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妻の血、愛人の祝宴
子宮外妊娠による大出血で、手術台の上で死の淵を彷徨っていた彼女。 しかしその時、夫は愛人のために都心の一等地の高級ホテルを貸し切り、盛...
Chương (1)
第1章
子宮外妊娠による大出血で、手術台の上で死の淵を彷徨っていた彼女。
しかしその時、夫は愛人のために都心の一等地の高級ホテルを貸し切り、盛大な誕生日パーティーを開いていた。
結婚して四年、あれほどまでに尽くしてきたというのに、彼の心を動かすことはできなかった。
彼が憎き仇の娘を手の中の宝物のように大切に慈しむ姿を目にした時、彼女の心は完全に壊れた。
一枚の離婚協議書を置き、彼女は静かに彼の前から姿を消した。
仕事の世界に舞い戻った彼女は、キャリアに没頭。
その才能は大輪の花が咲き、潮崎市中の注目を浴びる。
いつしか彼女は、上流階級の男たちが競って手に入れようとする、真の優秀な人材となっていた。
彼女の周りに男たちが群がる様子を見た冷徹な夫は、ついに平静を保てなくなった。
彼は自らの手で彼女の新たな縁談を次々と断ち切り、そして彼女を壁際に追い詰めた。
「離婚は認めない」
第1話
潮崎市、センター病院。
「子宮外妊娠です。卵管破裂は命にかかわります!こんな大手術なのに、どうして一人で来たんですか?旦那さんは?早く呼んでサインをもらってください!」
朝霧静奈(あさぎりしずな)は、腹部を引き裂かれるような激痛に耐えながら、電話をかけた。
呼び出し音は長く続いた。
受話器の向こうから、冷たい声が聞こえる。
「用件は?」
「彰人、今、忙しい?お腹がすごく痛くて、少しだけ……」
「無理だ」
彼女が言い終わる前に、不機嫌な声が冷たく言葉を遮った。
「腹が痛いなら医者に行け。こっちは忙しい」
「彰人さん、誰から?」
電話の向こうから、甘い女の声が聞こえる。
「どうでもいい相手だ」
彼の声が、急に優しくなった。
「どれがいい?好きな方を言え。競り落としてプレゼントしてやる」
耳元で、ツーツーという無機質な音が鳴り響く。
静奈の心は、まるでナイフでじわじわと切り刻まれるようだった。
彼女の顔色が真っ白になり、呼吸が浅くなっているのに気づき、医師が叫んだ。
「急げ!すぐに手術室を押さえろ!患者の手術を始める!」
静奈が次に目を覚ましたのは、病室のベッドの上だった。
「目が覚めましたか?昨日は本当に危険な状態だったんですよ。処置が早かったから助かったものの、もう少し遅かったら危なかったんですから!」
若い看護師が、点滴をしながら愚痴をこぼした。
「それにしても、あなたの旦那さん、ひどいじゃないですか!こんなに大きな手術をしたのに、一度も顔を見せないなんて!本当に無責任ですよ!
はい、これ、介護士センターの番号です。必要なら、介護士を呼んでくださいね」
「ありがとうございます」
静奈は看護師から名刺を受け取った。
携帯を取り出し、介護士センターに電話をかけようとした、その時。
突然、ニュース速報がポップアップで表示された。
【潮崎市一の富豪、長谷川グループ社長・長谷川彰人氏、二十八億円のマダム・デュヴィエのダイヤモンドネックレスを落札!恋人の笑顔のため、衝撃のプレゼントか!】
目に突き刺さるような見出しに、静奈の瞳孔が大きく開いた。
写真に写っているこの上なく端正な顔立ちは、まさしく自分の夫、長谷川彰人(はせがわあきと)だった。
だが、自分は彼にとって決して公開できない妻。
結婚して四年。
彼はいつも、氷のように冷たく無慈悲だった。
てっきり、それが彼の持って生まれた性格なのだとそう思っていた。
彼の心を動かすため、自分は従順で物分かりの良い「長谷川夫人」を必死に演じてきた。
しかし今、彼が堂々と他の女性を腕に抱き、世間に愛情を見せつけている姿を見て、ようやく悟った。
彼は本当に少しも自分を愛してなどいなかったのだ。
胸が締め付けられるように痛む。
静奈の目には、みるみるうちに涙が滲んだ。
もう、諦めなければ。
四年も続いたこの茶番を、終わらせる時が来たのだ。
静奈は予定より二日早く、退院手続きを済ませた。
医師は心配そうな顔で言った。
「体はまだかなり衰弱していますよ。もう少し入院していた方が……」
「家の用事がありまして」
「しばらくは絶対に安静にしてください。激しい運動は禁止、それから性行為は絶対に駄目ですよ。一週間後にまた検査に来てください」
「ええ、わかりました。ありがとうございます、先生」
静奈は汐見台という住宅街にある一軒家の邸宅に戻った。
家政婦の田所敦子(たどころ あつこ)は、あからさまに不機嫌な顔で彼女を責め立てた。
「若奥様、近頃はますます目に余りますね!何日も家を空けるなんて!若様がお知りになったら、お怒りになりますよ!」
敦子は長谷川家の家政婦という立場だが、その振る舞いは姑同然だった。
彼女は彰人のめのとであり、自分は特別な存在だと自負している。
彰人から寵愛を受けていない静奈のことなど、鼻から見下していた。
静奈は分かっていた。
敦子が自分に対してこのような態度を取るのは、彰人の指示ではないにしても、彼の黙認があるからだ。
でなければ、これほどまで傲慢になれるはずがない。
これまでは、彰人に気に入られようと、静奈は彼の周りの人間すべてに媚びへつらってきた。
敦子にいじめられ、見下されても、いつも腹の底に怒りを押し殺してきた。
しかし、もう我慢する必要はない。
静奈は敦子の頬を思い切り平手で打った。
その声は侮蔑に満ちていた。
「出過ぎた真似を!ただの雇われの分際で、誰に向かってそんな口を利いている!」
「なっ!」
敦子は顔を覆い、愕然とした表情で目を見開いた。まさか静奈が手を出すとは思ってもみなかったのだろう。
「私を叩いた……」
「叩かれて当然よ!何?まさか、やり返すつもり?」
静奈の冷え切った一言が、敦子を凍り付かせた。
いくら若様に疎まれていようと、彼女は長谷川家の大奥様が直々に選んだ人なのだ。
敦子は、込み上げる怒りを無理やり飲み込むしかなかった。
静奈は背を向け、二階へと上がっていく。
背後から、敦子の小声での悪態が聞こえてきた。
「顔が綺麗なだけで、何の役にも立たないくせに。どうせ若様からは見向きもされないんだわ。この家の若奥様の席なんて、すぐに他の人のものになるんだから!」
棘のある言葉が、ナイフのように静奈の胸に突き刺さる。
彼女は深呼吸をした。
もう、どうでもいい。
今日を限り、彰人に関するすべては、もうどうでもよくなるのだ。
自室に戻った静奈は、私物をすべてスーツケースに詰めた。
彼女の物は驚くほど少なく、スーツケース一つで十分だった。
スーツケースを持ち上げた瞬間、傷口が引きつれた。
腹部に激しい痛みが走り、冷や汗が雨のように流れ落ちる。
静奈は痛み止めを数錠飲んで、ようやく少し落ち着いた。
薬が効いてきたのか、彼女はベッドに横たわると、いつの間にか眠りに落ちていた。
深夜。
部屋に、大きな人影が入ってきた。
バスルームからシャワーの音が聞こえ、二十分ほどして、彰人が腰にバスタオルを巻いた姿で出てきた。
彼は彫刻のように整った顔立ちで、広い肩幅に引き締まった腰、そして力強く割れた腹筋のが男性的魅力を放っていた。
水滴が筋肉を伝い、緩く巻かれたタオルの内側へと消えていく。
彼は何も言わなかった。
まるで月に一回の事務的なことをこなすかのように、静奈のネグリジェの裾をめくり上げた。
眠っていた静奈は、痛みに体を震わせた。
「痛い……」
彼女は無意識に彼を押しのけた。
「やめて」
「拒むふりか?静奈、それが新しい手口か?」
低く、嘲るような声が頭上から降ってきた。
彰人は彼女から離れるどころか、報復するように続けた。
「月に一度の夫婦の営みは、お前がおばあさんに頼み込んで実現したことだろう?今更やめたいと?」
傷口が引き裂かれるような痛みに、静奈の目から涙がこぼれ落ちた。
彰人が自分を憎んでいることは分かっている。
数年前。
彰人の祖母である大奥様が、二人の結婚を強引に進めた。
結婚後、彰人が彼女に冷淡な態度を取り続けるのを見かねた大奥様が、月に一度は夫婦として同衾するよう、彼に命じたのだ。
その度に、彼はまるで道具でも扱うかのように、彼女で欲望を処理するだけだった。
四年間にも及ぶ結婚生活を思い返し、静奈の胸は痛みに満たされた。
細心の注意を払い、自分を殺して尽くしてきたというのに、彼の心からの愛情はひとかけらも手に入らなかった。
それならば、これ以上執着する必要がどこにあるだろう?
