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徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る
離婚を決意する三ヶ月前、池上由奈(いけがみ ゆな)は職場に異動願を提出した。 一ヶ月前、滝沢祐一(たきざわ ゆういち)宛てに離婚届を送っ...
Chương (1)
第1章
離婚を決意する三ヶ月前、池上由奈(いけがみ ゆな)は職場に異動願を提出した。
一ヶ月前、滝沢祐一(たきざわ ゆういち)宛てに離婚届を送った。
そして、最後の三日前――彼女は自分の荷物をすべてまとめ、二人の家を後にした。
結婚生活は六年も続いた。
だが祐一は、初恋の相手である長門歩実(ながと あゆみ)と健斗(けんと)を連れて堂々と由奈の前に現れ、幼い子に「パパ」と呼ばせた瞬間、由奈はすべてを悟った。
――ああ、この人にとって大切なのはあの親子なんだ。
彼女たちのために、祐一は何度も由奈を犠牲にし、譲歩するよう迫った。まるで由奈こそが邪魔者で、存在を知られてはいけない愛人のようだった。
ならば、もう終わらせよう。この婚姻を断ち切り、彼が本当に好きな人と共にいられるように。
そう覚悟して由奈は去った。
けれど、彼女が本当に姿を消した時――祐一は正気を失った。
由奈は、祐一が望みどおり歩実と結ばれると思っていた。だが、権勢を誇るあの男は、真っ赤に充血した目でメディアの前に立ち、惨めなほどの言葉を吐いた。
「俺は浮気なんてしていない。隠し子もいない。俺には妻の由奈しかいないんだ。だが……彼女はもう俺を必要としたりしない。俺は、彼女に会いたいんだ!」
第1話
「池上先生、江川病院への異動……本当に決めたのか?」
斉藤勉(さいとう つとむ)院長は、池上由奈(いけがみ ゆな)の異動願を手にして目を丸くした。
由奈はわずかにまつげを震わせ、苦みを含んだ笑みを浮かべる。「はい、もう決めました」
その瞳に揺るがぬ決意を見て、勉は深いため息をつき、静かに署名した。
院長室を出て廊下を歩いたとき、由奈は白衣を着た長門歩実(ながと あゆみ)と、その隣にいる滝沢祐一(たきざわ ゆういち)、そして小さな男の子に出くわした。
一瞬、足が止まる。
まるで幸せな家族のような光景が、目に飛び込んできたのだ。
二人の間を歩く男の子が、左右の手をそれぞれ歩実と祐一にぎゅっと握られ、無邪気な笑顔を浮かべている。
由奈の胸に鋭い痛みが走った。
祐一が歩実と子どもに向ける柔らかな眼差し、穏やかで優しい仕草――それは、由奈が一度も与えられたことのないものだった。
彼は自分を憎んでいるのだと、由奈はよく知っている。
祐一の初恋の相手は歩実だった。だが、由奈が祐一の祖母・和恵(かずえ)と取引をして彼と結婚したとき、すでに二人は別れていた。とはいえ、その事実を知ったのは結婚後のことだった。
結局祐一にとって由奈は、隙を突き、卑怯な手で妻の座を奪った女でしかないのだ。
けれど――彼は知らない。
本当は、由奈の方が先に祐一と出会っていたのだ。だが彼は、その記憶をとっくに忘れていた。
結婚すれば思い出してくれる。冷え切った心も、寄り添えば少しずつ温まっていく。由奈はそう信じていた。
けれど、それは思い上がりにすぎなかった。
祐一は彼女を憎んでいる。愛してくれることなど、決してないのだ。
その証拠に、六年間の結婚生活のあいだ、彼は周囲に「独身だ」と言い続け、妻である由奈をまるで存在しない人間のように扱った。
「池上先生?」歩実が気づいて声をかける。
祐一は眉を寄せ、じっと由奈を見つめる。その視線には、まるで「余計なことを口にするな」と言いたげな緊張があった。
その距離感が、刹那に由奈の胸を締めつける。けれど彼女はすぐに表情を整え、頭を下げた。
「長門先生、滝沢社長、お疲れ様です」
祐一は最近、中央病院の出資者となり、病院経営に名を連ねている。もちろん、それは由奈のためではなく、歩実のためだった。
歩実が帰国してすぐ、祐一が彼女を中央病院に入れ、外科部長として推薦したのだ。院内では誰もが「歩実の後ろ盾が滝沢社長」と噂し、さらには二人が恋人関係だという話まで広がっていたが、祐一は何一つ否定しなかった。
歩実は祐一の腕を自然に取り、にこやかに言う。
「そんなにかしこまらなくていいのよ。私なんてまだ入ったばかりだし、これからいろいろ教えてもらわないと」
そのとき、男の子が祐一にしがみついた。「パパ、疲れた。抱っこして?」
由奈の顔色がさっと変わる。
――パパ?
