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取り返しのできない道のり
「長谷川さん、検査の結果、あなたは不妊症ではありません」 医者の口にしたその言葉は、鋭い刃のように長谷川夏子の胸を貫き、その場に立ち尽...
Chương (1)
第1章
「長谷川さん、検査の結果、あなたは不妊症ではありません」
医者の口にしたその言葉は、鋭い刃のように長谷川夏子の胸を貫き、その場に立ち尽くすしかなかった。
彼女はバッグから過去の健康診断書をすべて取り出し、医者に差し出した。
「そんなはずはありません。ずっと白野財閥傘下の私立病院で定期的に検査を受けてきたのです……」
医者はきっぱりと言った。「誤診か、あるいは検査結果の取り違えでしょう」
彼女は慌てて、ラベルのない薬瓶を取り出した。「これ、見ていただけますか?何の薬でしょうか?」
医者は錠剤を砕いて匂いを嗅ぎ、「複合型レボノルゲストレル錠ですね」と答えた。
夏子はわずかな医学知識から、すぐにすべてを悟った。
彼女が長年服用していたのは、栄養補助剤などではなく、長期的な避妊薬だったのだ。しかし、ここ数年ずっと彼女に薬を処方していたのは道則のかかりつけ医であり、そんな初歩的なミスが起こるはずがない。
ある疑念が頭をよぎった瞬間、夏子は茫然とした。
そんなはずはない。
結婚してからの数年間、道則は彼女に本当によくしてくれた。五年前に彼女が不妊と診断されたとき、道則は彼女を慰めただけでなく、施設へ連れて行き、男の子を養子に迎えて白野明(しらの あきら)と名付けた。
実の子のように愛情を注いで育てていた。
子どもが大好きな道則が、どうしてわざと彼女に避妊薬を飲ませるようなことをするだろうか。
夏子は検査報告書を手に、疑念を抱えたまま家に戻った。ちょうどドアに手をかけたそのとき、中から声が聞こえてきた。
それは白野家のかかりつけ医の声だった。「社長、奥様の薬はこのまま続けさせますか?」夏子の手が宙で止まった。
第1話
「長谷川さん、検査の結果、あなたは不妊症ではありません」
医者の口にしたその言葉は、鋭い刃のように長谷川夏子(はせがわ なつこ)の胸を貫き、その場に立ち尽くすしかなかった。
彼女はバッグから過去の健康診断書をすべて取り出し、医者に差し出した。
「そんなはずはありません。ずっと白野財閥傘下の私立病院で定期的に検査を受けてきたのです……」
医者はきっぱりと言った。「誤診か、あるいは検査結果の取り違えでしょう」
彼女は慌てて、ラベルのない薬瓶を取り出した。「これ、見ていただけますか?何の薬でしょうか?」
医者は錠剤を砕いて匂いを嗅ぎ、「複合型レボノルゲストレル錠ですね」と答えた。
夏子はわずかな医学知識から、すぐにすべてを悟った。
彼女が長年服用していたのは、栄養補助剤などではなく、長期的な避妊薬だったのだ。しかし、ここ数年ずっと彼女に薬を処方していたのは道則のかかりつけ医であり、そんな初歩的なミスが起こるはずがない。
ある疑念が頭をよぎった瞬間、夏子は茫然とした。
そんなはずはない。
結婚してからの数年間、白野道則(しらの みちのり)は彼女に本当によくしてくれた。五年前に彼女が不妊と診断されたとき、道則は彼女を慰めただけでなく、施設へ連れて行き、男の子を養子に迎えて白野明(しらの あきら)と名付けた。
実の子のように愛情を注いで育てていた。
子どもが大好きな道則が、どうしてわざと彼女に避妊薬を飲ませるようなことをするだろうか。
夏子は検査報告書を手に、疑念を抱えたまま家に戻った。ちょうどドアに手をかけたそのとき、中から声が聞こえてきた。
それは白野家のかかりつけ医の声だった。「社長、奥様の薬はこのまま続けさせますか?」夏子の手が宙で止まった。
しばらくして、道則の低く沈んだ声が響いた。
「俺が薬をやめろと言ったか?そのまま続けろ。ただし、気づかれないように慎重にな」
かかりつけ医が警告した。「薬は毒にもなります。このまま飲み続ければ、奥様は本当に子どもを産めなくなるかもしれません。それでもよろしいのですか……」
道則は目を伏せ、しばらく沈黙した後、口を開いた。「夏子に、自分は子どもを産めないと思い込ませるしかない。そうすれば明が正々堂々と白野家にいられる。
何と言っても、自分の息子だ。このまま隠し子にしておこうと思うのは、無理だ」
夏子の胸を締めつけていた不安が、一気に崩れ落ちた。
全身の血の気が引き、足元が崩れて階段から転げ落ちた。
その時、家政婦が明を連れて庭から戻ってきて、地面に倒れている夏子を見つけた。明は大声で笑いながら彼女を指さし、「バカな女だな!このブス!」と罵った。
夏子は心から愛してきた息子を見つめながら、身体の痛みよりも心の痛みのほうがずっと辛い。
心の奥に抱えていたいくつかの疑問も、この瞬間にすべてが明らかになった。
この五年間、どれだけ心を尽くしても、明は彼女に懐こうとはしなかった。
それどころか、道則とは本当の親子のように親しくしていた。
今思えば、「本当のように」ではなく、彼らは最初から本当の親子だったのだ!
