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愛への裏切りは許せない
新年間近に、小林千秋(こばやし ちあき)は衝撃を受けた。三年間付き合っていた彼氏の浮気が発覚した。 彼が浮気をしたなら、私は別の人に乗...
Chương (1)
第1章
新年間近に、小林千秋(こばやし ちあき)は衝撃を受けた。三年間付き合っていた彼氏の浮気が発覚した。
彼が浮気をしたなら、私は別の人に乗り換えるだけだ!
第1話
「あなた、三年付き合っている彼氏がいるんじゃなかった?今年は彼を親に紹介するって言ってたのに、どうして彼氏をオーダーメイドなんてするの?」
小林千秋(こばやし ちあき)は手すりにもたれかかり、淡々とした声で答えた。
「別れたの」
電話の向こうの女性は少し驚いたようだったが、ほんの一瞬間を置いただけで、冗談めかして言った。
「大丈夫、うちの会社は『オーダーメイド彼氏』業のプロだから。男なんて腐るほどいるし、タイプも選び放題。半月待てば、丁度いい感じの男たちの社員研修が上がる頃よ」
千秋は顔を上げた。
ドローンで描かれた巨大なバラが、今も空に咲き誇っている。
しばらくして、彼女は小さく答えた。
「わかった」
その言葉が終わらないうちに、背後から慌ただしい足音が聞こえてきた。
千秋は小声で何かを呟くと、電話を切った。
彼女は振り返った。
池田昴(いけだ すばる)の姿が視界に入る。あの傲慢さを帯びた顔には、焦りの色が濃く浮かんでいる。
「千秋、どこに行ったの?出かける時は一言、言ってくれよ。何度も探したんだ……見つからなくて、本当に心配したんだから」
昴はそう言いながら、自分の上着を脱いで千秋に羽織らせた。
「今は寒いのに、上着も着ていないなんて。風邪をひいたらどうするんだ」
最後のボタンを留め終えると、彼は立ち上がり、千秋の鼻先を指で軽くつついて、優しく言った。
「よし、これで俺の千秋はもう寒くないな」
千秋が顔を上げると、まっすぐに愛情のこもったその瞳とぶつかった。隠すことも、偽ることもないまなざし。
だが、裏切りだけは紛れもなく現実なのだ。
昴は再び千秋の手を取り、自分の手の中に包み込み、温めるようにそっと擦った。「そういえば、さっき何かを探してるって言ってたけど、俺も一緒に探そうか?」
彼女は表情を変えず、そっと手を引き抜き、淡々と答えた。
「たいしたことじゃないわ。親友の飼い犬がいなくなったので、探してるの」
昴はわずかに眉をひそめた。
「静江って、犬を飼ってなかったはずだろ?」
千秋は顔を上げ、静かな目で昴を見つめた。
「私が言ってるのは静江のことじゃないわ。それに……」
一旦言葉を切ると、また聞き返した。
「どうして、彼女が犬を飼ってないって知ってるの?」
その言葉が出たとたん、空気がぴたりと止まった。
昴は千秋の肩を抱く腕に力を込め、そして小さく笑った。
「忘れたのか?先週、俺たち二人で彼女の引っ越しを手伝ったばかりだろ。家に犬がいるかどうかなんて、わかってるじゃないか」
もうこれ以上この話を続けたくないようで、昴は千秋を個室へと押し戻した。
「ほら、千秋。今日はサンクスギビングデーなんだし、関係のない人やことに時間を取られたくないよ。俺、嫉妬しちゃうからね」
歩く間中、昴は身をかがめて千秋に優しく話しかけていた。
その背後から、クラブのスタッフたちのひそひそ話が千秋の耳にかすかに届く。
「小林さんがいるところでは、池田さんと会話するのは無理だって言われてるけど、今日でよくわかったわ。まさに愛妻家そのものね」
「私も聞いたことあるよ。去年、小林さんが崖の上に咲く花がきれいって言っただけで、池田さんは何も言わずに装備を整えて一人で崖を登ったんだって。降りるときに足を滑らせて、危うく命を落としかけたのに、その手にはしっかりその花を握ってたらしいよ……」
聞いているうちに、千秋はふっと笑みをこぼした。その笑みには、どこか自嘲めいた色と、ほんの少しの寂しさが混じっていた。
誰もが、昴が彼女を愛していると知っている。彼女自身も、かつてはそう信じていたのだ。
池田家の次男坊として生まれた昴には、思うままに生きるだけの余裕がある。
酒を飲み、喧嘩をし、恋人を作る──どれも忙しくて手が回らないほどだった。
だが、千秋と出会ってからすべてが変わった。
ドラ息子だった彼が、まるで別人のようにおとなしくなり、酒もほどほどに、喧嘩など考えられず、近づこうとする女性がいれば追い払われる。
それからというもの、彼の世界の中心は千秋だけになった。彼女のために料理を覚え、彼女の小さな感情の揺れにも気づくようになった。
彼の交友関係もすべて彼女を中心に、周囲から恋愛バカと軽蔑されても、昴は怒ることなく、にこにこと「好きでやってるんだ」と笑って答えたのだ。
千秋が彼を受け入れるきっかけとなったのは、彼女が山で足止めされた、あの事故の夜だった。
土砂降りの中で、岩肌を伝う雨水が激しく流れ落ちている。
夜は深まり、雨はますます強くなるばかり。千秋の胸中には、不安が募っていった。
そして、その時――一筋の灯りが現れた。
昴は全身ずぶ濡れで、泥のついたズボンが重たそうだった。来る途中で何度転んだのかも分からないほどの姿だった。