「彰人、離婚よ……」
静奈が言い終わる前に、けたたましく携帯の着信音が鳴り響いた。
彰人は、夜中に電話がかかってくることを非常に嫌う。
しかし、その電話には驚くほど優しく応じた。
「どうした?」
「彰人さん、一人だと怖いの。会いに来てくれない?」
受話器から、甘えたような女の声が聞こえる。
「わかった」
彼は一瞬のためらいもなく承諾した。
その声には、静奈が一度も聞いたことのない優しさが滲んでいた。
「すぐに行くから、二十分だけ待ってて」
電話が切れる。
彰人は、ためらうことなく彼女の上から体をどけた。
そして、一度も振り返ることなく部屋を出て行った。
数分後、階下から車が走り去る音が聞こえた。
涙が枕を濡らす。
静奈は、白くなった指でシーツを固く握りしめた。
愛すると、愛さないとでは、これほどまでに違うのだ。
翌朝。
静奈は離婚協議書をテーブルの上に残し、スーツケースを引いて家を出た。
その瞬間、腹部に骨の髄まで染み込むような痛みが走り、体の下から暖かい何かが流れ出る感覚があった。
太ももを伝って、足元へと落ちていく。
ふと下を見る。
そこには、衝撃的なほどの血だまりが広がっていた。
第2話
静奈は震える手で119番に電話をかけた。
救急車のサイレンが聞こえてきたところで、彼女はついに意識を失った。
再び目を覚ましたのは、翌日のことだった。
体中に、無数の医療機器の管が繋がれている。
医師が、まるで出来の悪い子供を叱るように言った。
「短期間内に性行為は駄目だと、あれほど言ったでしょう!旦那さんはそんなに我慢ができない人なんですか?
手術したばかりの体で関係を持つなんて!無茶苦茶で!傷口がまた開いて出血したんですよ!搬送がもう少し遅かったら、命はありませんでしたからね!」
「ごめんなさい、先生。迷惑をかけてしまって」
医師は、衰弱しきって青白い顔をした静奈を見て、少しだけ不憫に思ったのか、語気を和らげた。
「言わせてもらいますけど、旦那さんは本当にろくでなしですよ。あなたの体を少しも大事にしていない!
すぐに家族に電話して、病院に来てもらいなさい。万が一のことがあっても、私では責任が取れませんから」
医師はそれだけ言うと、病室を出て行った。
静奈の胸に、苦い思いが込み上げる。
彼女にもう、家族と呼べる人はいなかった。
十七歳の時。
両親が不慮の事故で亡くなり、彼女は天涯孤独の身となった。
叔父の朝霧良平(あさぎり りょうへい)が後見人として現れ、両親が遺した財産と会社を少しずつ食い潰し、ついには両親の屋敷まで乗っ取った。
十九歳の時。
酒に酔った叔父が、亡き母の名を呼びながら彼女の部屋に押し入ってきた。もう少しで、力ずくで辱められるところだった。
その日を境に、彼女はあの家を完全に捨てた。
これ以上医師に迷惑はかけられないと、静奈は親友の浅野雪乃(あさの ゆきの)に電話をかけた。
三十分後。
雪乃が病院に駆けつけてきた。
看護師から静奈の事情を聞いた彼女は、怒りを爆発させた。
「長谷川、あのクソ野郎!あなたをこんな目に遭わせておいて、顔も見せないなんて!番号を教えなさい!罵詈雑言の限りを尽くしてやらなきゃ、気が済まない!」
雪乃は、自分のことのように憤慨している。
しかし静奈は静かに首を振った。
「その必要はないわ」
今電話したところで、惨めな思いをするだけだ。
彼はきっと、もっと自分のことを嫌いになる。
醜く争うくらいなら、このまま静かに別れた方がましだった。
「あんたってば!」
雪乃は、もどかしさと不憫さで胸がいっぱいになった。
「四年前、目を輝かせながら結婚するって言った時、私はてっきり、玉の輿に乗って幸せになるんだと思ってた!まさか、こんな苦行をさせられてたなんて!」
「長谷川はあんたに無関心で、辛い思いばかりさせて……一体、どこが良くて、そんなに尽くしてきたの?
金持ちだからって言うなら、まだ分かるわよ!でも、あのケチ男、毎月数万円の小遣いを家政婦経由で渡してくるだけじゃない!あなたに対して、とことんセコいのよ!」
静奈、もしかして長谷川って、あなたの命の恩人だったりするわけ?だからそんなに惚れてるの!」
静奈は力なく笑った。
「ええ、そうよ。彼は私の命の恩人」
両親を失い、重度のうつ病に苦しんでいた時、彼は光のように、自分の人生を照らしてくれた。
その日から、どうしようもなく彼を愛してしまった。
でも……
静奈は、そっと自身の下腹部に手を当てた。
彼のために、二度も死にかけた。
これで、あの時の恩は返せただろう。
もう、彼との間に何の貸し借りもない。
入院して一週間。
ずっと雪乃が付き添ってくれていたが、彰人から電話の一本もかかってくることはなかった。
その日の午前。
雪乃に支えられ、静奈が病室を出た時のことだった。
廊下が急に騒がしくなり、若い看護師たちが皆、同じ方向へと走っていく。
「うちの病院に新しい准教授が来たのよ!まだ二十五歳ですって!しかも女医さん!」
「そんなに若くて准教授なんて、すごすぎる!」
「ええ、ずっと海外で研究されてて、賞もたくさん取ってるらしいわよ。帰国した途端、医学界が騒然となったんだって!」
「実力だけじゃなくて、ものすごい美人で、超お金持ちの彼氏がいるって噂よ!彼女をバックアップするために、病院に病棟を一つ寄付するって申し出たらしいわ!」
「うそ!どんだけリッチなのよ!」
病院での生活に退屈しきっていた雪乃は、その話を聞くやいなや、目を輝かせた。
「静奈、私たちも見に行きましょ!」
病院の正面玄関は、黒山の人だかりだった。
院長自らが出迎えているところを見ると、病院側がこの新しい女医をいかに重要視しているかが分かる。
静奈が人に押されないよう、二人は人垣の一番後ろに立った。
雪乃は爪先立ちで首を伸ばしながら、ぼやいた。
「この騒ぎ、知らない人が見たら、どっかのトップアイドルでも来たのかと思うわよね」
黒い高級車がゆっくりと停車し、中から一人の男と一人の女が降りてきた。
人垣に遮られ、女の顔は見えない。
しかし、男の際立って高い身長は、人混みの中でも一際目を引いた。
その背中を見て、静奈はどこか見覚えがあるような気がした。
男が隣の女をエスコートし、こちらに振り向いた瞬間、静奈は息を呑んだ。
その、この世のものとは思えぬほど整った顔立ちは、自分の夫、長谷川彰人だったのだ!
