風に消える恋なら、それでよかった

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風に消える恋なら、それでよかった

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「莉子、決めたよ。ひとりで無人島に行って暮らすつもり」 電話の向こうは、南条夏希(なんじょう なつき)の一番の親友――北原莉子(きたは...

Chương (1)

第1章

「莉子、決めたよ。ひとりで無人島に行って暮らすつもり」 電話の向こうは、南条夏希(なんじょう なつき)の一番の親友――北原莉子(きたはら りこ)だった。 莉子はその言葉を聞くと、ようやく安堵したように息をついた。 「やっと決心ついたんだね。あの人ときっぱり別れるって?」 「うん」 「あんなに長い間、隠れて付き合ってたのに、結局なにもしてくれなかったじゃない。あんたにはずっと言ってたんだよ?早く別れなって。 ……でもさ、ひとりで無人島なんて、本気?危なくない?もしよかったら、私も一緒に」 「大丈夫」夏希が答えた。 「一緒に来てくれる人は、もういるから」 第1話 「莉子、決めたよ。ひとりで無人島に行って暮らすつもり」 電話の向こうは、南条夏希(なんじょう なつき)の一番の親友――北原莉子(きたはら りこ)だった。 莉子はその言葉を聞くと、ようやく安堵したように息をついた。 「やっと決心ついたんだね。あの人ときっぱり別れるって?」 「うん」 「あんなに長い間、隠れて付き合ってたのに、結局なにもしてくれなかったじゃない。あんたにはずっと言ってたんだよ?早く別れなって。 ……でもさ、ひとりで無人島なんて、本気?危なくない?もしよかったら、私も一緒に」 「大丈夫」夏希が答えた。 「一緒に来てくれる人は、もういるから」 電話を切った後、夏希はスマホを持った手をだらりと垂らし、試着室のドアに力なく背中を預けた。 明かりは点けていない試着室に、静寂と闇が彼女の心をそっと包み込んでいた。 扉に手をかけて出ようとしたその瞬間―― 不意に、誰かの厚い胸板にぶつかってしまった。 次の瞬間には、夏希がその男の腕の中に引き戻され、狭い試着室の中へ押し込まれていた。そして、迷うことなく唇を奪われた。 思わず声を上げそうになった夏希だったが、その前に低く魅惑的な声が囁いた。 「まさか、俺のことも忘れたのか?」 ――その声で、夏希の全身が硬直した。 男は彼女の顎を優しく掴み、唇にもう一度、名残惜しそうにキスを落とした。 「俺の名前を呼んで」 夏希は視線を逸らしながら、しばらく黙ったあと、搾り出すように言った。 「……叔父さん」 その言葉を聞いてようやく、高峰啓介(たかみね けいすけ)は満足そうに微笑んだ。夏希の腰を引き寄せ、頬へと優しく口づけた。 「今夜、うちに来ないか?」 夏希はすぐに啓介を突き放し、慌てて距離を取った。 「無理……風邪ひいちゃって、すごく眠いの。今日は早く帰って寝たい」 「じゃあ、明日は?」 「明日もダメ」 啓介は眉をひそめた。「また拗ねてるのか?」 夏希は首を横に振った。「違うよ、本当に体調が悪いだけ」 啓介は夏希をしばらく見つめ、それからもう一度キスをして、ようやくこう言った。 「わかった。ちゃんと休めよ。今回は見逃してやる」 夏希は顔を上げた。 目の前にいるのは、彼女が五年間も想い続けてきた男だった。 彼女の本当の父親は幼い頃に他界した。五年前、母が再婚し、彼女と姉の南条千春(なんじょう ちはる)は高峰家に移り住むことになった。 姉は頭もよく、話も上手で、何より見た目も洗練されていて、誰からも愛される存在だった。 その一方で夏希は、姉の引き立て役として生きてきた。 いつだって姉が中心。夏希は端に追いやられ、誰にも気づかれなかった。 そんな彼女の世界に、啓介が現れた。 みんなが姉の誕生日しか祝わない中、啓介だけは夏希の誕生日を覚えていた。 あの日、彼は夏希を海へ連れ出し、夜通し花火を打ち上げてくれた。世界一可愛いケーキを用意して、ドラック一台分のプレゼント――花束、ドレス、ぬいぐるみ――すべて夏希の好みに合わせて用意してくれた。 彼は、夏希の二十二年間の人生で唯一の光だった。そしてその瞬間から、夏希が彼を好きになってしまった。血の繋がりはないけれど、「叔父さん」と呼ぶその男を。 二十歳の誕生日、夏希は勇気を出して、啓介にキスをした。 