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あざとい女に夫も息子も夢中!兄たちが出動!
バレエ団のプリマに選ばれたその日、中川杏奈(なかがわ あんな)は身に覚えのない罪を着せられた。そして久保家の実の娘の身代わりとして刑務...
Chương (1)
第1章
バレエ団のプリマに選ばれたその日、中川杏奈(なかがわ あんな)は身に覚えのない罪を着せられた。そして久保家の実の娘の身代わりとして刑務所に送られ、地獄のような三ヶ月を過ごしたのだ。
さらに、やっと釈放されたときには、世界を目指せたはずの杏奈の脚は、もう二度と踊れないほどに怪我させられていた。
そのうえ、精密な手術を得意とした彼女の手も、腱を断ち切られていた。
そんな中、杏奈を命がけで愛してくれていた夫は、「必ず犯人におんなじ苦しみを与える」と彼女に誓った。
いつもは大人びている三歳の息子も、そんな彼女のために初めて声をあげて泣いた。
しかしある日、息子がこう話すのを杏奈は聞いてしまった。「ねぇパパ、真奈美おばさんの身代わりをさせるために、わざとママに罪を着せたでしょ。それでママの脚も治らないようにしたのは、ひどくない?」
そう聞かれて夫は答えた。「それは君のママがしないといけない償いだからな」
すべてを知った杏奈は、絶望の淵に陥った。そして彼女は国際電話をかけた。「私、本当の家族の元へ帰ろうと思います」
一年後。
杏奈は、超名家に戻り、四人の兄たちから可愛がられる生活を送っていたころ、彼女のもとに、久保家の夫婦とその実の娘を連れて頼み込んできたのだ。「これまで育ててやった恩があるだろう。どうかもう私たちを見逃してくれよ!」
クズ男だった元夫も、目を真っ赤にしながら懇願した。「足を傷つけた償いはするから。頼む、どうか許してくれ」
恩知らずな息子も、母親の足に泣きついて離れようとしない。「ママ、僕が悪かったよ!」
だが、杏奈は、彼らに冷たく言い放った。「絶対に、許さないから!」
第1話
出所の日、中川杏奈(なかがわ あんな)は担架で運ばれて出てきた。
彼女は骨と皮ばかりに痩せ細っていた。右手は力なく垂れ下がり、両足からは血が滴っていた。
三ヶ月前、何者かに偽証され、久保家の本当の令嬢の身代わりとして、杏奈は刑務所に入れられた。
刑務所の中で、メスを握るはずだった彼女の手は、腱を切られてしまった。
国際的な舞台で優勝できたはずの足も、めちゃくちゃにされた。
すべてを諦めかけていた時、夫の中川竜也(なかがわ たつや)があらゆる手を尽くして、杏奈を助け出してくれたのだ。
門の外。
担架に乗せられた杏奈を見て、迎えに来た竜也は一瞬息をのんだ。そして、よろめきながら車を降りると、彼女を腕の中に抱きしめた。
「杏奈、俺が悪かった。迎えに来るのが遅くなって、すまない」
一緒に救急車に乗り込むと、竜也の声は震えていた。
いつもはクールで気高い男が、一筋の涙をこぼした。
記憶の中で、夫が涙を見せたのは、わずか2回だけだった。結婚した時と、息子の中川浩(なかがわ ひろし)が生まれた時だ。
その涙が杏奈の顔に落ちた瞬間、彼女の感情はついに爆発した。
殴られた時も、手の腱を切られた時も泣かなかった。でも、この時の彼女は涙をこらえきれなかった。
杏奈は竜也の心を落ち着かせてくれる香りを嗅ぎながら、彼の胸に顔をうずめた。
よかった。自分にはまだ夫と息子がいる。愛してくれる家族がいる。
竜也は目を真っ赤にし、怒りで目を剥きながら、杏奈を抱きしめて誓った。「杏奈、お前を陥れた偽証の真犯人を必ず捕まえる。そして、お前の無実を証明してみせる!」
杏奈は彼の胸にうずくまり、その力強い鼓動を感じながら、ずたずたに傷つけられた心も、ようやく少しだけ和らいだ。
こんなにも愛してくれる夫と息子がいるのだ。育ての親である久保家の義理の父と母が久保真奈美(くぼ まなみ)しか思っていなくても、元の婚約者に裏切られても、もうどうでもよかった。
「全部俺のせいだ。あの日、俺がお前に車で出かけるように言わなければ、ひき逃げの濡れ衣を着せられることもなかったのに」
竜也は声をかすませた。杏奈の姿を見るのが辛いのか、涼しげな目元が伏せがちになっていた。
それを聞いて、杏奈は首を横に振った。
こんなにも思ってくれる彼のせいになんてできるわけがないじゃない?
竜也は周りでも評判の、理想の夫だった。
結婚してから、彼はずっと杏奈を宝物のように扱ってきた。
そして仕事で疲れている彼女を心配して、「俺が養うから」と何度も仕事を辞めるようにも勧めていた。
あの名高い中川家の跡取りが、これほどまでに杏奈を愛しているのだから、それは誰もが彼女の幸運を羨むほどだった。
でも今こんな風になってしまった自分は、もう竜也にはふさわしくないだろう?
そう思いながら、杏奈は泣き声で言った。「もう二度とメスを握れないかもしれない。もう踊れないかもしれない……」
竜也は再び目を赤くし、震える声で彼女をなだめた。「杏奈、大丈夫だよ。メスが握れなくても、俺が一生養ってやる。踊れなくたっていいじゃないか。むしろ他の男たちにお前を見られないなら、俺も嫉妬せずに済むようになるし……」
それを聞いて、杏奈は口の端を引きつらせ、苦笑いを浮かべた。
竜也は彼女の脚が一番好きだった。でも、その脚は今や傷だらけだ。
治ったとしても、傷跡は残るだろう。
そんな脚を毎日見ていたら、彼もきっと嫌になるに違いない。
そう思いながら病院に着くと、杏奈はようやく息子に会えた。
浩は彼女のベッドに駆け寄り、泣き崩れた。「ママ、ごめん!僕の言ったことが証言になるなんて知らなかったんだ!僕が記憶違いしたせいで……僕の脚を代わりにママにあげる!」
杏奈は三ヶ月前のことを思い出した。ひき逃げの濡れ衣を着せられた時のことだ。
証人だった浩も、あの日、彼女が外出したと証言したのだった。
浩は小さい頃から聞き分けがよく、大人びていて、少し冷めているところがあった。
その彼が今、鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにして泣いている。とても可哀想に見えた。
いくら大人びていても、まだ子供だ。記憶違いをすることもあるだろう。
そう思うと杏奈は胸が痛くなり、浩の頭を撫でた。「ママは浩のこと、責めてないわよ」
「これからは僕がママの脚になる」浩は声を詰まらせながら言った。「僕がママの代わりにいろんなところを歩くから」
その瞬間、杏奈は切なくなりながらも、自分は幸せだと思った。
息子も夫も、こんな自分を見捨てなかった。それどころか、前よりもっと優しくしてくれてるのだ。
自分の育った家庭は幸せではなかったけれど、幸いにも、温かい家庭を自分で築くことができたんだから。
……
手術から目をさましても、杏奈の手足にはまだ感覚がなかった。
喉がカラカラに渇いていた彼女が口を動かして誰かを呼ぼうとしたその時、ドアの外から浩の声が聞こえてきた。
「パパ、ママは今すごく可哀想だね。立てるようにはなるけど、もう二度と踊れないんだって先生が言ってた。もうお医者さんもできなくなったって」
それを聞いて、杏奈は目が潤み、胸が締め付けられた。
こうなることは分かっていた。でも、他人の口から改めて聞かされると、やはり複雑な気持ちになった。
そう思っていると、「ねぇパパ、真奈美おばさんの身代わりをさせるために、わざとママに罪を着せたでしょ。ひどくない?」浩は続けた。
身代わり?
罪を着せた?
杏奈は突然、凍りついた。その瞬間、彼女は自分が聞き間違えじゃないかと思った。
信じられない思いで目を見開く。ドアの向こうから聞こえてきたのは、竜也の冷たい声だった。「真奈美おばさんはトップダンサーなんだ。だから彼女を守ってあげないとだよ。
それに比べて、君のママは真奈美おばさんの代わりに長年お嬢様としていい暮らしてきたんだ。そのせいで真奈美おばさんは辛い生活をしてきたんだ。だから、それは君のママがしないといけない償いだ、彼女はもう中川家の嫁になったんだ。これ以上、何を望むというんだ?」
じゃあ、自分が陥れられて刑務所に入ったのは、この親子が仕組んだことだったの?
