再婚したら、元夫と息子が泣いてるんですが?

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再婚したら、元夫と息子が泣いてるんですが?

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氷室彩葉(ひむろ いろは)が流産し、たった一人で絶望の淵にいた日。夫の氷室蒼真(ひむろ そうま)と息子は、彼の「特別な女性」を喜ばせるた...

Chương (1)

第1章

氷室彩葉(ひむろ いろは)が流産し、たった一人で絶望の淵にいた日。夫の氷室蒼真(ひむろ そうま)と息子は、彼の「特別な女性」を喜ばせるため、彼女が愛してやまない舞台を観劇していた。 「お前はいつもそうだ。騒いでも意味がない」 「パパ、ママを替えてよ。あの人、すっごくウザいんだ!」 愛する夫は、忘れられぬ女の誕生日を祝い、命をかけて産んだ息子は、自分からすべてを奪ったその女を守ると誓う。 彩葉は血が滲むほど唇を噛みしめて微笑むと、五年もの間自分を縛り続けた結婚という名の牢獄に、自ら別れを告げた。 彼女が出ていってもすぐに泣きついて戻ってくる──そう信じて疑わなかったバカ親子。しかし彼らの予想に反し、彩葉は二度と手の届かない、眩いばかりの存在へと羽ばたいていく。 「社長!奥様がデザインされた車が、我が社の売上を抜き、全国一位に!」 「社長!奥様がAIデザインコンテストで世界一の栄冠を!」 「社長!奥様が、海外の大統領主催の晩餐会に国賓として招かれました!」 腸が煮え繰り返るような後悔に苛まれた蒼真は、息子を引きずりながら彩葉の前にひざまずく。 「頼む、彩葉!もう一度俺を愛してくれ!お前の望むなら、犬にでも何でもなる!」 だが、重いドアの向こう側では、息をのむほどイケメンが彼女の前に跪いていた。男は首元の革の首輪を示すように、ダイヤモンドが散りばめられたリードをそっと彼女の手に絡ませると、狂おしいほどの熱を宿した瞳で囁いた。 「ご主人様。今日から僕は、あなただけのものだ。どうか、そばに置いてほしい……」 第1話 氷室彩葉(ひむろ いろは)は力なくベッドに横たわり、冷たい器具が、鈍く痛む下腹部を滑っていく感触に耐えていた。 「赤ちゃんは……大丈夫ですか……?」震える声で尋ねると、医師は憐れむように溜息をついた。 「切迫流産です。残念ながら……お子さんの心音は、もう聞こえません」 その瞬間、彩葉はシーツを強く握りしめた。心臓が氷の手で鷲掴みにされたように、軋む。 「仮に心音が確認できたとしても、出産は推奨できませんでした。火災で大量の有毒煙を吸い込まれている。胎児への影響は計り知れません」 二時間前──氷室グループ傘下の新エネルギー研究室で火災が発生し、彩葉は開発中の最新チップを守るため、躊躇なく炎の中に飛び込んだ。 チップは守れたものの、彼女自身は濃い煙に巻かれて意識を失ったのだ。 救急室に運ばれた時、体は擦り傷だらけで、下半身からは血が流れ、目を覆いたくなるほどの惨状だったという。 家庭と仕事に昼夜を問わず奔走し、心身ともに疲れ果てていた彼女は、この時になって初めて、自分のお腹に新しい命が宿っていたこと──妊娠二ヶ月だったことを知った。 「あなたはまだ若い。きっとまた授かりますよ」 医師はそう慰めながら、「今は安静が第一です。ご主人に連絡して、付き添ってもらってください」と告げた。 身を起こすことすら億劫な体で、彩葉は夫である氷室蒼真(ひむろ そうま)に電話をかけるのを躊躇った。 二日前、彼は息子の氷室瞳真(ひむろ とうま)を連れてM国へ出張したばかりだ。 「プロジェクトの商談だ」と彼は言っていた。仕事中の彼が、邪魔をされることを何よりも嫌うことを、彩葉は知っていた。ここ二日間、彼からの連絡は一切ない。それほど忙しいのだろうか。 その時、携帯の短い振動が静寂を破った。 画面に表示されたのは、異母妹である林雫(はやし しずく)の名前。 震える指でメッセージを開いた彩葉は、息を呑んだ。 そこに添付されていたのは、一枚の写真。雫が息子の瞳真を抱きしめ、二人で笑顔のハートマークを作っている。そしてその隣には、眉目秀麗な夫・蒼真が静かに座っていた。 結婚写真すら「くだらない」と撮ろうとしなかった彼が、その写真の中では、薄い唇の端をわずかに上げ、滅多に見せない穏やかな笑みを浮かべていた。 その姿は、まるで幸せな三人家族そのものだった。 【お姉ちゃん、今ね、蒼真さんと瞳真くんとミュージカルを観てるの。「ナイチンゲールの歌」って、お姉ちゃんが一番好きな作品よね?お姉ちゃんの代わりに、私が先に観ちゃった!】 チケットは常に完売で、手に入れることすら困難な人気の演目。 いつか一緒に観に行きたい、と何度も蒼真に伝えたが、いつも冷たく突き放されるだけだった。 「今忙しいんだ。それに瞳真もまだ小さい。また今度だ」 ……忙しいんじゃなかった。ただ、自分と行きたくなかっただけなんだ。 元々張り裂けそうだった胸に、鋭い杭を打ち込まれたような激痛が走る。 それでも諦めきれず、病室に戻った彩葉は腹部の痛みに耐えながら、蒼真に電話をかけた。 数回のコールの後、低く、それでいて芯のある冷ややかな声が鼓膜を揺らす。 「……どうした」 「蒼真……ごめんなさい、体調が悪くて、病院にいるの。少しだけ、早く帰ってきてもらえないかな……?」彼女の顔は蒼白で、声には力がなかった。 「こっちはまだ商談中だ。戻るのは二日後になる。家のことは山根に任せろ」蒼真の態度は、どこか冷めていた。 彩葉はスマホとを握りしめる。「……ねえ。もしかして、雫と一緒にいるの?」 その問いに、蒼真の声は露骨な苛立ちを滲ませた。「彩葉、そんな詮索に何の意味がある?もう五年だぞ。雫は妹のようなものだと何度も言ったはずだ。仮に一緒にいたとして、それがどうした。 