あの夜、すべてを終わらせた

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あの夜、すべてを終わらせた

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結婚したその日に、私は社長である夫・葛城祐介(かつらぎ ゆうすけ)にこう言った。 「あなたが他の人を好きになっても構わない。ただ、その...

Chương (1)

第1章

結婚したその日に、私は社長である夫・葛城祐介(かつらぎ ゆうすけ)にこう言った。 「あなたが他の人を好きになっても構わない。ただ、その騒ぎが私に及ぶなら、もうあなたとは会わないようにするから」 だからその後、祐介が学校の先生・野口沙耶香(のぐち さやか)のことが好きになっても、彼女を別の場所に隠すだけで、私には知られないようにしていた。 そして沙耶香にも欲しいものは何でも与えたけど、私の前にだけは姿を見せるなと、きつく言いつけていた。 でも、沙耶香は祐介に甘やかされているのをいいことに、彼の言いつけを守らなかった。そして、妊娠した大きなお腹抱えて私の前に現れると、見せつけるようにこう言ったのだ。 「祐介さん本人があなたのことなんて愛したことないって、結婚したのも奥山家のためだって言っていましたよ。 自分の立場が分かっているなら、さっさと子供をおろして離婚したらどうです?じゃないと、祐介さんに捨てられたら、慰謝料は一銭も手に入らなくなりますよ!」 それを聞いて私は微笑んで、父にメッセージを送った。 【葛城家への投資は、すべて引き揚げて!私、離婚するから】 第1話 葛城莉緒(かつらぎ りお)は、ネイルサロンの特別ルームに座っていた。でも、店員は気まずそうな顔でこう言った。「葛城さん、こちらのカードですが、残高が足りないようでして……」 莉緒はきょとんとした。先月、夫の葛城祐介(かつらぎ ゆうすけ)がこのカードをくれた時、たしか60万円入っていると言っていたのに。 しかも、それを使うのが今日が初めてなのに。 そこで店員に履歴を調べてもらうと,こう言われた。「葛城さん、先週の木曜の午後に、56万円のご利用がございました」 「先週の木曜日?56万円?」莉緒は思わず指を止めた。「その日、私は一日中、会社にいましたけど」 店員は口ごもった。「は、はい。ご主人が、ある女性の方をお連れになったんです。お帰りの際に、その女性が店員の一人へのチップだと言ってお支払いをされて行かれました」 それを聞いて、莉緒の心臓が急にどきどきして、耳鳴りがした。 先週の木曜日、祐介は大事なクライアントと会うと言っていた。家に帰ってきたのは夜の8時過ぎで、接待が長引いて疲れたと愚痴っていたはずだ。 自分はそれを聞いて、わざわざ会議を早く切り上げて、彼のために酔い覚ましのスープまで作ってあげたのに。 「防犯カメラ、見せてください」莉緒の声はか細く、気持ちが重く沈んでいった。 そして防犯カメラの映像には、祐介が水色のワンピースを着た女の肩を抱いて入ってくる姿が映っていた。 女が祐介を見上げて何かを言うと、彼は愛おしそうに彼女の髪を撫でた。 莉緒は呆然とした。その親密な仕草は、まるで二人が付き合いたての若いカップルのように見えた。 もし、祐介が自分の夫でなければ、それは何とも微笑ましい光景だっただろう。 そう思っていると、突然、映像の中の祐介が店員に何か言われ、ひざまずくと、その女の足にペディキュアを塗り始めた。 それだけじゃない。塗り終わった後、彼は愛おしそうに女の足を両手で包み込んで、キスまでしたのだ。 それを目にした莉緒は全身の血が凍りついた。あのプライドの高い祐介が、他の女のためにひざまずいてペディキュアを塗るなんて。 しかもあの夜、家に帰ってきた彼は、他の女の足にキスしたその口で、自分にキスしたのだ。 そう気が付いた莉緒はこみ上げてくる吐き気を抑えきれなかった。 そして映像は続いた。祐介はずっと女の子のそばにいて、帰り際には当たり前のように彼女の白いハンドバッグを持ってあげていた。 莉緒は画面を食い入るように見つめた。そのバッグは、自分のクローゼットにあるものと全く同じだった。 あれは先週、祐介が出張から帰ってきた時にわざわざプレゼントしてくれたものだった。今考えればプレゼントをもらったのは自分だけじゃなかったようだ。 「この映像、私のメールアドレスに送ってください」そこまで見て莉緒は立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。それでも、彼女はなんとかバッグを掴んで店を飛び出した。 家に帰ると、彼女はまっすぐ書斎に駆け込んだ。 震える指で、私立探偵に電話をかけて言った。「祐介の最近の行動を全部調べて、報告してちょうだい」 3時間後、メールボックスに数十枚の写真が届いた。 それは祐介と野口沙耶香(のぐち さやか)という女がスーパーで買い物をしていたり、映画館で恋人つなぎをしていたりしているものだった。 そして何よりショックだったのは、その中には婚姻届の写真まであった。日付を見ると、二人が「結婚」して、もう1年以上も経っていた。 莉緒は震えが止まらなかった。 彼女は結婚式の日、目の前でひざまずいて誓った祐介の言葉を思い出した。「莉緒、一生君を裏切らないと誓うよ」 この男の一生って、こんなに短かったのね。 そう思っていると突然スマホが震えた。探偵からの追加情報だ。【野口沙耶香、24歳、私立中学教師、婚姻届は祐介さんが知人に頼んで偽造させた書類です。彼は毎週水曜と金曜の午後、野口さんのマンションを訪れています】 莉緒は震える手で電話をかけた。