歩実は慌ててしかめ顔をつくる。
「健斗、だめでしょ。そんな呼び方したら」そう言いながら祐一へ申し訳なさそうに視線を向けた。
「ごめんなさい、祐一。子どもがわかってなくて」
祐一はちらりと由奈を見たが、怒ることもなくただ穏やかに子どもを抱き上げた。
「いいんだ」
「僕、祐一パパが大好き!本当に僕のパパになってくれたらいいのに!」
健斗(けんと)は祐一の首に腕を回し、甘えるように声を弾ませた。
「もう、しょうがない子ね」歩実は苦笑しながら彼の頭を撫でた。
由奈は拳を固く握りしめる――こんなに優しい祐一を、彼女は見たことがない。
……もう諦めた。
どんなに頑張っても、冷たい心を温めることはできなかった。なら、終わりにするしかない。
重い気持ちを押し込み、由奈は三人を追い抜いてエレベーターに乗り込んだ。
……
異動の件は誰にも知らせていない、もちろん祐一にも。
知らせる必要がないと思ったし、彼が知りたがるはずもないのだから。
車を走らせ、由奈は滝沢家の本邸へ向かう。門前でチャイムを押すと、しばらくして使用人の森田(もりた)が出てきた。
「奥さま、お帰りなさいませ」
「おばあさまはいらっしゃる?」
「はい、中でお待ちです。どうぞ」
滝沢家の重鎮である和恵。祐一の祖父が亡くなって以来、家の一切を取り仕切ってきた女性だ。
彼女は南の町の商家の出で、若いころから手腕を発揮してきた。姑から疎まれても、表立って彼女を逆らう者はいなかった。
森田に案内され、由奈は静かな和室へ入る。そこでは和恵が座布団に正座し、数珠を手に念仏を唱えていた。
「奥さまがお見えです」
和恵はゆるやかに目を開き、横顔のまま「こちらへ」と告げる。
森田が下がると、由奈も正座して仏前に手を合わせた。
和恵は熱心な仏教徒で、よく寺に参拝し、香をあげていた。出かけると、戻るまでに半月ほどかかることもあった。
しばし沈黙が続いたのち、由奈は小さな声で切り出した。
「おばあさま……私、祐一さんと離婚したいと思っています」
第2話
和恵はしばらく沈黙し、由奈の視線を真正面から受け止めた。
「……由奈。私と取り引きをしたときのこと、覚えているわね?今になって後悔しているの?」
――そうだ、後悔している。
由奈は瞳ににじむ苦しさを隠すように視線を落とし、静かに答えた。
「……ご期待に添えず、申し訳ありません」
和恵は深く目を閉じ、長く息を吐いた。
「……いいでしょう。あんたの意思を尊重するわ。機会はもう与えた。祐一を振り向かせられなかったのは、あんた自身の力不足。滝沢家も、これ以上あんたに借りはない」
胸の奥が重く沈んでいく。それでも由奈は笑みを作り、かすれた声で言った。
「……ありがとうございます」
……
パシフィスガーデンに戻ると、ちょうど駐車場で祐一と長門親子の姿を目にした。
あの二人が祐一の車に乗っていたことに気づき、由奈は思わず立ち尽くした。
歩実が目を丸くする。「池上先生?あなたもここに住んでるの?」
由奈は反射的に祐一へ視線を送る。だが彼は、まるで何もなかったかのように無表情を貫いていた。
その平然とした態度が、かえって胸を刺す。
パシフィスガーデンは海都市一番町にそびえる高級マンション群で、滝沢グループ不動産部門が手がける物件のひとつだった。
由奈が今暮らしている部屋は、かつて祐一が「埋め合わせ」として与えたもの。病院に近いという理由で受け入れただけだったが、まさか今になって歩実と健斗まで住まわせるとは。
――そんなに急いで、彼女とやり直したいのね。
「……偶然ですね」
心のざわめきを押し殺し、由奈は軽く会釈してその場を離れようとした。だが背後から歩実の声が響く。
「池上先生、ご結婚されてるって聞いたけど……ご主人はどちらに?」
由奈の足が止まった。
――旦那?