そして、自分こそが部外者だった。
道則は物音に気づいて出てくると、顔色を変えて急いで夏子を抱き上げ、家の中へと運んだ。
「夏子、どうして転んだんだ?橋本先生、早く妻の怪我を診てくれ」
橋本(はしもと)先生は丁寧に診察し、「奥様の膝の傷は、大した傷ではありませんよ。ちょっとした擦り傷ですので、この薬を塗っておけばすぐに治ります」と言った。
道則はようやくほっと息をついた。
彼女の頭を優しく撫でながら言った。「ほんっとに、お前は俺がいないと、平らな道でも転ぶんだからな。気が抜けてんのか?」
夏子の目に映る彼の瞳には、打算のかけらもなく、あるのはただ愛情と心配だけだった。
さっきの話は、もしかしたら錯覚だったのでは、そうさえ思えた。
周囲の誰もが絶賛する理想の夫、完璧な男が、どうして自分を傷つけるはずがあるだろうか。
夏子は道則の手を握り、何かを尋ねようと口を開いた。
「道則、私……」
しかし道則はその言葉を遮った。「薬、そろそろ切れる頃だな?橋本先生が新しいのを出してくれたから、ちゃんと時間を守って飲んでくれよ」
橋本先生は彼女に薬の瓶を手渡した。見慣れたパッケージと薬の匂い。
すべてが現実だった。強い精神的ショックを受け、夏子は道則の腕の中で意識を失った。
第2話
夢の中で、夏子は、自分が妊娠できないと知らされたあの頃へと戻っていた。
彼女は幼い頃から児童養護施設で育ち、家庭を築き、夫を支えて、子どもを育てることが最大の夢だった。
その夢が絶たれた彼女は、部屋に閉じこもり、飲まず食わずで、ついには手首を切って自殺を図った。
そんな彼女を救ったのは道則だった。施錠されたドアを蹴破り、瀕死の彼女を病院へ運んだのだ。
それ以来、道則は片時も離れず、彼女のそばに寄り添い続けた。
彼は何度も彼女に語りかけた。「俺が愛しているのはお前自身だ。子どもを産めるかどうかなんて関係ない」
白野家の両親はこの出来事を知ると、密かに離婚協議書を用意した。
道則の母親の京子(きょうこ)は毅然とした態度で言い放った。「白野家は、役立たずを養うつもりはないわ。二十億円の手切れ金で、残りの人生を贅沢三昧に暮らせばいいじゃない。白野家を出てください」
道則も彼女を庇いながら言った。「なら夏子と一緒に出て行く。俺のことをまだ息子だと思っているのか?」
今思えば、あの深い愛情の裏には、すべて偽りが潜んでいた。
彼女が目を覚ましたとき、部屋はがらんとしており、道則と明の姿はどこにもいない。
夏子は起き上がって階下へ降り、どうして道則が自分を騙したのか、直接聞こうとした。
しかし、半開きの書斎の扉の隙間から、親子が仲睦まじく語り合う光景が目に入った。
明は甘えるように言った。「パパ、いつママに会いに行けるの?僕、すごく会いたいんだ」
夏子には理解できなかった。自分は家にいるのに、なぜ明はそんなことを言うのか?
次の瞬間、道則がその答えを彼女に告げた。「毎月9日にお母さんに会いに行くって約束したでしょ?明日が9日なんだから、もう一日だけ我慢しようね」
明は不満そうに口をとがらせて、「やだやだ、今すぐママに会いに行きたい!」
道則は声をひそめるように合図して、「明、いい子にして。もし夏子お母さんに俺たちの秘密がバレたら、もうお母さんに会いに行けなくなるよ」
明は慌てて口を押さえた。
道則は彼の頭を撫でながら、「それから、家ではお母さんって呼ぶんだよ。バカな女なんて言っちゃダメ」
9日?
毎月9日、彼ら三人は白野家の本家に戻って夕食を共にすることが慣例となっている。
まさか明の実の母親が白野家の本家にいるのか?