杏奈はベッドの上で、声が漏れないように唇をきつく噛みしめた。
小さい頃に病院で取り違えられたのは、自分のせいじゃない。
どうして自分が、久保家の令嬢の座を奪ったことになるの?
じゃあ、竜也の愛の誓いは、全部嘘だったっていうの?
浩はため息をついて同意した。「仕方ないね!ママはいつも真奈美おばさんに意地悪ばかりしてたから、これからは僕たちがその分よくしてあげればいいよね!」
これから?
自分に、これからなんてあるの……
彼ら親子の会話聞きながら、胸をえぐられるような痛みが広がり、彼女は静かに涙を流した。
手足の痛みなんて、心の痛みに比べればどうでもよかった。
そうか、これらすべてを仕掛けたのは、最も身近にいた夫と、実の息子だったのか。
彼らは、真奈美の身代わりをさせるために、自分に濡れぎぬを着せたんだ。
なるほど、彼らの目にも、あの女しか映っていなかったのね。
ドアの外で、浩が少し申し訳なさそうに言った。「でもさ、僕たちが手術の時間をわざと遅らせたから、ママの手と脚はもう治らなくなっちゃったんでしょ。もしママがそれを知ったら、おかしくなっちゃうんじゃない?」
手術が間に合っていれば、自分は助かった?
なのに、彼らはわざと手術を遅らせたんだ。
心臓をナイフで切り裂かれたようで、杏奈は息が詰まりそうだった。
ドアの向こうで、竜也が少しイライラしたように、言い聞かせるような声で話すのが聞こえた。「大丈夫だ。彼女はもう久保家には戻れないし、手足も不自由になった。だからこれからは、中川家に頼るしかないだろう」
そう言いながら竜也はご機嫌な様子で言葉を続けた。「浩、君は真奈美が好きだろう?これからは、ママに邪魔されずに会いに行けるぞ。嬉しくないのか?」
すると、浩は無邪気な声で残酷な言葉を続けた。「嬉しいよ!ママはいつも怒るんだもん。いつも文句が多いんだから、そうやって意地悪だから嫌なんだよ。僕がたまに真奈美おばさんと話してるだけで、いろいろ言われるし!」
その言葉に、杏奈は心を抉られるようだった。彼女は目を大きく見開き、大粒の涙が次々とこぼれ落ちた。
真奈美が嫌いだと、そう言ったのは浩自身だった。だから自分は、彼の代わりに何度も真奈美からの誘いを断ってあげていたのに。
それが今、どうして全部、自分のせいになっているの?
第2話
竜也は、ほっとしたように息をついた。「それに、君のママが踊れなくなったのは丁度いい。これで真奈美おばさんと張り合う人間もいなくなるだろう。プリマになるのは真奈美おばさんの夢だからな。彼女の夢を叶えるためなら!
どんな犠牲をしてもかまわないさ……」
どんな犠牲をしても、かまわない?
杏奈は呆然としながら聞き、胸の奥に細かい痛みがじわじわと広がっていくのを感じた。
八年前、真奈美が家にやってきて、杏奈は初めて自分が久保家の実の子ではないと知った。
婚約者は公の場で婚約破棄を宣言し、杏奈を京市から追い出すとまで言った。さらに、彼はその後すぐ真奈美と結婚した。
あの時一瞬にして、杏奈は社交界の笑いものになった。
両親も友人も、杏奈が真奈美の居場所を奪った偽物だと決めつけ、ひどい仕打ちをした。
みんなから、彼女は久保家の財産を目当てに居座っているのだと言われた。
そんな絶望の淵にいた杏奈を見つけ出し、「杏奈、俺がお前と結婚する。これからは、俺がお前の支えになる」と言ってくれたのは、竜也だけだった。
その時の杏奈は心から感動して、彼と結婚することを選んだ。
竜也こそが運命の人だと信じていた。だから、結婚のために、海外の有名なダンサーからの誘いを断ったのだ。
その後、真奈美がそのダンサーの最後の弟子になったという知らせを耳にした。
そして、彼女は一躍、国内屈指のプリマへと上り詰めた。
当時は深く考えていなかったけれど、今思えば、その裏には竜也の後押しがあったに違いない。
どうりで。結婚してから竜也は優しかったけど、どうしても彼の心に近づけないと感じていたのは、そういうことだったんだ。
すべては、竜也が周到に仕組んだ罠。真奈美の夢を叶え、彼女を幸せにするための。
「どんな犠牲をしても、かまわない」なんて、よく言えたものだ。
杏奈は静かに笑みを漏らし、それは涙が溢れ出るほど自嘲気味のものだった。
この世に、自分ほど愚かな人間がいるだろうか。
八年間も、そんな男にいいように振り回されていたなんて。
それなのに、自分はそうとは気が付かずこの八年間、彼らのために自分の夢を諦めてきた。
息子の体が弱かったから、踊るのをやめて医師になった。夫に好かれようとあの手この手でどうにか、彼が喜ぶように努めてきた。
ずっと、自分に問題があるんだとばかり思っていた……
杏奈の涙で、枕はびっしょり濡れてしまった。
涙を拭こうと手を上げようとしたが、その手は力が入らず、持ち上げてもすぐにだらりと落ちてしまうのだ。
すべては、刑務所で自分に言うことを聞かせるために、看守が無理やり手の腱を切ったせいだ。
これで、もう二度と、メスを握ることはできない。
自分は、医師なのに。
外科主任の地位まで一歩一歩上り詰めたのは、すべてこの手があったからだ。
それなのに、手術が遅れたせいで、すべてが台無しになった。
ガシャン。
机の上のガラスのコップが床に落ちて、耳障りな音を立てた。
すると外の話し声が途端に途切れて、竜也が駆け込んできた。
彼の目には一瞬うろたえが見え、杏奈を抱きしめた。「杏奈、目が覚めたのか?手術は成功したよ。どこか気分が悪いのか?」
竜也は眉をひそめ、その整った冷たい顔には心配の色が浮かんでいた。
もし彼の言葉を聞いていなければ、杏奈はその表情に心を揺さぶられただろう。
浩もベッドのそばに駆け寄り、声は詰まらせ言った。「ママ、お水が飲みたいの?僕が持ってくるよ!」
以前なら、杏奈はきっと幸せを感じていたはずだ。
夫は自分をとても大切にしてくれて、息子は大人びていて、思いやりに溢れている。
しかし今、杏奈は彼らが偽善的で吐き気がするほど嫌だと感じていた。
彼らにいいように操られていた自分が、滑稽で哀れでたまらなかったのだ。
杏奈はそんな想いに鼻の奥がツンとなった。そして、全身に痛みを感じ、彼女は俯いて涙をこらえながら、力が抜けたように笑った。
そんな杏奈の様子を見て、竜也の声も震えていた。
彼は一度目を伏せ、再び顔を上げたときには、目じりが赤くなっていた。「杏奈、どこか痛むのか?もう一度先生に診てもらおうか?安心して、偽証した犯人は必ず捕まえる。お前にこれ以上つらい思いはさせない」
それを聞いて一筋の涙が、杏奈の目じりからこぼれ落ちた。
彼女の瞳が一瞬揺れ、心底から凍えるのを感じた。
なんて演技が上手いのだろう。
こんな風に何年も騙されてきて、いいように利用されて傷だらけになって、やっと気づくなんて。
杏奈は少し冷めた表情で、目を伏せた。そして、いつもの彼女とは違う様子で尋ねた。「三ヶ月も経つのに、まだ偽証した犯人は見つからないの?私の手と足は、まだ治る見込みがあるの?」
本当は、彼らに少しでも自分への憐れみはないのか、と聞きたかった。
杏奈の声は病室にクリアに響き渡った。竜也は一瞬呆然とし、それから言った。「杏奈、お前のために必ず仇は討つ。お前の手も、俺が治してやる」
浩もベッドのそばに寄りかかり、そっと杏奈の手を握った。「ママ、悲しまないで。国内の医療技術が足りないだけなんだ。でも、パパが海外の最高のチームを呼んでくれたから!」
技術が足りない?それとも、あなたたちが時間を引き延ばしたから、こうなったんじゃないの?
杏奈は、急にどっと疲れを感じた。刑務所で三ヶ月間必死に耐えてきたのは、出所して、彼らに会うためだった。
それなのに今、自分の人生で最も大切な二人が、こんな「サプライズ」を用意してくれていたなんて。
「もういい」そう言うと杏奈は再び口の端を引きつらせながら、竜也の表情をじっと見つめた。「私はただ、ひき逃げの真犯人を見つけ、偽証した人を見つけ出して、自分の無実を証明したかっただけよ」
それを聞いて竜也の表情が、ほんのわずかに固まった。
「杏奈、お前は昔、そんなに細かいことを気にするような人じゃなかった」彼は少し眉をひそめ、声に冷たさをにじませた。「仇はちゃんと討つ、それは約束する。でも、憎しみには囚われてほしくないんだ。これから俺たち、穏やかに暮らしていければ、それでいいじゃないか?」
それを聞いて、杏奈は込み上げてくるやりきれない気持ちに胸の内がジンジンと染みて痛んだ。
彼らは自分の人生を台無しにした。これからどうやって穏やかに暮らしていけるっていうの?