最近のお前は、仮病まで使って同情を引こうとするようになったのか?」 「パパ、声大きいよ!僕と雫の邪魔しないでよ!」 電話の向こうから、瞳真の高い声が響いた。「もうママなんてほっときなよ!本当にうざいんだから!」 彩葉が何かを言う前に、通話は一方的に切られた。 ほんの少しの時間すら、彩葉のために割いてはくれない。 がらんとした病室で、彼女は布団を固く握りしめ、体の芯から冷えていくのを感じていた。 三日後、彩葉は無理を言って退院した。 研究開発部の仕事が、まだ山のように残っていたからだ。 特に今回の新製品発表会は、蒼真も期待を寄せている。そして自分にとっても、この二年間心血を注いできたプロジェクトを、成功させたかった。 夕方、疲れ切った体を引きずってブリリアージュ潮見の自宅に戻ると、リビングから楽しげな笑い声が聞こえてきた。 息子の瞳真と、雫の声だ。 胸がどきり、と嫌な音を立てる。彩葉はとっさに身を隠し、鉢植えの影からリビングの様子を窺った。 ソファには、氷室父子の間に座る雫の姿があった。テーブルの上には、バースデーケーキ。そして彼女の首には、赤いルビーのネックレスが輝いていた。それは某高級ブランドの世界限定品だ。 先月、ショーウィンドウで見かけて心惹かれたものの、目を見張るような値段に諦めた、あのネックレス。 それが今、雫の胸元を飾っている。 「蒼真さん、素敵なプレゼントをありがとう。すごく嬉しいわ」雫はペンダントに優しく触れ、潤んだ瞳で男の端整で凛々しい顔を見つめる。「でも、こんな高価なもの……これからは無理しないで。気持ちだけで十分嬉しいから」 蒼真は淡然とした表情で言った。「金などどうでもいい。お前が喜んでくれるなら、それが一番だ」 「ねえねえ雫、お目々閉じて!」瞳真がはしゃいだ声で言った。 雫が素直に瞳を閉じると、瞳真は小さな手で、色とりどりのクリスタルが繋がれたブレスレットを彼女の腕に通した。 「もう開けていいよ!」 「わぁ、綺麗!」雫は驚きの表情を見せた。 瞳真はへへっと笑い、頭を掻く。「これね、僕が一つひとつ選んで、糸に通したんだ。雫への誕生日プレゼント!」 「ありがとう、瞳真くん。一生大切にするわ」雫が身をかがめて瞳真の額にキスをしようとした、その時。 瞳真は自ら顔を上げ、ちゅっ、と音を立てて雫の頬にキスをした。 瞳真は父親に似て、どこか冷めた子供だった。実の母親である彩葉にさえ、ほとんど懐こうとしなかったのに。 自分が喉から手が出るほど欲しかったものを、雫はこんなにもたやすく手に入れてしまう。 嫉妬と絶望で、胸の奥がキリキリと痛んだ。 瞳真はキラキラした目で雫を見つめ、真剣な顔で言う。「雫は体が弱いから、これからは僕とパパが守ってあげる。だから安心してね」 「ふふっ……ありがとう。頼りにしてるわね」雫は恥じらうように頬を染め、ちらりと隣の男に視線を送る。 蒼真は切れ長の瞳を細め、自らケーキを一切れ切り、雫の手に渡す。 血の気が、すうっと引いていく。立っていられなくなりそうだった。 全身全霊で愛した夫は、他の女の誕生日を祝い、命がけで産んだ息子は、母親からすべてを奪った女を守ると誓う。 彩葉は、赤く染まった目で静かに笑った。そして踵を返すと、五年もの間自分を縛り付けた結婚という名の牢獄から、毅然と歩み出した。 自宅の外は、冷たい雨が降っていた。 全身ずぶ濡れになりながら、彩葉は道端に立ち、久しぶりにかける番号を呼び出す。電話の向こうから、懐かしい声が聞こえた。 「お嬢!お久しぶり!元気か?」 「えぇ、元気よ」彼女は微笑んだ。その美しい瞳には、かつてないほど冷徹な光が宿っていた。 「離婚することにしたの。だからお願い、離婚協議書を用意してちょうだい。なるべく、早くね」 第2話 蒼真父子は、雫のためにささやかで温かな誕生日を過ごした。 本来、瞳真は盛大に祝おうと言い張っていたが、雫が病み上がりで、海外での治療を終えて帰国したばかりだと聞き、強くは求めなかった。 ただ指切りをして、来年こそは必ず大きなサプライズを用意すると約束したのだった。 夜になり、就寝前になってようやく、蒼真父子はあることに気づいた。彩葉が一日中、まったく連絡をしてこなかったことに。 毎晩、彩葉は夫のために自ら煮出した安神湯を用意し、四十度のお湯を張り、彼の好きな黒檀の香を焚く。 息子の歯磨きや洗顔の世話をし、温かい牛乳を飲ませ、さらに両足をマッサージして血行を良くしてやる。そうすれば将来背が高くなるからと。 だが今日、彩葉は姿を見せなかった。山根執事が代わりを務めるしかなく、きりきり舞いだった。 「山根、これは風呂の湯?熱湯じゃないか!」浴衣を着た蒼真が、長身を浴室の外に立たせ、眉をひそめる。 山根執事は慌てふためいた。「も、申し訳ございません、若旦那様!すぐにやり直します!」 「山根!牛乳が冷たくてまずいじゃん!」 パジャマ姿の瞳真が、父親の隣に腰に手を当てて立っている。父子の表情は同じ型から抜き出したようにそっくりで、幽霊も逃げ出しそうなほどの怨念がこもっている。 「ママが毎日くれる牛乳は温かいのに!」 山根執事は背中に冷や汗を流した。「ぼ、坊ちゃま、すぐに温め直します!」 奥様が坊ちゃまの牛乳を温める時は、温度計できっちり測り、一分の狂いもなく坊ちゃまの口元へ運ぶのだ。口当たりも温度も極上。 あの方は毎日あれほど忙しいのに、どうしてあんな根気があるのか…… 蒼真は首を横に振り、身を翻してリビングに戻る。ソファに座って安神湯を一口飲んだ。 次の瞬間、眉間に深い皺が寄り、重々しく椀を置いた。 「山根、この湯はどういうことだ?薄すぎる」 「若旦那様、普段お飲みになる安神湯は、奥様が早朝から調合されたもので、二十数種類の漢方を煮出した薬膳でございます。火加減も材料も極めて繊細で、配合も奥様お一人しかご存知ありません」 山根執事は心が折れそうだった。「奥様にお電話したのですが、お出になりませんで。