西風に散る暮雪、埋もれし初心

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西風に散る暮雪、埋もれし初心

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九条司(くじょう つかさ)は、帝都の上流界隈で「狂気をはらむ御曹司」と囁かれる有力一族の跡取りだ。だが、彼が誰よりも深く愛しているのは...

Chương (1)

第1章

九条司(くじょう つかさ)は、帝都の上流界隈で「狂気をはらむ御曹司」と囁かれる有力一族の跡取りだ。だが、彼が誰よりも深く愛しているのは、路上で拾い上げたあの物乞いの少女――高宮澪(たかみや みお)。十五歳から二十五歳になるまでの十年間、彼は彼女を掌中の宝のように甘やかし、持てる限りの愛とやさしさのすべてを注いできた。 ところがある日、司の隣にもう一人の女、芹沢梨紗(せりざわ りさ)が現れた。司は、彼女は特別だと言った。障がいを抱えながらも意志は揺るがず、果断でしなやかな女だ、と。やがて梨紗は、一歩ずつ澪の居場所を奪っていった…… 第1話 九条司(くじょう つかさ)は、帝都の上流界隈で「狂気をはらむ御曹司」と囁かれる有力一族の跡取りだ。だが、彼が誰よりも深く愛しているのは、路上で拾い上げたあの物乞いの少女――高宮澪(たかみや みお)。十五歳から二十五歳になるまでの十年間、彼は彼女を掌中の宝のように甘やかし、持てる限りの愛とやさしさのすべてを注いできた。 澪がバイオリンを好めば、彼は仕事をすべて脇へ置き、海外まで同行して彼女の音楽留学に付き添った。株で十数億の損失が出ても、まるで気に留めなかった。 彼は愛を示すために、豪奢な贈り物を車に積んでは次々と彼女の前に運ばせ、さらには九百九十九日ものあいだ連続で配信を行い、告白と求婚を続けた。 彼女を妻に迎えるために、彼は三日間にわたって、家の厳罰に耐え抜き、ついに門地の釣り合いという壁を打ち破った。念願かなって、彼女に夢のような幻想的な結婚式を与えた。その日、彼女は誰もが羨むお姫さまになった。 それほどまでに彼女を愛した男が、いまは、出会ってまだ半年ほどの愛人の芹沢梨紗(せりざわ りさ)のために、薄い寝間着姿の澪を雪の上に跪かせている。 すべては澪があの女を追い詰め、彼の連絡先をブロックさせ、挙げ句に愛人を身を隠させたのだと、彼が思い込んでいるからだ。 「澪、教えて。お前は梨紗に何を言った?」 司は澪の向かいに腰を下ろし、ワイングラスを指先で転がしながら、気のない視線で彼女を見つめる。 そのまなざしは吹きすさぶ風雪よりも冷たかったが、声だけは驚くほど穏やかだった。まるで雪の景色の美しさを訊ねているかのように。 凍えで感覚を失った澪は、唇を震わせながらかろうじて言葉を絞り出す。 「司、私は……梨紗には会っていない」 司は唇の端をわずかに上げた。 「澪、いい子じゃないな」 彼が指先を軽く動かすと、護衛が身をかがめてスマホを差し出し、司は映像を再生した。 映像に映っているのは、危篤状態の澪の弟の高宮優斗(たかみや ゆうと)だ。呼吸器が引き抜かれ、酸素を奪われた顔は紫色に染まり、全身が止めどなく痙攣している。 「司、あの子は私に残った唯一の家族なの。お願い、傷つけないで」 澪は瞬く間に涙で顔を濡らし、司の脚にしがみついた。 「信じて。私は本当に何も言っていない。彼女がどこへ行ったのかも知らないの」 司は身を屈め、澪の涙の跡を指先でなぞった。 「言ったはずだ。梨紗も、俺には大事だと」 「いい子だろ。あと五十秒だ。酸素が途絶えた状態では、お前の弟は二分しか持たない」 司は背筋を伸ばし、一本の指でスマホの画面をコツコツと叩きながら、苛立ちを隠そうともしなかった。 澪の体は大きく震え、胸の奥に重い衝撃が落ちたような痛みが走る。 司は確かに梨紗のことは大事だと言っていた。けれど、澪はずっと信じようとしなかった。かつて、あれほど自分を愛してくれたのだから。 けれど今になって、澪は自分がどれほど可笑しかったかに気づいた。自分は彼にとって替えの利かない存在だと、信じ込んでいたなんて。 じつのところ、これまで、澪が梨紗に会ったのは一度だけだ。あの日はオークション会場で、彼女はコンパニオンを務めていた。 あの時、梨紗は休憩室に向かう澪を遮り、顎をわずかに上げて告げた。 「奥様、彼が嫌いだとは何度もお伝えしました。ご主人のせいで、もう私の生活にまで支障が出ています」 そのとき初めて、司が口にしていた面白い子猫ちゃんが梨紗のことだと、澪は知った。 梨紗は生まれつき左目に弱視を抱えながらも、きわめて高い美術の才に恵まれている。 「障がいを抱えながらも前へ進む天才少女画家」という姿がネットで話題となり、一躍人気を博した。 けれど彼女は配信で稼ぐことはせず、あくまで普通の学生のようにアルバイトで暮らしを支え、各種の宴会で給仕として働いていた。 誇り高く、自信にあふれ、眩しいほどに華やかな梨紗。瞬く間に、投資家の司を強く惹きつけた。 彼女が拒むほど、司の心は燃え上がる。追いかける姿は話題となり、ついには帝都の誰もが知る騒ぎとなった。 その日のうちに澪は司を問い詰めたが、彼は否定しなかった。ただ彼女を抱き寄せ、軽い調子で言った。 「ただの遊びだよ。仲間だってみんなやってる。俺はただ、いくらで彼女を靡かせられるか知りたいだけさ。安心しろ、澪。俺が一番愛しているのは、いつだってお前だ」 澪はなおも聞いた。 「もし、私が受け入れなかったら?」 司は澪の髪をそっと撫で、優しい眼差しに彼女の蒼白な顔を映した。 「澪、いい子でいろ。