余命僅かな私、彼の「忘れられぬ人」の身代わりになる

Đang tải thông tin quảng bá...

余命僅かな私、彼の「忘れられぬ人」の身代わりになる

GoodNovel Hoàn thành

義兄を救うため、温井紬(ぬくい つむぎ)は長谷川慎(はせがわ しん)と結婚した。隠れた夫婦として三年。体の関係はあっても、心が通うことは一度...

Chương (1)

第1章

義兄を救うため、温井紬(ぬくい つむぎ)は長谷川慎(はせがわ しん)と結婚した。隠れた夫婦として三年。体の関係はあっても、心が通うことは一度もなかった。 余命宣告を受けたその日のこと。夫は愛人と夜空に花火を打ち上げ、二人きりで祝杯を挙げていた。出所したばかりの義兄も、別の女を抱きしめたまま「生涯でたった一人の運命の人」と世間に公表する始末だ。 普段は冷たく、人の心など知らない男たちが、揃いも揃って恋人を高らかに披露する光景――それを見て、紬はようやく悟った。もう待つ意味なんてない、と。 離婚届に判を押し、仕事も辞めた。家族とも完全に縁を切った。 それから紬は、ずっと胸に秘めていた夢を解き放つ。周囲から「所詮は専業主婦」と嘲笑われていた彼女が、気づけば科学技術分野の最高峰へと駆け上がっていた。 ところが、ある日突然、紬の隠していた正体と余命わずかな病が世間に知れ渡ってしまう。 自由気ままだった義兄は、目を真っ赤に腫らして懇願してきた。「紬、頼む。もう一度だけ『お兄ちゃん』って呼んでくれないか」 あれほど冷酷だった慎も、今度は狂ったように縋りついてくる。「紬、俺の命をやる。だから、どうか俺を置いていかないでくれ……」 でも、紬の心はもう動かない。 遅すぎる愛ほど、安っぽいものはないのだから。 そんなもの――今さら、欲しいとも思わなかった。 第1話 「申し訳ございません、温井さん。手術に最適な時期は、もう過ぎてしまっておりました……」 子宮がんの診断書を握りしめたまま、温井紬(ぬくい つむぎ)はしばらく動けずにいた。どれくらい経っただろう、彼女はようやく我に返り、長谷川慎(はせがわ しん)の秘書である柏木要(かしわぎ かなめ)に電話をかける。 呼び出し音が長く鳴り続けた。やっと出た相手の声は、いつも通り素っ気ない。「奥様、何か御用でしょうか」 紬は震える指を握りしめた。「慎は?話があるの」 「長谷川代表は今、取り込み中です」要が答えた。 「少しだけでいいから、代わってもらえない……?」 要の返事を待つ間もなく、受話器の向こうから柔らかな女性の声が聞こえてきた。「慎、サプライズって一体どんな物なの?もったいぶらないで教えてよ」 「上を見て」 聞き慣れた低い声。でも、紬に向けられたことは一度もない、あたたかな響きだった。 次の瞬間、要は遠慮なく電話を切った。 そのとき―― ドォンッ! 港の対岸から轟音が響いた。紬は青ざめた顔で空を仰ぐ。 対岸から打ち上がる、華やかな花火。紺碧の夜空を彩る光の饗宴は、まるでおとぎ話のように美しかった。 病院の入口には、人だかりができていた。 「ねえ、知ってる?あれ、ランセー・ホールディングスの長谷川代表が彼女の誕生日に上げた花火なんだって。一晩で40億円以上らしいわよ!」 「お相手、園部寧音(そのべ ねね)さんでしょ!世界トップの工科大の博士で、国内の一流企業が引く手あまたのエリート。頭も良くて美人で、家柄も申し分ないし、彼氏まであんなイケメンの大金持ちなんて!」 「そりゃあの長谷川代表も夢中になるわよ。あんな完璧な彼女、自慢したくなるに決まってるじゃない!」 紬は派手に輝く花火を見上げたまま、じっと立ち尽くしていた。やがて、握りしめていた診断書がするりと指から滑り落ち、薄い紙切れが足元に舞い降りる。 彼女は踵を返し、静かに立ち去った。 その日の明け方のこと。 慎が帰宅すると、灯りもつけずに紬が暗闇のリビングに座っていた。 彼はスイッチに手を伸ばして明かりをつけ、眉をひそめる。「まだ起きてたのか」 紬は顔を上げ、目の前の人を見つめる。上腕にかける上着、深い黒の瞳。変わらず冷ややかな眼差しで、こちらを見下ろしている。 ずっと、彼はこういう人なのだと思っていた。生まれつき、誰にでも冷たいのだと。でも違った。自分の隣で氷のように冷たい彼は、別の誰かにとっては、心を焦がすほどあたたかいのだ。 「眠れなくて」紬はかすれた声で答える。「今日、病院に行ってきたの」 慎は無造作に上着をソファに投げ出すと、無関心な口調で訊く。「で、何て言われた?」 紬は最近ずっと下腹部の痛みを訴えていた。慎は一緒に病院へ行くと約束してくれたのに、その度に延期になった。 ――会社で超大型契約が入っただの、プロジェクトでトラブルが起きただの。 慎は確かに昨日、紬に約束していた。病院に付き添うと。 でも寧音はこっそり自分の誕生日を祝うつもりだと聞いて、会社から慌てて寧音のところに駆けつけた。 寧音のために花火を打ち上げるのに夢中で、紬に関しては、確かに手が回らなかった。 