「お父さん、葛城グループの、あの新エネルギー事業から資金を引き揚げたら……」 「どうしたんだ?」父親の奥山慎吾(おくやま しんご)の声が、とたんに険しくなった。「祐介にいじめられたのか?」 この一言で、莉緒は崩れ落ちそうになった。 結婚式で、父は目を赤くしながら自分の手を祐介に託した。「もし莉緒を悲しませることがあれば、あなたをこの業界で生きていけなくしてやるからな」 「祐介が……」そう思い返して、莉緒は喉に何かが詰まったようで、声が出ないのだ。同時に去年、自分が肺炎で高熱を出した時、祐介は夜通し自分を背負って救急病院へ走り、ベッドのそばで3日3晩、看病してくれたことを思い出した。 自分のためにあんなに必死になってくれた人が、どうして他の女と「結婚」なんてしてるの? 「ううん、まだ何でもないの」莉緒は手の甲を強く噛んで、嗚咽をこらえた。「また連絡するから」 その電話を切ると、ガレージのドアが開く音が聞こえた。 祐介が入ってきた。彼は手には書類の入った封筒を持ち、いつもと変わらない優しい笑顔を浮かべていた。「今日は早かったんだね」 「うん、ネイルサロンに行ってたの」莉緒は手を差し出して見せた。「あなたがくれたカードでね」 その瞬間、祐介の体がこわばった。すぐに平静を装ったけど、莉緒にははっきりとわかった。 「そういえば」彼女はわざとさりげなく尋ねた。「店員さんが言ってたけど、先週の木曜日、あなたが女の子を連れてきたって」 それを聞いて祐介は一瞬、固まった。そして、慎重に莉緒の表情をうかがった。 莉緒が普段と変わらない顔をしているのを見て、彼は安心したように優しく微笑んだ。「ああ、隣の太田さんの娘さんだよ。ネイルサロンに行きたいけど、一人じゃ心細いって言うから、君がよく行く店を紹介してあげたんだ」 そう言いながら祐介は歩み寄ってきて、莉緒を抱きしめた。「お腹すいたろ?俺がご飯作るよ」 キッチンへ向かう夫の後ろ姿を見つめながら、莉緒の胸は苦しくなった。 もし自分が気づかなかったら、この人は永遠に自分を騙し続けるつもりだったんだろうか? 莉緒はスマホを手に取り、父親にメッセージを送った。【来週、葛城家への投資は、すべて引き揚げて!私、離婚するから】 送り終えると、彼女はキッチンに目を向けた。 そこで、祐介は手際よく野菜を切っていた。 この1年ちょっと、きっとあの女の家で、こうして料理の腕を磨いてきたわけね。 莉緒はすっと立ち上がると、結婚指輪を外してリビングのテーブルに置いた。そして、寝室へと向かった。 第2話 莉緒はベッドに横たわり、天井の明かりを見つめていた。 その優しい光は、目が疲れないようにと、祐介がわざわざ選んでくれたものだ。 彼女は寝返りを打って、枕に顔をうずめた。そして息をするたびに、いつもの柔軟剤の香りを感じていた。 これも祐介が替えてくれたものだった。このブランドは肌に優しいからと、彼が言っていた。 しかし、目を閉じると、浮かんでくるのはあの防犯カメラの映像ばかりだ。 祐介が、水色のワンピースを着た女の子を抱きしめていた。そして優しく微笑みかけながら、彼女の髪を撫でていた。 その笑顔を、莉緒はよく知っていた。 3年前、祐介が初めて自分に会った時も、あんなふうに笑っていた。 当時、彼は葛城家に引き取られたばかりの愛人の子で、パーティーでは誰からも相手にされずにいた。それでも勇気を振り絞って自分の前に歩み寄り、耳を真っ赤にしながら尋ねたのだ。「奥山さん、一曲、踊っていただけませんか?」 その時の自分は、祐介を相手にしなかった。 けれど彼は諦めなかった。毎日、手作りのお弁当を持って会社のビル下で自分を待っていた。たとえ自分が、見向きもしなくても。 3ヶ月後、自分がようやくデートに応じると、祐介はまるで子供のようにはしゃいだ。 そして、あの時彼は翌日時間通りに自分を迎えに行けるようにと、一晩中ビルの下で待っていた。 さらに、結婚式の日、祐介はバージンロードでひざまずき、自分の手を握って言った。「莉緒、俺の人生をかけて、君を幸せにすると誓うよ」 自分は、その言葉を信じた。 結婚してからの3年間、祐介は本当に非の打ち所がないほど、自分によく尽くしてくれた。 自分が機嫌が悪い時は彼が宥めてくれた。 何かを欲しがれば、彼はすぐに用意してくれた。 夜中に、駅前のお店のケーキが食べたいと言えば、彼は車を飛ばして街を横断してまで買いに行った。 だから、莉緒は祐介が本当に自分を愛しているのだと思っていた。 それなのに、今はどうだろう? そう思っていると、そっとドアが開いて、祐介がキッチンの料理の匂いを纏いながら入ってきた。 彼はベッドのそばに腰かけると、莉緒の顔に触れようと手を伸ばした。「莉緒、ご飯できたよ」 だが、莉緒は、何も言わずに彼の手を避けた。 すると祐介は眉をひそめた。「どうした?具合でも悪いのか?」 莉緒は首を横に振った。 「目が赤いじゃないか」祐介の声は、とたんに緊張を帯びた。「頭が痛むのか?病院に行くか?」 彼はいつもこうだった。ほんの些細なことでも、気にかけてやまないのだ。 莉緒は、祐介の心配そうな表情を見ながら、胸に鋭い痛みが走るのを感じた。 彼の優しさは、本物なのだろうか。それとも、ただの演技なのだろうか。 「なんでもない」そう思いつつ、莉緒はようやく口を開いた。「お腹がすいただけ」 それを聞いて祐介はほっと息をつくと、笑いながら彼女の頬をつまんだ。「食いしん坊だな。さあ、行こう。ご飯にしよう」 しかし、ダイニングテーブルにはスペアリブ、魚の煮付け、レンコンの甘煮が並んでいた。その漂う甘ったるい香りに、莉緒の気持ちは一気に沈んだ。 自分が甘口の料理が嫌いであることを、祐介は、それを知っているはずだ。 そう思って莉緒は顔を上げ、まっすぐに彼を見つめた。