彼は千秋を見つけると、安心させるように柔らかく微笑み、静かに言った。
「千秋、怖がらないで。俺が来たよ」
その瞬間、千秋は自分の鼓動がはっきりと聞こえた。
――彼のために。
その日から、彼女は昴の恋人になった。
昴は涙を流しながら彼女を抱きしめ、声を震わせて、これからは大切にすると誓った。
それほどまでに千秋を愛していた昴だったが、彼は彼女の親友と関係を持ってしまった。
恋人と親友という立場を利用し、二人は堂々と千秋の目の前で後ろめたいことをしていたのだ。
そのことを知ったとき、千秋は深く傷つき、怒り、泣き、そして彼らに、どうしてこんなことをしたのと、問い詰めに行こうとまで思った。
だが、ホテルの入口まで来たところで、彼女はふと足を止めた。
ろくでもない人間なんて、捨てればいい。どうしてそんな人たちのために、自分をみじめにしなければならないのか。
「千秋?千秋?」
昴が千秋の目の前で手をひらひらと振った。
千秋は我に返る。
「え?なんて言ったの?」
昴は笑って言った。
「ご両親はどんなものが好き?お前の家で年越しをするのは初めてだし、ご両親にいい印象を持ってもらわないとな」
千秋は淡々とした声で言った。
「なんでもいいわ」
どうせ彼に会うことはないのだから。
第2話
個室に入ると、昴は袖をまくり上げてそのまま厨房へ向かった。しばらくして戻ってきたとき、手にはお皿を持っていた。
「ホットケーキができたよ!」
彼はケーキを千秋の前にそっと置き、フォークを差し出して、機嫌を取るように言った。
「千秋、味見してみて。どうかな?」
千秋はホットケーキを見つめ、少しぼんやりとした表情を浮かべた。
香り高く、色合いもはっきりとしたそのケーキは、最初のころのように黒く焦げたりしてはいない。
そう思いながら、彼女はふと口を開いた。
「ねえ、人もケーキみたいに変わっていくものなのかな?」
昴はどこか様子のおかしい千秋を見て、慌ててケーキをテーブルに置き、膝をついて彼女の前にしゃがみ込んだ。
「千秋、何かあったの?」
手がそっと握られ、千秋が顔を伏せると、心配そうな彼の瞳がまっすぐに見つめ返していた。
「さっき……カップルが言い争っているのを見たの。理由は……」
千秋は目を閉じ、胸の奥に渦巻く感情を必死に押し殺した。再び目を開けたとき、その瞳は澄みきっている。
「男の方が浮気したの。
彼は口では彼女を愛していると言いながら、陰では裏切っていた。付き合ってまだ数年しか経っていないのに、彼は周りから恋愛バカだと言われるほど彼女に夢中だったのに……それでも心変わりしたの」
そう言いながら、千秋は視線を落とし、昴の顔をじっと見つめた。まるでその心の奥を見透かそうとするように。
「昴、男の人ってみんな変わってしまうの?」
昴のまつげがかすかに震えた。次の瞬間、彼は千秋の両手を自分の胸にそっと当て、真摯な声で言った。
「違うよ、千秋。約束する。俺は絶対に心変わりしない。この先どんなことがあっても、愛するのはお前だけだ」
「私だけを愛してるの?」
「そうだよ、俺はお前だけを愛してる。もし俺が……」
「お邪魔しまーす?」
個室のドアが突然開いた。
ワインレッドのキャミソールワンピースを着た女が、艶やかに笑いながら中へ入ってくる。
その声が響いた瞬間、千秋は昴の体がわずかにこわばるのをはっきりと見かけた。
河野静江(かわの しずえ)はまっすぐ千秋の隣に腰を下ろした。彼女が座るやいなや、昴は気まずそうに立ち上がり、軽く咳払いをした。
「えっと、千秋、急に思い出したけど、まだ折り返してない電話があってさ……ちょっと外でかけてくる」
そう言って彼は背を向け、足早に部屋を出ていった。
ドアが閉まった途端、こちらでは静江のスマホが何度か続けて鳴った。
静江はスマホを一瞥し、抑えきれない笑みを唇に浮かべながら、千秋に申し訳なさそうに言った。
「千秋、ごめんなさいね!ちょっと用事を思い出しちゃって、また今度連絡するわ!」
そう言うと、静江は千秋の反応も気にせず、個室を出ていった。歩きながらバッグから小さな鏡を取り出し、口紅を塗り直した。
千秋は閉まったドアを見つめ、唇を軽く結んだあと、立ち上がって彼女の後を追った。
トイレの個室の中。
昴の目には冷たい光が宿っていた。
「誰が来ていいと言った?俺は前にも言ったはずだ、これからは千秋の前にあまり姿を見せるなって」
静江は昴の胸元から喉仏へと指先を滑らせながら、艶やかに囁いた。
「ただね、新しく買った下着をあなたに見せたかっただけよ。嫌いなら……もう帰るわ。
きゃっ!」
女の悲鳴とともに、トイレの仕切り扉が激しくぶつかる音が響いた。
次の瞬間、女の荒い息づかいと男の低い唸り声が入り混じる。
「んっ……あぁ!や、優しく……して……もう、無理……」
「もう限界か?限界でも我慢しろ!」
千秋は服の裾をぎゅっと握りしめ、これ以上聞くのが限界だった。彼女はただ本能的にその場から逃げ出した。
一方、トイレの中の二人はなおも絡み合っていた。
「今日はサンクスギビングデーなのに……ずっと千秋と一緒にいて……うん……別荘を贈ったり、ケーキまで作ってあげたりして……でも私は、あんなにお願いしたのに、一度も会ってくれなかったじゃない……」
