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偽りの花束、灰に帰す愛
「枝織、あなたは本当にこの契約書にサインするの? よく考えなさい。一度サインしたら、あなたは国外にいるこのALS(筋萎縮性側索硬化症)患者...
Chương (1)
第1章
「枝織、あなたは本当にこの契約書にサインするの?
よく考えなさい。一度サインしたら、あなたは国外にいるこのALS(筋萎縮性側索硬化症)患者さんの専属医になるのよ。七日後にはすぐ出発で、この数年間は帰国できない」
先輩である宮本綾香(みやもと あやか)は、理解に苦しむというように和泉枝織(いずみ しおり)を見つめ、その瞳には失望が満ちていた。
「それに、たった今聞いたわ。成景がALSと診断されたって。あなたはこの分野のトップクラスの人材であり、何より彼の妻でしょう。こんな時に彼のそばにいないで、国外へ行くなんて。少し薄情すぎるとは思わない?」
綾香の鋭い視線が枝織の心臓に突き刺さった。
全身が麻痺するほど痛かった。だが、枝織は唇を歪め、嘲りに満ちた笑みを浮かべた。
そして、枝織はきっぱりと契約書に署名し、綾香に別れを告げて家に戻った。
第1話
「枝織、あなたは本当にこの契約書にサインするの?
よく考えなさい。一度サインしたら、あなたは国外にいるこのALS(筋萎縮性側索硬化症)患者さんの専属医になるのよ。七日後にはすぐ出発で、この数年間は帰国できない」
先輩である宮本綾香(みやもと あやか)は、理解に苦しむというように和泉枝織(いずみ しおり)を見つめ、その瞳には失望が満ちていた。
「それに、たった今聞いたわ。成景がALSと診断されたって。あなたはこの分野のトップクラスの人材であり、何より彼の妻でしょう。こんな時に彼のそばにいないで、国外へ行くなんて。少し薄情すぎるとは思わない?」
綾香の鋭い視線が枝織の心臓に突き刺さった。
全身が麻痺するほど痛かった。だが、枝織は唇を歪め、嘲りに満ちた笑みを浮かべた。
そして、枝織はきっぱりと契約書に署名し、綾香に別れを告げて家に戻った。
なんて馬鹿げた話だろう。
おそらく世間の誰もが枝織を恩知らずだと思うに違いない。最も親しい先輩ですら理解できないのだから。
なにしろ、神谷成景(かみや しげかげ)がどれほど枝織によくしていたかは誰もが知るところだった。
海東市で女に湯水のように金を使う御曹司が枝織のために改心したのだ。
病院で一度見かけただけで、猛烈なアプローチが始まった。
枝織が勤めている病院と所属研究所の労働環境を改善するために巨額の資金を投じただけでなく、ALS患者のために「枝織」と名付けた慈善基金を設立し、毎年少なくとも二十億円を投じている。
それもひとえに功徳を積み、最愛の人が現世のみならず来世までも平穏無事であることを願っての行いだった。
当時、愛を信じていなかった枝織も成景によって徐々に心を解かされていった。
決定打となったのは病院で起きたある騒動だった。枝織をかばった成景は騒ぎの渦中にいた男に三度刺され、血まみれになったが、意識を取り戻した第一声で「怪我はないか?」と彼女に尋ねた。
その瞬間、枝織の心は完全に掴まれた。
二人はついに結ばれ、結婚という門出を迎えた。
結婚後も、二人は理想の夫婦という言葉をまさに体現したかのようであり、誰もが神に祝福された運命の二人だと信じて疑わなかった。
ある年の枝織の誕生日、成景は彼女の写真を街中の広告スクリーンに映し出し、無数の羨望の声を集めた。
「来世で神谷社長みたいな人と結婚できるなら、今すぐ死んでもいい!」
「あの二人、尊すぎ!和泉先生って、家族歴に羊水塞栓症があって出産リスクがすごく高いのに、それでも神谷さんのためにまさに命がけで息子の陽向君を産んだんだって!もう奇跡の愛よ!」
彼らはどれほど幸福な三人家族だったことか。
だが一週間前、枝織は息子の神谷陽向(かみや ひなた)の血液型がB型であることを偶然知ってしまった。
彼女も成景もA型だ。
A型の両親から、B型の子供が生まれるはずがない!
結婚して七年、枝織は初めて成景の尾行をした。
成景が別の女と陽向を一緒に抱きしめているのを見た時、枝織の胸は張り裂けそうだった。
彼女が心を込めて育ててきた息子がその女の頬にキスを落とした。「ママ、大好き!