啓介はそれを拒まなかった。 それから二人は恋人同士のように愛を交わした。誰にも気づかれないように、しかし誰よりも深く。 啓介は夏希に約束した。 「卒業したら、二人で海外に行こう。誰も俺たちの関係を知らない国で、籍を入れて、一緒に暮らそう」 だけどその夢は、昨日、唐突に終わりを迎えた。 手作りのクッキーを届けに行ったあの日。 啓介のオフィスの前で、彼の友人たちの話し声が聞こえてしまった。 「いや〜啓介も待った甲斐があったな。五年越しでようやく、千春ちゃんが帰ってきたんだもん」 「夏希って子、これでもう身代わりとして過ごす日々ともおさらばだな」 「あの子もちょっと可哀想だよな。親からも愛されてなくて、叔父からも身代わり扱いだしさ……」 啓介の声が、他人事のように響いた。 「別に可哀想じゃない。千春と同じ顔で生まれてきたんだから、それだけで十分幸運だろ」 手に持っていたクッキーの箱が、ガシャンと音を立てて床に落ちた。夏希の焼いたクッキーが、バラバラと地面に散らばる。そのとき、彼女の心も一緒に砕け散った。もう、価値なんてなかった。 夏希は思っていた。――他の誰が姉を選んでも、啓介だけは自分を選んでくれると。 でも、結局彼も同じだった。 彼の中で、自分は「千春の身代わり」に過ぎなかった。 それなら――もう、彼なんていらない。 夏希はすでに、テクノロジー企業にアンドロイドを発注していた。父と母、そして恋人役。三体のアンドロイドが自分の家族になる。 アンドロイドは十日後に届ける予定だ。 それが揃ったら、誰もいない島へ行く。誰にも邪魔されずに、本当に自分を愛してくれる「家族」と、静かに暮らしていくのだ。 第2話 試着室の外から、楽しげな両親の声が聞こえてきた。 「やっぱり千春は特別だわ。千春みたいに綺麗で品がある子には、こういうオーダーメイドのドレスが一番似合うのよ」 「そうだな、普通の服じゃうちの可愛い娘には釣り合わん」 ドア一枚挟んだ内側で、夏希は静かに、自分の手にかかったタグを見つめて、苦笑がこぼれた。 値段は、たったの「1980円」。 彼女と姉の千春は一卵性双生児で、顔立ちは瓜二つだった。 でも――両親にとって、千春は空に浮かぶ雲で、夏希は地べたの泥。 千春には数百万円するハイブランド。夏希には、1980円のワゴンセール品。 でも、もうそんなことを気にする気力もなかった。 夏希は黙って啓介の横を通り過ぎ、先に試着室から出ていった。 千春は純白のオーダーメイドドレスに身を包み、同じ色のサンダルを履いていた。完璧なメイクに、上品にまとめられた髪――誰が見ても「完璧なお嬢様」だった。 継父も母も、そして店員たちも、みな彼女を囲んで絶賛していた。 「お母様が美人だから、お嬢様も綺麗なんですね!本当に羨ましいです!」 その言葉に、母――高峰琴子(たかみねことこ)は一瞬だけ笑顔を曇らせ、軽く鼻を鳴らした。 「千春が頑張ってるからよ。まあ、もうひとりの子はダメね。同じ私が産んだとは思えないわ」 「えっ、お嬢様ってもう一人いらっしゃるんですか?てっきりお手伝いさんかと……」 「いるわよ。さっき中に入ってたあの子よ。ホント、連れてこなきゃよかった……恥ずかしいったらない」琴子は首を振り、諦めにも似た声で言った。 ちょうどそのタイミングで、夏希が服を手に出てきた。 母は少し気まずそうに髪をいじり、ぶっきらぼうに訊ねた。「試したの?」 夏希は小さく頷いた。「うん。でも、この服あんまり好きじゃない。やめとく」 「何言ってんの。私はその服、あんたに似合ってると思ったのよ。ほら、買ってあげるから」琴子がとても嫌そうに言った。 「いらない。好きじゃないから」夏希が言葉を重ねった。 この服、安いから縫製が怪しくて、下手に力を入れたら破れそうだった。夏希はビクビクして、まともに動くことすらできなかったのだ。 その時、啓介が試着室の奥から出てきた。そして笑みを浮かべながら言った。「お義姉さん、どうかされました?」 「まったく……この子ったら、服を買ってあげるって言ってるのに駄々をこねて……ちっとも聞き分けがないの。千春とは大違い」 啓介は少し眉を上げ、夏希の方を見た。 「……本当か?」 夏希は唇を噛んで、小さな声で繰り返した。「この服……好きじゃない」 「気に入らないなら買わなきゃいいでしょ!甘やかされて育ったのに、わがままばっかり!」 その言葉に、夏希の堪えていた感情が、零れ落ちた。 「私は、そもそも服なんていらなかった。