霧が晴れたら、君はいなかった

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霧が晴れたら、君はいなかった

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杉山美緒(すぎやま みお)は思いもしなかった。自分の誕生日に、息子からアレルギーで死に至るほどのマロンケーキを差し出されるなんて。 意...

Chương (1)

第1章

杉山美緒(すぎやま みお)は思いもしなかった。自分の誕生日に、息子からアレルギーで死に至るほどのマロンケーキを差し出されるなんて。 意識が朦朧とする中、夫の杉山辰彦(すぎやま たつひこ)の激しい怒鳴り声が聞こえてくる。 「悠希、母さんが栗アレルギーだと知らなかったのか?」 杉山悠希(すぎやま はるき)の幼い声が、やけにはっきりと響いている。 「知ってるよ。でも、真理奈おばちゃんにママになってほしかったんだ。 パパだって、本当はそう思ってるんでしょ?」 「たとえ俺が……」 強烈な息苦しさが美緒を襲い、辰彦の最後の答えはもう聞こえない。 意識を完全に失う寸前、頭にはたった一つの思いだけが浮かんでいる。 もし目が覚めたら、もう辰彦の妻でいるのも、悠希の母親でいるのもやめようと。 第1話 杉山美緒(すぎやま みお)は思いもしなかった。自分の誕生日に、息子からアレルギーで死に至るほどのマロンケーキを差し出されるなんて。 意識が朦朧とする中、夫の杉山辰彦(すぎやま たつひこ)の激しい怒鳴り声が聞こえてくる。 「悠希、母さんが栗アレルギーだと知らなかったのか?」 杉山悠希(すぎやま はるき)の幼い声が、やけにはっきりと響いている。 「知ってるよ。でも、真理奈おばちゃんにママになってほしかったんだ。 パパだって、本当はそう思ってるんでしょ?」 「たとえ俺が……」 強烈な息苦しさが美緒を襲い、辰彦の最後の答えはもう聞こえない。 意識を完全に失う寸前、頭にはたった一つの思いだけが浮かんでいる。 もし目が覚めたら、もう辰彦の妻でいるのも、悠希の母親でいるのもやめようと。 …… 五時間に及ぶ救命措置の末、ようやく命の危機を脱した。 再び意識を取り戻した時、息をするだけで痛み、顔全体がパンパンに腫れ上がっている。 必死に目を開け、無意識に二人の姿を探すが、病室はがらんとしている。 携帯電話はそばの棚の上。腕を伸ばして取ろうと試みる。 しかし、距離が遠すぎて届かない。なんとか体を起こそうとしたその時、点滴を交換しに来た看護師がちょうど入ってきて、慌ててその動きを制した。 「救急処置室を出たばかりですから、無理してはいけません。私が取ってあげます」 看護師は親切に携帯を渡してくれ、点滴を替えながら注意を促す。 「自分がひどい栗アレルギーだって知らなかったのですか?これからは栗の入った食べ物は絶対に口にしてはいけませんよ。今回は運ばれてくるのが早かったからよかったけど、もう少し遅かったら命はなかったんですよ」 どう答えたらいいか分からない。 まさか、自分の息子が栗アレルギーだと知りながら、わざとマロンケーキを選んで渡してきたなんて言えるはずもない。 計器だらけの自分の体に目を落とし、かろうじて口を開く。 「あの人たちは?」 今、辰彦と悠希を夫や息子、あるいは家族という言葉で呼びたくない。 看護師は一瞬考えたが、すぐに察したようだ。 「ご主人と息子さんのことですね。あなたを病院に運んで、支払いを済ませたら急いで帰りました。『用事がある』って。電話してみたらどうでしょうか?」 そう言ってから、小声で付け加える。 「奥さんや母親より大事な用事って何なのかしら。本当に薄情ですね」 胸に突き刺さる言葉に、心がずきりと痛む。 あの親子がそんなに慌てて立ち去る理由なんて、あの女のことしかない。 携帯を開くと、辰彦とのトーク画面は相変わらず自分が送ったメッセージしか表示されていない。 タイムラインを開くと、古山真理奈(ふるやま まりな)の投稿が真っ先に目に飛び込んでくる。 【急な呼び出しにも駆けつけてゴキブリを退治してくれた二人のナイトに感謝。