でも白野家の本家には道則の両親と、妹の白野玲子(しらの れいこ)しかいないはずだけど。そう考えると、思考が追いつくのに少し遅れて、夏子の背筋が凍るような寒気が走った。
それ以上考えるのが怖くてたまらなかった。
兄と妹……
検査のために朝からずっと何も口にしておらず、水さえ飲んでいない。
そのせいで、今、胃酸が激しく分泌されている。
彼女は口を押さえてトイレに駆け込み、吐いたのはすべて酸っぱい胃液だった。
道則は物音を聞いて駆けつけた。「どうして裸足で歩いてるんだ?風邪ひくぞ?」
そう言いながら、彼はしゃがみ込んで綿のスリッパを履かせてくれた。
夏子は手で涙を拭ったが、次の瞬間にはまた涙があふれ出た。
道則の目に一瞬、不安そうな色が浮かんだ。「夏子、いったい何があったんだ?」
夏子はぱっと顔を上げて彼を見据えた。その淀みなく美しい顔の奥に、心の闇は潜んでいないかと探ろうとした。
明のふっくらとした大きな顔が彼の背後からひょいと現れた。「このバカ女、階段から落ちて頭でも打ったんじゃないか?」
道則はすぐに顔をしかめて叱りつけた。「無礼だ、お母さんと呼びなさい!」
明はしぶしぶ「お母さん」と口にした。
夏子は胸が締めつけられるように痛んだ。
この前、明が高熱を出してなかなか下がらなかったとき、彼女は一晩中彼を抱いて寄り添い、細かく看病していた。
この五年間の母子の情は、結局、報われなかったのだ。
道則が彼女の肩を揺らした。「夏子?」
夏子は我に返った。この親子は本当に恩知らずだと思った。
「さっき行方不明者支援組織から電話があって、実の両親を見つけるのは難しいって言われたの。それでちょっと落ち込んでたの」
道則は彼女を思いやって抱きしめた。「大丈夫だよ、夏子。俺がお前の家族だ。白野家がお前の家なんだ」
第3話
その晩、夏子は道則が熟睡している隙にバルコニーに出た。
彼女は国際電話をかけた。
「こんにちは、長谷川夏子です」
電話の向こうからは喜びに満ちた声が返ってきた。「私たちのかわいい娘!やっと電話してくれたのね」
夏子は淡々と告げた。「あなたたちと一緒に海外で暮らすことに決めました」
実際に行方不明者支援組織から連絡があったのは、半月前のことだった。
彼女の実の両親と連絡が取れたという知らせだった。
スタッフの話では、実の両親は十数年前にイギスタンへ移住したが、これまでずっと彼女を探し続けており、今は一緒にイギスタンで暮らしたいと願っている。
その時の彼女は、愛する夫と子どもを置いていくことができず、涙をこらえてその申し出を断ったのだった。今では、もう未練はない。
電話の向こうで、夏子の母親がすぐに答えた。「手続きは弁護士に依頼して、できるだけ早く進めていく。遅くとも月末までにはグリーンカードを届けると思う」
月末まで、あと十日間。
国内のことを整理するには十分な時間だ。
「わかった。十日後に会いましょう」
道則はぼんやりと目を覚まし、いつものように隣に手を伸ばしたが、そこには誰もいなかった。
シーツが冷たい。
彼は一気に目を覚ました。「夏子、夏子?」
夏子は電話を切り、バルコニーから戻ってきた。
道則はベッドから飛び起き、彼女を強く抱きしめた。「どこに行ってたんだ?すごく心配したんだぞ」
夏子は彼の背中を優しく叩いてなだめた。「ちょっとバルコニーで風に当たってただけよ。そんなに慌ててどうしたの?」
道則は声を落として彼女の肩に顔を埋めながら呟いた。「これからは、何の前触れもなくいなくならないでくれ。さっき、本当に胸が痛んだ。お前が俺のもとを離れてしまったのかと思った」
夏子は微笑んで言った。「私たちはこんなに愛し合ってるのに、どうして私があなたから離れると思うの?ね?ただし……」
彼女は少しの間を置いた。
道則が尋ねた。「ただし、何?」
夏子は彼をそっと引き離して言った。「ただし、あなたが私を騙したり、傷つけたりしたらね」
道則は少し気まずそうにして、慌てて話題を変えた。
「明日は本家に戻る日だけど、お前が行きたくないなら、俺は……」
毎月白野家の本家に行くことは、夏子にとっていつも悪夢のようなものだった。
道則の父の達朗(たつろう)は彼女に一度も優しい態度を見せたことがなく、京子はさらに冷たく皮肉を浴びせた。
それに、あの妹は表向きは親しげに接してくるが、実際にはいつも彼女の痛いところを突いてくる。
夏子は繰り返し願っていた。道則が明を連れて本家に帰り、自分だけは家に残ると。