今日は千春がドレス買いたいって言ってたんだろう?私は、ただの付き添いよ」 「その言い方は何?あんたも私の娘よ?だから一応一着買ってあげようとしただけでしょ?平等に扱わないと、他人に何言われるかわからないし……それの何が悪いのよ?」琴子は声を張り上げた。 「お義姉さん」啓介が静かに口を挟んだ。「夏希はまだ若いので、そこまで責めなくても」 「若いって?千春と同い年よ?あの子はこんなにしっかりしてるのに!」 琴子はふと何かを思い出したように言った。「そういえば、啓介。どうして夏希の試着室から出てきたの?」 夏希の背筋がピンと張った。 「叔父さんが、私が出てこないから心配して、呼びに来ただけ」夏希が慌てて言い訳を並び立てた。 その横顔に浮かんだ啓介の微笑みは、明らかにからかうようなものだった。 琴子はさらに不満げな顔で言った。「啓介さんは忙しいのに、今日はわざわざ時間を作って、二人のために買い物に付き合ってくれたのよ?夏希、もっと感謝しなさい、そして心配かけないで」 夏希は俯いたまま、か細い声で応じた。「……わかってる」 「ついでに言っとくけど、あんたの彼氏も一度家に連れてきなさい。啓介さんが認めたら、そのまま結婚の話も進めるから。さっさと嫁に行ってちょうだい。もう、目障りなのよ」 啓介が目を細めて夏希を見つめる。「へぇ、俺が出張してる間に……もう新しい彼氏ができたのか」 「私……」 「啓介さん、聞いて!あの子、実は五年も付き合ってるんだって!日記まで書いて、毎日毎日、男のことばっかり。私が見つけなかったら、ずっと隠し通すつもりだったのよ!」 啓介の瞳が一瞬だけ揺れた。 五年―― それが誰のことか、彼にはもう分かっていた。 口元に浮かんだ笑みは、すべてを理解した男のものだった。 「そんなに魅力的なのか、その男。毎日、日記にまで書いて……夏希、お前、そこまで惚れてるんだな?」 琴子が薄笑いした。「まったく、みんなこの子を甘く見てたのよね」 啓介がわざとらしく言った。「で、その日記の男の名前は?」 夏希は目を見開き、怒りに満ちた視線を彼にぶつけた。 ――わかってて、聞いてる。 あざけるような啓介の表情。まるで、弱い生き物を弄ぶように。 「まあ、夏希もなかなか用心深い子でさ。私が何度読んでも、男の名前は一度も書かれてなかったのよ」 「ふーん。秘密主義ってわけか……可愛いじゃないか」 そう言って笑う啓介の目は、夏希の混乱と怒りを楽しんでいるようだった。 その時――琴子が、ふっと低く笑った。 「でもね、名前は書かれてなくても、私にはわかるのよ。夏希が好きな男が誰なのか」 第3話 夏希の顔から、血の気がさっと引いた。「……お母さん?」 啓介もわずかに目を見開いた。 琴子は腕を組んだまま、得意げな笑みを浮かべる。 「きっと、あんたが中学の時に付き合ってた桐山(きりやま)って苗字の男の子でしょ?」 「……え?桐山?誰のこと?そんな子、全然覚えてないけど……」 「まだシラを切るつもり?あんたにラブレター書いたの、あの子だけでしょ?他に誰が千春じゃなくてあんたなんか選ぶのよ?」 その言葉に、啓介が軽く眉を上げた。「へぇ、夏希ってば中学生のころからモテてたんだな?」 夏希は顔をそらした。「……知らないし、覚えてない」 「叔父さん〜」と、千春が甘ったるい声で割って入る。 ふわりとスカートの裾を揺らしながら近づくと、姉らしい微笑みを浮かべて夏希の手をとった。 「女の子って、そういうの恥ずかしいから言えないのよ。ね、夏希?」 夏希は動揺しながらも、ぎこちなく「……うん」と応じた。 だがその瞬間―― 千春は夏希の耳元へと顔を寄せ、誰にも聞こえない声で囁いた。 「私ね、知ってるの。あんたと叔父さんのこと」 夏希の体が一瞬で強張った。 千春の笑みは、ゆっくりと軽蔑と勝利に染まっていた。 「でもね、無駄なんだよ。叔父さんが本当に好きなのは、最初からずっと私。私を大事にしすぎて手を出せなかっただけ。だから代わりにあんたを選んだのよ。 夏希、あんたは――ただの都合のいい人形なの。喋るダッチワイフってわけ」 夏希が息を呑んだその刹那、千春はさらに追い打ちをかけた。 「信じられない?じゃあ、証拠を見せてあげる」 彼女はニヤリと笑い、次の瞬間、驚いたように目を見開いた。 「きゃっ!」 夏希の腕を掴み、後ろの金属製の資材棚へと体ごと倒れ込んだのだ。 鉄製の鋭利な棚は、隣の店の改装工事で仮置きされていたもので、明らかに危険だった。 「南ちゃん!」 