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真夏の夜の別れ
結婚5周年のその日、夏見柚葉(なつみ ゆずは)は海外のデザインコンテストに出場するため、手続きのために役所の窓口へ向かった。 彼女は窓口...
Chương (1)
第1章
結婚5周年のその日、夏見柚葉(なつみ ゆずは)は海外のデザインコンテストに出場するため、手続きのために役所の窓口へ向かった。
彼女は窓口で書類を受け取り、内容を確認して訂正を申し出た。「すみません、婚姻状況が間違っています。私は『離婚』ではなく、『既婚』です」
彼女の夫、夜月鷹真(やづき たかま)は、首都圏政商界でも有名な「狂気の御曹司」だ。独占欲が非常に強く、彼女が手放そうとしても、彼が許すはずがなかった。
ところが、担当者は何度もデータを照会した末、きっぱりと言った。「間違いありません。夏見さんと夜月さんは、3年前の今日、離婚手続きをされました。その日のうちに彼は再婚されました。お相手は須田染花(すだ そめか)という方ですが、ご存知ですか?」
柚葉は全身が硬直し、その場で凍りついたようになった。
「知っている」どころではなかった。
第1話
結婚5周年のその日、夏見柚葉(なつみ ゆずは)は海外のデザインコンテストに出場するため、手続きのために役所の窓口へ向かった。
彼女は窓口で書類を受け取り、内容を確認して訂正を申し出た。「すみません、婚姻状況が間違っています。私は『離婚』ではなく、『既婚』です」
彼女の夫、夜月鷹真(やづき たかま)は、首都圏政商界でも有名な「狂気の御曹司」だ。独占欲が非常に強く、彼女が手放そうとしても、彼が許すはずがなかった。
ところが、担当者は何度もデータを照会した末、きっぱりと言った。「間違いありません。夏見さんと夜月さんは、3年前の今日、離婚手続きをされました。その日のうちに彼は再婚されました。お相手は須田染花(すだ そめか)という方ですが、ご存知ですか?」
柚葉は全身が硬直し、その場で凍りついたようになった。
「知っている」どころではなかった。
染花は鷹真の狂信的なストーカーだった。
5年前、彼女は二人の結婚式に乗り込み、会場で暴れて二十人の警備員に取り押さえられた。
4年前、彼のオフィスの机に全裸で横たわっていたところを警察に通報され、20日間の拘留を受けた。
3年前、それは柚葉にとって悪夢のような年だった。染花は鷹真に拒絶された怒りから、柚葉のスタジオに押し入り、彼女の右手を切り落とした。
鷹真はその話を聞くと目を真っ赤にして、「殺してやる」と怒り狂った。それを必死で止めたのが、ほかでもない柚葉だった。
その後、鷹真は染花を監禁し、毎日鞭で打ち、「俺の愛する人を傷つけた代償は、刑務所の何千倍もの苦しみだ」と言って彼女を罰した。
だが今、柚葉は聞かされた。右手を失ったその日、鷹真は染花と結婚したというのだ。そんな馬鹿な!
……
呆然とする彼女のもとに、鷹真からメッセージが届いた。
【柚葉、今日は俺たちの5周年記念日だ。あの女を懲りしめたら、すぐに君のもとへ帰るよ。愛してる】
画面を見つめながら、柚葉は茫然としていた。
この5年間、彼から届くメッセージには必ず「愛してる」の言葉が添えられていた。その愛は常に熱く、激しく、溢れんばかりだった。
彼女がただの無名デザイナーだった頃、兆の資産を持つ社長の彼は、初めて見た瞬間から恋に落ち、熱烈に追いかけてきた。
街を埋め尽くす花火、空輸された希少なバラ、超高額のジュエリー……毎日のように違う方法で愛を伝えてきた。
だが、彼女の心を動かしたのは、胃痛に苦しんだとき、彼が夜中に海外から飛んできてお粥を作ってくれたこと。
気分が落ち込んだとき、役員たちの前で会議を止めてまで、ジョークを披露してくれたこと。
同僚の嫉妬から硫酸をかけられそうになったとき、自分の背中が血まみれになりながらも彼女を守り、「怖がらないで」と優しく言ってくれたこと。
鷹真は他人には冷酷で暴力的ですらあったが、柚葉には限りない優しさと愛を注いでくれていた。
そんな彼が、本当に彼女を裏切るだろうか?
気がつけば、柚葉はタクシーに乗っていた。向かった先は、鷹真が染花を監禁しているはずの山頂の別荘だった。
庭から、微かに泣き声のような音が聞こえてきた。
少し近づき、紫藤の花の隙間から覗き込んだ彼女が目にした光景は、まさに雷に打たれるような衝撃だった。
鷹真はスーツ姿で背筋を伸ばし、手にした羽鞭で何度も染花の体を打っていた。
裸の染花はブランコに縛りつけられ、喘ぎ声を漏らしていた。
次の瞬間、彼は鞭を捨て、彼女の体に覆いかぶさり、激しく唇を重ねた。
二人の姿が重なり合い、彼の衣服はすべて脱ぎ捨てられ、汗が背中をつたって流れ落ちた。
柚葉の顔から血の気が引き、心臓が裂けるような痛みが走った。
さっきの「泣き声」は、満ち足りた喘ぎだった。
「鞭打ち」とは、ただの愛の戯れ。
「監禁」とは、愛の巣そのものだった。
柚葉は、揺れ続けるブランコを呆然と見つめた。それはかつて鷹真が彼女のために、1ヶ月もの時間をかけ、手に血豆を作りながら自ら作り上げたものだった。
あの時、彼は優しく言った。「俺の柚葉は、この世でただ一つの美しさにふさわしい。ブランコは柚葉だけのもの、俺の愛もまた同じだ」
だが今、ブランコも愛も、すべてが別の女に与えられていた。
彼女をほとんど破滅させた、憎むべき相手に。
柚葉は震えながら、血が滲むほど手を握りしめ、体中に広がる痛みに耐えていた。
なぜ?一体なぜ?