「何でもない。もう少し様子を見ましょうって」紬は目を伏せる。「それより……今日は、どうして帰ってきたの?」 慎は一瞬動きを止めた。それから、ゆっくりと近づいてくる。 紬を抱き寄せ、首筋に何度も熱い吐息を落とす。耳元で、かすれた声が響いた。 「今日からお前の排卵日だろ」 「長谷川家の跡継ぎを産むために、毎月この時期は必ず関係を持つって約束したのはお前の方だ。まさか、もう忘れたのか?」 彼の身体から漂う女性用の香水の香り。それはまるで銃弾のように、紬が必死で保っていたわずかなプライドを撃ち抜いた。 慎の言う通りだった。結婚して三年、彼はずっとこうだった。祖母である長谷川老夫人に「長谷川家の跡を継ぐ子を」と言われたときだけ、義務のように帰ってきて、紬を抱く。 紬の意識がぼんやりと遠のく。子供……もう無理かもしれないのに。 もともと紬は、穏やかで従順な性格だった。言われるがまま、流されるまま。それが当たり前になっていた。でも今日は――もう、我慢したくなかった。 「慎、私と寝て……彼女に嫉妬されたりしないの?」 暗闇の中、紬の瞳が鋭く光る。大人しかった小動物が、初めて牙を剥くように。 慎は彼女を見つめた。いつもと違う真剣な表情に気づいたのか、彼の目に冷たい光が宿る。 やがて、慎が笑った。けれど、その笑みに温もりはない。 「まさか。俺たちの結婚は秘密だ。というか、表に出せないのはお前の方だろう」 「最初から脇役だと分かっていたはずだ」 第2話 心臓を鷲掴みにされたような痛みが走り、紬の顔からさらに血の気が引いた。 エアコンで快適に保たれた部屋の中にいるというのに、氷室に放り込まれたような寒気が全身を包み込む。 紬が黙り込んだまま何も言わないのを見て、慎はしばらくしてからようやく視線を外した。「寧音の母親の体調が悪化してる。唯一の願いは、娘に寄り添ってくれる人がいるのを見届けることだ。今の彼女には、支えが必要なんだ……お前、余計なことはするな。『長谷川代表の妻』として大人しくしていれば、俺は手は出さない」 浮気を正当化するような、堂々とした物言い。 手は出さないって? 紬はしばらくぼんやりとしていたが、ふっと笑った。胸が締め付けられる痛みをこらえながら、口を開く。 「彼女に寄り添うつもりなら、こんなところに来てる場合じゃないでしょう」 そう言い捨てて、紬は階段を上がり、躊躇なく寝室のドアを閉めた。 数分後、階下から車のエンジン音が聞こえた。慎が出て行ったのだ。どこへ向かったかなど、考えるまでもない。どうせ寧音のもとだろう。 紬は疲れ切った身体を引きずるように洗面所へ向かい、顔を洗った。冷たい水が頬を打ち、ようやく意識がはっきりする。 部屋に戻った彼女はパソコンを開き、三年前に登録していた弁護士に連絡を取り、離婚協議書の作成を依頼する。 すると、弁護士が尋ねてきた。「温井さん、家や車、財産分与について、何か特別なご要望は?」 紬は少し考えてから、静かに答えた。「何もいりません」 慎さえいらないのだ。ましてや、それ以外のものなど。 それに、ネットで調べたところ、何も要求しなければ手続きはもっと早く進むという。衰弱していくこの体で、彼と交渉する必要もない。 弁護士はすぐに完成した協議書を送ってきた。 紬はそれをプリントし、万年筆を握る手が真っ白になるほど力を込めた。けれど迷いはなかった。震えを抑えながら、一画一画丁寧に、自分の名前を書き込んでいく。 それから、痛む身体に鞭打って、急いで自分の物をまとめた。 玄関まで来たとき、三年間手入れしてきたこの家を深く見つめた。 そして振り返ることなく、出て行った。 翌朝、紬は休暇を取り、市内の即配サービスを呼んだ。昨夜印刷した離婚協議書を、ランセーの受付に届けるよう手配する。 宅配便のようなことに、慎が自分で手を出すはずがない。だから受取人は要の名前にした。 紬は慎と結婚してから、長谷川グループの関連企業であるランセーで働き始めた。慎は二人の結婚を公にするつもりはなく、社内で彼に近づくことも禁じられていた。それで紬は広報部に配属され、会社の公的イメージの管理を任されることになった。この数年、優れた能力を認められて広報部のマネージャーにまで昇進していた。 この三年間、彼女は一度も休暇を取らず、欠勤もしなかった。 仕事ができるのは、何事も完璧を求める彼女の性分のせいであって、好きでやっていたわけでも、自分の専攻を活かしたかったわけでもない。 離婚するつもりなら、ランセーに残る理由もなかった。 配達員を見送った後、紬は時計を見た。もうすぐ10時だ。 指先に力を込める。今は、もっと大事なことがある…… 西京市東城刑務所。 ハンドルを握る手に、じっとりと汗をかいていた。三年ぶりの再会に、抑えきれない緊張が紬の全身を駆け巡る。 今日は須藤柊(すとう しゅう)が出所する日だ。 出所祝いをするために、彼女は一か月前から個室を予約していた。 柊は父が引き取った養子で、幼い頃から一緒に育った。