勧めても聞かなかったのに、今回はどうして心変わりしたんだ?」 濱海市では毎年定期的にジュエリー展が開催される。ここ二十年は、国内経済の急速な発展により、展示される宝飾品も増え続け、最初は数百のブースだったものが、今では千を超え、国際的にも名声を博している。 そのため、多くの著名なジュエリーデザイナーが自信作を出展し、新進気鋭のデザイナーたちも、作品を出展できなくても、何とか見学してインスピレーションを得ようとする。 けれど杏奈だけは、ここ数年ずっと、娘のことだ夫のことだと言い訳をし、招待状を家まで届けてもらっても、会おうともしなかった。 それが今、自ら行きたいと言っている。 「当時は頭の中がお花畑だったのよ。今はもう目が覚めたわ」 相手は何も言わなかった。しばらくして、電話が切れる。 けれど杏奈には分かっていた。これは承諾の印だ。 杏奈は口元を歪め、電話を置いた。 実は、まだ言っていない決意がもう一つある。本当に、復帰するつもりなのだ。 第5話 母・三浦妙子(みうら たえこ)の影響で、杏奈はジュエリーデザインにずっと深い興味を持っていた。妙子の足跡を辿り、そのデザインスタイルを受け継ぎたいと思い続けていた。 だから大学を卒業するとすぐ、同門の先輩と一緒に会社を立ち上げた。 規模は小さかったけれど、二人の努力で会社は順調に成長していった。 ところが、会社が上場しようという時に、杏奈は家庭に入ることを選んだ。「良妻賢母」として生きるために。 これが原因で、彼女のデザインを核とした多くの契約が破棄され、違約金を支払う羽目になり、上場も危うく失敗するところだった。 皆が怒り、呆れた。会社には杏奈の株もあったけれど、ほとんどの人は連絡を絶つことを選んだ。 そのため、この数年、会社からの配当を受け取る以外、会社の他のことは何も知らない。 最も得意としていたデザインの才能でさえ、今では見るに堪えないほどになっている。 このまま会社に戻ったところで、何ができるだろう? 毎年の出展作品は、その年の最新デザインばかりだ。参加できるデザイナーも、一定の経歴と経験を持つ者ばかり。 業界から何年も離れていた彼女が、再びこの業界の発展傾向を理解するには、ジュエリー展が最も早く、最も包括的な方法だ。 だから今回、絶対に行かなければならない。 携帯の着信音が突然鳴り、杏奈は驚いて飛び上がった。 画面を見ると、夕食時間のスケジュールリマインダーだった。 小春は自分と同じで辛いものが好きだ。けれど年齢が幼すぎるため、杏奈は胃腸に負担がかかることを心配して、ほとんど食べさせないようにしていた。 加えて蒼介は接待で胃を酷使している。だから父娘が家にいない昼食は適当に済ませるとして、朝夕の二食は必ず自分で作り、栄養があって美味しい食事を心がけてきた。 最初の頃は、自分も辛い味が恋しかった。けれど時が経つにつれ、慣れてしまったようだった。 でも、ほんの数日前、小春が言うのを聞いてしまった。杏奈の作る料理は薄味すぎて食欲が湧かない、紗里がくれる辛い手羽先の方がずっと美味しいと。 不思議な偶然だ。杏奈も辛い手羽先は美味しいと思う。けれど、もう十年近くもその味を口にしていなかった。 杏奈はスケジュールリマインダーの音を消し、登録されていた予定を全て削除した。そして自分用に激辛ラーメンを注文し、食べながら鼻水を拭いた。 夜、蒼介は小春を連れて帰宅した。小春は唇を尖らせ、明らかに不機嫌そうだ。 「どうしてイルミネーションショーが終わるまで待てないの?後半の方がもっと素敵だったのに!」 蒼介は辛抱強く説明する。「ママの怪我がまだ完全には治ってないんだ。ママが完全に良くなったら、全部見に行こう」 「え?でももしママも一緒に来たいって言ったらどうするの?」 小春は少し心配そうだ。 杏奈が現れると、いつも雰囲気が気まずくなる。自分も嫌だし、紗里も嫌な思いをして、結局みんなが不愉快になる。 テレビドラマみたいに、蒼介が紗里とも結婚して、みんなで暮らせたらいいのに。 そうすれば蒼介も杏奈もいて、紗里もいて、最高じゃない。 