愛は跡形もなく消えゆく

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愛は跡形もなく消えゆく

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松本綾乃(まつもと あやの)が妊娠八ヶ月の時、石川隼人(いしかわ はやと)は同じく妊娠八ヶ月の初恋の女を自宅に連れて帰った。 彼女と子供...

Chương (1)

第1章

松本綾乃(まつもと あやの)が妊娠八ヶ月の時、石川隼人(いしかわ はやと)は同じく妊娠八ヶ月の初恋の女を自宅に連れて帰った。 彼女と子供に正当な立場を与えるために、彼は世間に向けてこう宣言した――自分はすでに綾乃と離婚しており、近いうちに初恋の女と結婚する、と。 綾乃には見えていないと思い込み、彼女に離婚届にサインさせた。 それどころか、自分の別荘で初恋の女とベッドを共にする始末だった。 だが、彼は知らなかった。綾乃にはすべてが見えるようになったということを。 綾乃と初恋の女が同時に階段から落ちたその瞬間、隼人は一切の迷いもなく初恋の女の元へ駆け寄った。 その時、綾乃の心は彼女の子供と共に、葬られたのだった。 けれど本当に綾乃が姿を消すと、隼人は取り乱し始めた…… 第1話 「石川夫人、検査は終わりましたよ。もともと体が弱いのに、ここまで赤ちゃんを守れたのは本当に大変だったと思います。あと二ヶ月、特に気をつけてください。でないと、赤ちゃんが子宮内で亡くなる可能性もありますからね」 「わかりました。ありがとうございます、先生」 松本綾乃(まつもと あやの)はうつむき、自分の大きくなったお腹を見つめながら、心の中がひどく冷え込んでいった。 「えっ、石川夫人、目が見えるようになったんですか?」 医者は彼女の視力が戻っていることに気づき、心から喜んだようだった。 「はい、前回の検査のとき、急に少し見えるようになって……先生が妊娠ホルモンの影響かもしれないって」 「それはよかったですね。石川様もきっと喜んでらっしゃるでしょう?あれ、今日は付き添いじゃないんですか?」 視力が戻ったこと、まだ石川隼人(いしかわ はやと)には伝えていなかった。 でも、彼が喜ぶだろうか?……たぶん、そんなことはないだろう。 綾乃は笑みを浮かべた。「忙しいみたいです」 彼は今、初恋の女と一緒にいるのだ。妊婦健診に付き添う暇なんてあるわけがない。 綾乃は手に持った白杖を開いて、診察室を後にした。 病院のロビーを通りかかると、綾乃はテレビに映る隼人のインタビューを目にした。 「島田美緒(しまだ みお)のお腹にいるのは俺の子だ。俺たちは、ずっと前から付き合ってるんだ」 司会者が興味津々に尋ねた。「でも石川様、あなたは既にご結婚されてますよね?」 「そうだ。でももう離婚した。近いうちに美緒と結婚するつもりだ。ちゃんとした籍を入れてやりたい」 「それはおめでとうございます。お幸せに!」 二人は寄り添って、愛し合っている様子でカメラに向かって笑った。「ありがとうございます」 綾乃は目を上げ、初恋の女を優しく抱きしめる隼人の姿を見つめた。その目には、深い悲しみが宿っていた。 「この隼人って人、本当に一途なんだね。初恋の人のために奥さんと離婚するなんて!」 「奥さんのこと、全然好きじゃなかったんじゃない?テレビに奥さんが出たことなんて一度もないし。結婚して五年も経ってるのに、初恋が戻ってきたらすぐ離婚って……奥さん可哀想すぎる」 「美緒って、海外であんなことがあって妊娠したんでしょ?あれ、本当なのかな?」 「嘘に決まってるでしょ。でも、たとえ本当でも、好きな人なら受け入れるもんよ。見た?隼人のあの目、完全に恋してるじゃん。私が石川夫人なら、とっくに出て行ってるわ」 テレビの映像は目を刺すように鋭く、周囲の声は鋭い刃のように綾乃の心を切り裂いた。 彼女はその言葉のすべてを聞き、その映像を見て、涙が頬を伝って流れ落ちた。 数日前、隼人は妊娠八ヶ月の美緒を家に連れてきた。 美緒は海外で不幸な目に遭い、誰の子なのか分からないまま妊娠した。 それでも隼人は彼女の名誉を守るために、全世界に向けて宣言したのだ――美緒のお腹の子は、自分の子供だと。 綾乃は身体の限界を感じながらも、必死で隼人との子供を産もうとしていたのに、彼は世間に向けて、もう綾乃とは離婚したと語った。 ……いいわよ、隼人。何年も一緒にいたのに、全部無駄だったなんて。 彼が離婚したいなら、してやる。 綾乃は抜け殻のようになって別荘へと戻った。玄関を入ると、それまで何かを話していた家政婦たちが急に沈黙した。 「もうやめて、奥様が帰ってきたわよ!早くテレビ消して!」 「可哀想に……奥様、目が見えなくてよかったね。じゃなきゃ、心が持たないわ」 「奥様、お帰りなさいませ」 一人の家政婦が近づいて彼女を支えようとしたが、綾乃は無反応のまま、ただその場に立ち尽くした。