「どうして、甘口の料理ばかりなの?」 祐介はご飯をよそう手を止め、すぐに笑みを作った。「最近、仕事で疲れているみたいだったから。甘いものを食べたら元気が出るかと思って」 莉緒は黙ったまま、彼を見つめ続けた。 すると祐介の表情が、だんだんとこわばってった。彼はお椀を置くと、少し慌てたような口調で言った。「じゃあ……作り直そうか?」 「うん」莉緒は頷いた。 祐介はすぐに立ち上がってキッチンへ向かおうとした。しかし、この時突然スマホが鳴った。 彼は画面に目を落とした途端、動揺した表情になった。 「会社で急用ができた。ちょっと行かないと」祐介は上着を掴んだ。「先に何か食べてて。戻ってきたら、新しいのを作るから」 だが、莉緒は箸を置いて言った。「今日はあなたが作った料理を食べたいの」 それを聞いて、祐介は足を止め、さらに深く眉をひそめた。「そんなにわがままを言わないでくれないか?何を食べても同じじゃないか?」 その言葉を口にした瞬間彼自身も驚かせたようだった。 そして莉緒は、呆然と祐介を見つめながら、心臓を誰かに鷲掴みにされたかのようだった。 祐介はすぐに声のトーンを和らげた。「ごめん、そういう意味じゃないんだ。本当に急ぎの用事で……すぐに戻るから」 そう言うと、彼は振り返りもせずに家を出て行った。 ドアが閉まる音はとても軽かったが、莉緒には、まるで平手打ちを食らわされたように感じた。 結婚して何年も経つが、祐介がこんなことを言ったのは初めてだった。 彼女はダイニングテーブルの前に座り、並べられた甘い料理を見つめながら、これはきっとあの女の好きな味付けだろうと思った。 そう思うと莉緒は立ち上がり、キッチンへ向かった。 まな板の上には、切りかけの野菜がまだ置かれていて、鍋には、もうすぐお湯が湧きそうになっていた。 彼女は火を止めると、車のキーを手に取り、祐介の後を追った。 雨が降り始めていた。莉緒は祐介の車を追いかけ、見知らぬマンションの下までたどり着いた。 エレベーターは12階で止まった。彼女が降りるとすぐに、甘ったるい声が聞こえてきた。 「祐介さん、やっと来てくれたのね」 「ばかだな」祐介の声は、いつものように優しかった。「今日はちゃんとご飯食べたのか?」 「あなたがいなくて、食事が喉を通らなかったの」女は泣きそうな声で言った。 「だから、こうして来たじゃないか」祐介は低い声でなだめた。「君が食べなくても、お腹の子は食べないと。な、いい子だから」 それを聞いて、莉緒の手から車のキーがカシャンと乾いた音を立てて滑り落ちた。 祐介ははっと振り返り、莉緒の姿を目にすると、顔が真っ青になった。「莉緒……どうしてここに?」 だが、莉緒は、くるりと背を向けて歩き出した。 祐介にはもう子供がいたんだ。 莉緒は車の中に座り込むと、雨と涙で視界が滲んだ。 バックミラーに目を向けると、追いかけてくる祐介の姿が映っていた。彼は口をパクパクと動かしながら、彼女の名前を叫んでいるようだった。 でも、莉緒はもう一言も聞きたくなかった。 第3話 雨粒が、車の窓を叩いていた。 祐介が力任せにドアを叩くと雨音の向こうから、「莉緒!俺の話を聞いてくれ!」と叫んでいるようだった。 莉緒は運転席に座り、指でハンドルを軽く叩いていた。窓の外でずぶ濡れになっている二人を見ていると、なんだかおかしくなってきた。 莉緒がゆっくりと窓を開けると、すぐに祐介の声が飛び込んできた。「いつからそこに?」 「今、来たところ」彼女は鼻で笑った。 祐介は顔色を変え、早口で言った。「彼女は、近所に住んでる妹みたいな子なんだ!今日、急に停電したっていうから、様子を見に来ただけで!」 莉緒はもう聞きたくなくて、パワーウィンドウのスイッチに手を伸ばした。 「莉緒さん!」その時、沙耶香が突然駆け寄ってきて、車の前に立ちはだかった。雨で白いワンピースが濡れて彼女の体に張り付き、いかにも可哀想な様子だった。「全部私が悪いんです!私たち、本当に何もありませんから。祐介さんのこと、怒らないであげてください!」 だが莉緒は眉間にしわを寄せると、エンジンをかけた。そしてハンドルを切り、沙耶香を避けようとした。 ドンッ。 鈍い音がして、沙耶香が車の前に飛び出してきた。彼女はよろめきながら後ろに倒れ、雨で濡れた地面に尻もちをついた。 莉緒は慌ててブレーキを踏んだが、心臓が止まるかと思った。 「沙耶香!」祐介が駆け寄り、沙耶香を抱きかかえると、目に剥き出しの怒りを宿らせて莉緒を見つめた。 「大丈夫」沙耶香は弱々しく首を振り、顔は血の気がなく、真っ青だった。「祐介さん、早く莉緒さんのところに行ってあげて」 「今までどれだけあいつの機嫌を取ってきたと思ってるんだ!」祐介が突然、声を張り上げた。「あいつにとって俺はただの言いなりなんだ!君はこんな目に遭ってるのに、まだあいつの心配をするのか?君はお人好しすぎるよ!」 莉緒は運転席で固まったまま、無意識に指に力を込めた。 祐介が今まで、一度もこんな口調を自分に向けたことはなかったのだ。 鋭く、嫌悪に満ちていて、まるで今まで被っていた仮面を、ついに剥ぎ取ったかのようだった。 「彼女が自分でぶつかってきたの」莉緒は少し黙ってから、口を開いた。 「もういい!」祐介が彼女の言葉を遮った。「俺を誤解するのは勝手だ。でも、今度は沙耶香を貶めるつもりか?彼女が妊娠してるって、分かってんのか?」 その一言一言は鋭い刃物のように、莉緒の胸を突き刺した。 「あなたの子なの?」と彼女は言った。 それを聞いて祐介の表情が一瞬強張った。そしてようやく自分が何を口走ったのかに気づいた彼は唇を動かし、「莉緒、変なことを言うな」と言った。 だが、次の瞬間、沙耶香が突然「きゃっ!」と苦しそうな声を上げ、ぐったりと倒れ込んだ。 