そう思っていると、傍らにいた浩もすかさず言った。「たとえ手が治らなくても、僕もパパも、体が不自由なママを嫌ったりしないよ。だからもう犯人捜しはやめようよ!」
その表情は、無邪気で、そして残酷だった。
杏奈は、そんな上から目線の憐れみに耐えられなかった。彼女が何かを言い返そうとした時、竜也のスマホが鳴った。
電話に出た瞬間、彼の冷たい目元が一瞬にして和らいだ。
杏奈は静かに竜也を見つめ、ますます胸が苦しくなった。
結婚して何年も、竜也は自分に優しかった。しかし、その表情はいつも冷淡だった。
彼は笑わない人なのだと思っていた。
それが、ただ自分に笑いかけないだけだったなんて。
電話を切ると、竜也は申し訳なさそうな顔をして、眉をひそめた。「杏奈、浩の学校で用事があるから、もう送っていくよ」
それを聞いて杏奈はうつむいた。
竜也は忘れていたのだ。彼女の聴力が、昔からとても良いことを。
たとえ小さな声でも、電話の向こうの女性が明るく笑う声が聞こえていた。「竜也さん、公演終わったよ。迎えに来て。ごはんごちそうするから!」
その声の主は、よく知っている相手だった。
久保家の本物の令嬢、真奈美だ。
彼女は活発で明るく、久保家でも、社交界でも人気者なのだ。
それに気づくと、杏奈の心に冷たいものが広がり、どっと疲れたように感じた。
彼女は竜也を見つめ、淡々とした口調で言った。「でも、今日は土曜日よ」
竜也は眉をひそめ、浩に目配せをした。
浩はすぐに察して話を合わせた。「学校で文化祭があったんだ!ママ、僕、一生懸命練習するから。ママが元気になったら、見に来てね」
それはあまりにも稚拙な嘘だった。そして、竜也もこの場を去りたくて、明らかに苛立っていた。
自分がもう再起不能の障害者になったから、もう演じる気もなくなった、ということなの?
杏奈は胸が苦しくなったが、顔には淡い笑みを浮かべて言った。「そう、じゃ、行ってらっしゃい」
すると、竜也はほっとしたように表情を緩め、彼女に牛乳を一杯注いだ。「お前は牛乳が好きだったよな。これを飲んで、いい子で待っててな」
そう言うと、彼は足早に、浩を連れて出て行った。
その後ろ姿にはどこか、一刻も早く立ち去りたいというはやる気持ちが見えた。
杏奈はその場に置かれた牛乳を見つめ、ふっと笑った。
自分は、乳糖アレルギーだ。
だから牛乳が好きなのは、決して自分ではないのだ。
第3話
そして、竜也は急いで出ていったせいで、財布を床に落としていった。
杏奈は、何かに導かれるようにその財布を拾い上げた。
結婚したばかりの頃、竜也の財布が古くなっているのに気づいた。だから、一生懸命節約してお金を貯めて、彼に新しい財布をプレゼントしたのだ。
その時、竜也は素っ気ない顔をしていたけど、感動したようにこう言ったんだ。「お前からの初めてのプレゼントだ。一生大事にするよ」って。
でも、床に落ちていたのは、自分が贈ったものではなかった。
彼はずっと、あの古い財布を使い続けていたのだ。
開けてみると、一枚の写真が目に飛び込んできた。
真奈美と竜也。
写真の二人はとても若く、何年か前に撮られたものみたいだった。
写真の中では、ウェディングドレスを着た真奈美が、親しげに竜也の腕に絡みつき、カメラに向かって無邪気に笑っているのだ。
そして竜也も、穏やかな目線で、優しい笑みを浮かべていた。
写真には、真ん中でつなぎ合わせたような跡があった。
竜也が、真奈美のウェディングドレス姿の写真を切り抜いて、自分の写真と貼り合わせたのだろう。
それを見て、杏奈はどっと疲れて、彼の口元の笑みが、やけに目に刺さるように感じた。
結婚して何年も経つのに、竜也は普通の夫婦みたいに、二人の写真を飾ることはなかった。
彼は、愛は心の中にしまっておくものだと言っていた。
今、やっと分かった。竜也は、自分がウェディングドレスを着て自分の隣に立つ資格なんてないと思っていたんだ。
真奈美だけが、彼が本当に結婚したかった相手だったのだから。
写真の右下には、竜也の流れるような筆跡で書かれていた。
【最愛の人】
その隣には、日付が添えられていた。
それは、二人が結婚した日。そして、真奈美が海外へ旅立った日でもあった。
その瞬間、いろんな記憶がパズルのように繋ぎ合わせ、杏奈はベッドに横たわったまま、静かに笑った。
かつて、自分は世界で一番素敵な相手と結婚できたって、みんなに羨ましがられていた。
でも、まさかそんな竜也がずっと忘れられずに、昼夜問わず想い続けていたのが、自分の妹だったなんて。
結局、太陽が沈み、丸一日が過ぎても、竜也と浩は帰ってこなかった。
そんな状況に杏奈は心底疲れ果てていた。そして何年も続けてきたこの惨めな結婚生活も、もう終わりにすべきだと思った。
彼女は夕日を眺めながら、窓辺で電話をかけた。「お兄さん、私、決めたの。本当の家族の元へ帰ろうと思うの」
実は一年前、杏奈の元に一本の電話がかかってきた。
そこで杏奈は、自分が孤児ではなかったことを初めて知ったのだ。
そして何かを思いついたのか、彼女は少し間を置いて言った。「でも、あと三ヶ月待ってもらえない?」
三ヶ月後は、祖母の命日だ。
久保家で杏奈に優しかったのは、祖母の久保恵(くぼ めぐみ)だけだった。だから彼女はこの都市を離れる前に、祖母とちゃんとお別れをしたかった。
三ヶ月もあれば、体調を万全に戻して、竜也と離婚するには十分だった。
……
一方で海外、マンダー荘園。
世界有数の富豪、鈴木家。
高級なスーツを着こなした気高い顔立ちの男性が電話を切ったあと、信じられないという表情を浮かべた。
そして彼は、同じように気品あふれるその他の三人に視線を送り、喜びに満ちた声で言った。「杏奈が、帰ってくることに了承してくれた!」
……
数日後、体調が回復し、杏奈は退院した。
松葉杖をつく彼女の姿を見て、竜也は心を痛め、また目を赤くした。
彼は杏奈を支えて中川家に入ると、ソファに座らせて抱きしめた。「もう大丈夫だ、杏奈。これからは、幸せに暮らしていけるから」
幸せ?
ここまで自分を騙しておいて、幸せになれるとでも思っているの?