暗くなったテレビ画面を見つめ、しばらく動かなかった。 綾乃の視力が失われたのは、隼人を救ったからだった。 十歳の頃から、彼のことを好きだった。 けれど、彼がずっと想っていたのは、最初から最後まで美緒だった。 五年前、美緒は家族と共に海外へ移住した。 隼人は深く落ち込み、毎日のように酒に溺れていた。そしてある日、酔って帰る途中で交通事故に遭いかけた。 そのとき、隼人をかばって飛び出したのが綾乃だった。 隼人は無傷だったが、綾乃の視力は……その日を境に、失われた。 第2話 後になって、綾乃の両親は隼人に彼女との結婚を強く迫った。 「綾乃は十五年間ずっとあんたのことを好きだったのよ。今や、あんたのせいで目まで見えなくなったんだから、責任取ってもらうしかないわ」 石川家もまた、彼に圧力をかけた。 「綾乃と結婚しないなら、この家には二度と戻ってくるな!」 その結果、隼人は従うしかなく、綾乃を妻として迎え入れた。 結婚後、隼人は夫としての責任を果たそうとした。 最初は面倒くさそうにしていたが、やがて祝日にはちゃんと綾乃のためにプレゼントを用意するようになった。 無言で顔を合わせるだけだった関係も、次第に何時間でも語り合えるようになっていった。 すべてが少しずつ、良い方向へと向かっていた――そんな矢先だった。 孫の顔を早く見たいと焦った隼人の母が、彼の食事に薬を盛ったのだ。 その夜、二人の間には子供ができた。 だが隼人は、それを綾乃が仕組んだことだと誤解した。彼女が手段を使って自分のベッドに入り込んだと思い込み、それ以来、彼の態度は一気に冷たくなった。 数日前、綾乃は朝起きたとき、なぜか少しだけ光を感じた。 興奮のあまり病院に駆け込んで検査を受けると、医者はこう言った。 「たぶん妊娠中のホルモンの影響で、視力が戻ってきたんでしょう」 視力が戻った彼女は、いてもたってもいられず、すぐにこの喜びを隼人に伝えようとした。 だが家に戻った彼女の目に飛び込んできたのは、美緒だった。 彼女はソファに座り、水を飲んでいた。隼人はその隣に寄り添い、まるで宝物のように彼女を気遣っていた。 「熱くないか?」 その優しさ、綾乃には一度も向けられたことがなかった。 たった五日――わずか五日で、隼人は綾乃という目の見えない妻の存在をすっかり忘れ、美緒に夢中になっていた。 「気をつけてね。インタビューばっかりで疲れたでしょ?」 玄関の方から声がして、綾乃は振り返った。 そこには、腕を組んで仲睦まじく歩いてくる二人の姿があった。 「大丈夫。ただちょっと座りっぱなしで、少し疲れただけ」 美緒は隼人の胸にもたれ、当然のようにソファに座った。 綾乃はその場に立ち尽くしていたが、二人はまるで彼女の存在など見えていないかのようだった。 ふわりと漂う香りに、隼人がキッチンの方に声をかける。 「加代バア、今キッチンで炊いてるのは?」 「奥さまのためにお母様が送ってくださったフカヒレです。体に良いからって」 「持ってきて、美緒に」 「でも、それはお母様が奥さまのために特別に送ってくださったものですよ。数も一つしか……」 「美緒に持ってこいって言ってるんだ、聞こえなかったのか?美緒は体が弱くて、赤ちゃんも小さい。栄養が必要なんだよ」 隼人は綾乃を一瞥した。 「綾乃なんて、食が細いし、いつも無駄にしてるだけじゃないか。これからは、母さんが送ってくる栄養品は全部美緒に回せ」 その言葉に、綾乃の体が小さく震えた。手は無意識に拳を握りしめていた。 彼女の食欲がなかったのは、妊娠してからずっと吐き気に悩まされていたからだ。 他の妊婦は太るのに、彼女は逆に二、三キロも痩せてしまっていた。 それを心配した隼人の母が、せっせと栄養品を送ってくれていたのだ。 ――なのに、彼の目には「無駄」としか映っていなかった。 「それって、さすがにちょっと……隼人、これはお母様が綾乃さんのためにって……」 美緒はわざとらしく遠慮するが、隼人は彼女の手をギュッと握り、優しく囁いた。 「大丈夫、君は俺の将来の妻だぞ。遠慮する必要がある?それに……」 彼は綾乃を見て、冷たく言い放った。 「綾乃なら、気にしないよ」 「ありがとう、隼人……本当に優しいのね」 美緒は微笑みながら、隼人の頬にキスをした。 二人は、綾乃が目が見えないと思っていた。 でも、綾乃には、それが全部――はっきり見えていた。 「そうね。気にしないわ。どうぞ、ご自由に、美緒さん」 彼女は視線を逸らし、静かに階段の方へと向かった。 だが、数段登ったところで、美緒の声が背後から聞こえてきた。 「それで……綾乃さんとの離婚、いつ話すつもり?」 「もうすぐだよ。心配しないで。離婚届にサインさせる方法は考えるから。必ず君と結婚する。これだけは誓うよ」 階段に立ち止まり、綾乃の心臓がドクンと大きく跳ねた。 痛みが、胸の奥にズキリと響いた。 彼女は本気で彼を愛してきたのに―― それを、彼は、他人と一緒になって踏みにじった。 その瞬間、綾乃の中で、隼人への想いは音を立てて崩れ去った。 