答えはすぐに明かされた。
動きが止んだブランコの上、染花は頬を紅潮させながら言った。「あなたって最高……夢みたい。私、本当にあなたと結婚できたなんて」
「それは当然の報いだ」鷹真はシャツを着ながら、淡々と続けた。
「3年前、俺が『柚葉を海外留学させたくない。ずっとそばにいてほしい』と口にした。それだけでお前はバカみたいに彼女の手を切り落として、彼女を二度とデザインできないようにしてくれた。そして自首までして、『刑務所で一生を終えてもいい』とまで言った。
冷たい俺でも、そんな無償の愛には心を動かされた。柚葉は堂々と俺の愛を受け取れるが、お前は別荘に隠すしかできない。だからせめて妻の立場だけでも与えたのさ」
柚葉は思わず後ずさった。胸をえぐられるような痛みが襲った。
かつて、ある若者が彼女を「翼の折れたエンジェル」と笑った時、鷹真はその舌を引き抜かせた。「柚葉を侮辱する者は、こうなる」と。
だが今、彼は彼女の翼を折ったその女を抱き、愛し、妻の立場を与えている。
「夏見さんにバレたらどうするの?」と、染花が心配そうに言った。「きっと受け入れないわ」
鷹真は落ち着き払って言った。「俺の柚葉への愛は変わらない。ずっと彼女を守る。彼女にバレることもない」
別荘から去る前に、彼は染花の指にピンクダイヤをはめた。
「えっ?」染花は驚きの声を上げた。「これって数日前のサザビーズの目玉商品じゃない!20億もするって……私なんかがつけていいの?」
「お前は俺の女だ。当然だよ」彼は啄むように彼女の唇をキスして、囁いた。「俺の妻、染花よ、3周年おめでとう」
黒いカイエンが遠ざかっていくのを見届けたあと、柚葉は呆然と山を降りた。
スマホが震え、彼女は無意識に画面を見た。
【柚葉、今帰宅中。君との5周年を過ごせるのが楽しみで仕方ないよ。愛してる】
柚葉はふいに笑い出した。涙が止まらず、胸が風に吹かれたように空虚だった。
彼は他の女と3周年を祝ったばかりで、今度は自分と5周年だって?
でも、そもそも5周年なんて存在しない。彼らはもう3年前に離婚しているのだ。
「愛」だって?鷹真の言う愛が、彼女の翼を折り、一生を縛るものなら――
そんな愛なんて、もう二度といらない。
鷹真は彼女には永遠にバレないと言った。でも、それは違う。彼は永遠に彼女を失うのだ。
柚葉は手に握ったセレーヌデザインコンテストの応募用紙をきつく握りしめ、踵を返して、二つの大事なことをやりに行った。
第2話
柚葉が最初にしたことは、国内すべての身分情報の抹消申請だった。
二つ目のことは、新しい身分でデザインコンテストへの応募をやり直すこと。
3年前、染花が彼女の右手を切り落としたとき、切断された手をそのまま野犬の餌にし、接合の望みは完全に絶たれた。
その日を境に、鷹真は狂ったように彼女を哀しみ、千億円を投じて、ほぼ完璧な義手を作らせた。
日常生活には不便はなかったが、精密な作業――彼女が最も愛したデザインは、もうできなかった。
夢が潰え、柚葉は三度も自殺を図り、何度も夜明けまで涙を流した。それでも最後は歯を食いしばり、左手でやり直す決意をした。
その道は過酷だった。千日以上にわたって、左手には無数のタコができた。そしてようやく、彼女はセレーヌデザインコンテストの最終選考に残ることができた。
本当は鷹真には内緒で、驚かせようとしていたのだ。彼が愛した彼女は、どんな運命にも屈せず、立ち上がり続けてきたことを伝えるために。
でも今はただ、告げなくてよかったと安堵するばかりだった。
もし彼に早く話していたら、きっと左手まで失っていたかもしれない。
彼女はスマホの画面を見下ろした。
【身分抹消申請を受理しました。手続き完了まで営業日で10日ほどかかります】
10日後、彼女はセレーヌへ発ち、もう二度と戻らないつもりだ。
どれほど鷹真が執着しようと、身分を抹消した人間を見つけることはできない。
夕暮れが迫る頃、柚葉は別荘に戻った。
屋敷の中は張り詰めた空気、まるで戦場のような混乱。
鷹真は全ての使用人を縛り上げ、冷たい声で柚葉の行方を問い詰めていた。
彼女の姿を目にした使用人たちは、まるで赦しを得たように安堵の息をついた。
鷹真もまた、ようやく緊張を解いたように彼女を強く抱きしめた。
「柚葉、どこに行ってたの?すごく心配したんだ」
柚葉の身体が一瞬こわばったが、最終的には平静を装って答えた。「買い物してたら、時間を忘れちゃって」
鷹真は困ったように彼女の髪を撫でた。「これからは夫を連れて行ってね。荷物持ちも支払いも、いつでも出動するよ」
夫?