視線を祐一に向けると、その顔にかすかな影が落ちていた。
由奈の胸に冷笑が浮かぶ――歩実に真実を知られるのが、そんなに怖いの?
「夫はいません」由奈は淡々と答えた。
一瞬、祐一の眼差しが揺れる。
「いない?」歩実は穏やかな笑みを崩さぬまま問い返した。「でも、プロフィールには既婚と……」
確かに、病院に提出したプロフィールにはそう記入した。だが、彼女の夫を実際に会った者は誰一人いない。
由奈は作り笑いを浮かべる。「ただ記入欄を埋めただけです。夫なんていませんよ」
言い切った瞬間、祐一の視線が鋭く細められた。その目には危うい光が宿っていたが、由奈は気にも留めず、背を向けて歩き出す。
――どうせ近いうちに辞めて、ここを去るのだから。今さら説明しても仕方がない。
その夜。
由奈は荷物を二つの大きなスーツケースにまとめ、衣装部屋に置いた。
ふと目に入ったのは結婚式の写真立て。ウェディングドレス姿の彼女は祐一の腕に手をかけ、幸せそうに笑っている。だが隣の祐一は、氷のように冷たい顔だった。
――あの頃は、ただ「笑わない人」だと思っていた。
二人のツーショットはこれ一枚だけ。それでも由奈は宝物のように大切にしてきた。だが今、そこに映るのは皮肉でしかない。
祐一は笑わなかったのではなく――笑顔を向ける相手が、自分ではなかっただけ。
由奈は写真立てを手に取り、しばらく見つめてから段ボールの奥へ放り込んだ。不要な物たちと一緒に。
そのとき、リビングから物音がした。祐一が帰ってきたのだ。
玄関へ向かうと、彼はちょうどコートを脱ぎ、ハンガーに掛けるところだった。
由奈は深く息を吸い、歩み寄る。「……今日のこと、何か説明はないの?」
歩実と健斗を近くのマンションに住まわせた件だ。
祐一はネクタイを外し、冷ややかな目を向ける。
「説明?何のことだ?パシフィスガーデンは病院に近い。君が住んでいるんだから、あの二人が住むのも当然だろう」
彼はネクタイを腕に掛け、淡々と続けた。
「由奈。君が欲しかったものはもう手に入れただろう。これ以上、細かいことで口を出すな」
その言葉に、由奈の心が崩れ落ちる。
――これが「細かいこと」なの?
祐一にとってはそうかもしれない。由奈が「滝沢家の嫁」という肩書きを得た以上、長門親子に関する詮索は、彼にはただの意地にしか見えないのだ。
祐一が踵を返した瞬間、由奈は声を上げた。「待って……話があるの」
彼は苛立ちを隠さず振り返り、冷ややかな視線を向ける。「今度は何だ?」
由奈は静かに左手の指輪を外し、掌に握りしめた。
「……離婚しましょう。あなたを、自由にするわ」
第3話
祐一は、由奈が「離婚」を口にするとは思っていなかったのか、表情が一気に陰り、低く言い放った。
「断る」
由奈は一瞬、息を呑んだ。
離婚を断る、ということは――もしかしてまた自分に未練を……?
だが祐一の言葉は続いた。
「おばあさまも承知しないはずだ」
直後、ドアが閉まる音が響いた。
その場に取り残された由奈の胸は、湿った綿を詰め込まれたように重く沈んでいった。自分の期待が、どれほど愚かだったか思い知らされる。
彼が離婚を拒むのは、和恵の気持ちを考えてのことにすぎない。
けれど――祐一は知らない。和恵はすでに、由奈の決断を受け入れていることを。
結局その夜は言い合いのまま終わり、二人は別々の部屋で眠った。翌朝、家政婦が出勤したときには、すでに祐一の姿はなかった。
由奈は平然を装い、一人で朝食を口にする。家政婦が部屋を片付けて戻ると、不思議そうに声をかけてきた。
「奥さま、家の物は……ずいぶん減ってませんか?」
由奈の手が一瞬止まる。
家政婦にさえ気づかれるほど、家の中が変わっていた。けれど祐一は一言も尋ねてこなかった。
それが何より雄弁に、彼の心を示していた。
由奈は無理に笑みを作り、「古い物ばかりだったし、大事なものでもないから処分したの」と言い繕った。
家政婦はそれ以上追及しなかった。
正午すぎ、院長の勉から緊急の電話が入る。工事現場で重大事故が起きて、患者が危篤とのこと。だが脳外科のスペシャリストが全員出張中で、執刀できるのは由奈しかいなく、手術をお願いしたいと。
由奈は病院に駆けつけ、手術着に着替えて救急室へ。そこにはすでに主治医たちが集まっていた。その中に歩実の姿もある。