「沙耶香!」祐介はうろたえ、車のドアを乱暴に開けた。「車を貸せ!病院に連れて行かないと!」 それから、莉緒は助手席に席を移すと震える指でハンドルを握りしめる祐介を見た。 後部座席では、沙耶香が意識を失ったように横たわっている。でも、そのまつ毛は小刻みに震えていた。 「そんなに心配するなんて。もしかして、本当はあなたの子なの?」莉緒が静かに尋ねた。 祐介は強くアクセルを踏み込んだ。彼の声は張り詰めていた。「命に関わることなんだぞ。こんな時に騒ぐのはやめてくれないか?」 莉緒は顔を背け、窓の外に目を向けた。 この道は、あまりにも見慣れた道だった。3ヶ月前、自分が急性胃腸炎になった時も、祐介はこうして車を飛ばして病院に連れて行ってくれたのだ。 あの時、彼は靴を左右逆に履いてしまうほど慌てていて、道中ずっと「莉緒、大丈夫だからな」と繰り返していた。 「祐介、たいしたもんね」莉緒は疲れたように、窓に寄りかかった。 だが、祐介はクラクションを激しく鳴らして前の車を追い越しながら言った。「詳しい話は帰ってからだ!」 病院に着き、車が停まるやいなや、祐介は飛び出して、沙耶香を抱きかかえると、院内へと走っていった。 莉緒は黙ってその場に立ち尽くし、彼の慌ただしい後ろ姿を見つめていた。 昔、自分が高熱を出した時に、祐介が必死に自分を抱えて走ってくれた姿そのものだった。 さらに莉緒の横を通り過ぎる時、「どけ!」と祐介は怒鳴りながら、その肘で莉緒の肩をぶつけていった。 彼女は不意をつかれ、濡れた地面に倒れ込むと手のひらが、ざらついた地面に擦れた。 そして、顔を上げた時、見えたのは祐介が沙耶香を抱えて救急治療室に消えていく後ろ姿だけだった。 そこへ看護師が慌てて駆け寄り、莉緒を支えた。「大丈夫ですか?」 莉緒は首を振り、自分で壁に手をついて立ち上がった。 膝がヒリヒリと痛んだ。でも、心をズタズタに切り付けられた痛みに比べれば、なんてことはないのだ。 そして救急治療室から、祐介の泣き声まじりの声が聞こえてきた。「先生!彼女はどうなんですか?お腹の子は無事なんですか!?」 すると傍らで見かねた看護師がティッシュを差し出してきた。そこで莉緒はようやく自分が泣いていることに気づいた。 彼女はティッシュを受け取ったが、堰を切ったようにあふれ出る涙を拭いきれなかった。 こんなに心に負った傷は体にまで響くんだな。 そう思っていると救急治療室のドアが開き、祐介が飛び出してきた。莉緒の姿を見て、彼はその場で固まった。 彼は口を開きかけたが、その視線は血が滲む莉緒の手のひらに落ちた。「先に家に帰ってろ。あとで、ちゃんと説明するから」 莉緒は黙って頷いた。でも、振り返った瞬間、ひどい目眩がしてその場に倒れてしまった。 第4話 目を開けると、眩しい光が目に飛び込んできて、彼女は思わず手で顔を覆った。 「莉緒!」視界に飛び込んできたのは祐介の顔だった。彼の目に喜びの色を浮かばせて言った。「君、妊娠したんだぞ!」 莉緒は呆然としながら、無意識に自分の平らなお腹をそっと撫でた。 そういえば生理が遅れていたけど、まさかこんなことになっていたなんて、考えてもみなかった。 「莉緒、全部俺が悪かったんだ」祐介はベッドのそばに座り、おそるおそる莉緒の手を握りながら優しく言った。「勘違いなんだ。沙耶香のお腹の子は、彼女のひどい元カレの子供だよ。彼女が一人で可哀想だから、面倒を見てやっているだけなんだ」 莉緒は祐介の手を振り払うと、鼻で笑ったが、何も言わなかった。 そんな彼女を見て、祐介はため息をついて立ち上がった。「ゆっくり休んでろ。何か食べるものを買ってくるから」 彼は背を向けて部屋を出ていき、足音はだんだん遠くなっていった。 莉緒は閉ざされたドアを見つめながら、また無意識にお腹に手を当てていた。 すると突然、隣の病室から笑い声が聞こえてきた。その甘ったるい声は、沙耶香のものだった。 続いて、慣れ親しんだ祐介の低く優しい声が聞こえてきた。 莉緒はスマホを手に取り、ボディーガードに電話をかけた。「書斎の引き出しに入っている離婚協議書、持ってきて」 30分後、ボディーガードが静かに病室に現れ、莉緒にファイルを手渡した。 莉緒は離婚協議書を開き、署名欄の上で指先を止めた。 今の祐介が、簡単にサインするはずがないことは分かっていた。 そう思っていると突然ドアが開かれたので、彼女は慌てて手に持った書類を隠した。 祐介が上機嫌な顔で入ってきた。「莉緒、君の代わりに沙耶香に謝っておいたぞ。彼女許してくれたよ」 それを聞いて莉緒は顔を上げ、冷たい目つきで言った。「私が彼女に許してもらう必要なんてあるの?」 祐介の笑顔が一瞬固まったが、すぐにまた優しい表情に戻った。「お詫びに、お芝居のチケットを買ったんだ。今夜、沙耶香と一緒に観に行かないか?」 すると莉緒は彼を数秒見つめ、ふと口の端を上げた。「いいわよ」 劇場に着くと、沙耶香が白いワンピース姿で、祐介の隣におとなしく寄り添いながら、時々、莉緒のほうを盗み見ては、得意げな視線を向けてきた。 莉緒は劇場の入り口に立ち、誰もいない客席を見つめて、心臓がどきんと高鳴った。 「葛城社長が人混みだとご迷惑になるからって言って、貸し切りにされました」支配人は丁寧に案内した。「こちら、以前からお気に入りの席をご用意させていただきました」 そのれ最前列の真ん中の席。7年前とまったく同じ場所だった。 あの頃、祐介はまだ目立たない一般社員で、3ヶ月分の給料を貯めて、やっと2枚のチケットを買ってくれてたのだ。 あの日、彼は公演中、ずっと莉緒の顔ばかり見つめていた。 そう思っていると、「沙耶香も一緒に座ろう」祐介はうなずきながら言った。 