道則はいつも辛抱強く彼女の苛立ちをなだめ、ときには前日に本家へ戻って、両親に夏子を困らせないよう頼んでくれた。
そのことに、彼女はどれほど感謝していたことか。
彼を困らせたくなかったから、本家でどれだけ嫌なことを言われようが、全部自分の中に収めて、我慢してきた。
夏子はきっぱりと言った。「私、行くわ」
道則の困惑した視線を受け止めながら、夏子は説明した。
「あなたを板挟みにしたくないの。だって子供を産めないのは私なんだもの。白野家には、本当に申し訳なく思っている」
彼女は「子どもを産めない」という言葉にわざと力を込めて、道則の反応を試した。道則は感情を込めて彼女の手を握った。「夏子、これはお前のせいじゃないよ。そんなに自分を責めないで。ほら、今は俺たち三人で楽しく過ごしてるじゃないか?」
二人だろう。彼女はただの他人だから。
夏子はうなずいて、「寝ましょう」と言った。
第4話
翌朝早く、明はきちんと身支度を整え、夏子を急かした。
「不器用でのろい。爺ちゃんと婆ちゃんに会いに行くんだから、早く早く」
夏子は相変わらずマイペースで化粧をし、服をきちんとコーディネートしてから出かけた。
車は白野家の本家の庭に静かに停まり、京子が満面の笑みで駆け寄って明を抱きしめた。
「まあまあ、うちの可愛い明が、なんだか痩せちゃってる。誰かにいじめられてるんじゃないの?」
そう言いながら、視線を夏子に向けた。
道則は慌てて間に入り、「橋本先生によると、明の血中脂質が少し高いので、食事はあっさりしたものにしたほうがいいようだ」と説明した。
すると京子は不満そうに言った。「こんな小さい子は今が成長期なのに、肉を食べないなんてダメよ。さあ、ばあちゃんがお肉を沢山食べさせるからね」
道則は夏子の肩を抱き寄せ、「あまり深く考えるな。母さんも明のことを思ってくれたんだ」と言った。
夏子は最初こそ戸惑っていた。明は白野家の血を引いていないのに、どうしてあんなに可愛がっているのかと。
実は、明はもともと道則の隠し子だったのか。
玲子が腰をくねらせながら現れ、「お兄ちゃん、夏子さん、お帰り」と挨拶した。
道則は冷たく「うん」とだけ返したが、視線は彼女の白くあらわになった胸元にさまよっていた。
二人はまるで周囲に誰もいないかのように目配せを交わしており、夏子はこれまでそのことにまったく気づいていなかった。
家族の集まりのたびに、京子は家政婦を休ませ、夏子一人に台所仕事を押しつけた。下ごしらえ、調理、皿洗いまで。
夏子は息つく間もなく立ち働きながら、彼女の冷たい嫌味にも耐えなければならない。
「ちっちっ、卵も産めないメンドリなんて、うちの田舎じゃ煮て食べるのが当たり前よ。
女なんて、子を産めないならせいぜい料理でもしていればいいのよ」
その頃道則はたいてい二階の寝室でビデオ会議をしており、玲子の姿も見当たらない。
夏子はこのとき初めて気づいた。京子はわざと二人に密会の機会を与えていたのだ。
今回も例外ではなく、夏子は台所で野菜の下ごしらえをさせられている。
道則と玲子は相次いで二階へ上がり、京子は明を連れて庭で遊んでいる。
夏子は足音を忍ばせて二階の客間にあるバルコニーへ向かった。
そこは玲子の寝室とつながっており、部屋の様子を一望できる。
道則は発情した獣のように玲子を押し倒した。
彼は片手でベルトを外し、もう一方の手を玲子の服の裾の中へと滑り込ませた。「ベイビー、会いたくてたまらなかったよ!」
玲子はわざとらしく身を引きながら、「ちょっと、夏子さんに聞かれたらどうするのよ?」と囁いた。
道則は背を丸め、低くうめき声をあげた。
「何を怖がってる?母さんがちゃんとカバーしてくれるさ。だって彼女、いつも二、三時間は手が離せないんだから」
覚悟はしていたものの、実際にこの光景を目の当たりにすると、夏子は目眩がするような衝撃を受けた。
部屋の中ではなおも行為が続いていた。道則は下にいる「妹」に激しく腰を打ちつけていた。
玲子は悔しさを滲ませながら口を開いた。「道則、私はいったいいつになったら、ちゃんとした白野家の奥様になれるの?息子までがよそ者を母親だなんて……」
道則は全身の力を使って動きながら、玲子の柔らかな体を両手で揉んでいた。
「お前が養女として迎えられたことなんて他の人が知らないんだ。みんな俺たちを実の兄妹だと思ってる。もしお前を娶ったら、両親の顔が立たないだろう?