「心配しなくていい。ママは来ないから」 この数年、杏奈はずっといい子にしていた。結婚を公表したくないと言えば、本当に協力してくれた。 たまにある家族の集まり以外、外で会っても知らないふりをしてくれる。 イルミネーションショーは家族の集まりじゃない。そして、杏奈はそこまで野暮じゃない。 「そっか、わかった」 小春は諦めて、パパと一緒に家に入った。 どうせこの数日、脂っこくて辛いものをたくさん食べて、もう十分だった。今は急にママが作る味噌汁が飲みたくなってきた。 昨夜、安達さんが作ってくれた味噌汁も悪くはなかったけれど、ママが作る味噌汁と比べると、とても飲めたものじゃない。 決めた。ママの味噌汁が飲みたい。 「ママ、あたし……」 小春の言葉が止まった。いつもなら玄関まで迎えに来てくれる杏奈が、今日はいない。 蒼介も意外そうに顔を上げ、キッチンの方を見る。安達が慌てて中から出てきた。キッチンからは他の音が聞こえない。 「彼女は?」 「旦那様、奥様はお仕事を始められて、この数日は帰らないとのことです」 仕事? あいつに仕事なんてできるのか? 「え?じゃあママの味噌汁が飲めないってこと?」 小春の表情がまた曇った。 安達さんの味噌汁は、やっぱりママの味噌汁ほど美味しくない。 それに、どうして仕事なんてするの?パパがたくさんお金を渡してるのに。 どうしてそんなに欲張りなんだろう。 蒼介はすぐにこの事実を受け入れた。 家にいるのが退屈になって、外に遊びに出たくなったのだろう。 どうせ家のことは全て使用人が管理している。杏奈が家にいようが、仕事に行こうが、遊びに出ようが、どうでもいい。 安達は父娘が靴を履き替えて中に入るのを見て、しばらく躊躇した末、杏奈からもらった宝石箱を取り出した。 「旦那様、これは奥様が出かける前に私にくださったものなのですが……」 奥様はこれをずっと大切にしていた。思い出として残しておきたいと言っていたのを覚えている。 杏奈が自分に修理を頼んだ時、とても喜んで、一ヶ月分余計に給料をくれた上に、たくさんのプレゼントまでくれた。 なのに今、その思い出を自分に託していった…… 「パパ、ママまた無駄遣いしてる!」 安達は驚いて目を見開いた。 小春がどうしてそんなことを? 「旦那様……」 「構わない」 蒼介は適当に手を振った。「彼女があげたんなら、もらっておけばいい。長く着けていて飽きたんだろう。また気に入ったものがあったら、買い直せばいい。食事にしよう」 「でもこれは……」 これは杏奈が自分でデザインしたもので、外では買えない―― 安達の言葉が終わらないうちに、蒼介の携帯が鳴った。 「もしもし、紗里……」 小春はすぐに顔を上げ、きらきらと輝く目で蒼介を見つめ、大きな手を引いてしゃがませる。 「紗里がイルミネーションショーの動画撮ってくれたって。お前の好きな辛い手羽先も買ってくれたんだって。今度行った時に食べられるって」 「今から行っちゃダメ?」 小春は焦って叫び、蒼介の手を揺さぶり続けた。 「パパ、お願い!どうせママも家にいないんだから、今から行けば、まだイルミネーションショーに間に合うよ」 小春の甘えに抵抗できないかのように、電話の向こうから紗里の声が聞こえ続け、ついに蒼介は態度を軟化させた。 「わかった。今すぐ行こう」 そう言うと蒼介は小春を抱き上げ、大股で出て行った。 安達はその場に立ち尽くし、父娘の背中を見つめながら、口を開いたけれど、結局何も言えなかった。 杏奈は安達の複雑な心情など知る由もなく、イーゼルの前で一晩中格闘して、ようやく自分が満足できるデザイン画を完成させた。何度も迷った末、それを投稿した。 投稿先は、彼女がかつて起業し、輝いていた場所――ルミエール(Lumière)だった。 第6話 送信完了の表示を見つめながら、杏奈はその場に座り込んだまま、長い間動けなかった。 自分のデザイン作品に、これほど自信が持てないと感じたことはなかった。不安で仕方がない。 「職場復帰」というのは簡単に言えるけれど、流行の移り変わりが激しい今、ジュエリーデザインも日進月歩で進化している。 