だが、沙耶香は隅のほうに立ち、スカートの裾をいじりながら言った。「ちょっとトイレに行く」 彼女は目を赤くしていて、まるですごく傷ついたみたいだった。 しかし、祐介はそれに気が付かないように、平然とした顔で莉緒を席に座らせようとした。「俺たちが初めてお芝居を観た時のこと、覚えてるか?君はあの時……」 「覚えてるよ」莉緒は彼の言葉を遮った。「あなたはあの時、一生こうして一緒に観に来たい言ったわね」 それを聞いて祐介の笑顔が一瞬だけ固まり、それからまた笑い出した。 「もちろんさ。子供が生まれたら、今度は子供と一緒に来よう。一生一緒に居ような!」 そう言っていると、舞台の照明が灯り、役者たちの演技が始まった。 祐介は最初こそ莉緒の手を握っていたが、10分も経たないうちに、そわそわと肘掛けを指で叩き始めた。 「沙耶香、まだ戻ってこないな」彼は三度目に時計を見て言った。「ちょっと様子を見てくる」 莉緒は、がらんとした劇場に一人取り残された。 役者たちのセリフは耳を通り過ぎていくだけで、一言も頭に入ってこないのだ。 ついに彼女は席を立ち、祐介の後を追った。 トイレに続く廊下は薄暗かった。莉緒が角に立つと、個室のほうから微かなか細い声が聞こえてきた。 「舞台の上でやってるのは、あいつに見せるための芝居さ」祐介の声は楽しそうだった。「今ここでは俺は君一人だけの役者さ」 それを聞いて沙耶香は涙を拭いながら、笑顔を見せた。「じゃあ、うさぎの真似して!」 「はいはい」祐介は甘い声で言った。「ほら、こうやって――ぴょん、ぴょん」 一方で、それを目の当たりした莉緒は、ぎゅっと拳を握りしめた。 それは3年前、莉緒が仕事のミスで落ち込んで会社の隅で泣いていた時も、祐介はこうやってうさぎの真似をして彼女を笑わせてくれたからだ。 あの時、彼はこのうさぎさんは、彼女だけのものだと言っていた。 そう思いつつ、莉緒は声を出さず、一歩ずつ客席へと戻っていった。 その後、祐介と沙耶香は時間差で戻ってきた。二人からは、同じ香りがした。 「ずいぶん長かったじゃない」莉緒は振り向きもせずに尋ねた。 「沙耶香が具合悪そうでさ。少し付き添ってたんだ」祐介は自然に席に座った。でも、彼の右手はこっそりと沙耶香のほうへ伸びていた。 莉緒の視界の端で、二人の指が椅子の影で絡み合うのが見えた。彼女が振り向くと、彼らは慌ててその手を離した。 「莉緒」祐介はそれからさらに、何もなかったかのようにキスをしようと顔を近づけてきた。 莉緒は顔をそむけてそれを避けると、バッグから離婚協議書を取り出した。「約束したでしょ。サインして」 薄暗い照明の下で、祐介の表情が一瞬、凍りついた。 彼の視線が書類の上をさっと滑り、喉をごくりと鳴らした。「これは?」 「誓約書よ」莉緒は静かに言った。「昔みたいに」 それを聞いて祐介の肩の力が明らかに抜け、どこか甘やかすような笑みが浮かんだ。「まったく、君は」彼はペンを取り出すと、流れるような筆跡で名前を書いた。 「母親になるっていうのに、まだそんな子供みたいなことをして」 莉緒はその見慣れたサインを見ながら、ここ数年、祐介がいつもこうだったことを思い出した。彼女が気まぐれで書いた誓約書一枚一枚に、こうしてサインをしてくれた。 【莉緒だけを永遠に愛することを誓う】 【毎日おはようとおやすみを言うことを誓う】 【他の女性と二人きりで食事をしないことを誓う】 あの頃、祐介はいつも「子供だな」と笑いながらサインをし、そして莉緒を抱きしめてこう言った。「俺の一生は君のものだ。誓約書なんて、いくらでも書いてやるさ」 だから今も、彼はこれがどんな書類かも確かめずに、サインをした。 「よし」祐介は書類を莉緒に返し、ついでに彼女の頬を軽くつねった。「君との約束を、俺が破ったことなんてないだろ?」 ちょうどその時舞台の上では、ヒロインが胸を張り裂かれんばかりに叫んでいた。「あなたは、自分が何を失ったのか、分かってさえいないのよ!」 それを聞いて莉緒はフッと笑い、その書類をバッグにしまった。 第5話 お芝居が終わった後、祐介と沙耶香はとっくにどこかへ消えてしまっていた。 胸が締め付けられる思いで、莉緒は無表情のままタクシーを拾って家に帰った。 家に着いた莉緒が荷造りを始めると、突然スマホが鳴った。 父親からのメッセージだった。【出資の引き上げ手続きは済ませた。3日後に有効になる。その頃に迎えを寄越す】 莉緒は【わかった】とだけ返し、スーツケースに服を畳んで入れ続けた。 その夜、祐介は帰ってこなかった。 【急用ができた。先に寝ててくれ】と、メッセージが一通来ただけだった。 次の日の朝、莉緒がちょうど身支度を終えた、その時だった。 ドアが乱暴に開けられ、祐介が飛び込んできた。彼は目を真っ赤にして、莉緒の手首を掴むと「来い!」と言った。 「何するの?」莉緒は、祐介に引っぱられてよろめいた。 祐介は何も言わず、彼女を乱暴に車へ押し込んだ。 車は猛スピードで走り、いくつも信号を無視していった。 莉緒は、この道が沙耶香の学校へ向かっていることに気づいた。 そこに到着すると校門の前には、人だかりができていた。 沙耶香が地面に座り込んでいて、服は汚れ、顔は涙で濡れていた。 彼らの姿を見ると、彼女はすぐに立ち上がり、莉緒の前にひざまずいた。「莉緒さん、私、本当に祐介さんを誘惑したりしていません。どうか許してください」 訳が分からずにしていると、「莉緒、何か言うことはないのか?」祐介は傍らから怒りに満ちた声で問いただした。 「私は何もしていない」そう言うと莉緒は彼の手を振り払った。 祐介は鼻で笑うと、メガネをかけた小さな男の子をぐいっと引き寄せた。「言ってみろ。誰が君たちをけしかけたんだ?」 男の子は怯えた様子で莉緒を一瞥した。