パパはいつ枝織さんと離婚するの?あの人、僕に口うるさいんだ。もういらない!」
女が屈んで陽向の服を直した時、枝織はその顔をはっきりと見た。
途端に息が止まった。
その目元はぞっとするほど自分と似通っていた。
枝織は全身の血の気が引くのを感じた。胸に無数の棘が突き刺さるような痛みが走り、不吉な予感がこみ上げてきた。
じゃあ、自分の子は?
十月十日お腹で育て、死の淵をさまよって産んだあの子はどこに?
枝織は丸三日三晩かけて調べ、あの病院で当時、同時刻に生まれた二人の赤ん坊の記録を見つけた。
もう一人は娘だった。
そして、とうに夭折していた……
携帯の着信音が枝織の思考を中断させた。電話につながると、部長の声が聞こえた。
「和泉先生、成景さんはALSで確定診断が出たようです。時間がある時にでも、ご確認ください」
枝織は低い声で「わかりました」と応じた。
「俺の健康診断の結果かい?」
成景の声が不意に聞こえ、枝織は電話を握ったまま硬直した。
成景の手には一本の百合の花。
枝織が最も好きな花は百合で、それを知ってから毎日、成景は彼女に一本の百合の花を贈っていた。
知り合って一年、恋愛して二年、結婚して七年。
3千日以上、欠かしたことはなかった。
そのことを思い、枝織の目頭が赤くなった。まるで地獄に落ちたかのようだった。
成景は顔色を変えて慌てた。「枝織、どこか具合でも悪いのか?」
枝織は成景の青白い顔を見つめ、ゆっくりと疑問が湧き上がった。
これほど自分を愛し、心配してくれる人が別の女と体の関係を持つ?
何かの見間違いで、ただ夢を見ているだけじゃないの?
大丈夫、成景は今も変わらず自分を愛してくれている。陽向だって、変わらず自分の息子なんだから……
枝織はALSの診断書を握りしめ、成景に差し出した。「成景、まず私の話を……」
言い終わらないうちに、成景の携帯がブブッと震えた。
枝織は、画面の表示名が「陽菜」であることを見逃さなかった。
あの女だ!
成景は立ち上がり、枝織から離れて電話に出た。
向こう側と口論になっているようだった。すぐに、枝織の航空券予約アプリが通知音を鳴らした。
七日後の家族旅行。彼女の分の航空券だけがキャンセルされていた。
成景と陽向の分はそのまま残っていた。
成景が電話を切って戻ってきた時、その表情は不機嫌だった。
「枝織、七日後の旅行だがキャンセルになりそうだ……会社で急に重要な会議が入ってしまって」
だが枝織はそっと笑った。「平気よ。日程を変えればいいだけだから」
成景は自分の診断書を受け取ろうとした。「検査結果はどうだった?」
枝織は平静を装い、その診断書をベッドサイドの引き出しに戻し、何でもないように言った。
「とても健康よ、問題ないわ」
第2話
翌朝早く、成景と陽向はすでに姿を消していた。
枝織は成景のSNSに残された僅かな痕跡――不自然な「いいね」の履歴やフォローリストの隅々までを執拗にたどり、ついにあの女のアカウントを突き止めた。
あの女のハンドルネームも「陽菜」だった。
枝織は裏垢で相手をフォローし、通知をオンにした。案の定、その日の夜には、相手の新しい投稿がフィードに流れてきた。
三着のお揃いの親子コーデの写真。
そして、幸せそうなコメント。
【やっと旦那さんと息子と一緒に、島で親子コーデが着られる】
もともと、彼らの家族旅行の行き先はあの島だった。
おかしなことに、成景は今、自分だけを置き去りにして、あの女と息子を連れて行くつもりなのだろうか?