他人を平気で踏みにじる須藤家の中で、紬に優しくしてくれたのは柊だけだった。十数年もの間、彼女を守り続けてくれた。強い言葉を投げかけられたことなど、一度もなかった。 彼はこう言っていた。「誰が裏切ろうと、僕だけは絶対に裏切らない」、と。 紬は鏡で自分の顔を確認する。華奢な顔立ちは、病的なほど青白い。わざとチークを濃いめに塗って、普通に見えるようにした。心配させないために――痛み止めを一錠多く飲んで、サングラスと帽子も身につける。 刑務所の門がゆっくりと開いていく。 紬は思わず車のドアを開けて降りた。足が自分のものではないような感覚だった。 長身で黒い服を着た一人の男が、古いリュックを背負って大股で出てくる。短く刈り込んだ黒髪で、鋭い眉と目が静かに辺りを見渡して――そして、こちらを向いた。 その視線を受けて、紬の心臓が止まりそうになる。 喉が渇き、目が潤んだ。足が勝手に動き出す。「お兄、ちゃん……」 第3話 「柊さん!」 弾んだ女の声が、紬の思考を粉々に砕いた。その身体が紬の横をすり抜け、真っ直ぐに柊の広い胸へと飛び込んでいく。一方柊はいつものように女を受け止め、身体にしがみつくままにさせていた。 「もう、どれだけ待ったと思ってるの!あなたが出てこないと、パパに無理やり結婚させられちゃうところだったのよ!」 柊は女の顔を見つめながら、熱烈なキスに応えている。唇の端を上げて、「そんなに急いでどうする?じゃあ後で運転手を車から降ろして、お父さんに特別な贈り物でもしてやるか……」 女は甘えた声で抗議しながらも、彼にしがみついたまま離れようとしない。「もう、柊さんったら意地悪!パパがあなたに会いたくて、早く家に連れてくるように言ってるの。出所祝いもしてくれるって……」 紬の足は、その場に釘付けになっていた。茫然と、その光景を見つめるしかない。 気まずさと戸惑いが、遅れて押し寄せてくる。 かつてあんなに優しく、いつも自分を最優先にしてくれた柊。それは十数年間見続けた、ただの夢だったのだろうか。 下腹部に、またじくじくとした痛みが走り始めた。 刃物が、時を超えて再び身体を貫くような痛み。 ――「紬、僕は須藤家の戸籍に入りたくない。本当の意味で、君の兄になんかなりたくないんだ」 ――「大きくなったら、僕と結婚してくれるか?」 優しい声が脳頭に響き、紬は一瞬現実を見失った。 「危ない!」 緊迫した叫び声が響く。紬が顔を上げると、バイクが猛スピードで突っ込んでくる。こちらへ――自分と、柊と、あの女のいる方へ。 柊は躊躇なく女を抱えて後ろに下がり、彼女をしっかりと庇った。 紬は自分一人で慌てて避けるしかなかった。慌てふためいて顔を覆い、足首を捻ってしまう。 「君……」柊がこちらを見た。深い瞳に、戸惑いと焦るような色が浮かんでいる。 「あっ、大丈夫……」 紬は涙がこぼれる前に、身を翻して走り去った。 女が不思議そうに尋ねる。「誰、あの人」 柊はしばらく呆然としていたが、やがて女の顎を掴んで頭を下げ、キスを落とした。「知り合いに似てただけさ」 知り合い…… 十数年も寝食を共にし、かつて結婚したいとまで言ってくれた相手のことを? 紬は車に戻り、捻れるように痛む腹を押さえてハンドルに突っ伏した。冷や汗が次々と噴き出す。胸の痛みと、病に侵された身体の痛みと、どちらが強いのかもわからなくなっていた。 すると、けたたましい着信音が、紬の思考を遮った。 携帯の画面を見ると、要からの電話だった…… ランセーにて。 要は紬から送られてきた書類を手にして、眉をひそめた。 同じ会社にいるのに、わざわざこんな方法を取るとは、何のつもりだ? 代表室に近づけないから、こんな手段で長谷川代表の気を引こうとでもいうのか? 子供じみている。 要は不機嫌そうに広報部へと向かった。 だが、今日は紬が出社していないと告げられる。 今日は仕事が山積みなのに……要はさらに眉間に皺を寄せ、紬に電話をかけた。 「温井マネージャー、今どんなつもりか知りませんが、すぐに会社に来てください」 紬は目を伏せた。慎に関係すること――離婚協議書を見たのだろうか。離婚について話すつもりなのか? それしか考えられない。 紬は迷わず車の向きを変え、ランセーへと向かった。 要は紬が慌てて駆けつけてくるのを見て、確信した。やはり本性は変わらない。特別扱いされて長谷川代表の気を引きたいのだろう。彼の顔には、浮かぶ嘲りを抑えきれない。 「彼は?」紬の顔色は優れなかった。 この後、病院で薬を受け取らなければならない。保存的治療を始めるかどうかも決めなければ。一度始めたら、母方のおばあちゃんや叔父にも隠し通せなくなる。 「ここは会社です。長谷川代表がわざわざ温井マネージャーに会いに降りてくるというのですか?」要は事務的な口調だった。「長谷川代表から、あなたに処理してほしい件があります」 「つまり、離……」 「昨夜、園部さんの誕生日祝いで炎上しました。園部さんが略奪愛をしたという疑惑です。