何度も死に、生まれ変わっても届かない愛

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何度も死に、生まれ変わっても届かない愛

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雨宮澪(あまみや みお)は、氷室知也(ひむろ ともや)を救うために、システムの拷問に耐えながら九十九回、死んだ。 ようやく彼のもとへ戻れ...

Chương (1)

第1章

雨宮澪(あまみや みお)は、氷室知也(ひむろ ともや)を救うために、システムの拷問に耐えながら九十九回、死んだ。 ようやく彼のもとへ戻れたのに、待っていたのはスーツのポケットに入った、愛人の妊娠検査結果だった。 かつて雪の中で跪き、仏に祈ってくれた男が、いまは優しく、別の女の子供をあやしている。そして家族にだけ、こう告げる。「彼女が知ることは、永遠にない」 絶望した澪は、百回目の死を選んだ。今度は転生のためじゃない。彼から逃げるために。 「知也、あなたが言ってたよね。オーロラって、システムの転送エフェクトみたいだって……今度は、私が先に行くね」 狂った知也が真実を知ったのは、澪の火葬の日だった。 自分の手で殺したのは、彼女の子供だけじゃなかった。最後まで残っていた彼女の愛、そのもの。 彼女を追って、知也は九十九回、自殺を繰り返した。そしてようやく、澪のいる世界に辿り着いた時―― 澪は別の男の腕を取り、菜の花畑で笑っていた。 「いいよ」 一番残酷な罰は、彼女が他の誰かを愛しながら生きていく姿を、生きたまま見せつけられることだった。 第1話 雨宮澪(あまみや みお)は、九十九回目の死を選んだその瞬間、ようやくシステムから氷室知也(ひむろ ともや)へ戻ることを許された。 それから二年後のある日。澪は知也のスーツのポケットから、一枚の紙を見つけた。 【患者名:倉田千夏(くらた ちなつ) 妊娠十二週】 その瞬間、頭の中が真っ白になった。 氷室知也――かつて、彼は澪を狂おしいほどに愛していた。周りの誰が見ても、そう思えるほどに。 あの頃、澪はシステムに与えられた使命を背負ってこの世界へ来た。氷室知也を救い出し、彼が絶望の果てに世界を壊してしまうのを止めるためだった。 初めて出会ったとき、知也は氷室家の地下室の隅でうずくまっていた。手首には無数の傷。十七歳の少年とは思えないほど痩せこけていて、目の奥には死の影しかなかった。 警告音が頭の中で鳴る。【警告:対象者の崩壊値、九十九パーセント。世界崩壊まで残り三十日】 澪はそっと膝をつき、血の滲む彼の手首を包み込んだ。「痛いでしょ……?」 知也が勢いよく顔を上げ、傷ついた獣みたいな声で叫ぶ。「消えろ!」 それが、彼から澪に向けられた最初の言葉だった。 後になって澪は知った。養父母が株の譲渡書にサインさせるため、真冬の庭で彼を跪かせていたのだと。 澪が飛び出したとき、雪はもう彼の膝まで積もっていた。 「立って!」澪は必死に彼の腕を引っ張り上げようとした。 「放っとけよ……」知也の唇は紫に凍え、かすれた声でつぶやく。「どうせ……誰も俺なんか……」 澪は咄嗟にダウンジャケットを脱ぎ、彼の肩にかけた。そのまま自分も隣に膝をつく。 知也は驚いた。「何してんだよ……」 「私も一緒にいるから」雪が澪のまつ毛に積もっていく。「あなたが立たないなら、私も立たない。死ぬまで一緒にいる」 その日、二人は六時間も雪の中に座り込み、最後にはそろって高熱を出して倒れた。 目が覚めたとき。知也は初めて、自分から澪の手を握ってきた。「どうして……」 澪は咳き込みながら笑った。「だって、あなたの命は、私の使命より大事だから」 【システム通知:崩壊値八十五パーセント】 それからも、彼が養父に酒瓶で殴られ、家を追い出された日――澪は橋の下で、泥酔した知也を見つけた。 血だらけになって吐きながらも、彼は酒を飲んでいた。「どうせ……俺なんてゴミだ……」 澪はその酒瓶を奪い取り、一気に飲み干した。喉が焼けて涙が出る。「私も一緒。沈むなら一緒に沈む!」 その夜、二人とも胃から出血して病院に運ばれた。 夜更け、澪は点滴を引きずりながら、こっそり知也の病室に入る。隠していたイチゴ飴をそっと彼の手に押し込んだ。 「看護師さんが言ってたの。薬のあとにこれ舐めると、一番甘く感じるんだって」 知也はしばらく手の中の飴を見つめて、やがて大声で泣いた。 十七年の人生で初めて、自分が苦いものが嫌いなのを覚えていてくれた人がいた。 【システム通知:崩壊値五十パーセント】 それから二人は、徹夜で事業計画を練った。澪は彼の実の両親を探すのを手伝い、そして彼らは会社を上場させた。 知也は南区で一番高い土地を買い、庭いっぱいに澪が好きな白いバラを植えた。一本一本の根元には、澪へのメッセージカードが埋められていた。【今日は昨日よりもっと君を愛してる】 【システム通知:崩壊値ゼロ】 使命を果たした澪は、強制的にこの世界から引き離された。三年間、姿を消した。その三年間、知也は狂ったように生きた。 