やっぱり家には男の人がいないとね(笑)】 添付された写真には、辰彦が彼らしくもないほうきで床のゴキブリを押さえつけ、悠希は小さな両手を広げて真理奈の前に立ちはだかっている。 見慣れた二つの後ろ姿が、目の奥を熱くさせ、再び息苦しさがこみ上げてくる。 彼らは死の淵を彷徨った被害者である自分を置き去りにして、真理奈のゴキブリ退治に行った。 しかも、自分のアレルギー症状は悠希が引き起こしたものなのに。 それなのに、彼らには罪悪感も、心配する様子も微塵もない。 美緒は自嘲気味に唇の端を歪めた。 そうだね。悠希はこの母親が二度と目を覚まさなければいいと願っていたんだ。 辰彦に至っては、事情を知らなかったとはいえ、心の奥底では悠希と同じように、真理奈を妻にしたいと望んでいるのだろう。 こんなにも自分を疎む二人が、病院に残って付き添ってくれるはずがない。 携帯を置き、病院の眩しい蛍光灯を見つめながら、過去の記憶をたぐり寄せる。 自分と辰彦は同じ町で育った、いわゆる幼馴染だ。 辰彦は子供の頃から成績優秀で、何度も飛び級し、早くから海外に留学して家業を継ぐ準備をしていた。 一方、自分は内気な性格で、子供の頃はみんなが遊んでいるのをそばで見ているだけ。大きくなってからはさらに影が薄くなった。 そんな自分が、少女時代に光り輝く辰彦に恋をした。 この片思いは、辰彦が誰かと結婚する時に終わりを告げるのだと思っていた。 だが、予想もしなかったことに、帰国した辰彦は真っ先に自分の元を訪れ、「結婚してくれないか」と尋ねてきた。 突然の幸運に呆然とし、心の中で狂ったように育っていた想いを抑えきれず、二つ返事で頷いた。 こうして、美緒は辰彦の妻になった。 しかし、ある日酔った辰彦の口から、彼が留学中に深く愛した恋人がいたことを知る。 その女性は、彼が99回プロポーズしてくれたら、100回目に結婚を承諾すると言ったらしい。 辰彦はそれを信じた。 シエロの雪山、ルミナス塔、ニクスのサンドビーチ、アストラル大聖堂…… あらゆる場所が、彼のプロポーズの証人となった。 卒業当日、彼は100回目となる盛大なプロポーズを計画し、成功したらすぐに帰国して結婚式を挙げるつもりだった。 しかし、大勢の友人の前で、女性は100回目も彼を断った。 まだ早く結婚したくない、あと三年待ってほしいと。 辰彦は完全に忍耐の糸が切れた。 そして、腹いせに帰国し、適当な相手と結婚することにした。 そして美緒は、たまたま杉山家と一番近しい女性だったというだけ。 結婚の真相を知った当初は、気にしなかった。 時間が経てば愛情は生まれる、辰彦もいつか自分を愛してくれると信じている。 結婚して一年後、息子の悠希が生まれ、辰彦との関係も少しずつ縮まった。 周りから見れば、幸せな三人家族そのものだ。 一ヶ月前、辰彦の初恋の相手、真理奈が帰国するまでは。 彼は大学時代の100回の失敗したプロポーズを忘れたかのように、真理奈に近づき、彼女を気遣い、優しく接している。 次第に家に帰らなくなり、息子さえも頻繁に彼について真理奈に会いに行くようになる。 六年の夫婦生活、五年の母子の情があれば、あの親子も心のどこかでは自分のことを思ってくれているはずだと信じていた。 しかし今日、自分が作り上げた幻想から、ようやく目が覚めた。 六年間、辰彦の心を温めることはできない。 自分のお腹を痛めて産んだ子でさえ、父親と同じように、心の中に母親である自分の居場所はない。 バン! ドアが開く音で我に返る。 美緒は無意識にドアの方を見ると、二つの人影が病室の入り口に立っている。 辰彦が悠希の背中を押し、厳しい表情で言う。 「行って、母さんに謝りなさい」 悠希は指をもじもじさせながら、少しずつベッドのそばに寄り、蚊の鳴くような声で言う。 「ママ、ごめんなさい」 美緒は顔をそむけ、返事をしない。 悠希の目に浮かぶ不本意な色を見逃しはしなかった。 辰彦が落ち着いた声で言葉を続ける。 「悠希に悪気はなかったんだ。お前が栗アレルギーだと知らなかっただけだ。もうきつく叱っておいたから、二度と栗の入ったものを渡したりはしない。 さっきは会社で急用ができてな。お前まだ意識がなかったから、先に会社に戻って仕事を片付けてきた」 季節は真夏で、空気は熱気を帯びているはずなのに。 真冬の厳寒よりも、百倍も千倍も寒く感じる。 