部屋いっぱいに、血の匂いが充満していた。
歩実は他の医師と違い、患者に近づこうともせず、ただ青ざめた顔で必死に吐き気をこらえていた。
「池上先生!待ってました!」麻酔科医が駆け寄る。「患者は現場から搬送されたばかりで昏睡状態です。工事現場から落下したらしくて……」
由奈は患者を見るなり、息を呑んだ。二十センチの長さもある鉄筋が、患者の眼窩から頭蓋を貫通している。それでもまだ心拍はある――まさに奇跡だ。
歩実が唇を震わせた。「池上先生、このオペ……本当にできるの?少しでもミスをすれば、患者は即死よ」
「……じゃあ、代わりにやってくださるのですか?」
由奈の冷ややかな一言に、歩実は言葉を失った。
由奈は手袋をはめながら指示を飛ばす。「まずは開頭して減圧します。血腫をできるだけ除去しましょう」
麻酔科医と助手たちがすぐに動き出す。
歩実が唇を噛み締め、不安げに問う。「私も残って手伝いましょうか?」
「関係者以外は退出してください」由奈の声が響く。先ほど歩実の反応を見る限り、残っても足手纏いになると、由奈にははっきりとわかっていた。
「で、でも――」
「長門先生、患者の容態は一刻を争います。ご家族への説明をお願いします」
周囲の医師たちも、由奈の言葉にうなずいた。中央病院の誰一人として、この手術を執刀しようとする者はいない。わずかなミスが命取りになり、医師としての人生すら奪われかねないからだ。だからこそ、由奈が引き受けてくれるなら、皆が彼女を全面的に支えるのは当然だった。
医師たちはまた、歩実が力量不足であることも見抜いていた。後ろ盾さえなければ、とうに罵倒の的になっていたはずだ。
拳を握りしめた歩実は、しぶしぶ退室していった。
……
手術は五時間にも及んだ。脳幹が無事で、主要血管に損傷がないことを確かめながら、由奈たちは慎重に鉄筋を抜去し、続けて頭蓋底の再建に取りかかった。
夕刻。患者のバイタルが安定したのを確認し、室内にいた全員がようやく深く息をついた。
他の医師たちは急いで家族のもとへ向かい、由奈は院長室へ足を運んだ。
「ご苦労だった、池上先生。本当によくやってくれた!」勉は満面の笑みを浮かべて言った。「君のおかげで助かったよ」
「いえ、チームの協力があってこそです。それに患者さんも幸運でした。脳の要所を外れていましたから……もし鉄筋が数ミリでもずれていたら、神様でも助けられなかったでしょう」
勉は深くうなずき、少し考え込んだあと口を開いた。
「……それにしても惜しい。異動の件、考え直す気はないのか?」
院長として、彼は由奈の実力を誰よりも知っている。中央病院最年少の執刀医であり、しかも女性。医学界でも稀有な存在だ。
だが、異動先の江川市は都会から離れた地方都市。福利厚生も中央病院には及ばない。それでも彼女は迷わず移るという。あまりに惜しい選択だった。
由奈は柔らかく微笑んで、静かに首を振った。
「もう決めました。でも、院長先生がお困りのときは、いつでも駆けつけます」
その言葉を聞き、勉はそれ以上追及しなかった。
院長室を出た由奈の目に、早足で近づいてくる祐一の姿が映る。
声をかけようとしたが、彼は立ち止まらず、冷たい声を投げつけた。
「池上先生、話がある。ついてきて」
二人は病院のバルコニーへ出た。手術を終えたばかりの由奈の顔には、疲労の色が濃くにじんでいる。
「それで……何の話?」
祐一の瞳が鋭く細まり、冷ややかに光った。
「手術室で、歩実にきつく当たったのはなぜだ?」
第4話
由奈の身体はこわばり、呆れた思いで祐一を見つめた。「長門先生にきつく当たったって?」
――彼がわざわざここに来たのは、歩実のためだったのか。
「彼女は君の上司だ。どんな事情があっただろうと、みんなの前で彼女の立場を潰すような真似はするべきじゃない」
祐一の声音は冷え切っていて、そこに夫婦の情など微塵もなかった。
由奈は胸の奥の痛みを押し殺し、ふっと笑った。「勘違いしないでほしいけど、執刀医は私よ。現場で判断する権利くらい、私にはあるでしょう?」
「君こそ勘違いするな」祐一は唇の端をわずかに上げ、皮肉を含んだ声で返す。「執刀医を交代させる権利は、俺にあるんだぞ」
その一言に、由奈の心臓は鈍器で打ち据えられたように震えた。
……けれどもう関係ない。