一方で、浩も喜んで飛びついてきた。「ママ!退院おめでとう!」
だが、彼はうっかりしたかのように杏奈が怪我をしている方の手を押してしまい、その痛みに杏奈は小さくうめいた。
それに気づき、浩は慌てて体を離したが、その目には大して申し訳なさそうな色はなかった。「ごめん、ママ。大丈夫?」
杏奈は無表情で首を横に振った。彼女は事を荒立てるつもりはないが、彼らの芝居に付き合うのもうんざりしていた。
それから彼か父子二人がリビングでテレビを見ている隙に、杏奈は自分の部屋に戻った。
彼女は自分の持ち物は全て持ち出すか、処分してしまいたかった。
しかし、片付けてみるとこの家には自分のものと呼べるものがほとんどないことに気づいた。
この結果に杏奈はたいして驚きはなかった。彼女は自嘲気味に口の端を上げた。
自分の存在感は、この家でも、あの親子の心の中でも、まるで影のように薄かった。
あってもなくても、同じ。
ただ、どこを探しても、出所前に竜也に預けたペンダントだけは見つからなかった。
それは、祖母が亡くなる前に彼女に残してくれた、たった一つの形見だった。
この家で、杏奈が唯一持ち去りたいと思うものが、そのペンダントだった。
でも、そのペンダントが見当たらない。
「ママ、真奈美おばさんがお見舞いに来たよ!」
そうしていると、ドアの外から聞こえた浩の声に、杏奈は思考を中断された。
リビングへ行くと、真奈美がなにやらプレゼントを抱え、笑顔で家の中にいた。
その笑顔はやけに目に付き、彼女はソファになにげなく腰を下ろし、何か楽しそうに話していた。
リビングはとても明るい雰囲気に包まれていた。
杏奈が出てくるのを見ると、真奈美は急に黙り込んだ。
どうやら彼女が現れたせいで、リビングの空気は一瞬にして気まずくなった。
杏奈が何も言わないのを見て、真奈美はわざとらしく竜也から少し距離をとった。「お姉さん、変に思わないでね。私と竜也さんはただの仲のいい友達だから。やきもち焼かないで」
竜也は冷たい視線を一瞬走らせ、不機嫌そうに言った。「お前が退院したと聞いて、真奈美がわざわざ見舞いに来てくれたんだ」
杏奈は目を伏せ、二人を無視して、彼らから離れた椅子に腰掛けた。
言い争うのも面倒で、ただ見て見ぬふりをしたかった。
しかし、「お姉さん、これプレゼント」真奈美はそう言いながら、手に持っていた箱を杏奈の手元に近づけてきた。「前はこれがすごく好きだったよね……」
箱が開けられると、中にはダンスの衣装が入っていた。
確かに、それは自分が以前一番気に入っていたデザインだった。
それを見て杏奈は、思わず息を飲んだ。
自分の足では、もう二度と踊ることなんてできないのに。
「これ、私にはもう必要ないものだから」彼女は淡々と言った。
「あ」真奈美は、わざとらしく口を押さえて、杏奈の足を見た。「ごめんね、忘れちゃってた。ごめん、お姉さん。私ってぶっきらぼうでさ、気が利かなくて。怒ってないよね?」
杏奈は冷たく微笑むと、ようやく顔を上げて彼女をじっと見つめた。
その目に浮かぶあからさまな悪意を前にして、杏奈はただ皮肉に思うだけだった。
彼女は静かな声で言った。「大丈夫、もうずっと踊っていないから。プレゼントはもう要らないから持って帰って」
プレゼントなんて、いらない。
息子も、夫も、もういらない。
真奈美はふっと笑うと、ようやくプレゼントを置いた。
その時、杏奈は気づいた。真奈美の白い首に、ペンダントがかけられていることに。
彼女が動くたびに、それがキラリと揺れていた。
杏奈は息を飲み、ぎゅっと指を握りしめた。
これは、祖母のペンダントだ。
第4話
杏奈は息を詰まらせ、真奈美を睨みつけた。自分にも聞き取れないほどの細い声で言った。「このペンダント、どうしてあなたが持ってるの?」
真奈美はきょとんとして、無意識にペンダントを握りしめた。
「ああ、これ?竜也さんがくれたのよ。どうかした?」
その声はあまりにも自然だったが、杏奈には挑発しているようにしか聞こえなかった。
竜也が、彼女に?
「これがどれだけ私にとって大事なものか、分かってるでしょ」杏奈は掠れた声で、竜也の方を向いて言った。「だから刑務所に入る前に、あなたに預けたのよ」
このペンダントが高価なことは知っていたから刑務所で何かあったら大変だと思い、竜也に預けてからも何度も念を押してきたのだ。
それを彼は、こともあろうに真奈美にあげてしまった?
だが、そう言われ竜也は眉をひそめ、冷めた目で彼女をチラッと見てから、静かに言った。「たかがペンダント一つじゃないか。杏奈、お前は昔、そんな細かいことを言うような人じゃなかっただろ」
たかが、ペンダント?
その瞬間、杏奈の心は本当に冷え切った。
これが自分の祖母の形見だと、彼は知っているはずなのに。
ある年の冬、大雪が降りった。ペンダントの紐が緩んで、雪の中に落としてしまった。
自分は雪の中に一晩中探し続け、手はあかぎれだらけになり、白い雪を赤く染めた。
その様子を、竜也はすべて見ていたはず。
なのに今、彼はたかがペンダント一つだと言った。
そう思いながら、杏奈はうつむき、震える声で言った。「それはおばあさんが私に残してくれた、たった一つのものなのよ!」
「そうなんだ」真奈美はふふっと笑った。「なら言わせてもらうけど、気を悪くしないでね。
「そもそも、あなたは久保家の本当の子じゃないでしょ?だったら私の方がおばあさんを想う権利があるはずよ。だから、私がおばあちゃんのことを思って、形見を持っておきたいって思うのも当然じゃない!」真奈美はニコニコしながら言った。
「おばあさんの遺産は、あなたが相続したじゃない?」そう言われて杏奈は冷たく彼女を睨んで言い返した。「このペンダントは、おばあさんが直接私にくれたものよ」
それは、あの時祖母が、血は繋がっていなくても本当の孫娘みたいだと思っているって言ってくれたペンダント。そして、祖母はペンダントも、遺産も、全部自分に残しておくって言ってくれてた。
でも結局、遺産を独り占めしたのは真奈美だった。
あの時自分は竜也に説得されて、ペンダントだけをもらって身を引いた。
なのに今になって、真奈美はそのことを逆手に取って言ってきている。
「いいから、そんなことくらいで騒ぐな。ペンダントならまた買ってやる」傍らで竜也はさらに眉間のしわを深くし、冷たい声で言った。「真奈美はお前の妹だ。それに、お前のおばあさんは真奈美のおばあさんでもあるんだから。ペンダント一つで、どうしてそんなに目くじらを立てるんだ?」
自分が、目くじらを立ててる?
杏奈は、その言葉に再び心から底冷えを感じた。
「私のものを取り返したいだけなのに、どうしてそれが目くじらを立てることになるの?」彼女の声は怒りで震えていた。
「ママ、それって嫉妬だよ!」浩が不満そうな顔で口を開いた。「よくないよ。真奈美おばさんのことになると、すぐ意地悪するんだから」
ママはいつも自分に厳しくて意地悪だ。でも真奈美おばさんは、いつもおいしいものを食べさせてくれたり、楽しいところに遊びに連れてってくれる。
真奈美おばさんは言っていた。これは自由を求めることなんだって。
なのにママは、いつも真奈美おばさんに意地悪ばかりする。真奈美おばさんが自分に自由に遊ぶようにさせようとすると、ママはすごく怒るんだから。
これは絶対に嫉妬してるからだ。
自由を求めることの何がいけないの?自分には分からない。
「パパも僕も分かってる。ママは刑務所から出てきて足が不自由になったから、自信がないんでしょ。でも、だからって真奈美おばさんをいじめる理由にはならないよ」浩は続けた。「体の障害なんて怖くない。怖いのは心の障害だよ!ママは偏見を捨てて、真奈美おばさんから本当の優しさを学んだほうがいい!」
子供の無邪気な声がナイフのように、杏奈の心をずたずたに引き裂いた。
息子が真奈美になついていることは、分かっていた。
でも、自分をこんな目に遭わせた張本人が、偉そうに自分を責め立てるのを見ていると、皮肉としか思えなかった。
これまで、彼らのために身を粉にしてきたのに。
結局、真奈美の笑顔一つにも敵わなかった。
「そんなに怒らないでよ」突然、真奈美が声を上げた。彼女は杏奈の表情を一瞥すると、大声で笑った。「冗談よ。本当大げさなんだから」
真奈美はペンダントを外した。「そんなこと言ってどうせまた私と竜也さんのことを疑ってるんでしょ。そんなわけないじゃない。もし何かあるなら、とっく付き合ってるって」
それを聞いて、竜也の表情が、ほんのわずかに変わった。
杏奈は眉をひそめ、ペンダントをじっと見つめた。
受け取ろうと手を伸ばした瞬間、真奈美はにやりと口角を上げ、手を離した。
ペンダントは、そのまま彼女の手から滑り落ちた。
パリンッ。
杏奈が受け止める間もなく、ペンダントは床に落ちて粉々に砕け散った。
彼女は目を見開き、震えながら、松葉杖を取るのも忘れて立ち上がり、ペンダントの破片を拾おうとした。
立ち上がった瞬間、両足に激痛が走った。
杏奈は顔をしかめ、バランスを崩して前のめりに倒れた。
そこを真奈美もわざとらしく横に倒れ込み、彼女と一緒に地面に激しく倒れ込んだ。
「真奈美!」
「真奈美おばさん!」
その瞬間ほぼ同時に二人の心配そうな声が響き、竜也と浩が慌てて真奈美に駆け寄った。
一方の杏奈に構う人は誰もいなかった。
竜也は冷たい顔で真奈美を助け起こすと、彼女を見下ろして言った。「杏奈、真奈美はペンダントを返そうとしたじゃないか。どうして突き飛ばすようなことをするんだ?お前はますます理不尽になったな」
だが、杏奈は、彼に構っている余裕はなかった。
彼女は震える手でペンダントの破片を一つ一つ拾い集めたが、どうやっても元には戻らなかった。
祖母が残してくれたたった一つのものが、こうして無くなってしまった。
竜也も目を向けると、杏奈がうつむいてペンダントを合わせようとしているのが見えた。破片は彼女の血で赤く染まっていき、まるであの冬、雪の中で彼女がペンダントを探していた時のようだった。
すると、彼の目の奥に痛ましげな色が一瞬よぎったが、それでも彼は低い声で言った。「杏奈、真奈美に謝れ。それでこの話は終わりだ」
謝る?