柚葉の胸がチクリと痛んだ。3年前から、彼は既に自分の夫じゃなくなったのに。
「今日は俺たちの5周年記念日だよ。夫からのプレゼント、見てくれる?」
鷹真は柚葉の手を引き、裏庭のヘリポートまで連れて行き、彼女を抱き上げてヘリコプターに乗せた。
空へと上昇すると、眼下の街の灯りが突如「love柚葉」の文字を描き出した。
そのきらめきはまばゆく、壮観で、息を呑むほどだった。
鷹真は彼女の耳元で深く囁いた。「愛してるよ、柚葉。永遠に」
やがて、ヘリコプターは郊外の豪華な邸宅の前に着陸した。
その邸宅は、かつて謎の人物が一千億円で落札したもので、今では豪華な彫刻が施された門にこう書かれていた――
「柚葉愛山荘」
目の前に広がるのは、柚葉が最近ふと口にした「ゴシック様式」の建築。
庭には彼女が最も愛する蘭の花が咲き誇り、どの一株も8桁を超える値打ちがある。
少し離れた場所には夢のような遊園地があり、メリーゴーラウンド、観覧車、ジェットコースター……すべて彼女の好きなアトラクションばかり。
さらに、かわいい猫たちがたくさんいる「ペットパーク」まであり、あの日、野良猫を気にかけた彼女の言葉を覚えていたのだろう。
……
柚葉は目の前の光景を見つめながら、胸が締めつけられるように痛み、目元が赤く染まっていった。
彼が5年間、変わらず自分を愛してくれたことは本当だ。細かいことまで願いを叶えてくれていたことも。
でも、その裏で愛を他人と「分けていた」ことも、また事実だった。
鷹真はそっと指先で、柚葉の目元の涙を拭った。
「夫が妻を大切にするのは当たり前。そんなに泣かれたら、俺の心が痛むよ」
そして満天の星空の下、彼は片膝をつき、一つの宝石箱を開いた。
「柚葉、俺の人生で一番の幸運は、君と結婚できたことだ。本当に心の底から愛してる。少しの時間も離れたくない。
だからね、考えたんだ。このペアリングね、女性用にはチップが入っていて、男性用には受信機がある。これで、君がどこで何をしているか、いつでも分かるようになる。もう不安になる必要はないんだ」
鷹真の瞳には、狂気じみたほどに濃密な愛が宿っていた。
しかし彼が柚葉の指に指輪をはめようとしたその時、携帯が鳴った。
特別な着信音、それは染花からのメッセージだった。
彼は内容に目を落とし、顔色一つ変えずに指輪を柚葉の薬指にはめた後、立ち上がった。
「柚葉、大事な取引先からだ。行ってくるね」
そう言いながら、彼はすでに急いでヘリに乗り込んでいた。
プロペラの音が完全に消えたころ、柚葉は一匹の小さな猫を抱き上げ、そっと地面にしゃがみ込んだ。長いあいだ、言葉は一つも出なかった。
ふわふわとした温もりが手のひらに伝わってきた。けれど、彼女の心の奥底は氷のように冷たかった。
野良猫には家ができた。でも彼女には、もう帰る家などなかった。
第3話
「コトン――」
指輪が柚葉の指から滑り落ちた。
鷹真は心ここにあらず、頭の中は染花のことでいっぱいだから、指輪を間違えて着けたことにすら気づいていなかった。
彼はチップ入りの女性用リングを持ち去り、本来監視用の男性用リングは柚葉のところに置いていった。
少しの間ためらった末、柚葉はそのリングのスイッチを押した。
「ごめんね、あなた……私だって、うつ病なんてなりたくなかった。でも、ここに3年間も閉じ込められて、もう本当に気が狂いそうなの……」
染花のすすり泣く声がリングから漏れた。
「私のことなんて気にしないで。今日はあなたと夏見さんの5周年記念日でしょ?そばにいてあげて……私は頑張って乗り越えるわ。どうせこの3年もなんとか我慢してきたんだし……」
「馬鹿なこと言うな」
鷹真の低く、威圧感のある声が続いた。
「俺はお前の男だ。お前が病気なら、放っておけるわけがない。行こう、少し外に出よう」
「ほんとに?」染花は嬉しそうに言った。「夢みたい……私、本当にここから出られるの?」
「俺がお前に嘘をついたことあるか?今すぐ行こう」
聞き覚えのあるプロペラの音が響き始め、柚葉は、彼らがヘリに乗ったことがわかった。
彼女は思い出した――3年前、右手を失って絶望していた自分を、鷹真が慰めようとあらゆる手を尽くしたことを。
あのとき彼はこのヘリを買い、雲の上へ連れ出しながら、優しく語りかけてくれた。「柚葉、見てごらん。どんなに巨大な建物も、上から見るとこんなに小さく見えるのだ。人生の困難も同じさ。どんなにつらくても、俺が一緒に乗り越えるよ」
その言葉を、柚葉は信じてしまった。
けれど、今になってわかった。あの「困難」は、彼が与えたものだったのだ。
空に再びヘリが現れたとき、柚葉は一瞬、自分の目を疑った。
だがそれは現実で、ついにそのヘリは隣の別荘へと降り立った。
指輪から鷹真の声が聞こえた。「染花、今まで外に出る機会はなかったけど、実は記念日のプレゼントをずっと用意してたんだ。この山荘はお前のものだ。今日はここで、1日一緒に過ごそう」
染花の歓喜に満ちた笑い声が響く中、柚葉のスマホに鷹真からメッセージが届いた。
【柚葉、今クライアントとプロジェクトの打ち合わせ中だ。明日の夜には戻るよ。それまで自分で楽しんでね。何か必要ならすぐ夫に言って。愛してるよ】
スマホを握りしめる柚葉の目から、一滴の涙が落ちた。画面に映る「夫」の文字が滲んでいった。
彼は、まったく同じ山荘を二人の女性に贈ることはできる。