仕方なく、残りに少々水を足し、もう一度煮立てたのですが……」 「彩葉が電話に出ない?」蒼真の端正な顔が急に険しくなり、その切れ長の目に怒気がこもった。 瞳真が口を尖らせ、不満そうに騒ぐ。「パパ、どうしてママいないの?ママがいないと誰もちゃんと仕事できないよ!」 男が大きな手で携帯を掴み、彩葉に電話しようとした時、秘書の野村颯(のむら はやて)からの電話が先に入った。 「社長、新エネルギー研究開発部で火災が発生しました。初期見積もりで損失は一億円ほどです」 蒼真の冷厳な顔がわずかに強張った。「最新開発のチップに問題はないだろうな?」 「ご安心ください、問題ありません。ある社員が間一髪で救出したと聞いています。その方は怪我で入院しましたが、大事には至らず、すでに退院されたとのことです」 男の声音は淡々としており、袖を払った。「それならいい」 颯が聞いた。「その社員のこと、お調べしましょうか?」 「いや、チップが無事ならそれでいい」 蒼真は黙り込み、不意に口を開いた。「野村」 「はい。何かご命令でも?」 彼は本来、颯に彩葉の行方を調べさせようとしたのだ。だがふと、三日前の二人のあまり愉快ではなかった会話を思い出した。 彼は、パートナーが疑い深く、嫉妬に駆られて怨み言を言うようなタイプであることを好まない。 彼は自ら「男の理想像」を自負している。だが彩葉はこの五年間、どうしても彼と雫のことを乗り越えられないようだった。 雫との間に何もないのだ。もし本当に何かあったなら、氷室夫人の座はとっくに雫のものになっていたと、何度も告げたというのに。 しかしあの女は相変わらず彼を疑い、雫を受け入れない。 蒼真の眉間に苛立ちが走り、声色が冷たく沈む。「火災の後処理は適切に対応しろ。氷室グループに面倒をかけるな」 彩葉に関しては、今日は疲れた。構う気にもなれない。 どうせ彼女は実家以外、行くところなどない。 彼女は彼に執心し、瞳真を命より大切にしている。 明日の朝には、あの出来損ないの妻がすごすごと帰ってくるだろうと、彼は確信していた。 瞳真は相変わらず不満そうに騒いでいる。「ねえパパ、ママはいつ帰ってくるの?ひどいよね!パパがママのお尻をペンペンしなきゃ!」 蒼真の顔色が厳しくなり、家主の威厳を示した。「氷室瞳真。お前の貴公子としての教養はどこへ行った?どうしてそんな下品な言葉遣いをする?」 瞳真は怯えて口を閉じた。 ママの前では、彼は天地を支配する魔王だ。しかし父親の前では、震える小さな雛のように従順だった。 その時、瞳真の電話腕時計が鳴った。画面には「大好きな雫」と表示されている。 「パパ、僕、先に部屋に戻るね。雫から電話だ!最近毎晩、寝る前にお話を聞かせてくれるんだ!」 瞳真は嬉しそうに小さな手を振った。 男はわずかに頷いた。「ああ、行け。あまり夜更かしするな」 瞳真は軽快に走っていった。 一方、皐月苑。 これは彩葉が三年前、氷室家の人間には内緒で買った家だ。環境は静かで、ここで心を込めてデザインや研究ができる。 彩葉は浴室で血に濡れた体を洗い流し、その後部屋に戻り、ゆっくりとベッドに座った。 まだ二十六歳だが、やはり流産はまずい。五年前に瞳真を産んだ時の身体の虚弱さが、今も完全には回復していない。 彼女は携帯を手に取った。画面は静まり返っていた。 こんなに遅くなっても、夫も息子も一本の電話もかけてこない。自分がなぜ帰らないのか、危険な目に遭っているかもしれないとも、気にもしない。 彩葉は蒼白い唇を歪め、乾いた笑いを漏らした。 もうどうでもいい。氷室家に嫁いだ時、ちょうど義父が発病して入院し、氷室家には準備する余裕もなかった。彼女も聞き分けが良すぎて、両家で簡単に食事をしただけ。ウェディング写真すら、適当に済まされた。 今、彼女も静かに、この墓のように冷たい結婚を終わらせたかった。円満に別れたい。 突然、携帯が震えた。メッセージが届いたのだ。 彼女は指先でタップする。そこには作成済みの離婚協議書があった。 メッセージが添えられていた。 【零時になったね。お嬢、お誕生日おめでとう!】 彩葉の瞳が赤くなり、鼻の奥がつんとする。感動して微笑んだ。 【ありがとう】 【結婚は幸せを保証しない。別れも最終結末じゃない。氷室蒼真は君に相応しくない。そこから抜け出して。君には、もっと広い世界がある】 彩葉は画面を凝視した。瞳に滲んだ輝きが、文字をぼやけさせる。 翌朝。 彩葉の世話がなくなった氷室父子は、朝から大混乱だった。 一人は目玉焼きの形に不満を言い、もう一人はコーヒーの味に眉をひそめる。 「パパ、ママはいつ帰ってくるの?なんなのあいつ!」使用人が瞳真の靴を履かせている。瞳真は口を尖らせ、騒々しい。 男は眉をひそめた。「早くしろ、学校に遅刻するぞ」 瞳真は小声でつぶやいた。「前はママが毎日学校まで送ってくれたのに、今日は送ってくれないとは!ふん、サボりたいのかな?」 蒼真の薄い唇がわずかに動く。突然、漠然と感じた。今日は何かの日のような気がする。 だが、すぐには思い出せなかった。 「蒼真さん!」 優しく柔らかな呼びかけが、蒼真の思考を遮った。 第3話 今日の雫は、純白の膝丈ワンピースを着ている。腰が細く、すらりと立つその姿は、まるで朝霧の中で咲く白百合のように、瑞々しかった。 「雫〜〜!」瞳真は大喜びで女性の懐に飛び込み、その腰にしっかりと抱きついた。 使用人たちはその光景を目に焼き付け、顔を見合わせた。 この人は、なんと大した方なのだろう。 社長がブリリアージュ潮見への出入りを黙認しているだけでなく、気難しい坊ちゃまも彼女にこんなに懐いている。まるで本当の母子のようだ。 ご存知の通り、坊ちゃまは普段、奥様には素っ気ないというのに。 奥様との関係が天敵同士なのに対し、雫とはまさに相思相愛といったところか。 雫は優しく瞳真の頭を撫でる。全身から母性のような輝きを放ち、左手首には瞳真が贈った水晶のブレスレットをつけ、蒼真に向かってにっこりと笑った。 