六年間。美南が時折デザインを頼んでくる以外、他の時間は画用紙に触れることすらなかった。最近では美南でさえ、以前ほど良くないと批判し始めていた。 そこでようやく気づいた。自分の腕がどれほど鈍ってしまったかを。 あれほど決然と会社を離れたのに、今さら足手まといになるだけなら、戻る資格などあるだろうか。 そう考えていると、携帯が突然鳴り、杏奈は飛び上がった。 画面に表示された名前を見て、唇を噛む。けれど結局、通話ボタンを押した。 「三十分以内に、会社の一階にあるカフェまで来てくれ」 受話器の向こうから落ち着いた男性の声が響く。簡潔な一言の後、すぐに電話は切れた。杏奈の心は沈んでいく。 最速で服を着替え、メイクを整え、残り三分というところでカフェに滑り込んだ。少し緊張しながら、ある男性の前に腰を下ろす。 「先輩……」 河原裕司(かわはら ゆうじ)が顔を上げる。精巧な金縁眼鏡越しの視線が、まっすぐ彼女の顔に注がれた。品定めするように。 「何を飲む?」 「フルー……」 杏奈は習慣的に小春の好きなフルーツジュースを頼もうとしたが、言葉が口から出る寸前で言い直した。 「マンデリンを。ありがとうございます」 裕司は杏奈をちらりと見たが、何も言わなかった。コーヒーが運ばれ、店員が離れてから、彼は一枚のデザイン画を取り出し、テーブルに置いた。 「君のか」 やはり見抜かれていた。 「はい」杏奈は隠さなかった。 「会社に戻りたいのか」 「はい」 空気が再び凍りつく。しばらくして、裕司の淡々とした声が再び響いた。 「旦那さんとお子さんは?君はもう、家族の世話をしなくていいのか?」 杏奈の顔が青ざめる。 裕司の言葉は鋭いナイフのように、彼女の心の最も柔らかく、最も罪悪感を抱いている部分に突き刺さった。 「必要とされていません。離婚の準備を進めています」 裕司が微かに驚く。顔に浮かんだ驚愕は一瞬で、すぐにまた波ひとつ立たない表情に戻った。 彼は両手を組んでテーブルに置き、目の前のかつて親しく、今は見知らぬ女性をじっくりと見つめる。 「君が吉川蒼介のために『星空の涙』プロジェクトを放棄した時、師匠がどれほど失望したか、考えたことはあるか?」 杏奈はさらに頭を下げた。「申し訳ございません」 「謝って済む問題じゃない。『星空の涙』プロジェクトはずっと保留のままだ。君が戻ってくるのを待っているんだ」 「でも私……」 杏奈の顔には葛藤が浮かんでいる。 「今の自分の実力で、まだ会社に入れるかどうか分からなくて。だから先に投稿して、社内の評価を見ようと思ったんです」 裕司の眉がきつく寄せられる。 誰もが知っている。彼と杏奈が同じ大学の出身だということを。けれど誰も知らない。杏奈が彼を「先輩」と呼ぶのは、二人が同じ先生に師事しているからだということを。 先生は言っていた。杏奈はこれまで見てきた中で最もデザインの才能があり、最も霊感に富んだ人間だと。 大学時代の杏奈は、ある意味自信に満ちていた。豪語さえしていた。自分が描けないデザインなどないと。 あの頃の杏奈は、どれほど意気揚々としていたことか。 それが今、デザインを描いても、会社の後輩に見せて評価を聞こうとしている。 杏奈の夫・蒼介のことも知っている。吉川グループの代表、数兆円の資産、業界のトップ。 なのに彼は杏奈をここまで消耗させた。二人の結婚生活がどんなものか、想像に難くない。 「どうした、自分にそれほど自信がないのか?それとも、師匠の眼力が信じられないのか?」 「違います。師匠を信じていないなんて、そんなこと!」 杏奈は勢いよく顔を上げた。 二人の師匠は世界的に名声を博し、全世界で最も認知度の高いデザインの巨匠だ。どんな宝石も彼女の手にかかれば芸術品になる。自分の師匠を疑うなど、ありえない。 「それでいいじゃないか。師匠は言っていた。君は彼女以上のデザインの才能を持っていると。今少し遅れを取っているからといって、何だというんだ?かつて男に尽くしたあの情熱を取り戻せば、できないことなんてない」 杏奈は苦笑する。