一年目は世界中を探し、酒に溺れ、三十六回も入院した。 二年目には、信仰など持たなかった彼が北の霊山まで這うように登り、十万回の五体投地を捧げた。膝が血と肉で崩れても、ただ祈り続けた。「彼女を返してくれ」と。 三年目、知也の両親は見かねて、澪に似た女性――倉田千夏を送り込んだ。泥酔していた彼は、千夏を澪だと思い込み、澪が戻るまでの間、彼女を傍に置いていた。 澪が戻ったとき、知也はすぐに千夏を送り出し、澪のベッドの横で三日三晩、膝をついて泣いた。「澪……俺はただ、君が恋しくて」 その掠れた声を聞いて、澪は彼の手首に刻まれた無数の傷を見た。そして、結局――許してしまった。 それからの知也は、前よりも優しくなった。 夜中に目を覚ますと、澪を抱きしめて離さなかった。まるで、もう二度と消えないように確かめるみたいに。 仕事の会食は全部断り、定時で帰宅して、真っ先に澪の姿を探した。 オークションで高級なネックレスを落札し、記者たちの前で穏やかに笑って言った。「妻へのプレゼントです」 澪は思った。九十九回死んで戻ってきた甲斐があった。 けれど。 今、目の前にある検査結果が、その想いを容赦なく打ち砕いた。 千夏は去っていなかった。それどころか、知也の子を身ごもっていた。 血の気が引いていく。澪は紙に書かれた住所を頼りに病院へ向かい、特別病室の前に立った。その瞬間、全身が凍りついた。 知也が赤ん坊を抱き、優しくあやしていた。千夏が寄り添い、知也の母が涙を流して笑っている。「この子、本当に知也にそっくりね」 なんて穏やかな光景だろう。 そして澪はドアの外に立ち尽くしていた。まるで、この世のものではない幽霊のように。 「澪に知られたら、どうするの?」知也の母が、不安そうに声を震わせた。 その問いに、知也の目が一瞬で冷たくなる。「彼女が知ることはない」 そう言って、彼は千夏の頬を優しく撫でた。「澪は子どもを産めない。この子を養子にするのが一番だ。タイミングを見て説得する」 「でも、千夏は本当の母親なのよ!」 「母さん」低く沈んだ声が、空気を張りつめさせた。「もう一度、俺が死にかけるのを見たいのか? 俺は千夏を手放せない。けど、澪を離すなんて、もっと無理だ」指先がぎゅっと掌に食い込む。「三年前の俺を、もう一度見たくないだろ?……いや、今度はもっと酷いことになる。澪がいなければ、俺は生きていけない。彼女は俺の呼吸そのものなんだ!」 知也の母は黙り込んだ。三年前の知也は、生きた屍のようだった。いつビルの屋上から飛び降りるかも分からず、毎日が地獄のようだった。 千夏を見つけ、ようやく人間らしさを取り戻した彼を見て安堵していたのだ。 病室の外で、澪の涙が音もなく頬を伝い落ちた。 知也にとって澪は、生きるために必要な空気。千夏は、新しい命を照らす太陽。 彼はどちらも手放せず、どちらからも離れられない。 なんて滑稽なんだろう。 澪は彼のもとに戻るため、システムの罰のもと、九十九通りの死に方を選び続けてきた。 四回目の飛び降り。三十階の高さから落ち、骨が砕け、折れた破片が内臓を貫いた。 十七回目のリストカット。刃が手首を往復するたびに、血と一緒に体温が奪われ、やがて心臓まで痙攣し始めた。 三十三回目の溺死。冷たい水が鼻腔に流れ込み、全身を貫く痛みが走る。無数のガラス片が気管を裂くように暴れ、八分間もがき続け、ようやく意識を失った。 完全に暗闇に沈む直前、あの機械音が響いた。【転生失敗。生命値ゼロ。再起動中……】 ――そして最後の一回。 澪は睡眠薬を飲み込んだ。息をするたび、喉の奥に溶岩を流し込まれるような苦しみ。筋肉が次第に動かなくなり、最後には眼球すら動かせなくなった。 それでも意識だけははっきりしていて、心拍が「ドクン、ドクン」と弱まり、遠ざかっていく音を――最後まで聞いていた。 そのとき、ようやくシステムが告げた。【執念値が閾値を突破しました。帰還を許可します】 あの瞬間、澪は思った。すべてに意味があった、と。 けれど今、彼女の目の前で、命と引き換えに得た男が、別の女の子どもを抱き、穏やかに微笑んで言った。「彼女が知ることはない」 そして澪が歩んできた九十九回の死は、まるで地獄の笑い話だった。心の奥で、何かが完全に砕けた音がした。 「氷室知也」澪はゆっくりと後ずさり、滝のように涙を流した。屋上の方を見上げて、かすかに呟く。「ねえ、知ってる?私が戻る前、システムに聞かれたの。『自殺の苦痛の記憶を消去しますか?』って。 私は断った。だって、あなたは私が九十九回死ぬだけの価値がある人だって、覚えておきたかったから。 でも、今はもう……どうでもいい」 澪は外へ歩き出し、爪が掌に食い込むほど拳を握りしめた。「この百回目で、ようやく自分の心を完全に殺す方法を学んだわ」 廊下で、久しぶりに番号を呼び出す。【システム、撤回したい。現実世界に帰還する】 耳元に、冷たい機械音が響いた。【放棄を確認しますか?ペナルティとして、現実世界でのすべての資産が消滅します。帰還後、ホームレスに転落し、初日に死亡する可能性があります】 澪は虚空に浮かぶコントロールパネルを見つめた。走馬灯のように、過去が次々と浮かんでは消えていく。 