陽向は他人と同じ服を着るのを極端に嫌がった。枝織が何度頼んでも、彼は眉をしかめて拒否した。
だから、彼ら家族が親子コーデを着たことは一度もなかった。
庭で車の音が響き、枝織は回想から引き戻された。
「ママ」陽向が大人のように落ち着いた声で彼女を呼んだ。
傍らの車のドアが開き、ある女の白く細い脚が伸びてきた。あの写真で見た親子コーデを身に着けていた。
続いて、あの女の顔が枝織の目の前に現れた。
「こちらは安西先生」
陽向が紹介し終えると、相手は突然しゃがみ込み、彼の頬にキスをした。
その光景が枝織の胸を刺した。
陽向は他人にキスされるのが嫌いなはずだった。
だが陽向は拒否せず、むしろ唇を引き結び、少し照れくさそうに笑っていた。
陽菜はハイヒールの音を鳴らして歩み寄ると、枝織の目の前でぴたりと立ち、手を差し出してきた。
枝織は彼女の手に結婚指輪がはめられているのに気づいた。
枝織は目を伏せた。「奇遇ね。安西先生の結婚指輪、私のとそっくりだわ」
「そう?」陽菜は艶やかに微笑んだ。その笑みには得意気な色と意味深な響きが混じっていた。「この指輪、夫が特別に買ってくれたものなのよ」
枝織は結婚指輪を決めた時のことを覚えていた。デザインを決めたのは成景だった。
枝織はそうしたものに疎く、成景に任せると言った。
彼はカウンターに行くと、すぐにこのデザインを選んだ。
枝織は成景が結婚式に対して準備万端で、計画的だったのだと思っていた。だがまさか、妻である自分の結婚指輪でさえ、「ついで」だったとは。
「和泉先生、神谷社長から聞いた?しばらくお邪魔することになりそうよ」
その言葉に、枝織はわずかに固まった。
問いただす前に、一台のリンカーンがそばに停まった。
成景が車から降り、陽菜とは一線を画すように、すぐに枝織の腰を抱いた。
「安西先生、もう来てたんだ?」
成景は枝織に向き直り、説明した。「枝織、もうすぐ家族旅行だろう?陽向の勉強が遅れるのが心配でね。特別に安西先生に来てもらって、先に授業を進めてもらうことにしたんだ。
安西先生の住まいは遠いから、便宜上、この期間はうちに泊まってもらう」
陽菜はうっすらと笑みを浮かべ、枝織に向ける視線には隠しきれない挑発の色があった。
「和泉先生、まだ握手してくれてないわ」
枝織は手を伸ばし、陽菜の手を握った。
陽菜は眉を上げ、軽い声で言った。「初めまして、和泉先生。私の名前は……
安西陽菜(あんざい ひな)です」
枝織はその場で凍りついた。考えるより先に、無意識に口が開いていた。
「安西陽菜?」
陽向が寄ってきて、得意満面だった。「すごくいい名前でしょう?安西先生の名前、僕の『陽』の字と同じ漢字が入ってるんだ!」
枝織は素早く手を引いた。はっとしたように成景を見つめ、思わず思った。
息子の名前を付けた時、彼の心と目にはずっとこの隠された愛人の姿が映っていたの?
枝織は麻痺するほどの心痛を感じ、声もか細くなった。「ええ、とても素敵ね」
素敵すぎて、吐き気がした。
枝織はもう笑えなかった。彼女は素早く身を翻し、家の中へ向かった。
成景が心配そうに言った。「枝織、大丈夫か?」
成景が後を追ってこようとした時、陽菜が甘えた声を出した。「神谷社長、私の部屋はどちら?」
成景はためらいがちに枝織を見た。「枝織、先に安西先生を部屋に案内してくる。すぐに君のところへ行くから」
だが、成景が戻ってくることはなかった。
枝織は二階の窓辺に立ち、庭で陽菜が陽向のブランコに座り、成景が彼らを見つめているのを見ていた。
ブランコは陽向の一番のお気に入りだ。
それが設置されたばかりの頃、枝織がほんの少し腰掛けただけで、陽向は火がついたように泣き叫び、彼女をそこから追い払ったのだ。
「座らないで!これは僕のブランコだ!僕のブランコに座っちゃダメ!」
だが今、そこには陽菜が座り、陽向が彼女の背中を押していた。
二人はとても楽しそうに笑っていた。
その様子に、成景もまた穏やかに微笑んでいた。
彼らこそが、幸福な三人家族……
枝織はずっと深夜まで待っていた。
ようやく成景からメッセージが届いた。【枝織、ごめん。急な仕事が入って、まだ帰れそうにない】
枝織は再び陽菜のSNSアカウントを開いた。
ダイレクトメッセージのアイコンに、未読を知らせる青いマークがついた。
彼女は戸惑いながらトーク画面を開くと、陽菜からのメッセージが目に飛び込んできた。
【和泉先生、私のアカウントを覗き見するのって、刺激的じゃないかしら?】
第3話
枝織は恐怖のあまり、携帯を放り投げた。
だがすぐに、SNSの通知音が狂ったように鳴り響いた。
陽菜はさらに多くの動画や写真を送ってきた。
【和泉先生、あなたって一生気づかないかと思ってた。思ったほど愚かでもなかったのね】
【見たいなら、気が済むまでたっぷり見せてあげるわ】
トーク画面には、無数の陽菜と成景の親密な写真が並んだ。
成景が「会議だ」と言っていた時は陽菜と家庭料理を食べ、誕生日を祝っていた。
彼が「出張だ」と言っていた時は自分がずっと見たいと願っていたオーロラや雪山、高原を陽菜と見に行っていた。
彼は自分を愛してなどいなかったのだ。
彼は世間の目には、この世で最も自分を愛する男と映っていた。
だが、誰にも見えない片隅で、別の女を連れて、この世のあらゆるロマンチックなことをし尽くしていた。
なんと滑稽なことか!