「蒼真さん、お姉ちゃんに会いに来たの。家にいる?」 蒼真の眉が沈んだ。「昨夜、お前の姉は実家に泊まらなかったのか?」 「いいえ、どうして?お姉ちゃん、昨夜帰らなかったの?」 雫は驚きに満ちた表情で心配そうに尋ねた。「蒼真さん、お姉ちゃんと……喧嘩したの?」 男の表情に苛立ちが浮かんだ。「あいつが分をわきまえないだけだ」 雫は軽く笑った。「お姉ちゃんの性格は少し頑固だけど、喧嘩しても仲直りできるわ。蒼真さんが謝れば、お姉ちゃんはすぐ帰ってくるわよ」 蒼真は薄い唇の端を動かし、その声は冷たく温度がなかった。 「俺があいつに謝る?あいつにその資格があるのか?」 「そうだそうだ!ママが悪いくせに!訳が分からないことで帰ってこなくて、僕もパパも放ったらかし!謝るのはママの方だよ!」瞳真はむくれて同調した。 「氷室瞳真、もう学校に行く時間だ」蒼真は無表情に注意した。 「ぐっ……」 瞳真は雫にしがみついて離さず、甘えて懇願する。「ねえねえ雫、今日学校まで送ってくれない?だって僕、もっと雫と一緒にいたいの!」 雫は苦笑し、彼の小さな顔をつまんだ。「瞳真くん、この前ずっと一緒だったでしょ。昨日別れたばかりよ」 「僕、毎日雫と一緒にいたいもん。そうだ、雫が僕のママだったらいいのに!」 瞳真の無邪気な言葉に、周囲は唖然とした! 幸い、奥様はいらっしゃらない。もし聞いたら、どれほど悲しまれることか! 「まあ、そんなこと……」 雫は口では窘めながらも、長い睫毛を伏せ、恥じらいながら目の前の凛々しく美しい男を見た。 蒼真は淡々とした顔だった。子供の言葉など全く気にしていない。 「雫、それでは悪いが、瞳真を学校まで送ってくれないか」 雫は嬉しそうな色を浮かべ、従順に「はい」と答えた。 …… 彩葉が起きた時は、すでに九時だった。 これは氷室家に嫁いで以来、初めて自然に目覚めるまで眠った、安らかな眠りだった。 過去五年間、彼女は毎朝六時に起きていた。蒼真のためにコーヒーを淹れ、スーツを合わせる。息子の洗顔の世話をし、朝食を食べさせ、さらに自ら幼稚園まで送る。最後になって慌てて出勤していた。 そのため、彼女はしばしば遅刻し、女性の上司に人前で叱責されることが数知れずあった。 最初は恥ずかしく辛かったが、次第に面の皮が厚くなり、どんなひどい言葉も柳に風と受け流し、ひたすら本職の仕事に専念した。 実は、蒼真が一言口添えすれば、氷室グループで誰一人として彼女に嫌がらせなどできなかったのに。 しかし蒼真は特別扱いが大嫌いで、常に実力主義、平等を主張していた。 だから氷室グループ全体で、秘書の颯以外、彼女が正真正銘の氷室社長夫人だと知る者は一人もいなかった。 本来、彩葉は蒼真が本当に公正無私な「聖人」だと思っていた。 だが、彼が堂々と雫をオークションやパーティに連れて行き、彩葉がずっと参加したかったAI知能サミットにまで連れて行き、さらに数日前の公演…… 彩葉は次第に目が覚めた。 あの男は、現代の「公正無私な聖人」などではなく、底の底まで腐った「底なしの女好き」だと。 妻は、彼にとってただの長期契約の娼婦兼、家政婦だ。雫こそが、彼が何度も規則と一線を破ることができる、その特別な人なのだ。 彩葉は洗顔を済ませ、食卓に座って朝食を食べようとしたが、なぜか心が落ち着かなかった。 その時、携帯の着信音が突然鳴った。瞳真の担任からだ。 彩葉はしばらく躊躇した後、電話に出た。「もしもし、高橋先生」 「お母様、瞳真くんが喘息発作を起こしました!学校ですでに救急車を呼んで最寄りの病院に搬送する準備をしています。急いでお子さんの看病に来てください!」 やはり母子は心で繋がっている。彩葉は食事も顧みず、立ち上がってドアへ向かって駆け出した。 …… 「瞳真!」 彩葉が息を切らし、全身汗だくになり、焦燥に駆られて病室に飛び込んだ時、目の前の光景が彼女の心臓を激しく刺した。 息子の小さな顔は真っ白で、虚弱そうに病床に座っている。涙で顔をぐしゃぐしゃにした雫に、しっかりと抱かれていた。 夫の蒼真が、長身を傍らに立たせ、深い眼差しを向けている。 彼らを精一杯守っている姿だった。 「雫、もう泣かないで……僕のこと心配してくれてるの、分かるよ」 瞳真は発作が落ち着いたばかりで、呼吸もまだ苦しそうだったが、それでも雫を慰めた。「ほら、僕、こうして元気じゃない……」 雫は泣き崩れた。「瞳真くん……怖かったわ!あなたに何かあったら、私は……」 瞳真は目を赤くし、小さな手を上げて女性の涙を拭った。だが、恨みがましい目で、自分の母親を睨んだ。 彩葉は全身が凍りつき、氷の穴に落ちたようだった。細い両脚がズボンの中で震える。 彼女は流産したばかりで、しかも来る時に急ぎすぎ、階段で転んでいた。今も膝から血が流れている。 この子がどれほど冷淡でも、結局は自分の血肉だ。すぐには割り切れない。 しかし息子が今、自分を見る目には、どこに親子の情の欠片があろうか。明らかに仇敵を見るようだった。 「氷室彩葉……母親として、そんな無責任な真似をするのか?」 蒼真は大股で彼女の前に歩み寄り、厳しく詰問した。 彩葉は男の怒気を秘めた目を受け止め、静かに尋ねた。 「私が何をしたの?」 「何をした?よくそんなことが聞けるな!」 蒼真は高い位置から彼女を見下ろし、その語気は寒々しく、裁きのようだった。 「お前の生家、お前のキャリア、めちゃくちゃだ。俺は一度もお前に何も要求したことはない。 なのにお前はなぜ、一番基本的な子供の世話さえできないんだ!理不尽に騒ぎ、夜も帰らず……お前は本当に瞳真を愛しているのか? もうがっかりなんだ!」 雫は対峙する夫婦二人を見て、瞳の奥に一筋の冷たい光が走った。 「丸五年、私は全身全霊を家庭に捧げ、個人的な付き合いは一切なかった。毎日家と会社の二点を往復し、残業以外、一度も夜遅く帰ったことはない」 彩葉の瞳は冷たく、一語一語鋭く反論した。