すでに異動届は出してある。彼が誰を執刀医に据えようと、もうどうでもいいことだ。
「だからこれからは――」
「滝沢社長が執刀医を変えたいなら、どうぞご自由に」由奈は祐一の話を遮った。
彼の表情が凍りつき、目の奥がさらに暗くなる。
これまで人前でこそ「滝沢社長」や「滝沢さん」と呼んではいたが、二人きりのときに距離を置くような呼び方をしたことはなかった。
「……今、なんて呼んだ?」
「滝沢社長」由奈は静かに答え、問い返す。「あなたの望んだ呼び方じゃなかった?」
祐一は眉間に深いしわを刻み、何か言おうとした――その瞬間。
「池上先生!」一人の看護師が駆け込んできた。「大変です!患者さんのご家族が、長門先生と口論になってます!」
由奈が返事をする前に、祐一はすでに背を向け、足早に去っていった。
――歩実のこととなれば、迷いもせず駆けつけるんだ。
その姿に由奈の口元は自然と歪んだ。彼が自分にあんなふうに駆け寄ってきたことは、一度もなかったのに。
病室の外では、患者家族と歩実の間で激しい言い争いが起きていた。
由奈が駆けつけたとき、人だかりの向こうから、歩実の悲鳴が聞こえた。
人混みをかき分けた由奈が目にしたのは――祐一が歩実を庇って、振り上げられた患者家族の腕をつかんで止めている姿だった。歩実は祐一の胸にすがり、怯えた顔をしている。
患者家族は祐一の迫力に押され、思わず後ずさる。「あ、あんた誰だ!」
祐一は淡々と腕を払いのけた。「言い分があるなら口で言ってください。暴力は筋違いです」
「ならあいつに聞くけど!」患者家族は指を歩実に突きつける。「命がけの手術を終えたばかりの息子を診に来たのに、口を塞いで吐き気を我慢してたんだぞ!そんなことする医者がどこにいる!」
「そ、そんなつもりじゃ……」歩実は涙をため、祐一に縋るように言った。「違うの、祐一。今朝、苦手なものを食べてしまって胃がむかついてただけ。患者さんのせいじゃないの」
「わかった。俺が話をつける」祐一は短く返し、家族に向き直った。
「不快な思いをさせてしまって申し訳ありません。ですが、彼女は体調が悪かっただけです。お詫びとして、入院費はこちらで負担します」
その言葉に、家族の怒りも少し収まり、「なんてひどい医者だ」と舌打ちを残して病室へ引き上げていった。
「ごめんね、祐一……迷惑をかけてしまって」歩実はうるんだ瞳で彼を見上げる。「庇ってくれなくてもよかったのに。怪我でもしたらどうするの……」
祐一はふっと笑い、頭を軽く振った。「無事ならそれでいい」
そのやり取りを見ていた看護師たちが、ひそひそと声をあげる。
「長門先生、もしかして滝沢社長って彼氏なんですか?」
歩実はうつむき、頬を赤らめて小さく否定した。「ち、違うわ……変なこと言わないで」
「またまたぁ、こんなにお似合いなのに!」
冗談半分の声が飛び交い、周囲はどっと和やかな空気に包まれる。
祐一の視線がふと人混みの向こうに向けられた。
そこに立っていた由奈と、ふいに目が合う。
由奈の胸の奥がきつく締め付けられた。
認めたくはないが、自分の夫は本当に彼女と似合っている。ここにいる自分が、余計な存在なのだ。
第5話
祐一の表情がわずかに険しくなり、歩実を離そうとしたその時――
「祐一、まだ気分が悪いの。薬を取りに一緒に来てくれない?」
歩実が袖をつかんで引き止めた。
祐一は一瞬、消えていった由奈の背中を見やり、やがて小さく息を吐いた。「……ああ」
薬を受け取った帰り道、祐一がどこか上の空でいると、歩実は彼を見上げ、笑みを浮かべる。
「祐一、健斗を海都市の私立幼稚園に入れたいけど、保護者もに市内に住んでなきゃだめらしいの。私、事情があって住民票を地方の実家から移せないから、一時的に健斗を祐一の養子にできないかしら?」
断られるのを懸念してるのか、彼女は言葉を急ぐように重ねた。「ほんの少しの間だけ。絶対にバレないようにするから」
祐一が彼女を見据える。
歩実はその視線から逃げないよう我慢し、手を固く握りしめた。「だめ……なの?」
「そうだな、子供のためにもそれはやめたほうがいい」祐一の声音は冷静だった。「だが、母に養子として迎えさせることはできる」
歩実は黙り込んだ。
滝沢家の養子。つまり、健斗は祐一の「弟」になる。では、健斗の母親である自分は気まずい立場になるのでは?