自分が目を覚ましてから今まで、辰彦からのメッセージは一件も来ていない。 彼が部屋に入ってきてから口にした二つの言葉は、どちらも嘘だった。 黙っているのを見て、辰彦は不機嫌そうに眉をひそめる。 「いいだろう。今日はお前の誕生日だ。子供相手に怒るな。 息子と一緒にプレゼントを用意したんだ。気に入るか見てくれ。退院したらつけてやる」 そう言うと、ギフトボックスを取り出し、中からダイヤモンドのネックレスを美緒に見せる。 来る途中のデパートで適当に選んだものだと一目で分かる。 ちらりと一瞥しただけで視線を外し、静かに口を開く。 「私からも、あなたたちにプレゼントがあるわ」 辰彦は思わず尋ねる。 「お前の誕生日じゃないか。俺たちに何をくれるんだ?」 悠希も不思議そうにこちらを見る。 美緒は吹っ切れたような笑みを浮かべる。 「お返しってものでしょう?心配しないで、そのプレゼントは数日後には見られるから。きっと気に入るわ」 サイン済みの離婚届。それこそが、あなたたちが望んでいるものでしょう。 第2話 辰彦は淡々とした表情で、特に気にも留めない。 「病院でゆっくり休んでいればいい。プレゼントなんて気を使わなくていい」 そう言って、スマホの画面に目をやる。 隣の悠希も唇を尖らせ、興味なさげな様子だ。 その父子の反応をすべて見届け、口の端を上げる。 今は興味がなくても、離婚届を実際に見た瞬間、誰よりも興奮するくせに。 ふと、この父子にとって自分はいったい何なのだろうと知りたくなった。 感情の代用品?家政婦?それとも、ただ同じ屋根の下で暮らす、よく知った他人? そう思うと、自然と口からその問いがこぼれ出ていた。 最後の言葉を言い終えるか終えないかのうちに、辰彦のスマホから心地よい女性の声が響いている。 「辰彦、早く電話に出て。出ないと怒っちゃうからね!」 美緒ははっとした。 社長である辰彦の着信音は、いつも決まってスマホのデフォルト音だった。 しかし、すぐに気づき、爪が掌に深く食い込む。 これはきっと、辰彦と真理奈が付き合っていた頃に録音した彼女の声で、彼女専用の着信音に設定しているのだろう。 あの無愛想な辰彦にも、こんな甘いことをしていた時期があったなんて。 しかも、六年経った今でも、その着信音を消していない。 おそらくこの六年間、彼はこの音が鳴るのを心待ちにしていたのだろう。 辰彦はためらうことなく、電話に出た。 電話の向こうから、かすかにすすり泣く声が聞こえる。 辰彦は即座に立ち上がり、そばに置いてあったジャケットを手に取ってドアに向かう。 「すぐ行く」 その口調は珍しく優しい。 ドアのところで電話を切り、何かを思い出したようにベッドの美緒を見る。 「友人がトラブルに巻き込まれた。俺が処理してくるから、お前はゆっくり休んでろ」 おそらく、真理奈のもとへ駆けつけたい一心で、自分の嘘があまりにも稚拙なことに気づかなかったのだろう。 一体どんな友人のために、あんな着信音を設定するというのか。 悠希は、辰彦が立ち上がるのと同時に、父の後ろにぴったりとついている。 「ママ、僕もパパと一緒に行きたい」 その時ようやく気づいた。この父子は自分の話を全く聞いていなかったのだと。 真理奈の家から病院に駆けつけた後も、彼らの心にあったのは彼女のことだけ。 スマホを見つめていたのも、彼女からの電話にいち早く気づくためだ。 目を伏せ、静かに「うん」と頷いた。 彼らは答えなかったが、美緒はもう答えを心得た。 父子が去った後、弁護士に電話をかける。 「できるだけ早く離婚協議書を作成して、私に送ってください」 弁護士は事務的に尋ねる。 「では、息子さんの親権はどうなさいますか?」 「いりません」 静かに告げる。 「杉山家に関する人や物は、何もいらないわ」 今欲しいのは離婚だけ。 第3話 病院に丸一週間入院し、アレルギー反応はすっかり消えた。 入院中の一週間、毎日、真理奈が投稿する写真を目にしている。 辰彦が言っていたトラブルとは、真理奈の家のゴキブリが駆除しきれていなかった、というだけのことだった。 父子は彼女と一緒に新しい住まいを探し、新しい家具を買い、三人でがらんとした部屋を少しずつ温かみのある小さな家に作り上げている。 退院の日、一週間姿を消していた辰彦と悠希がついに現れる。 