いい子でいれば、お前はずっと九条家の奥様だ」 澪は言葉を失った。拒む権利など自分にはないと、痛いほどわかっていたからだ。 澪は、司がいつか手を引くのを待つしかなかった。だが届いたのは、二人が付き合い始めたという知らせだった。 梨紗は一円も受け取らずに司の求愛を受け入れた。ただ一つの条件を出した――普通の恋人同士のように付き合うこと。 司は喜んで条件を受け入れ、彼女の配信に付き添って絵を描くのを見守り、展覧会に同行し、遊園地へも付き合い、屋台やジャンクフードまで連れ立って楽しんだ…… 司は彼女を連れてさまざまな場に現れ、片時も離れず寄り添った。まるで普通の青年のように、SNSに恋人ぶりを投稿していた。 澪はそれを見るたび、胸が裂けるほどの痛みに襲われる。泣き叫び、何度も離婚を切り出した。 だが司は気にも留めず、ただ気だるげに言葉を投げた。 「いい子だ、澪。俺は従順な女が好きなんだ。わがままはやめろ」 澪は無理やり心を鎮め、彼の言葉を信じようとした。早く飽きて戻ってきてくれると願うしかなかった。 ところが今、梨紗は何の前触れもなく彼をブロックした。しかもその前に、澪と会ったことをわざわざ口にしていた。 澪にはそれが示威にほかならないと分かっていたが、どう言い繕っても司は信じようとしなかった。 「澪、まだ言わないのか?お前の弟の時間は残りわずかだ。十、九、八……」 司は腰を屈め、澪の耳もとに顔を寄せる。熱い吐息が頬を撫でたはずなのに、澪の全身は底知れぬ寒気に包まれた。 「言う、言うから」 我に返った澪は、裂けるような胸の痛みに喉を詰まらせ、初めて司に嘘をついた。 「彼女に言ったの。あなたから離れて、もう纏わりつくなって……」 澪は感情の糸が切れ、涙で視界がかすんだ。しがみついていた司の腕も、力を失い、少しずつ緩んでついには垂れ落ちた。 司は壊れかけた彼女の顔を眺め、冷え切った頬に手を当てて宥めた。 「澪、もう勝手なことはするな。弟のことを、もっと考えろ」 澪の表情は次第に虚ろになり、機械仕掛けのようにうなずいた。胸の奥で何かが砕け散り、その痛みは全身へと広がっていった。 身体が揺らぎ、今にも倒れそうになる。めまいが次々と押し寄せ、澪は耐えきれずに横ざまに倒れ込む。地面に身を打ちつけたその瞬間、両脚のあいだから温もりが広がるのを感じた…… そのとき、部下が慌ただしく駆け込んできた。 「社長、芹沢様を見つけました。彼女はいま、障がいを持つ子どもたちに絵を教えています」 部下は澪に視線を走らせ、ためらいがちに続けた。 「ただ……奥様が、もう社長とは会わないようにと彼女に言ったそうです。彼女は、社長にはもう探してほしくないと申しております。」 司の顔がぱっと明るむ。後段の言葉には耳を貸さなかった。その場で、梨紗の話題をトレンドに乗せる手配をした――「美しく、心優しい人だ」という賛辞とともに。 地面に倒れた澪へは、一瞥すら向けなかった。 「司、お腹が痛い……」 痛みに耐えきれず、澪は背を向けて歩み去る彼に手を伸ばす。だがその姿は遠ざかる一方で、ついに視界から消えた。 車に乗り込むと、司は執事に電話を入れ、澪を懲罰部屋に入れて反省させるよう命じた。 執事は、雪に倒れた澪の足もとに広がる鮮やかな赤を見て、慌てて声を上げる。 「奥様は流産されたようです。大量に出血が……」 司の顔はたちまち曇り、声は氷のように冷たくなる。 「妊娠していたのか?ますます言うことを聞かないな。そんな子は、現れるべきじゃなかった」 執事は深いため息をつき、命に背くことはできず、澪を懲罰部屋へ運んだ。 やがて澪は鋭い痛みに意識を引き戻される。下腹部が裂かれるような苦痛が全身を走り、体の奥で小さな命が消えていくのを、恐ろしいほど鮮明に感じ取った。 彼女は這いずって戸口に手を伸ばし、拳で扉を叩いた。声は掠れ、絶望に満ちていた。 「出して、病院へ連れていって、腹の子を助けて…… 司、お願い……私たちの子を救って! 誰か、誰か来て!」 どれほど経ったのか。外から執事の声だけが返ってくる。 「奥様、この子は九条様がお望みになったものではございません。ご命令なしに病院へお連れすることは誰にもできません……どうかこれからはおとなしく、懲罰部屋でお身を慎まれてください」 力が一気に抜け落ちる。出て行く司の背の固さを思い出し、澪はその場に崩れ落ちた。 澪が望んだのは、ただ子どもだった。二人の子を持ちたかった。 けれど彼が望まないというだけで、澪には妊娠する権利さえ許されなかった。 いまや彼は愛人のために、澪の命をも顧みず、身ごもった彼女を閉じ込めてしまった…… 澪は下腹部を押さえ、泣きたくても涙が出ない。痛みで息が詰まる。 波のような痛みが寄せては返し、意識が遠のいていく。沈む直前、かすかに唇が動いた。 「司……腹の子きみはもういない。だから私も、あなたなんてもういらない」 第2話 澪が次に目を覚ましたとき、そこは病院のベッドだった。 平らになった下腹に手を当てると、胸の底から悲しみが込み上げる――子どもは、本当にもういない。 これで、彼女と司も終わるのだと悟った。 病室の扉が開き、澪は横目でそちらを見た。 司は梨紗の手を握りしめ、指を絡めたまま病室へ入ってくる。 梨紗の目は冷たく光り、縁がかすかに赤く染まっている。怒りに満ちた視線を澪へ向け、吐き捨てるように言った。 「奥様、私はもう身を引いたはずです。家族を巻き込むのは筋違いです。どうして両親を脅すんです?ご主人を止められない腹いせに、弱いほうへ矛先を向けるんですか?」 身に覚えのない非難に、澪は思わず司を見た。司の視線は梨紗だけを捉え、そこには惜しみない称賛が宿っている。まるで宝物を見ているように。 澪の胸は鋭く痛んだ。