明を白野家の息子として認められた。お前は贅沢三昧の暮らしをしている。それでもまだ文句があるのか?」
玲子はまさか白野家の実の娘ではなかったのか。
二人が同時にあえぎ声を上げると、道則は力尽きたように玲子の上に崩れ落ちた。
「それでも、どうしてあの時、妹の私のベッドに這い上がり、明まで産ませたの?」
玲子は悔しさに涙を拭いながら言った。「私たちは一生、こんなふうに隠れて生きるしかないの?私は一体、何なの?」
道則は最初は優しくなだめていたが、次第に苛立ちを見せ始めた。
「警告しておく。白野家の正妻は夏子だけだ。お前が大人しくしていれば、白野家が一生お前に贅沢な暮らしを保証してやる。
だが、勝手な真似をしたり、夏子に手を出したりすれば、容赦しないぞ」
玲子は甘えるように再び彼にしがみついた。「だって、ずっとお兄ちゃんと一緒にいたいんだもん」
道則の欲望が再び燃え上がり、彼女を押し倒した。
耳を覆いたくなるような声が絶え間なく夏子の耳に届く。彼女は壁にもたれながらゆっくりとしゃがみ込み、目が熱く痛んだ。
これが、彼女が十年近くも愛し続けた男の正体だった。その男は、彼女の目を盗んで、義理の妹と不倫関係を結んでいた。
そして、隠し子まで産んだ。
第5話
料理がテーブルに運ばれてくるまで、道則と玲子はなかなか離れようとしなかった。
道則は夏子の隣に座り、豚の角煮をそっと彼女の皿に取り分けながら、「お疲れさま、夏子」と声をかけた。
玲子は嫉妬を隠さずに言った。「夏子さんは本当に幸せね。私なんて、ずっと一人ぼっちよ」
夏子は、テーブルの下で玲子の足が道則の足に絡みつき、彼のスラックスの裾の間を擦り上げているのを目撃した。
その瞬間、夏子には皿の中の豚の角煮が生臭くて脂っこく感じられ、黙って端に寄せた。
明は玲子にぴったりとくっついて、「おばちゃん」と何度も呼びかけた。
「おばちゃん、お肉食べて!」
「おばちゃん、お寿司食べて!」
夏子は冷ややかな目でその様子を見つめながら、何気なく口を開いた。「明と玲子、本当に親子みたいに仲がいいわね」
この一言で、食卓は水を打ったように静まり返った。
道則は顔をしかめて言った。「夏子、何を馬鹿なことを言っているんだ?」
夏子は笑みを浮かべて言った。「冗談よ。そんなに真に受けないでよ。本気にしたみたいな反応ね」
食事が終わる頃には、それぞれが胸に思惑を抱えていた。
食後はいつものように、白野家恒例の「子孫への訓戒」の時間となった。
京子は夏子から差し出されたお茶を受け取り、一口すすった。
「女にとって一番の失敗って、何かわかる?」
夏子は手を下げて脇に立ち、「夫の家のために子を産めないことです」と答えた。
京子は満足そうにうなずいた。「少しは自覚があるようね。あの時、道則が取りなしてくれなかったら、あなたは白野家に残れなかったでしょうね」
夏子が京子の話を遮った。「だから私は感激の涙を流し、明を大切にして、義理の両親に孝行しなければならないのですね?」
京子は言葉に詰まった。「もういいわ、帰ってちょうだい」
夏子は無表情のままリビングに戻った。道則は父親に書斎へ呼ばれたまま、まだ戻っていない。
リビングでは玲子が明と一緒にテレビを見ていた。
玲子は両手を胸の前で組み、「あら、今日はずいぶん早くお説教が終わったのね?お母さんも年を取って、気が弱くなったのか?家に卵を産まない雌鶏がいても、我慢できるようになったなんてね」
明は彼女の袖を引っ張って、「ねえ、おばちゃん、卵を産まない雌鶏ってなに?」と聞いた。
玲子は何気なく夏子を指さして、「ほら、ああいう人のことよ」
夏子が抗議しようと前に進み出たとき、玲子は彼女の背後をちらりと見た。次の瞬間、前に歩み寄ってくるかと思うと、そのまま真っ直ぐ後ろに倒れた。
玲子の手のひらがちょうど大理石のティーテーブルの鋭い縁にかすめ、血がにじむ長い傷ができた。
道則は素早く駆け寄り、呆然としている夏子を押しのけて、玲子を抱き上げた。
「玲子、大丈夫か?」
玲子は泣きながら悔しそうに訴えた。「私はただ、夏子さんにお母さんの言葉を気にしないでって慰めたかっただけなのに、どうして私に当たるの、うう……」
道則は怒りのこもった目で夏子を睨みつけた。「玲子は善意で言っただけだろ。お前はなぜそんなに攻撃的になったんだ?子どもを産めないのは事実だし、母さんが少し小言を言うのもお前のためだ」
その言葉は鋭い刃のように、夏子の心に深く突き刺さった。
彼女は聞きたかった――自分は本当に産めないのか?それとも、彼が産ませたくなかったのだろうか?
しかし結局、口を開いたものの、言葉は喉に詰まったままだった。
明は手に持っていたおもちゃを夏子に投げつけた。「この悪い女!おばさんをいじめるな!」
夏子は避けず、鋼製のウルトラマンが彼女の額に激しくぶつかった。
目まいがした。
道則がぼんやりと玲子を抱えて外へ出ていき、ひと言だけ残した。
「自分で仏壇に行って跪いてろ」
バタンと音を立てて扉が閉まり、夏子は額から温かいものが流れ落ちるのを感じた。
手を伸ばして触れると、それは血だった。
彼女は袖口で乱雑に拭い、白野家の本家の仏壇へと向かった。
仏壇には白野家の歴代の先祖様の位牌が並んでいる。
道則と結婚して以来、夏子は京子にさまざまな理由で何度も跪かされてきた。手に持っていた携帯が震え、玲子からGIF画像が送られてきた。
道則が心配そうな顔で彼女の傷を手当てし、そっと息を吹きかけている。
続けてメッセージが届く。【夏子さん、兄がどれだけ私を大事にしてるか見てよ。時々、我慢できず、伝えたかったのよ。実は私と兄……】
それ以上、メッセージは送られてこなかった。
これが玲子の狡さだ。
彼女はほんの二言三言で、道則と夏子の関係に楔を打ち込み、言いかけてやめることで、巧みに夏子の好奇心を煽った。
白野家の奥様になりたいだけでしょう?