「先輩、それって褒めてるんですか、それとも叱ってるんですか?」 「どっちだと思う」 裕司は彼女に手を差し伸べた。 「ステラ、おかえり」 杏奈は慌てて手を伸ばし、彼の手を握り返す。かつての親しみが、本当に戻ってきたような気がした。 「今すぐ会社を見に行くか」 「先輩、もう少し勉強させてください。良いとまでは言えなくても、せめて人様に見せられるレベルには……」 会社に必要なのは、足を引っ張るだけのデザイナーではない。 「分かった。後で近年の会社のデザインを整理させて送る。コンテストの作品については、自分で探してくれ」 「はい、先輩。必ず」 二人はしばらく話し込んだ後、裕司は席を立った。 杏奈も立ち上がって帰ろうとした時、隣から信じられないという声が響いた。 「杏奈、本当にあんた?」 美南がまっすぐ杏奈に向かって歩いてくる。口を開こうとしたが、周囲の視線に気づいて声を潜めた。 「家でちゃんと絵を描いてればいいのに、こんなところで何してるの?それに、この男は?あんたが外で他の男とコーヒー飲んでること、兄さんは知ってるの?」 このまくし立てるような剣幕に、杏奈の顔が険しくなった。 美南の目には、自分が異性とコーヒーを飲むだけでも、蒼介に報告しなければならないように映っているのだ。 では蒼介は? 彼は不倫相手と堂々と出歩いているというのに、妹の美南は一言も文句を言わない。 以前なら、この結婚を何とか続けようと妥協していただろう。けれど今、もう離婚する覚悟を決めたのだ。これ以上へりくだって、自分を見下してきた人間に媚びを売る必要などない。 そう考えて、杏奈ははっきりと拒絶した。「言ったでしょう。もうあなたのためにデザインは描かない。描くとしても、それは自分のため」 これからは、デザイン画どころか、自分が描いた没原稿さえ、美南には二度と見せない。 「ぐっ……」 美南は杏奈が再び自分を拒絶するとは思わなかった。 コンテストの締め切りが迫っている。その結果は、自分の作品が無事に展示されるかどうかに関わっている。今、絶対に問題は起こせない。 本当に蒼介のことも、吉川家のことも気にしていないの? いや、ありえない。 この数年、杏奈が蒼介のためにどれだけ尽くしてきたか、誰よりも見てきた。杏奈が本当に諦めるなんて信じられない。 そう考えると、美南の表情は次第に得意げになっていく。 「杏奈、兄さんの気を引こうとするにしても、ふざけるのもいい加減にしなさいよ。ねえ、もし私が今日、あんたが見知らぬ男とカフェでデートしてたことを兄さんに言ったら、もっとあんたのこと嫌いになるんじゃない?」 第7話 美南は自信満々だった。これまで何年も、どんな些細なことでも、蒼介が嫌がることだと言えば、杏奈は決して手を出さなかったのだから。 「それなら……」 杏奈が言いかけると、美南はもう苛立って先に口を開いた。 「もういいわ。あんたと無駄話してる時間なんてないの。友達が待ってるから」 美南の視線を追うと、杏奈は気づいた。少し離れた席に、美南と同年代くらいの女性が二人を見つめている。 けれど去り際、美南は声を潜めた。「あと三日。デザインを渡しなさい。でなければ、今日のことを兄さんに告げるわよ」 美南はそう言うと、杏奈の返事も待たずに自分の席へ向かった。 席に着くと、相手は杏奈を見て尋ねずにいられなかった。「美南、知り合いなの?一緒に座らないの?」 「知り合いは知り合いだけど、そんなに親しくないわ。挨拶だけで十分よ」 杏奈がバッグを持つ手が止まる。 親しくない? 美南が大学を卒業してから今まで、自分の手からどれだけのデザイン図を受け取ったことか。それなのに親しくないと言うのか。 でも考えてみれば当然だ。蒼介でさえ自分が妻だと認めていないのに、その妹が義姉だと認めるわけがない。 以前ならこんなことで傷ついていたかもしれない。けれど今は……心の中に何の波も立たない。 冷たくあしらわれると分かっていて媚びるような真似、もう二度としない。 杏奈は大股でカフェを出た。未練など微塵もない。反対に、美南の向かいに座る女性は、ずっと杏奈が去っていく方向を見つめていた。 