かつて司も、今のように優しく甘やかな眼差しを、片時も惜しまずに彼女へ注いでいた。 「俺の妻がいちばんだ。他の女なんて、お前の髪の一本にも及ばない」、そう言って抱き寄せてくれたのに。 けれど今、病室に入ってからの司は、澪に一度たりとも視線をよこさない。 澪は自嘲気味に笑い、梨紗には目もくれず司に問う。 「司、どうして私たちの子を救ってくれなかったの?」 「自分に聞け。勝手に妊娠したのはお前だ」 司は冷ややかに答えた。その声には怒号はないのに、抗いがたい威圧が宿っていた。 「この結婚で、私には子どもを望む権利すらないの?」 分かりきった問いだと知りながら、澪はそれでも口にする。 司は一片の迷いも見せず、絶対的な威圧感を纏ってうなずいた。 「その通りだ」 澪はうつむき、目に涙があふれてきた。 「私は、子どもの話を聞きに来たわけじゃない。司、説明してくれるって言ったよね」 梨紗は不満げに司を見上げる。彼の前ではいつだって、権力にひるまず、知的で率直な姿を崩さない。 司は彼女の背を軽く叩き、宥めながら、澪へ視線を向けた。その眼差しにはうっすらと責めの色が浮かんでいた。 「澪、お前が梨紗を追い払って、彼女の両親を脅したんだ。謝れ」 司の視線を受け、澪の胸に重い痛みが沈む。思わず声が漏れる。 「私はやってない。だから謝らない!」 「まだ騒ぐ気か?」 「本当に、していないの」澪は首を振った。 司の目がさらに暗く沈み、顔は険しさを増す。彼が入口へ手を振ると、護衛が入ってくる。 「自分で謝るか、それとも護衛に手伝わせるか」 司の目は氷のように冷え、見た者を凍りつかせる。 澪の心臓はぎゅっと締めつけられた。彼を睨み返しながらも、ただ一つ――彼が約束を破らないことに賭けていた。 「奥様を手伝え」 司の一言で、澪は底のない氷の穴へ落ちる心地がした。 負けたのだ。 澪はもはや抗わない。ベッドから引きずり出され、頭を押さえつけられ、梨紗に向かって言う。 「ごめんなさい」 言い終えると、澪は唇を噛みしめた。血の味が広がる。 「彼女の謝罪、受け入れるか?」 司が口元に薄い笑みを浮かべ、腕の中の梨紗へ問いかける。 梨紗はうなずき、それからまっすぐな目で言い切った。 「司、ありがとう。でも、ここで終わりにしよう。うちの両親は私が不倫なんて許さないし、私だって両親をこれ以上苦しめる気はない」 「それなら簡単だ。不倫じゃなければいい」 司は梨紗の手首を引いて抱き寄せ、スマホを取り出して弁護士へ電話した。 「離婚協議書を作れ。高宮澪には二十億円だ」 胸が何度も切り裂かれるような痛みに襲われ、澪は信じられない思いで彼を見つめた。かつて自分を妻に迎えるために命さえ惜しまなかった男が、いまは愛人のために離婚しようとしている。 司は梨紗の顎を指で持ち上げ、甘やかす微笑を落とした。 「離婚したら、お前は俺の唯一の恋人だ」 「じゃあ、もう一度だけチャンスをあげる。もし裏切ったら、すぐにでも離れるから」 梨紗は司の腕にしがみつき、見えないところで澪に挑むように眉を上げた。 司は優しく微笑み、彼女の手を取って歩き去った。残されたのは、床に座り込む澪ひとり。 彼らの背中を見送りながら、澪は笑った。胸が痛むほどに。涙が止まらなくなるまで。 ほどなくして、司の弁護士が離婚協議書を携えて現れた。 「奥様、社長のご指示です。ご署名をお願いします。ただ、これはすべて形式だけで、いずれ社長はお戻りになるとお考えです。ひとしきりお気が済めば、また復縁してお子さまも、とのご意向です。 この口座には二十億円が用意されています。ご結婚記念日まで半月ほどですね。記念日を過ぎたら、このお金でしばらくご旅行を。社長にしばらくのあいだ自由な時間を差し上げたいとのことです。ただご心配なく、旅行から戻られたら、社長は再び奥様と復縁されますとのことです」 澪は紙面を見つめ、思考の糸がどこかでぷつりと切れたように感じた。司は、本気で自分が彼から離れないとでも思っているのだろうか。 だが、それは間違いだ。かつて彼を手放せなかったのは、愛していたから。 けれど今は、もう愛し続けたいとは思わない。 澪は一瞬の迷いもなく署名し、預金の証書と航空券を受け取った。 第3話 その後の数日、司は梨紗を連れて、ひときわ目立つようにさまざまな場に姿を見せた。 彼女は高級ドレスも宝石も拒み、無地のワンピースに黒髪を真っすぐ垂らすか、きりりと高い位置で束ねるだけ。化粧もせず、飾り気のないその姿は、きらびやかな上流社会にあってひときわ清らかな流れのように見えた。 司は公然と愛を示し、彼女の特別さを惜しみなく称えた。その影響で、多くの令嬢や名家の娘たちが彼女の装いを真似するようになった。デザイナーたちもまた、彼女をインスピレーションに新作を打ち出す。 梨紗の弱視をどうにかしようと、司は巨額を惜しげもなく投じて自家用機を飛ばし、各国の専門医を呼び寄せ、チームを組んで診療に当たらせた。 先天性の弱視は回復不能だが、それでも、これ以上悪化させない手立てはあるという。 司は激しい怒りをあらわにし、彼女と同じ障がいを負おうとして、自分の目を潰しかけるほどに思いつめていた。 その頃、澪はひとり病室のベッドに沈み、果てしない孤独に押し潰されていた。スマホの画面には、司と梨紗の熱愛ぶりを伝える記事が次々と躍り出る。澪の心は、そのたびに音を立てて崩れ落ちていく。 司の愛は、誰にでも置き換えられるものだった。別の女のためにも、彼は同じ狂気を惜しみなく注げるのだ。 澪は昏睡の弟を見舞いに行った。三年前、通学途中で交通事故に遭った弟を、司は世界一流の医療チームを呼び寄せて死神の手から奪い返したのだ。 