「昨夜、私が帰らなかったことが、何だというの?何か法でも犯した?それとも私は保釈中の犯罪者で、毎日あなたに居場所を報告しなければならない義務でもあるの?」 瞳真は呆然と、普段おどおどしている母親を見つめた。 雫も、彩葉が突然反撃したことに驚いた。 空気が一気に凍りついた。 蒼真の剛毅な顔の輪郭が強張り、深い瞳に怒りの色が浮かんだ。 次いで、彼は薄い唇を冷たく持ち上げ、嘲りを込めた。 この無口で不器用で、情緒のない女が、反抗するだと? 子供を盾に増長したか?ますます野放図になった。 「瞳真はなぜ突然喘息を起こしたの?食べてはいけないものを食べたの?」 彩葉は蒼真との口論に疲れ、本題に切り替えた。 蒼真の表情は傲慢で、仕事のできない部下に話すようだった。「知るか。それはお前が一番わかるはずだ。母親としてのお前の失職だ!」 彩葉は笑い出した。どうしてこんなに無神経に言うのか。 「私が一人で瞳真を産んだとでも言うの?母親がいないなら、父親のあなたは一切管理しないの?氷室瞳真はあなたの息子じゃないとでも言うの?」 蒼真は唖然とした。 「どの法律が、子供は母親だけが育てると規定してるの?私が多めに担当したら、私がやること全てが、あなたたちにとって当然のことになるの?」 蒼真の顔色が雪のように冷たく沈んだ。「……氷室彩葉!」 その時、病室のドアが押し開かれた。 第4話 病院の院長が満面の笑みで入ってきた。彩葉を素通りし、真っ直ぐに蒼真と雫に歩み寄る。 「奥様、ご心配なさらず。息子さんは私が直々に当院の専門家たちと診察し、大事ないと確認しました。もう少し休めば退院できます」 人違いに気づいて、雫の頬が赤く染まった。だが、すぐには訂正しない。 そして背後の男も、冷淡なだけで、口を開こうとした時、彩葉が先手を打った。 「先生、氷室瞳真の母親はこの私です」 彼女は「氷室夫人」を名乗らなかった。なぜなら心の中では、すでにこの冷淡な男と何の関係もなかったからだ。 雰囲気が、どんどん気まずくなってきた。 院長は目を見開いて質素なスウェット姿の彩葉を見、また全身をブランド品で固めた雫を見て、頭が一瞬真っ白になり、慌てて謝罪した。 「も、申し訳ありません、大変失礼いたしました!息子さんは大丈夫です、ご安心ください!」 雫は伏し目がちに、唇を固く結んだ。 わずかな悔しさが滲む。 「瞳真は一体何が原因で喘息を起こしたんですか?」彩葉は真剣に尋ねた。 医師「お子さんは肺機能が弱く、先天性の喘息があります。日常の食事には特に注意が必要で、ナッツ類、海鮮類はすべて重度の喘息を引き起こします。幸い救急処置が間に合いました。でなければ危険でしたよ!」 蒼真は疑わしげに瞳真の蒼白い小さな顔を睨んだ。 「瞳真の日常の食事には特に注意していて、ナッツや海鮮には絶対触れさせない。学校の先生にも伝えてある。どうして食べてはいけないものを口にするんだ?」 そう言って、男は怨みを込めた目を冷たく彩葉に突き刺した。 「調べるのは、簡単よ」 彩葉の鋭い刃のような視線が、雫の可憐な顔に移った。 「氷室家の上から下まで、瞳真が喘息だと知らない者は一人もいない。瞳真におやつや体に悪いものを食べさせる者も一人もいない。今日、学校に行く前に瞳真が誰と接触したか分かれば、彼のアレルギーの原因が分かるわ」 一言も雫に触れていない。 だが、一言一言が彼女を指している! 雫は瞳真をしっかりと抱きしめたが、心臓は太鼓のように高鳴った。 「瞳真、何を食べたの?誰からもらったの?」彩葉は真剣に息子を見つめた。 瞳真が生まれた瞬間、彼は正真正銘の氷室家の後継者だった。 本来なら厳格に教育すべきなのに、蒼真は仕事に忙しく常に父親の役割を果たさず、義母は孫を天まで甘やかし、氷室家の使用人たちは皆、瞳真を皇帝のように扱った。 瞳真は小さい頃から、わがままで横暴に育てられ、まさに「魔王」だった。 そして一心に息子に尽くし、父親も母親も兼ねた彩葉は、息子の目には口うるさい煩わしい存在になってしまった。 「瞳真、一体どういうことだ?」蒼真の端正な顔が暗くなった。 瞳真の黒い瞳が泳ぎ、唇をきつく噛んだ。 彼は言えない。学校への道中、雫がピスタチオ味のアイスクリームを買ってくれたせいだとは。 そうしたら、雫がパパに叱られてしまう。 雫は自分にとても良くしてくれる。パパに叱られるようなことはさせたくない! 「ふ、古江のやつだよ!」 瞳真は早口で、顔を真っ赤にした。「アイスクリームは僕が買ってもらったんだ。アイスクリームが食べたかっただけ。中にナッツが入ってるなんて知らなかったんだもん!」 雫は相変わらず小さな手を優しく撫でているが、一言も発さなかった。 蒼真は眉間に深い溝を刻んだ。「……古江が?」 古江は氷室家で二十年も車を運転している。誠実で務めに忠実な男だ。氷室家の内情は、彼と山根執事が最も理解している。どうしてこんな規則を破る行動をする? 彩葉は信じられない思いで瞳真を見つめた。心の奥底から、じわりとした痛みが伝わってくる。 一瞬、彼女が苦労して育てた息子の顔が、次第に見知らぬものになった。 小さい頃から、彼女は息子に堂々と、誠実で信頼できる人間になるよう教えていた。何が起きても、絶対に嘘をついてはいけないと。 これが瞳真が物心ついて以来、初めての嘘だった。 それが、雫を守るためだった。 「古江さん!」彩葉は目に涙を浮かべ、呼んだ。 「はい、奥様!」 外で待っていた古江が病室に入り、恭しく蒼真に頭を下げた。「若旦那様」 瞳真がぎくりとした。 蒼真は訝しげに彩葉を見た。「古江を呼んで何をする?」 彩葉は男の不機嫌な顔を無視し、静かに言った。「古江さん、瞳真は今朝学校に行く途中でピスタチオアイスクリームを食べたと言ってるが、あなたが買ったの?」 古江は慌てて手を振った。「いえいえ奥様、奥様のご指示がなければ、どうして坊ちゃまに勝手なものを食べさせられますか!アイスクリームは実は……」 「わ……私よ!」