息もできないほどの痛みに、ついに枝織の心は折れた。まるで自ら傷口に塩を塗り込むような衝動に駆られ、彼女は成景の電話番号を押した。
電話はすぐに繋がった。
成景が低い声で尋ねた。「枝織、どうした?」
枝織は平静を装って切り出した。「まだ会議、終わらないの?あなたの会社の階下にあるあのお店のラーメンが急に食べたくなっちゃった。帰りに一人前、買ってきてもらえない?」
成景が一瞬ためらった。「ちょうど今終わったところだ。すぐ帰る」
電話の向こうがにわかに慌ただしくなった。
枝織の耳に、微かな衣擦れの音が届き、すぐに電話は切れた。
間もなく、枝織の携帯が再び通知音を鳴らした。
陽菜が送ってきたのはなんと音声録音だった。
艶めかしい物音に混じり、成景のため息が聞こえてきた。
「陽菜、ラーメンを彼女に届けてから、また戻ってくるよ」
陽菜が彼に甘えた。「成景、まさか枝織を好きになっちゃったんじゃないでしょうね。だからあんなに優しくするんでしょ?
私、嫉妬しちゃう」
成景が陽菜をなだめた。「まさか。彼女が持っているもので、君が持っていないものがあるか?彼女が持っていないものだって、君はちゃんと持っているだろう?
彼女が国内のALS分野の専門家の弟子で、本人も優秀だからと思っただけだ。うちにはALSの遺伝的要因があるのは知っているだろう。たとえ俺が今健康でも、将来どうなるか……
万が一、俺が本当に発病したら、彼女がいれば、少なくともすぐに最先端の治療が受けられる」
枝織はもう一言も聞いていられなかった。
耳鳴りの音に息が切れそうになり、枝織は赤く充血した目で、再生を続ける録音ファイルを睨みつけた。
そこからは、絶え間なく、あの二人の艶めかしい声が流れ出てきた。
「ラーメンを食べるのが少し遅れたって、どうってことないでしょう。でも、私はいまあなたがいないと、本当に寂しいんだから。
あなた、ずっと私にあのバニースーツを着てほしがってたじゃない?あなたが残ってくれるなら、今日着てあげてもいいわよ」
成景は声を押し殺し、喉の奥から途切れるような声を絞り出した。「……小悪魔め」
そして、枝織の耳には荒い呼吸音だけが残った。
第4話
成景が帰宅したのはすでに未明だった。
陽菜は彼に投げキスを送り、素早く自分の部屋に滑り込んだ。
成景がそっと布団をめくると、枝織は彼の体から清涼感のあるミントの香りを嗅ぎ取った。
以前、枝織はこのミントの香りを気にしたことなどなかった。
だが今、意識して嗅いでみると、そのミントの香りの中に、嗅ぎ慣れた香水の残り香が混じっていることに気づいた。
記憶をたどると、枝織は幾度もの深夜、成景の体からミントの香りがしていたことを思い出した。
あれはすべて、陽菜と一緒にいたからだったんだ……
枝織が寝返りを打つと、成景に抱きしめられた。
彼が低く囁いた。「遅すぎた。ラーメン屋はもう閉まっていたよ」
枝織は無意識に成景から身を引いた。「買えなかったなら、いいわ」
成景の腕が宙を切った。胸に驚きがよぎり、彼は眉をひそめた。「枝織、怒ってるのか?