雪の中、知也は膝をつき、一生愛するから去らないでくれと懇願した。 高熱の夜、彼は一晩中手を握り、言った。「澪、もし君が死んだら、俺は生きていけない」 澪が消えた三年間、彼は人間でも幽霊でもないものに壊れていった。誰もが言った「彼は澪を狂おしいほど愛している」と。 けれど、狂おしい愛もいつかは変わる。深い愛と裏切りは、決して矛盾しない。 澪は小さく笑い、指先を確認キーの上に浮かせた。震えは、一切なかった。 「氷室知也」最後にその名を、心の中で静かに呟く。燃え尽きた灰のように。「私が欲しかった愛は、いつも白か黒――百か、ゼロか。 そしてあなたは、半分さえくれなかった」 指先が、そっとキーを押す。 【転送バッファ期間三十日。三十日後、自由に方法を選択して命を絶ち、魂はこの世界で完全に消滅します】 澪は踵を返し、病院の廊下を歩き出した。夕陽がガラス窓から差し込み、長い影を引く。それはまるで、決別の亀裂のようだった。 システムが珍しく、もう一度問いかけてきた。【この三十日間、何をするつもりですか?】 澪は沈みゆく夕陽を見つめ、唇の端に冷たい笑みを浮かべた。「何も知らないふりをして、演技を続ける。そしてもう一度、彼の前から消えるの」 第2話 澪はキッチンのドアの外に立ち、半開きのドアの隙間から中を覗いた。知也がコンロの前に立ち、長い指で匙を握り、土鍋の中の薬をかき混ぜている。立ちのぼる湯気が横顔を霞ませているが、その奥にある真剣な眼差しまでは隠せない――澪がよく知っている表情だった。 かつて、その眼差しは、澪だけに向けられていた。 彼女は三年前のことを思い出す。戻ってきたばかりの頃、長年の不摂生が祟って胃を壊し、吐血した。知也は一晩中、澪を連れて名医を訪ね歩いたが、一向によくならなかった。 そのあと、彼は十日間、突然姿を消した。 再び現れたときの知也は、膝は擦り切れ、血と泥がこびりついて、手は火傷の水ぶくれだらけだった。それでも彼は、お粥を一杯抱えて帰ってきて、そっと澪の唇に運んでくれた。「澪、これを飲んだら楽になるから」 後になって知ったことだ。彼は山奥に住む代々の漢方医の家を訪ね、七日七晩、膝をついたまま弟子入りを願い続けて、ようやく年老いた医師に、特別に弟子として受け入れてもらったのだという。六十年医療に携わってきたその老人は、後に澪にこう言った。「こんな一途な弟子は初めてじゃったよ。あんたの胃を治したい一心で、半年で千を超える薬草を覚えてのう。薬を煎じるときも三日三晩、ほとんど目を閉じんと、あの一杯の、一番効き目のある粥ができるのを待っとったんじゃ」 それ以来、どんなに遅く帰ってきても、冷蔵庫には必ず知也が作った薬膳が入っていた。彼のスマホのメモには【澪の食事ノート】という一冊分の記録があり、澪の一つ一つの禁忌、胃が痛くなった時間、さらには気分が不安定なときにどの生薬を加えるべきかまで、細かく書き込まれていた…… 「君の胃は、俺が治す」そう言ったときの彼の瞳は、星よりもまぶしく輝いていた。 ぽた、と。 一滴の雫が澪の手の甲に落ちる。そのときになってようやく、自分が泣いていることに気づいた。 キッチンで、知也のスマホが鳴った。彼は手を拭いて、通話ボタンを押す。その声は、甘すぎて耳障りになるほど優しかった。「千夏、薬はもうすぐできるよ……うん、茯苓を入れた。苦くないから」 澪の胃が、きゅうっと縮むように痛み出す。 電話の向こうから、千夏の柔らかな声がかすかに聞こえてきた。「知也さん、赤ちゃんがさっき目を覚ましたの。きっとパパに会いたいんだと思うわ……でも、忙しかったら来なくてもいいから。私と赤ちゃん、二人でも平気よ……」 知也の声が、さらに柔らかくなる。「動かないで。今すぐ行く」 彼はコンロの火を消し、その流れで澪に電話をかけた。 「澪、急に国際会議が入っちゃってさ。クライアントが直接会って話したいって。すぐ対応しないといけないんだ。今日は家で一緒に夕飯、食べられない…… 家政婦さんに、昨日用意した食材でスープを作ってもらうように頼んであるから、絶対にキッチンには近づかないで。間違ってガスに火をつけたら危ないから……皿洗いもしないで。心配だから……ちゃんと家にいて、ご飯食べて、必ず空になった器の写真を送ってね……」 電話の向こうの知也は、相変わらず、細かい注意を一つ一つ並べてくる。まるで澪を、いつまで経っても目を離せない子どものように扱っていた。 澪はスマホを握ったまま、黙ってその声を聞いていた。少し間をおいてから、口元にかすかな皮肉の笑みを浮かべる。 「……わかった」そう小さく答えた自分の声は、とても素直だった。 「やっぱり澪は一番わかってくれる。安心して、会議が終わったらすぐ帰るから。何か欲しいものある?君の好きなケーキ、買ってこようか?」 通話を切ったあと、彼女は暗くなった画面をじっと見つめた。瞳の奥は、完全に凍りついている。 ――嘘をつくときも、こんなに優しい声が出せるんだ。 その頃、病室では、知也がスマホを置き、何事もなかったかのようにベッドの脇に腰を下ろしていた。手には湯気の立つ椀。