園部さんは一般の方ではありません。ランセーの重要プロジェクトのイメージキャラクターになる予定なんです。プロジェクトに悪評が立つわけにはいきませんし、園部さんの名誉を傷つけることもできません!」 「長谷川代表は温井マネージャーを指名しました。園部さんの名誉を守り、世論を鎮めてください!」 第4話 紬は呆然と立ち尽くした。 青ざめた唇を強く噛みしめて言った。「慎からの指示なの?」 「ええ」 要は正直、紬のことが好きではなかった。仕事熱心で能力もあるが、そもそも汚い手段で代表のベッドに潜り込み、結婚を迫ったことはいけなかった。 そんな女は、軽蔑に値する。 「長谷川代表は、世論が収まるまで、今日はどこにも行くなとおっしゃいました」 「できないというのなら、こんな無用な人間をランセーに置いておく余裕はないと!」 紬は、慎の心に自分がいないことくらいとっくに分かっていた けれど、離婚を決めたこの時期に、まさかこんな仕打ちを受けるとは思ってもみなかった。 妻である自分に、夫の浮気相手のために――しかも事実を隠蔽するような処理をしろと言うのだ! 怒りが胸を突き刺し、下腹部の痛みが激しさを増す。紬はデスクに手をついて不調を隠しながら、嘲りを込めて自分の名札を見下ろした。 手に取り、首から外す。 「ランセーが無用な人間を置かないのは確かね。でも、この仕事は私には無理」彼女は淡々と名札をデスクの端に置いた。「私、辞職します」 昨夜、離婚協議書を作ったのと同時に、退職願も提出していた。 手続きが煩雑で、まだ慎のところまで届いていないのかもしれない。けれど今日、寧音に関する仕事だけは、絶対に引き受けるつもりはなかった。 「今後、園部さんに関することは一切私に振らないで。慎に、他の人を手配してもらってください。ランセーほどの大企業なら、私一人欠けても困らないでしょう!」 要は一瞬、驚愕に目を見開いた。 温井紬が、やめる……? 長谷川代表に近づける、この仕事を本当に手放すつもりなのか? どうせまた、一歩引くことで気を引く――長谷川代表の関心を得るための策略だろう。 要は最上階へと戻った。 慎のスケジュールは詰まっていた。これから東凛テクノロジーズの高橋(たかはし)社長との面会が控えている。 「長谷川代表、東凛の契約書です。ご確認ください」 慎は目を落として書類に視線を走らせる。 「寧音のこと、広報部の処理は進んでいるか?」 要は一瞬言葉に詰まった。「温井マネージャーは……」 「端的に言え」 「温井マネージャーは、この件は処理できないと」 「退職願を提出しており、今後園部さんのことで連絡するなと言っています」 慎が契約書をめくる手が止まった。顔を上げ、冷たい視線を向ける。 「今日、会社に来て提出したのか?」 「温井マネージャーは今日は休暇を取っていましたが、私が急遽呼び戻しました。人事部によると、昨日の時点で提出されていたそうです」 「休暇?」慎は辞職のことではなく、休暇の方に食いついた。 要は上司の意図が読めず、戸惑いながら答える。「何か特別に重要な用事があったのでしょう。なにせ温井マネージャーは三年間、一度も休暇を取ったことがありませんでしたから」 その点は慎も知っていた。 温井紬は一見クールで淡々としており、誰とも深く関わらないように見えるが、実は人に対しても仕事に対しても極めて真摯だった。聡明で手腕だってある。だからこそ二年足らずで広報部マネージャーの座についたのだ。 その彼女が休暇を取り、退職まで申し出る―― 彼女にとって、尋常なことではないはずだ。 慎は目を伏せ、何かを考え込んでいた。 やがて、冷たい表情で立ち上がる。 「辞職は認めてもいい。だが寧音の件を片付けてからだ。もし処理が甘くて業界に悪評が広まったら、自分で責任を取らせろ」 要は内心で首を傾げた。 普通なら、長谷川代表は温井紬がランセーを去ることを望んでいるはずなのに。どうして今になって引き留めるのだろう? 彼には、本当に理解できない。 「そういえば長谷川代表、温井マネージャーから届いた書類がもう一つ……」 慎が電話に出た。要の言葉を聞きながら、振り返りもせず手を振る。「いつも通りに」 ――つまり、温井紬からの申し出は全て保留にするということ。 以前、紬が人づてに送ってきた服、ネクタイ、カフスボタン、手作りのプレゼント。 ランセーの重要ハイテクプロジェクトがドローン関連だと知ると、彼女は自分で模型まで作って送ってきた。 長谷川代表は一度も目を通さず、全て代表室の滅多に開けない棚に放り込んでいた。 たまに急ぎで必要になったときだけ、その棚から引っ張り出して使う程度だ。 要は慣れた手つきで、未開封の書類を再び棚へと放り込んだ。 あの女がどれだけ心を砕いたところで、結局は無駄な努力なのだ。 第5話 手元の仕事を片付けると、要から電話が入った。 慎の意向を繰り返し伝えられる。 紬はすぐに、慎の意図を読み取った。 寧音と慎の関係は、いわゆる不倫関係だ。寧音はまぎれもなく「愛人」という立場にいる。 