第3話 あの夜、彼女は隼人と背中合わせに横になっていた。どちらも、先に口を開くことはなかった。 お腹が大きくなりすぎて、彼女は常に息苦しさを感じていた。 苦しくて体を翻すと、隼人に酸素ボンベを取ってもらおうとした。時々、酸素を吸わないと本当に息が詰まりそうになるのだ。 身を返したそのとき、彼女は隼人がベッドのヘッドボードに寄りかかりながら、スマホをいじっているのを見た。相手は美緒だった。 文字を打ち合う二人のやりとりはとても楽しそうで、隼人の口元に浮かぶ笑みが、綾乃の胸を鋭く刺した。 何を話していたのか、ふと隼人がスマホから目を離し、彼女を一瞥した。 綾乃はすぐに目を閉じた。すると隼人は寝室の電気を消して、立ち上がり部屋を出ていった。 彼は綾乃が目が見えないから、何も分からないと思っているのだ。だから、あんなにも無遠慮に―― 隼人が去ったあと、綾乃も立ち上がり、そっと彼のあとを追った。 美緒の部屋のドアは少し開いていた。 外から覗いた綾乃の目に映ったのは、隼人が美緒のお腹に妊娠オイルを塗ってやっている姿だった。 彼は真剣な顔で、丁寧にオイルを塗っていた。すると、突然美緒が身体を起こし、隼人の唇にキスをした。 隼人は彼女の手を掴み、荒い息を吐いた。 「美緒、ダメだよ。君には赤ちゃんがいるんだ」 「大丈夫よ、隼人。先生も言ってたわ、妊娠後期なら気をつければ問題ないって」 そう言って、美緒は自分のパジャマの肩紐を引き下ろした。 「隼人、私のこと欲しくないの?私、海外に行った五年間、毎日あなたのことばかり考えてたのよ。思い出して、何度も泣いた……あの夜、家出してこっそり帰国しようとしなければ、あんなことには……」 言いながら泣き出す美緒の目元に、隼人はそっとキスを落とした。 「もういいよ、美緒。ごめん。俺がちゃんと償うから」 燃え上がる情欲に抗えず、二人はそのまま絡み合った。 その光景を目の当たりにした綾乃は、口元を手で押さえ、指の隙間から涙が溢れ出した。 十五年も愛してきた人、五年も連れ添った夫が――自分が妊娠八ヶ月のこの時期に、他の妊婦と関係を持つなんて。 信じられず、綾乃は首を振って後ずさった。そのとき、足元にあった植木鉢にぶつかった。 ガタンという音に、ベッドの上の隼人が動きを止めた。 「今の音、何だ?」 「何を怖がってるの?綾乃だと思ってる?忘れたの?彼女、目が見えないのよ。もしここに来ても、私たちのことなんて分かるはずないじゃない」 「でも……」 隼人は小さく頷きながら、真っ暗なドアの方を一瞥した。胸の奥に、奇妙な違和感が残る。 綾乃は見えない。でも、聞こえる。 もし聞かれていたら、彼女は……悲しむだろうか? 「隼人、何を考えてるの?」 美緒が彼の顔を無理やり自分の方へ向けさせた。 「綾乃のことなんて考えちゃダメ」 美緒は顔を上げ、再びキスをした。 隼人も、自分がどうかしてると感じていた。こんな時に、綾乃のことを思い出すなんて―― あの夜、自分が彼女を抱くことになったのは、彼女の策略だった。あれがなければ、子どもなんてできなかったのに。 あの夜、綾乃はどうやって部屋に戻ったのか覚えていなかった。 お腹が痛くてたまらず、手探りで薬を見つけて一錠飲むと、ようやく少し楽になった。 もう決めている。子どもが生まれたら、すぐにこの家を出ていく。 隼人には、もう未練なんて一つもない。 今はただ、お腹の中の子が無事に生まれてくれることだけを願っている。 離婚する時、何もいらない。ただ、この子だけを守りたい。 翌朝、綾乃は早く起きて階下に降り、朝食を取りに行った。 使用人は、もともと綾乃のために用意されていたフカヒレスープを美緒の席に置いた。 そして代わりに、綾乃には普通のスープを出してきた。 彼らは、綾乃が目が見えないから、味の違いにも気づかないと思っているのだ。 綾乃は何も言わず、数口だけ食べて箸を置いた。 「おはよう、綾乃さん。こんなに早起きなんてすごいね」 美緒が階段を降りてきて、綾乃の隣に座った。 わざとらしく挑発するように、彼女は言った。 「私は綾乃さんほど早起きは得意じゃないのよ。昨夜は一晩中大変だったから、体がバラバラになった感じて、起きるのに一苦労したわ」 綾乃の目には、彼女の首筋に浮かぶ赤い痕がすぐに映った。いくつも並び、明らかに異様な数だった。 その痕跡を見るだけで、昨夜の彼らがどれほど激しかったかが分かった。 第4話 スプーンを握る手に力が入り、綾乃はもう食欲がなくなってしまった。 「ゆっくり食べてね。私は先に行くから」 「えー、ちょっとだけお喋りしようよ」 美緒が手を伸ばして引き止めようとしたが、綾乃はそれを力強く振り払った。 その拍子に手がテーブルに当たり、美緒のフカヒレスープが床にひっくり返ってしまった。 「あっ!」 熱いスープが跳ねて美緒の手にかかり、彼女は軽く火傷したようだった。 「綾乃さん、何するのよ?ただ子どもの話をしたかっただけなのに」 「綾乃、何してるんだ!」 