昴の荒い息が次第に激しくなり、彼は静江の腰を強く掴んで、最後の力を抜いた。
数秒ほど息を整えた後、彼は立ち上がり、眉をひそめて静江を見下ろした。
「お前が千秋と比べものになると思うのか?彼女は俺が愛している人だ。
そんな言葉、もう二度とお前の口から聞きたくない。おとなしく言うことを聞け。さもなければ、俺たちはこれで終わりだ」
静江は昴の体を拭いていた手を止め、裸のまま彼の腰に腕を回して、悲しげに言った。
「別にわざと逆らっているわけじゃないの。ただ、あなたを愛しすぎるばかりに……好きな人が他の女性のことを想ってるなんて、考えるだけで胸が苦しくなってしまうの」
昴は目を伏せ、静江を一瞥した。
「明日、牧野(まきの)のところへ行っておけ。お前にも別荘を一軒用意した」
静江はその言葉を聞くと、顔をぱっと明るくし、昴に抱きついて軽くキスをした。
「ありがとう、昴。やっぱりあなたの心の中には、まだ私がいるのね!」
昴は静江の顎を指で掴んで、目を細めて警告するように言った。
「よく覚えておけ。千秋にぜったいにバレるな。俺は彼女を愛している。彼女なしでは生きていけない。もし彼女が去ったら、俺は生き地獄を味わうことになる」
そう言い終えると、昴は静江の乱れた口紅に目を留め、再び唇を重ねた。
千秋は一人で個室に座り、何を考えているのか自分でもわからないまま、冷めきったホットケーキをぼんやりと見つめていた。
昴が戻ってきたとき、目にしたのはその光景だった。
彼の胸がぎゅっと締めつけられ、慌てて千秋を抱き寄せ、痛ましげな声で語りかけた。
「千秋、どうしたの?一人で退屈だろう?全部俺が悪いな、お前を一人にしてしまって」
どこか甘く混じり合った香りが鼻をかすめる。
千秋はようやく我に返り、電流が走ったように立ち上がって、彼の腕の中から身を引いた。
「もう……帰ろう!」
昴は彼女が疲れているのだと思い、優しく微笑んだ。
「はいはい。お家に帰ろう。千秋の言葉は絶対だもん。俺がすぐにお嬢様をお家までお送りいたします」
第3話
その夜、千秋はほとんど眠れなかった。
階下では、少女の声に不満が滲んでいた。
「お兄ちゃん、もうお昼なのに、あの女まだ起きてこないの?」
「やめなさい。なんて言い方をするんだ。あの女じゃない、お義姉さんと呼びなさい」
昴の顔には不機嫌な色が浮かんでいた。
「橙子よ、今日はっきり言っておく。これからもそんな態度を続けるなら、もうここへは来ないでくれ」
その言葉を聞くや否や、妹の池田橙子(いけだ とうこ)は怒りをあらわにして立ち上がり、昴を指差した。
「昴、あなた、あの男たらしのために……」
パシン——
鋭い音が部屋に響いた。
「もういい」
昴の瞳には怒りの色が宿っていた。
「橙子、俺はお前を甘やかしすぎたようだ。千秋は俺が心から愛する人だ。俺でさえ彼女に強い言葉をかけることはないのに、お前はよくもそんな口をきくな。いったい何を考えているんだ?
本気で俺と兄妹の縁を切るつもり!?」
周囲の空気が一気に重くなった。
誰も、いつも妹を甘やかしていた昴が手を上げるとは思ってもみなかった。
階段の踊り場に立つ千秋は、進むことも退くこともできずに立ち尽くしていた。
最初に彼女に気づいたのは橙子だった。
この状況では、千秋はもう立ち去ることもできない。
橙子は打たれた右頬を押さえながら言った。
「千秋、私はあんたを義姉さんなんて絶対に認めないから!」
千秋は何事もなかったように階段を下りた。
「うん、分かったわ」
彼女は手を上げて執事を呼びつけ、自分の好物をいくつか言い渡し、できるだけ早く用意するように頼んだ。少しお腹が空いていたのだ。
その落ち着き払った千秋の様子を見て、昴の胸にふと不安がよぎった。
彼はそっと彼女の手を取り、慎重に尋ねた。
「千秋……怒ってるのか?」
千秋はふっと笑みを浮かべ、首を横に振った。
「いいえ」
以前の彼女なら、橙子のきつい言葉を聞けば少なからず傷つき、ましてや平然と食事などできなかっただろう。
だが、それもすべて橙子という身分ゆえのことだった。
今では、彼女と昴は別れることになっている。そんな今となっては、もう自分には関係のないことだ。
千秋が静かであればあるほど、昴の胸のざわめきは増していった。さらに問いかけようとしたその時、使用人が突然近づいてきた。
「若様……」使用人は千秋に一瞥をして、昴に小声で告げた。
「外に女性の方がいらして、お選びの品をただいまお持ちしましたが、すぐにお受け取りいただけないと、お渡しできないそうです」
「俺は……」
言いかけたところで、昴は何かを思い出したように目を見開いた。
その瞳に一瞬、迷いの色がよぎり、やがて彼は千秋の手をそっと離した。「千秋、ちょっと急用ができた。お前は先に食事をしていてくれ、俺を待たなくていい」
そう言い残すと、昴は千秋の返事を待たずに足早にドアの外へ向かった。
昴が出て行くと同時に、橙子は途端に遠慮がなくなった。さっき頬を打たれた痛みがまだ残っている。
彼女は歯ぎしりしながら千秋をにらみつけた。
「ねえ千秋、あんたも図々しいわね。まるでここが自分の家みたいにして。
いったいどんな色仕掛けを使って、兄を惑わせたの?それとも、あんたには何か特別な才能でもあるのかしら?