美緒がすでに一人で退院手続きを終えているのを見て、男の険しい顔に珍しく申し訳なさそうな表情が浮かぶ。 「すまない、ここ数日病院に来られなくて。友人のことで忙しかったんだ。彼女は帰国したばかりで、他に知り合いもいない。俺しか助けてやれる者がいないんだ」 辰彦が自ら頭を下げることは滅多にない。 以前の美緒なら、とっくに物分かりよく「気にしないで」と言っていただろう。 しかし今回、ただ静かに車のドアを開けて乗り込んだ。 「分かったわ。帰りましょう」 辰彦は意外そうな視線を美緒に向ける。 彼女は怒っているのか? しかし、すぐにその推測を打ち消す。 結婚して六年、美緒はいつも優しくて聞き分けがよく、一度も彼に反抗したことはない。怒るはずがない。 きっと考えすぎだろう。 車に乗ってから、美緒はずっと目を閉じて休んでいる。 しかし、じりじりと焼けるような視線が頻繁に自分に向けられているのを感じる。 目を開けると、悠希の視線とぶつかった。 こちらが起きたのを見て、悠希はおずおずと口を開く。 「ママ、アレルギーはもう治ったの?」 「ええ」 そう答えたところで、車がちょうど停まった。 ドアを開けて車を降り、二、三歩歩いたところで、後ろから小さな呟きが聞こえる。 「残念だなあ、真理奈おばちゃんがママになれなくなっちゃった……」 足が止まり、まるで心臓を氷の杭で抉られるような鋭い痛みが走っている。 これが、十月十日かけて身ごもり、五年かけて育てた息子。 母の命を奪いかけたことに対して、恐怖も罪悪感も微塵も感じていないどころか、彼の「真理奈おばちゃん」のために母という「障害」を取り除けなかったことを残念がっている。 なんて皮肉なことだろう。 胸の痛みを必死に抑え、まっすぐ寝室へと戻る。 悠希、あなたの願いはもうすぐ叶うよ。 夜、早々にベッドに入った。 隣のスペースは冷え切っている。 辰彦はいつも書斎で遅くまで仕事をしてから休むため、二人が寝る前に会話をすることはほとんどなく、それに慣れている。 うとうとと眠りにつきかけたその時、大きな手が自分を温かい腕の中に引き寄せる。 男の熱い息が首筋にかかり、ぞくりと震える。 無理やり目を開けたが、その時、辰彦のシャツの襟に金色のカールした長い髪が一本ついているのに気づいた。 美緒は小さい頃からずっと黒いストレートのロングヘアだ。 突然、吐き気がこみ上げてきて、彼の腕から激しく抜け出した。 辰彦ははっと我に返り、眉をひそめる。 「まだ体調が戻らないのか?」 急におかしくなった。 心の中には別の女がいるくせに、今さら心配するふりなんて、誰に見せているのだろう? 「辰彦、あなたって、子供より勇気がないのね」 少なくとも、悠希は真理奈をママにしたいと口にする勇気がある。 それなのに辰彦は、真理奈のことを「友人」という言葉でしか呼ばない。 辰彦は彼女が何を言っているのか理解できず、不思議そうに尋ねる。 「何を言っているんだ?」 軽く笑い、彼の偽りの姿に向き合うのをやめ、背を向けて横になる。 辰彦もその気はすっかり失せ、寝室を出て行った。 ドアが閉まる音を聞きながら、ずっと固く目を閉じていた。 翌朝、弁護士から離婚協議書を受け取った。 【杉山様、作成いたしました】 【ありがとうございます】 返信を終えたところで、悠希が階下からやってきて隣に立つ。 「ママ、僕の誕生日パーティー、今回はすっごく盛大にしてね。すごく大事な人を招待したいんだ」 その言葉で、もうすぐ悠希の誕生日だということを思い出した。 目を伏せ、しばらく黙ってから「いいわよ」と答えた。 これが、自分が悠希と過ごす最後の誕生日になるだろう。 悠希は返事をもらって、嬉しそうにランドセルを背負って学校へ向かう。 彼が行った後、美緒はチケット購入アプリを開き、航空券を一枚買った。 その日時は三日後、悠希の誕生日の夜だ。 第4話 この三日間、悠希の誕生日パーティーの準備に追われている。 同時に、彼の六歳から十八歳までのプレゼントもすべて買い揃える。 どうしたって血の繋がった子だ。今後会うことはなくても、十八歳になるまでは母親としての義務を果たさなければならない。 悠希の誕生日当日、招待された客が大勢集まっている。 