啓介は顔色を変え、慌てて飛び出した。咄嗟に千春の手を掴み、思いきり引き寄せた。 そして―― 夏希の身体は、そのまま勢いよく金属製の棚に激突した。 「……ッ!」 ドレスの布地が破れ、鋭利な角が肌を切り裂く。鮮やかな血がにじみ、すぐに布を濡らしていった。 「千春!大丈夫!?お母さんもう心臓止まるかと思った!」 琴子が駆け寄り、動揺しながら千春の無事を確認した。 「千春が無事でよかった」継父も安堵の声を漏らした。 啓介はしっかりと千春を抱きしめたまま、真剣な眼差しでその体を検めた。怪我がないことを確かめると、ようやく息を吐いた。 「……どうしていきなり倒れたんだ?」 そのとき、琴子が激昂して夏希を指差した。「こいつよ! 千春に嫉妬して、服を汚してやろうとしたのよ! 傷を残して台無しにしてやろうって魂胆に決まってる!」 言うが早いか、彼女は夏希の頬を思い切り平手で叩いた。 パシンッ――! 夏希の顔が勢いよく横を向いた。 ――痛みよりも、心が砕けた。 全身に走る傷の痛みなんて、あの一撃には敵わなかった。 震える声で訴えた。「……ち、違う……お母さん、私は……」 「お母さんって呼ばないで!あんたなんか娘でも何でもない!人を傷つけるような子、私は産んだ覚えない!」 その瞬間、夏希は冷たく笑った。頬の涙を指でぬぐい、そのまま口を閉ざした。 目線の先には――まだ千春を抱きしめて離さない、啓介の姿だった。 さっきの一瞬、彼の口から飛び出したあの一言―― 「南ちゃん!」 その声は、夏希の心を鋭く貫いた。 かつて彼女と啓介が熱い愛に溺れていた時に、彼が彼女の顔を優しく捧げ持って、いつも「南ちゃん」と呼んでいた。「夏希ちゃん」でもなく、「南ちゃん」――それは彼しか使う人がいない、特別な愛称。 最初は不思議に思った。 でも、きっと彼が夏希だけのためにつけてくれた特別な名前だと信じた。 嬉しくて、彼女も日記で彼のことを「X氏」と呼んでいた。母親に見られてもバレないように、秘密の暗号みたいに。 けれど――今、ようやく気づいた。 あの「南ちゃん」は、夏希ではなかった。 彼が愛を囁くように呼んでいたは――姉・千春だった。 夏希の顔を見て、啓介は彼女のことを千春と重ねていただけ。 あの「南ちゃん」は、姉の姿に向けられた幻だったのだ。 第4話 夏希はふっと笑った。 ――そうか、そういうことだったんだ。 真実は、あまりにも残酷すぎた。 彼女はなんとか自分を奮い立たせて立ち上がり、その場にいた全員を通り過ぎて出口へ向かった。 「夏希、どこへ行くんだ?」啓介が声をかけた。 夏希は振り返らずに言った。「叔父さんも、私が千春に嫉妬して、彼女を突き飛ばしたって思ってるの?」 啓介の声は淡々としていた。「千春に謝ってこい。あの子は優しいから、すぐに許してくれる」 その言葉を聞いた夏希は、無言で歩き去った。 「夏希!」啓介の声に苛立ちが混じた。「わがままもいい加減にしろ!」 夏希は、言い返したい気持ちを抑えた。 ――私は、わがままなんか言ってない。 そもそも、わがままを言う権利すら、私にはなかった。 誰も本気で私を愛したことなんてなかった。 そう、今さら何を説明しても、誰も信じはしない。 みんな「千春は天使」「夏希は悪女」と、最初から決めつけている。 背後から、母――琴子の怒鳴り声が響いた。 「啓介さん!呼ばないで!そんな恩知らずの裏切り者、うちに置いておく価値なんてないわ!」 ショッピングモールを出た夏希は、まっすぐジュエリーショップへと向かった。 「いらっしゃいませ、お探しのものはございますか?」 夏希は左手の薬指にはめられた指輪を外して、差し出した。 「これ……溶かしてください」 店員は目を丸くした。 「えっ?この指輪、かなり高価なものですよ?内側に刻印もありますし……『KSK love NAN』?」 KSK love NAN。 指輪の内側に掘られていたのは――啓介が南ちゃんを愛している、という証だった。 それは、夏希が成人を迎えた誕生日に贈られたものだった。 純プラチナの婚約指輪。 あのとき、彼は言った。 「今日で、俺の南ちゃんもやっと成人した。もう他の誰にも渡さない。最初に手を打っとくよ」 その言葉と共に、海辺での花火、甘いキス―― 胸が、締めつけられた。 夏希の誕生日は、当然ながら千春の誕生日でもあった。 ……そうか。 啓介が「誰にも渡さない」のは――私じゃなく、千春だったんだ。 「南ちゃん」と呼ばれて舞い上がっていた自分が、どれだけ滑稽だったか。 