「那月、どうしたの?」 美南は心中穏やかでない。 まさか杏奈が外で勝手なことを言って、自分が吉川家の嫁だと公表したんじゃないだろうな? もし吉川家の当主の妻が、何の能力もない専業主婦で、男に媚びを売ることしか能がない愚か者だと知られたら、吉川家の面目は丸潰れだ。 横井那月(よこい なつき)が我に返る。「ううん、何でもない。ただ、さっき一緒にコーヒーを飲んでた人、ルミエールの代表、河原裕司に似てた気がして」 自分の予想と違うと分かり、美南は少しほっとした。 「ルミエール?あの有名なアクセサリーの会社?」 その会社のことは聞いたことがある。創業して数年しか経っていないのに、デザイン業界ではかなり有名で、独特のデザインスタイルで多くの同業者から認められている。 その代表とコーヒーを飲むなんて、ありえない。 杏奈にそんな資格があるわけない。 「ありえないわ、那月、絶対見間違いよ」 美南は自信たっぷりに言った。 「あの人とは親しくないけど、実際はただのお金をせびるしか能がない専業主婦なのよ。何の取り柄もない。ルミエールの代表どころか、そこらのホームレスだって彼女を見下すわよ」 だってせめて、ホームレスは自分の努力で物乞いをしてるのだ。杏奈は? 家にあれだけ使用人がいて、美味しいものを食べて飲んで、裕福な奥様として座ってるだけ。お金をあげるだけ無駄金よ! 美南がそこまで断言するのを見て、那月はそれ以上何も言わなかった。 本当に自分の見間違いかもしれない。 杏奈が家に帰る途中、ついでに食材を買った。家に戻り、キッチンに入って、慣れた手つきでご飯を炊き、野菜を洗う。 料理しようとした時、ふと気づいた。ここにあるのは蒼介の好きなものと、小春の好きなもの。自分の好きなものは一つもない。 杏奈は包丁を握る手を止め、まな板の上の野菜を二秒ほど見つめた。不意にそれらを脇に押しやり、戸棚から唐辛子を取り出した。 お釜のご飯はまだぐつぐつと湯気を上げていたが、彼女はもう炒め物を作る気にもなれなかった。 帝都ガーデン、吉川家の別荘。 蒼介が娘の小春を連れて帰宅したのは、夜の九時を過ぎていた。 玄関にはいつもの温かいポーチライトが点いておらず、リビングは静まり返り、壁時計のカチカチという音だけが響いている。 蒼介は眉をひそめた。「安達、杏奈はまだ戻っていないのか?」 慌てて出迎えに来た安達は、その言葉に気まずそうにエプロンの端を絞った。「はい……」 小春はランドセルの紐を握る指を曲げた。 いつもならこの時間、ママがもう玄関に現れて、自分とパパを迎えて、幼稚園でママに会いたかったって聞いてくれるのに。 もう二日も経つのに、ママったら仕事に行くって言い張って、大好きなイチゴケーキさえ作ってくれなくなった。 小春は唇を噛む。心の中が毛糸玉を詰め込まれたようにもやもやする。 「ママったら本当に。家で幸せに暮らしてればいいのに、どうしてわざわざ外で働くの?紗里ちゃんみたいに色んなことができるわけでもないくせに。何でも紗里ちゃんと張り合おうとするんだから」 正直のところ、この二日間、杏奈がいなくて嬉しかった。やっと誰にも縛られなくなったから。 好きなものを好きなだけ食べて、好きな時間に寝られる。こんなに自由だったことはなかった。 けれど、この二日間で脂っこくて味の濃いものを食べ過ぎて、今は杏奈が作る味噌汁が飲みたくて仕方がない。 以前なら何も言わなくても目の前に出してくれたのに、今は欲しくても手に入らない…… そのギャップは並大抵じゃない。 杏奈に電話したいけれど、なんだかプライドが許さない。 もし電話したら、ママが「必要とされてる!」なんて調子に乗って、厳しく説教してきたらどうしよう。 考えた末、小春は蒼介に希望を託すことにした。 「パパ、ママに電話して、帰ってきて味噌汁作ってって言って」 杏奈はいつも蒼介の言うことを聞くから、蒼介が言えば絶対に帰ってくる。 「自分で電話しろ」 蒼介はそう言って階段を上がっていく。立ち止まる気配すらない。 小春は唇を尖らせた。