雫の声が震え、ついに耐えられなくなった。 蒼真は呆然と目を見開き、女性の涙を浮かべた清麗な顔を凝視した。 瞳真は雫の手を掴み、心配でたまらない。「雫のせいじゃないよ!」 「蒼真さん、全部私が悪いの……」 雫の小さな鼻先が真っ赤になり、涙がぽろぽろと落ちてきた。「瞳真くんが道端のアイスクリームを見つめているのを見て、可哀想で、つい買ってあげてしまったの。ナッツアレルギーだって知らなくて……蒼真さん、瞳真くん……全部私のせいなの。ごめんなさい……」 蒼真はしばらく沈黙し、軽くため息をついて、優しく言った。 「まあいい。お前は瞳真の状況を知らなかったんだ。わざとじゃない。次から気をつければいい」 雫は涙に濡れたまま、白い小顔を上げた。「蒼真さん……」 瞳真は一気に喜んだ。「良かった!パパは怒らないって分かってた。だってパパは雫が一番好きなんだもん!」 蒼真は表情を見せず、また何も言わなかった。 たとえ息子が言ったことが事実でも、彩葉はとっくにこの残酷な真実を黙って受け入れていた。 しかしこの瞬間、彼女は胸に悪寒が湧き上がり、全身の血が逆流するのを感じた。 彼女は以前のことを思い出した。書斎に入って蒼真にコーヒーを運んだ時のことを。 書類の邪魔をしないよう、彼女は靴まで脱いで、裸足で歩いていき、コーヒーを机の上に置いた。 ところが、蒼真はプロジェクトのことで苛立っていて、大きな手で一掃し、コーヒーが机一面にこぼれた。 「余計なことするな。出て行け!」 明らかに自分の不注意なのに、すべての怒りを彼女に向けた。 その夜、彼女はコーヒーカップを洗いながら、黙って長い間涙を流した。 今、雫に対して、蒼真は優しく忍耐強くて寛大だった。 目の前のこの女が、もう少しで彼の息子を殺すところだったというのに! 愛するか愛さないか、その差は火を見るより明らかだ! 彩葉は決然と身を翻し、足早に去った。 この光景をこれ以上目にするのも不愉快だった。 「蒼真さん。お姉ちゃん、機嫌が悪そう。外に様子を見に行くわ」 雫は急いで涙を拭い、立ち上がって後を追った。 彩葉はそう遠くまで行かないうちに、突然膝に痛みを感じ、体が虚脱し、足を止めた。 「お姉ちゃん」 雫は冷たい笑顔で彼女を呼び止めた。「お姉ちゃん、どうしてそんなに急ぐの?まるで蒼真さんと夫婦仲が険悪みたいじゃない」 明らかに、彼女の言葉を引き出そうとしている。 「林雫、そんなに誇らしいことなの?」 彩葉は真っ直ぐ彼女を見て、瞳が氷のように冷たかった。「五歳の子供を誘導してあなたのために嘘をつかせ、その心を全部他人の夫と子供に注ぎ込んで。 あなたがアイビーリーグ大学のコンピューターサイエンス学科卒業の秀才だと思う人が多いでしょうけど、知らない人に、どこの三流女学院から出てきたと思われるわよ……」 しかし、彩葉は良い教育を受けた人間だ。大勢の前で雫と激しくに争いたくない。 彼女は正直で、品位を重んじる。 雫の母娘のように、恥知らずに他人のものを奪い、それでいて当然という顔をすることなど、到底できない。 雫は十指を握りしめ、赤い唇を持ち上げた。 「あらお姉ちゃん、どうしてそんなに威圧的なの?瞳真くんが嘘をついたのは、母親として彼とのコミュニケーションが不足していて、教育がうまくいってないからよ。私と何の関係があるの? 『子は親の鏡』って言うわ。子供は真っ白な紙よ。親の育て方次第で、彼はどうとでもなるの。お姉ちゃん、普段から言動には気をつけないと」 「はっ……笑わせるわ。結婚も出産も未経験のくせに、私に母親論を説くおつもり?」 彩葉は怒るどころか笑った。以前のような口下手とは全く違う。「まだ子供も産んだことないのに、もう説教臭さ全開ね。あなたの蒼真さんに嫌われないか心配じゃない?」 雫の唇の端が引きつり、力強く息を吸った。 彩葉は体調が悪く、彼女とこれ以上言い争いたくなく、身を翻して去ろうとした。 しかし、屈辱を受けた雫は甘んじず、彼女の腕を掴んだ。 彩葉は呻き、滑らかな額に汗が滲んだ。雫が掴んだ場所は、ちょうど彼女がチップを救出するために怪我をした箇所で、今もガーゼが巻かれていた。 「離して!」彩葉は歯を食いしばり、振り払った。 「きゃあ!」 雫が驚きの声を上げ、華奢な体が後ろに仰け反った。 しかし、地面に倒れることはなかった。 なぜなら蒼真がいつの間にか駆けつけ、逞しい両腕を広げて、しっかりと彼女を抱き留めたからだ。 第5話 「彩葉、お前は何をするんだ!」 蒼真の長い腕が雫の細い腰を支え、その切れ長の目は、痛みで蒼白になった彩葉の顔を怒りに歪んで睨みつけた。 彩葉は冷たく二人を見つめ、右手で怪我をした腕を握る。一滴の汗が柔らかな頬を伝って落ちた。 「触れてないよ。彼女が掴みかかってきたの」彩葉の声には温度がなかった。 「掴んできたから、お前は突き飛ばしたのか?」 蒼真は怒りを隠しきれず、感情を抑えて言った。「雫はお前の実の妹だ。お前たちは家族なんだぞ。なぜお前はいつも彼女を敵視する?」 「実の妹?」 彩葉は軽く笑った。美しい瞳には鋭い刃が隠されている。「私たちは同じ母でもなければ、同じ苗字でもない。彼女のどこが実の妹だというの。関わってこないでくれる?」 元々、彼女も「林彩葉」だった。 だが十八歳の時、父親が母の北都の旧居をグループの資金繰りのために売ると言い張り、そのことで父娘は大喧嘩になった。父親は雫の母娘の前で彼女の頬を張り、その時から、彼女は林を名乗るのをやめ、母方の姓に改めたのだ。 蒼真の眉間に深い皺が刻まれ、瞬きもせず目の前の妻を見つめる。 今日は何に刺激されたのか分からないが、まるでハリネズミだ。誰彼構わず棘を向ける。 「蒼真さん、私が立ち損ねただけよ。お姉ちゃんは故意じゃないと思うわ……」 雫は勢いに乗じて男の逞しい胸に寄りかかり、瞳を潤ませて悲しそうにした。「私、お姉ちゃんに会いに来たのは、直接謝りたかっただけなの。