あんなに大切にして、左手の薬指にずっと着けてきたのに。 いつか彼の正式な妻になれる日を夢見ていたのに。 「お客様、こちら婚約指輪ですよね?刻印もありますし、きっと特別な意味が……本当に溶かしてしまってよろしいんですか?」 夏希は目を閉じ、深く頷いた。「ええ、お願いします」 「では、溶かしたあとジュエリーに作り直しますか?指輪でもブレスレットでも、いろいろデザインが選べますよ」 「……いえ、いりません。溶かしたら、そのまま返してください」 「えっ?それじゃ、ただの銀色の塊ですよ?」 「それでいいんです。お願いします」 その時―― スマホが震えた。 表示された名前は【叔父さん】。 ……少し迷った末に、夏希は応答ボタンを押した。「……はい」 「どこにいる?」 「……ちょっと、外に出てるだけ」 「場所を教えて」 「なんで?」 「迎えに行く」 「……」 「夏希、さっきは千春が近くにいたから、咄嗟に手を伸ばしただけなんだ」 「……」 「ねえ、もう怒るなって。来月に時間作るから、一緒に海外行こう。調べたんだ、ラスベガスならパスポートさえあればすぐに結婚できる。手続きも10分で終わるんだ。行こう、ふたりで」 ――来月? もう来月なんて、ない。 あと十日。夏希が注文したアンドロイドは完成される。 そしてその日を境に―― 啓介との関係も、永遠に終わるのだ。 第5話 夏希が小さなジュエリーボックスを持って帰宅したとき、迎えたのはやはり――冷たい嘲笑だった。 「ほら、どうせ戻ってくると思ったわよ」 母・琴子は口元だけ笑って、目は一切笑っていなかった。「強がっても意味ないわよ。高峰家を出たところで、あんたに生きていけるわけないでしょ」 継父も苦言を呈した。「夏希、今回ばかりは本当に反省しなさい。啓介くんにも心配かけたんだぞ」 啓介も眉をわずかに寄せて言った。「次からは、もう少し大人しくしてくれ。みんな、お前のことを本気で心配してるんだからな」 「みんなって、誰のこと?」夏希は鼻で笑った。 この家の中に――本当に彼女を心配する人間なんて、一人でもいるのだろうか? 琴子は怒りを露わにして、指を突きつけた。 「あんたねぇ、私が高峰家に嫁いでなかったら、今の生活なんてできなかったのよ?感謝の気持ちもなく、逆に親に歯向かって、どういうつもり?」 夏希はまっすぐに背筋を伸ばした。 「……じゃあ、今まで高峰家で使ったお金、全部返す。具体的な金額、教えてよ」 「はっ、あんた何で返すっての?まさか身体でも売る気?」 「安心して。たとえそうなっても、借りはきっちり返すから。返済が終わったら、母娘の縁もきっぱり切ろう。二度と関わりたくない」 啓介があわてて夏希の腕を取った。「夏希、言いすぎだって。そんな怒ったって、何にも――」 夏希は勢いよく彼の手を振り払った。「……私は本気よ。一度だって、冗談で言ったことなんかない」 部屋に戻った夏希は、すぐに紙とペンを手に取り、過去数年の支出を書き出し始めた。 日常生活の出費はほとんどなかった。服はすべて千春のおさがり、食事も使用人と大差なかった。 一番お金を使ったのは――芸術大学の学費と、アンドロイドの制作費。 父・母・恋人役の三体をオーダーメイドで依頼しており、1体1500万円、合計4500万円。 芸術大学の学費は年間150万円で、4年間で600万円。 亡き祖父が残してくれた小さな家を、不動産屋に連絡して売ってもらえば、およそ3000万円にはなる。 残り2100万円、何としても工面しなければならなかった。 ──ピコン。 通知音が鳴り、スマホを見ると、高校の同窓グループからメッセージが届いていた。 【@夏希 叔父さんがすっごく心配してるよ!さっき私にも電話かかってきた!】 【マジで!クラス中に連絡取ってるらしいよ。高峰さんってそんなに夏希のこと……】 【@南条夏希 てか叔父さん、声めっちゃいいんだけど!結婚してないの?紹介して、親戚になりたーい♡】 【でもさー、あんなに焦ってるなんて、夏希のことほんとに大事にしてるんだね。H市中探し回ってたらしいよ?】 夏希は画面を消して、スマホを放り投げた。そして再び、借金の計算へと戻った。 しばらくして、啓介が部屋に入ってきて、手には湯気の立つ丼を持っていた。 「夕飯、食べてないだろ?これ、甘いお粥。俺が作ったんだ」 夏希は驚いて、彼の手元を見た。「料理なんて……できたの?」 「いや、できないけど。今日は特別。