けれど弟は目を覚ますことなく、機械と薬にすがって命をつないでいる。 澪は弟の手を握り、目を赤くしながらささやいた。 「優斗……お姉ちゃん、ここを出るよ。行く前に、あなたを別の場所に移すから。 司こそが私の幸せだって、ずっと思ってた。でも、違った」 澪はまるで堰を切ったように、胸に溜め込んできた悔しさや悲しみを一気に吐き出した。 昼をとうに過ぎ、彼女はようやく涙を拭って、名残を惜しみながら病院を後にした。 澪はまず役所に足を運び、弟と二人分の除籍手続きをした。急ぎの申請を出したので、七日ほどで完了する予定だ。 そのあと、かつて司から贈られた山荘へ向かい、宝物のように扱われてきた品々を一つ残らず整理し、オークションハウスに委ねた。さらに小さな法律事務所に立ち寄り、山荘の所有権を司に戻す手続きも済ませた。 最後に澪は別荘へ戻り、自分の手で司のために作った贈り物を取り出した。どれも安っぽく、値打ちはない。けれど彼は、それらを宝物のように抱きしめていたのだ。 彼女はそれらを一つずつ火に投じた。炎の揺らめきの向こうに、かつての甘かった日々が立ちのぼる。確かに、二人は愛し合っていた。 だが、その幸せは、泡のように儚く、砕けやすい。 やがて火が燃え尽きた。同時に、二人の過去もまた消え去った。 気づけば、頬は涙で濡れていた。彼女は涙をそっと拭って、振り返ると、視線の先に、探るような顔の司と、冷ややかに立つ梨紗がいた。 「何を燃やしてる?」感情の読めない調子で、司は問いかけた。 澪は一瞬だけ動きを止め、淡々と答える。 「ただの、いらなくなった物よ」 司は気にも留めない様子でうなずき、言いつけた。 「前にやった翡翠の腕輪を探し出して、梨紗に渡せ」 去ると決めていても、澪の胸はきゅっと締めつけられた。あの腕輪は九条家に代々伝わる家宝で、正妻にだけ与えられるものだった。 それを、司は今まさに梨紗に与えようとしている。 澪は指先に力を込め、それでもうなずいた。 「わかった。今すぐ持ってくる」 離婚した以上、あの腕輪はもう澪のものではない。 梨紗は自ら澪のあとを追って、階段を上り、腕輪を取りに行った。クロークルームにずらりと並んだ衣服や宝飾品を見渡すと、その瞳に一瞬、嫉妬と怨みの色がよぎった。だが顔には出さず、あくまで平然とした様子を装った。 澪は花梨木の小箱を取り出し、彼女へ差し出した。その瞬間、梨紗の瞳に閃いた冷ややかな残酷さに、彼女は気づかなかった。 「あなたたちもう離婚したよね?それなのに、どうしてまだ居座ってるの?ほんと、みっともないわ」 背後からの梨紗の嘲笑が、鋭く突き刺さった。 「心配いらない。すぐに出ていくから」 澪は淡々と梨紗を見やった。ここを去り、すべてを彼女に譲るつもりでいた。 「施しぶった顔をやめて。これはあなたがくれたものじゃない。私が自分で勝ち取ったの。私の進む道を、誰にも邪魔させない」 いつもの顔を脱ぎ、梨紗の目にむき出しの険しさが宿る。 彼女は腕輪を取り出すと、床へ叩きつけ、次の瞬間、澪を階段の上から突き落とした。 「――あっ」 澪は短い悲鳴をあげ、身構える間もなく階段を転げ落ちた。額を強く打ちつけ、瞬く間に鮮血が溢れ出した。 梨紗はその場に座り込み、砕けた翡翠の破片で自分の脚をざっくりと裂いた。 「司、早く――澪を助けて!」 大きな音に、司が動く。血まみれの澪に一瞥を投げただけで、ためらわず階段を駆け上がり、梨紗を抱き上げた。 彼女の脚から流れる血へと視線を落とし、男の目が冷たく光る。 「彼女にやられたのか?」 梨紗はあっさりとうなずき、冷ややかな視線を階下の澪に向けた。 「この腕輪なんて、私には不相応だって分かってるわ。でも、彼女は壊してでも私には渡したくなかったのよね。まさか、自分で階段から落ちてまで私を陥れるなんて」 司は一瞥だけ澪に視線を送り、すぐさま使用人を呼びつけて梨紗の傷の手当を命じた。 「先にお前の傷を手当てする。この件は俺が処理する」 しばらくして、司は今度は護衛に命じ、澪を客間へと引きずり出させた。 「澪、どうしてそんなに言うことを聞かなくなった?」 司は見下ろすように澪を見据えた。 「俺が言ったはずだ。彼女に手を出すな、と」 血で霞む視界の中、澪は必死に体を支え、歯を食いしばって声を絞り出す。 「彼女が私を突き落としたのよ!」 司は予想していたように、冷ややかに唇を歪めた。 「最近どうしてそんなに逆らうんだ?間違いを認めないなら、罰を与えてやろう」 「司、監視映像を見れば一目で分かるのに、どうして調べようとしないの!」 澪は怯えながらも必死に叫び、縋るように身をよじった。 「必要ない。梨紗は嘘をつかない。だが、お前はどうだ――最近はやきもちばかりで、俺を苛立たせている」 司が手を払うと、その合図で執事が籐の鞭を持ってきた。 澪の全身は小刻みに震え続けていた。司の偏った愛が、いまやこれほどまでに愛人へと傾いているなんて。 ――パシン。 弁解の余地は与えられなかった。鞭が容赦なく澪の背中を打ち据え、皮膚は裂け、鮮血が衣を染めていく。痛みに耐え、彼女は唇を強く噛みしめた。 司の冷たい視線にさらされながら、澪はついに助けを乞うのをやめ、絶望のままに目を閉じ、幾度となく襲いかかる激痛をただ受け入れた。 思い返せばあの頃、司の祖父は澪との結婚に強く反対し、家の仏間で三日三晩も鞭打たせた。数にして三百発、瀕死の状態に追い込まれても、彼は決して澪を手放そうとはしなかった。 意識を失ったままでも、口にしたのは「澪以外とは結婚しない、生涯ただ一人を愛する」という言葉。 彼は言った。澪は自分の命より大切な存在だ、と。絶対に彼女に一片の屈辱すら受けさせない、と。彼は全世界に知らしめようとした――高宮澪こそ、自分の妻だと。 