杏奈はうつむいたまま、突然大声で笑いだした。涙がこぼれるほどに。
謝るべきなのは、自分の方なのか?
これまでの7年間の結婚生活でも、真奈美はいつもこうだった。いとも簡単に、自分と竜也の仲違いを煽るのだ。
そして竜也は、いつも今のように彼女の味方をするのだ。
何しろ真奈美こそ、竜也が自らの身を犠牲にしてまで守り抜こうとした女なのだから。
それなのに自分はなんて馬鹿だったのでしょ。今になって、彼に少しでも愛情を求めてしまうなんて。
こうなると分かっていたはずなのに、それでも彼女の胸が息が詰まるほど苦しくなり、体の節々が痛んだ。
そして全身を襲う痛みが過ぎ去ると、残るはただ空しい疲労感だけだった。
「ごめん」杏奈は低い声で言った。その声は疲れきっていて、感情が読み取れない。「私が、間違っていた」
それを聞いて竜也の心に、捉えどころのない動揺がかすめた。それでも彼は眉をきつく寄せる。
「分かればいいんだ」彼は杏奈を立たせると、耳元に顔を寄せ、二人だけに聞こえる声で言った。「真奈美はお前の妹なんだから、いじめてやるな。彼女もこれまで大変だったんだ」
その口調は優しかった。「家族じゃないか。ペンダントの一つや二つ、どうってことないだろ?今度、秘書にオークションで新しいのを落札させるように頼んでおくから」
「ええ、間違っていたのは分かっている」杏奈の声は穏やかで、何の感情も含まれていなかった。
彼女は顔を上げて竜也を見据え、彼を突き放した。そして竜也は彼女が向けてきたその冷たい視線に息を呑んだ。
「私は、本当に、とんでもない間違いを犯していた」と杏奈は言った。「同情を愛情と勘違いし、偽物を本物だと思い込んだ。あなたと、そしてこの中川家に嫁いだことこそが、私の間違いだったのよ!」
第5話
それを聞いて竜也の表情は一気に冷え込んだ。彼は杏奈が再び松葉杖をつき、足を引きずりながら自分から離れていくのをじっと見ていた。
そして心にイライラがよぎった。竜也からしてみたら、杏奈は刑務所から出てきてからますます扱いにくくなったように感じた。
せっかくこれから、うまくやっていこうと思っていたのに。
「杏奈、何を馬鹿なことを言ってるんだ?」竜也は眉をひそめ、相変わらず見下したような表情だ。「たかがペンダントじゃないか。そんなんで騒ぐなんて、お前は本当にどうかしているぞ」
だが、杏奈は冷ややかに彼を見つめ、心底これまでの愛情が冷え切って行くのを感じた。
竜也は最初からこのペンダントの意味を知っていた。それでも、大したことじゃないと思っているのだ。
つまり、自分のことはどうでもいいと思っているのだろう。
でも、もういい。どうせ三ヶ月後には、ここを出ていくのだから。
彼の気持ちなんて、もうどうでもよかった。
「ママ、もうわがまま言うのやめてよ」浩は父親の真似をして眉をひそめた。「なんだかヒステリックで怖いよ。他のママみたいに優しくないから嫌だよ」
それを聞いて杏奈は怒りのあまり笑えてきた。彼女は問い返した。「母親だから、優しくなきゃいけないの?自分の気持ちを持っちゃいけないの?」
それには浩も言葉に詰まり、意地を張ってそっぽを向いた。その瞳には、杏奈への愛情はほとんどなく、むしろ警戒心ばかりが浮かんでいた。
「まだそんなこと言うなら、もうママだなんて思わないからね」浩はフンと鼻を鳴らして言った。彼は真奈美の手を握る。「真奈美おばさんをママにする。真奈美おばさんは大学も出てるし、ちゃんとした教育も受けてるんだ。ママみたいな専業主婦とは違うんだよ!」
杏奈は冷たい目で浩をじっと見つめた。
もし中川家に嫁いで浩を産んでいなければ、自分は今頃、博士課程に進んでいただろう。
自分は子育てに専念するために、大学院へ進むのを諦めたのだ。
それなのに今、息子は学がないから母親にふさわしくない、と言っているのか?
杏奈は、すべてが馬鹿馬鹿しく思えた。
十月十日お腹を痛めて産んだ息子は、結局、竜也の冷たい人間性を受け継いでしまったようだ。
彼女は皮肉っぽく笑った。「あなたの言う通りね。私には、あなたのママになる資格なんてないね」
それを聞いて竜也の表情が険しくなった。「杏奈、どういう意味だ?」
杏奈の目に一瞬ためらいがよぎったが、それでも静かに言った。「もうこれから、私をあなたのママだと思わなくっていいから。あなたは好きな人を、ママにすればいいじゃない」
そう言って彼女は浩を一瞥し、静かな声で付け加えた。「後悔しないでね。それと、あなたは体が弱いんだから、あまり遊びすぎないように……」
「僕だってあなたみたいなママはいらないから。もしママを選べるなら、絶対に真奈美おばさんを選ぶよ!」浩は怒り任せに顔を真っ赤にしながら叫んだ。
彼は棚の上にあった積み木を掴むと、床に叩きつけて粉々にした。「説教なんかも聞きたくない!うるさい!ママじゃないって言うなら、もう僕にあれこれ言わないで!」
途端に床に叩きつけられた積み木は破片となって散らばった。
杏奈はそれをちらりと見て、胸がずきりと痛んだ。
それはあの年の浩の誕生日に、親子二人で長い時間をかけて組み立てたものだった。
だが彼女はもうこれ以上口を出さなかった。
浩が必要としないのなら、もう言うべきことは何もない。
彼が心の底から真奈美を求めているのなら、自分はその願いが叶うようにさせてあればいい。
そんな状況に真奈美はわざとらしく口元を覆った。「全部、私のせいなのね。ごめん、お姉さん。あなたがこんなに誤解してるって知ってたら、ここに来るんじゃなかった……」
「杏奈、ふざけるのもいい加減にしろ!」竜也はすっかり冷え切った表情で杏奈の手首を掴んだ。その力は、骨が軋むほどだった。
杏奈は皮肉に笑った。「ふざけてなんかないから。私が一番後悔してるのは、あなたと結婚したことよ!」
杏奈の声は大きくはなかったが、リビングの隅々まではっきりと響き渡った。「竜也、離婚しよう」
初恋の人のために、彼は自分をどん底に突き落とした。
だから今日、自分はこの親子ときっぱり縁を切ろう。
それを聞いて竜也の眉間のしわがさらに深くなった。彼はふと、冷ややかに笑った。「刑務所暮らしで、頭がおかしくなったんじゃないか?」
竜也はそう冷たい声で言いながら、杏奈の手首を掴んだまま、見下すように視線を向けた。
その切れ長の目は、冷え冷えとした光を帯びていた。
結婚して何年も経つが、竜也はいつも冷たかったけれど、ここまで怒った彼を見るのは初めてだった。
「杏奈、中川家を出て、お前にどこへ行けるんだっていうんだ?」竜也の声はぞっとするほど冷たい。「言っとくけどお前のカードはすべて止めるからな。お前が自分の非を認めるまでな」
それを聞いて杏奈は、なんだか笑いたくなってきた。
彼女は口を開き、三ヶ月後にはここから離れることを彼に伝えようとした。
しかしその時、真奈美が「きゃっ」と小さな声をあげた。
竜也は慌てて杏奈の手首を振り払い、真奈美の方へ駆け寄った。
杏奈は彼に突き飛ばされるようにして、よろめいたが、なんとかソファに手をつき、体勢を立て直した。
彼女が顔を上げると、真奈美が竜也の腕に半ばもたれかかっていた。「竜也さん、足がすごく痛いわ。どうしよう、踊れなくなったら……」
片や、竜也の目に浮かぶ心配の色をみて、杏奈の胸をチクリと刺されたようだった。
彼女はため息をつき、口の端を引きつりながら、切ない笑みを浮かべた。
きっと、これが運命なのだろう。自分は、この親子のもとから静かに去る運命なのだ。
きちんと別れを告げ、すべてをはっきりさせることもなく。
「離婚協議書は、誰かに頼んで作ってもらうから。竜也、そしたらちゃんと私と一緒に市役所へ離婚届を出しに行ってね」
杏奈は淡々と言ったあと、二人を一瞥もせず、彼女はただ松葉杖をついて立ち去った。
足を引きずりながら歩く杏奈の後ろ姿は、ひどくか弱く見えた。竜也の目に一瞬、何かがよぎったが、彼はすぐにそれを押し殺した。