あらら、拳を握って、怒ったの?やれるもんなら殴ってみなさいよ!もちろん、兄に告げ口してもいいけど、告げたところでどうなると思う?まさか兄が、あんたみたいなよそ者のために、私と仲違いするでも思ってるのか?夢見るのはやめなさいよ」
千秋はもともと少し低血糖気味で、今はさらに体がつらかった。立ち去ろうとしたが、橙子に行く手を塞がれた。
池田家の使用人たちは皆、頭を下げて何も見なかったふりをしている。
橙子がどれほど長く罵り続けたのかも分からないほどだった。
やがて昴が戻ってくると、罵声はぴたりと止んだ。
千秋はこめかみを押さえ、少し疲れた声で言った。「テーブルの上のチョコレート、取ってもらえる?」
しかし、そばにいる人は何の反応も示さなかった。
昴の目尻がふと緩んだ。何かの余韻に浸るような表情を浮かべる。
その様子を見て、千秋は唇をかすかに結び、それ以上呼びかけるのをやめ、自分で無理をしてチョコレートを取ろうと手を伸ばした。
千秋の腕がうっかり昴に触れたとき、ようやく彼は我に返った。
「千秋、何か取るなら言ってくれればいいのに。俺が取ってあげるよ!」
千秋が口を開こうとしたその瞬間、昴の上着のポケットから、黒いレースの細い布が少し覗いているのが視界にとらえられた。その先端には、コンドームのパッケージが引っかかっていた。
――ということは、さっき彼は静江に会いに行っていたのか。しかも二人は、まさか……
そんなに我慢できないの?
二人が初めて関係を持ったとき、昴の手はひどく震えていた。
そのとき千秋は冗談めかして言った。「いつも女遊びが激しいお坊ちゃまのくせに、まるで童貞みたいね」
彼はこう答えたのだ。「千秋、信じるかどうかはお前次第だけど、お前以外の女には触れたことがない。外の女なんて、汚らしくて嫌なんだ」
――汚らしくて、ね。よく言ったものだ。汚いと思う相手と、平然と寝られるなんて。
千秋は鼻の奥がじんと痛んだ。「呼んだら、聞こえるの?」とつぶやいた。
昴は「どうして聞こえないなんてことがある?」と言いかけて、千秋の少し赤くなった目元に気づいた。
彼は慌てて千秋を抱きしめ、背中をそっと撫でた。
「千秋、どうしたの?俺、何か間違えた?それとも橙子がまた何か言ったの?ごめん、ごめんね、千秋」
昴の腕の中で、強い香水の臭いが千秋の鼻を襲った。
息をするたびに、その香りは刃のように胸を貫き、胸の奥が張り裂けそうに痛んだ。
第4話
外は次第に暗くなり、いつの間にか小雨が降り始めていた。
千秋は窓辺に立ち、どこか物寂しげで孤独な雰囲気を漂わせていた。
昴がどんなに工夫して彼女を笑わせようとしても、千秋の表情は相変わらず沈んだままだった。
昴は、もしかして彼女が体調を崩しているのではと心配になり、すぐにかかりつけ医を呼び寄せた。
念入りな診察の結果、特に異常はないとわかり、彼はようやく胸をなで下ろした。
あれこれ考えた末、昴は原因を橙子にあると判断した。
彼は表情を引き締め、使用人たちに今後橙子を屋敷に入れないよう厳しく命じた。
それらを済ませたあと、昴は千秋をなだめて昼寝をさせた。
ゴロゴロ――
閃光と同時に、雷鳴が轟いた。
千秋は驚いて飛び起き、時計に目をやり、立ち上がって階下へ向かった。
階段の踊り場に差しかかったそのとき、右手の休憩スペースから響いた悲鳴に足を止めた。
彼女はゆっくりと歩み寄り、ガラス越しに見えたのは、目を覆いたくなるような光景だった。
昴は片手で静江の口を押さえ、もう一方の手で彼女の体をまさぐっている。
「そんなに大きな声を出すな、千秋は寝てるんだ」
静江は頭をのけぞらせ、昴の動きに合わせて脚を震わせながら、途切れ途切れに息を漏らした。
「ん……あっ……わ、わたし……もう我慢できない……お願い、少し……優しくして……言ったでしょ、雨宿りに……来ただけなのに、あなたが……その……あっ……」
昴の動きがさらに激しくなり、静江の言葉は喉の奥で途切れ、残ったのは本能的な吐息だけだった。
「雨宿りか?それにしては、ずいぶん挑発的な格好だな!」
静江は手を伸ばして昴の首に腕を回し、顔を上げてガラス越しに視線をやった。その瞬間、瞳孔がわずかに縮み、次いでに口角を上げて笑みを浮かべる。挑発的で、どこか嘲るような笑みだった。
「じゃあ、あなたはこういうのが好きなの?気に入らないなら、次はやめておくわね」
「そんなこと、許すと思うか!」
「んっ……や、やめて……」
千秋は爪が掌に食い込むほど拳を握りしめ、必死に自分を抑えて寝室へと戻った。
窓を開けると、冷たい雨が風に乗って容赦なく身体に打ちつけてくる。
去年も、ちょうどこんな天気だった。
薄着の少女が雨宿りを口実に昴のベッドに入り込もうとしたが、彼は人を呼んでそのまま追い出させたのだった。
彼は電話をかけて千秋を呼びつけ、少女に向かって言った。
「見たか?俺にはちゃんと家族がいるんだ。次にまたそんな無神経な真似をしたら、海崎市で生きていけなくなると思え」
少女を叱りつけたあと、彼は機嫌を取るように千秋の前に身を寄せた。
「千秋、安心して。俺はちゃんと男としての節度を守るよ。あの女たちは本当に何を考えてるのか分からない。くだらないことばかりして、俺はそんなの全然好きじゃないんだ」