慎重に一匙すくい、ふうっと息を吹きかけて冷ましてから、千夏の唇にそっと運ぶ。 「ゆっくり飲んで。火傷しないようにね」落ち着いたその声は静かな優しさを帯びていた。 千夏は弱々しく枕にもたれ、満足そうな笑みを浮かべている。 彼女はそっと知也の手首をつかみ、甘えるように言った。「知也さん、疲れてない?少し休んだほうがいいんじゃない?」 「大丈夫」知也は頭を下げて、また一匙すくう。「お前は産んだばかりで、まだ体が回復してない。ちゃんと養生しないと」 澪の爪が、掌に食い込む。それでも、痛みはほとんど感じなかった。 知也が辛抱強く、一椀すべてを食べさせ終える。それから丁寧に千夏の口元を拭う、その手つきは、壊れものを扱うように優しい。 かつて、その優しさは、澪だけのものだった。 千夏がふいに小さくため息をつき、遠慮がちに言う。「知也さん、今夜はやっぱり澪さんのところに帰ってあげて……彼女、一人で家にいたら寂しくないかしら?」 知也の動きが、ぴたりと止まる。そのまま千夏のそばに身を寄せ、瞳がふかく陰を帯びた。 「本当に、俺を彼女のところに帰していいと思ってるのか?」 千夏の瞳に、一瞬だけ動揺が走り、それからかすかな寂しさが浮かぶ。 「誰だってわかるわ。あなたは、澪さんを泣かせたくないって……」 知也は不意に、千夏を強く抱き寄せた。「これからは、俺をほかの女に押し付けるな。忘れるなよ、お前のほうが大事なんだ」 澪はドアの外に立ち、胸のあたりを、見えない手で強く握りつぶされているみたいに感じた。 ――ほかの女? 彼の目には、自分はもう「ほかの女」になっていた。 窓の外では、突然、土砂降りの雨が降り始める。澪はそのまま外に出て、大通りを歩き出した。体に叩きつける雨粒の痛みなど、感じられなかった。 心の中は、この大雨よりもずっと荒れ果てていた。二時間も雨に打たれながら、澪は病院から家まで歩いて帰った。 テーブルの上のスープは、すっかり冷め切っていた。澪はそれに目もくれず、濡れた髪から滴る水と、ずきずきする頭痛に顔をしかめる。スープを捨てようとして鍋を持ち上げたとき、玄関の指紋認証が解除される音がした。 知也が外から入ってくる。澪の姿を見るなり、すぐに心配そうに抱き寄せた。 「まだ起きてたのか?」コートを脱ぎながら、くたびれた声なのに、気遣いだけは崩さない。「スープが冷めてる。飲まないで。温かい牛乳を入れてあげる」 澪は見上げる。一瞬、視界が揺れて、小さく尋ねた。「会議は、順調だった?」 知也の手が、ほんの一瞬だけ止まる。すぐにいつもの調子で頷いた。「ああ、ちゃんと解決した」 澪は何も言わず、ただ静かに、彼がキッチンへ向かう背中を見ていた。手慣れた様子で牛乳を温め、蜂蜜の瓶を取り出し、小さじ一杯すくう。彼は、澪が寝る前に少し甘いものを飲むのが好きだと知っている。 今日は大雨に打たれて、頭の中が本当にぼんやりしていた。微熱が出てきているのが、自分でもわかる。 いつもなら知也は、もっと早くそれに気づいていたはずだ。心配して抱き上げてベッドに運び、そばについて、体温がゆっくり下がっていくのを見守っていたはずなのに。 でも今は、彼の目はスマホの画面に釘付けだった。 千夏からのメッセージ。【赤ちゃんが目を覚ましたの。ずっと泣いてる。きっとパパに会いたいんだと思う……】 知也は、温めたばかりの牛乳をテーブルに置き、素早く返信する。【今すぐ行く】 澪は、彼があわててコートを羽織るのを見て、思わず口元をゆがめた。「また、ミーティング?」 知也の体が、びくりと強張る。そして申し訳なさそうに近づき、澪にキスをしようとしたが、澪は顔をそらした。キスは髪に触れただけだったのに、それでも吐き気がする。 「澪、ごめん。このプロジェクト、本当に重要でさ。終わったら、君の好きなモルディブに連れて行くから……明日、モンブラン食べたい?買ってきて、作ってあげる……」 澪はただ、小さな声で言った。「気をつけて」 知也は、彼女の様子がおかしいことに気づいたようだった。何か言いかけたが、澪は眉間を指で押さえながら、先に口を開く。「知也、ちょっと眠いの。休みたい」 知也はすぐに寝室へ行き、澪のベッドを整え、布団の中に湯たんぽまで入れてから部屋を出ていった。けれど、すでに微熱が出始めていることには、最後まで気づかなかった。 ドアが閉まった瞬間、澪は温め直された牛乳を手に取り、ゆっくりとシンクに流した。 本当に、滑稽だ。最後の優しささえ、全部嘘だった。 そのとき、頭の中でシステムの音声が響く。【感情波動値が基準値を超えています。心理シールドを起動しますか?】 澪は首を横に振り、机のほうへ歩いていき、あの【澪の食事ノート】を開いた。 最新のページには、今日の日付が書かれている。その下に、小さな字で一行だけ。 【澪は胃が冷えやすい。スープには生姜を三切れ入れて、二時間しっかり煮込むこと】 その一行を見つめながら、澪はふっと笑った。 「システム」小さく呟く。「この痛みをはっきり感じれば感じるほど、自分が昔どれだけ馬鹿だったか、よくわかるわ」 第3話 澪は悪夢にうなされて目を覚ました。額は焼けつくように熱く、喉は焼けるように渇いていた。 