だが今、彼は別の女のために、澪に身に覚えのない罪を着せ、無惨な罰を与えようとしている。 司、あなたと梨紗は、本当に遊びでしかないの? 第4話 澪が目を覚ましたのは、一日後だった。背中の傷は手当てされ、もう痛みはほとんど感じない。 ベッド脇で、司は気怠げにタバコをくゆらせていた。煙の幕の向こうから、氷のような声が落ちる。 「梨紗が怒ってる。お前が宥めろ」 澪は無表情のまま彼を見つめた。 「九条様のご意向は?」 その呼び方を耳にした瞬間、司の顔がさっと険しくなった。タバコを揉み消すと、灰のついた指先で彼女の唇をなぞる。 「澪、俺に逆らうんじゃない」 その瞳には、危うい光がちらりときらめいた。 澪は息を呑み、胸の奥が大きく震える。司の祖父の警告が、急に頭によみがえる。 ――「司は、言うことを聞く犬しか可愛がらない。そばにいたいなら、一生、従順な犬でいる覚悟をしろ」 当時の澪には、その意味が分からなかった。ただ、祖父が二人を引き離すために、大げさなことを言っているのだとしか思えなかったのだ。 けれど今、澪は少し理解した。司の愛は狂おしいほど偏ったもので、自己中心的で、いつも彼が上に立つ。自分はただ、それに縋りつく存在でしかないのだと。 澪は視線を伏せ、恐怖を隠しておとなしくうなずいた。 「分かった」 「曲を用意しろ。梨紗がバイオリンの独奏を聴きたいそうだ」 司は満足げに澪の髪を撫で、みずから彼女の背に薬を塗っていく。 その指先に触れられるたび、澪は凍りつくような冷たさを覚えた。 夜が更け、澪は長袖のシャンパンゴールドの豪奢なドレスに身を包み、全身をきらめくジュエリーで飾り、運転手に伴われて、会場へと向かった。 宴会は九条グループ傘下で最大規模を誇るホテルで催され、帝都の上流社会の面々がほとんど顔をそろえている。 会場の女性たちは、ほとんどがシンプルで清楚なワンピースに身を包み、化粧もすっぴん風。そんな中、煌びやかな装いの澪だけが場にそぐわず、ひときわ浮いて見える。 彼女が姿を見せた瞬間、視線とささやきが一斉に注がれる。そこにあったのは、軽蔑、憐れみ、嘲笑、そして侮蔑…… 「芝居でもしに来たのか? 物乞いは所詮物乞い、場違いな成り上がりだ。身につけられるものを全部ぶら下げてきたんだな」 「もう九条社長に捨てられたんだろ。必死に取り入ろうとして、まるで滑稽な道化じゃないか」 「芹沢さんには遠く及ばない、ただの見すぼらしい女だ」 さまざまな声が耳に突き刺さり、澪の胸は押しつぶされそうに重くなった。 ふいに、かつてのあの宴会の一幕がよみがえる。席上で彼女を「物乞いあがり」と嘲った者がいた。司は迷いなく命じ、その男の口を縫わせた。そして冷たく言い放った――「彼女を口にすれば、この都から消えることになる」と。 だが風向きに敏いこの世界は、いま司が澪を庇わないと知るや、好き放題に彼女を嘲り始めた。 やがて司と梨紗が姿を見せ、嘲笑はぴたりと止んだ。 澪も周囲の視線を追っていった。そこには、淡い色のキャミソールワンピースに身を包み、長い髪を高々と結い上げた梨紗が、顎を掲げて誇らしげに立っていた。 その姿を見た瞬間、澪は悟った。司が彼女に惹かれるのは当然だ――梨紗の中に、かつての自分の影を見ているのだから。 彼女が初めて九条家に連れて来られた頃も、同じように伸びやかで自由だった。明るい太陽のように輝き、自分が元は物乞いだったことなど気にもしなかった。 けれど彼は、彼女の奔放さが嫌いだと言っていた。結婚してからは澪をおとなしく従わせてしまった…… 澪の瞳は翳り、胸の奥には言いようのない重苦しさが渦巻いていた。人々がこぞって梨紗に媚びへつらう光景を見て、彼女は静かに背を向けた。 「司、私のために出し物を用意してくれたんじゃなかったの?」傲慢な声が会場に響き、澪の足がぴたりと止まった。 周りの人は息をひそめ、司の顔色を探った。あのような口ぶりで彼に迫れる者など、これまで一人としていなかったのだ。 かつて寵愛されていた澪でさえ、彼の前ではいつも慎ましく従順にふるまっていた。 けれど今の司は、気にする素振りも見せず、口もとに微笑を刻んだまま、梨紗の傲慢をそのまま受け入れていた。 「うん」 司は梨紗を抱き寄せて席に座らせ、指を鳴らした。すぐに係の者がバイオリンを持って澪の前へと歩み寄った。 澪は振り返り、注がれる視線の中でバイオリンを受け取り、指先に力を込めて、人垣の向こうの司を見据えた。その胸の内は、さらに冷え込んでいった。 本当は、バイオリンが好きで、楽団に入りたかった。だが司は「俺以外に聴かせるな。お前の全ては俺のものだ」と言った。 澪はふっと自嘲めいた笑みを浮かべた。彼の原則なんて、梨紗ひとりであっけなく覆るのだ。 深く息を吸い込み、澪はバイオリンを肩に構えた。弓が弦を滑ると、ト短調の緩やかな楽句が流れ出す。切なく揺れる旋律は、一音ごとに心の欠片が砕け落ちるようで、会場の空気を悲しみに染め上げていく。 この一曲が、澪と司の終わりを告げる曲でもあった。 この日を境に、澪はもう二度と司を愛さない。 司は眉をひそめた。澪にまとわりつくような悲しみの気配が、彼自身の苛立ちを煽り、不安をじわりと胸の奥に広げていった。 「もういいわ」 梨紗が唐突に声を上げ、澪の演奏を遮った。 「重すぎ。雰囲気が台なし。あなた、自分から離婚したのじゃないか?私が無理強いしたわけじゃない。ここで可哀想ぶる必要ある?」 梨紗はあたかも思ったことを率直に口にしただけのように装いながら、澪を刺した。 挑発めいた視線をまともに受けても、澪は何ひとつ反応を返さず、ただ静かにまぶたを伏せて黙り込む。 空振りに終わった拳のように、梨紗の顔に苛立ちが走った。