「新しく来た朝霧先生、彼氏は長谷川グループの社長ですって。やっぱり噂通り、めちゃくちゃ格好いい!」
「数日前のニュースで見たわ!恋人のご機嫌を取るために、オークションでとんでもない額を使ったって!
今日は堂々と彼女のために公の場に現れるなんて、甘やかしすぎでしょ!」
「朝霧先生って本当に幸せ者ね。まさに完璧な人生。どうしたらあんな風になれるのかしら!」
周りの感嘆の声や噂話が、次々と静奈の耳に流れ込んでくる。
雪乃もまた、彰人の顔を見て、驚きを隠せなかった。
「うっそ……!あのクソ野郎!」
静奈が死にかけてるっていうのに、知らんぷりを決め込んで。
その裏で、堂々と愛人を世間にお披露目していたなんて!
怒りに燃えた雪乃は、静奈のために文句を言ってやろうと前に飛び出そうとした。
しかし、静奈が彼女の腕を掴んだ。
「やめて、雪乃。帰りましょう」
離婚はもう決まったこと。事をこれ以上荒立てたくはなかった。
雪乃は悔しくてたまらなかったが、手術を終えたばかりの静奈がこれ以上の刺激を受けて倒れてしまっては大変だと、彼女を支えて病室に戻った。
「長谷川、あのクソ野郎!既婚者のくせに、なんて厚かましいの!愛人を連れて、堂々と人前でいちゃついて!
あの愛人も本当に面の皮が厚いわ!医者のくせに、人の夫を誘惑するなんて!医者としての倫理観ゼロよ!」
雪乃は、クズ男と愛人を罵り続けた。
しかし、静奈の表情は驚くほど穏やかだった。
雪乃は、静奈がどれほど彰人を愛していたかを知っている。
だからこそ、心配になった。
「静奈、大丈夫?」
静奈は、無理に笑顔を作った。
「大丈夫よ。だって、もう彼とは離婚するって決めたから」
離婚協議書は、寝室に置いてきた。
遅くとも来月には、彼も目にするだろう。
雪乃は少し驚いた。
「静奈、本当に吹っ切れたの?長谷川と離婚するって」
静奈は、こくりと頷いた。
「ええ、吹っ切れた」
表情は穏やかだったが、心は引き裂かれるように痛んでいた。
七年間、ずっと彼を愛し続けた。
彼の名前は、すでに心の奥深くまで刻み込まれている。
血が滲むほど強く引き剥がさなければ、彼を完全に自分の中から追い出すことはできないだろう。
たとえ、どれほど痛くても……
彼女は、この結婚生活に終止符を打つと固く決意していた。
「良かった、静奈!」
雪乃は、少し興奮気味に言った。
「あなたはこんなに優秀で、綺麗なんだから!どんな男だって見つかるわよ!何も長谷川みたいな奴に夢中する必要なんてないじゃない!
離婚よ、離婚!さっさと離婚しちゃいなさい!離婚が成立したら、この私が、あなたをモデルのいる店に連れて行ってあげる!
年下の可愛い系、ワイルド系、癒し系、筋肉系、選び放題よ!片っ端から遊び尽くしてやりましょ!」
第3話
数日後、静奈は退院手続きを済ませた。
彼女はネットで物件を探し、家賃一百万円、年払いの部屋を見つけた。
ATMでお金を引き出そうとした時、カードの残高がわずか数千円しかないことに気づいた。
雪乃は、またしても汚い言葉で罵倒せずにはいられなかった。
「長谷川!潮崎市一の富豪!資産何兆よ!自分の妻に対して、なんてケチなのよ!
愛人には平気で何十億、何百億と貢いで!オークションで馬鹿騒ぎしたり、病院に寄付したり!
通りすがりの物乞いにだって数千円くらい恵んでやるくせに、どうして妻に対しては他人以下なのよ!
静奈、この数年間、一体どんな生活してたのよ?」
静奈の胸が苦しくなる。彰人は、きっと心の底から自分を憎んでいるのだろう。
四年前。長谷川家の大奥様に招かれ、本邸を訪れたことがあった。
夕方から大雨になり、帰れなくなった彼女を、大奥様は彰人の隣室に泊まらせた。
彰人はその日、接待があった。誰かが彼の酒に薬を入れたのだ。
夜中、泥酔して帰宅した彼は部屋を間違え、彼女と関係を持ってしまった。
大奥様は、元々二人を結婚させたがっていた。
翌朝、二人が同じベッドで寝ているのを見つけると、それを口実に彰人に彼女を娶るよう強制したのだ。
彰人の誤解は深かった。彼の心の中で、静奈は玉の輿に乗るためなら手段を選ばない女、ということになっていた。
人に指図されることを何よりも嫌う彼は、彼なりのやり方で、静奈に手酷い復讐をしていたのだ。
思い返せば。家政婦の敦子は、生活費を渡すたびに、嫌味たらしく彼女を貶めた。
「若奥様は毎日、食材の買い出しも料理もなさらない。光熱費や管理費を払うわけでもない。
一体何にお金をお使いになるんですか?若様が毎月数万円くださるだけでも、ありがたいことですよ!」
静奈は、元々物欲がほとんどない人間だった。彰人と一緒にいられるだけで、彼女にとってはそれがこの上ない幸福だったのだ。
だから、そんな状況を少しもおかしいとは思わなかった。
今にして思えば、自分は「長谷川夫人」として、あまりにも惨めな存在だったと痛感する。
カードを財布に戻そうとした時、ふと、仕切りに古いカードが一枚入っているのに気づいた。
それは、大学時代のものだ。
毎年の奨学金や、コンペで得た賞金がこのカードに入っている。家賃くらいは払えるはずだ。
静奈がカードをATMに挿入すると、信じられないことに、画面に長い数字の列が現れた。
隣の雪乃は、目を丸くして固まった。
「うそ!これ、バグってない?……百万、千万、一億……」
雪乃は真剣にゼロを数えた。
「え、二十億以上あるんだけど!」
静奈もその金額に驚いた。明細を調べてみると、ある製薬会社からの特許配当金であり、毎月一億円近い入金があることが分かった。
大学の期間、彼女は指導教師の下で創薬研究に参加し、ある特効薬を開発して特許を取得した。
大学は彼女のために、博士課程への海外留学を特例で申請してくれた。
だが当時の彼女は、彰人と結婚することしか頭になく、他の一切には無関心だった。
彼女は留学の機会を放棄し、研究成果のすべてを指導教師に一任した。
先生は口を酸っぱくして彼女を説得したが、彼女は全く聞く耳を持たなかった。
最終的に、先生は諦めたように彼女の口座番号だけを尋ね、彼女の結婚式にも出席しなかった。
今になるまで、静奈は知らなかったのだ。あの特許の配当金が、毎月欠かさず彼女の口座に振り込まれていたことを。
このお金の出所を聞いて、雪乃は心の底から静奈に感服した。
「静奈、あなたってマジで天才!大学時代の研究成果だけで、こんな大金稼いでたなんて!すごすぎでしょ!」
静奈は、一瞬、意識が遠のくのを感じた。
長年「長谷川夫人」を演じるうちに、すっかり忘れていた。
かつての自分が、わずか十五歳で国内トップの医科大学に首席で合格した天才少女だったことを。
二十歳で特効薬を開発し、医療業界全体の注目を集めたことを。
ぼんやりしていると、不動産仲介業者から電話がかかってきた。
「朝霧さん、先ほどの部屋ですが、借りられますか?」