美緒は悠希の手を引き、辰彦の隣に立って、人々の輪の中心にいる。 毎年誕生日には大はしゃぎする悠希が、今日はなぜか浮かない顔で、足元の小石を蹴りながら、しきりにドアの外を気にしている。 辰彦でさえ、頻繁に腕時計に目をやっている。 パーティーの準備に不手際があったのかと思う。 その時、ドアの向こうから女性の声がする。 「悠希!」 悠希はぱっと顔を上げ、目を輝かせ、目の前にいた美緒を突き飛ばしてドアへと駆け寄った。 「真理奈おばちゃん!」 美緒はよろめき、もう少しで転ぶところだったが、数歩後ずさってなんとか体勢を立て直す。 悠希はそれに全く気づかず、まるで巣に戻るツバメのように真理奈の胸に飛び込み、さっきまでの沈んだ表情は一掃され、口角を高く上げている。 「やっと来てくれたんだね。ずっと待ってたんだよ」 真理奈は笑って彼の頬をつねり、優しく言う。 「道が混んでて少し遅れちゃった。主役を待たせてごめんね」 辰彦も真理奈の方へ歩み寄り、いつもは冷たい顔に笑みが浮かんでいる。 足首のかすかな痛みをこらえ、人混みの中に立ち、夫と息子が自分を置き去りにして真理奈の周りに集まっているのを見て、苦い思いが心臓から全身へと広がっている。 もっと早く気づくべきだ。あの親子がこれほど異常な態度をとる相手は、真理奈しかいないのだと。 悠希が言っていた「すごく大事な人」というのも、彼女のことなのだろう。 周りの賑やかな人々は途端に静まり返り、顔を見合わせた後、しばらくしてようやく口を開く。 「あの方は誰?杉山社長と息子さんがわざわざ出迎えるなんて」 「もしかして、あちらが本当の奥様で、さっきは私たちが人違いを?」 「違うわよ。あれは杉山社長が海外留学時代に、どうしても手に入らなかった初恋の相手だって。最近帰国したばかりらしいわ」 「まあ、可哀想に。夫の初恋の相手が、息子の誕生日パーティーに堂々と現れるなんて……」 「しーっ、声が大きいわ。奥様がまだいらっしゃるのよ」 視線を戻した美緒は、心には苦さだけが残り、もう痛みは感じない。 今夜を過ぎれば、自分はもう「杉山夫人」ではなくなるのだから。 人々が噂話をしている間に、悠希はすでに真理奈の手を引き、宝物を見せるようにパーティー会場を案内している。 「真理奈おばちゃん、これ、僕が一番好きなキャラクターなんだ」 「これは僕が生まれてから今までの写真だよ」 「これは僕が自分で描いた絵なんだ」 …… 辰彦は彼らのそばに付き添い、その目は穏やかな笑みを浮かべている。 パーティー会場を一周した後、三人はようやく美緒の前に現れる。 「真理奈おばちゃん、これが僕のママだよ」 さっきまでの興奮した口調とは違い、その言葉には明らかに不満の色が混じっている。 真理奈は平然とした顔で悠希の頭を撫で、笑って言う。 「美緒さん、悠希くんみたいに素直で聞き分けのいいお子さんがいて、本当に幸せですね」 美緒は微笑んだ。 「あなたにも、すぐにできますよ」 今夜を過ぎれば、息子の悠希だけでなく、夫の辰彦さえも、彼女のものになるのだから。 悠希は母の前に長居したくないようで、すぐに真理奈の手を引いて離れていく。 辰彦は無意識について行こうとしたが、その視線が、一人でぽつんと立ち、周りの賑やかな雰囲気と馴染んでいない美緒に触れた。 彼は珍しく声を和らげる。 「ここ数日、誕生日パーティーの準備で大変だっただろう。 悠希のことは真理奈が見てくれるから、お前は先に部屋で少し休んでいろ」 美緒は目を伏せ、その奥にある皮肉な色を隠している。 どれだけ堂々と真理奈と一緒にいたいのかしら。妻である自分、実の母親である自分に、息子の誕生日パーティーから席を外せと言うなんて。 しかし、結局何も言わず、身を返して二階へと上がった。 もう、こんな無意味なことに時間を浪費したくはない。 願い事をする時間になり、使用人に呼ばれて階下へと降りる。 パーティー会場では、悠希が巨大なケーキの前に立ち、願い事をしようとしている。 真理奈と辰彦が、彼の両脇に立っている。 その光景を見て、美緒は足を止めた。 あまりにも調和のとれたその光景は、誰かが加われば余計な存在に思えてしまうほどだ。 美緒の姿に気づいた真理奈は、申し訳なさそうに彼女に微笑む。 「美緒さん、本当にすみません」 そう言って彼女は悠希の隣の場所を譲ろうとする。 