夏希のために、頑張った」 夏希は受け取らなかったが、啓介の指先には火傷の跡がいくつも見えていた。 その視線に気づいたのか、啓介は小さく笑ってテーブルに丼を置き、向かいに腰を下ろした。 「今日のこと、本当に誤解だから。あのとき俺は、二人から少し距離があって……どっちかしか助けられなかった。ただ、たまたま千春のほうが近かっただけなんだ」 「……叔父さん、もういいよ。あなたの心の中に誰がいるか、私はちゃんと知ってるから」 啓介は安堵したように笑った。「ならよかった。今日、お前のために煮たお粥が報われるよ」 夏希はまっすぐ彼を見た。 深い眼差し。茶色の瞳。どんな相手にも、愛情の込もった視線を注ぐ。 それは、かつて彼女を虜にした優しげな光。だけど――もう騙されない。 夢は終わった。 どんなに甘い言葉を並べられても、もう「信じたい」なんて思わない。 本当は、さっき聞きたかった。 ――千春が帰ってきたんだから、千春と結婚して、幸せになればいい。なのにどうして、私にだけこんな中途半端な優しさを向けるの? 同級生にまで連絡して、自分の手を火傷してまで料理をして…… そこまでして、何を求めてるの? でも、すぐに理解した。 ……千春が言ってた。「叔父さんは、私のこと大事にしてるから、手を出せないの」って。 だったら――千春とそっくりな「身代わり」である私が、必要なんだ。 バカで、従順で、都合のいい、言葉を話すだけの人形。 夏希は目を逸らして、再び紙に目を戻した。 啓介がそっと手を伸ばし、彼女の手元からメモ用紙を取って眺めた。「……本当に計算してたのか。ガキの意地かと思ったけど、真剣なんだな」 「……当たり前。私は本気よ」 「じゃあ、あといくら足りないのか教えて。俺が今すぐ振り込む。それで母娘の縁が切れるなら、それでいい。その代わり、夏希は俺だけのものになれ」 「……あなたの金はいらない。私は自分でやる」 ――ピリリリ。 スマホが鳴った。 「お世話になっております、こちらテクノロジー・アンドロイド株式会社です。 『恋人役アンドロイド』の人格と外見の調整、完了しました。画像を送信しておりますのでご確認いただき、問題なければ制作に入らせていただきます」 「確認は不要です。そのまま進めてください」 電話を切ったとたん、鋭い視線が突き刺さった。 啓介が、疑いを込めた声で尋ねた。 「……アンドロイド?今の、何の話だ?」 第6話 夏希は視線を落とし、啓介の探るような眼差しを避けた。 「……昔の同級生がね、アンドロイド関連の会社立ち上げてて。製品のテストに協力してくれって頼まれたの」 「どの同級生?」 「中学のときの。あなたは知らない人」と夏希はごまかそうとした。 彼女は17歳の時に高峰家に来た。啓介は彼女の高校時代の交友関係をすべて把握していたが、中学時代のことまでは知らなかった。 その答えを聞いた啓介は、ほんの少し不機嫌そうに眉をひそめた。 「中学なんて、もう何年も前のことだろ?いまだに連絡取ってるなんて、意外だな」 「同級生なんだから、連絡取ってても別におかしくないでしょ?」 ……そのとき、啓介が何かを思い出したように言った。 「まさかとは思うけど……琴子さんがこの前言ってた、昔お前にラブレターを送った桐山じゃないだろうな?」 夏希は呆れたように眉をひそめた。「何それ……そんな人、記憶にすらないんだけど。ちょっと、なにしてるの?」 啓介が急に彼女の手首を掴んだ。力強く、そして支配的に。 「夏希、お前は俺のものだ」 「私は私自身のもの。誰の所有物でもないわ」 苛立ちを隠そうともせず、啓介は言った。「……またそうやって。千春が戻ってきてから、お前ずっとおかしいぞ」 「そう思うなら、そうなんでしょね」 夏希は無表情で部屋のドアを指差した。「叔父さん、もう寝る時間なの。男女のけじめってあるでしょ?出てって」 啓介はその場に立ち尽くした。 沈黙が数秒続いたあと―― 「出ていかないなら、叫ぶよ。お母さんにも、お父さんにも、私たちの関係をぜんぶ話す」夏希が催促した。 啓介の目つきが変わった。「叫んでみたら?兄もお義姉さんにも教えていいよ、俺たちの関係」 夏希は冷たく言い返した。「私はどう思われても構わない。どうせお母さんたちにとって、私はもう人間扱いされてない。だけどあなたは違う。千春が見たらどう思う?妹と二人きりで何してたのって、ちゃんと説明できるの?」 啓介は一瞬だけ息を止めたように見えた。 そして、無言のまま部屋を出ていった。 