千秋には、そのときの昴が本当に嫌いだったのか分からなかった。
しかし今では、彼が死ぬほど好きなようだ。
服はすっかり濡れ、冷たさが骨の髄まで染み込んでいく。
千秋は窓を閉め、そしてシャワーを浴びた。
それから彼女はもう外に出ず、部屋の中でただ静かに座っていた。
灯りもつけず、闇の中でじっと。昴が部屋に入ったとき、思わず息をのんだ。
廊下の明かりを頼りに、ベッドの端に座る千秋の姿が目に入った。
灯りをつけると、彼はそっと近づき、子どもをあやすように彼女の前にしゃがみ込んだ。
「どうして明かりをつけないの、千秋?雷の音に驚いたのかな。大丈夫、大丈夫だよ。
そうだ、見て。お前に見せるものがあるんだ」
昴は背後から一冊のアルバムを取り出し、ベッドの上に置いて開いた。
中には、昴と千秋の写真ばかりが並んでいる。
千秋の表情がどこかぼんやりしているのを見て、彼はそっと彼女を抱きしめ、その手を包み込みながら、一枚一枚ページをめくっていった。
「これは俺が自分の手で作ったんだ。俺とお前の生活の記録だよ。千秋、お前は俺の人生そのものなんだ。
これからは、きっと幸せにやっていけるさ」
千秋は目を伏せた。
これから先。
もう二人に先はないのだ。
ノックの音がして、執事がドアの前に立っていた。
「橙子さんがまたお見えです。こちらとしても無理にお帰りいただくわけにはいきません」
昴は千秋の髪に軽く口づけ、そっと慰めの言葉をかけてから立ち上がり、部屋を出て行った。
彼が出て間もなく、千秋の電話が鳴り響いた。「オーダーメイド彼氏」会社の白洲玲子(しらす れいこ)からだった。
「千秋、新しい彼氏が研修中なんだけど、早めに会ってみる?」
千秋が口を開こうとしたそのとき、ドアのほうから焦った声が響いた。
「彼氏って誰?」
第5話
千秋が顔を上げると、ミルクを手に慌ただしく歩いてくる昴の姿が目に入った。
大きく動いたせいでミルクが手にこぼれたが、彼は気にも留めず、ミルクを脇に置くと、緊張した面持ちで千秋の手を掴んだ。
「千秋、誰の彼氏に会おうとしてるんだ?」
そう言いながら、昴は彼女のスマホを覗き込もうとした。
その声が聞こえたのか、電話の相手はすでに通話を切っていた。
千秋は表情を変えずに、昴の手からスマホを取り返した。
「女友達よ。最近彼氏ができたって言うから、どんな人か見て意見を聞かせてって頼まれただけ」
昴はしばらく千秋を見つめた。
嘘の気配がまったくないのを確認すると、張り詰めた緊張がふっと解け、彼は彼女を強く抱き寄せた。
その声には、かすかな震えが混じっていた。「千秋、さっきは本当に心臓が止まるかと思ったよ……お前が俺に隠れてほかの男に会ってるんじゃないかって……」
千秋の視線が無意識に遠くへと逸れる。「ただ会うだけよ。どうしてそんなふうに思うの?それとも……あなたこそ私に隠して誰かと会っているの?」
「絶対にない!」
千秋の言葉を最後まで聞かせまいと、昴が強く抱きしめながら遮った。
「千秋、お前も知ってるだろ。俺の心にはお前しかいない」
少し考えてから、昴は千秋の体を自分のほうへ向け、不安そうにもう一度懇願するように言った。
「千秋、愛してる。本当に、心の底からお前を愛してる。お前のいない日々なんて想像もできない。ましてお前のそばにほかの男がいるなんて……俺、きっと狂ってしまう。千秋、お願い、どうか俺を捨てないでくれ」
熱を帯びた視線を受けながら、千秋はただ静かに微笑んだ。
「わかったわ」
その返事を聞いた昴は、何とも言えない感情に包まれ、胸の奥がひどくざわついた。
違う、何かがおかしい。
ここ最近の千秋の感情の揺れが、昴に言いようのない不安を抱かせていた。原因が分からず、彼はよりしっかりと彼女を見張るしかない。
それから数日間、昴は一歩も離れずに千秋のそばにいた。
だが、再び彼のスマホに絶え間なく電話とメッセージが届き始めたとき、画面を見ていた昴の瞳に、驚きの色が一瞬走った。
眠っている千秋を一瞥し、そっと毛布を掛け直すと、昴は静かに立ち上がり部屋を出た。
寝室のドアが閉まったその瞬間、千秋の瞳がゆっくりと開いた。ここ数日、昴は千秋のことをあまりにも気にかけすぎて、外出する時間さえなかった。
三十分後、千秋は車を降り、玲子に電話をかけようとしたその時、こちらへ歩いてくる二人の姿が目に入った。
彼女は慌ててバッグから帽子とマスクを取り出し、身につけた。
二人が彼女のそばを通り過ぎた瞬間、ちょうど信号が赤に変わった。
昴は静江を気遣うようにそっと支えながら立ち止まり、少し不満そうな声で言った。
「医者も言ってただろう、お前の体は弱いんだから、ちゃんと休まなきゃ。無理して歩き回って、疲れたらどうするんだ?」
「ふん、休もうが休むまいが関係ないでしょ。隠し子なんて、そんなに大事にされる資格はないもの」
「馬鹿なことを言うな!」
その言葉はまるで昴の痛いところを突いたようで、彼の表情が一瞬で冷たくなり、低い声で言った。
「隠し子だから何?この子は誰よりも劣らないんだよ」
さっきの言葉が言い過ぎだったと思ったのか、静江の目には涙がにじんでいた。
「昴、私はただ子どもがつらい思いをしないか心配なの。だって、あなたと千秋は今年、いよいよ結婚するでしょ?あなたが結婚してしまったら、私と子どもはどうすればいいの?