騒ぎを聞きつけて隼人が駆け寄ってきて、綾乃を叱りつけた。 「美緒はもう妊娠八ヶ月なんだぞ。刺激を与えたらどうなるか分かってるのか?もし彼女やお腹の子に何かあったら、絶対に許さないからな」 綾乃は鼻で笑った。 「私も妊娠八ヶ月よ。それに目が見えないの。ただの事故だっただけ。それでも許さないって言うの?」 「お前……」 隼人は自分の口調がきつすぎたことに気づいて、ため息をついた。 「……まあいい。目が見えないんだもんな。今回は許すよ。美緒と少し話してやってくれ。初めての出産で不安なんだよ」 ――は? その言葉を聞いた瞬間、綾乃の胸は鋭く引き裂かれるような痛みに襲われた。 美緒が初めての出産?じゃあ自分はなんなの? 仕方なく席に戻った綾乃だったが、手にしていたスプーンが床に落ちた。 それを拾おうと身をかがめた時、テーブルの下で見たのは、美緒の足が隼人のズボンの裾を絡めている、なんとも艶めかしい姿だった。 冷たい視線を向けながら顔を上げると、二人は目の前で情熱的にキスを交わしていた。 ただ一緒にご飯を食べるだけ。それなのに、自分の目が見えないからって、ここまでやるのか。 綾乃はスプーンをテーブルに叩きつけるように置き、静かに立ち上がった。 「ごゆっくり。私は部屋に戻るわ」 「待って、綾乃。書類にサインしてほしいんだ」 ようやく、隼人が口を開いた。 彼は一枚の書類を綾乃の前に差し出し、ペンを握らせた。 「なんの書類?」 綾乃が顔を下に向けると、そこにははっきりと「離婚届」の文字があった。 胸を締めつけるような哀しみが心を覆い尽くす。 彼女は手に持ったペンを強く握りながら、心の中で乾いた笑いを浮かべた。 こんなに早く……彼は本当に、待ちきれなかったんだ。 「そうそう、子どもが生まれる前に、母さんがプレゼントに家を贈りたいって言っててさ。それの名義変更の契約書だよ。サインだけでいいから」 盲目なのをいいことに、白々しい嘘を平然と口にする隼人。 隣で美緒が調子よく口を挟む。 「羨ましいなぁ、綾乃さん。私もそんな運が欲しいよ。ほんと羨ましいわ~」 綾乃は唇をかすかに引き締め、無表情のまま訊いた。 「隼人、聞くけど……あなた、本当にこの書類にサインしてほしいの?」 「なに言ってるんだよ?母さんがくれる家だぞ。欲しくないのか?」 隼人の声に微かな焦りがにじむ。綾乃の表情がどこかおかしいのだ。 まさか……気づいたのか? 彼は手を伸ばして綾乃の目の前でひらひらと振ってみた。 綾乃が無反応なのを見て、彼は安心したように息を吐いた。 「わかった。あなたがどうしてもって言うなら、サインしてあげる」 綾乃は躊躇なく、彼が示した場所に自分の名前をさらりと書き入れた。 そしてちょうどその時、隼人のスマホが鳴り始めた。 誰からか、彼にはすでに心当たりがあった。綾乃に聞かれたくなくて、わざわざ少し離れて通話を始めた。 「もしもし、母さん?どうかした?」 「隼人、あんたテレビで言ってたこと、本当なの?綾乃と離婚して美緒と結婚するって?あんた、正気じゃないでしょ!?綾乃のお腹には、あんたの子がいるのよ!」 電話の相手は隼人の母だった。ニュースを見て、慌てて連絡してきたのだ。 隼人の母は昔から綾乃のことを気に入っていて、もう娘のように思っていた。そんな彼女を捨てて、過去に酷い目に遭った女と結婚すると聞いて、怒りを抑えられるはずがない。 「母さん、落ち着いて。これはただの方便だよ。美緒には名誉が必要だったから、一時的に結婚するだけ。子どもが生まれて戸籍が取れたら、すぐ離婚するよ。綾乃とは復縁する予定なんだ」 「復縁って……?」 その会話を、そっと背後で聞いていた美緒の顔が見る間に青ざめた。 彼が本気で結婚してくれると思っていたのに、まさか一時的な「方便」だったなんて―― だが美緒はすぐに表情を引き締めた。 いいのよ、一度結婚さえできれば、あなたに離婚するチャンスなんて与えない。 彼は綾乃には聞こえていないと思っていたが、目が見えなくなった代わりに、綾乃の耳は驚くほど敏感になっていた。 綾乃は鼻で笑った。 見事な計算だこと。でも、彼が知らないだけで、綾乃はずっと前から彼との別れを決めていた。 復縁?そんなの、絶対にあり得ない。 第5話 署名を終えた後、隼人は美緒を連れて店を出ていった。 綾乃も部屋に戻り、自分の荷物を整理し始めた。 手元の結婚指輪が目障りで、外そうとした。 妊娠してから手が一回り腫れてしまい、どうやっても抜けなかった。 彼女は購入したジュエリーショップに行って、スタッフに外してもらうことにした。 店に入る前から、すでに隼人と美緒の姿が目に入った。 「石川様、こちらの結婚指輪は、有名なジュエリーデザイナー、ロバート氏の手によるデザインです。ご覧になってください」 「すごく綺麗……隼人、これにしようよ」 美緒は待ちきれない様子で手を差し出し、隼人に指輪をはめてもらおうとしていた。 綾乃は少し離れたところから、隼人が片膝をついて美緒に指輪をはめる姿を、はっきりと目にした。 