けれど「夫」になれるのは、たった一人に対してだけ。
壁一枚隔てた先で、彼は「本物の妻」と過ごしている。
まるで、自分が光の下に出られない愛人であるかのように感じさせられた。
……でも、こんな日々も、もうすぐ終わる。
柚葉は涙を拭き、山荘には留まらず、家に戻ってデザインの練習を続けた。
今はまだ予選を通過しただけ。左手だけでその先へ進むには、常人の何倍もの努力が必要だ。
この不意打ちの痛みが、インスピレーションを呼び起こしたのかもしれない。彼女は新しいアイデアを素早く描き上げた。
下書きを終えたあと、ペンを置いて、じっとそのスケッチを見つめた。その拍子に、うっかり指輪に触れてしまった。
スイッチが入った音と共に、またしても染花の泣きそうな声が流れてきた。
「……たった1日だけなんて短すぎる。また別荘に戻って隠れるの?……わかってるよ、夏見さんに見られちゃいけないってことは。でもね、私だって彼女みたいに、堂々とあなたの隣にいたいの……」
その先の言葉が聞こえた瞬間、柚葉の呼吸が止まった。
彼女の腕が小刻みに震え出した。3年前、右手を切り落とされた時の地獄のような痛みが蘇った。
痛い。あまりにも、痛すぎた。
全身が震え続けた。
鷹真こそが、彼女の痛みと憎しみを最もよく知っているはずだ。だからこそ、染花を人目に触れさせまいと、ずっと隠してきたのだ。
絶対に、あの女を人前に出すことなんて、あるはずがなかった。
……そう、思っていたのに。
沈黙の後、鷹真の声が響いた。
「……いいよ」
彼は、あっさりと答えたのだ。染花の願いを、受け入れたのだ。
柚葉は胸を押さえた。まるで心の奥を、何かに無理やり引き裂かれたかのようだった。
第4話
翌日、鷹真は時間通りに戻ってきた。
彼の手には、40億円の価値がある「シースター」ネックレスと、世界に一着しかない「星光ダイヤモンド」のドレスがあった。
「柚葉、今日は5周年記念日を改めて祝おう。すべての人に、俺たちの幸せを証明してみせるよ」
その口調は優しかったが、いつものように反論の余地を与えないものだった。
柚葉は黙ってドレスに着替え、彼の驚嘆のまなざしに導かれて、その場を後にした。
晩餐会は夜月グループ傘下の七つ星ホテルで開催された。
華やかに装飾された宴会場には、高級な衣装に身を包んだ人々が集い、セレブたちがひしめいていた。
ただ――すべてのウェイトレスはドレスを着用し、仮面をつけていた。
鷹真は無表情で彼女たちを一瞥すると、柚葉に説明した。「柚葉、今夜の主役は君だ。脇役たちには仮面をつけさせた方が、主役が目立つのだ」
柚葉は、何かに気づいたように顔色を失った。
何か言おうとした矢先――周囲から賞賛の声が飛び交った。
「さすが夜月さん、相変わらず愛情深くて気が利くわね。奥さんって本当に幸せ者!」
「結婚5周年の贈り物は、1千億円の豪邸だって聞いたよ」
「夜月さんは言ってたよ、『愛は年々増すばかり、贈り物もどんどん豪華になる』って」
その時、不意に布の裂ける音が響いた。
「す、すみません……」
一人の仮面をつけたウェイトレスが、震えるように立ち上がった。彼女のドレスは太ももの付け根まで裂け、美しい脚があらわになっていた。
だが、客たちは誰一人それを楽しむ余裕などなかった。全員が静まり返った。
鷹真が「愛妻狂」であることは有名なのだ。こんな場で雰囲気を壊すようなことをしたら……彼は狂ってしまうだろう。
誰もが心の中で、この不運なウェイトレスの冥福を祈った。
案の定、鷹真の声は氷のように冷たかった。「ついてこい」
「柚葉、ウェイトレスへの教育が行き届いてないようだな。ちょっと彼女を躾けてやる、すぐ戻るよ」
そう穏やかに言い残すと、彼はウェイトレスの手首を掴み、無理やり上階へと連れて行った。
少しして、柚葉も後を追った。
三階の角、会議室の扉はわずかに開いていた。
そこにいたのは、さきほどの「ウェイトレス」。彼女は会議テーブルに座り、長く滑らかな脚を鷹真の腰に巻きつけていた。
仮面は外され、横に静かに置かれていた。
その顔は、涙に濡れ、見る者の同情を誘うような儚さに満ちていた――
染花だった。
柚葉の心がずたずたに裂けた。記念日を祝うという名目は、すべて、染花の願望を叶えるための口実だったのだ。
けれど、彼女はまだ満足していないようだった。
「ごめんなさい。私を連れ出してくれて、本当は嬉しいはずなのに……でも、あなたと夏見さんが仲睦まじくしてるのを見て、つらくて、つらくて、気を失っちゃって……気づいたら倒れてたの。こんな私のせいで、あなたに恥をかかせちゃった。怒ってるよね?夏見さんとの時間、邪魔しちゃって……」
「怒ってなんかいないよ」
鷹真は彼女の頬に流れる涙をそっと拭った。
「お前が心配なんだ。あとで秘書に送らせるから、専門医に診てもらおう」
「イヤ、行かない……」染花は彼を強く抱きしめ、甘えるように言った。「お医者さんなんて意味ないの。治せるのは、あなたしかいない……試してみて?」
鷹真は苦笑し、彼女の後頭部を抱き寄せ、深く熱いキスを交わした。
「少しは楽になった?」
「うん……でも、まだ足りないの。もっと『深い治療』が必要……」
その声はまるでハチミツのように甘く、彼の敏感な部分を撫で回すような手つきに、挑発が極まった。
鷹真は苦しげにうめいた。「お前、病気なのか、それとも欲情してるのか……」