「いえ、借りません」
静奈は答えた。
「オーナーに、売却の意思がないか聞いてください。私が買います」
「えっ!かしこまりました!すぐにオーナーに確認します!」
その日の午後。静奈は売買契約書にサインし、所有権移転手続きを済ませ、新しい自宅へと引っ越した。
雪乃がインテリアのセッティングを手伝い、ささやかな引っ越し祝いを開いてくれた。
「静奈、あのクソ野郎と縁が切れて、本当におめでとう!これからは絶対に良いことしかないわよ!」
夜。静奈がベッドに入ろうとした時、突然、高橋榊(たかはし さかき)から電話がかかってきた。
榊は、彼女の父が生前、運転手として雇っていた人物だ。
よほどの緊急事態でなければ、こんな夜更けに電話をかけてくるはずがない。
静奈は電話に出た。
「榊さん」
「お嬢様、社長と奥様のあの事故ですが、単なる事故ではなかったかもしれません。お二人は、殺害された疑いがあります」
静奈の瞳孔が、カッと見開かれた。
「榊さん、何か分かったの?父と母は、一体どうやって死んだの?誰に殺されたの?」
「犯人は叔父さん、朝霧良平だと思われます。まだ彼を断罪できる直接的な証拠はありませんが、ご両親の死に、彼が関わっていることは間違いありません」
朝霧良平……静奈は、ベッドの上に崩れ落ちた。
両親が亡くなって以来、すべての利益を得てきたのは、叔父の一家だった。
彼らは、静奈の両親が二十年かけて必死に築き上げてきたものすべてを奪い取った。
てっきり、彼らはただ強欲なだけだと思っていた。
だが、疑ったことすらなかった。彼らが、お金のために、両親の命まで奪うということを!
静奈は、一睡もできなかった。目を閉じれば、両親が亡くなった時の光景が蘇る。
悪夢にうなされ、飛び起きた。静奈は、荒い息を何度も繰り返した。
必ず、両親の死の真相を突き止める。
そして、犯人に必ず代償を支払わせる!
翌日の午前。雪乃が静奈をショッピングに誘った。
「静奈、どうしたの、顔色が真っ青よ。昨日、眠れなかった?」
「ベッドが変わったから、ちょっと慣れなくて」
雪乃は、彼女に薄く口紅を塗ってあげた。
「うん、だいぶ顔色が良くなった!
さあ、行きましょ!あなたみたいに美人でスタイルも良い子が、綺麗な服を着ないなんて、宝の持ち腐れよ」
雪乃は静奈の手を引き、潮崎市で最も高級なデパートへとやってきた。
静奈は、シルバーグレーのオフショルダードレスに目を留めた。
「お客様、お目が高いですよ。そちらは、今年のショーで使用された限定モデルで、国内には一点しかございません」
店員がドレスをハンガーから外し、静奈に手渡そうとした。
静奈が手を受け取ろうとした、その時。別の手が、ドレスの反対側を掴んだ。
「これ、いいわね。店員さん、包んでちょうだい」
静奈が顔を向けると、そこには見慣れた顔があった。
完璧なメイクで、高級ブランド品に身を包んだその女は、まさしく叔父の娘、朝霧沙彩(あさぎり さあや)だった。
かつて、沙彩は静奈の家に居座り、彼女を散々いじめていた。
昨夜の榊からの電話の件もあり、静奈の胸には、彼女に対する憎しみが込み上げた。
静奈は冷たい声で言った。
「私が先に見つけたの、放して」
沙彩も静奈に気づき、少し驚いたような顔をした。
彼女は静奈を品定めするように見つめ、疑念に満ちた声で言った。
「このドレス、560万円もするのよ。あなたなんかに買えるわけ?」
「買えるか買えないか、あんたに関係ないでしょ!」
気が強い雪乃が、ドレスをひったくった。
「静奈、ほら、試着してきなさい」
静奈が試着室に向かおうとした時。突然、力強い大きな手が、彼女の腕を掴んだ。
低く、拒絶を許さない威厳のある声が、頭上から響いた。
「その服は沙彩に譲れ。埋め合わせに、他の服を好きなだけ選んでいい」
静奈が顔を上げると、その場で凍り付いた。
沙彩の隣に立ち、仇の娘に服を譲れと命じたその男は、あろうことか、彼女の夫、長谷川彰人だったのだ。
第4話
この光景を目の当たりにし、静奈の足元から冷気が這い上がってくるようだった。体は思わず震えだす。
彰人が骨の髄まで可愛がっていた女、それが、まさか沙彩だったとは!
なぜよりによって彼女なのか、なぜよりによって仇の娘なのか!
「もし、断ると言ったら?」
静奈は、声の震えを必死に抑え込んだ。
「お前への生活費を中止する」
彰人の声は、冷たく突き放すようだった。
「ふふ……」
静奈は笑いながら、涙がこぼれそうになった。なんという皮肉だろう。
沙彩のご機嫌を取るためなら、彼は本当に何でもするのだ。
「いいのよ、彰人さん」
沙彩が甘えた声で彰人の腕に絡みつく。
「彼女、私の従妹なの。両親を早くに亡くして。昔、家にいた頃から、よく私の物を欲しがったわ。たかが服一枚じゃない、譲ってあげるわ」
雪乃が我慢できなくなり、沙彩を指差して怒鳴った。
「この厚かましい泥棒猫!静奈の物を奪うだけじゃ飽き足らず、白々しい嘘までつくなんて!その口、引き裂いてやるわ!」
彰人の顔色が、目に見えて険しくなった。
静奈は雪乃を引き留めた。
彰人と沙彩、そして自分。この三人の問題に、他人を巻き込みたくはなかった。
彰人は静奈をじっと見つめ、彼女が折れるのを苛立たしげに待っていた。
しかし静奈は、持っていたカードをまっすぐ店員に差し出した。
「このドレス、いただくわ。カードで」
これほどあからさまに拒絶され、彰人はわずかに眉をひそめ、不快感を露わにした。
静奈は彼を無視し、高額なドレスの入った紙袋を手に、踵を返した。
背後から、彰人の低い声が聞こえた。
「これと、これと、それもだ。この店にある新作を全て、沙彩の家へ送ろう!」
静奈の足が止まった。
新作全てとなれば、安く見積もっても億単位になるだろう。
沙彩が望んだ服を手に入れられなかった埋め合わせとして、彼はこれほど豪快な手段で彼女を慰めるのだ。
よほど、心の底から彼女を愛しているのだろう。彼女がほんの少しでも不快な思いをすることが許せないのだ。
雪乃は、またしても汚い言葉で罵った。
「クソッ!長谷川の目は節穴か!あなたみたいな素晴らしい奥さんを大事にしないで、あの性悪女のどこがいいって言うのよ!」
静奈の胸に鋭い痛みが走ったが、すぐに穏やかな心持ちを取り戻した。
離婚を決めた以上、もう彼のために心を痛める必要はない。
翌日の午前。静奈は一人、当てもなく街を歩いていた。
ぶらぶらしているうちに、いつの間にか母校の前にたどり着いていた。
キャンパス内では、合同企業説明会が開かれている。
後輩たちの希望に満ちた顔を見て、静奈の心は揺らいだ。
もし四年前、自分が彰人との結婚にそこまで固執していなかったら。
もし、自分の学業もキャリアも諦めていなかったら、今頃は全く違う景色が広がっていたのだろうか?