歓声が上がる中、二人はしっかりと抱き合っていた。 綾乃が離婚届に署名したばかりだというのに、隼人はもう美緒と一緒に指輪を選びに来ていたのだ。 綾乃は自分の手元の指輪に目を落とした。この指輪は隼人の母が選んだものだった。 結婚は隼人の本意ではなく、彼は指輪を選ぼうともしなかったし、ウェディングフォトも数枚、適当に撮っただけだった。 本当は綾乃も、こんな日が来ることをずっと前から分かっていた。隼人の心に自分がいないなら、これからもずっといないのだと。 「指輪のサイズが少し合っていないようですので、少しお時間をいただければ調整いたします。完成次第、石川家までお届けいたします」 「はい、お願いします」 二人が指輪を選び終えて店を出てから、綾乃はようやく中へ入った。 「石川夫人?」 スタッフたちは彼女の姿を見て、顔色を変えた。 「いらっしゃったんですか?」 「すみません、この指輪を外してもらえますか」 スタッフはおそるおそる尋ねた。 「もう必要ないんですか?」 「さっき見たでしょ?私の夫が、別の女と結婚指輪を選んでたの。彼が別の人と結婚するっていうなら、私がこの指輪をつけてる意味なんて、もうないでしょ」 「石川夫人……見えるようになったんですか?」 五年前、隼人の母が綾乃を連れてこの店に来たとき、彼女の目はもう見えていなかった。 まさか、今日また会って、彼女の視力が戻ってるなんて。 「うん」 綾乃は手を差し出した。 「外してくれる?」 指輪を外してもらい、それを店員に渡した。 「石川家に指輪を届けるとき、この指輪も一緒に持っていってくれる?」 「かしこまりました、石川夫人」 「松本って呼んでください」 「松本様、またのお越しをお待ちしております」 ジュエリーショップを出た綾乃は、自分の右手を一瞥した。もう目障りなものはなかった。なんだか、胸のつかえが取れたようにすっきりした。 天気も良く、彼女は一人で街をぶらぶらと歩き回った。 日が暮れるまで、隼人から一本の電話もなかった。 きっと彼の中では、綾乃はずっと「どうでもいい人」でしかなかったのだろう。 おそらく、彼女がいなくなっても、気づきもしないに違いない。 綾乃が家に帰ったのは、夜の十時を過ぎていた。 ドアを開けた瞬間、ソファに座っている美緒の姿が目に入った。 自分を見ても、美緒は何も言わなかった。 綾乃も彼女を無視して、階段へ足を向けた。 すると、暗闇の中で、美緒が前に足を伸ばしているのが見えた。 ……転ばせようとしてる? 綾乃は何事もなかったように彼女を避けて、台所へ向かい、水を一杯飲んだ。 そのまま階段を上がろうとすると、美緒がこっそり後を追ってきた。 そして、最後の数段で突然駆け上がり、綾乃の背後から突き落とそうとした。 綾乃はすぐに体をひねって、その手をかわした。 美緒はバランスを崩し、身体がぐらついた。 彼女はとっさに綾乃の服の裾をつかみ、その反動で綾乃も一緒に階段から転げ落ちた。 「きゃあああ!」 何段も転げ落ちたあと、ようやく止まった時、綾乃は腹部に鋭い痛みを感じた。 下半身から温かい液体が流れ出すのを感じ、痛みに耐えながら手を伸ばして触れてみると、真っ赤な血が手についた。 恐怖が一気に押し寄せてくる。 同じく、美緒も無事ではなかった。 彼女は苦しそうに叫んだ。 「綾乃さん……なんで私を突き飛ばしたの!?痛い……!」 第6話 「美緒!」 隼人の声が耳元で響いた。綾乃は暗闇の中、彼のいる方向へと手を伸ばす。 「隼人……助けて……私たちのお腹の子を……」 「隼人、怖いよ、痛いよ……早く来て!」 美緒の叫び声が綾乃の声をかき消した。すぐに隼人が駆け寄ってくる。 綾乃は、せめてお腹の子のために、隼人がまず自分を助けてくれると信じていた。 だが、隼人は彼女を素通りし、そのまま美緒のもとへ駆け寄り、彼女を抱き上げた。 「美緒、怖がらなくていい、すぐに病院に連れて行く!」 「隼人、私も出血してるの……お腹もすごく痛いの……」 綾乃は彼のズボンの裾を必死に掴んだが、声はかすれて、まともに言葉も出せなかった。 明らかに綾乃の方が重症だったが、元気いっぱいの美緒の方に隼人は意識を向けている。 「これがお前の仕業か!」 隼人は彼女の手を振り払った。 「綾乃、お前には本当に失望した。美緒を受け入れてくれたと思ってたのに、まさかこんな手を使って彼女とお腹の子を殺そうとするなんてな!美緒が海外でどれだけ苦労してきたか、知ってるのか?もし彼女と子どもに何かあったら、絶対に許さないからな!」 「私は突き落としてない……美緒が自分で転んで、私まで巻き込んだの……」 綾乃は痛みに耐えながらも、必死に言葉を絞り出した。 「隼人、お願い……私たちの子を助けて……」 八ヶ月間、大事に守ってきた命。綾乃は、その我が子を絶対に失いたくなかった。 「それは自業自得だ。たとえ子どもが死んだとしても、それはお前が自分で殺したんだ!」 