染花はくすくすと笑いながら耳元で囁いた。「両方よ」
次の瞬間、彼女は鷹真に押し倒され、ドレスが無残に引き裂かれた。
あらわになったその肌の白さが、柚葉の目を突き刺した。
彼女は思い出した――4年前のあの出来事。
染花が鷹真のオフィスに忍び込み、裸で机の上に横たわり、懇願した。「夜月さん、お願い、私を抱いて……一度でいいの……」
鷹真は彼女に一瞥もくれず、冷たく命じてそのまま拘留させた。
そして柚葉の目をそっと手で覆いながら言った。「汚いから、見るな。俺がこの一生で君しか抱かないよ」
……なのに今は、彼の指が、彼の唇が、すべて染花の上にある。
その目に宿るのは、もはや嫌悪ではなく、愛と情熱だった。
柚葉はそれ以上見ていられず、震える足取りでその場を離れた。
やがて、鷹真は再び現れ、手にはギフトボックスがあった。
「柚葉、これはこのホテルの譲渡契約書だよ。今夜ここで、俺たちの愛が証明された。だから、君にあげる」
千億円の価値があるホテル。それを「贈り物」としてあっさりと差し出した。人々は驚きと羨望の眼差しを柚葉に向けた。
そのとき、着替えた染花が再び階下へ降りてきた。
仮面の奥に表情は見えなかったが、強く握りしめた拳が、彼女の内なる苛立ちを物語っていた。
やがて染花は拳をほどき、従順な態度でシャンパンタワーの準備に取りかかった。
彼女はつま先立ちで、最上段のグラスからシャンパンを注ぎ始めた。
しかし突然、足をくじき、バランスを崩した勢いでテーブルクロスを引っ張ってしまう――
その瞬間、シャンパンタワーが崩れ落ち、無数のグラスの破片が染花と、その背後にいた柚葉めがけて飛び散った。
悲鳴が上がる中、鷹真の表情が一変し、猛スピードで駆け寄った。
彼は焦りに満ちた顔で染花を抱き寄せ、庇った。
だが、元々避けようとしていた柚葉は、彼の勢いに押され、地面に激しく倒れ込んだ。
頭を打ち、温かな血が流れ出した。
彼女の身体には、割れたグラスの破片が無数に刺さり、激しい痛みが全身を襲った。
視界がぼやけていく中、柚葉は苦しさに震えながらも、無表情で笑った。
――彼の愛は、平等に分けられていると、ずっと思っていた。
でも、本当は選ばなきゃならない時、彼が選ぶのは、いつだって染花だったのだ。
第5話
柚葉が再び目を覚ましたのは、病院だった。
鷹真は目を赤くし、罪悪感に満ちた表情で言い訳した。「柚葉、君を守りたかったんだ。ただ、あの時は焦ってたせいで、間違って別の人を助けてしまった」
彼は繰り返し柚葉の手にキスを落とし、まるでその手を通じて、自分の愛と痛みを伝えようとしているかのようだった。
だが、彼は忘れていた。それが義手であることを。
柚葉はその手に何の温もりも感じず、ただ彼の言葉の嘘くささに吐き気すら覚えた。
彼女は冷たく問った。「そのウェイトレス、どうするつもり?」
彼女ははっきりと見ていた。あのシャンパンタワーの崩壊は、決して偶然ではなく、染花が故意に仕組んだものだと。
鷹真の表情が一瞬止まった。そして平然と答えた。「確かに彼女の不注意だった。もう命じてあるよ。今後、世界中どこでも、彼女がウェイトレスとして働けないように手配した」
柚葉は一瞬呆然とし、そして急に笑った。
その笑顔は、心の奥に細かな亀裂を生み、痛みが容赦なく入り込んできた。
須田染花はもともとウェイトレスなんかじゃない。
まるで「猫になれないようにする」とでも言わんばかりの滑稽な処罰。
本当に笑えるわ。
彼女の笑顔を見て、鷹真も安心したのか笑みを浮かべ、その後も献身的に世話を続けた。
点滴の進行を気にかけ、自ら彼女の傷を丁寧に手当てし、瑞々しいライチをむいて彼女の口元まで運び、種を自分の手のひらに吐き出させた。
通りすがりの医者や看護師たちは、柚葉の「幸運」に羨望の眼差しを向けた。
――あの特別の着信音が鳴るまでは。
鷹真は一瞬ためらい、平然を装って言った。「柚葉、会社でちょっとした用事があるから、行ってくるね」
彼が完全に姿を消すと、柚葉は指輪の受信スイッチを入れた。
すると、もう一つの病室から、染花の声が響いた。
染花も入院していたのだ。
ただし、彼女の点滴を心配する様子はなく、傷の手当ても不要だった。というのも、彼女の擦り傷などとっくに治っていたのだ。
鷹真はライチをむいて与えることもせず、むしろ「果肉を体にのせろ」と命じ、自らそれを舐めとって食べつくした。
柚葉はもう耐えきれず、スイッチを切ろうとしたその時――
「お願い、またあの別荘に閉じ込められたら、私のうつ病はもっとひどくなるわ。私は枯れてしまう、本当に……お願い、あそこには戻りたくない。夏見さんの目の前でもいい、あなたと愛し合いたいの……んっ……」
染花の懇願は、すぐに激しい衝突音にかき消され、声は甘い喘ぎに変わった。
そしてすべてが静まり返ったそのとき、鷹真は再びあの一言を口にした。
「……いいよ」
3日後、柚葉は退院した。
鷹真は彼女を抱えて車に乗せ、さらに自宅のソファまで運んだ。「体調が回復したばかりだから、少しも疲れさせたくない」と。
その言葉は、まるで深い愛情に満ちているかのようだった――彼女が使用人たちの中に、メイド服を着た染花を見つけるまでは。
彼女の心に鋭い痛みが走り、信じられないという顔で鷹真を見た。
染花が「別荘から出たい」と言った結果が、彼女をこの家に連れてくることだったのか?