なら、望み通りにしてあげる。
夏子は玄関にあったほうきを手に取り、白野家の仏壇をめちゃくちゃに叩き壊した。
最後に、彼女は仏壇の中央に立ち、倒れかけた白野家の先祖の位牌を見渡した。「道則のような人間のクズを育てたお前たちも、まともじゃない!」
第6話
夏子が病院で額の傷の手当てを終えて家に戻ったときには、すでに深夜になっていた。
別荘の中は真っ暗で、道則も明もまだ帰っていなかった。
そのほうが都合がいい。離れる前にいくつか片付けておきたいことがあるからだ。
道則は、交際中も結婚後も、夏子に対して惜しみなく与えてくれた。
100㎡のクローゼットは、物でぎっしりと埋め尽くされていた。
世界最高級のジュエリー、限定版の靴やバッグ、数えきれないほどのオートクチュールドレス。
以前は、夏子は道則の気前の良さを愛情の表れだと思っていた。だが今になって、それが罪悪感からくるものだったと気づいた。
売れるものはすべてフリマアプリに出品し、売上金はそのまま児童養護施設に送金した。
部屋の隅には、埃をかぶった段ボール箱がひとつあった。
中には、道則と夏子が恋人だった頃の甘い思い出が詰まっていた。学生時代、道則が夏子に書いたラブレターは、なんと365通にも及んだ。
彼は丸一年、夏子をひたむきに想い続け、毎日欠かさず手紙を書き続けた。
当時、夏子の友人たちは道則のことを夏子の熱心な郵便配達人と冗談まじりに呼んでいた。
夏子はその中の一通を取り出して開封した。古びた紙とインクからは、かび臭い匂いが立ちのぼり、目に染みて涙が出るほどだった。
夏子は段ボール箱を売れ残りのガラクタと一緒に庭へ運び出し、ワインセラーから道則が大切にしていたロマネ・コンティ1990を一本取り出した。
彼女は、世界にわずか8本しか残っていないとされるこの赤ワインの半分を、燃やそうとしているものの上に注ぎ、火をつけた。
炎が立ち上る中、彼女はボトルを手に取り、残りのワインを飲み干した。
アルコールが喉を通って体内に流れ込み、焼けつくような熱さが広がった。十年の青春と恋も、わずか十分で灰と化した。
風が吹き抜けると、何もなくなり、ただの灰白色の灰の跡しか残らなかった。
彼女は庭のブランコに腰掛け、日の出を待ちながら酒を飲んでいた。
空がほのかに明るみ始めた頃、道則が戻ってきた。
彼は玲子の傷の手当てが済んだら、夏子を探しに行くつもりだった。
しかし玲子に引き止められ、「傷が痛む」とか「怖くてめまいがする」と訴えられた。
病院で一晩中振り回され、ようやく玲子を寝かしつけた。
道則はまず実家に電話をかけると、京子が夏子は昨夜出て行ったと伝えた。
彼は帰る途中ずっと夏子に電話をかけ続けたが、応答はなかった。
道則は焦燥感に駆られながら急いで戻り、胸の不安はますます募っていった。車がまだ完全に停まらないうちに飛び降り、ひと目で夏子がブランコに寄りかかって眠っているのを見つけた。
足元には倒れたボトルが散乱している。
道則はほっと息をつき、ボトルを手に取って見た。
本気で怒っていたようだ。彼の秘蔵の世界最高級ワインを飲み干していた。
彼は上着を脱ぎ、彼女の痩せた体にそっとかけてやってから、しゃがみ込んで熟睡している夏子を見つめた。
彼女はすっかり痩せたようだ。かつてのふっくらした顔はほっそりとして、手のひらにすっぽり収まりそうな大きさだ。
もしかすると橋本先生の言っていた通り、服用している薬が多少なりとも体に悪影響を与えているのかもしれない。
額にはなぜか包帯が包まれている。
もしかして昨日、明が投げたおもちゃが当たったのだろうか?
あの子は本当に手に負えない。京子に甘やかされて、わがまま放題だ。
今では明も白野家に戻っているし、たとえ夏子が子どもを産んでも、何の問題も起こらないだろう。そろそろ、夏子との子どもを作ってもいい頃だ。
彼は彼女のバッグからあの避妊薬の瓶を取り出し、さりげなく服のポケットにしまった。
長年、彼女は白野家で満たされない日々を過ごしてきた。道則は、自分が結婚のときの約束を思い出した。
「夏子、俺は必ずお前を幸せにする。自由に生きられるようにしてやる。約束する」
彼は、その約束を必ず果たすつもりだ。
第7話
夏子が目を覚ましたとき、道則は袖をまくり、散らかった庭を掃除していた。
彼女は静かに彼のそばへ歩み寄り、立ち止まって言った。「ごめんね、あなたの赤ワインを何本か飲んじゃったの」
道則は驚いて振り返り、彼女を抱きしめた。
「ワインくらいどうでもいいさ。お前が喜んでくれるなら、全部割れても構わないよ。
ごめん、夏子。昨日はあんなひどいことを言うべきじゃなかった。俺も焦ってたんだ。母さんが、玲子がお前のせいで怪我したって知ったら、またお前を責めるんじゃないかって……」
本当に?