祐一の眼差しが鋭くなる。「気が進まないか?」
歩実は慌てて首を振り、本音を隠す。「……ううん。祐一に任せるわ」
祐一は短く「わかった」とだけ答え、それ以上は口を開かなかった。
歩実は指先をぎゅっと丸める。心の奥には悔しさが渦巻いていた。
だが、焦ってはいけない。
――息子が滝沢家に入り、家の人間に気に入られさえすれば、自分の立場はいずれ変わる。
……
その夜、祐一は帰ってこなかった。
以前なら、由奈は遅くまで灯りをつけ、彼を待ち続けていた。けれど今はもう違う。帰るかどうかさえ、もうどうでもよくなったのだ。
翌朝、出勤のためにマンションを出たところで、由奈は歩実と健斗と鉢合わせた。
避けて通ろうとした矢先、歩実の声が飛んできた。「池上先生」
由奈は足を止め、振り返る。「……何か?」
「先生は私のことが……嫌い?」歩実はじっと由奈を見つめる。
「そんなことありませんよ」
嫌うも何も――そもそも好きになる理由はないし、彼女はどんな人間かは知らない。
歩実は健斗の手を引き寄せ、さらに近づく。
「それならよかった。同じ病院で働いてるんだもの、変な誤解は嫌だから。あ、先生も病院に?私も子どもを送ったら行くので……祐一に車で送ってもらいましょうか」
由奈の胸の奥が凍りついた。
――昨夜、祐一が帰らなかったのは歩実のところにいたからか。
まだ離婚すらしていないというのに、もう彼女の家に入り浸りになったなんて。
「結構です。自分の車で行くので」由奈の声に冷たさがにじんでいる。
歩実はなおも笑みを崩さず腕を取ってくる。
「遠慮しないで。同じ方向だし、すぐ祐一も来るから」
由奈は込み上げてくる怒りを静かに押さえ込む。
歩実は自分と祐一の関係を知ってるから、こんなふうに挑発してきたのではないかとすら思えた。
由奈は力づくで腕を振り払う。「結構と言ったはずです」
その瞬間――歩実が地面に倒れ込んだ。
「ママ!」健斗は母を突き飛ばされたと思い込み、由奈を力いっぱい押した。「悪いおばさん!ママをいじめないで!」
その拍子に由奈のスマホが手から滑り落ち、アスファルトに転がる。健斗は泣き叫びながら、それを足で何度も踏みつけた。
「やめなさい!」由奈はたまらず彼を引き離しただけなのに、健斗は尻もちをつき、大声で泣き出した。
ちょうどその場に、祐一の車が滑り込んできた。ドアを開けるなり、彼は大股で駆け寄ってくる。
「由奈!」
その呼び方に、二人の関係を隠すことすら忘れた焦りがにじんでいた。
「パパ!僕、この悪いおばさんにいじめられた!」健斗は泣きじゃくりながら訴える。
歩実は慌てて息子の様子を確認し、由奈を睨む。「池上先生、大人同士のことで子供まで巻き込むのはどうかと思うけど」
由奈は奥歯を噛み締め、怒りを押し殺して吐き出した。
「彼はわざと私のスマホを踏みつけたんです、それを見て見ぬふりをする気ですか?」
「健斗は……きっと悪気はなかったのよ」歩実は視線を逸らす。
「一度だけなら偶然かもしれませんが、何度も踏みつけるのは、彼の意思による行動なんじゃないですか?」
「そこまでだ」
祐一の目が鋭く光り、低い声に怒気が混じった。
第6話
「大人が子ども相手に、なに本気になってるんだ」
由奈は思わず息を呑んだ。祐一が自分を信じてないことくらい、とっくにわかっていた。けれど、こうまであからさまに歩実と健斗をかばう姿勢を見せられると、胸の奥が鋭く痛んだ。
滲む涙を必死で抑え、低い声で言い返す。「私、あの子を推してなんかいません!」
祐一は冷笑を浮かべた。「じゃあ、君の言い分だと――まだ幼い子どもが、自分で転んで君を陥れたってことか?」
胸が震え、呼吸さえ乱れる。
どうせ彼は信じない。もうわかっているのに、なぜまだ必死に弁解しようとしてしまうのか。
由奈は伏せた視線を上げず、絞り出すように言った。「……もういいです。今日は私がついてなかったってことで」
背を向け、一歩を踏み出そうとした瞬間――
「待て」
足が止まる。が、由奈は振り返らない。
「健斗はまだ子どもだ。大人がそこまで意地を張る必要はない」祐一の声は少し柔らいでいた。「謝ってやれ」
「祐一、もういいよ、謝ってもらわなくても……」歩実が口を挟む。
だが祐一の眼差しは冷たかった。「間違ったなら素直に認め、謝るべきときは謝らなきゃならないんだ」
由奈の手は固く握り締められ、爪が掌に食い込んでいた。痛みなど、もう感じなかった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、祐一をまっすぐに見据えながら、近くの防犯カメラを指さす。
「滝沢社長、ここはパシフィスガーデン。防犯カメラが至るところにあります。ヒーロー気取りで正義感を振りかざす前に、まず映像を確認したらどうですか?