無理やり体を起こし、ベッドから足を下ろす。冷たい床に素足が触れた瞬間、視界が一瞬真っ暗になった。昨夜あの雨に打たれたせいで、とうとう高熱を出してしまったのだ。 壁に手をつき、よろめきながらリビングへ向かう。角を曲がったところで、不意に足が止まった。 ソファには知也が座り、その腕には赤ん坊が抱かれていた。 レースのカーテン越しに朝の光が差し込み、彼の体をやわらかく照らしている。その横顔は、どこか清らしく見えた。腕の中の赤ん坊をやさしくあやしながら、小さな顔を指先でそっとなでる。その様子は、壊れやすい宝物でも扱っているかのようだった。 「澪、起きたのか?」知也が顔を上げる。目は真っ赤で、一晩中起きていたかのようだ。 赤ん坊を抱いたまま素早く近づいてきて、空いた手が自然に澪の額に触れる。すぐに眉を寄せ、低くつぶやいた。「ひどい熱だ……すぐ医者を呼ぶ」 澪はその手をそっと避け、かすれた声で尋ねる。「その子……誰の子?」 知也の指先が宙で固まった。 数秒の沈黙のあと、彼は片膝をつき、目には涙を浮かびながら澪を見上げる。「……吉野修(よしの おさむ)を覚えてるか。国境なき医師団で働いてた、俺の親友だ」 喉仏が上下し、声が詰まる。「奴は紛争地で……亡くなった。妻はショックに耐えられなくて、子どもを産んですぐに……自殺した」 澪は、震えるまつげをじっと見つめながら、ふっと笑いたくなった。 吉野修? 幼なじみの「親友」。一度も会ったことがないのに、知也が「出張」に行くたびに持ち出してきた、あの都合のいい盾。 今度は、私生児の父親役にまで仕立て上げるつもりなんだ。 「澪、この子を養子にしよう」知也は赤ん坊を澪の前に差し出した。赤ん坊はぐっすり眠っていて、ふっくらとした小さな顔は千夏にそっくりだ。 「君、ずっと子どもが好きだっただろ?」知也の声はさらに柔らかくなり、どこか誘うような響きを帯びる。「この子は基本的に、うちの両親のところで育てる。俺たちの邪魔にはならない。ただ、この子にちゃんと戸籍をつけてやりたいだけなんだ……」 澪の爪が、ぎゅっと掌に食い込む。 なんて滑稽なの。 知也は、人を騙すときでさえ「善良さ」を盾にする。 まるで、拒めば冷酷で、受け入れてこそ「優しくて寛大な妻」になれると言わんばかりに。 知也が急に澪の手を握り、指の腹で薬指の結婚指輪をなでる。「医者が……君はもう妊娠しにくいって、そう言ってた」 顔を上げたその瞳の奥には、罪悪感と計算高さが入り混じっていた。「この子をさ、天が俺たちに授けてくれた子どもだと思おう。な?」 澪は、見慣れているはずなのに知らない人みたいなその顔をじっと見つめ、突然九十七回目の自殺のことを思い出した。 システムに氷の穴へ放り込まれ、マイナス三十度の極寒の中で、自分の血液が凍っていく「カチッ」という音を聞いた、あの瞬間を。 あのとき、澪は泣かなかった。 なのに今、一粒の涙が、なんの前触れもなく赤ん坊の顔に落ちる。 赤ん坊は眉をひそめたが、目を覚ましはしなかった。 知也は慌てて涙を拭い、心配そうな声で言う。「泣かないでくれ、澪。心が張り裂けそうだ。嫌なら養子にしなくていい。児童養護施設に預ければいいから……」 「どうして、急に養子なんて?」澪は小さく問い返す。 「それは……」知也の動きが止まり、すぐに声が喉につかえた。「君と『完璧な家庭』を持ちたいからだ」 澪は思わず吹き出した。笑いながら、頬を伝う涙が止まらない。 「……いいわ」目尻の涙を指先で拭い、澪は手を伸ばして赤ん坊を受け取った。「今日から、この子は私たちの子どもよ」 知也はほっとしたように澪を抱きしめる。「澪、ありがとう……」 澪は抱き返さず、腕の中の赤ん坊をじっと見下ろした。 なんて皮肉。 私が「養子にする」のは、自分の夫と、その愛人の子どもだ。 「でも、条件があるわ」 知也を押しのけ、澪は腕の中の赤ん坊を見つめたまま言った。 「養子にするなら、ちゃんと正式な手続きをすること。明日、市役所に行って、実母の情報を故人として登録して」 知也の笑顔が、そこで固まる。 その夜に澪は赤ん坊の部屋の前に立ち、知也が声を潜めて電話しているのを聞いていた。 「……千夏、手続き上、必要なんだ。そう、お前の身分を死亡として登録しなきゃいけない……」 電話の向こうで、千夏の泣き声が鋭く耳を刺す。 澪が踵を返した、その瞬間――システムが、不意に声を響かせた。 【あなたは彼の嘘を暴くこともできたのに】 澪はガラス窓に映る自分の顔を見つめる。幽霊みたいに青白い顔だった。口元に、うすい笑みが浮かぶ。 「死亡証明書には、法的効力があるわ。私がいなくなったあと、千夏はきっと子どものそばに戻る。でも彼女は一生、養母としてしか生きられない。実母にはなれない。これが……私の最後の復讐よ」 第4話 知也は何日も実家に泊まり込み、千夏と自分の息子のそばにいた。 澪はひとり、広い家を守っていた。ウォークインクローゼットの中で、指先でドレスの布地をそっとなでる。かつて知也は、澪のために毎シーズンの新作を自ら選び、試着のときは後ろから腰を抱いて、顎を肩にのせて笑っていた。