「こ、この人が野口先生に墨汁をかけろってお金をくれたんだ……」 「嘘よ!」莉緒は怒りで震えながら叫んだ。「あなたのことなんて知らない!」 だが、「もういい!」祐介は厳しい声で彼女の言葉を遮った。「沙耶香に謝れ」 莉緒は首を横に振った。「どうしてやっていないことで謝らなきゃいけないの?」 だが、祐介は冷たい顔で、莉緒を日差しがさんさんと照り付ける校庭まで引きずっていった。 その後ろを沙耶香はよろよろと立ち上がってついていった。彼女のスカートは埃まみれで、膝には青あざができていた。 そんな沙耶香はしゃくりあげながら口を開いた。「祐介さん、全部私が悪いのよ」 そう言うと彼女はまた膝から崩れ落ちそうになったので、祐介は彼女をさっと支えてあげた。 そして、祐介の目は沙耶香の青あざができた膝をじっと見つめながら言った。「莉緒、こんなことして、沙耶香が妊娠しているがわからないのか?それなら、君も同じ目に遭わせてやらないとな」 「そんなことしてみなさいよ!」莉緒は声を張り上げた。「父が絶対にあなたを許さないから!」 「さすがはお嬢様だな!」祐介は突然激怒し、彼女の襟首を掴んだ。「実家を後ろ盾にして、何をしても許されるとでも思っているのか?」 そう言うと、祐介はボディーガードの方を向いて怒鳴った。「こいつを押さえつけろ!」 すると二人のボディーガードが、すぐに莉緒の肩をがっちりと押さえつけた。 彼女は激しく抵抗した。「祐介!そこら中に防犯カメラがあるのよ!」 それを聞いて祐介は鼻で笑った。「とっくに切ってある」 彼は莉緒の耳元に身を屈めて言った。「沙耶香を傷つけたんだから、俺を恨むなよ」 それを見た沙耶香は止めるふりをした。「祐介さん、こんなことやめた方がいいんじゃないかしら」 「お前は構うな」祐介は優しく彼女を押し退けると、今度は厳しい声で命じた。「こいつをひざまずかせろ!」 するとボディーガードが、ぐっと力を込めた。 その瞬間、莉緒は膝を地面に強く打ち付けられ、目の前が真っ暗になるほどの痛みを感じた。 彼女は悲鳴を上げないよう唇を噛みしめると、口の端から血が伝った。 「これでチャラだな」 祐介はボディーガードに言った。「一時間だ。こいつを見張っておけ。沙耶香は体が弱いから先に車へ連れて行く。莉緒、君は自分のしたことを反省しておけ」 一方で地面に押さえつけられた莉緒は、下腹部に激しい痛みを感じ、背中は一瞬で冷や汗に濡れた。 「祐介」耐えかねた彼女はか細い声で叫んだ。「お腹が、すごく痛いの」 祐介は振り返り、その目には一瞬ためらいの色が浮かんだ。 すると沙耶香が彼の腕の中に倒れ込むように寄りかかった。「莉緒さんはやっぱり私と違うから、妊娠しているし、無理はさせない方がいいよね」 それを聞くと、祐介の表情はすぐに冷たくなった。「あいつが君にこんなことをしたのに、まだ庇うのか。今日こそ、きっちり落とし前をつけてもらうから」 そう言うと、彼は車に乗り込んだ。 一方で、莉緒は車の窓越しに、祐介が沙耶香のお腹に優しく手を置くのを見ていた。 彼女の視界はどんどんぼやけていき、最後には目の前が真っ暗になって、意識を失った。 第6話 次に目覚めた莉緒は、ツンと鼻につく消毒液の匂いを嗅いだ。下腹部にまだ鈍い痛みが残っていて、思わずお腹に手をやると、指先に冷たい点滴の針が触れた。 「目が覚めたか?」 気が付くと右の方から、祐介の声が聞こえてきた。 莉緒が顔を向けると、彼がベッドのそばに座っているのが見えた。 祐介は身を乗り出して莉緒のお腹に触れようとしたけれど、途中でぴたりとその手を止めた。 「反省したか?」と彼は尋ねた。 莉緒は目を閉じた。 莉緒が黙っていると、祐介は彼女の頬に手を伸ばした。「最初から素直に言うことを聞いていればよかったんだ」 彼の親指が、乾いてひび割れた莉緒の唇をなぞる。「そうすれば、こんな辛い思いをしなくても済んだのに」 「隣の家の妹みたいな女のために、妊娠している私に跪させるなんて」莉緒は顔を背けて祐介の手を避けた。「それが理にかなってるっていうの?」 それを聞いて祐介の手は宙で固まり、眉をひそめた。「俺は感情論で話しているんじゃない。事実に基づいて、正しいか間違っているかを判断しているだけだ」 「疲れたから休みたいの」そう言うと、莉緒は布団を首元まで引き上げた。「出て行ってちょうだい」 そんな彼女の態度に祐介は、明らかにきょとんとした表情を見せた。 彼は莉緒を数秒見つめてから、スマホに目を落とした。「会社で急用ができた。また後で戻ってくる」 ドアまで歩いて行った祐介は、ふと振り返った。「明日、何か検査があるのか?そういえば先生とそんな話をしていたよな?」 「普通の妊婦健診よ」莉緒は一瞬、言葉に詰まった。 祐介は探るように莉緒の顔をじろじろと見ていたが、急に引き返してくると、ベッドサイドのテーブルから彼女のスマホを取り上げた。「パスコードは?」 「誕生日よ」莉緒は鼻で笑った。「覚えてる?」 祐介は2回間違えて、3回目でやっとロックを解除できた。 彼は素早く通話履歴に目を通し、特に怪しいところがないのを確認すると、スマホをベッドに放り投げた。「沙耶香は隣の病室にいる。用がないんだったらむやみに行くな」 莉緒が黙っていると、祐介はふと笑った。「ヤキモチ妬きだな。彼女は本当に、ただの幼馴染の妹みたいなもんだって」 それを聞いて莉緒は、嘲るように口の端を上げて、こくりと頷いた。 そして祐介が出て行きドアが閉まると、莉緒はすぐにナースコールで医師を呼んだ。 「中絶手術は、明日の午前9時でよろしいですね?」医師はカルテをめくりながら確認した。 「はい」莉緒はか細い声で答えた。「主人には言わないでください」 ほどなくして、医師が出て行った後、病室のドアが勢いよく開けられた。 