その言葉を残し、隼人は一瞬の迷いもなく背を向けて去っていった。 暗闇の中、彼の冷酷な背中を見つめながら、綾乃は目を閉じ、絶望の涙を流す。 痛い、体中が痛い。床の下から血がどんどん溢れていく。 彼女は這いつくばるようにして、使用人の部屋へと向かっていった。 「助けて……加代バア……お願い、助けて……」 やっとの思いで離れの使用人部屋にたどり着いた綾乃は、その場で意識を失った。 使用人がドアを開けた時、そこには血まみれで倒れている綾乃の姿があった。あまりにも衝撃的な光景に、足がすくんで動けない。 「奥さま!?どうしたんですか、奥さま!」 部屋の明かりをつけると、目に飛び込んできたのは、リビングから廊下にかけて続く長い血の跡。思わず息を呑んだ。 使用人は躊躇うことなく、慌てて隼人に電話をかける。 「旦那さま、奥さまが……」 「彼女のことは俺に言うな。死んだなら聞くが、それ以外なら二度と俺の前で名前を出すな!」 その言葉を最後に、電話は一方的に切られた。 使用人はどうしていいかわからず、すぐに119に電話をかけた。 一方その頃、隼人は美緒を抱えて病院へ飛び込んでいた。 「先生、早く助けてください!」 「妊婦さんがいつ産まれてもおかしくない!急いで!」 美緒はそのまま緊急手術室へと運ばれ、隼人は手術室の前を行ったり来たりして落ち着かない様子だった。 その三十分後、綾乃も病院に運ばれた。 医師の診察の結果、彼女の容態も極めて深刻で、すぐに手術室に入れられた。 五時間後―― 美緒は無事に出産を終えた。 早産のため、赤ん坊は体が小さく、生まれてすぐに保育器へと運ばれた。 病室では、隼人が美緒に水を飲ませていた。 「美緒、よく頑張ったな」 美緒は幸せそうに笑った。 「隼人、赤ちゃん見た?男の子だったよ。ちっちゃくて、しわしわで、すっごくブサイクだった!」 「バカだな。赤ん坊なんてみんなそんなもんだよ」 隼人は彼女の手を握りながら、申し訳なさそうに言った。 「ごめんな、美緒。綾乃のこと、俺から謝る。あいつは昔から甘やかされて育ったもんだから、あんなことしたんだ。許してやってくれ」 「何言ってるの?私が綾乃さんを責めるわけないでしょ」 美緒は驚いた。こんな時にまだ綾乃をかばうなんて、と思ったが、最終的に綾乃ではなく自分を選んでくれたのだから、まあいいかと納得した。 「それならよかった。少し休んでて。ちょっと綾乃の様子を見てくる」 第7話 隼人が立ち去ろうとしたその瞬間、美緒が泣き出した。 「もう行っちゃうの?ひとりにしないでよ、お願い……一緒にいてくれる?赤ちゃん産んだばかりで、体中がしんどいの……」 「わかった、ここにいるよ」 隼人はそっと彼女の目元の涙を拭ってやった。 「出産したばかりなんだから、泣いちゃダメだよ。目に悪いからね」 「うん……一緒にいてくれたら、もう泣かないから」 美緒が無事に出産を終えたことに、隼人は安堵の息をついた。だがその直後、彼の脳裏に綾乃の顔がよぎった。 ――隼人、助けて……私たちの赤ちゃんを…… 耳元に蘇る綾乃の必死な声。隼人の胸に不安が湧き上がる。あの時、綾乃も確かに怪我をしていた。今、彼女はどうしているのだろうか。 そのとき、廊下から足音と看護師たちの会話が聞こえてきた。 「まだ帰らないの?夜勤はもう終わったよ」 「忙しくてさ。昨夜、妊婦さんが運ばれてきたの。大量出血で、難産だったみたい。小林先生がずっと手術してるよ」 「何ヶ月だったの?今の状態は?」 「8ヶ月らしいけど、かなり危ないって。今もまだ手術中だって」 「かわいそうに……夜中に運ばれてきて、旦那さんもいなかったのよ。来たときなんて、血まみれで、顔色真っ青でまるで死人みたいだった!」 その言葉を聞いた隼人の心臓がぎくりと跳ねた。 八ヶ月、妊婦、大量出血、難産―― そのすべてが綾乃を指しているように思えてならなかった。 まさか……まさか、あれが綾乃? そんなはずはない。違う、そうに決まってる。 だが、心の中の不安は止まらず、彼は立ち上がり、誰かに確認しようと部屋を出ようとした。 「隼人……トイレに行きたいの。手伝ってくれない?」 看護師の会話を、美緒も聞いていた。 もしあの妊婦が綾乃なら……それは最高の展開だ。 綾乃とその子どもが死んでしまえば、自分と我が子は堂々と石川家の正妻と跡取りとして居座れる。 美緒の目に一瞬だけ冷たい光が宿り、すぐに消えた。 「うん……」 なぜだろう。隼人の胸に、言い表せない恐怖が湧き上がってきた。 現実に向き合うのが、怖くてたまらなかった。 もしも綾乃と子どもに何かあったら――自分はどうなってしまうのか、想像もできなかった。 一方その頃、手術室では―― 綾乃のお腹の中の子どもは、長時間の処置の末、結局助からなかった。 病院に運ばれたときには既に破水しており、彼女の体力は極限にまで落ちていた。 必死に力を振り絞ったが、何度も意識を失い、そのたびに蘇生を繰り返す苦しい時間。 