不満を隠さず、彼女は悔しげに司へと視線を向けた。 「司、まさか私を苦しめるために彼女を連れてきたわけ?」 注がれる無数の視線の中、梨紗は堂々と司への不満を口にした。 会場は一瞬で静まり返る。誰もが司の怒りを待ち構えていた。彼が目の前での無礼を許したことなど、一度もなかったのだから。 第5話 ほどなくして、司はかすかに笑って、彼女の頬をそっと撫でた。 「拗ねるな。ファーストダンスはお前とだ」 梨紗は顔をそむけ、不機嫌そうにしながらも、結局は司の誘いを受けて彼とともにダンスフロアへ歩み出た。 澪は顔を上げ、ダンスフロアの中心で踊る二人を見つめる。胸の奥は、不思議なほど静かだった。 彼女はバイオリンをしまい、背を向けてその場を離れようとする。 けれど、まだ数歩も進まぬうちに、数人の女たちが澪の行く手を塞いだ。言葉を発する間もなく、彼女は力ずくで会場の隅へと引きずり込まれた。 「奥様――あら、違ったわね。もう九条様には捨てられたんだった。ねえ、この手を覚えてる?」 女の一人が左腕を突き上げる。手首から先はもうない。 「当時、あなたにちょっとぶつかっただけで、この手を切り落とされたのよ」 「私の顔もよ。大した顔じゃないって言っただけで、硫酸を浴びせられたの」 もう一人の女がマスクを外し、憎悪に燃える目で澪を睨みつける。 「うちの会社だってそう。あんたが元は物乞いだって言っただけで、会社ごと潰された!」 …… 澪の胸がかすかに震えた。彼女には分かっていた。これらはすべて、かつて司が仕組んだことだと。 司は偏執的で苛烈な手段を惜しまずに澪を庇ってきた。けれどいま、その庇護を失った彼女を待つのは、恨みを抱いた人々の復讐にほかならなかった。 「あんたたち、何をするつもり?」澪はもがいた。 ひとりの女が澪の髪を乱暴に掴み、容赦なく頬を打ち据えた。 「私と同じにしてやる。人間でも化け物でもない、見るに堪えない姿にな。それでまだ九条様にしがみつけると思う?」 「芹沢様がおっしゃってたの。あなたを生き地獄にしてくれた人には、九条様の前で口添えしてくれるって」 「芹沢梨紗が?」 澪は衝撃に目を見開いた。気づけば床に押さえつけられていた。 頬を乱暴につかまれ、次々と打ち据えられる。 さらに用意していた針を取り出し、十本の指を押さえつけては、爪の奥へ深々と突き立てる。 「――あっ!」 痛みに思わず叫んだ澪だったが、その声はすぐに誰かの手で塞がれた。 十本の指先に突き抜ける痛みは全身に響き渡り、澪の目から涙があふれ、体は震え続けた。 女たちが入れ替わる隙を突き、澪はそばの一人を突き飛ばし、身を起こして駆け出した。 足がもつれ、澪は目の前のシャンパンタワーにぶつかった。大きな音が会場を裂き、視線が一斉に集まった。彼女は割れたガラスの中へ崩れ落ち、ワインと血がドレスを染めていく。 「高宮さん、苦肉の策かしら?」 音のする方へ梨紗が歩み寄り、軽蔑を隠さず口を開く。 「あなたが、人を使って私を傷つけたの」 澪は奥歯を噛みしめ、絞り出すように言った。 「私が?」梨紗は嘲るように唇を歪め、司の腕に絡む。 「私には仕事も恋人もいる。あなたを傷つけて得るものなんて、一体どこにあるの?」 澪の体がびくりと震えた。これまで手にしてきたものは、すべて司から与えられたものだった。司を失った今、彼女には何ひとつ残されていない。 彼女はかすかに笑い、目を赤くしながら呟く。 「……そうね。私は、何も持っていない」 次の瞬間、女の一人が飛びかかり、澪を再びガラスの破片の上へ突き飛ばした。 司は眉をひそめただけで、結局動かなかった。 澪は息を呑み、全身を震わせるほどの痛みに襲われた。 「同情なんていらないわ。こいつは私たちを買収して芹沢様を傷つけろって持ちかけたの。私たちが断ったら、今度は苦肉の策で陥れようとしてる」 さっき澪を痛めつけた女たちが次々に証言を並べ立て、澪が最初から梨紗を貶めるつもりだったと断じる。 「違う……」 澪はいくら弁解しても無駄で、矢面に立たされた。 「下衆女、お前の心はどれだけ黒いんだ」 誰かがグラスを投げつけた。 「九条様にも捨てられたくせに、ただの物乞い上がりがまだ威張るのか」 「物乞いに戻ってろ。こっちは才子佳人だ。あんたみたいな悪どい捨て女に、九条様と芹沢様の仲を邪魔させるものか」 続けざまに罵声とグラスが飛んでくる。いまや誰もが、司が澪を顧みていないことを知っている。だからこそ、遠慮なく彼女を傷つけられるのだ。かつて司の庇護ゆえに封じられていた怨嗟が、今は一斉に牙を剥いて彼女に降りかかってくる。 澪の視線は、冷たく怒った顔の群れを掠め、最後に司へと止まる。 男の目は冷ややかで、憐れみの影すらない。むしろ非難の色が差し、彼女がまた宴を壊したと責めているように見える。 その瞬間、澪の傷はすべて暴かれ、心の奥深くまで無数の刃が突き立つような痛みが走った。 司の沈黙に、澪の心は氷のように冷えた。口では「梨紗なんて遊びだ」と言いながら、彼は何度も梨紗に澪を傷つけることを容赦している。 誰もが好き放題に彼女を踏みにじる中、澪はただ司だけを見つめていた。けれど、その瞳の光は少しずつ色を失い、やがて空ろに凍りついた。 ふいに、すべてがひどく空しく思えた。もう弁解する力もない。二人の愛の試金石でい続ける気ももうない。 澪は痛みに耐えて立ち上がった。司が止めに入らないのを見て、足を引きずりながら出口へ向かう。ガラスの破片が歩を進めるごとに深く突き刺さる。それでも彼女は振り返らない。 ただ、この場所から、そして司から去るために。 第6話 澪は再び病院に運び込まれた。全身に食い込んだガラス片を取り除く処置に、三時間もかかった。 