「柚葉、話を聞いて」
鷹真は柚葉をより強く抱きしめ、優しくも断固とした口調で説明した。
「彼女は本来、3年前に服役していてもおかしくなかった。普通ならもう出所してる頃だ。でも、そんな簡単に済ませたくないから、今度は君のお世話をさせて罪を償わせるのさ。
それに、心理の専門家にも相談した。君は彼女に対してPTSDのような反応があるが、むしろ接触することで克服できる可能性があるって。信じてくれ柚葉、全部君を愛しているからこその判断なんだ」
言っていることはすべて嘘なのに、その顔はまるで真剣そのもの。まるで、5年前にプロポーズした時のようだった。
あの時、彼は誓った――「絶対に君を傷つけない」と。
なのに今は、他の女のために、彼女の心の傷を何度も抉っている。
それは、彼女の傷口に塩を塗りこむようなものだ。
柚葉は、自分がきっと怒り、拒絶し、涙すると思っていた。
けれど実際には、ただ心が空っぽになっただけだった。すべてがどうでもよくなった。
「……いいわ、あなたの言う通りにする」
たとえ染花が使用人どころか、この家の女主人になったって構わない。
どうせもうすぐ、自分は彼の世界から、完全に去るつもりなのだから。
第6話
その後の一日中、染花は大人しく掃除をしていた。
鷹真は彼女に一瞥もくれず、ずっと柚葉のそばにいた。
夜になり、彼は優しく牛乳を差し出した。「柚葉、傷がようやく癒えてきたところだし、これを飲んでよく眠ってね」
柚葉はすぐに気づいた。彼女はこっそり牛乳を捨て、飲んだふりをした。
案の定、その夜彼女が「熟睡している」のを確認すると、鷹真は彼女の額にキスをしてそっと起き上がり、ドアを開けた。
「ねぇ、ホントに夏見さんの目の前でイチャイチャしていいの?」
染花の嬉しそうな声が聞こえた。
「バカだな、俺がお前に約束して破ったこと、ある?」
柚葉のまつげがピクリと震えた。目を開け、窓の反射に映る光景を見ると――鷹真は染花を壁に押しつけ、少しずつキスを深め、やがて彼女と一つになっていった……
手のひらを強く握り締め、爪が食い込み痛みを感じても、心はもう何の痛みも覚えなかった。
彼には、もう悲しむ価値はないから。
翌朝早く、鷹真は出勤し、柚葉は部屋にこもってデザインの作業に集中した。
染花に会いたくなくて、朝食も昼食もメイドが部屋まで運んできた。
夜になってまたノックの音がした。ドアの外に立っていたのは、染花だった。
彼女はトレイを手に、挑発的で得意げな口調で言った。
「夏見、この前ホテルの会議室で、外にいるあんたの姿、見えてたわよ。あんなにプライドの高かったあんたが、片手を失ってから、すっかり意気消沈になったみたいね?よく我慢できたわ。
ま、無理もないか。今のあんたはただの役立たず。鷹真に養ってもらってる身じゃ、何も言えないわよね」
染花の姿を見るだけで、吐き気を催すほどの嫌悪感が湧き上がった。柚葉は冷たく問い返した。「……結局、何が言いたいの?」
「言いたいのはね、どれだけあんたが我慢しようと意味ないわ、鷹真は私のものになるってこと。私は少しずつあんたを追い詰めて、逃げ場がなくなるまで追い込んで、消えてもらうわ。鷹真は、私だけのものよ!」
柚葉は拳を握りしめたが、結局その頬を打つのはやめた。
こんな女を殴っても、自分の手が汚れるだけ。彼女にされたこと、傷つけられた心。その代償は別の方法で、倍にして返す。
もう関わりたくないと、ドアを閉めようとしたその時、聞き覚えのある足音が廊下に響いた。
すると、染花は瞬時に可憐な顔を作り、後ろに倒れ込んだ。
トレイのご飯とスープが彼女の体にぶちまけられ、彼女は腫れた手を持ち上げ、涙声で言った。「夏見さん、まだ私に怒っているのはわかってます。夏見さんが気が済むなら、何度押されても我慢します……」
鷹真の目に、一瞬だけ心配の色がよぎった。
柚葉は冷めた視線で言った。「私は押していない。これは彼女の自作自演よ」
染花はさらに大げさに泣き始めた。「そうですよね……そう言うことで、夏見さんの気が晴れるなら、私が勝手に転んだってことで構いません……」
鷹真の顔色が変わったが、やがて感情を抑えて視線を外し、柚葉を見た。「柚葉、君の言うことを信じるよ。君たちの関係がこれ以上悪くなるのも良くないし、今すぐ彼女を追い出す」
「えっ?」染花は驚きに顔を上げ、涙を浮かべたまま呆然とした。
だが鷹真は冷たい声で言った。「もう何も言うな。荷物をまとめてすぐ出ていけ」
しばらく固まった後、染花は唇を噛みしめながら、こらえるようにして答えた。「……はい、すぐに出ます」
「さあ柚葉、他人のことで気を悪くしないで。今日は早く帰ってきたのは、君を連れてディナーに行きたかったからなんだ」
そう言って鷹真は、柚葉の手を引いてドレッシングルームへ。彼は自ら彼女のドレスとジュエリーを選び始めた。
「まずは着替えてて。俺はあの女を追い出してくるから」
その言葉だけを聞けば、まるで冷酷で決断力のある男のように思えた。だが柚葉は、指輪に仕込まれた受信機から、別の会話を聞いていた。鷹真は、まるで違う声音で、甘く染花を慰めていた。
「染花、今日は辛かったね。柚葉に突き飛ばされて、俺も胸が痛んだよ。でも、これは俺が仕組んだ一手なんだ。お前を追い出すことで、彼女がもう文句を言わなくなるから。これでお前は自由の身よ」