「朝霧さん?」
背後から名前を呼ばれ、振り返ると、そこには大学時代の指導教師だった高野文(たかの ふみ)教授がいた。
「高野先生」
文は少し老け、白髪が増えていたが、相変わらず毒舌な「先生」のままだった。
「痩せたな。顔色も悪い。この数年、あまり良い暮らしをしていなかったんじゃないか?」
「私は……」
静奈は言葉に詰まり、どう答えるべきか分からなかった。
「あの男には、遠目から一度会ったことがある。その時、君に対して本気じゃないと分かったよ。
君という奴は、痛い目を見ないと分からないタイプだからな。ようやく目が覚めたか?」
文は、まるで出来の悪い弟子を叱るように言った。
静奈は苦笑した。
「ええ。自分で経験してみて、初めてどれだけ痛いか分かりました。
先生、特許の件、ありがとうございました」
「あれは元々、君が得るべきものだ。金が手元にあれば、いざという時の逃げ道くらいにはなるだろう」
今になって、静奈はようやく文の真意を理解した。
彼が結婚式に来なかったのは、師弟の縁を切るためではなかった。
ただ、教え子が火の穴に飛び込むのを、目の当たりにするのが耐えられなかっただけなのだ。
昼。静奈は文と学食で昼食を共にした。
「今は仕事をしているのか?」
静奈は首を振った。仕事を探そうとは思ったが、四年間の専業主婦生活で、ほとんど世間から隔絶されていた。
彼女の目には彰人しか映っておらず、今更どうやって社会復帰すればいいのか、見当もつかなかった。
文は、一枚の名刺を差し出した。
「ここの責任者は、私の教え子だ。君が行く気になれば、いつでも入社できる」
静奈は名刺に目を落とした。
明成バイオテクノロジー株式会社。
ここ数年で急成長している企業で、がん治療薬の研究を専門としている。
彼女の専門分野とぴったり合致しており、組織構成も比較的シンプルで、自分のような実務経験のない新人には適しているように思えた。
だが静奈は、文のコネを使いたくなかった。
午後、文は講義があった。彼女は家に帰ると、履歴書を作成し、明成バイオテクノロジーの人事部に送った。
すぐに人事担当者から電話があり、翌日の午前、必要書類を持って面接に来るよう通知された。
書類を整理している時、静奈は卒業証書がないことに気づいた。おそらく、汐見台に置きっぱなしなのだろう。
彼女は証書を取りに、邸宅へ向かった。
家に入った途端、家政婦の敦子が電話をしているのが聞こえた。
「若様、今月のお振込額、間違っていらっしゃいませんか?」
電話の向こうから、彰人の冷たい声が聞こえた。
「それは邸宅の維持費だ。今月から、静奈への生活費は全て停止する」
敦子は、静奈が帰宅したことに気づき、明らかに動揺した表情を見せた。
彰人は毎月、敦子の口座を経由して静奈に生活費を渡していた。
そして敦子は、静奈が彰人に寵愛されていないのをいいことに、その金をこっそり横領し、ほんの数万円だけを渡してごまかしていたのだ。
静奈が普段と変わらない様子なのを見て、何も気づかれていないだろうと、敦子は胸を撫で下ろした。
彼女は静奈の後ろについて回り、しきりに説得を始めた。
「若奥様、また若様を怒らせたのですか?」
「若様と結婚できただけでも、若奥様は幸せ者なのですよ。たとえ若様が外に愛人を作ったからといって、何だと言うのです。
生活に困らないよう、ちゃんとお金は頂いているではありませんか。そんな些細なことで、若様に逆らうなんて。
私を信じて、すぐに若様に電話して謝罪なさい。そうすれば、若様も許してくださるかもしれませんよ。
これも全て若奥様のためを思って言っているんですよ。ありがたい忠告だと思いなさい」
敦子は、寝室までついてきて、休みなくまくし立てた。
静奈は振り返り、笑みを浮かべた。
「本当に『私のため』?それとも、自分の『私腹を肥やすため』?どっちなのか、自分で分かってるんじゃないの?」
敦子は、一瞬、呆気に取られた。彼女は手に持っていた雑巾で、慌ててテーブルを拭くふりをした。
「ど、どういう意味ですか?」
敦子の不自然な挙動を見て、静奈は自分の推測が正しかったことを確信した。
彰人が以前、毎月いくら振り込んでいたのか、もはや問いただす気にもなれなかった。
どちらにせよ、彼女にとってはもう何の意味もないことだ。
引き出しから卒業証書を見つけると、静奈は踵を返した。
敦子は、テーブルの上に置かれた離婚協議書を見て、息を呑んだ。
彼女は慌てて静奈を追いかけた。
「若様と、離婚なさるおつもりで?」
静奈は、わずかに振り返った。
「見た通りよ。面倒だけど、それを彰人に渡しておいて」
静奈の去っていく背中を見つめながら、敦子は信じられないという表情で立ち尽くした。
あれほど若様に嫁ぎたいと、みっともなくしがみついていたではないか。
やっとの思いで手に入れた「長谷川夫人」の座を、本当に手放すというのだろうか?