医師たちは帝王切開で子どもを取り出したが、すでに長時間の窒息状態にあり、あらゆる手を尽くしても命を救うことはできなかった。 綾乃の意識のない体を見ながら、医師は肩を落とし、首を振った。 「もう諦めよう。これ以上は無理だ」 「8ヶ月の子どもが……こんな形で……目が覚めたら、彼女はどれだけ傷つくだろうな」 医師はため息をつきながら、綾乃の縫合を続けた。 「本当に気の毒だよ。旦那はどこにいるんだ?夜中に8ヶ月の妊婦を一人にして……かわいそうに、こんな目に遭って……」 麻酔の作用で、全身が震えるなか、綾乃は目を覚ました。 真っ白な天井、鼻を突く消毒液の匂い―― 彼女は、病院に運ばれたのだとようやく理解した。 「赤ちゃんは……?」 第一声で、彼女はお腹に手を当てた。そこには、何もなかった。 涙がにじみ、歯を食いしばりながら起き上がろうとするが、激痛で体はまったく動かない。 「奥様、目が覚められたんですね」 使用人の加代バアが慌てて病室に入ってきた。先ほどまで隼人に連絡を取ろうとしていたのだ。 医師からは、赤ちゃんの遺体を病院で処置するか、家族が引き取るかの判断を求められていたが、彼女には決められず、隼人に何度も電話をかけていた。 しかし、ようやくつながったと思ったら、すぐに切られ、その後は電源が切られていた。 第8話 「加代バア……」 綾乃は加代バアの姿を見るなり、焦った声で問いかけた。 「私の子供は?私の子供はどこなの?」 「奥様?見えるんですか?」 加代バアは彼女が見えている様子に驚きつつも、喜びを隠せなかった。 「子供……子供はどこ?」 だが、子供の話になると、加代バアの口は重くなった。 「加代バア!教えて、お願い!」 「奥様……」 加代バアは口を開いた瞬間、ぽろぽろと涙をこぼした。 これまでの年月、綾乃は彼女たち使用人に優しくしてくれていた。 心の温かい人で、美味しいものや良いものがあれば、必ず皆にも分けてくれた。 妊娠初期の綾乃の健診には、いつも加代バアが付き添っていた。 この子を授かるまでがどれほど大変だったか、加代バアは知っている。 初期は昼夜を問わず吐き続け、後期には薬を飲み続け、全身に湿疹が出て、夜もろくに眠れなかった。 やっと八ヶ月まできたのに――今、すべてが無に帰してしまった。 どうやってそんなことを、本人に伝えられようか。 綾乃は瞬きをしながら、何かに気づいたように視線が空ろになっていく。 「加代バア、私の子供は?なんで泣いてるの?」 「奥様……お子さんは……亡くなられました」 加代バアは嗚咽混じりに声を絞り出した。 「お医者様が……女の子だったそうです。生まれた時にはもう息をしていませんでした。必死に処置してくれましたが、助けられませんでした……」 「何を言ってるの?」綾乃は笑いながら言った。 「そんなはずないよ。私の子供は死ぬわけない。あんなに頑張って八ヶ月もお腹にいてくれたのに、死ぬなんて……」 「お医者様が言うには、病院に来るのが遅すぎたと……もっと早ければ、助かったかもしれないって……」 「そんなの……私の子供は死んでない……探しに行かなきゃ」 どこからそんな力が湧いたのか、綾乃は突然ベッドから起き上がった。 内臓が元に戻るような激痛に、意識が飛びそうになる。 壁に手をつきながら、ふらふらと歩み出すが、すぐに床に倒れてしまった。 加代バアはその姿に、さらに大声で泣き出した。 「奥様、そんなことしないでください!奥様、ご自分の体の方が大事なんですよ!」 「うわああああ!なんで……なんでこんなことに!」 その瞬間、心の奥に押し込めていた絶望と悲しみが一気に爆発した。 彼女は床に這いつくばり、涙を流しながら、叫び声をあげた。 「いやあああ!私の子供!私の子供!ごめんね……ママが悪かった、ママのせいだよ……!」 そのまま綾乃は力尽き、意識を失った。 「奥様!」加代バアが叫ぶ。 「誰か!お医者様!奥様を助けてください!」 朦朧とした意識の中で、綾乃の耳に人々の話し声が聞こえてきた。 「ご主人は?まだ連絡つかないの?」 「うちの旦那様、ずっと電話が繋がらなくて……」 「妊婦さんの体力が落ちてて、情緒も不安定ですね。状況はあまり良くありません」 一人の医師が沈黙ののち、静かに口を開いた。 「それと、お子さんのご遺体のことも……早めにご判断を」 「先生……」 綾乃がゆっくりと目を開け、かすれた声で言った。 「子供に……会わせてください、少しだけでも……」 「はい」 医師は哀れみを込めた視線を送り、彼女を子供のもとへ案内するよう指示した。 そこに横たわる小さな命。 まったく動かず、まるで眠っているかのように、静かだった。 綾乃は声を出そうとしたが、喉から漏れるのはかすかな息音だけ。 手を伸ばし、触れようとして――けれど、結局、その小さな体には触れられなかった。 胸が締めつけられ、息ができないほどの痛みが襲い、涙が頬を伝って止まらなかった。 綾乃は目を閉じ、心の中で決意を固めた。 「……私が、処理する」 「お父さんの方は……最後に見せなくても?」 