ほら、怒らないで。俺が作ってあげるから。いいだろう?」
成景は以前は料理をしなかった。
彼は枝織のために料理を覚えたのだ。
枝織は手術が立て込むと、食事も不規則になりがちで、胃を悪くしていた。辛い食べ物の多くは口にできない。
だから成景はわざわざ一ヶ月かけて、有名なシェフを雇い、料理の腕を磨いたのだ。
枝織は初めて成景が作った煮込み料理を食べた時、感動して涙を流したことを覚えていた。
だが今、エプロンを締め、キッチンに立ち、自分のために料理をしようとする成景を見ても、吐き気しか感じなかった。
陽向が眠そうな目で寝室から出てきて、不満そうに唇を尖らせた。「パパ、また夜中に彼女のためにご飯作るの?
彼女をそんなに甘やかすの、やめてくれないかな!」
以前なら、この言葉を聞けば枝織は幸福感を覚えた。
だが今、陽向の表情を見て、枝織はふと気づいた。
この子は、本気で自分を疎ましく思っている。
食卓に座りながら、枝織は鏡に映る陽向の表情を見た。
陽向は白目をむき、言った。「パパ、僕もラーメン食べる!」
成景は陽向のために一皿分を盛り付けた。
陽向はくるりと向きを変え、陽菜の部屋のドアを叩きに行った。「陽菜先生、パパの手作りラーメン、食べない?」
陽菜が体の線があらわになるほど薄いスリップ姿で現れた。その目はとろりとした熱を帯びていた。
「羨ましいわぁ、和泉先生。こんなにあなたを大事にして、甘やかしてくれる旦那様がいて」
陽菜は枝織の向かい側に座った。
枝織は目を伏せ、ラーメンを一口頬張った。辛い味が舌と唇に広がり、枝織はとっさに顔を背けて吐き出した。
まさか辛口だった。
「どうした?美味しくなかったか?」成景は慌てて、自分もラーメンを一口頬張った。
彼の表情がわずかに変わった。「どうやら、唐辛子を入れすぎたみたいだ……」
成景は立ち上がり、その皿のラーメンを捨てようとした。
陽菜が彼の腕を掴んで止めた。「待って。もったいないわ、私にちょうだい。
私、まさにこういう辛いのが大好き。あんまりあっさりしてると、かえって物足りなくない?」
陽菜の意味深な視線を受け、枝織ははっと悟った。
そうか、陽菜が辛口を好むから、無意識に唐辛子を入れたの?
「もういいわ」枝織は箸を置いた。「眠いから、先に休むわね」
成景が枝織を呼び止めた。「枝織、俺が悪かった。作り直すから」
枝織は振り返りもしなかった。「別に。こんな些細なことで、何を怒ることがあるの?」
枝織の背中が角を曲がって消えていった。
成景の眉がわずかに寄せられた。
複雑な喪失感が胸に広がり始めた。成景はふと枝織が変わってしまったような錯覚に陥った。
枝織は本当に気にしていないように見える……なぜだ?
成景は後を追おうと足を踏み出した。
だが、陽菜が彼を呼び止めた。「どこへ行くの?
あなたがわざわざ私のために作ってくれた辛口ラーメン、一緒に食べてくれないの?」
陽向も甘えた声を出した。「パパ、僕たち三人で一緒にラーメンを食べるの、久しぶりだね」
成景は結局のところ、席に戻った。
枝織の違和感を完全に頭の片隅へと追いやった。
第5話
枝織が引き受けることになった患者から彼女が国を離れる三日前に、友達申請が届いた。
承認すると、相手はすぐに彼女の航空券の情報をスクリーンショットで送ってきた。
日時は成景と陽菜、陽向が「三人家族」で旅行に出かける、まさにその日。
夜八時。
枝織は相手にメッセージを送った。
【現在の病状の進行具合はいかがですか?】
相手からは大量の病状資料が送られてきた。
枝織がその半分ほどに目を通した時、成景が帰宅した。
彼の体からはまたしても清涼感のあるミントの香りが漂っていた。
枝織はこみ上げてくる強い吐き気に、とっさに顔を背け、うっと喉を鳴らした。
しかし、成景が鋭い目つきで彼女の携帯画面を捉えた。
途端に眉をひそめた。「出国するのか?」
枝織は動きを止めた。「ええ。ALSの患者さんがいて、一度診てほしいって」
成景は軽く頷き、それ以上は深く考えなかった。
次の瞬間、ひとつのお守りが、不意に枝織の目の前に差し出された。
枝織は、はっと息をのんだ。「これって……」
「気に入ったか?」成景はお守りを彼女の掌に置いた。「昨日は怒らせて悪かった。これは謝罪のプレゼントだ。
君、ずっと言ってたじゃないか。お母さんが事故で亡くなる前に、願かけのためにあの長い参道を登って手に入れたお守りを持ってたって。残念ながら、事故でダメになってしまったけど。
昨日、わざわざあそこへ行って、君のために求めてきたんだ。似ているだろう?」
枝織の目頭が瞬く間に赤くなった。