もし私が間違っていたら謝ります。でも、やってもいないことで謝るつもりはありません!」
そのまま振り返らず、足早に去っていった。
祐一の胸の奥が、不意に重く締めつけられる。表情は陰り、言葉を失った。
「防犯カメラ」というワードに歩実の心臓が跳ねた。もし祐一が本当に確認したらと思い、慌てて祐一の袖を掴む。
「祐一、もういいよ。健斗も怪我はしてないし、池上先生がわざとじゃないって信じてるから」
何としてでも映像の話を掘り下げさせてはならない。彼女はすぐに話題を切り替えた。
「祐一、健斗が遅れちゃうから、もう行きましょ?」
祐一は短く息を吐き、掴まれた腕をそっと引っ込める。
「園長先生にはもう連絡してある。健斗を連れて行ってくれ、向こうで段取りしてくれる。俺はまだ会議があるから、会社に行ってくる」
そう言い残し、車に乗り込んで走り去った。
残された歩実は、祐一の車を見送る視線のまま手を強く握りしめていた。
その動きに、健斗が小さく呻いた。「……ママ、痛いよ」
はっとして手を緩め、しゃがみ込んで彼の肩に手を添える。目の奥に影を宿しながら、唇に薄い笑みを浮かべた。
「健斗、さっきはよくできたわね。ママ、嬉しいよ」
「ほんと?」幼い瞳が輝く。
彼は何もわからない。ただ母の笑顔と褒め言葉があれば、それだけで十分だ。
歩実は息子の頬を撫で、声を潜める。「健斗も祐一おじさんにパパになってほしいでしょ?」
「うん!」彼は無邪気にうなずいた。
歩実の笑顔はさらに冷ややかになる。「だったら、もっともっとおじさんに気に入られるように頑張るの。わかった?」
「わかった!頑張る!」
……
祐一が会社に着くと、秘書の土屋麗子(つちや れいこ)が駆け寄ってきた。「社長、和恵様が部屋でお待ちです」
「わかった」祐一は頷き、執務室に入った。
和恵はソファに座り、優雅に茶を啜りながらまっすぐ祐一を見上げた。「聞いたわよ。あの長門歩実を、由奈と同じ病院にねじ込んだそうじゃない?」
祐一はネクタイを緩め、向かいに腰を下ろした。「その話、由奈から聞いたのか?」
和恵は湯呑みを卓上に叩きつけるように置いた。「祐一、もう少し自分の妻を信じてあげたらどうなの?由奈が告げ口するような女じゃないわよ」
祐一の口元に、冷ややかな笑みが浮かぶ。
「彼女なら、やりかねない。
それに――あのとき由奈がどうやって滝沢家に入ったのか、結婚を迫るようにおばあさまがどんなふうに動いたのか、今でもはっきり覚えています」
和恵の顔に陰が差し、冷ややかな笑みが過ぎる。「もし由奈が告げ口していたなら、あの女が無事に帰国できるはずないでしょう」
祐一は一瞬、言葉を失い、まっすぐ和恵を見返した。「……もう歩実には関わらないでください」
和恵は鼻で笑う。「おや、ずいぶんかばうのね……でもね祐一。あの女、昔私から二億受け取って、あんたと別れたのよ。そんな金に転ぶ女を、本気で選ぶつもり?」
「おばあさまが仕組まなければ、彼女は去らなかったんです」
「祐一……!」和恵の顔が引きつり、次の瞬間、低い笑い声が漏れる。
「祐一、あんたはいずれ後悔するわ。ガラス玉を真珠だと思い込んで、大事に抱えているようなものだから」
そう吐き捨てるように言い、立ち上がった。
「……もうあんたと由奈のことには口を出さない。離婚でも何でも、好きにすればいいわ」
そう言い残し、和恵は扉を開けて出て行った。
祐一は奥歯を噛み締め、眉間に濃い影を落とした。
後悔?