沙耶香が病衣のまま駆け込んできた。彼女は足を引きずっているのに、その目は恐ろしいほどギラついていた。「祐介さんの子供、おろすつもりなんですか?」 莉緒はゆっくりと体を起こした。 今の沙耶香には、か弱い乙女の面影はどこにもなかった。 「自分の立場が分かっているなら、さっさと子供をおろして離婚したらどうです?じゃないと、祐介さんに捨てられたら、慰謝料は一銭も手に入らなくなりますよ!」 莉緒はふっと笑った。「祐介はあなたに言ってないのかしら。彼の会社が誰のおかげで成り立っているのか?」 「デタラメ言わないでくださいよ!」沙耶香は甲高い声を上げた。「祐介さん本人があなたのことなんて愛したことないって、結婚したのも奥山家のためだって言っていましたよ。そもそもあのプロジェクトのためじゃなかったら、とっくの昔に――」 バチンッ。 彼女が言い終わらないうちに、乾いた平手打ちの音が響いた。 沙耶香の顔が横を向き、頬がみるみる赤く腫れ上がった。 「これは、人のものに手を出す泥棒猫へのお返しよ」莉緒はじんじんする手のひらを振った。 バチンッ。 彼女がそう言うと、次にもっと強い平手打ちで沙耶香を引っぱたいた。そして叩かれてよろめいた沙耶香を見て、「これは、私をハメた分のお返しよ」と莉緒は続けた。 すると沙耶香は頬を押さえて2、3歩後ずさると、その目に怒りを浮かべた。 しかし、彼女は視界の隅にドアの外から近づいてくる人影を捉えると、表情を一瞬で悲痛なものに変えた。そして悲鳴を上げると、わざと壁に体をぶつけ、くずおれるように床に倒れ込んだ。 それと同時にドアが力強く押し開けられた。 祐介が手に持った車のキーをしまう間もなく飛び込んできた。 彼は床に倒れている沙耶香を見る目を見開き、激しい怒りのままベッドへと駆け寄った。「莉緒!沙耶香に万が一のことがあったら、ただじゃおかないからな!」 「その前に、彼女が何を言ったか本人に聞いてみたらどう?」莉緒は静かに言った。 だが、祐介はそれを聞いても靡くことなく、沙耶香を抱き起こすと鼻で冷たく笑った。「こんなにも弱っている彼女に何ができるっていうんだ?」 そう言うと、彼は莉緒の赤く腫れた手のひらに目を向けて言った。「それにひきかえ、君はずいぶんとやりやがったな」 すぐさま、医療スタッフたちがなだれ込んできて、てきぱきと沙耶香をストレッチャーに乗せた。 祐介も後を追って出て行こうとしたが、ドアのところで急に振り返った。「誰か、こいつを見張ってろ」 そういう彼の目つきは鋭かった。「莉緒、沙耶香と子供に何かあったら、どうなるか分かってるだろうな」 莉緒は、彼らが廊下の角に消えるのを見送ってから、ゆっくりと横になった。 そして彼女はスマホを手に取った。待ち受け画面はまだ、祐介とのウエディング写真のままだった。 写真の中の祐介は、心から笑っているようで、自分を見つめているその目にも愛情が溢れていた。 そんな彼が今、あの女のために、自分をただじゃおかないって言っているんだ。 そう思いながら、莉緒の指先は父親の電話番号の上で止まっていたが、結局、かけるのはやめた。 ほどなくしてドアの外から足音が聞こえ、冷たい目をした黒いスーツのボディーガードが二人、ガラス窓の向こうに立った。 一方で病室の中では、莉緒がゆっくりと膝を抱えるように体を丸めた。 下腹部に痛みが周期的に襲ってくる。でも、それよりも胸が引き裂かれるような痛みの方が、ずっと辛かった。 5年間の結婚生活は、結局、何も残らなかった。 第7話 しばらくして、眠りについた莉緒は乱暴に揺り起こされた。 目を開けると、すぐ目の前には険しい表情をしている祐介がいた。その瞳は、氷のように冷たかった。 「沙耶香がひどい出血で輸血が必要なんだ」と、彼は低い声で言った。「君と彼女は同じ血液型だから、今すぐ来てくれ」 莉緒は一瞬固まったが、すぐに首を横に振った。「私、もともと貧血なの。これで献血したら、きっと耐えられない」 祐介は鼻で笑った。「沙耶香を傷つけたとき、こうなるとは考えなかったのか?」 それを聞いて莉緒は目を見開き、信じられないという顔で彼を見つめた。「私が、彼女を傷つけたって?」 「責任逃れをするな」祐介はうんざりしたように手を振ると、二人のボディーガードがすぐさま彼女の両脇を固めた。「献血が終われば、この件はそれで済むんだ」 莉緒はもがいたが、大柄な男二人の力には到底かなわなかった。 彼女はベッドから無理やり引きずり降ろされ、ふらつきながら輸血室へと連行された。 廊下の明かりが眩しくて、一瞬、視界がかすんだ。そのとき、ふと結婚したばかりの頃を思い出した。 あの頃、自分が貧血でふらつくと、祐介は徹夜で栄養のあるスープを作ってくれた。そして、心配そうに、一口ずつ食べさせてくれたのだ。 「莉緒、これから少しでも具合が悪かったら、絶対に言うんだよ」と、あの頃の彼は優しく言った。「君に辛い思いをさせたくないんだ」 それなのに今は、輸血用の椅子に押さえつけられる自分を、祐介は冷たい目で見ているだけだった。 針が腕の血管に突き刺さり、真っ赤な血液が管を伝って、採血バッグへと流れていった。 それと共に、莉緒の顔色はどんどん青ざめていき、唇からは血の気が引き、指先が冷たくなっていった。 見かねた医師は眉をひそめ、祐介に小声で言った。「葛城社長、奥さんは体が弱すぎます。これ以上の採血は危険ですよ」 祐介は莉緒の真っ青な顔をじっと見て、わずかに眉を寄せた。一瞬、ためらったようにも見えた。 でも、すぐに彼は冷たく言い放った。「続けろ」 莉緒は目を閉じた。心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような痛みが走った。 