彼の背中を見送りながら、夏希はひとり冷笑した。 ――心の中で、彼を嘲笑い、自分をも嘲笑った。 伝えられない想いを抱え続けているくせに、千春に対しては何一つはっきり言えない啓介の弱さ。 そして、そんな人を本気で好きになってしまった、自分の愚かさ。 夏希はその背中に向かって、最後に小さく呟いた。 「……高峰啓介、これで終わりにしよう」 翌朝、夏希はテクノロジー・アンドロイド株式会社を訪ねた。 「父」と「母」役のアンドロイドは、すでに完成していた。 それらはまるで本物の人間のように見え、表情も、仕草も、肌の温もりすらも違和感がなかった。 「当社は『忠実に再現』をコンセプトにしておりますので、人間との差はほとんどありません」とスタッフが説明した。 「唯一の違いは、カスタム可能な初期プログラムです。お客様のご希望に沿って、性格や記憶を設定できます」 「このふたり……私と、姉の区別はちゃんとつきます?」 「もちろんです。送って頂いた写真データを高精度で分析していますので、アンドロイドは0.1秒で正確に識別できます。絶対に混同しません」 「……彼らは、私のことを永遠に愛してくれますよね?」 スタッフはにっこりと微笑んだ。「はい。それが唯一のご要望と伺っておりますので、『父』と『母』モデルは、たとえどんなことが起ころうとも、永遠に南条様を愛し続けます」 夏希は静かにうなずいた。 スタッフは続けた。「なお、『恋人』役も現在最終調整中です。予定通りの納品に向けて進めておりますので、ご安心ください」 「……ありがとうございます」 「ところで、納品先のご住所ですが、どちらにお届けすればよろしいでしょうか?」 夏希は少しだけ考え込み、やがて口を開いた。「……トリスタン・ダ・クーニャ島までお願いします」 スタッフは一瞬きょとんとした。「……申し訳ありません、どちらでしょうか?」 「トリスタン・ダ・クーニャ島という大西洋の孤島で、最も近い陸地から3400キロ離れた場所です。私は――静かな場所が好きなので」 「……かしこまりました。地球上であれば、どこへでも配送可能です。ご安心ください」 第7話 その後の日々、夏希は静かに、しかし確実に旅立ちの準備を進めていった。 啓介との五年という歳月は、あまりにも多くの記憶を残していた。 彼は毎年、彼女の誕生日になるとトラック一台分のプレゼントを贈ってくれた。それらを自宅に置くわけにもいかず、ましてや家族に見られるわけにもいかないので、夏希は町外れのアパートを借りて、プレゼントの保管場所にしていた。 鍵を開けると、部屋いっぱいに詰め込まれた過去が目に飛び込んできた。 彼女は無言でスマホを取り出し、不用品回収業者に電話した。 「この部屋のもの、全部、ゴミとして処理してください」 業者の人たちは、部屋中に並んだ高級ブランドのドレスやバッグ、ジュエリーを見て目を丸くした。 「お、お嬢さん……これ、全部で一億円超えじゃないですよ?本当に捨てるんですか?」 そう、総額はゆうに一億円を超えているだろう。 啓介が、千春の身代わりである夏希に、結構惜しみなく費やした。 「もったいないですよ。これ全部中古サイトに出せば数千万円にはなります。捨てるなんて……」業者の人がアドバイスした。 「もうすぐこの街を離れるんです。一つずつ売る時間なんてありません」 業者の人たちは一瞬目を輝かせ、唇を舐めるようにして言った。 「じゃあ、こうしましょう。3000万円で、全部引き取らせてください。処分はこちらでやります」 夏希は計算していた。母に返すべき残りの借金は2100万円。 「……2500万で十分です。条件は一つ、三時間以内にすべて持ち出してください」 「了解っす!任せてください!」業者の人たちは予想外の収穫に顔をほころばせた。 結局、三時間もかからなかった。 わずか一時間半で、部屋中の「記憶」は跡形もなく消えていた。 がらんとした部屋を見つめ、通帳の残高に増えた2500万円を確認した夏希は、人生で初めて味わう「解放感」に、ほんの少し笑った。 彼女は二十二年間、ずっと「従順な娘」であろうと生きてきた。 でも本当は、手放せないものなんてひとつもなかった。 ただ、必要以上に気を遣い、弱さを見せたことで、周囲に好き放題やられていただけだった。 もう何もいらない。 だから、誰にも傷つけられない。 その足で夏希は市役所へ向かい、名前の変更手続きを済ませた。 新しい名前は――向坂遥(さきさか はるか)。 遥か遠い海の向こうへ飛び立つように、誰にも縛られず、自由に。 