枝織は母子家庭で育ち、ずっと母親と二人きりで生きてきた。あのお守りは母親の形見であり、彼女にとってどれほど大切なものか言うまでもない。
成景が彼女に与えたこのお守りに、枝織は全身が震え、思考が混乱を極めた。
あそこのお守りはあの三千段もの参道を登りきらなければ手に入らない。そこは恐ろしく険しい道のりで、多くの人が途中で転び、膝を擦りむいてしまうほどの難所だ。
まさか彼、本当にそれを……
「成景……」枝織はそのお守りを強く握りしめた。
枝織は身をかがめて成景のズボンの裾をめくり上げた。そこには、赤く腫れあがり、血さえ滲んだ痛々しい膝が目に飛び込んできた。
枝織の心情は複雑で、瞳に涙が溢れていた。
だが、立ち上がった瞬間、彼女は成景のポケットに入っているもう一つのお守りを見てしまった!
「枝織、気に入ったか?」
成景は彼女の頭を優しく撫で、呆然としていた枝織の意識を呼び戻した。
成景のポケットを凝視しながら、枝織は低い声で言った。「着替えてきたら?汚れてるわ」
成景は深く考えず、ウォークインクローゼットへ入っていった。
枝織はすぐにそのお守りを抜き取った。
そこにはある知らない人の名前が書かれているのが見えた。
【神谷結月(かみや ゆづき)】
これは誰?
成景が出てきた。枝織は素早くお守りを服に戻した。
しかし、服の隙間に挟まっていた一枚の紙がひらりと落ちた。
枝織がそれを拾い上げると、一番下に書かれた言葉が目に入った。
【妊娠十二週】
成景は顔色を変え、奪い取るようにして枝織の手からその妊婦健診の用紙をもぎ取った。
枝織はすべてのことを分かった。
彼女は消えかしていた記憶の欠片を拾い集めた。
半年前、成景は陽向に尋ねたことがあった。「もし妹ができたら、なんて名前にしたい?」
陽向は熟考した末に言った。「結月がいい!僕とパパの掌の月にするんだ!」
なるほど、陽向には本当に結月という名の妹がいたのだ。
成景も確かに結月を深く愛していた。
彼女のため、あの三千段もの参道を踏破し、お守りを手に入れることさえやってのけたのだ。
残念なことに、自分はその子の母親ではなかった。
「友人の検査報告書を預かってきただけだ」成景は素早く話題を変えた。「そうだ、俺の健康診断の結果、もう出たんじゃないか?どこだ?見せてくれ……」
枝織はかつてないほど冷静な口調で言った。
「特に問題はなかったわ。
ベッドサイドの引き出しあたりにあるはずよ。探してみて」
もともと話題を変えるためだけだった。
成景はただ引き出しを開け、適当にざっと目を通しただけで、気にも留めなかった。
だが彼はこれが枝織が彼に与えた最後のチャンスだったことを知らなかった。
成景は真実と完全にすれ違ってしまった。
成景が去った後、枝織は一番下からALSの診断報告書を取り出した。
SNSのDMには、陽菜から妊婦健診報告書の画像が送られてきていた。
【私のほうは二人目なんて全然考えてなかったんだけどね】
【でも、あの人がね、『やっぱり男の子と女の子、一人ずつ揃ってこそだ』って言うから!あ、そうだ。聞いたよ。成景はあなたにもお守りあげたんだって?】
【じゃあ、知ってる?あのお守り、実は成景がついでに求めてきたものだってこと】
【彼の心からの願いはただ私と結月、母子二人の平安だけだもの】
枝織はライターのスイッチを入れた。
炎が燃え上がり、その診断報告書を跡形もなく焼き尽くした。
それから、自分と成景のツーショット写真、一緒に乗った飛行機や電車のチケット……すべての思い出を燃え盛る火鉢の中へと投げ入れていった。
それらすべてが燃え尽き、跡形もなく灰に帰すのを、彼女はなすがままに見つめていた。
第6話
成景が不意に戻ってきた。
火鉢の中では、彼らの家族写真の半分だけがまだ燃え残っていた。
成景の視線が火鉢に釘付けになった。目の前の光景がにわかには信じられなかった。「枝織、どうしたんだ?なぜ写真を燃やしたりする?」
枝織は静かに成景を見つめ、不意に口を開いた。「成景、覚えてる?私たち以前、もし女の子が生まれたら、結月って名前にしようって話したこと。
神谷結月」
成景の顔色が変わった。
彼は直接手を伸ばし、その燃え残りの写真半分を火の中から取り出した。掌に大きな火傷の水ぶくれができた。
成景は焦ったように言った。「もちろん覚えてる!なぜ写真を燃やす?どうしたんだ?」
成景と枝織の視線がまっすぐにかち合った。彼女の瞳を見た刹那、成景の胸に制御しがたい悲しみがこみ上げてきた。
奇妙な錯覚が心をよぎった。まるで、彼女を失いかけているような……
だが、そんなはずがあるか?