しかし、悠希は小さな手で真理奈の服の裾をしっかりと掴み、彼女を離そうとしない。 「ママ、真理奈おばちゃんにそばにいてほしいんだ」 辰彦は彼を一瞥し、同意した。 「今日は悠希の誕生日だ。彼の言う通りにしてやろう。お前も気にするな」 美緒はその場に立ち尽くし、静かに頷いた。 この父子そのものを手放す。どうでもいい立ち位置など、気にするはずもない。 悠希は目に見えて嬉しそうになり、目を閉じて両手を合わせる。 「楽しく大きくなれますように」 そう言って、一瞬言葉を切り、次の瞬間、ラスカリア語で言う。 「それから、真理奈おばちゃんが僕のママになりますように!」 第5話 幼い声が、会場にいる全員の耳にはっきりと届いている。 招待客の中には、ラスカリア語が分かる者も少なくない。 一瞬にして、人々の表情は様々に変わった。 辰彦は一瞬驚いたが、すぐに平静を装って説明する。 「子供の戯言です。皆さん、本気になさらないでください」 悠希は唇を尖らせ、不満そうな目で、まだ何か言いたそうにしている。 「でも……」 その言葉を、美緒が遮った。 「これがあなたのプレゼントよ。願いが叶うわ」 そう言って、用意していたファイル袋を悠希に手渡す。 中には、彼女がサインした離婚届が入っている。 このプレゼントこそ、悠希が一番欲しがっているものだろうと思う。 一呼吸おいて、付け加える。 「中に鍵が……」 彼の六歳から十八歳までのプレゼントはすべて金庫に入れてあり、毎年順番に一つずつ開ければいいと伝えたい。 しかし、言葉を言い終える前に、悠希は適当に頷いた。 「ありがとう、ママ。わかったよ」 彼は美緒が言う「願いが叶うプレゼント」なんて信じていない。ただ子供を騙すための大人の冗談だと思っている。 手の中のファイル袋をそばに置き、期待に満ちた目で真理奈を見る。 「真理奈おばちゃん、僕へのプレゼントは何?」 真理奈は彼の頬をつねり、笑いながらポケットからプレゼントを取り出す。 それは三枚の親子お揃いのTシャツで、真ん中には三人の親密な顔写真がプリントされている。 「これはこの前遊園地に行った時に撮った写真よ。お揃いの服にしてみたの。悠希、気に入った?」 「わー!」 悠希は歓声を上げ、興奮してTシャツを手に取り、何度も見つめ、今すぐ着たいとでも言いたげだ。 「すごく気に入った!明日も、明後日も、明々後日も……ずっとこれを着る!」 ちょうどその時、杉山家が雇ったカメラマンが、誕生日パーティーの集合写真を撮るためにやってくる。 悠希は目を輝かせ、辰彦の袖を引く。 「パパ、真理奈おばちゃんと一緒にこの服に着替えて写真を撮ろうよ」 普段はスーツしか着ない辰彦が、意外にも断らなかった。 三人が着替えると、まるで本当の親子三人のようだ。 いざ撮影という段になって、辰彦は眉をひそめ、ずっとそばに立っていた美緒を見る。 「どうして写真を撮りに来ないんだ?」 三人がお揃いの服を着てぴったりと寄り添い、少しの隙間もないのを見て、美緒は口の端を上げる。 「少し疲れたから、あなたたちだけで撮って」 辰彦は深く考えず、カメラマンに撮影を始めるよう合図した。 真理奈と辰彦が、悠希の両脇に立っている。 より良い写真を撮るため、カメラマンは二人に距離を縮めるよう指示する。 少しずつ動き、二人の肩が触れ合う。 二人は同時に驚き、無意識に相手を見る。 辰彦のいつもは無表情な顔に、珍しく優しさが浮かんでいる。 真理奈の頬には、ほんのりと赤みが差した。 悠希は二人の前で、彼らの手を取り、幸せそうに微笑んでいる。 周りでは、招待客たちのひそひそ話が絶えない。 「息子が別の女性を母親にしたいと願い事をして、今度はお揃いの服で写真撮影。あの奥様、よく我慢できるわね」 「何も知らないのね。昔、杉山社長は海外で初恋の相手とすごくいい関係で、100回もプロポーズしたんですって。彼女がまだ早く結婚したくないと言わなければ、奥様の座は今の人のものにはならなかったのよ」 「ということは、杉山社長の初恋の相手で、今その人が帰国したってことは、もしかして……」 周りの噂話を聞きながら、ふと、六年前の辰彦からのプロポーズを思い出した。 花も、指輪も、告白さえもなかった。 