「澪は、何を着ても似合うな」 けれど今、その服たちはきれいに畳まれ、段ボール箱に詰められている。ラベルには「慈善寄付」と書いてある。 まるで、自分のこれからの人生が空っぽになるかのようだった。 システムが静かに問いかけてくる。【あと十五日です。本当に、このままでいいのですか?】 澪は笑った。この世界で、自分はすべてを知也に頼って生きてきた。今、手元に残っているのは数千円の現金だけ。 一番高いケーキさえ買えない。青ざめた顔で、ショーウィンドウの前をうろうろしていた。 「すみません、六号のモンブランをください」澪はショーケースの中で金箔の光るケーキを指さす。「お誕生日おめでとうって書いてください」 店員が笑顔で聞く。「ろうそくはおつけしますか?」 「お願いします」少し間を置いてから、「二十八本」 この世界で最後のろうそく。それは自分のために消える。 店員が包装しているとき、真っ赤なマニキュアの手が不意にカウンターを叩いた。 「これ、私が買うわ」千夏の声は甘くとろけるようだった。「うちの赤ちゃん、今日で生後一か月なの」 澪はゆっくりと顔を上げる。 千夏はゆったりとしたワンピースを着ていて、お腹はもう平らだ。首元には、知也が昨日のオークションで落札したブルーダイヤのネックレス。あれは「大切なクライアントに贈る」と言っていたものだった。 「先着順よ」澪の声は静かで、けれど氷のように冷たかった。 千夏が一歩近づき、赤い唇が耳に触れそうなほど寄ってくる。「澪さん、知也さんが昨夜、私の上に覆いかぶさって赤ちゃんを寝かしつけてたとき、そんなこと言わなかったわよ」 その瞬間、澪は悟った。知也のスーツのポケットにあった妊娠検査報告書。あれは、千夏がわざと入れて、自分に見つけさせたのだ。 千夏はスマホを取り出して電話をかける。声が一転して甘くなる。「知也さん~、ケーキ屋さんで誰かにいじわるされてるの……」 電話の向こうから、知也の甘やかな声が聞こえた。「誰だ?うちの姫をいじめる奴は」 「空気読めない女よ」千夏は澪を睨みつけ、わざと声を張り上げる。「赤ちゃんのお祝いのケーキを横取りしようとするの!」 電話の向こうの声が、急に冷えた。「電話を代われ」 千夏は勝ち誇ったようにスマホを澪の耳に押し付ける。知也の声が、凍るように低く響いた。「誰だか知らないが、今すぐケーキを置いて出て行け。俺の千夏と息子に不快な思いをさせたら――」 一瞬の沈黙。そのあとの言葉が、ひとつひとつ氷のように落ちた。「お前の家族全員を、この街で生きていけなくしてやる」 澪の指先が掌に食い込み、鮮血がケーキのリボンを伝って滴る。 なんて滑稽なんだろう。 かつて雪の中で三日三晩、自分のために膝をついた男が、今は最も残酷な言葉で脅してくる。それなのに、その声さえ、もう別人のように感じた。 千夏はケーキを奪い取り、唇を吊り上げる。「聞いた?知也さんが――」 パシッ! 平手打ちの音が店内に響く。千夏の体がよろけ、ケーキの箱がべちゃっと床に落ちた。クリームが箱の中で飛び散る。 「この平手打ちは」澪は手を拭いながら、静かに言った。「先着順ってものを教えてあげるためよ」 彼女は床に落ちたケーキの箱を拾い、店を出る。そのとき、スマホが鳴った。知也からメッセージが届く。【澪、今夜は残業だから、待たなくていい】 すぐにもう一通が届いた。【温かい牛乳飲んで、布団蹴るなよ】 その文字を見て、十八歳のあの冬を思い出した。二人がまだ地下の安アパートで肩を寄せ合っていた頃――夜中に胃が痛んで、知也は雪の街を走り回って薬を探してくれた。戻ってきたとき、全身びしょ濡れで、薬の箱を胸に抱いて温めていた。 あれから十年。本当に痛い裏切りっていうのは、残酷さまで優しく包まれているものなんだ。 システムが不意に警報を鳴らした。【警告!生命兆候に異常があります!】 鼻血を拭きながら、澪はケーキを抱えて夕暮れの道を歩く。 後ろでは、千夏の泣き声が電話越しに響いた。「知也さん!あの女が私を殴ったの! 赤ちゃんも怖がって……!」 澪は公園を見つけ、ぐちゃぐちゃになったモンブランを開く。 ベンチに腰を下ろす。街灯が黄色く、木々の影が揺れている。 夜風が冷たい。襟を合わせながら、歪んだケーキにろうそくを刺す。クリームの上に斜めに立った炎は、まるで壊れかけた呼吸のようだった。 澪はマッチを擦る。火が小さく灯り、風に吹かれて消える。 二回目、三回目…… 五回目でようやく火がついた。小さな炎が青白い頬を照らす。まるで、今にも消えそうな魂のように。 その光を見つめながら、貧しかったあの頃を思い出す。 あの頃の二人は、雨漏りするボロアパートに住み、カップ麺を分け合って食べていた。自分の誕生日の日、知也は工事現場で徹夜で働き、稼いだお金で手のひらサイズの小さなケーキを買ってきた。 ろうそくは何度も風に消され、知也は必死に手で風を防ぎながら、不器用にその火を守って言った。「澪、早く願い事しろよ!」 私は……何を願ったんだっけ? 「知也がずっと幸せでありますように」 今思えば、なんて皮肉なんだろう。 澪はケーキを一口ずつ食べた。溶けたクリームと崩れたスポンジ、栗のペーストが混ざり、ねっとりと喉に絡みつく。