第5話
翌日の午前。明成バイオテクノロジー、社長室。人事部の人が書類を運んできた。
「社長、こちらが本日の面接者の履歴書です」
「そこに置いておいてくれ。この後会議があるから、面接はパスする」
「かしこまりました」
桐山昭彦(きりやま あきひこ)が会議室へ向かおうと立ち上がった時、ふと、一番上にあった履歴書に目が留まった。
朝霧静奈。
その名前を見た瞬間、彼は動きを止めた。
履歴書を手に取り、そこに写る見慣れた顔を見て、彼の心には複雑な感情と、わずかな驚きがこみ上げてきた。
彼は高野文教授の愛弟子であり、静奈より幾つか年上だった。
海外で研究に没頭していた頃から、指導教師である文が「聡明で、まさに天才と呼ぶべき後輩を指導している」と話しているのを何度も耳にしていた。
文は電話で学術的な議論をするたび、いつもその後輩のことを手放しで褒めていた。
初めのうちは、教授にそこまで言わせるほどの逸材とはどんなものか、という単なる興味で彼女の情報を追っていた。
だが、いつしか写真でしか見たことのないその後輩に、彼は惹かれていた。
研究期間を終えると、彼はためらうことなく帰国の途についた。
しかし、空港に降り立って真っ先に耳にしたのが、彼女の結婚の知らせだった。
もう二度と関わることはないだろうと思っていた。まさか、彼女の履歴書を受け取ることになるとは。
昭彦はすぐに秘書に内線を入れた。
「午前の会議は全てキャンセルだ!」
昭彦は面接室へ向かった。人事部の担当者は彼の姿を見て一瞬驚き、すぐに中央の席を譲った。
「社長」
昭彦は、内なる興奮を抑えつけた。
「始めてくれ」
面接が正式に始まった。昭彦は面接官の席に座ったまま一言も発さず、人事担当者が応募者に質問をしていく。
「社長、先ほどの方は……」
人事が昭彦の意見を求めた。
「君たちで判断してくれ」
「かしこまりました」
「次の方、朝霧静奈さん」
静奈が面接室に入ってきた瞬間、昭彦の意識は彼女に集中した。
彼女の顔色は、あまり良くないように見えた。
人事担当者が、いくつか専門的な質問をした。
静奈は四年間のブランクがあったものの、その間も独学で知識をアップデートし続けていたため、淀みなく、的確に回答していく。
人事部の担当者は満足げに頷き、結果は後日連絡すると伝えようとした。
その時、隣に座っていた昭彦が口を開いた。
「履歴書では既婚となっていますが」
なぜ急に働きに出ようと思ったのか、その理由を尋ねたかった。だが、人事部の担当者はその意図を誤解し、彼の言葉を引き継いだ。
「朝霧さん、私どもは長く安定して働いてくださる方を求めています。近いうちに、お子さんを産むご予定はありますか?」
静奈は首を振った。
「もうすぐ離婚しますので、その予定はありません」
その答えを聞き、昭彦は息を呑んだ。
彼女の瞳に一瞬よぎった寂寥の色を見て、胸が痛むのを感じた。
この四年の結婚生活で、彼女は一体何を経験してきたのだろうか。
「朝霧さん、ご事情は分かりました。結果については、後日ご連絡いたします」
「はい」
静奈は面接室を後にした。
その後の面接は、昭彦にとって退屈極まりないものとなり、彼は途中で席を立ってしまった。
静奈が離婚する。
それは自分にとって、間違いなく「機会」だった。
ずっと心の奥底に押し殺してきた感情が、抑えきれず溢れ出し始めていた。
その日の午後。静奈は明成バイオテクノロジーの人事部から電話を受け、来週から出社するよう告げられた。
静奈はこの結果を文に報告した。
文は、彼女が見た目は穏やかだが芯は強い性格だと知っていた。
きっと自分の力で、面接を突破したのだろうと察した。
雪乃は静奈の就職が決まったことを大喜びし、何が何でもお祝いをしなければと、彼女を飲みに誘った。
夜。静奈は、約束通りバー「Misty」にやってきた。
薄暗く、音楽が鳴り響く雰囲気に、彼女は少し戸惑った。
「静奈、こっち!」
雪乃が個室の入り口から、静奈に手招きしている。
静奈が席に着いた、その時。マネージャーが、上半身裸の男性モデルたちを引き連れて入ってきた。
静奈は、その光景に度肝を抜かれた。
「雪乃、これ、どういうこと?」
「あなたの離婚予定と就職、そして新しい人生の門出を祝して、私が特別にメンズを呼んであげたのよ。好きな子を選んで。今夜は飲ませ放題よ」
静奈は、気まずい表情を浮かべた。
「そういうのは、ちょっと……」
彼女は、遊び慣れていなかった。
唯一の恋愛経験は、あの時に彰人を好きになり、そして彼と結婚したことだけだ。
「じゃあ、この子ね」
雪乃は、構わず一番のイケメンを指差し、静奈のために決めてしまった。
その男が、静奈の隣に腰を下ろす。
見事に割れた腹筋が目の前でちらつき、静奈は視線のやり場に困った。
気まずさを紛らわすため、目の前の酒を一口飲んだ。
男は、慣れた手つきで静奈の手を取り、色っぽい視線を送った。
「お姉さん、俺の膝の上で飲まない?腹筋、触り放題だよ」
静奈は、ビクッと体を震わせた。
「わ、私、ちょっとお手洗いに」
この雰囲気にどうしても馴染めず、彼女は慌てて口実を作って部屋を飛び出した。
お手洗いで顔を洗い、少し冷静さを取り戻す。
しかし、部屋に戻る際、うっかりして方向を間違え、VIPエリアに迷い込んでしまったことに気づかなかった。
その頃。VIPの個室では。
彰人が、沙彩を幼馴染たちに紹介していた。
日向陸(ひゅうが りく)と神崎湊(かんざき みなと)。
二人は彰人と共に育ち、家柄も申し分ない、潮崎市でも名の知れた名家の御曹司だ。
彰人は、ソファの背もたれに腕を回している。
沙彩は彼の隣に座り、まるで彼がごく自然に彼女を抱き寄せているかのように見えた。
陸がグラスを掲げる。
「沙彩さん、初めまして。一杯どうぞ。
彰人が俺たちの集まりに女を連れてきたことなんて、今まで一度もなかった。沙彩さんが、正真正銘、初めてのだ!」
沙彩は、彰人の顔をちらりと盗み見た。
「もう、からかわないで。来る人みんなに、そう言ってるんでしょ?」
「マジだって!な、湊!」
湊も隣で頷いた。
「陸の言う通りだ。彰人は昔から女っ気ゼロで有名だったからな。あの朝霧静奈って女が卑怯な手を使って無理やり結婚しなきゃ、彰人は一生、あんな女に目もくれなかったはずだ」
その答えを聞き、沙彩は嬉しくてたまらなかった。
彼女は、機嫌よく手の中の酒を飲み干した。
陸が、すかさず彼女のグラスに酒を注ぐ。
「お、飲みっぷりがいいね!さあ、もう一杯!」
彰人が、その手を制した。
「彼女は酒に弱い。その辺にしておけ」
陸が、わざとらしく騒ぎ立てた。
「うわ、もう守りに入ってるよ。
たかが二杯目じゃないか。彰人、ケチケチするなよ」
彰人は、沙彩のグラスを取り上げた。
「俺が代わりに飲む」
「そりゃダメだ!」
陸は、彰人のグラスを沙彩の手に握らせた。
「どうせなら、クロスで飲まなきゃ!」
沙彩は、恥ずかしそうに彰人を見上げ、自ら口を開いた。
「いいわよ、飲みましょう。でも、これを飲んだら、もう無理やり飲ませるのは禁止よ」
「さすが沙彩さん、話が分かる!」
沙彩と彰人が、グラスを掲げた。
まさにその時。静奈が、個室のドアを開けて入ってきた。
彼女が顔を上げると、彰人と沙彩が酒の入ったグラスを持ち、腕を絡ませている光景が目に飛び込んできた。
彰人は、静奈の姿を認めた瞬間、あからさまな嫌悪感を顔に浮かべた。
「なぜ、お前がここにいる?」
第6話
陸と湊は、彰人の結婚式で一度だけ静奈に会ったことがあった。
正直なところ、なかなかの美人であり、何年も経ってはいたが、二人は一目で彼女だと気づいた。
彰人の幼馴染である彼らもまた、静奈のことをひどく嫌っていた。
陸が、わざと嫌味な口調で言った。
「おやおや彰人、奥様のお出ましだぞ?旦那の不倫現場を押さえに来たってわけか」
彰人は鼻で笑った。
「こいつが?そんな資格があるとでも?」
彰人の冷酷な言葉、沙彩の勝ち誇ったような明るい笑顔、そして陸と湊の嘲笑が、静奈の心を深く突き刺した。
「ごめんなさい、部屋を間違えたわ」
彼女はそのままドアを閉め、外に出た。
静奈のあまりにも冷静な態度に、陸と湊は少し面食らった。
「普通の女なら、旦那が他の女といるのを見たら、泣きわめいたりするもんじゃないか?あいつ、なんで平然としてるんだ。彰人、まさか愛想を尽かされたとか?」
「あり得ないだろ?あいつは彰人のこと、死ぬほど愛してるんだ。ここで騒ぎ立てて、追い出されるのが怖かっただけだろ」
ドアの外で、静奈は深く息を吸った。
彼らの言葉を気にしてはいけないと、必死に心を落ち着かせようとした。
「お姉さん!」
その時、先ほどの男性モデルが彼女の方へ歩いてきた。
「探したよ、こんな所にいたんだ」
彼は、ごく自然に静奈の腰に腕を回した。
「行こう。雪乃さんが待ちくたびれてる」
静奈は、その馴れ馴れしさに戸惑いつつも、今度は拒まなかった。
陸が、ドアのガラス越しに、静奈がその男と親密そうに別の個室に入っていくのを目撃し、思わず大声を上げた。
「マジかよ!彰人、これはなんのプレイだ!あいつ、男を買いに来てやがるぞ!」
湊が分析する。
「てことは、さっきのは浮不倫調査じゃなくて、マジで部屋を間違えただけか?」
彰人の端正な顔が、瞬く間に恐ろしいほど黒く染まった。
静奈、よくも!