ただ、「結婚してくれないか」という短い一言だけ。 その一言で、火に飛び込む蛾のように、この結婚を始めた。 結婚後に彼と真理奈の過去を知っても、自分こそが妻であり、いつか辰彦を振り向かせることができると信じて、この結婚を続けてきた。 しかし、六年もの歳月をかけてようやく理解したのは、すでに他の誰かに占められた心は、温めることができないということだ。 どれだけ努力しても、心の中のその人が現れれば、自分は完膚なきまでに打ちのめされる。 真理奈に注がれる辰彦の視線を見て、軽く笑う。 幸い、もうすぐ、この始まるべきではなかった結婚は終わりを告げる。 第6話 もう三人の幸せな光景を見たくなくて、一人で裏庭へと向かう。 ブーッ。 携帯が震えた。 画面をスライドさせると、一通のメッセージが表示される。 【お客様のフライトは8時間後に出発いたします。時間通りにご搭乗ください】 今日初めて、心からの笑みを浮かべた。 携帯をしまい、荷造りのために二階へ上がろうとする。 数歩歩いたところで、真理奈と鉢合わせた。 彼女はにこやかに美緒の行く手を阻む。 「美緒さん、このパーティーの女主人でしょう?どうして一人でこんなところに?」 真理奈が見かけほど純真ではないことは知っている。 でなければ、帰国初日にわざわざ自分の連絡先を手に入れ、その後も頻繁にタイムラインで辰彦親子との写真を自慢したりはしないだろう。 「古山さん、何か用ならはっきり言って」 真理奈はしばらくこちらを見つめた後、軽く笑い、仮面を剥がした。 「美緒さんは賢い人よ。 昔、私と辰彦は深く愛し合っていたのよ。彼は私に100回もプロポーズしたの。まだ早く結婚したくなかっただけ。でなければ、この『杉山夫人』の座はあなたのものにはならなかった。 もし物分かりがいいなら、さっさと離婚を切り出して、自分の体面を保ちなさい」 すでに離婚を決意していたが、だからといって第三者の挑発を許せるわけではない。 即座に顔をこわばらせる。 「私と辰彦の結婚がどうなろうと、あなたのような部外者に指図される筋合いはないわ」 真理奈は気だるそうにネイルをいじりながら言う。 「それがどうしたの?たとえ私が100回断ったとしても、辰彦の心は私を忘れられないのよ。 この数日であなたも見たでしょう?辰彦が愛しているのは私。あなたの息子でさえ私に懐いて、私に母親になってほしいと願っているわ。 私が『あなたが栗を食べれば、私が彼のママになれる』と言っただけで、悠希くんは本当にそうしたのよ」 そう言うと、美緒を上から下まで値踏みするように見て、顔に嘲笑を浮かべる。 「ただ、あなたがこんなに命拾いするとは思わなかったわ。本当に残念。あなたという邪魔者がもっと早く消えてくれればよかったのに」 信じられないという顔で真理奈を見た。爪が掌に深く食い込み、怒りの炎が胸の中で燃え盛る。 悠希が自分にマロンケーキを食べさせたのは、真理奈が唆したからだ。 「あなた、どうして……」 「あなたが私の居場所を奪ったからよ!」 真理奈は冷たい顔で言葉を遮った。 「あなたさえいなければ、私が杉山夫人だったのよ」 視線の端で辰彦親子が庭に向かってくるのを察知し、真理奈は悪辣な表情を一変させ、か弱く哀れな様子を見せる。 「美緒さん、私と辰彦はもう過去のことだわ。そんなに私を追い詰めなくても」 彼女の目は瞬く間に赤くなり、声はむせび泣いている。 美緒は眉をひそめる。相手の突然の変わりように、訳が分からない。 次の瞬間、真理奈は着ていた親子Tシャツをびりっと引き裂き、こちらが反応する間もなく、その手首を掴む。 「きゃっ!」 ドボンという音と共に、真理奈に引きずられてプールに落ちた。 子供の頃に溺れたことがあり、水に対して本能的な恐怖を抱いている。 一瞬にして視界が水に奪われ、本能的に手足をばたつかせ、沈まないように必死にもがく。 ドボン! 駆けつけた辰彦が、ためらうことなく水に飛び込んだ。 必死に彼に手を伸ばす。 「助け……助けて」 しかし次の瞬間、辰彦が自分には目もくれず、素早くもう一方の真理奈の方へ泳いでいくのを目の当たりにする。 その時、岸から焦った叫び声が聞こえる。 「パパ、真理奈おばちゃんはあそこだよ!早く助け上げて!」 その瞬間、すでにずたずただった心が粉々に砕け散る音をはっきりと聞いている。 