私たちを捨てるつもりなの?」
車が通り過ぎ、昴は険しい表情のまま静江を抱き寄せた。
「そんなことはしない。安心して子どもを産んでくれ。お前と子ども、二人のことは俺が守る」
信号が青になった。
周囲の人々は次々と歩き出したが、千秋だけはその場に立ち尽くしていた。
誰かが肩をぶつけてきても、彼女は反応しなかった。
その瞬間、彼女の頭に浮かんだ思いはただ一つだった。
静江が、妊娠している。
第6話
千秋はどうやって家に戻ったのか、自分でもよく覚えていなかった。寝室に閉じこもって、夕食の時間になって使用人が尋ねに来ても、お腹すいてないとだけ答えた。
真っ暗な部屋の中で、スマホの画面がふっと明るくなる。静江からのビデオ通話だ。
千秋は指がこわばったまま、わずかに動かし、ついに通話ボタンを押した。
画面の向こうで、スマホがどこかに置かれているようだ。映ったのは、マタニティドレスを着てソファに座る静江の姿。
ほどなくして、画面の端から男のズボンが映り込み、その上に昴の傲然とした顔が現れた。
執事が数人の若い女性を伴ってそばに立ち、「ご依頼の管理栄養士をお連れいたしました。どちらになさいますか」と口を開いた。
昴は顔を上げ、質問しようとしたその瞬間、静江が鼻で笑うのが聞こえ、彼は眉間に深いしわを寄せた。
「またどうした?」
「私がとやかく言えることじゃないわ。栄養士を探せば、みんな若くてきれいな子ばかりじゃない?だったら昴さん、いっそ全員雇えばどう?」
昴はさらに眉間にしわを寄せ、静江を抱き寄せながら執事に手で合図を送り、全員入れ替えるよう指示した。そして使用人たちに向かって言った。
「見たか?これからこの別荘のことは、彼女が決めるんだ」
千秋はスマホをぎゅっと握りしめ、言葉にできないような苦い感情が胸の奥で渦を巻いた。
もしかすると、昴自身はまだ気づいていない。自分の心が、すでに別の人に惹かれていることを。
彼女はぜひ昴にこの目で見てほしいと心から願った。彼のいわゆる「本心」というものは、いったい何人に分け与えられているというのかを。
千秋の瞳が涙で曇った。それでも彼女は震える指を伸ばして、録画ボタンを押した。
ベッドに寄りかかってそのまま床に滑り落ちると、目を閉じた瞬間、堪えていた涙が頬をつたった。
もうすぐだ。
もうすぐ、家に帰れる。
しばらくして。
録画中のビデオ通話が、玲子からの電話で中断された。彼女は、千秋が午後どうして来なかったのかを尋ねた。
千秋は手で目を覆い、数秒息を整えてから、午後は用事があったので明日行くと答えた。
昨日の約束を破ったこともあり、千秋は翌朝早くに家を出た。
カフェの中では、冷ややかな面差しの男が窓際に静かに座っていた。黒の仕立ての良いスーツを身にまとい、端正な輪郭とともに、気品と成熟を漂わせていた。
彼は指先で軽くテーブルを叩きながら、ときおり視線を窓の外へと向けている。
やがて――
「こんにちは」
千秋は約束の時間より十分も早く来ていたが、新しい彼氏が自分より先に到着しているとは思ってもみなかった。
その声を聞いた途端、男の背中がわずかに強張り、手の動きも止まった。彼は胸の奥の動揺を押し殺し、向かいに座る千秋に軽く頷いて言った。
「こんにちは」
千秋は黙って目の前の男を観察した。玲子が最上級の彼氏を用意してくれるとは思っていたが、ここまでとは想像していなかった。
彼女はカップの中のコーヒーをそっとかき混ぜながら、どんな研修内容なのか尋ねようとしたそのとき、男の低く響く落ち着いた声が届いた。
「小林さん、まず自己紹介をさせてください。俺は池田道程と申します。長男でして……」
その姓を耳にした瞬間、千秋はわずかに動きを止めた。だが、同じ姓の人間など珍しくもないと自分に言い聞かせ、特に気に留めなかった。
池田道程(いけだ みちのり)が自己紹介を終えると、今度は千秋に対して細かく質問を投げかけてきた。千秋はそこまで詳しく話す必要はないと思ったが、彼はそのほうが親に対しても現実味があるからと言って譲らなかった。
会話が一段落したころには、すでに昼近くになっている。千秋はスマホに目をやり、そろそろ時間だと告げて、後ほど、電話をかけると言った。
千秋はバッグを手に立ち上がったが、その瞬間、道程が彼女を呼び止めた。
「小林さん、LINEを交換しませんか?何しろ、今の俺は彼氏役でもあるわけですし、そうでしょうね」
千秋は断らなかった。ただ、承諾したあと、道程の口元にわずかに浮かんだ笑みには気づかなかった。
第7話
その後の数日間、昴は毎日早朝に出かけ、夜遅くに帰ってきた。千秋への説明は「最近とても忙しいから」だった。
では、いったい何に忙しいのか。
千秋は静江から送られてきた動画や写真でその答えを見た。