「あらら、これは大きな誤解になっちゃったわね」真奈美の目に一瞬、得意げな色が浮かんだが、彼女はすぐにそれを隠した。「まったく、女ってどうしてこう面倒なのかしら。竜也さん、あなたと私がただの親友だって、誰でも知ってるのに!マブダチの私にまで焼きもちするなんて!それに、私もう結婚してるのよ!」
真奈美は笑った。「追いかけて、機嫌でも取ったらどう?まあ、突き飛ばされたけど、私は大丈夫だから。彼女みたいに、デリケートじゃないしね!」
それを聞くと、竜也の心にまたイライラが込み上げてきた。彼は目を伏せ、少しうんざりした口調で言った。「必要ない。好きにさせておけ。あいつは京市に行き場なんてないんだ、どうせすぐに戻ってくる。それよりお前だ、お前の足は何よりも大切なんだから、怪我は許されない」
杏奈が、これまで真奈美のことで腹を立てたことは、一度や二度ではなかった。
いつも、適当なプレゼントを渡して機嫌をとれば、それで済んだのだ。
彼女は京市に身寄りもなく、今や手足も不便だし、行くあてなんて、どこにもないはずだ。
こんな風に騒ぐのも、結局は自分にもっと構ってほしいだけだろう。
罪を被せた件については、確かに自分にも負い目があった。これからは、もっと埋め合わせをしてやればいい。
浩も寄ってきて、真奈美に抱きついた。「そうだよ、真奈美おばさん!ママはいつもこうなんだ。僕とパパに甘やかされてるから、わがままなんだよ。二、三日もすれば、大人しく帰ってくるって」
彼は床に散らばった積み木の破片を見て、少しだけ胸が痛んだ。
しかし、すぐに自分に言い聞かせた。
ママは、自分とパパのことが大好きなんだ。自分たちを捨ててどこかに行くなんてありえないんだから。
きっとまた、いつものヒステリーを起こしているだけなんだ。
……
中川家を出てから、杏奈は何も持ってこなかったことに気づいた。
現金さえ、持っていなかった。
竜也の言う通りだった。
カードを止められたら、手足不便な自分は、京市でどこにも行く当てがなかった。
杏奈が途方に暮れて、道端で松葉杖を手に立ち尽くしていると、背後からどこか色っぽい男の声がした。「杏奈さん」
その声には聞き覚えがあり、語尾が少し上がる独特の響きがあった。
杏奈ははっとして、振り返った。
男は車のドアに寄りかかっていた。黒い車体が、彼の肌の白さを際立たせている。後ろに流した銀髪が数本、額にかかっており、その切れ長の目は妖しくも艶ぽかった。
男は気品と優雅さを漂わせ、杏奈に唇の端で微笑みかけると、その視線は彼女の足元で、ごくわずかに止まった。「乗っていくか?」
第6話
杏奈は、指先をわずかに丸めた。
その男の甘い目元と銀色の髪を見つめ、彼女はしばらくして、やっと愛想笑いを浮かべた。「健吾さん?」
目の前の男の顔が、記憶の中の姿と重なった。血まみれなのに、ナイフを突きつけてきた、あの陰の姿と。
あの頃と比べて、今の男は当時の冷たい雰囲気が消えていた。もっと穏やかで物静かな印象だ。でも、どこか人を威圧するような、権力者独特の空気をまとっていた。
「俺のこと、覚えててくれたんだ」
橋本健吾(はしもと けんご)は一瞬動きを止め、甘い目元を細めたが、その漆黒な瞳には、冷たい笑みが浮かんでいた。
久しぶりだね……
杏奈も少し驚いた。
結婚する前、自分は医学を学ぶために、しばらく留学していたことがあった。
その時、銃で撃たれて怪我をしていた健吾に出会った。同じ国の人だということもあって、彼を助けたのだ。
でも、目を覚ました健吾は、なんと真っ先に自分の首にナイフを突きつけたのだ。
当時の健吾は、妖艶な顔立ちに反して、全身から殺伐とした雰囲気を放っていた。冷たくて暗い影を背負う彼を見て、自分は思わず憐れみを感じてしまった。
ただ、真奈美が帰ってきてからのごたごたで、その気持ちはいつの間にか薄れていった。
その後、自分は急いで帰国し、すぐに結婚した。
あの時、確か健吾からも結婚おめでとうというメールが届いた。
まさか、再会した彼が、穏やかで上品な、まるで別人のような姿になっているなんて、少し予想外だった。
「乗っていく?」
健吾の声は、低くて魅力的だった。
杏奈を見つめながら、彼のたずねるような口調には、なぜか有無を言わせない響きがあった。
そ言われ杏奈の視線は、やっとその車に向けられた。
それは一台のロールスロイスだった。
彼女は一瞬ためらったが、それでもうつむいて車に乗り込んだ。
海外で会った時、健吾はまだ貧しい留学生だった。
貧しさから道端で倒れていたけど、その甘い目元に自分は同情心をかきたてられたのだ。
だから、彼をかくまった。
まさか、時が経って、今度は自分がこんなみじめな姿になるなんて。
杏奈は後部座席に座り、ふっと笑って健吾をからかった。「ここ数年、羽振りが良くなったね。もしかして、事業が成功したの?」
健吾は少し間を置いて、甘い目をきらめかせ、軽く笑って言った。「レンタルだよ」
「え?」杏奈はきょとんとした。
「京市に来たのは取引先との接待のためなんだ。だから当然、いい車や時計をレンタルして、見栄を張らないとね」
彼の口調は落ち着いていて自然で、見栄を張っている気まずさなど微塵も感じさせなかった。
それを聞いて、杏奈はそんな彼のあっけらかんとした態度になんだか呆れたように笑った。
彼女は後部座席から健吾を眺めた。スーツも高級時計もぴったり似合っている。持ち物はレンタルだと言っていたけど、彼自身がまとう雰囲気は気品に満ちていた。
どうやら、健吾の演技力はなかなかのもののようだ。
バックミラー越しに一瞬、健吾と視線が交わった。どきりとして、杏奈はすぐに目を伏せ、彼の視線から逃れた。
「それより、あなたの体の傷は……」
健吾はバックミラー越しに杏奈の体にある傷口を一瞥し、最後にその青白い顔に視線を止めた。「痛むのか?」
平淡な声だったけど、どこか優しい気遣いが感じられた。
「うっかり転んじゃって」杏奈は目を伏せ、苦笑いを浮かべた。
今の自分は、きっとひどくてみすぼらしい格好だろう……
ただ……
自分は健吾とそこまで親しいわけじゃない。深い話をする必要はなかった。
しばらく二人の間に会話はなかった。車の中は暖かく、いつの間にか杏奈は眠りに落ちていた。
しかし、健吾は視線を外さず、眠ってしまった女を見つめていた。
女はしっかりと目を閉じ、長いまつげが不安げに少し震えている。それでも、そのクールで華やかな美貌は損なわれていなかった。
自分が調べ上げた資料の内容が頭をよぎり、健吾は心の中の殺意を抑えつけた。
彼は漆黒な瞳を細めた。その墨のような瞳には深い闇に沈むような冷たい光が渦巻いていた。
しばらくして。
健吾は優しく杏奈の頬を撫でた。その口元には甘く優しい笑みが浮かび、まるで心を寄せる相手を起こすまいと、声をひそめて囁いた。
杏奈、あいつがあなたのことを大事にできないなら……もう遠慮はしないよ……
そして、車は見知らぬマンションの前で停まった。
目を覚ました杏奈は、きょとんとして尋ねた。「ここは……」
「どこに行きたいかわからなかったけど、住む場所は必要だろうと思って。このマンション、友達がずっと借り手がつかなくて困ってるんだ」健吾は顔を上げ、ごく自然な口調で、しかし少し誘うように言った。「だから、見てみない?」
マンションの設備はすべて揃っていて、日当たりも良かった。
杏奈は少し戸惑い、ドアの前に立ったまま黙り込んだ。
ただ、こんなマンション、自分に払えるわけがない。
バカみたい。自分はこれまで中川家のために、身を粉にして働いてきたのに。
中川家の会社のために駆け回り、取引先の接待まで自分がこなしてきた。
結局、そのお金はすべて竜也の懐に入っていた。
挙句の果てに、この数年間、自分名義のカードすら持てず、彼の家族カードを使う羽目になっていた。
そして竜也は何か気に入らないことがあると、すぐにそのカードを止めてしまうのだ。
だけど竜也自身は、ことあるごとに真奈美にお金をつぎ込んでいた。「お前の代わりに真奈美の面倒を見てやってる」なんて、いい口実をつけて。