慎が紬にこの件の処理を命じたのは、保険をかけるためだ。万が一、後になって誰かが過去を蒸し返したとき、妻である紬自身が「二人の関係を認めた」という事実があれば、寧音は二人の結婚への介入者とは見なされず、世間の批判を免れることができる。 ……慎は寧音のために、どれだけ心血を注いでいるのか! あの「責任を取らせる」という言葉の意味も明白だった。もし処理を拒めば、ランセーを辞めた後、どの会社も紬を受け入れようとはしないだろう。彼女の生きる道を、慎は断つことができる。 振り返ってみるとこの三年間、紬は妻としての務めを尽くしてきた。彼と結婚した日から、過去の全てを断ち切る覚悟を決めていた。それでも、ほんの少しの真心さえ返ってこなかった。 もう、疲れた…… 紬は自嘲的に唇の端を上げ、淡々と告げた。「病気休暇を取ります。もしこんな私に無理やり処理させるなら、労働法違反です。裁判所で会いましょう」 離婚も辞職も決めた今、慎の機嫌など、もう気にする必要はなかった! 退社後、車に乗り込むと、父である須藤康敬(すとう やすのり)からメッセージが届いていた。【お前の兄が出所したから、家で宴を開く。戻ってくるのか?】 問いかけの形ではあるが、紬には分かっていた。康敬は「親不孝な娘」である彼女に戻ってきてほしくないのだ。 かつて紬と柊の間に芽生えた感情を、康敬は恥辱と見なしていた。紬が風紀を乱したと責め、もし長谷川家のような名門に嫁ぐ利用価値がなければ、とうの昔に勘当して、永久に縁を切っていただろう。 でも、相手は柊だ。かつて、紬にとって最も大切だった人。 紬はしばらく迷った末、化粧を直して血色をよく見せ、車を走らせて須藤家の別邸へと向かった。 柊のためでなければ、この家と関わることなど二度となかっただろう。 紬の姿を見て、使用人が奇妙な表情を浮かべ、眉をひそめる。 「温井お嬢さん、どうして……?」 紬は答えなかった。数年前から、ここはもう自分の家ではなくなっていた。使用人たちでさえ、心から紬を見下し、歓迎していないのだ。 「温井紬?」 階段から須藤瑠衣(すとう るい)が降りてきた。紬を見つけると、氷のような視線を向ける。 「この恥知らず、よくも来られたわね。お兄ちゃんが帰ってきたばかりなのに、もうすり寄ってくるなんて。みんなを不愉快にさせて――それがあんたの目的なの?」 瑠衣は父の不倫で生まれた私生児だ。紬と同じ年、同じ月、同じ日に生まれた。それなのに今では本物の令嬢のような顔をして、紬を嘲笑っている。 「あなたが恥を知ってるのなら、私の母の家から出て行けばいい。どれだけ潔白か見せてもらいましょう」紬は淡々と言い返した。 この家は、母が昔、高額で絵を売って買ったものだ。 しかし今、康敬が愛人の柳智里(やなぎ ちさと)と瑠衣を連れ込んで、快適に暮らしている。瑠衣は紬の母が遺したものを楽しみながら、なぜ偉そうにできるのか。 「あんた……!」 瑠衣の顔色が一瞬険しくなったが、何かを思い出したように、嘲りの笑みを浮かべた。「じゃあ後で、あんたが笑っていられるか見ものね」 「あら、この方は?」 好奇心に満ちた女性の声が、二人の言い争いを遮った。 応接間の方から物音を聞きつけて、親密に寄り添った二人の影が現れた。茜は紬の顔を見ると、思わず柊の服を引っ張った。「すごく綺麗な人ね」 柊は紬にちらりと目をやったが、すぐに恋人の顔に視線を戻した。隠すこともなく、彼女の腰に手を回す。「瑠衣と同じで、僕の妹だ」 「妹にまで嫉妬するの?」 茜は顔を赤らめ、柊の胸を軽く叩いてから、紬に向き直った。「柊さんに妹が二人いたなんて。お名前は?」 紬は茫然とその光景を見つめていた。柊が恋人を連れて帰ってくるとは、思ってもみなかった。 家族への挨拶――柊がどれほど真剣かが窺える。 かつて紬と結婚したいと言い、彼女のためなら全てを捨てると誓った柊は、もういないわけだ。 今では、紬を瑠衣と同列に扱うだけだ。 乾いた喉を動かし、紬は答えた。「温井、紬」 茜は意外そうに、何か考え込むような表情を浮かべた。そして、紬にも須藤家の人々にも居心地の悪い質問を投げかける。「温井?どうして『須藤』じゃないの?」 紬が答えないのを見て、茜は自信ありげに微笑んだ。 「松永茜(まつなが あかね)よ。私のことを……」 「義姉さんと呼べ」 柊がゆっくりと言葉を継いだ。今度はきちんと紬を見据えて言った。「僕は本気になれる女性に出会ったんだ。君も『義姉さん』と呼ぶべきだな」 第6話 紬は柊と目を合わせた。彼は口元に笑みを浮かべているようで、しかし目は笑っていない。まるで他人事のように、紬が動揺する様子を観察している。 紬は指先に力を込めた。心の奥底に残っていた最後の期待が、音もなく消えていく。 彼女は視線を逸らさず、柊の望み通りに答えた。「ええ。義姉さん、よろしくお願いします」 茜の笑みが一層深まり、柊の腰に抱きついて甘える。 柊は一瞬動きを止め、紬をちらりと見た。それから頭を下げて茜を抱き寄せ、応接間へと入っていった。 