「長谷川夫人」の名を冠しながら、妻としての貞淑さも守らず、こんな場所で男遊びとは。自分の面子をどこまで潰せば気が済むんだ?
静奈が個室に戻ると、雪乃はすでにかなり酔っていた。
「静奈、どこ行ってたのよ、遅かったじゃない」
「すみなせん、ちょっと部屋を間違えて」
静奈は、彰人に遭遇したことを彼女には話さなかった。
雪乃が提案する。
「ねえ、ゲームしない?口でカードをリレーするの。失敗した人は、罰ゲームでお酒一気飲み!」
静奈は、その奇妙なゲームに全く興味が湧かなかった。
雪乃は、彼女の手を引いてソファに座らせた。
「いいからいいから、しらけないでよ」
静奈は、無理やりゲームに参加させられた。顔立ちの整った男性モデルが、カードを口にくわえて顔を近づけてくる。
知らない男が間近に迫ってくる感覚に、彼女は思わず顔を背けてしまった。
立て続けに失敗し、彼女も罰として何杯も酒を飲まされた。
最後の一回。彼女は必死に抵抗感を克服し、目を固く閉じてカードを受け取ろうとした。
その頃。陸が、携帯でこっそりその様子を撮影していた。
野次馬根性丸出しの彼は、その動画を彰人に見せに戻った。
「彰人、あいつ、結構やるじゃない!お前が十日も半月も家に帰らないから、その隙に他の男に乗り換えたとか?」
動画の中では、静奈とそのモデルが、キス寸前まで顔を近づけていた。
その光景を見た瞬間、彰人の胸に怒りの炎が燃え上がった。
どれほど嫌悪していても、自分の妻が目の前で他の男と戯れるのは許せなかった。
「彰人さん」
沙彩が隣で口を開いた。
「彼女、きっとあなたの気を引きたいだけなのよ」
陸が、はっとした顔になった。
「それだ!
静奈って女は、お前に薬を盛るような真似までしたんだ。わざと男を呼んで、お前を刺激しようとしてるに決まってる」
彰人は何も言わず、グラスの酒を一気に呷った。
彼は密かにバーの責任者を呼び出し、あのモデルを解雇するよう名指しで命じた。
どうであれ、静奈は戸籍上の妻だ。他の男が触れることなど許されるはずがなかった。
バーを出た後。静奈は、酔いつぶれた雪乃を自宅マンションに連れて帰った。
夜。彰人が汐見台の邸宅に戻ってきた。
パチン!
彼は不機嫌な顔で寝室の明かりをつけた。
しかし、ベッドはもぬけの殻で、静奈の姿はどこにもなかった。
物音を聞きつけて、敦子が慌てて二階に上がってきた。
「若様、お帰りなさいませ」
「あいつは?」
「若奥様は、今日は戻られておりません」
彰人の眉間に、深く皺が寄った。
戻っていない?まさか、あの男とホテルにでも行ったというのか?
「若奥様は、もうずっとこちらにはお住まいになっておらず……これを、若様にお渡しするようにと」
敦子は、離婚協議書を差し出した。
彰人はそれを受け取り、「離婚協議書」という大きな文字と、氏名欄に書かれた彼女の流麗な筆跡を見て、冷ややかに笑った。
以前、こちらから離婚を切り出し、金をやると言った時は、あれほど拒否されたというのに。
今になって離婚とは、一体どういうつもりだ?
駆け引きか?ここで一度引くふりをして、自分の気を引こうとでも?
彰人は、ためらうことなく、その書類に自分の名前をサインした。
離婚。望むところだ。
翌朝。静奈は簡単な朝食を作った。
サンドイッチとホットミルク、それにサーモンのソテーと、付け合わせのレタスとトマト。
雪乃が、まだ重い頭を抱えながら部屋から出てきた。
「起きた?食べて」
美味しい朝食を食べながら、雪乃は目の前にいる静奈を改めて見つめた。
豊満な胸、細い腰、まるで殻を剥いたゆで卵のように白く滑らかな肌。
すっぴんでもこれほど美しい静奈を見て、雪乃は思わずため息をついた。
ああ、静奈はこんなに綺麗で、性格も良いのに。
あのクソ野郎、本当に見る目がない。こんな宝物を大事にしないなんて
朝食を終えた頃。静奈の携帯に、知らない番号から電話がかかってきた。
「朝霧静奈様でしょうか?」
「はい、そうですが、どちら様ですか?」
「私、長谷川様の代理人を務めております、弁護士の遠山英則(とおやま ひでのり)と申します。離婚の件でお電話いたしました。離婚協議書は拝見いたしました。
長谷川様は、あなたに一定の経済的補償をお支払いになる意向です。ご希望であれば、汐見台の邸宅もあなたにお譲りするとのことですが」
彰人も、翌日になって初めて離婚協議書の内容に目を通したのだ。
彼女は、財産分与に何も要求していなかった。完全に、身一つで出て行くつもりらしかった。
彼も、ケチな男ではない。四年間、妻として傍にいた女だ。
数億、数十億の慰謝料くらいは払うつもりでいた。
「結構です」
静奈は、英則の申し出をきっぱりと断った。
「書類に書いてある通り、私は何も要りません。
それより、いつになれば、正式に離婚を成立させていただけますか?」
静奈の返答は、英則にとって予想外だった。
「……長谷川様と相談の上、日程が決まり次第、改めてご連絡差し上げます」
電話が切れる。雪乃が、もどかしそうに言った。
「静奈、馬鹿なの?なんでお金貰わないのよ!こういう時は、ふんだくれるだけふんだくらないと!」
静奈は、静かに首を振った。
「一刻も早く離婚できるなら、そんなもの、どうでもいいの」
元々、お金のために彰人と結婚したわけではない。
この数年間、長谷川家で質素な生活を送ってきた。
離婚になって彼のお金を受け取れば、それこそ自分が「金目当ての女」だったと認めるようなものだった。
長谷川グループ。
弁護士の英則が、静奈の意向を彰人に伝えた。
「長谷川様、若奥様は財産分与は一切不要、ただ、できるだけ早く離婚協議書を提出したい、と」
彰人は、わずかに目を見開いた。俺の資産が何兆あるか知っていて、一円も要らないだと?