エプロンをつけた昴、子どもに物語を語る昴、そして静江に口づけをする昴――
千秋は穏やかな表情のまま、チャットの履歴を淡々とスクロールしていた。その瞳には、感情の揺らぎが一切なかった。
クリスマスイブの日、昴はようやく仕事を片づけた。池田家のしきたりでは、昼には一族が本家に集まり食事を共にすることになっている。
千秋が階下に降りたとき、昴はちょうどネクタイを締めているところだった。彼女はちらりと彼を一瞥し、すぐに視線をそらした。
その表情を見た昴の胸が、ふと痛んだ。笑みがこわばり、しばらく言葉が出てこなかった。
千秋は彼に対して、どこか冷たくなったように見えた。
その冷たさが、昴を不安にさせた。
かつては甘えたり拗ねたりしながら、いつも笑顔を絶やさなかった千秋が、今はまるで別人のように、疲れた表情で距離を置いている。
昴はいつものように千秋を抱きしめて慰めようとしたが、彼女はさりげなく身をかわした。
「もう時間よ。出かけたほうがいいわ」
そう言うと、背後の昴がどんな表情をしているかも気にせず、千秋はそのまま踵を返して去っていった。
外では時おり花火の音が響く。千秋はソファに腰を下ろし、スマホの画面に映る道程が早朝からの【メリークリスマス!】というメッセージを眺めていた。
あの日にLINEを交換して以来、道程はまるで本物の恋人のように振る舞い、時々連絡を寄こしては近況を報告したり、日常を共有したりしていた。
そのこともあって、千秋は玲子に電話をかけ、あなたの会社の社員は本当に優秀ねと褒めた。
玲子はそれを聞いても特に肯定も否定もせず、軽く笑って、千秋がそう思うなら、それでいいじゃないとだけ答えた。
メッセージウィンドウに通知が表示された。
【今、実家から戻ったところだ。毎年この時期は、仕事よりずっと疲れる】
千秋は道程から届いたそのメッセージを見つめ、どこか違和感を覚えた。何が引っかかるのか考える間もなく、玄関から聞こえてきた声に思考を遮られる。
昴が帰ってきたのだ。彼の後ろにはいつもの仲間たちがついており、千秋を見るなり口々に「千秋さん、こんにちは!」と明るく挨拶してきた。
「千秋さん、俺の贈り物です!」
「千秋さん、こっちを先に見てくださいよ。俺の方がいいもので、値段も高いんですよ!」
……
彼らは冗談を交わしながら笑い合い、夜まで賑やかに過ごした。
夕食後、昴は「お前ら独身ばかりだから、俺たちの二人の時間を邪魔しないでくれ」と言って追い出そうとした。しかし、誰も帰ろうとせず、どうしても一緒に花火をしようとせがまれた。
彼は千秋を連れて中庭へ向かった。
庭では催しが行われており、夜空いっぱいに壮大な花火が咲き誇っていた。
人々は昴の用意の見事さに感嘆の声をあげるが、千秋の心は少しも動かず、むしろどこか冷笑さえ浮かべていた。
三十分ほど経ったころ、昴が口元を押さえて軽く咳をした。その隣にいた白洲安生(しらす やすお)が、ふいに腕を叩いて言った。
「そうだ、昴!今夜、大事なイベントがあるじゃない。もう十一時だよ、早く行こう!」
他の数人も思い出したように慌てて昴を促したが、昴は首を振って断り、「千秋と一緒にいたいから行かない」と言った。
皆が困り果て、今度はすがるようにして千秋に助けを求めた。そして最終的に、昴を送り出す役目を引き受けたのは、他ならぬ千秋だった。
昴が去ったあと、千秋は余興を中止させ、使用人たちにはその夜の休みを与えた。
一時間ほどして、静江からビデオ通話が入った。
千秋は数秒間黙ったまま考えたが、結局通話を受けることにし、無意識のうちに録画ボタンを押した。
映像が目に飛び込んできた瞬間、彼女の瞳がかすかに震え、瞳孔が見開くように収縮した。
別荘の中では、昴が静江を腕に抱き、ソファに並んで座っていた。その傍らでは、彼の仲間たちが楽しそうに談笑している。
「なあ昴、俺たちの演技、なかなか良かっただろ?足を引っ張ってないよな?」
「ははっ、だって昴さんったら、奥さんには頭が上がらないんだからね。二番目の奥さんに会うのにコソコソやらなきゃいけない。昔は両方行き来してたけど、今じゃ子どもまでいるんだ、ますます大変だな」
その言葉を聞いた昴は、眉をわずかにひそめ、表情が一瞬で冷たくなった。
「何を馬鹿なことを言ってる。何が二番目の奥さんだよ、俺にとっては千秋だけが……」
「馬鹿なことじゃないよ」
その時、橙子がフルーツを持って歩み寄り、静江の腕に自分の腕を絡ませた。
「私は静江さんだけをお義姉さんとして認めてるの。しかも、赤ちゃんも聞いてるんだから、兄さん、言葉には気をつけてよ」
静江は自分のお腹を撫でながら、甘えた声で言った。
「まあまあ、赤ちゃんはまだ小さいんだし!ねえ、そろそろ花火を上げる時間じゃない?」