夏子が責められるのを恐れていたのか、それとも明の実の母親に何かあったら困ると思ったのか?
夏子はもう白野家の複雑な関係をはっきりさせようとは思わない。どうせもうすぐこの泥沼から抜け出すのだから。
「うん、私は大丈夫。牧野先生に会いに行きたい」
牧野(まきの)先生は児童養護施設の園長だ。
道則は彼女をそっと抱き寄せて言った。「よし、それじゃあもう一度チャリティー資金を追加して、お前の名義で児童養護施設に寄付しよう。俺なりの償いのつもりだけど、いいかな?」
夏子は微笑んで答えた。「もういいの、既に寄付したわ」
彼女はさっき、昨日中古品販売サイトに出品した品々を確認していたが、一晩で全て売り切れていた。
総額で十億円、児童養護施設の改修と増築には十分な金額だ。
道則はそれ以上は言わず、地面の灰を見つめて尋ねた。
「この灰は何?何か燃やしたのか?」
「ただのいらないゴミよ」
道則はアシスタントに指示を出し、トラック一台分の寄付品を児童養護施設に届けさせた。夏子は牧野先生に別れを告げに来た。
今回イギスタンへ行ったら、もう二度と戻って来られないかもしれない。
牧野先生はその言葉を聞いて顔色を変えた。「もしかして、白野さんに何か酷いことされたの?」
夏子はうつむいたまま、黙っていた。
牧野先生はため息をついて言った。「いい子ね、安心して行きなさい。私のことなど心配しなくていいわ」
道則は寄付品を降ろし終えて近づいてきた。「どこへ行くの?」
夏子は牧野先生と目を合わせて話題をそらした。
「子どもたちにプレゼントを届けに行くの」
道則は夏子の手を取り、「じゃあ、俺も一緒に行くよ」
三人がちょうど出発しようとしたそのとき、一台の車が目の前に停まった。
玲子はシャネルのスーツを身にまとい、ヴァレンティノのピンヒールを履いて車から降りてきた。彼女は腰をくねらせながら、わざと首のサファイアのネックレスに触れた。
「どうしてチャリティーに私を誘ってくれなかったの?私、こういう善いことをするのが一番好きなのに」
玲子は夏子を押しのけて、道則の腕に絡みついた。
道則は後ろにいる夏子や牧野先生のことなど忘れたかのように、玲子を支えながらそのまま前へ進んでいった。
「まだケガが治ってないのに、勝手に出歩いて。母さんに知られたら、また責められるぞ」
玲子は体を半分道則に預け、甘えるように言った。「今朝、お兄ちゃんが予約してくれたサファイアのジュエリーが届いた瞬間、もうどこも痛くなくなっちゃった。ありがとう、お兄ちゃん!」
そう言って、周囲を気にすることもなくつま先立ちになり、道則の頬にキスをした。
道則は顔を曇らせ、慌てて彼女を突き放した。「何してるんだ!?」
玲子は気にも留めずに口をすぼめ、振り返って笑いながら夏子に尋ねた。
「夏子さん、気にしないでしょ?」
夏子は目を伏せて、「ご自由に」と答えた。
昼食時、夏子は児童養護施設の子どもたちと一緒に食事をすることになった。
道則はどうしても付き添うと言い張った。彼には夏子の様子がどこかおかしく感じられたのだ。
玲子も「お腹すいた!」と騒ぎ出した。
児童養護施設の食事はどれも質素だが、夏子は子どもの頃から慣れ親しんでいるため、特に気にしなかった。
一方で玲子は文句ばかり言っていた。
「ちょっと、これ何?野菜の根っこ?こんなの人間が食べるものなの?