どうしても杏奈が作る味噌汁が飲みたい。杏奈の手料理も…… 視線が少し離れた場所で片付けをしている安達に向けられ、目が輝いた。小さな足でとことこと走っていく。 「安達さん、今すぐママに電話して。パパが帰ってきてご飯作ってって言ってるって伝えて」 目の前で爪先立ちして甘える小春を見て、安達のエプロンにかけた手が微かに震えた。 小春のふわふわしたカールにはイチゴのヘアピンが付けられ、きらきらした茶色の瞳は潤んで、朝露を纏った葡萄のようだ。 まつ毛がぱちぱちと赤らんだ頬を撫で、誰が見ても人形のように可愛らしいと褒めるだろう。 けれど今、腰に手を当てて横柄に命令する姿は、その可愛らしさを台無しにしている。 「安達さん、耳が聞こえないの?」 小春が足を踏み鳴らす。プリンセスドレスの真珠が軽やかに揺れ、幼い声には慣れた傲慢さが滲んでいた。 「電話しないなら、パパにクビにしてもらうからね!」 安達は小さくため息をつき、結局携帯を取り出して杏奈の番号にかけた。 杏奈は裕司が送ってきた近年の会社のデザイン資料を見ていた。携帯が鳴り、安達からだと分かって少し驚く。 「奥様……」 受話器から安達の気まずそうな声が聞こえてくる。 「小春ちゃんが、奥様の作る味噌汁が召し上がりたいとのことで……お戻りになりませんか?」 第8話 電話の向こうで、小春はもう安達の携帯に顔を近づけ、得意げな笑みを浮かべていた。きっと杏奈が慌てて帰ってきて味噌汁を作る光景が、もう目に浮かんでいるのだろう。 だって以前は、自分が少しぐずるだけで、杏奈は全てを放り出して飛んできてくれたのだから。 杏奈は携帯を握る指先が白くなるのを感じた。画面には裕司から送られてきたデザイン画が点滅している。 その線を見つめる。細部の創意工夫が、デザイナーの心血を如実に物語っていた。 杏奈はふと思い出す。自分もかつてアトリエで徹夜でデザインを描いていた。あの頃、手にはまだ鍋で負った火傷の痕はなく、爪の間に詰まっていたのは生活感ではなく、絵の具だった。 杏奈のかすかにかすれた声が響く。「私は忙しいと、彼女に伝えてちょうだい」 電話の向こうが死んだように静まり返る。杏奈は即座に電話を切り、パソコンデスクに伏せた。 自分の両手を見つめ、杏奈は突然切なくなった。 かつて、この手で数々の賞を獲得し、自信に満ち溢れていた。けれど吉川家に嫁いでから、筆を置き、家事に専念した。 味のしない味噌汁から、三つ星レベルの芸術的な点心を作れるようになるまで。たこだらけの手と引き換えに得たのは、蒼介の「味が薄い」という一言と、小春の当たり前という態度だけ。 携帯が再び鳴る。裕司からのメッセージだ。リンクが添付されている。開くと、金色の縁取りが輝く招待状が現れた。吉川グループ主催、参加デザイナーたちの交流会への招待だ。 さすがは吉川グループの影響力だ。交流学習とは言うものの、何人もの新進気鋭の独立系デザイナーが出席する。 同時に、宝飾業界に関わる多くの企業も参加するだろう。協力を求めるため、あるいは目をつけたデザイナーを引き抜くために。 ただ……吉川グループのような最大手が、こんな集会を開く必要があるのだろうか。 杏奈には少し理解できなかったが、このチャンスは掴むべきだ。 「分かりました、先輩。参加します」 送信ボタンを押した瞬間、キッチンからスパイシーな香りが鼻をつく。かつて最も好きだった匂いが、今は無数の冷えた食事を前に一人で過ごした夜を思い出させる。 吉川家の別荘では、小春が杏奈の「忙しい」という言葉を聞いて、幼い顔に信じられないという衝撃が広がった。けれどすぐに癇癪を起こし、ぶつぶつ言いながら階段を上がっていく。 ちょうど蒼介が携帯を持って出てきて、彼女の不機嫌な様子を見て、しゃがみ込んだ。 「どうした?」 「パパ、ママが帰ってきて味噌汁作ってくれないの。忙しいんだって」 小春はそう言って、悲しそうな表情を浮かべる。 いつもなら一言言うだけで、杏奈は手にしていた全てを放り出して、手間暇かけて美味しいものを作ってくれたのに、どうして今はダメなの? 「パパ、電話してよ。