しばらくして足音が聞こえ、画面は途切れた。
ドン——
花火の音が響く。
千秋は外へ出た。
さっきとまったく同じ花火の光景が、再び夜空に広がっている。千秋はしばらく見つめているうちに、ふっと笑みをこぼした。
自分がまるで滑稽な存在のように思えたのだ。
花火の音が千秋の笑い声をかき消した。
彼女は笑いながら、その場にしゃがみ込んだ。
ぱた、ぱた。
水滴が地面を濡らしていく。
舞い散る雪が静かに降り積もり、どれほどの時が過ぎたかわからない。千秋はそのまま地面に崩れ落ちた。
薄手の服を着ていても、寒さは感じない。ただ静かにドアにもたれ、赤く滲んだ瞳で、死んだように空を見つめ続けている。
第8話
昴が深夜に戻ってきたとき、千秋はまだ玄関先に座っていた。彼女は固く目を閉じ、顔は異様なほど赤く染まっていた。
その姿を見た昴は、心臓が止まりそうなほど驚き、慌てて千秋を抱き上げて部屋へ運び、すぐにかかりつけ医を呼び寄せた。
意識が戻ると、千秋は重たいまぶたを少し持ち上げ、ゆっくりと目を開いた。
そばで見守っていた使用人が、ちょうどよいタイミングで水の入ったコップを差し出し、感極まったように声をかけた。
「小林さん、やっと目を覚まされましたね。このご病気で、若様は本当に気が気じゃなかったんですよ。丸一日中ずっとお傍にいて、さっき来客があってようやく席を外されたところです。すぐにお呼びしてきますね」
千秋は手を軽く振った。「呼ばなくていいわ」
千秋がそう言うと、使用人もそれ以上は言葉を続けられなかった。
彼女はしばらく息を整え、体を支えながらゆっくりとベッドから降りた。スマホはまだ階下にある。取りに行かなければと思い、足取りもおぼつかないまま廊下へ出ると、応接室のほうからかすかな声が聞こえてきた。
千秋はその声をたどって歩いていった。
半分開いたドアの向こうでは、昴が脚を組み、片手をソファの肘掛けに置き、指に煙草を挟んでいた。口元には笑みを浮かべ、気軽な調子で会話を続けている。
太陽はゆっくりと沈みかけていた。
夜十時になっても、応接室からの話し声は途切れなかった。誰かが外で一晩過ごそうと提案したらしいが、昴はすぐにそれを断り、「千秋はまだ病み上がりだから、自分が看病しなければ」と言った。
その隣にいた安生が小声で何かを言うと、昴の表情がわずかに変わり、しぶしぶ千秋のそばにいるのをやめる決心をした。
彼は自分に言い聞かせた。どうせ千秋はまだ病気で眠っているのだから、自分がそばにいても何の役にも立たない。早めに戻ってくればいい、と。
数人が笑いながら階下へ降りていった。
昴が出かけた後、千秋はこの二年間に彼から贈られた服やアクセサリーをすべて取り出し、慈善団体に電話をかけて、引き取りの日時を約束した。
夜の十一時、昴からメッセージが届いた。体調はどうか、今は外で用事があってしばらく帰れないから、大人しく休むように、と。
千秋は返信しなかった。彼女は荷造りをすべて終え、二人で使っていた小物をゴミ袋に入れ、翌朝使用人に捨てるよう頼んだ。
午前1時、昴から再びメッセージが届いた。そこには音声も添えられており、周囲が騒がしいのか、男と女のふざけ合う声が混じっていた。
酒を飲んだからなのか、彼は千秋に対して謝罪の言葉と愛情の言葉を繰り返していた。
千秋はそれでも返事をしなかった。彼女はUSBメモリを取り出し、ここ数日の動画と写真をすべて保存した。
USBメモリをベッドサイドテーブルに置くと、スーツケースを引いて階下へ降りた。
執事は、こんな夜更けにスーツケースを持って出ていく彼女を見て、慌てて駆け寄った。
「小林さん、こんな時間にどこかお急ぎですか?」
千秋はうなずいた。
「ええ、少し用事があるの」
執事は千秋の後を追いながら言った。
「それでしたら車を手配いたしましょうか?何しろこんな夜ですし、お一人で出かけるとなると、若様もご心配なさるでしょう」
昴が心配する?
彼に、もう彼女を心配する余裕などあるだろうか。
千秋は首を横に振った。
「いいえ、結構よ」
執事は千秋の強い態度を見て、それ以上は問いただせず、仕方なく昴に電話をかけた。
しかし何度かけても、相手は出なかった。
深夜の静寂の中、まばらな星が夜空に瞬いている。
千秋はタクシーに乗り込み、スマホの画面を見つめた。
そこには道程からのメッセージがいくつも並び、彼女を気遣う言葉や、返事をしなかったのは何かあったのかと問う内容ばかりだった。
少し考えた末、千秋は道程に電話をかけた。
「道程、お正月は私と一緒に実家に帰りましょう」
背後の別荘はどんどん小さくなり、やがて見えなくなっても、彼女はただ前を見つめ続け、一度も振り返らなかった……
まるでこれからの人生のように、過去の人も過去のことも捨てて、新しい未来へと進んでいく。