「いらない。あの子に父親なんていない」 彼が見殺しにして、美緒を選んだあの瞬間から―― 綾乃の中で、隼人への愛情は完全に消え失せた。 第9話 美緒は自然分娩で無事に出産し、回復も順調だったため、三日間の入院を経て退院することができた。 その三日間、隼人はずっと病院で彼女のそばにいた。 時々綾乃のことが頭をよぎったが、スマホを開いても誰からも連絡が来ていないのを見て、彼女は大丈夫だろうと勝手に思い込んでいた。 隼人は知らなかった。彼のスマホの着信履歴は、美緒によってすべて削除されていたことを。 美緒は、綾乃に隼人の心には自分しかいないことを思い知らせて、諦めさせたかったのだ。 綾乃も同じ日の午前中に退院した。 体はボロボロで、歩くことすらままならないほど辛い状態だった。 それでも彼女は意地でも車椅子に乗り、加代バアに火葬場まで連れて行ってもらった。 自分の目で、我が子が火葬されるのを見届け、自らその遺灰を骨箱に納めた。 火葬場を出ると、空からは小雨が降っていた。 綾乃は空を見上げ、心の奥底まで冷え切ったような寂しさを感じた。 「加代バア……家に戻りたいの」 そう言って彼女は石川家へ戻った。床に残る血痕はまだ生々しく、その夜の記憶が鮮明によみがえる。 胸が張り裂けそうな苦しみを抱えながら、綾乃は手すりにすがって、一歩一歩ゆっくりと階段を上った。 必要最低限の荷物を鞄に詰めた後、彼女は骨箱と、隼人が隠していた離婚届をテーブルの上に丁寧に置いた。 支度を終えると、彼女は階段を下りていった。 階下では、使用人たちが一列に並び、綾乃の姿を見るなり、皆が涙にくれていた。 「奥様……」 「行きますね。これまで、本当にお世話になりました」 綾乃は苦しげな声でそう言った。 「床の血痕、綺麗にしておいてください。隼人が戻ったら、あなたたちが怒られてしまうから」 「わざと掃除してないんです!奥様、旦那様に自分が何をしたか、ちゃんと見せたかったんです!」 「そうです!この血の跡、私たちでさえ見ていられないのに……旦那様もちゃんと見ておくべきです!」 使用人たちは声を上げて泣き崩れた。綾乃は唇をかみしめ、ついに堪えていた涙をこぼした。 「ありがとう……」 彼女は涙を拭い、スーツケースを引いて家を出た。 五年間暮らした家を振り返り、わずかに目を伏せて、決然と背を向けた。 綾乃が出て行った直後、隼人の車が家の前に到着した。 彼は美緒を支えながら玄関へ向かい、大声で叫んだ。 「誰か!妻の荷物を中に運べ!」 使用人たちは無言で玄関に並び、道を開けた。 その様子に隼人は不審そうに眉をひそめた。 「何してる?ボーッとしてないで動けよ」 美緒が目をひそめて呆れたように言った。 「隼人、あなたが普段から甘やかすから、こんな態度取られるのよ」 「……何があった?」 彼は足を踏み入れ、リビングに入った瞬間、床に残された長い血痕を見て、目を見開いた。 胸が何かに押し潰されるように苦しくなった。 「これ……なんだ?」 「旦那様、それは奥様の血です」加代バアが無表情で答えた。 「……嘘だろ?あの夜、どうしてこんなに血を流したんだよ」 「奥様はあの晩、旦那様に自分と赤ちゃんを助けてほしいとお願いしました。でも無視されたので、私たち使用人の部屋まで這って来たんです。お腹を抱えながら、一歩一歩、血を流しながら……この血痕はその時のものです」 加代バアの目が赤く染まりながら、淡々と語った。 隼人の心臓が締め付けられるように痛んだ。彼は半ば錯乱したように加代バアの腕を掴んだ。 「綾乃は!?どこに行った!?」 「奥様はもう出て行かれました。でも、旦那様に何かを残していかれました。二階にあります。見てきてください」 「出て行った?どこに?ここは綾乃の家だろ?俺の妻だぞ、どこに行くっていうんだよ……!」 「いえ、旦那様。もう離婚されたでしょう?お忘れですか?」 「……」 隼人は数歩後ずさりし、目の焦点が定まらなくなっていった。 恐怖が全身を駆け巡り、目の奥が真っ赤に染まった。 美緒が腕を引いた。 「きっと冗談よ、隼人。女の人って出産したらそれくらい血を流すものよ、私だってそうだったわ」 「黙れ!」 隼人は振り返り、冷たい目で美緒をにらみつけた。 「美緒、お前、俺を馬鹿にしてんのか?これが普通の血の量に見えるか?」 そう吐き捨てると、彼は一気に階段を駆け上がった。 「綾乃、ふざけるなよ……出てこいよ、な?」 彼は寝室に入った。しかし、そこには誰もいなかった。 テーブルの上に、小さな箱と一枚の書類が置かれていた。 隼人は重い足取りで、ゆっくりとその場所へ向かった。 そして、彼が隠したはずの離婚届を見つけた。 「ありえない……!」 どうやって見つけた?あの時、確かに彼女の目の前で隠したはずだ。綾乃は目が見えないはずだったのに。 視線が横の小さな箱に移った瞬間、隼人の胸に不吉な予感がよぎった。 彼は震えながら手を伸ばし、その箱を開けた。 箱の蓋が開いた瞬間―― 隼人は完全に狂った。