夏子さん、ほんとに何でも食べられるのね。こんな豚のエサみたいなものまで?」
夏子はさすがに我慢できずに口を開こうとしたが、牧野先生に引き止められた。その時、玲子の向かいに座っていた女の子がテーブルの端を回って彼女の前に来ると、茶碗と箸を片付け始めた。
玲子はすぐに立ち上がり、「あんた、何してるのよ、このガキ!」と怒鳴った。
女の子は無邪気な表情で彼女を見つめ、「だって、私たちのご飯は豚のエサだと言ってたでしょ?じゃあ、食べなきゃいいじゃん。ブスのくせに文句ばっかり言ってさ」と言い返した。
その場にいた全員がこらえきれずに大笑いした。
玲子は怒りで顔を真っ赤にし、「この躾の悪い野良犬!」と吐き捨てた。
そう言うなり、なんと片足を振り上げ、女の子を勢いよく蹴り飛ばした。
「きゃっ!」
まだ六、七歳の女の子が、尖ったハイヒールの一撃に耐えられるはずもなかった。
彼女は地面に倒れ、苦しそうにお腹を押さえてうずくまった。
「玲子!」
夏子はついに我慢の限界に達し、彼女の前に駆け寄ると腕を振り上げ、平手打ちをしようとした。道則は突然立ち上がり、夏子の手首をつかんで、険しい表情を浮かべた。
「夏子、落ち着いてちゃんと話そう。お前は玲子の義姉だろう?どうして身内を差し置いて他人の肩を持つんだ?」
第8話
夏子はまったくの他人を見るような目で道則を見つめた。
玲子は彼の背後に隠れながら顎をしゃくり上げ、次の瞬間、風を切る勢いでその平手が夏子の頬を打った。
パチン!
その一撃に道則も呆気に取られた。
夏子の顔は横に弾かれ、口の中に血の味が広がった。
彼女は道則の腕を振りほどき、床に倒れていた少女を抱き上げ、優しくあやした。
そして顔を上げ、冷たい目で玲子をにらみつけた。「出て行って。さもないと警察を呼ぶわよ」
道則が前に出ようとすると、玲子が彼の腕をつかんで引き止めた。
「出て行くわよ。誰がこんなみすぼらしい場所にいたいもんか」
道則はため息をついた。「じゃあ、俺たちは先に行くよ。少し頭を冷やしてくれ。お前は白野家の嫁なんだ。俺たちは家族なんだから。孤児のことで雰囲気を悪くするなんて、割に合わないぞ」
そして、わざとらしく玲子を数言叱った。
夏子は、ただ心がひどく冷え込むのを感じていた。
道則は忘れていたのだ。彼女自身もかつては孤児だったことを。
夏子は身支度を整えた少女を牧野先生に預け、振り返って一束の書類を道則に手渡した。
「これは今日届いた寄付品のリスト。署名してから行ってください」
道則はそれを受け取り、玲子に急かされるまま慌ただしく署名した。
その中に離婚協議書が含まれていることには、まったく気づかなかった。
思えば、夏子は京子に感謝すべきかもしれない。
当時、道則との離婚を強く迫られた際、白野家は即時効力を持つ離婚協議書を用意していた。
そして道則がその書類に署名した瞬間、夏子はもはや道則の妻でも、白野家の嫁でもなくなったのだった。
再び目を上げると、道則の目には後ろめたさがにじんでいた。「橋本先生を呼ばせる。治療費はすべて白野財閥が負担する」
「必要ないわ。彼女はただの孤児よ。白野財閥の名に泥を塗らないで」
道則は言葉に詰まり、とりあえず玲子を本家へ送り届けることにした。
道中、彼は苛立った様子で言った。「子供相手に本気になるなんて、どうかしてるぞ」
玲子は口を尖らせて言った。「向こうが先に意地悪をしてきたのよ。児童養護施設で育った子に礼儀なんて期待できないでしょ?」
道則は鋭い視線を向けた。「そんなこと言うな。夏子も児童養護施設で育ったんだから」
玲子は気にも留めず、目をくるりと回した。
道則は苛立ちを抑えきれずに言った。「これから明はお前のそばに置いておく。お前たちはもう夏子に関わるな!忘れないで、彼女が名実ともに白野家の正妻よ」
玲子の目に悔しさがにじむ。「そうね、私なんか夏子には到底敵わないわ。ただ白野家の長男を、命がけで産んだだけ。難産で死ぬかもしれないリスクを背負ってね」
そう言ってすすり泣きを始め、胸元が上下に揺れている。
片手でわざとスカートの裾をめくり、レースの縁取りがついた黒のストッキングを見せた。
道則は喉を鳴らし、急ブレーキが路肩に停車する。
彼は助手席を倒し、玲子を押し倒した。
「心は夏子にあっても、体はこうしてお前のもとにあるじゃないか」
夏子が帰宅途中、玲子からメッセージが届く。
【可哀想なふりをすれば男の同情が買えるとでも思ってるの?子供も産めない白野家の奥様が、その座にいつまでいられるかしらね?】
一緒に送られてきたのは、一本の動画だった。
真っ暗な車内で、男女が絡み合い、耳を塞ぎたくなるような荒い息遣いが響いていた。
「お兄ちゃん、私と夏子、どっちとするのが好き?」
道則はかすれた声で答えた。「あいつは退屈だ。お前みたいに淫らじゃないしな」
夏子は胸が締めつけられるような苦しさに耐えながら、かすむ視界のまま玲子のメッセージに返信した。
【道則も白野奥さんの肩書きも、もういらない。ゴミが好きなら、拾って持っていけばいい】
送信した直後、移民局から電話がかかってきた。
「夏子様でしょうか?手続きはすべて完了しております。いつでもイギスタンへご出発いただけます。どうぞ、ご快適な旅をお楽しみください」