新しいパスポートを手に、市役所を出る彼女の顔には、心からの笑みが浮かんでいた。 自由な未来・無条件に愛される生活。その日が、もうすぐそこまで来ていた。 その夜、啓介から電話がかかってきたが、彼女は今では穏やかに応じることができた。 「叔父さん、何かご用ですか?」 電話越しの啓介は、どこか歯切れが悪かった。「……夏希、来月ラスベガスで籍を入れるって言ってた件だけど、少し予定が変わるかもしれない」 「そうなんですか?じゃあ、仕事を優先してください」 「いや、仕事じゃなくて……千春が、首都に開催される宴会に一緒に来てほしいって」 夏希は、微笑みすら浮かべながら、静かに答えた。「わかりました。行ってきてください」 「彼女が帰国したばかりで、宴会でエスコート役をやってあげる人がいないらしくて……」 宴会のエスコート役――なるほど、そういうこと。 夏希は小さく笑った。 「千春なら、SNSで『エスコート役募集』って一言つぶやくだけで、H市からフランスまで人が並びますよ」 「……」 千春がエスコート役の人選に困るわけがない。 それを承知で、啓介は千春の願いを受け入れた。 それが彼の答えだ。 「楽しんできてくださいね、二人とも」 「……夏希、そんな言い方やめてくれないか?怖いよ」 「何が怖いのですか?」 「怒っていい。拗ねていい。怒鳴ってもいい。そのほうがまだ、お前の気持ちが分かる。 でも今のお前は、まるで――俺から完全に離れていこうとしてるみたいで……」 「……私がどこに行くっていうのですか?」 啓介は、安堵するように言った。「……そうだよな。仕事もない。高峰家を離れられない。だから俺からも離れられない」 その言葉は、逆に夏希の背中を押すことになった。 すべての借金を清算した今、夏希の通帳には400万円だけ残っていた。 電話を切ると、彼女は銀行へ向かい、残りのお金をすべてドルに両替した。 トリスタン・ダ・クーニャ島は南米に近い。あちらで生活するなら、現金のドルが必要になる。 銀行を出たところで、彼女のスマホが鳴った。 「南条様、アンドロイド三体すべて完成いたしました。三日後には、トリスタン・ダ・クーニャ島へお届け可能です」 「わかりました、ありがとうございます」 誰にも疑われないように、その夜も、夏希はいつも通り家に帰った。 夕食時には、母、継父、千春、そして啓介が食卓を囲んでいた。 夏希はいつも通りに微笑み、言った。「お父さん、お母さん、千春、そして叔父さん――こんばんは」 千春がにやりと笑って言った。「夏希、なにかいいことでもあった?顔がにやけてるよ。まさか……例の桐山くんにプロポーズでもされた?」そう言いながら、彼女はわざとらしく目を細め、啓介の反応を盗み見た。 啓介の表情が一瞬で強張った。「千春、その話はやめろ。夏希はそんな人、知らないって言ってただろ」 「ええ〜叔父さん、明日は私の親友の結婚式に、私のエスコート役として出席してくれるんだよね。夏希にはもう話したの?」 啓介の顔色が一瞬に曇った。 ……そういうことか。 「宴会」じゃなくて「結婚式」。 しかも千春のエスコート役として。その意味を、夏希はよく理解していた。 「……楽しんできてね、お二人とも」 「ねぇ、叔父さん、私もラスベガス行きたいな。十分で入籍できるんだよ?いいでしょ? 私の親友、絶対ブーケを私に投げるって言ってたんだから」 千春が独占するかのように、啓介の腕をしっかり抱きかかえた。 啓介は千春の腕を振り払わなかった。それどころか、そのままラスベガス行きを黙認した。 その様子を見ても、夏希の心はもう何も感じなかった。まるで、退屈なドラマを眺めているようだった。 「夏希、喜びのおすそ分けしてあげるね。帰ってきたら、ちゃんとおみやげあげるから」 「ありがとう、お姉さん。私、ちょっと疲れたから、先に部屋に戻るね」 「明日は千春の誕生日よ!早起きして、家政婦さんの手伝いするの忘れないでね!」琴子が後ろから声をかけた。 「わかってる」 夏希はいつも通り、静かに自室に戻った。 誰にも気取られることなく。 五時間後――深夜。 高峰家はすでに静まり返っていた。 夏希は動きやすい服に着替え、準備していたスーツケースを手に、ゆっくりと屋敷を抜け出した。 屋敷の外には、すでに呼んでおいたタクシーが待っていた。 「向坂様ですね?」 「はい」 荷物を運転手に渡し、彼女は後ろの席に乗り込んだ。 「空港までお願いします。急いでください」