――ありえない。
由奈はすでに欲しいものを手に入れた。贅沢も、地位も。
自分から離れられるはずがないのだ。
祐一の胸の奥で、重く暗い確信が沈殿していった。
第7話
病院で、由奈は例の患者の容体を確認した。患者の家族は彼女が執刀医だと知るや、感極まって膝を折りそうになった。
慌ててそばにいた看護師と一緒に支え起こし、由奈は穏やかに言った。「そんなことをなさらないでください。命を救うのは私たちの務めですから」
「先生がいなかったら、うちの子はもう生きてなかったんです。本当に……本当にありがとうございます」年配の母親は泣き崩れ、恐怖から解き放たれた安堵と喜びが入り混じった涙を流した。
医者という職業は生死の境に立ち会うことが日常だ。それでも、死神の手から命を取り戻せる瞬間は、この上ない喜びが満ちていた。
幸い手術は成功し、後遺症も見られない。不幸中の幸いとはまさにこのことだ。
由奈は患者の母親の手を取り、いくつか言葉をかけてから、看護師たちとともに病室を後にした。
医局に戻ったところで、父の文昭(ふみあき)からの電話が入る。一瞬ためらったものの、通話ボタンを押した。
「由奈、今日祐一と一緒に帰ってこれないか?」
嫌な予感が走り、由奈の表情が固くなる。「……用があるなら教えて」
「おいおい、そんな言い方はないだろう。たまに顔を出したっていいじゃないか。午後には必ず帰ってこい」
それだけ言うと、返事を聞く前に電話は切られた。
……
その頃、祐一は会社で会議の最中だった。歩実からメッセージが届く。
【祐一、健斗を幼稚園に送り届けたわ。この幼稚園に入れたのは祐一のおかげよ、本当にありがとう】
画面を見て、祐一は短く【気にするな】とだけ返信する。
そして何気なくSNSを開き、ふと由奈とのトーク画面で指が止まった。
最後に彼女から届いたメッセージは先月の八日で、週末は来るかと尋ねるものだった。
既読すらつけず、返事をしなかった。
それきり、由奈も一度もメッセージを送ってこなかった。
――随分、我慢強い女だ。
……
午後。
由奈は実家の玄関先で、長いあいだ足を止めていた。意を決して中へ入ると、母の久美子(くみこ)が笑顔で迎えた。「由奈、おかえり」
そしてすぐに玄関の外を見やる。その視線に、落胆の色が混じるのを由奈は見逃さなかった。
「見なくていいよ、私だけだから」
淡々と告げると、母の笑顔がかすかに凍りついた。
ちょうど階段を降りてきた父が、祐一の姿がないことに気づき、露骨に顔を曇らせる。「祐一も連れて来いと言っただろう?」
「忙しいから、来れないの」
「来れないとは何だ。あれはお前の夫だぞ!夫婦なんて喧嘩しても同じベッドに寝るんだ!ご飯に連れて帰ることもできないなんて、情けない!」
由奈の心が冷たくなっていく。誰も自分を理解してくれない、たとえ実の親でさえも。
彼らは事情を尋ねることもなく、ただ責め立てる――六年経っても何も変わらない。
結婚が決まった時、両親は誰よりも喜んでいた。結納の金品も気にしてないと言って。
池上家は滝沢家のような由緒ある家柄ではないが、それなりに裕福な暮らしをしていた。だから、親は心の中から自分の幸せを願ってくれているのだと、由奈は信じていた。
だが、結婚後は違った。「祐一の妻」である由奈を通して、両親は祐一に金を求めるようになった。
最初は弟の浩輔(こうすけ)の家や車を買うため。やがて父の事業の損失までも、祐一に埋めさせるようになった。
両親にとって大事なのは息子。娘は――豪門に繋がる金のなる木でしかなかった。
「……がっかりさせちゃうけど」由奈は顔を上げ、静かな声で告げた。「私たち、離婚するの」
その言葉に、文昭の表情が一瞬で憤怒に染まり――
乾いた音とともに、由奈の頬に手が飛んだ。