その後、数日間の休養を経て、彼女は退院の手続きをした。 まだ片づけなければならないことが残っているからだ。 まず銀行で現金を引き出し、それから、郊外の小さな、外部にはほとんど知られていない療養施設へ連絡を入れた。 施設の改修費や新しい人工呼吸器の購入費を寄付する代わりに、優斗を受け入れてもらう。そして、このことは決して外に漏らさないように――誰にも知られてはならない。 院長は快く承諾し、澪と優斗の新しい身分が整い次第、すぐに転院の契約を結べると約束した。 澪ひとりでは優斗を連れ出せない。そのため、澪は彼に一生困らぬほどの財産を残したのだ。 彼女は一度、これまでの病院に立ち寄り、優斗に会ってこの朗報を伝えようとした。 だが病室の廊下に差しかかった瞬間、介護をしている看護師が中年の夫婦にもみ合いにされているのが目に入る。看護師は必死に病室の扉をかばい、背を広げて守っていた。 「高宮さん、やっと来てくれました!この人たち、優斗の人工呼吸器を奪おうとしてるんです!」 澪は勢いよく駆け寄り、目の前の二人を引きはがすと、鋭く怒鳴った。 「何をしているの!ここは病院よ。勝手な真似は許さない!」 「威張るんじゃないよ。あんたが九条家から追い出されたことなんて誰だって知ってる。私に手を出す気?私の娘婿に命じれば、すぐにでもあんたを殺させるわよ!とっとと失せな、あんたの障害のある弟だって長くはもたないんだから。私の息子こそ呼吸器が必要なんだ!」 中年の女は、力いっぱい澪を突き飛ばした。 澪はよろめいて倒れ込み、視界が暗く揺らいだ。顔を上げた先には、勝ち誇ったような梨紗の視線とぶつかった。 「澪、みじめね」 梨紗は腕を組み、冷ややかに続ける。 「うちの両親を止められると思う?この呼吸器は必ず私がもらうわ」 「何をしているの?早く手を貸しなさい!」 彼女の指示で、司の護衛たちが看護師を押さえつけ、病室へとなだれ込む。乱暴に優斗の体から機械を引きはがそうとした。 「ダメ!そんなことしたら死んじゃう!」 澪は咄嗟に駆け込み、必死に部屋の奥へと割り込み、両腕を広げて優斗をかばう。 「出ていけ!弟に手を出さないで!」 その拍子に梨紗の母が「ああっ!」と声を上げて床に倒れる。慌てて駆け寄った梨紗は、怒りを含んだ目で澪をにらみつける。 「高宮さん、どうして母を突き飛ばしたの?これは司の指示よ。八つ当たりするなら無関係の人にするんじゃないわ!」 「痛い、胸が……」 梨紗の母は苦しげに胸を押さえる。 司が病室に入るなり、その悲鳴が耳に飛び込んできた。彼は視線を落とし、梨紗に問いかける。 「どうした?」司の声には苛立ちが滲んでいた。 「もういいわ、その機械はいらない」 梨紗は不満を滲ませながらも、一歩引くような口ぶりで続けた。 「兄の怪我はたいしたことじゃない。どうしても必要というわけじゃないから。 だけど、高宮さんは完全に取り乱していて、母を二度も突き飛ばしたの。こんなの、私たちじゃとても手に負えないわ」 司はすぐに事の経緯を見抜き、冷たく護衛をにらんだ。 「女ひとりも抑えられないのか?」 これまで彼らは多少なりとも手加減をしていて、澪を本気で傷つけるには至っていなかった。 しかし、司の不機嫌を感じ取るや否や躊躇を捨てた。そのうちの一人が、容赦なく澪の腕を掴み、力任せに脇へと引きずっていった。 「司、やめて!お願いだから止めて!」 澪は優斗の人工呼吸器が乱暴に外されるのを見て、声を張り裂けるように叫んだ。 「司、彼らを出して!優斗に触らないで、呼吸器がなければ死んでしまう! お願い!」 司の顔はますます険しくなった。澪はますます言うことを聞かず、まるで狂った女のように大声を張り上げていた。彼の目には、これまで仕込んできた礼儀をすべて忘れ、九条家の妻にふさわしい気品など微塵も残っていないように映った。 「澪、また言うことを聞かないのか。どうしてここで騒ぎを起こす?俺のしつけが足りなかったか?」 彼は不満げに彼女を睨みつけた。 澪の全身がびくりと震えた。口を開こうとしたが、声にはならない。彼女はただ、司の部下たちが無情にも機器を運び去るのを、目を見開いたまま見届けるしかなかった。 澪は彼らに突き飛ばされ、床に倒れ込んだ。だがすぐに身を起こして優斗のもとへ駆け寄る。しかし、その顔はすでに紫色に染まっている。慌ててナースコールを押したが、どこからも応答はない。冷たい予感が胸に突き刺さる――司が自分を罰するため、わざと医師を呼ばせていないのではないか。 「誰か!医者を!助けてください。 誰か!お金なら出す、いくらでも払う!お願い、弟を助けて!」 澪は廊下で狂ったように泣き叫んだ。だがフロアには人影ひとつもない。彼女は必死にエレベーターのボタンを連打したが、表示灯は一階に止まったまま、動く気配すらなかった。 仕方なく、彼女は階段を飛び降りるように駆けた。けれど、足を踏み外して転げ落ちた。それでも痛みをものともせず、ひたすら走り続ける。一階、また一階と下り、ようやく五階分を駆け抜けて人影を見つけた。 ようやく医師を連れて病室に戻ったとき、優斗はすでに酸素不足で息絶えていた。 澪は優斗のベッドの前に立ち尽くしていた。魂を抜かれたように、ただ呆然と彼を見つめた。唇が震えるだけで、涙も出ない。 痛みが極みに達すると、人はもう泣くことさえできなくなるのだ。 澪は悔いた。深く、どうしようもなく。 あの日、司について行かなければよかった。 そして、愛など抱かなければよかった。 第7話 澪は自ら優斗に白布をかけてやった。そのときになって、いつの間にか靴が脱げていて、裸足は血と泥に染まっていることに気づいた。 彼女は地べたに座り、ティッシュで裸足をこすった。