杏奈の口元に自嘲的な笑みが広がり、首を横に振ると、結局は断ることにした。
「ご親切にありがとう。でも、私は……」
しかし健吾は、杏奈の不安や困惑を見透かしたように、ゆっくりと話を遮った。「もし家賃を心配してるなら、とりあえず何日かここに泊まるといい。家賃のことは急がないから」
口調は優しかったが、なぜか断れないような有無を言わせぬ響きがあった。
杏奈がまだためらっていると、
健吾はもう彼女に鍵を差し出していた。「ここの家賃、すごく安いんだ」
彼が何気なく口にした金額に、杏奈は少し驚いた。
その値段は、ほとんどタダ同然だったから……
杏奈は心から感謝し、笑顔でお礼を言った。「ありがとう」
「どういたしまして」健吾は優しい眼差しで、ゆっくりと口を開いた。「それと、京市で有名な離婚弁護士の知り合いがいるんだ。もしかしたら必要かもしれないと思ってね。だから……連絡先、交換しない?」
その口調は、驚くほど優しかった。
杏奈はすぐに、彼が自分の怪我の原因を見抜いているのだと察した。
そんな彼の気遣いに彼女は鼻の奥つんとなり、声もかすかに震えていた。「本当にありがとう」
できることなら、自分も円満に離婚したいと願っていた。
そう思って、杏奈は健吾の好意を断らなかった。
結婚してから、杏奈はスマホも電話番号も変えてしまっていた。
だから、二人の連絡は途絶えていたのだ。
杏奈は素直に健吾のスマホを受け取り、自分の連絡先を入力した。
「どういたしまして」健吾は彼女を見ると、意味深な言葉を付け加えた。「杏奈さん、一日も早く自由になれるといいね」
そう言うと、彼はドアを閉めて去っていった。
健吾の後ろ姿を見送りながら、杏奈は胸に言いようのない感情が湧き上がるのを感じた。
なぜだろう。離婚のことに関して、健吾は少し熱心すぎるような気がした。
でも、彼と竜也は知り合いではないはず。ただの一般人で、竜也とは何の接点もないはずだ……
でも、杏奈は深く考えず、マンションを見渡した。そして瞳の奥には、固い決意を潜めた。
何があっても、絶対に離婚してやる。
一方、ドアの外。男はドアを閉めた瞬間、目から笑みを消した。代わりに現れたのは、人を圧倒するような威圧感だった。
銀色の前髪が額にかかり、妖しい色気を漂わせている。彼は指の指輪をなでながら、甘く囁いた。「杏奈さん、今度こそ、絶対に手放さないから」
もし、あの時あんな予想外のことがなければ、あなたは本来俺と付き合っていたはずだ。
あなたを苦しめたあの竜也とかいう男には、必ず償わせてやるから。
第7話
一方で、日が暮れて部屋の中が次第に暗くなるにつれ、杏奈は電気をつけた。
久しぶりの静けさを、彼女はゆっくりと味わっていた。
中川家にいた頃は、家の中がいつも騒がしかった。
浩はわがままで遊び好きだったから、宿題をさせようとしても、何かにつけては、いつも大声で騒ぎ立てるのだ。
竜也は、自分が家で子供の面倒を見ているのは、楽なことだと思っていた。
でも、実際のところ杏奈にとって家では片時も心が休まる時間なんてなかったのだ。
杏奈は壁の時計が時を刻む音を聞きながら、複雑な感情が込み上げてきて、そしてただ泣きたいほど切ない気持ちになった。
ピリリリーン――
けたたましい着信音が、彼女の思考を中断させた。
スマホを手に取って見ると、相手は竜也だった。
すると杏奈は迷うことなく、通話を切った。
それでも竜也は懲りずに何度もかけてきた。その音で頭が痛くなり、仕方なく電話に出た。
男の冷たい声が聞こえる。「杏奈、こんなに遅いのに帰ってこないのか?どこにいる?」
彼の声にはまだ抑えきれない怒りがにじんでいたが、なんとか平静を保とうとしているようだった。
杏奈は呆れて鼻で笑うと、心に皮肉がよぎった。
昔から、二人が喧嘩するといつもこうだった。
竜也は二日ほど自分を無視した後、何事もなかったかのように振る舞って、問題をうやむやにするのだ。
「竜也、私、離婚するって言ったの。忘れた?」彼女の声は静かで、どこか冷たかった。
それを聞いて竜也の表情が、とたんに険しくなり、スマホを握る指が白くなるほど力がこもるようになっていった。
「杏奈、また癇癪を起こしているのか。そんなことを言ってなんの意味があるんだ?」
「癇癪?」杏奈は冷たく笑った。「はっきり言わないとわからない?離婚したいの。本気よ、離婚届をだすから、あなたもちゃんと役所に来てよね!」
すると、電話の向こうから、浩のあどけない子供の声が聞こえてきた。「なんで機嫌なんてとるの?パパ、ママは今ただすねてるだけだよ。パパが優しくすればするほど、ママはわがままばっかり言うから!いっそ帰ってこなきゃいいのに」
浩の声は憤りに満ちていた。「僕だって、ママなんかいらないもん!」
その言葉に杏奈の心は、何かがチクリと刺さったようだった。彼女は指先をきゅっと丸め、目を伏せた。「もう帰らないから。ここ何日かで離婚協議書を用意しておくよ」
そう言って、杏奈は電話を切った。
そして余計なことは考えたくなくて、彼女はベッドに横になり、襲ってきた眠気に身を任せて眠りについた。
電話の向こうで、竜也はさらに深く眉をひそめ、スマホを激しく投げつけた。
スマホは壁にぶつかって床に落ち、粉々に砕け散った。
杏奈はいつも自分に従順だった。たまに機嫌を損ねても、少し宥めればすぐに元に戻っていたのに。
それなのに、今では家に帰ってこないなんて。
本当にいい度胸だ。
竜也はソファに座り、長いため息をひとつ吐いた。
きっと、自分が杏奈を甘やかしすぎたに違いない。
無一文の彼女が、この京市でどうやって生きていくつもりなのか。見ものだな。
ただ、そうは思ったもののなぜか彼の心には、ぽっかりと穴が開いていたようだった。
浩はそばで竜也が荒れる様子を見ていたが、しばらくして、ゆっくりと口を開いた。「パパ、ママは本当に帰ってこないの?」
ママはあんなにパパのことが好きなんだから、絶対帰ってくると思っていた。
しかし、さっき電話で聞こえた冷たい声を思い出すと、浩の心は不安でいっぱいになった。
そんな浩の不安を感じて竜也は息子の頭を撫でた。そして、しばらくした後冷たい笑みを口元に浮かべた。「そんなことないさ。あいつは俺たちなしでは生きていけないし、この京市を離れられるはずがないんだから」
しかしそれを口にしたものの、彼自身もどこか確信が持てなかった。
家に杏奈の気配がない。彼女が刑務所にいた三ヶ月間は、家が空っぽだなんて感じなかったのに。
今回は、杏奈がいなくなってまだ一日も経っていないだけで、不可欠な何かが欠けてしまったように感じるのだ。
そう思うと竜也は眉をひそめた。自分はきっと、どうかしてしまったんだ。
翌朝、杏奈はドアをノックする音で目を覚ました。
彼女はボサボサの頭のままドアを開けると、目の前には健吾が色っぽい笑みを浮かべて立っていた。
彼はにやりと笑うと、杏奈が招き入れるのも待たずに、ドアの隙間からずいっと家に入り込んできた。
杏奈は呆然とした。「どうしたの?こんなに朝早く」
健吾は手に提げていた二つの大きな袋をテーブルの上に置き、にっこり笑った。「あなたの隣人として、差し入れをしに来たんだよ」
「隣人?」杏奈は小声で尋ねた。
健吾は袋の中身を冷蔵庫にしまいながら答えた。「京市のこのクライアントが手強くてね。俺も友人の部屋を借りることにしたんだ。すぐ隣だよ」
なんだか少し腑に落ちないところがあって、杏奈は眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。
彼女は健吾が手際よく片付ける様子を見ながら、複雑な心境だった。
中川家では、竜也が家事をすることは決してなかったからだ。
一度、床の掃除を手伝ってほしいと頼んだだけで、彼はとたんに不機嫌な顔になったのだ。
今になって思えば、竜也は家事ができないわけではなかった。
ただ、自分が家事をするのが当たり前だと、そう思っていただけなのだ。