「ちっ、何を大人ぶってるのよ」瑠衣が近づいてきて、紬を嘲笑う。「お兄ちゃんは今、人妻なんか眼中にないわよ!」 「それに昨日、長谷川代表が誕生日を祝ってた園部さん。最近、企業界で取り合いになってる航空工学博士なんですってね。料理と夜伽しか能がない専業主婦のあんたなんて、比べ物にならないわ」 「もしかして、追い出されるのが怖くなって、須藤家に泣きついてきたとか?」 この最悪な結婚生活を、みんなが笑い種にしている…… 紬の胸が締め付けられた。手に提げていたプレゼントを置き、言葉を返す。「安心して。これから先、私がどうなろうと須藤家には関係ない。だって、私の名字は温井だもの」 紬は振り返ることなく、須藤家を立ち去った。 ここに留まっても、お互いに不快になるだけだ。 「あいつはもう帰ったのか?」 康敬が脇の部屋から出てきた。ちょうど紬が決然と去っていく背中が見え、表情が険しくなる。 瑠衣は我に返り、つい愚痴をこぼした。「パパ、あの態度見た?須藤家もパパも馬鹿にしてるのよ。長谷川代表も、そのうち離婚するに決まってるわ」 この三年間、康敬も悟っていた。紬は慎の心など掴んでいない。結婚直後こそ紬を利用して長谷川家から恩恵を受けたが、その後、須藤家の多くのプロジェクトで長谷川家の後ろ盾を期待しても一切便宜を図ってもらえなかった。長谷川慎は義父である自分など、まるで気にかけていないのだ! これも温井紬が役立たずだからだ。 夫の心さえ掴めないとは、まったくの無能者だ! 康敬は顔を曇らせ、瑠衣を一瞥した。「お前も年頃だ。あいつは使えない。機会を見つけて、お前を長谷川代表の前に出してやろう」 この話の意味を、瑠衣が理解しないはずがない。 彼女の表情が一瞬硬くなった。思わず柊の方を見ると、彼は妖しげに笑いながら、ぶどうを噛んで茜の口へと運んでいる。 彼女は唇を噛み、瞳に悔しさを滲ませた―― 紬は一年契約で2LDKを借りた。内装済みで即入居可能――よく通う病院からも2キロほどと、条件は申し分ない。 何かあれば、すぐに駆けつけられる。 須藤家から帰ってきて頭がぼんやりしていたが、それでも紬は慎のラインをブロックすることを忘れなかった。 電話番号は役所での手続きの連絡を見逃さないために、とりあえず残しておく。 今の彼女がすべきことは、慎が離婚を認めてくれる日までやり過ごすことだけだ。 携帯を置き、シャワーを浴びてからベッドに倒れ込んで、そのまま眠りに落ちる。 その頃―― 慎が別邸に戻ると、玄関には明かりがついていなかった。 以前なら、どんなに遅くても、紬は必ず明かりを一つ残して待っていてくれた。優しく近づいてきて上着を受け取り、着替えを用意してくれた。 慎が家に帰ることは滅多にない。毎月決まった数日、「義務」を果たしに戻ってくるだけだ。 今日も習慣的に上着を差し出したが、受け取る手はない。慎は辺りを見回し、軽く眉をひそめた。 紬、まだ拗ねているのか? 階段を上がり、主寝室のドアを開ける。あいつはせいぜい自分を待たずに早めに寝て、「抗議」するくらいだろうと思っていたが、ベッドには誰もいなかった。 別邸全体が静まり返り、明かりもほとんどない。 ……温井紬は帰っていない。 要から、紬が寧音の件に対してとった態度は報告されていた。裁判所で会おうとまで言って、自分に歯向かったのだという。 そして今…… 慎はネクタイを緩め、唇の端に冷笑を浮かべた。 家出まで覚えたのか? だが、慎は気にも留めなかった。 どうせ彼女には、頭を冷やす時間が必要だったのだろう。 第7話 翌日、家政婦がやってきたとき、慎の妹である長谷川紫乃(はせがわ しの)も一緒だった。 まだ17歳になったばかりの少女は、勢いよく玄関に入るなりバッグをソファに放り投げた。 「紬は?」紫乃は目をぱちくりさせて慎を見上げる。 慎はネクタイを結びながら、彼女を一瞥した。「呼び方」 紫乃は唇を尖らせる。「お兄ちゃんだって彼女のこと好きじゃないのに、なんで『義姉さん』なんて呼ばなきゃいけないの」 温井紬は格上の家に嫁いだ立場、長谷川家のために尽くして当然なのだとママが言ってた。確か、何て言ってたっけ? 高級家政婦? 「で、今度は何の企みだ?」慎は妹の性格をよく理解していた。冷淡で圧のある口調で問いかける。 紫乃の目がくるくると動いた。「お兄ちゃんってさ、今日すごく忙しいんでしょ?」 「で?」 「ママはファッションショーを見に行ったし、パパは海外だし、おばあちゃんだって体調悪い。誰も保護者会に来てくれないの」 「だから紬に行ってもらえばいいじゃない。どうせお兄ちゃんのお金で食べて暮らしてるニートなんだし、時間なんて一番あるでしょ」紫乃は小さな足をぶらぶらさせながら、甘えた声で言った。 慎は一瞬動きを止めた。「自分で彼女と相談しろ」 紫乃は鼻を鳴らし、自信たっぷりに言う。「紬のやつ、お兄ちゃんに気に入られたくて、あたしにすっごく親切なんだから。ネットで言ってる計算高い女ってやつね。