けれど、にじむ血が泥と混ざり、拭いても拭いてもますます汚れていくばかりだ。 ふっと、感情がぷつりと切れた。胸元の服をわしづかみにし、声にならない叫びを口の奥で開きながら、涙だけが音もなく頬を伝う。 どれほど経ったのか。澪はゆっくり立ち上がり、家へ戻って風呂に入り、清潔な服に着替えてから、簡単に化粧を整えた。 ――優斗を、きちんと見送らなければ。 澪は優斗の死亡証明を受け取って、斎場へ向かった。 式のあいだ、彼女は一言も発していなかった。抜け殻のように、ただ流れに身を任せた。 骨壺を前にしたとき、澪は目を赤くしながら笑った。これでよかったのかもしれない。優斗はもう苦しまずに済む。自分にも未練はなくなった。これからは優斗と一緒に、この場所を離れられるのだ。 だが、結局、澪は優斗のために立派な墓地を買い、墓碑を建てた。司に勘づかれるのを恐れたのもあるし、優斗の魂がこの都で居場所を失うのも心配だからだ。 澪は骨壺を抱いて、墓前に一昼夜座り込んだ。 幼い日の思い出を、そして胸の内を、優斗にたくさん話した。 夜が明けるころ、澪は骨壺を抱き上げ、墓園を後にした。 別荘に戻ると、中から艶めいた声が聞こえた。ドアに手をかけたまま、澪は動きが一瞬止まった。 数秒ためらってから、彼女はやがて暗証番号を打ち込み、中へ入った。 目に飛び込んできたのは荒れ果てていた部屋の中だ。あちこちに衣服が散らばり、引き裂かれたシルクの寝間着が、彼女のいちばん好きなクリスマスツリーに引っかかっている。お気に入りの果物皿には、コンドームの空き箱がいくつも放り込まれていた…… 部屋には、濃い体臭と香水が混ざり合った匂いがこもっている。 梨紗は司の腕に身を預け、全身に刻まれた無数の口づけの痕が艶めかしく浮かぶ。彼女は司の首にしがみつきながら、切なげにその名を繰り返し呼んでいた。 「司、最高。すごく気持ちいい」 澪は視線を逸らさず、そのまま階段を上がった。死んだ心は、もう痛みを感じない。 階下の声はいつまでも続いた。司の機嫌は上々らしく、梨紗が泣き声で許しを請うのが何度も聞こえた。 どれほどの時間が過ぎたのか分からない。やがて扉が押し開けられ、司が入ってきた。 情欲の気配は引き、シャワーを浴びた体からはボディソープの匂いがした。だがシャツ越しに、首筋の赤い痕は隠しきれない。 先ほどリビングルームの光景が脳裏に浮かび、澪の胃の奥がぐらりと揺れた。込み上げる吐き気に、思わず口元を押さえ、横を向いてえずいた。 司の目が冷たくなる。 「俺のことが気持ち悪いか?」 澪の口から言葉は出なかった。だが、その顔つきが答えそのものだった。 司は澪の顎をつまみ、身をかがめて唇を奪おうとする。澪が身をよじると、司に押さえつけられ、身動きが取れなくなる。 「機嫌が悪いのはわかってる。だが、ひとしきり遊んだら埋め合わせはする。離婚なんて茶番だ。いずれまた夫婦に戻る。ただな、これ以上言うことを聞かないと、優斗に苦労をさせるぞ」 澪の胸が激しく震えた。優斗はもう死んだのに、彼はまだその骨をも砕き、灰になるまで弄ぼうというのか。 だが、彼は知らない。彼女にはもう、弱みなど残っていない。 「司、復縁なんて望んでいないの。離婚したのだから、このまま行かせて。もう、持ちこたえられない」 震える声で、澪はそう口にした。 鋭い鷹のような目が陰を帯びる。司は手を離し、指先で、彼が掴んで赤くなった彼女の頬を撫でた。 「澪、馬鹿を言うな。俺なしでどこへ行くつもりだ?いい子でいろ、いつも俺を怒らせるんじゃない。 お前は俺なしじゃ生きられない。俺も、お前を手放さない。俺もお前を手放すつもりはない。俺はただ外で少し遊んでいるだけだ。いずれ必ずお前のもとに戻る。お前は生涯、俺のものだ」 歪んだ愛の言葉を聞きながら、澪はふと、ずっと昔に目にした光景を思い出した。 あのとき司は、自分に逆らった男を地下の密室に閉じ込めた。蛇が苦手だと知るや、部屋いっぱいに蛇を放たせた。響き渡る絶叫は止むことなく、その男もついには恐怖のあまり意識を失った。 この男は偏執的で狂気を孕んでいる。彼女にそこまではしないだろうけど、放すつもりがないのなら、決して逃がしはしない。 全身が冷え、澪はそっと視線を伏せて、二度目の嘘をついた。 「わかった。あなたの言うとおりだ。私はあなたなしじゃだめ。これからはおとなしく言うことを聞く」 ようやく満足したのか、司は口元を緩め、澪の唇に軽く口づけた。 「いい子だ。しっかり休め。ここ数日のやつれた顔は、見てるとイラつく。結婚記念日ももうすぐだ。その日には、そんな弱々しい顔は見たくない」 「わかった」と、澪は口角を引き上げた。 どうやら司が部屋に長く留まりすぎたのが気に障ったのか、外で待っていた梨紗が不満を募らせたらしい。彼女は扉の前に立ち、急かすように声をかける。 「司、美術展は? もう行かないの?」 司の口元が一瞬だけつり上がった。彼は澪に布団を掛け直すと、そのまま踵を返し、梨紗の肩を抱いて出ていった。 まもなくして、澪のもとに役所の戸籍課から電話が入った。ようやく、除籍の手続きが完了したのだ。 澪は最低限の荷物だけを整えると、優斗の骨壺を抱きかかえ、足早に別荘を後にした。 除籍を済ませた彼女は、自分の身元も新しく整えた。 新しい名義で地方銀行の口座を開き、ロシア行きの航空券を手に入れた。 飛行機に乗り込んだその瞬間、澪はこれまでにないほどの解放感を覚えた。 優斗の骨壺を抱きしめ、最後にもう一度だけ、自分を縛りつけてきたこの街を振り返った。視界が滲み、目頭が熱くなる。 これから先、彼女はもう司の所有物ではない。自分だけの人生を歩むのだ。 彼女は、自由になったのだ。