だって瞳真くんの発作は私のせいで起きたから、本当に申し訳なくて……お姉ちゃんが怒るのも当然よ」 「彩葉、雫に謝罪しろ」 蒼真は冷たい声で命令し、黒檀の瞳が深く沈む。威圧に満ちていた。 ……またこれだ。 五年の結婚生活で、この男に最も多く言った言葉、それは「ごめんなさい」だった。 「ごめんなさい、私がうまくできなくて」 「ごめんなさい、私の配慮が足りなかった。お義母様に謝りに行くわ」 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…… しかし、彼女は間違っていたのか? 一度もないのだ! 彩葉は冷たく男を見つめ、目を赤くして笑った。「謝罪?いいわよ、彼女が跪いて『謝ってください』と請うならね」 雫が男の腕の中で震えた。 「彩葉、調子に乗るな!」 「まだ序の口よ。氷室社長はもう我慢できないの?」 彩葉は笑みをこぼした。まるで凛とした寒さの中で咲く、冷たく艶やかで清らかな花のようだ。「焦らないで。もっとひどいことは、これからよ」 そう言って、彼女は身を翻して颯爽と去っていく。振り返りもしない。 蒼真はその繊細でありながら頑固な気配を放つ背中を見つめ、先ほどの一度も見たことのない笑顔を反芻し、切れ長の目を深く沈めた。 男の視線がまだ彩葉が去った方向を見ているのを見て、雫は唇を噛み、理解を示すように促した。 「蒼真さん、お姉ちゃんを追いかけて……私は大丈夫だから」 蒼真は長い睫毛を伏せ、彼女の腰を抱いて立たせた。 「あいつは放っておけ。お前を送っていく」 午後、瞳真の容態は安定し、運転手とボディガードに護衛されてブリリアージュ潮見に帰った。 午後に重要な会議があったにもかかわらず、蒼真は体調の悪い雫を自ら家まで送り、それからグループの会議に向かった。 常に時間厳守の彼がそのために遅刻し、十数名の重役たちが一時間も待たされた。 夕食時、蒼真が帰宅した。 彼は玄関に入るなり、腕にかけていたスーツを、自然な動作で前に放り投げた。 思いもよらず、彼のスーツは柔らかく白い手に受け止められることなく、突然地面に落ちた。 蒼真は地面のスーツを睨み、眉間に濃い霧のような陰りが籠もった。 過去五年間、彼が帰宅すれば、彩葉は必ずエプロン姿で慌てて駆けてきて、従順さの中にどこかへつらいを滲ませた笑顔を浮かべ、気を利かせてスーツを受け取り、スリッパに履き替えさせてくれた。使用人よりも行き届いた世話をした。 なぜなら、使用人は雇われているからだ。 彩葉は彼が娶った、妻だ。心も目も彼でいっぱいだからこそ、完璧にできたのだ。 蒼真は苛立ちの感情が胸に詰まった。「山根!」 「若旦那様、お帰りなさいませ!」 山根執事がすぐに駆けてきた。「夕食はすでに準備できております。坊ちゃまはダイニングルームでお待ちです」 男は冷え冷えとしたリビングを見回した。「彩葉は?帰ってきたか?」 「奥様はまだ……夕食は厨房係が作りました。お口に合うかどうか」 蒼真の薄い唇が一文字になり、指先でウィンザーノットを緩め、大股で食堂へ向かった。 長い食卓に、父子二人だけが座り、黙々と食事をする。 ご馳走が並んでいても、形式だけで、温かみのない料理だ。二人とも味気なさそうに口を動かしている。 「パパ、僕ごちそうさま」瞳真は口を尖らせ、箸を置いた。 蒼真は息子を一瞥した。「猫か?これだけしか食べなくて」 「違うよパパ。料理がママの作ったものほど美味しくないから、食べられないの……」 瞳真は小さな口を尖らせ、憂鬱そうに尋ねた。「パパ、僕ママが煮込んだ鶏のスープが飲みたい。それにママが作った酢豚、パイナップルのスペアリブ、ガーリックチキンウィング……」 「もういい。そんなものはどこにでもある家庭料理だろう。大したことないじゃないか」 蒼真は密かに喉を鳴らした。「お前は氷室の未来の後継者だ。たかが数品の簡単な料理にお前の胃袋を掴まれてどうする?」 瞳真はまた無理やり数口飯を掻き込み、声を出せなくなった。 蒼真はナプキンを取って優雅に口を拭った。「瞳真、お前の母親に電話しろ。どこにいるのか、いつ帰るのか聞け」 「やーだ」 瞳真は憤然と意地を張った。「今日ママはひどすぎたよ。雫を泣かせたんだ!まだ雫に謝ってもいないのに、僕から連絡なんかしないよ。雫を裏切るみたいじゃないか……」 幼い子供、「裏切る」などという鋭い言葉を口にする。 蒼真の顔色が瞬時に暗くなり、問い詰めようとした時、山根執事が「あっ」と声を上げた。 「若旦那様、思い出しました。今日は奥様のお誕生日です!」 父子二人はぎょっとして、目を見開いて顔を見合わせた。 「奥様のお誕生日をお忘れになったから、奥様がお怒りで、お帰りにならないのでは?」 蒼真の切れ長の目が細められ、はっと悟った。 …… 二時間後、彩葉は巨大なスーツケースを引きずって屋敷に入った。 寝室に入ると、彼女は何も言わずクローゼットを開け、服をケースに詰め込み始めた。 「何をしている?」蒼真が寝室に入ってきた。端正な顔は雪原のように冷たい。 彩葉は男に背を向け、手際よく忙しく動く。「荷物をまとめてる。外に住むの」 「外に住む?瞳真はどうするんだ?」 蒼真は嘲るように唇を持ち上げ、冗談を聞いたような顔になった。「お前は息子を命より愛している。瞳真はお前の『命』そのものだろ?以前は一日会えないだけで、どうしようもなかったじゃないか。今、お前は出て行くと?できるのか?」 彩葉は動きを止め、細い腰を伸ばし、思案に沈んだ。 蒼真が、この取り柄もなく後ろ盾もない女が妥協すると思った時、彩葉は突然確固たる決意を示して言った。 「できる」 男の表情が凍りついた。 「私がいなくても、彼には大好きな雫がいるわ。それに、彼も私を必要としてないもの」 蒼真は大股で歩み寄り、彩葉の傍らに立った。そびえ立つ氷山のように。 「彩葉、自分が一体何言ってるかはわかるか?母親らしさのかけらでもなんでもないじゃないか。お前の実の息子だぞ。