連絡すればきっと来るよ」 最近、紫乃は寧音が海外で行った航空分野の公開講演にハマっていて、成績が少し下がっていた。今回の保護者会では先生が保護者と面談するって言われたから、兄や母には来てほしくない。どうせ紬なら関係ないし、先生に叱られたって平気だ。 紬は自分に気に入られようと必死だから、兄や母にチクったりしないはず。 その言葉を聞いて、慎は何か考え込むように一瞬沈黙した。それから上着を羽織りながら外へ向かう。「ああ、彼女の休暇は許可しておく」 紬が目を覚ましたとき、頭痛を感じた。少し熱もある。今の紬の身体は、いつどこで不調が出てもおかしくない。免疫システムも抵抗力も、もう正常な人のようには機能していないのだ。 昨日から病気休暇を取っている。今日こそ病院で医師と保存的治療の方針を確認しなければ。 病院のロビーに着いたとき、紬の足はすでにふらついていた。数歩進んだところで、地面に倒れ込みそうになる。 「紬!」 女の驚きの声が聞こえた。 そのまま、紬は意識を失った…… 目を覚ましたとき、ベッドの脇には親友の清水笑美(しみず えみ)がいた。 紬が目を開けたのを見て、笑美は心配そうに声を荒げた。「長谷川慎って野郎、一体どんな奴隷労働させてるのよ!医者が言ってたわ、過労で倒れたって。今やっと熱が下がったところなんだから」 紬は思わず緊張した。自分の病気がバレていないか心配になる。 「どうした?熱で頭おかしくなった?」笑美が叫ぶ。「先生!紬が……」 「大丈夫、大丈夫よ」紬は頭痛が増すのを感じながら、慌てて彼女を止めた。 幸い、笑美は何も知らないようだ。でなければ、彼女の騒々しい性格からして、半日もしないうちに紬ががんだという噂が西京市中に広まってしまうだろう。 無論、母方の祖母や叔父にも隠し通せなくなる。 「あなたこそ、どうして病院にいるの?」紬が尋ねた。 笑美は肩をすくめる。「うちの兄のバカ、酒飲んで急性アルコール中毒起こしてて。死んでないか確認しに来たのよ」 「でも紬、顔色がひどいから気になって。もしかして、長谷川慎ってクズと、あの愛人のせい?」 笑美もあの生放送を見ていた。 慎が既婚者だと知る人は少ない。彼と愛人の「美しき恋物語」に夢中になっている人ばかり。 くそったれ! 最低のカップルめ! 紬はぼんやりとしたが、もう何の感情も湧いてこなかった。「彼とは、もうすぐ離婚するの」 慎が認めてくれれば、この三年間の茶番もついに終わる。 笑美は固まり、すぐに誤解し、目を怒りで見開く。「はぁ!?まさかあいつ、あの女を正妻にするつもり!?」 紬は当初、慎と結婚するために、自分の夢もキャリアも完全に諦めた。賀来先生が特例で航空研究院に招いてくれた機会さえ断り、いい妻に徹して慎の身の回りの世話をした。 あの外面だけはいい最低男を、死ぬほど愛していたのだ。 誰が見ても、紬から離婚を切り出すはずがない。慎に捨てられたに決まっている。 紬は首を横に振った。「切り出したのは私よ」 笑美は少し呆然としていたが、やがて手を叩いた。「いい、それでいいのよ!紬みたいに優秀で素晴らしい女性は、恋愛なんか封印して仕事に打ち込むべきなのよ!ランセーなんて蹴っ飛ばして、フライテックに来てよ。技術で出資するのはどう?」 フライテック株式会社は、最先端ドローンの開発を主軸とする企業だ。笑美はその大株主の一人。子供の頃からのビリだったし、専門知識は皆無。ただ、最も重要な真理だけは掴んでいた。 お金持ちであること。 そして、金を惜しまず投じること。 紬は「フライテック」という名を聞いて、青白い顔に一筋の熱意が浮かんだ。 第8話 当時、紬が理想の専攻で学び続けていたら、航空工学の業界に進んでいただろう。 ドローンはこの時代における最重要のハイテク製品だ。民間、農業など、あらゆる分野で活用されている。 かつて恩師が推薦状を書いて研究院に紹介してくれたのには、理由があった。 紬が設計と技術指導を担当した偵察攻撃一体型ドローン「U.N」――長距離飛行、高積載量、高速度、自動化操作を実現し、数々の技術的難関を突破したその機体は、今や実戦投入されている。 業界内では、すでに「頂点」と呼べる存在だった。 しかし今になり、結婚生活に時間を費やし、心身ともに傷つき、若くしてがんに侵され、あとどれだけ生きられるかも分からない。 それでも紬は、一つの真理に辿り着いた。 ――人は結局、自分自身を第一に考え、自分のために生きるべきなのだと。 たとえ将来、治療が功を奏さなかったとしても。限られた時間の中で、後悔しない生き方をしたい。 紬は…… 自分の分野に戻り、夢を追い続けたい! 笑美は技術のことは分からないが、彼女のフライテックには一流の人材が揃っている。 笑美が資金を出し、相手がチームを率いて研究を進める。この数年でフライテックは急成長を遂げ、西京市では侮れないダークホースとなっていた。 その価値は計り知れない。 ただ―― 「知ってるでしょ。私が結婚を選んだとき、あの人はもう私と関わりを持ちたくないって言ったのよ。