やっぱり、この男は自分が死んでも構わないんだ。 ほどなくして採血が終わる、莉緒はまっすぐに立つこともできず、目の前が何度も真っ暗になった。 祐介は、今にも倒れそうな彼女を見て手を差し伸べ、支えながら少し優しい声で言った。「顔色が悪いな」 莉緒は何も言わずに彼の手を振り払うと、壁に手をつきながら、ゆっくりと歩き始めた。 祐介は眉をひそめて彼女の後を追いながら言った。「栄養のあるスープを作るように言っておいたから、後で少し食べろ」 そう言われて莉緒は足を止め、振り返って皮肉な笑みを浮かべた。「なに?私が死んだら、彼女に輸血する人がいなくなるのが怖いの?」 それを言われた祐介の顔色を一変し、何か言い返そうとしたその時、医師が慌てて駆け寄ってきた。「葛城社長、野口さんがまたひどい出血を!さっきの輸血だけでは足りません!」 莉緒は息を呑み、思わず後ずさった。「いや、もうこれ以上は無理……」 祐介は莉緒の真っ青な顔を見て、その目に一瞬、ためらいの色が浮かんだ。 でも、彼はすぐに心を鬼にして、医師に言った。「続けろ」 彼の言葉に、莉緒は全身から血の気が引いていくのを感じ、まるで奈落の底へ突き落されたようだった。 彼女は祐介を見つめ、聞き取れないほどのか細い声で言った。「祐介、私、死んじゃう」 だが、祐介は莉緒から目をそらし、ぽつりと言った。「君は死なないさ」 二度目の採血の後、莉緒の意識はほとんどなくなっていた。 椅子にもたれかかった彼女は、弱々しく息をしながら、目の前が何度も真っ暗になった。 祐介は莉緒の血の気のない顔を見て、ようやく焦りの色を見せ、彼女を抱きかかえようと手を伸ばした。「莉緒」 しかし莉緒は、その手を激しく振り払った。そして壁に手をつき、一歩、また一歩と、ゆっくり苦しそうに病室へと戻っていった。 祐介が顔を上げると、莉緒のか細い後ろ姿は今にも倒れそうだったが、それでも彼女は一度も振り返らず健気に去っていた。 祐介はその場に立ち尽くし、遠ざかる莉緒の後ろ姿を見つめていると、ふと訳もなく不安が胸にこみ上げてきた。 そうしていると、そばにいた医師が報告してきた。「葛城社長、野口さんの容体は安定しました」 祐介は我に返ってうなずいたが、結局彼は莉緒を追いかけていくことはなかった。 第8話 一方で、病室にいた莉緒はベッドに横になると、体は氷のように冷えきっているのを感じた。 祐介が持ってきてくれた栄養のあるスープが、まだベッドの横に置いてあったが、もうすっかり冷めてしまっている。一口飲もうとしたけど、指先がひどく震えて、スプーンさえ握れなかった。 そして下腹部の痛みがどんどんひどくなり、まるで、お腹の中をナイフでかき回されているみたいだった。 莉緒は歯を食いしばり、精いっぱい力を振り絞りナースコールで医師を呼んだ。 ほどなくして、駆け込んできた医師が彼女の青ざめた顔を見て診察しようと布団を捲ったが、目の前の光景に顔色を一変した。 布団の下では、シーツは血まみれだったのだ。 「貧血の人がこんなに大量に出血だと、命に関わります。ましてや、ついさっき無理に採血されたばかりだったし……」医師の声には緊張が走っていた。「すぐに手術をしないと、危険です!」 それを聞いて莉緒は静かに目を閉じ、うなずいた。「お願いします」 彼女は少し間を置いて、小さな声で言った。「このこと、主人には言わないでください」 冷たい手術台に横たわりながら、莉緒の意識はもうろうとしていた。そして彼女は5年前のあの日に戻っていたようだった。 あれは祐介に初めて会った日。彼は雨の中で自分を待っていて、その目にはやさしい笑みが浮かんでいた。 そして、結婚した時も彼は自分の手を握って言った。「莉緒、一生大事にするよ」 でも、祐介はだんだん変わってしまった。 彼は、自分の強気なところが嫌だと言って、お淑やかじゃないとか、いつも偉そうだとか言って嫌がっていた。 そう言われて莉緒は自分がいけないんだと思って、懸命に彼に気に入られようと努めてきた。 でも、今になってやっと分かった。自分が悪かったんじゃない。祐介は、一度も自分を愛してなんかいなかったんだ。 そう思っていると麻酔がだんだん効いてきて、冷たい器具が体に触れるのを感じると、莉緒は目を閉じ、一筋の涙を流した。 これでお腹の子は、もういなくなってしまった。 この5年間の結婚生活も、これで完全に終わりだ。 手術が終わり、莉緒は病室へと運ばれた。 看護師が布団をかけあげると、彼女にそっと声をかけた。「ゆっくり休んでくださいね」 莉緒は、か細い声で尋ねた。「主人は来ましたか?」 看護師は少しためらったあと、首を横に振った。「いえ、来てません」 それを聞いて、莉緒は力がぬけたように笑った。そんなこと、とっくに分かっていた。 彼女は、つらさをこらえて体を起こし、窓のそばまで歩いて行った。 下の庭では、祐介が沙耶香を支えながら、ゆっくりと散歩していた。 沙耶香は顔色も良く、甘えるように祐介の肩に寄りかかっている。そして彼もまた優しい眼差しを彼女に向けていた。 莉緒は静かにその光景を見ていた。心臓が、ナイフで少しずつ切り裂かれていくようだった。 かつては、この男は同じように、自分のことを大切に世話してくれていたのだ。 彼女は振り返ると、バッグからすでに祐介がサイン済みの離婚協議書を取り出し、そっとベッドの上に置いた。 それをし終えると彼女は、振り返ることなく、部屋を出て行った。 廊下の突き当たりでは、父親が寄越した迎えの人が、ずっと待っていた。 「莉緒様、お車はご用意ずみです」 それを聞いて莉緒は、最後に一度だけ振り返った。その視線の先には、沙耶香を支えながら病院に入っていく祐介がいた。 それからエレベーターに乗り込むと、彼女はもう二度と振り返ることはなかった。