「ならば、望み通りにしてやれ。俺は午後からM国に出張だ。離婚届の提出は、来週の水曜で調整しろ」
第7話
月曜日の午前。静奈が明成バイオテクノロジーに出社すると、すぐに弁護士から電話がかかってきた。
「朝霧様、長谷川様は水曜日の午前でしたらご都合がつくとのことです。当日の離婚届の提出で予約を取りましたので、必ず時間通りにお越しください」
「はい、分かりました」
電話を切り、静奈は深く息を吸った。
水曜日。あと二日で、この息苦しい婚姻関係から解放されるのだ。
「朝霧さんですね?」
人事部の担当者が静奈を迎え入れた。
「あなたの席はこちらです。主なお仕事は、創薬開発チームの実験操作や資料整理の補佐となります。
現在、会社は抗がん剤の標的薬の開発に注力しています。こちらが関連資料ですので、先に目を通しておいてください」
静奈の役職は、創薬開発アシスタント。人事担当者から、分厚い資料の束を手渡された。
創薬研究は、長く複雑なプロセスを要する。
彼女が短期間で戦力になるには、一刻も早くプロジェクトの全体像を把握しなければならなかった。
静奈は自席で食事さえ忘れて資料を読みふけった。
重点箇所には印をつけ、自身の考えや見解も書き加えていく。
気づけば、とっくに退勤時間を過ぎていた。資料はまだ四分の一ほど残っており、彼女は迷わず残業することにした。
すべてに目を通し終えたのは、夜の九時過ぎだった。
外はすっかり暗くなり、オフィスには彼女一人だけが残っていた。
静奈は席を立ち、トイレへ向かった。
席に戻ると、デスクの傍らに長身の整った人影が立っており、彼女が資料に書き込んだメモを熱心に読んでいるのに気づいた。
「社長」
静奈は、努めて事務的に声をかけた。
その声に、昭彦が顔を上げた。
「この資料を三日で読み終えるだけでも早いが、君は一日で目を通したのか?」
「いえ……大まかに把握しただけです。細かい部分は、まだ文献を調べる必要があります」
昭彦は、手に持っていた資料を閉じた。
「まだ夕食を食べていないだろう?行こう、何かご馳走する」
「いえ、お構いなく、社長。それは……」
静奈が断ろうとすると、昭彦は半分冗談といった口調で言った。
「入社初日からこんな時間まで残業させて、人聞きが悪いな。僕がブラック企業の経営者だと思われる。僕の名誉のために、付き合ってくれないか?」
そこまで言われては、静奈も断りきれず、頷くしかなかった。
「……はい」
静奈が鞄を持って前を歩き、昭彦がその後ろを続く。
彼女の細くしなやかな後ろ姿を見つめながら、口元は思わず緩んだ。
今日は起業家向けの雑誌の取材があった。
その帰り、会社のそばを通りかかった時、オフィスの明かりがまだ点いているのに気づき、様子を見に来たのだ。
まさか、残業していたのが彼女だったとは。
自分はすでに夕食を済ませていた。だが、彼女を食事に誘えるなら、もう一度食べたところでどうということはなかった。
昭彦は車を出し、静奈をある料理屋に連れて行った。
注文の際、彼は何気なく口にした。
「辛いものは抜きで。あと、生姜も入れないでください」
静奈は、一瞬、戸惑った。
彼が頼んだのは自分が好きな料理ばかり、そして、辛いものと生姜は、まさに自分が苦手なものだった。
二人はこれまで何の接点もなかったはず。どうして彼は、自分の食の好みを知っているのだろうか?
自分の失言に気づいたかのように、昭彦は慌てて付け加えた。
「最近ちょっと胃が荒れていて、辛いものと生姜は控えてるんだ。君がよければ、もっと味の濃いものを頼んでくれて構わないよ」
静奈は首を振った。
「いえ、これで十分です」
たぶん、ただの偶然だろう。
今まで一度も会ったことがないのに、彼が自分の好みを知るはずがない。
食事を終えると、昭彦は静奈を家まで送ると言って聞かなかった。
「どうであれ、君は僕の社員だ。こんな夜更けに一人で帰らせるのは危ないし、僕が冷淡な上司だと思われてしまう」
その言う方に、静奈は再び彼の車に乗るしかなかった。
その時、ちょうどモデルとデート中だった陸が、その光景を目撃した。
彼はすぐさま写真を撮り、彰人と湊だけがいるグループチャットに送信した。
【彰人、静華は最近お盛んなんじゃないか?
【すっげえ高級車だよなあ、これ。お前から何も貰えないから、別の金蔓を見つけたか?」
彰人は、まさに数百億規模の契約をまとめたところだった。
グループチャットの通知を開く。写真には、静奈が見知らぬ男の高級車に乗り込む姿が写っていた。
彼の顔は、瞬く間に怒りで歪んだ。
だからあんなに頑として離婚を拒んでいた静奈が、あっさり同意したのか。新しい男を見つけたからだ。
婚姻関係が続いている間に、公然と自分に恥をかかせるつもりか!自分を甘く見たものだ!
彰人は、静奈に電話をかけて問いただそうとした。
しかし、携帯の連絡先を探しても、彼女の番号が見つからない。
結婚して四年、自分は彼女の番号を登録したことすらなかった。
ましてや、自分から電話をかけたことなど一度もない。
以前は、彼女が週に二、三度は電話をかけてきて、今夜は帰宅するのかとおずおずと尋ねてきたものだった。
彼女に用がある時は、いつもその着信履歴から番号を探し出していた。
だが今回、いくら履歴を遡っても、彼女の番号が見つからない。考えてみれば、この一ヶ月、彼女から一切電話がなかった。
彰人は、祖母とのチャット履歴を遡り、ようやく静奈の携帯番号を見つけ出した。
彼は、怒りに任せて発信ボタンを押した。
その時。静奈は、昭彦の車の中にいた。
携帯の着信音が鳴り響く。画面に表示された見慣れた番号に、静奈の心臓が止まりそうになった。
彰人からの電話を逃さないよう、彼女は彼のためだけに特別な着信音を設定していた。
かつて、この着信音が鳴ることをどれほど待ち望んだか。そして、その度に裏切られてきた。
彼が彼女に連絡する必要がある時は、決して電話をかけてはこなかった。いつも、家政婦の敦子か、アシスタント経由だった。
今、その着信音が鳴っている。彼女は、どう対処すべきか分からなかった。
彼女が固まっているのを見て、隣の昭彦が声をかけた。
「なぜ、出ないのか?」
静奈は、拒否ボタンを押した。声は平静だった。
「知らない番号です。間違い電話でしょう」
昭彦は静奈の異変に気づいていた。
本当にただの間違い電話なら、彼女があんなに葛藤したような目をするはずがない。
だが、彼は何も聞かない優しさを選び、黙って前を向いた。
ホテルの一室。
電話口から聞こえる無機質な拒否音に、彰人は、肺が張り裂けそうなほどの怒りに襲われた。
この女、電話を切りやがった!やましいことがあるから出られないのか?
彰人はアシスタントに昭彦の車のモデル名を送った。
【この車種だ。潮崎市でこの車を所有しているオーナーをリストアップしろ。三日以内に、全情報をだ!】
自分の縄張りに手を出した命知らずはどいつだ。
どれほど静奈を嫌っていようと、彼女は戸籍上、自分の妻だ。
離婚しない限り、あいつは自分のものだ。
自分の女に手を出したなどと、そんな噂が広まれば、潮崎市での自分の面目が立たない。
車は、すぐに静奈が住むマンションの前に到着した。
静奈はドアを開けて車を降りた。
「社長、ありがとうございました」
「通り道だ。そんなに恐縮しないでくれ」
静奈がマンションの中に入っていく。
昭彦は車の中から彼女の後ろ姿を、しばらく見つめてから車を発進させた。
このマンションは、潮崎市ではごく一般的なレベルだ。
彼女の夫は、指折りの資産家だったはず。決してこのような場所に住むはずがない。
唯一の可能性は、彼らが別居していることだ。