腐った甘い夢を飲み込んでいるようだった。 胃が絞られるように痛み出す。熱が胸まで広がる。それでも、最後の一口まで食べ切った。 「お誕生日おめでとう、雨宮澪」小さく、自分に言う。 夜風が落ち葉を巻き上げ、足元を掠める。遠くで野良猫の鳴き声がした。 顔を上げると、公園の向こうに墓地が見えた。墓石が月光を受けて、白く冷たく光っている。 なんて、ぴったりなんだろう。あと十五日で完全に消える。死ぬ前は孤独でも、死んだあとくらいは帰る場所がほしい。 澪はふらふらと立ち上がり、墓地へ向かう。 門の前では、墓守の老人がちょうど鍵をかけようとしていた。青白い顔で立つ澪を見て、眉をひそめる。「お嬢さん、こんな時間にどうしたんだい?」 澪は小さな声で言った。「墓地を買いたい。いくらかかる?」 老人は目を丸くした。「……誰の墓だい?」 澪は微笑む。 「一番静かな場所がいい」少し間を置いてから続けた。「できれば……永遠に誰にも邪魔されない場所を」 老人は呆れたようにパンフレットを差し出す。「一番奥のやつは安いよ、六十万円。欲しけりゃ明日来な……まったく最近の若い子は変わってるな。生きてるうちから墓を選びに来るとは」 澪は紙を受け取り、指先でぎゅっと握った。冷たかった。 ようやく、自分の帰る場所を見つけた。 第5話 澪は頭の中で計算していた。これまで自分のお金で買ったものを、いくらに換えられるだろう。死んだあと、知也とは一切関わりたくなかった。使うお金でさえ、彼と一円でも繋がっていたくない。 夜風が薄いトレンチコートをばたつかせた。その瞬間、背後から口を塞がれた。 次に激痛が伝わってくる。 太い手が喉を掴み、指の関節が気管に食い込む。もう一方の手が、刺激臭の強いエーテルで口と鼻を押し潰した。 彼女は必死にもがく。爪で相手の腕を骨が見えるほど引っ掻いたが、男は冷笑し、貨物でも扱うように澪を麻袋に押し込んだ。 「んっ――!」 後頭部がコンクリートにぶつかり、目の前に火花が散る。粗い麻袋の内側が頬を擦り、埃が肺に入り込む。体を丸めたが、次の瞬間には地面に叩きつけられた。 「氷室社長が言ってた。半殺しにしろって」闇の中で、誰かが低く笑った。 麻袋が引き裂かれ、眩しい白熱灯の光が目を焼く。澪は反射的に目を閉じたが、生理的な涙が頬を伝って落ちていく。 ぼやけた視界の中で、長身の影が逆光の中に立っていた。革靴がコンクリートを踏む音が、まるで死神の足音のようだった。 知也。 彼の手にはスタンガンを持って、金属の先端が毒蛇の牙のように冷たい光を放つ。 「俺の女に手を出すとは、いい度胸だな」その声は氷よりも冷たく、感情の欠片もなかった。 澪は口を開き、彼の名を呼ぼうとした。けれど、エーテルで焼けた喉からは、かすれた息しか出てこない。 知也は気づいていない。 今日の澪が着ているのは、彼の前では一度も袖を通したことのない、色あせた古いトレンチコートだった。髪は適当に束ねたポニーテールで、頬にはまだ墓地の湿った土がこびりついている。いつもの洗練された優雅な氷室夫人とは、まるで別人だった。 さっきまでの麻袋の摩擦と、暗闇の中での恐怖も重なって、知也はまるで気づいていない――目の前のこのみすぼらしい女が、かつて自分の手のひらで大切にしていた妻だということに。 スタンガンが腹に押し当てられた瞬間、全身が痙攣するほどの痛みが走る。三十二回目の感電自殺のときの、あの恐怖が、全身をもう一度かきむしった。 システムがシミュレートした感電自殺なんかより、これはその十倍は痛かった。 全身の筋肉が勝手に跳ね、骨まできしむような痛みが走る。 澪は干からびた魚みたいに、コンクリートの上で何度も跳ね回った。それでも一番痛んでいたのは、心臓だった。 澪は知也の顔をじっと見上げる。冷えきったその目を見つめる。怒りで固く結ばれた顎の線を追う。別の女のために、自分を拷問しているその男の姿を、ただ見ているしかなかった。 「続けろ」彼は冷ややかに命じた。 二回目、三回目…… 意識がかすみ始める。信じられなかった。自分が空腹なときでさえ野良猫にパンを分けていた、あの彼がこんなふうになってしまうなんて。 千夏に復讐するためだけに、権力で人をねじ伏せて、「見知らぬ女」を半殺しにするなんて。 あの土砂降りの日、初めて知也に会ったとき。彼は路地の入口にしゃがみ込んで、最後のパンを半分に割り、片方を汚れた野良猫に差し出し、残りの半分を丁寧に包んでポケットにしまっていた。 「あ――!!」 電流が五臓六腑を貫いた瞬間、澪の瞳孔がきゅっと縮む。 それでも体ははっきりと感じ取っていた。股のあいだから、温かい液体がゆっくりと流れ出しているのを。 そのとき、ふと気づいてしまう――今、そこで一つの命が失われているのだと。 それは、秘密裏に宿した胚だった。 三か月前。健康診断を装って、知也を騙し、精子を採取してもらった。医師は首を横に振り、こう告げた。「子宮の状態が悪すぎます。成功率は五パーセントにも満たないでしょう」 それでも、強行した。毎日こっそり黄体ホルモンを自分に打つたび、針が皮膚を刺す痛みなんて、知也に「子どもはいらない」と言われたときの痛みに比べれば、どうということもなかった。 