「えっ?どういうこと?」
「今日は一旦別荘に戻って。それから、お前がどこへ行っても構わない。別荘に着いたら、無事を知らせるメッセージを送ってね」
染花は感極まったようにすすり泣いた。「あなたって……本当に優しい……」
鷹真は低く笑った。「俺がお前に優しくしないで、誰にするんだ?お前は俺の妻だろ?」
第7話
ミシュラン認定の本格的なフレンチディナー。
八十八階から見下ろす川の景色も、実に魅力的だった。
けれど、目の前の鷹真が落ち着かず、何度もスマホを見ているのを見て、柚葉は、料理の味すら感じなかった。
柚葉は知っている、彼が待っているのは、染花からの「無事帰宅報告」のメッセージ。
だって彼らは、夫婦なのだ。
やがて、専用の着信音が鳴ると、鷹真は待ちきれずに電話を取った。普段は余裕たっぷりの彼が、焦るあまりスピーカーモードを押してしまった。
電話口から聞こえてきたのは、震える染花の絶望的な声。「誰かに拉致された……どこへ連れて行かれるかもわからない……でも、夏見さんに嫌われてるなら、このまま消えるのがあなたたちのためよね……きゃっ!」
通信はそこで途切れた。鷹真はすぐさまかけ直すが、二度とつながらなかった。
不安を抑えながらも、なるべく穏やかな口調で尋ねた。「柚葉、君があの女をどこに連れて行ったんだ?もし怒りをぶつけたいなら、俺に言えばいいじゃないか。自分の手を汚す必要なんてない」
「もう一度言うわ」柚葉はフォークを置き、冷静に言い返した。「私じゃない」
次の瞬間、彼女の手首が乱暴に掴まれた。
「染花はうつ病を患ってるんだ!そんなショックに耐えられるわけがない!」
鷹真の口調は冷たく、怒気すら含んでいた。
「柚葉、もうやめてくれないか?君は確かに片手を失った。でも、彼女だって多くのものを失ったんだ。もう彼女を追い詰めるのはやめてくれ」
その言葉に、柚葉は呆気に取られ、やがて目に涙が滲んだ。
染花が「多くのものを失った」って?
人を傷つけても、庇ってもらって刑務所にすら入らなかった彼女。
望む男の「妻」になり、豪邸で3年間も甘やかされて暮らし、今では自由の身になっている。
一体、誰が可哀そうで、誰が誰を許していないというの?
柚葉は涙を堪えながら、一つ一つ言葉を絞り出した。「私はやってないって言ってるでしょ。それに――
たとえこの手が義手でも、痛みはちゃんと感じるの」
その瞬間、鷹真は彼女の手首が真っ赤に腫れていることに気づいた。
慌てて手を離し、優しい声に切り替えた。「すまない、柚葉……君が衝動的になってないか、心配で……そうだ、俺が送ったペアリングは?どうしてつけてないの?」
柚葉は呆れたように冷笑した。いつも彼女の行動を把握していたいと言っておきながら、指輪を間違えたことすら気づいていなかった。
「送ってきたのはメンズサイズだったわ。入らなかったから、しまってある」
鷹真は少し驚いたように止まり、すぐに柔らかな声で返した。「じゃあ、帰ったらすぐに交換しよう」
それからは、まるで染花が存在しなかったかのように、彼は彼女の話題を一切口にしなかった。
しかし、3日後の深夜。鷹真は一本の電話を受け、すぐに出かける準備を始めた。
ドアノブに手をかけたところで、何かを感じたようにふと後ろを振り返った。
柚葉の視線はあまりにも冷静で、彼が夜中に出かけることを気にもとめていなかった。未練も、心配も、何もなかった。まるで、彼のことがどうなってもいいような目線だった。
鷹真の胸に、一瞬、不安がよぎった。思わずその場に留まりかけたその時、再びスマホが鳴った。
もう何も考える余裕はなかった。「会社にトラブルだ」とだけ言い残し、足早に家を出た。
鷹真はその夜、戻らなかった。送られてきたのは一通のメッセージだけだった。
【柚葉、今日は残業で帰れない。先に寝てて。愛してる】
柚葉は冷ややかに画面を暗くした。
その「愛してる」という嘘臭い四文字も、同時に闇に消えた。
翌朝。使用人が、「夏見さん、お客様です」と伝えに来た。
しかし柚葉が別荘の外に出た瞬間、後頭部に鈍い衝撃が走り、彼女はそのまま意識を失った。
再び目を覚ました時、彼女はナイトクラブの個室に縛られていた。
口はガムテープで塞がれ、顔には仮面。着せられていたのはドレス。
あの日、染花が着ていた、あの「ウェイトレス」の格好そのものだった。
そして、鷹真が一番好きな彼女の腰まであった長い髪は、無惨に切り落とされ、不揃いのショートカットにされていた。
その時、ドアが開き、鷹真の低い声が響いた。
「……この女が、お前を監禁して3日間もナイトクラブで拷問したオーナーなのか?」
染花は怯えながらも、涙ながらに訴えた。「そうよ……この女が、夏見さんの命令で私にひどい目を遭わせたの……彼女は私をあらゆる方法で痛めつけて、挙げ句の果てには、何人もの男に……でも、私は必死に抵抗したから、彼らの思い通りにはさせなかったのよ……」
鷹真の声は、次第に氷のように冷たくなっていった。「柚葉は確かにやり過ぎだ……でも、俺は彼女を傷つけたくない。だから、見せしめは、別の奴にする」
「塩をまぶした鞭を持ってこい」