まさか、枝織は何かに気づいたとでもいうのか?
枝織と十年も一緒にいれば、たとえ始まりに下心があったとしても、とっくに情は湧いていた。
少なくとも、成景がこれまで枝織に見せてきた優しさはすべて本心からだった。
成景は手を伸ばし、彼女を抱きしめた。「枝織、教えてくれ。一体どうしたんだ?そんなだと心配になる」
枝織はしばし沈黙した後、目を閉じた。「なんでもない。ただ、昨日の夜、急に悪い夢を見たの。私たちに本当に娘がいた夢を。
それで目が覚めて、この写真を見たら、たまらなくなって……この中には、あの子がいない。あの子だけがいない。それがなんだか、とても悲しくて……見ているのが辛くなってしまって」
成景の全身が硬直した。
「馬鹿なことを言うな」
枝織の目が赤く充血した。
自分の娘……きっと、もう生まれ変わっているだろう。
この世に生きていなくて、良かったのかもしれない。
一度も愛してくれたことのない偽りの父親。
そして、十年間も騙され続けた愚かな母親。
自分の娘にならなくて、良かったんだわ!
枝織は成景の腕から抜け出し、裸足のまま二階へ向かおうとした。
成景は彼女の体を抱きかかえ、心配そうに言った。「どうしてまた靴を履かないんだ?そんなことしたら風邪を引くぞ!
ほら、もう悲しむのはよせ。そんなに娘が欲しかったか?だったら、俺たちで二人目、作るかな?」
成景は枝織をソファに降ろし、艶めかしく彼女の耳元に顔を寄せた。
成景の荒い呼吸を感じ、枝織は胃がせり上がってくるのを感じた。
もう、どうしようもなかった。「ウェッ!」彼女はその場に胃の中のものをぶちまけていた。
成景はまず顔色を変え、次いで枝織を抱き上げた。「ここ数日、ずっと顔色が悪かった!」
成景は一瞬戸惑ったように目を泳がせたが、ふと何かに気づいたように、その顔をぱっと輝かせた。
「枝織、もしかして、妊娠したんじゃないか?」
枝織の肩が無意識にびくっと震えた。「そんな……」
第7話
枝織のこのお腹の子はあまりにも、間が悪すぎた。
思い返せば、三ヶ月ほど前のあの時だろうか。
あの頃、枝織はまだ成景の秘密を知らなかった。
枝織は腹部に手を当てた瞬間、再び心が揺らいだ。
どうして今、来てくれたの?
なぜ、よりによって今なの?
もしかしたら、この子を産んでもいいのでは?この子を一人で産んで育てる……それでも、いいのかもしれない。
一方、成景は異常なほど興奮していた。「枝織、昨日のあの夢はもしかしたらお告げだったのかもしれない!