生死の瀬戸際にあっても、あの父子の心にあるのは真理奈だけ。 もう完全に力を失っている。 ゆっくりと目を閉じ、全身が暗闇に沈んでいった。 第7話 再び目を覚ました時、鼻をつくのは消毒液の匂いだ。 辰彦は、こちらが目覚めたのに気づき、冷たい視線を一瞥し、低い声で言う。 「真理奈が目を覚ましたら、謝りに行け」 胸が詰まり、骨身に染みるような寒気が走る。 目を覚ましたばかりの自分に、辰彦は一言の気遣いもなく、ただ真理奈に謝罪しろと言う。 「私を道連れに水に落としたのは彼女よ。どうして謝らないといけないの?」 辰彦は眉をひそめ、その顔にはあからさまな不信感が浮かんでいる。 「まだ嘘をつくのか。悠希へのプレゼントがお揃いのTシャツだったことに嫉妬して、真理奈を突き落とそうとしたんだろう。結果的に自分も落ちてしまっただけだ」 自分の半生をかけて愛したこの男を真剣に見つめる。彼の顔には、自分が水に落ちたことへの心配は微塵もなく、あるのは自分への怒りと非難だけ。 六年間、日夜を共にしてきたというのに、彼からの信頼は少しも得られない。 ふと笑い出し、その口調は極めて平静だ。 「信じないなら、監視カメラを調べればいいわ」 「辰彦の妻」であり「悠希の母親」であるという立場は、もうとっくに手放している。お揃いのTシャツごときで嫉妬などするはずがない。 辰彦の眉間の皺はさらに深くなり、こちらの言葉が本当かどうか見極めるように、深く見つめてくる。 彼は、最近の美緒がどこか違うと感じている。 「お前……」 彼が口を開く途端、電話の着信音がその言葉を遮った。 受話器の向こうから、悠希の隠しきれない喜びの声が聞こえる。 「パパ、真理奈おばちゃんが目を覚ましたよ!」 彼の顔の険しさは急速に消え去り、目には喜びの色が宿った。 「すぐ戻る」 電話を切り、ベッドに横たわる美緒を一瞥し、声は再び冷たくなる。 「自分で反省しろ。自分の妻が理性を失った嫉妬深い女だなんて思いたくないし、悠希もそんな母親は望んでいないだろう」 そう言って背を向け、一瞬の躊躇もなく大股で去っていく。 遠ざかる背中を見つめ、その目は死んだ水のように静かだ。 ちょうどいい。こちらももうすぐ、「杉山夫人」でも、「悠希の母親」でもなくなる。 ピロンとメッセージの通知音が、美緒を現実に引き戻した。 【お客様のフライトは、あと3時間で出発いたします】 退院手続きを済ませた。 病院を出る時、ある病室の前を通りかかり、見慣れた人影に無意識に足を止める。 辰彦がスプーンで一匙ずつ、真理奈にお粥を食べさせている。彼女を見るその眼差しは、溢れんばかりの優しさに満ちている。 「真理奈おばちゃんに近づかないで!あなたのせいで真理奈おばちゃんは病気で入院したんだ!この悪いママ!」 悠希がどこからか飛び出してきて、両手を広げて病室の前に立ちはだかり、敵意に満ちた目でこちらを見ている。 彼が母親である自分に対して、これほどあからさまに嫌悪感を示したのは初めて。 どうやら、真理奈が彼の心に占める位置は、相当なもののようだ。 指先が震えたが、結局、美緒は動かず、ただしゃがみ込んで、自分が十月十日かけて産んだこの子を見つめる。 「あの誕生日プレゼントは、必ず開けてね。それが……私が最後にあなたのために用意する、あなたを喜ばせるプレゼントだから」 悠希は今、真理奈のことで頭がいっぱいで、母が何を言ったかなど気にも留めない。 顔をそむけ、冷たく鼻を鳴らす。 「くだらないプレゼントなんて、欲しくないね。 真理奈おばちゃんから離れてくれるのが、僕にとって一番のプレゼントだよ!」 美緒は軽く笑い、もう答えない。 その願いはもうすぐ叶うよ。 一時間後、荷物を持って空港に着いた。 【福山(ふくやま)さん、今日のプールサイドの監視カメラの映像を、旦那様に送っておいてください】 執事の福山に最後のメッセージを送り、その後、携帯のSIMカードを取り出し、へし折ってゴミ箱に捨てた。 飛行機が雲の上へと飛び立つ瞬間、金色の陽光が全身を柔らかな光で包み込む。 美緒は心からの笑みを浮かべる。 辰彦、悠希、「杉山夫人」と「母親」の座はもういらない。 そして、美緒としての人生を歩み始める。 これから、二度と会うことはない。