柚葉は全身が震えた。彼女は悟った――染花は、彼女に罪をなすりつけただけでなく、鷹真に「自分が犯人だ」と誤認させるつもりだ。彼に、自分の手で彼女を拷問させようとしているのだ。
第8話
柚葉は必死にもがき、説明しようとした。しかし口はガムテープでしっかりと塞がれ、体中はきつく縛られて動けなかった。
鷹真は鞭を手に取り、目の前でもがく女性を見つめていた。彼女の呻き声と必死の抵抗に、なぜか一瞬、まぶたがピクリと跳ねた。
薄暗い個室の中で、ふと頭をよぎった。彼女は、柚葉に似ている。
「あなた……ありがとう。私の仇を討ってくれて。このオーナー……本当に私を酷く拷問したの……ううっ……」
染花が涙ながらに鷹真の腰にしがみついた。それで彼の疑念はすっかり払拭された。
柚葉は普段、ドレスなど着たことがなかった。髪も、彼が好きな長いストレートを大切にしていた。今、目の前にいるこの短髪でドレス姿の女――どう考えても、彼が愛する柚葉ではない。
そう思い込んだ瞬間、鷹真の瞳からすべての情が消えた。代わりに、残虐な狂気が宿った。
「俺の妻を傷つけた罰、千倍万倍にして返してやる!」
「バシッ!」
鞭が空気を裂き、女の背中に叩きつけられた。
一発目――柚葉の背筋が跳ね、逆剥けた皮膚から血がにじんだ。叫び声をあげたが、口は塞がれ、声にならなかった。
二発目――瞳孔が一気に収縮し、傷口は焼けたように熱く、呼吸が詰まった。
三発目――唇を噛み切り、体が痙攣しながら丸まり、痛みが骨にまで染み渡った。
……
九十九回目の鞭が終わる頃には、彼女の意識は朦朧とし、全身血まみれ、もはや抵抗の力すら残っていなかった。ただ震え、無意識に痙攣していた。
朦朧とした意識の中で彼女は思い出した。鷹真はかつて、染花を罰すると言っていた彼女を縛り、鞭打つと。けれど、彼は約束を破った。
今、彼の手によって縛られ、鞭打たれ、地獄を見ているのは、柚葉なのだ!
その時、鷹真の声が聞こえた。「染花、あのオーナーは何人の男をお前にいじめさせた?」
「……十人」
「よし。じゃあ、この女には十倍返しだ」彼は冷酷に部下に命じた。「一番汚い乞食を百人集めろ。あと、この女に薬を飲ませろ」
そして、彼女の顎を靴で蹴り上げた。「俺の妻を傷つけるとはな……この世に生まれたことを後悔させてやる!」
仮面が床に叩きつけられ、外れた。
「鷹真……」
柚葉は最後の力を振り絞って叫んだ。
「もし傷つけた相手が私だったと知ったら、あなたは後悔するのか……」
けれど、血で濡れた言葉は、ただのすすり泣きにしか聞こえなかった。
鷹真はすでに背を向け、染花の手を引いて立ち去っていた。
「染花、これ以上見る必要はないよ。汚れるだけだ。これから数日、ずっとそばにいるから……」
彼の声は次第に遠ざかった。その後、誰かが部屋に入ってきて、柚葉の縄を解き、無理やり薬を口に押し込んだ。
彼女の心は氷のように冷え切っていたが、体は次第に熱を帯びていった。
そして、ドアの外から次々と汚れた乞食たちが押し寄せてきた。悪臭が立ち込め、彼らの目はいやらしく、膿を垂らす灰色の爪が彼女の体に触れてきた。
柚葉の心は吐き気に襲われながらも、恐ろしいことに、体は薬のせいで羞恥の快感すら感じ始めていた。
息は乱れ、顔は異様に紅潮し、目からは屈辱の涙があふれた――このままでは、彼女は本当に壊れてしまう!
柚葉は必死に花瓶を手に取り、床に叩きつけて割った。そして、その破片を自分の太ももに突き刺した。
血が噴き出し、痛みで意識が少し戻った。目前に迫る乞食たちに逃げ道はなかった。最後の決意で彼女は後ろの窓を見つめ――跳んだ。
もしかして運命が味方したのか。三階の窓の下には、柔らかな芝生が広がっており、すぐ近くにナイトクラブの裏口が開いていた。
柚葉は傷だらけの体を引きずりながら、狂ったように走って逃げ出した。
スマホが何度も震えた。一通は鷹真からだった。
【柚葉、こっちのプロジェクトはあと数日かかりそう。おとなしく家で待ってて。愛してる】
柚葉は皮肉な笑みを浮かべた。
もう一通は、役所からだった。
【あなたの「戸籍抹消手続き」が完了しました。この身分でのすべての証明書は無効となります】
今回は、本心から笑えた。
ようやく、鷹真から自由になれたのだ。
彼女は別荘に戻り、急いで荷物をまとめた。
彼が保管していた「柚葉」の証明書はもう必要ない。この世に、柚葉という人間は、もう存在しないのだから。
持ち出したのは、自身のデザインと必要最低限の生活用品だけ。
そして、血まみれの指輪を外し、空っぽの机の上にそっと置いた。
鷹真が少しでも見てくれれば、自分がどんな地獄をくぐってきたか、何を彼にされたか、すべて分かるだろう。
本来なら、染花に直接復讐したかった。けれど、彼女は知ってる――この指輪一つで、鷹真自身が自分の「復讐の道具」になってくれる、と。
別荘を出た時は、すでに夜になっていた。
真夏の夜。空は青いベルベットのように深く、美しかった。ただし、都会の空気汚染のせいで、星たちはどれも鈍く霞んでいた。
けれど、星はどんなに霞んでいても、いつか必ず、光を放つ。
柚葉は新しい身分で、セレーヌ行きのチケットを手に入れた。飛行機が雲を突き抜けたとき、彼女は思った。「星に、一歩近づけた」と。
鷹真、さようなら。もう二度と、会いたくない。