パパが電話すれば、ママ絶対帰ってくるから」 蒼介は小春の背中を優しく叩く。「心配するな。ママは二、三日遊びに出てるだけだ。しばらくしたら私たちのことが恋しくなって、自分から帰ってくる」 そう言われて、小春はますます困惑した。 「でもママはどうして外で遊ぶの?家で大人しく待ってるべきじゃないの?」 その時、蒼介の携帯が二回鳴った。さっきまで落ち込んでいた小春の目が、たちまち輝く。 「紗里ちゃん?何か楽しいところ見つけたの?」 蒼介は携帯を取り出し、軽く頷いた。 「ああ、紗里が明日の夜のチケットを取ってくれた。一緒にミュージカルを見に行こう。お前の大好きな『白雪姫』だ。明日幼稚園が終わったら迎えに行く」 第9話 「やったー、嬉しい!」 小春が喜んでいると、ふと杏奈のことを思い出した。 今さっき、杏奈が帰ってこないと言ってくれて、ちょっと良かったかも。だって本当に帰ってきたら、きっとまたピアノの練習しなさいとか、お行儀よくしなさいとか、うるさくごちゃごちゃ言うに決まってる。 それに自分が紗里と仲良くしてるのを見て怒って、行っちゃダメって言うかもしれない。 そう考えると、蒼介が電話しなかった理由について、小春は妙に納得した。 杏奈が遊びたいなら、あと二日くらい外で遊ばせてあげればいい。週末が過ぎて、自分も十分遊んだら、それから呼び戻せばいいんだ。 翌日の夕方、杏奈は裕司が共有してくれた住所を頼りに、ブルーホエールホテルの二階へ向かった。 ただ、ホテルの入口に入った途端、蒼介が車から降りてくるのが目に入った。 二人は遠くから互いの姿を認め、一瞬固まる。けれど蒼介はすぐに視線を逸らし、車の反対側へ回って扉を開け、紳士的に手を差し伸べた。細い指が車内から伸びて、蒼介の手に重ねられる。 紗里が車を降りた瞬間、夕暮れの風がパールグレーのスーツスカートの裾をめくり上げ、足首のダークシルバーの蛇型チェーン飾りが露わになった。 かつて吉川ジュエリー展のフィナーレ作品に登場したこのアンクレットが、今彼女が地面に降り立つ動きに合わせて体をくねらせ、まるで生き物のように彼女の冷たく白い肌に絡みついている。 ただ、これが実は杏奈のデザインだと知る人は、おそらく誰もいない。美南の名前で発表されているのだから。 紗里は自然に蒼介の腕に手を絡める。蒼介が彼女を見下ろす目には、溢れんばかりの優しさがあった。 杏奈は指先で招待状の端を強く握りしめ、二人の後をついていく。エレベーターホールの鏡面に、青ざめた自分の顔が映し出された。 受付でゲストバッジを受け取る時、ざわめきが聞こえてきた。「ねぇ見た?藤本紗里の手首のブレスレット、ヴァンクリーフ&アーペルの今年の限定品みたい」 「彼女自身もデザイナーらしいわよ。デザイン界で少し名を上げ始めて、吉川社長が今、力を入れて押してるんですって」 「見れば分かるわよ。じゃなきゃ、こんな小規模な集会に、吉川社長みたいな大物が来るわけないじゃない」 「二人って結局どういう関係なの?」 「言うまでもないでしょ、彼女に決まってるわ。吉川社長は彼女のためなら、星だって月だって取ってきてくれるらしいわよ……」 杏奈は必死でこれらの声を全て遮断し、デザイナーたちの展示作品に集中した。 彼女は「星火」と名付けられたブローチのデザイン画の前で、足を止めた。 正直、この集会の中で最も彼女を魅了した作品だった。 「目が高いな」 聞き覚えのある声が背後から響く。杏奈が振り返ると、裕司がこちらに歩いてくるのが見えた。眼鏡の奥の瞳は温かく穏やかだ。 「このブローチは裏留めを使っている。この亀裂を見てごらん、以前話した氷山の亀裂に似ていないか?」 杏奈は微かに驚く。ふと思い出す。二人が学生時代、最初に手がけたデザイン。氷山の亀裂をよりリアルに、より美しく表現するため、彼女は自らアイスランドまで足を運んだのだ。 けれど今は…… 彼女の爪が無意識に掌のたこを擦る。長年包丁を握り続けた痕だ。 そう考えていると、杏奈は背中に冷たい視線を感じた。本能的に振り返ると、蒼介の鋭い視線と正面からぶつかった……