そう思っていると健吾はキッチンに入り、何かを準備し始めた。
杏奈は彼の背中をぼんやりと見つめていた。
広い肩幅に引き締まった腰。エプロンを腰の後ろで結んでいるせいで、健吾の腰はさらに細く見えた。
モデルよりもスタイルが良く、気品が漂っている。彼がどこかの御曹司だと言われても、きっと誰もが疑わないだろう。
一方で、竜也は料理を全くせず、キッチンにさえ入ろうとしなかったのだ。
彼は「男は料理なんかするべきじゃない」と言っていた。
しかしそう言った直後、竜也が真奈美のためにうどんを作っているのを、自分の目で見てしまったのだ。
ふっと、また竜也のことを考えている自分に気づき、杏奈は苦笑した。
何年も一緒にいた相手なのだから、仕方がないのかもしれない。
ほどなくして、目の前にうどんが置かれ、杏奈は浸っていた思い出から我に返った。視線を上げると、健吾の色っぽい目と会った。
彼は少しいたずらっぽく微笑んで言った。「何を考えてるんだ?俺の腕前を試してみてよ」
今日の健吾は髪を下ろしていて、そのせいか目鼻立ちが一層洗練されたように見えた。そして、彼の瞳には眩いばかりの光を放ってキラキラしていた。
その容姿はまるで、人を惑わすために現れた妖精のようだった。
杏奈は胸のトキメキを感じ、慌ててうつむくと、うどんを一口すすった。
うどんが熱くて、思わず眉をひそめた。口から吐き出しそうになったが、なんとか我慢して飲み込んだ。
その瞬間、杏奈の目から涙がこぼれ落ちた。
こんな光景は自分は何年も、ずっと願い続けてきたことだった。
竜也の手料理を一度でいいから食べてみたかった。彼が本当に自分を妻として見てくれていると、実感したかった。
しかし、竜也も浩も冷たくて、誰も自分が何を望んでいるかなんて、気にも留めてくれなかった。
杏奈は顔を上げた。目にはまだ涙が浮かんでいたが、健吾に向かって笑顔を浮かべた。「ありがとう。すごく美味しいよ」
その姿は、どこか痛々しかった。
そう感じた健吾の瞳から笑みが消え、彼は眉を寄せた。「なんで泣くんだ?」
健吾が笑っていない時の顔は、少し威圧感があった。
二人はまだお互いの傷を打ち明けられるほど親しいわけではないと思った杏奈は目を伏せ、首を横に振った。
何年も前に外国で育んだ小さな友情も、きっと長い時間の中でそれほど残ってはいないはず。
健吾がここまで助けてくれただけでも、もう十分すぎるくらいだ。迷惑をかけるわけにはいかないと杏奈は思った。
杏奈が何も言わないので、竜也は気を遣ってそれ以上は聞かなかった。彼女が食べ終わるのを待ち、食器を洗うと部屋を出ていった。
ちょうどその時、父親の久保翔平(くぼ しょうへい)からの電話がかかって来た。
電話に出るとすぐに、有無を言わせない翔平の声が聞こえてきた。「杏奈、なぜすぐに出ない!俺の電話を無視して!親を敬う気持ちがないのか?」
杏奈は眉をひそめ、心の中に皮肉が広がった。「気づかなかったの。何か用?」
「明後日は、俺の誕生日だ」と翔平は言った。「竜也と浩くんを連れて一緒にこい」
杏奈はさらに眉間のしわを深くした。苛立ちを覚えながら答える。「彼らだって都合があるでしょうし、浩は学校もあるから」
「何が都合だ?俺の誕生日なんだぞ。娘婿として、そのくらいの時間も作れないというのか?」
そう言い終わると、杏奈の反論を待たずに、翔平は一方的に電話を切った。
第8話
スマホから聞こえるツーツーという音を聞きながら、杏奈はしばらく呆然としていた。
父はずっと自分のことが好きではなかった。そして真奈美が実家に戻ってきてからは、ますます自分のことを目の敵にするようになった。
父は心の底から、自分は竜也にふさわしくないと思っているのだろう。多分本当は実の娘である真奈美に嫁がせたかったはずだ。
しかし、中川家に取り入るためには、自分を利用するしかなかった。
しばらくためらったが、杏奈は意を決して竜也に電話をかけた。
コールが2回鳴っただけで電話はつながった。竜也の声は少し冷たかった。「また何の用だ?」
杏奈はその氷のような声に一瞬たじろいだが、すぐに言った。「明後日はお父さんの誕生日パーティーなの。あなたも……浩を連れてきてくれない?」
竜也は眉をひそめた。その瞳の奥に、ある感情が一瞬だけきらめいた。
やはり耐えきれなくなって、自分から電話をかけてきたか。
しかし、その手口はあまりに姑息だ。
こんな風に騒ぎ立てるのも、自分と離婚したくないからだろう。
それで、自分の気を引きたいだけなのだ。
まっ、自分の機嫌を取ろうとする心遣いがあるなら、少し姑息でも目をつぶってやれなくもない。
だが、その口ぶりが、どうにも気に障った。
「お前から離婚を切り出したんだ。俺がお前の夫としての役目を果たす義理はないだろう」竜也は冷たく言い放った。「それが、復縁を願う人間の態度なのか?」
「復縁したいわけじゃない」杏奈はぐっとこらえ、深く息を吸い込んで言った。「お父さんが、浩に会いたがっているの」
そう言いながら、彼女は心の中で自嘲した。
自分が刑務所に入るまでは、あんなに良い夫を演じていたのに。今になってようやく本性を現したというわけね。
竜也は眉をひそめた。その瞳は冷たく、心にじりじりとした苛立ちが広がっていく。
ただ、彼女が父親に浩を会わせたいだけだと?
理由は自分でもよく分からないが、彼のイライラは更に募っていった。
杏奈はいつも、こういう手口を使う。
こんなのは、どうせ自分に会うための口実にすぎない。結局、自分から離れられないくせに。
「ずいぶんと下手な言い訳だな」竜也は声を押し殺し、顔に苛立ちをにじませた。「どこでそんな三文芝居を覚えてきた?」
そう言われ、杏奈の胸はその一言一言に深く突き刺されるようだった。
しかし、杏奈はもう麻痺してしまったかのようで、痛みを感じなかった。
彼女は再び深く息を吸い込んで、喉まで出かかった皮肉をぐっと飲み込んだ。
どうせあと三ヶ月の辛抱だ。そうすれば、もう二度と竜也の顔を見なくてもすむのだから。
そう思っていると電話の向こうで、浩がスマホを竜也から取って言ってきた。「もう僕のママじゃないって言ったくせに!なんで電話なんかしてくるんだよ!もうかけてこないでよ!」
その言葉を聞いて、今までそれほど痛まなかった杏奈は胸を抉られるような痛みを感じた。
そして、彼女はフッと自嘲の笑みを漏らした。
これが自分が十月十日お腹を痛めて産んだ、なんて「良い子」なのかしら。
いつの間にか、こんなろくでもない子に育ってしまっていたなんて、まったく気づかなかった。
「明後日は、おじいさんの誕生日パーティーなの。おじいさんがあなたに会いたがってるのよ、わかった?」
杏奈の冷ややかな声が、スマホのスピーカーを通して中川家のリビングに響き渡った。そして、その華やかな顔つきはいつになく冷たかった。
「もうあなたのママじゃないと言ったんだから、その考えを変える気はないから。言うことが聞けないなら。勝手にして」
杏奈が言い終わると、電話の向こうはしばらく沈黙に包まれた。
突然、あっけらかんとした女の声が聞こえてきた。「もうそんなピリピリしないでよ。ねぇ、竜也さん!この服どう?お姉さんより似合ってると思わない?」
それはよく聞き覚えがある声だった。
真奈美。
杏奈の胸に苦いものがこみ上げてきた。真奈美がカラカラと笑い、電話に向かって話しかけるのが聞こえる。「お姉さん、怒らないでよ。ちょっと頻繁に来すぎかもしれないけど、私たちと竜也さんが親友だっていうことは変わらないから。ただ、あなたがいない間、私が竜也さんの家のことを手伝ってあげようと思っただけよ、いいでしょ?」
そのまるで自分がその家の女主人でもあるかのようなその態度に、杏奈は思わず嘲笑いを漏らした。
自分が家を出た途端、真奈美は堂々とその家に出入りするようになったようだ。
だが、もう関わりたくもなかったし、どうでもいいのだ。
この親子のために、これ以上自分の時間を無駄にしたくはない。