「澪、君の体のほうが大事だろ」知也はいつも、そう言ってなだめた。 後日、検査に行ったときには、医師はまた首を横に振り、澪はついに諦めた……まさか、その子が生き延びていたなんて、思いもしなかった。 だめ、やめて! 澪は絶望の中で、知也がスタンガンを握った手で、さらに激しく下腹部に電撃を加えるのを見ていた。彼は自分の手で、この奇跡的に生き延びた小さな命を殺したのだ。 電流が再び体を駆け抜けたとき、ぼんやりと、十七歳の知也の姿がよみがえる。雨の中でしゃがみ込み、最後のパンを野良猫に差し出していたあのとき。「怖がるな。俺も一緒に空腹でいるから」 目を覚ましたとき、澪はもう、見慣れた寝室のベッドに横たわっていた。 窓の外から射し込む陽射しがまぶしい。シーツは清潔で柔らかく、昨夜の暴力がすべて悪い夢だったかのように思えた。 けれど、下腹部を焼くような痛みと、股間にこびりついた乾いた血が、それが紛れもない現実だったことを教えていた。 【ピン!】 システムの音が、不意に頭の中で鳴り響く。【あなたの体が致命的な損傷を受けました。感情波動値が臨界点を突破しました。転送崩壊を避けるため、システムは例外的に緊急救援プログラムを起動します】 澪は苦しげに上体を起こし、しゃがれた声を絞り出す。「……どういうこと?」 【転送カウントダウン:十日】無機質な機械音が続く。【この期間中に体を療養し、魂が完全に剥離できるよう準備してください】 呆然としたまま、澪はふっと低く笑い出した。 なんて皮肉なんだろう。 システムのほうが、知也よりもよほど自分の生き死にを気にかけている。 指先で、平らになった下腹部をそっとなぞる。そこには、たしかに小さな命がいた。 けれど今は、荒れ果てた空虚さだけが残っている。澪は墓地を予約し、二つの骨壺を注文した。小さいほうを自分の隣に置き、蓋にそっと文字を刻む。 【我が娘美波。来世で再会できますように】 それから、火葬場へ向かった。「遺体の受け取りは……十日後にしてください」小さな声で告げる。まるで天気の話でもしているかのように、声は不自然なほど落ち着いていた。 職員が顔を上げ、澪を見つめる。「あなた……本当に、今、全額お支払いになるんですか?」 「ええ」澪は現金の束を差し出した。それは、持っていた宝石や私物をすべて売ってかき集めた金だった。「誰にも知らせないでください。直接、火葬して」 火葬場を出ると、陽射しが目に刺さるように痛かった。 あと九日。 遺書も、簡潔に書いた。 残ったお金の行き先だけを記す。全額を野良動物の保護施設に寄付すること。 それから、すべてのパスワードを整理する。SNSアカウントは永久に削除し、日記は燃やす、と決めた。 墓碑銘まで考えておいた。【ここに眠るのは寒がりな人。どうか雨に濡れさせないで】 知也のことには、一言も触れなかった。 まるで、最初からこの世に存在しなかったかのように。 睡眠薬はとうの昔に用意してあった。 錠剤を一粒一粒、掌の上に並べてから、ただ眠るだけだと思いながらベッドに横たわる。 これでいい。 遺体を引き取りに来る人を怖がらせたくないし、誰にも悪夢を見せたくない。 澪はいつだってそうだった。最期の瞬間まで、他人のことばかり気にしている。 薬はすぐに効き始め、意識がかすみ出したころ、スマホが不意に、自動で音声を再生し始めた。 「澪、モルディブに出張に行く」知也の声は、相変わらず優しかった。「冷蔵庫に七日分の薬膳を用意しておいた。温めて食べるのを忘れないで」 最初の麻痺感が過ぎたあと、激痛が波のように押し寄せてくる。 神経が制御を失い始め、全身の筋肉が、無数の針で貫かれているかのようだった。 指が痙攣してシーツを掴み、関節が力で真っ白になる。肺にはセメントを流し込まれたみたいに重く、呼吸するたび、刃先の上を転がっているような感覚がした。 システムがシミュレートした痛みより、百倍は痛い。 苦しそうに眼球を動かすと、画面がまた明るくなったのが見えた。 見知らぬ番号からの通知だった。 千夏がウェディングドレスを着た写真がポップアップされる。【彼が結婚式を挙げてくれるって】と、メッセージが添えられていた。 なんて滑稽なんだろう。 知也とは一度も結婚式を挙げたことがなかった。 当時、彼は言った。「澪、会社が上場したら、いちばん盛大な結婚式を挙げてやる」 そのあとで、こうも言った。「結婚式は疲れる。君の体が持たないと心配だ」 そして今……その結婚式は、結局別の人に贈られた。 今回は、「生命値ゼロ」の再起動もなければ、機械音のカウントダウンもない。ただ本物の、長くて、二度と戻れない消滅だけがある。 呼吸がどんどん遅くなっていくとき、システムがついに響いた。 【転送プログラム起動】 【三秒後に世界から脱出します】 【3――】 十九歳の知也が、雨の中で手を差し伸べているのが見えた。 【2――】 雪の中で跪き、「澪、俺は絶対に一人では生きない」そう言っていた彼の姿が見えた。 【1――】 自分の声が、静かに響く。「氷室知也……今度は、私が先に行くわね」