それにあの人、フライテックの責任者だもの。私が行ったら……許してくれると思う?」 かつて紬に推薦状を書いてくれたのは、あの人の父親だった。父子揃って紬に大きな期待を寄せ、多くの労力を費やしてくれた。紬は将来必ず大成し、国に貢献するだろうと信じてくれていた。 それなのに紬は、結婚することで彼らを裏切ってしまった。 笑美は頭を掻いた。「承一は、口は悪いけど心は優しいのよ。今度機会を作って二人で話してもらえば大丈夫。実は、紬のこと気にかけてるんだから」 紬は苦笑した。 もしあの時、康敬が権力者に取り入ろうと策略を弄して自分を慎のベッドに送り込み、愛するすべてを捨てるよう脅迫しなければ―― 今頃、もっと輝かしい人生を送っていたかもしれない。 携帯がブルブル震えた。紫乃からの着信だ。 紬は眉をひそめ、通話を切った。 離婚を決めた今、紫乃の我儘に付き合うつもりはない。 だが紫乃はしつこく電話をかけ続けてくる。 わがままな態度が滲み出ている。 五回目の着信で、紬は唇を噛みしめながらようやく電話に出た。 「もう、うざい!あたしからの電話だって分かってるでしょ?」 「……何か用?」 「10時から保護者会なの。お兄ちゃんの代わりに来て。人に聞かれたら、うちの家政婦だって言ってね」 兄はやっと寧音さんと公にしたばかり。他の人に寧音さんのことを誤解されたくないらしい。 紬は唇を引き結び、冷静に告げた。「私はあなたの母親じゃないし、もう義姉でもない。保護者を探すなら、あなたの親権者に頼んで。それから」 「もういい歳なんだから、礼儀という言葉の意味くらい理解しなさい」 紬は電話を切った。 疲れがぐいと押し寄せる。 紫乃はずっと紬を嫌っていた。大人たちが紬をどう見ているか、子供は敏感に察知する。 紬が慎にしがみついて結婚したと思い込み、この三年間、紫乃が休暇を取るたびに紬のもとへやってきて困らせた。 洗濯や料理を命じ、あれこれと振り回す。 慎と寧音の関係が始まった頃には、頻繁に紬のもとを訪れては足止めし、二人のデートを邪魔させなかった。 17歳――もう、全てを理解できる年齢だ。 だからこれ以上、彼女を甘やかす義理はない。 笑美は、紬が本当に決意を固めたのを見て取った。離婚への覚悟――今がチャンスだ。鉄は熱いうちに打て。笑美はすぐにフライテックへ戻り、賀来承一(がく しょういち)を説得して紬と会わせようと決めた。 紬は点滴が終わるのを待った。 17時近く、慎の母・長谷川紗代(はせがわ さよ)から電話がかかってきた。 紬は一瞬躊躇したが、電話に出ることにした。 「紫乃はどこに行ったの?あなたに保護者会へ行くよう頼んだんでしょう?先生があなたが来なかったと言ってたわ。あの子も欠席して、今行方が分からないのよ!」夫人の口調は威圧的で、苛立ちが全面に出ている。 紬は眉をひそめた。 こんな展開は予想していなかった。 紗代はずっと紬に不満を抱き、むしろ嫌悪していた。当時、紬が「ベッドに潜り込んで結婚を迫った」のでなければ、息子の慎は名門の令嬢と結婚していたはずなのだから。 「知りません」 「約束を破ったのはあなたでしょう!責任逃れするつもり?」 「三年も子供を産めない人間が、子供への最低限の責任感もないなんて!」 「まあ落ち着いて。紬の性格は分かってるでしょう?」向こうから長谷川美智子(はせがわ みちこ)がなだめる声が聞こえてきた。軽い咳も混じっている。「紫乃ももう子供じゃないわ。紬の責任じゃないのよ」 義祖母の美智子は長谷川家で唯一、紬のことを愛してくれる人。この三年間、ずっと紬を守ってくれた。当初、慎が結婚を承諾したのも、美智子の体調が優れず、ストレスに耐えられなかったからだ。それに、慎の祖父と紬の母方の祖父が親友だったこともあり、美智子は紬をとても気に入っていた。そうした事情から波風を立てないために、紬を嫁として迎え入れたのだ。 体調の悪い美智子を巻き込んでしまい、紬は考えた末に言った。 「紫乃に連絡を取ってみます」 これまで紫乃の我儘を許してきたのに、今日は突き放してしまった。思春期の少女が反発するのも無理はない。一人の女の子が無闇に出歩くのは危険だし、紬が強い言葉を使ったことも多少は関係している。 紬は点滴の針を抜き、頭がくらくらして立つのもやっとの状態で、紫乃に何度も電話をかけた。 しかし、相手は出る気全くないのだ。 すぐに切られる。 まるで、わざと紬をからかっているかのように。 紬はこの三年間、広報の仕事で培った観察力を使い、紫乃のSNS、ミュージックアプリのプロフィール、ブログを一つ一つ確認していった。 ついに、彼女のいるビリヤードクラブの場所を特定できた。 紬が駆けつけたとき、個室には見覚えのある顔が並んでいた。 そして中央には、慎と寧音がいた。 今、紫乃は寧音に絡みつき、A大学のことを尋ねている。 ちらりと紬に気づくと、すぐさま寧音の腕に抱きついた。 「お兄ちゃんがこんなに寧音さんのこと好きなんだから、もう義姉同然なんだね」