俺たち、本当に女の子を授かるのかもしれないぞ!」
枝織は成景を見つめた。「それなら、この子の名前は結月でどう?」
成景の表情が刹那、こわばった。
次の瞬間、陽向の声が響いた。「ダメだ!彼女を結月って呼んじゃダメだ。結月は僕の妹の名前なんだ!」
枝織はわざととぼけるような笑みを浮かべた。「あら?この子だって、陽向の妹になるんでしょう?」
陽向は目を丸くして、怒鳴った。「彼女は僕の妹じゃない!僕には――」
陽向が言い終わる前に、成景が彼の口を塞ぎ、そのまま抱きかかえて外へ連れ出した。
「よしよし、ママは今、具合が悪いんだ。安静が必要だから、邪魔しちゃダメだ!」
成景は部屋を飛び出していった。
ドアが閉まる直前、枝織の目には見慣れた陽菜の服の裾が映った。
枝織は後を追った。
成景が少し怒った様子で話しているのを見た。「陽向をしっかり見てろ。あの子に余計なことを喋らせるな!俺たちのことが枝織にバレるわけにはいかないんだ!」
陽菜はフンと鼻を鳴らした。「彼女が妊娠したからって、明日の家族旅行まで行きたくないなんて言い出して。挙句に私に八つ当たりするなんて。あなた、本気であの女のこと好きになったんじゃないの?」
「まさか!」成景は即座に否定した。
「どう見ても、情が移ってるわよ!」陽菜は唇を尖らせた。「私を納得させたいなら、明日の旅行の計画は変更しないって約束して。
彼女が妊娠したぐらいで、何をそんなに大騒ぎしてるの?私だって同じじゃない!」
成景は返答に迷うように視線を落とした。
「ねえ、いいでしょう?計画はそのままにしましょ!」陽菜がすり寄り、指先で彼の喉仏をそっとなぞった。
成景はついに抵抗しきれなくなり、陽菜の頭を押さえて深くキスをした。「わかった、わかったよ。君は本当に小悪魔だな……」
二人は夢中でお互いの唇を貪り合った。
陽菜はそのキスに蕩けそうになりながらも、まだ拗ねたふりを続けた。「成景、まだ質問に答えてくれてないわ。あなた、本当に彼女のこと、好きになったんじゃないでしょうね?」
成景の口調が曖昧になった。「まさか。
枝織に子供ができれば、彼女を縛り付ける切り札がまた一つ増える。たとえ彼女が将来、すべての真実に気づいたとしても、子供に免じて、俺に甘くなるだろう。俺はあの子の父親になるわけだからな?」
はっきりとした一言一句が枝織の耳に突き刺さった。
ついに、彼女は諦めたように力なく微笑んだ。
まるで目の前の光景に弾かれたかのように、一歩、また一歩と後ずさった。視線の先では、二人が熱いキスを交わしていた。それを見つめながら、頭の中にあった最後の甘い幻想は木っ端微塵に砕け散った。
枝織はもう決めた。
彼女は病院に身体検査を受けに行くという口実で、密かに中絶手術の予約を入れた。
手術同意書は病室のベッドサイドに置いておいた。
成景にほんのわずかでも関心があれば、気づくはずだった。
だが、彼は見なかった。
成景はその日の早朝、慌ただしい足取りでやって来ただけだった。「枝織、急な出張が入った。明日の退院はアシスタントに迎えに来させるように手配してもいいか?」
「ええ、いいわよ」
枝織は病室にあるわずかな私物を静かに片付けていた。
成景は眉をひそめた。「そんなことは君がやらなくていい。アシスタントが来たらやらせるから!」
「わかったわ」
枝織の様子を見て、巨大な圧力が突如として押し寄せてきた。一瞬、成景はこの旅行をキャンセルしようかと思った。
だが、陽向からすでに催促のメッセージが届いていた。
【パパ、まだ降りてこないの?】
【また枝織さんに引き止められてるの?】
成景はその圧力がどこから来るのかを考える余裕もなく、急いで踵を返した。
部屋を出る際、彼は不意に足がもつれ、危うく転びそうになった。
成景は無意識に振り返った。「枝織、俺の健康診断の報告書……」
陽菜からの電話が彼の言葉を遮った。
成景はそれ以上尋ねるのをやめた。「もういい!帰ってきてからで!」
枝織は微かに微笑み、彼が去っていくのを見送った。
「ええ、さようなら」
さようなら。
二度と会うこともない。
その夜、枝織は陽菜が自慢げに送ってきたDMを見た。彼女と成景、陽向はすでに異国の島で日光浴をしていた。
枝織は中絶手術を終えると、一枚の離婚協議書を残し、そのまま空港へ向かった。
飛行機が離陸する直前、枝織は陽菜が自分に送りつけてきた全ての写真、動画、音声を一つにまとめ、成景のメールアドレス宛にタイマー送信を設定した。
ゴウッという轟音と共に、枝織は目を閉じた。
過去のことはすでに風と共に去った。