いらないと言って」 「あなたの目に私がそんなに酷く映るなら、母親の資格もないなら、それなら別れましょう。それぞれの道を行けばいい。瞳真に新しいママを選んであげて。彼が好きな人を……」 彩葉の言葉が終わらぬうちに、蒼真はぐっと彼女の細い手首を掴んだ。 「離して……」 手首が痛む。秀麗な眉をひそめて振りほどこうとするが、男女の力の差は歴然で、彼女は敵わない。 ただでさえ虚弱なのに、こうして引っ張られて、彼女は汗びっしょりになった。 蒼真は彼女に対して、いつも粗暴で、優しくなかった。 特に夫婦の営みでは、結婚当初はよく彼女を傷だらけにし、真夏でもハイネックの長袖で痕を隠さなければならず、使用人たちに陰で嘲笑されることが多かった。 彩葉は時々考えた。蒼真は雫に対してもこうなのだろうか? そんなはずはない。 雫は肩出しの服を好み、短いスカートを好む。彼女が会う度、雫の肌は白く滑らかで、殻剥きたてのゆで卵のようで、触れれば壊れそうなほど透き通っていた。 つまり、彼は彼女に、どれほど優しいかということだ。 やはり長年深く愛した人だ。どうして彼女が少しでも傷つくのを耐えられようか…… その時、彩葉は掌に重みを感じた。 蒼真が精巧な黒いベルベットの箱を彼女の手に押し込んだ。冷厳な眉目に生まれながらの傲慢さが滲む。 「お前、今日誕生日だろう?誕生日おめでとう」 第6話 彩葉の澄んだ瞳が緩んだ。 五年間、蒼真の誕生日には、彼女はいつも一、二ヶ月前から心を込めてプレゼントを準備し、クローゼットの奥深くに隠して、その時に彼を驚かせようと思っていた。 自ら磨いたタイピンに、縫ったスーツ、自ら調合した香水…… しかし彼女が贈ったプレゼントを、彼は見もせず、棚の上に放置した。 それどころか雫が贈った、二人の名前のイニシャルが刻まれた万年筆を、常に持ち歩き、しばしば手に取って弄んでいた。 そしてこの五年間、彩葉は蒼真から一度もプレゼントをもらったことがなかった。 今、彼女が彼と離婚しようとしている時に、この男が、何を血迷ったのか。 彩葉は掌の箱を見つめ、五指がわずかに縮み、蝶の羽のような長い睫毛が軽く震えた。 蒼真は目を伏せ、高い位置から彼女を見下ろした。 彼女の繊細な小顔に明らかに感動の色が浮かんだのを見て、薄い唇をわずかに上げた。 世の女は、大抵同じだ。 特に彩葉のような世間知らずの女は、なおさら心を動かされやすく、御しやすい。 彩葉は彼の前で箱を開けた。 中には、メレダイヤで作られた雫型のイヤリングが一対。 一見悪くはない。しかし、その中に一カラットを超えるダイヤモンドは一つもなかった。 メレダイヤは、彼らのような名家の人間からすれば、取るに足らないガラクタだ。 だが、彩葉が最も胸を刺されたのは、この一対のイヤリングが、蒼真が雫に贈ったあのルビーのネックレスに付いていたおまけの品だと一目で分かったことだった。 彼女と雫の誕生日は、たった一日違い。 雫が父親に認知されてから、彩葉は自分の誕生日を祝うことはなくなった。毎年、彼女は雫の「おこぼれ」にあずかり、彼女と一緒に祝い、もう自分だけのケーキもプレゼントもなかった。 このメレダイヤのイヤリングのように、ルビーペンダントの付属品、添え物に過ぎない。 雫は本来彼女のものだった人生を奪った。今、彼女の夫はまだ彼女の尊厳を地面に投げつけ、踏みにじろうとしている! 「はっ、本当につまらない……」 彩葉は手を離し、宝石箱を遠くのゴミ箱に投げ入れた。 「お前!」蒼真の瞳孔が震えた。 「いっそ直接罵倒してくれた方がましだったわ。他人のいらないおまけを寄越すなんて。私は喜びのあまり泣いて、あなたに感謝しなきゃいけないの?」 彩葉は彼の目尻が赤くなった切れ長の目を受け止め、声は冷たく凛としていた。 「外で愛人を囲うなら、せめて妻の機嫌の取り方くらい覚えたらどうなの?贈るなら、あの雫のルビーネックレスを贈るべきでしょう」 蒼真の端正な顔が呆然とし、薄い唇を噛んだ。 彩葉はスーツケースを閉めた。「でも、あなたが贈っても受け取らないわ。汚らわしい」 蒼真の顔色が極限まで暗くなり、常に深みのある声が酷く擦れた。 「俺の話がおかしいのか、それともお前が話を理解できないのか?言っただろう、雫は妹のようなものだと。俺たちは何もないって。お前に妄想癖があるなら医者を手配する。話を曲げて皮肉を言うな!」 「離婚しましょう、蒼真」 彩葉はベッドの上に置いていた、すでに準備していた離婚協議書を手に取り、静かに男の前に差し出した。 「何もないって、もう聞き飽きたわ。二人は相思相愛なのに。今、お二人の仲を成就させてあげたるわ。『兄妹』が夫婦になれるように。もう出張を口実に彼女とデートしなくてもいいのよ。そんなこそこそするなんて、あの可憐な雫が可哀想よ」 「離婚?よく言えたものだ」蒼真は怒りが込み上げた。 妻の苦しみには知らぬふりをして、「離婚」の二文字だけを掴み、まるでこの上もない恥辱を受けたかのようだ。 彼は一歩一歩迫り、強勢な気配が彼女を包み込む。「法律が分からないのか。婚後の財産は、分割が明確だ。一度離婚したらお前は無一文で出ていくことになる。俺の財産を一銭も持っていけると思うな」 「私には手も足もある。あなたのお金なんていらない」 彩葉の瞳は清く冷たく決然としていた。「安心して。来た時のままで去るわ。私のものでないなら、触りもしない」 蒼真の切れ長の目に濃い殺気が巻き起こった。 以前は唯々諾々としていた女が、今は強気だ。 何の取り柄もなく、林家からも疎外されている。一体何を頼みにこんなに自信があって、彼に離婚を切り出せるのか? 「瞳真は?あいつもいらないのか?」 蒼真は息を荒げ、息子で彼女を繋ぎ止めようとした。「お前が思うに、親権争いで、俺に勝てると?」 「争えないんじゃない。争いたくないの」 彩葉の眼差しに波はない。「瞳真はあなたに」 蒼真の瞳孔が激しく縮んだ! これが、かつて瞳真が入院して救急処置を受けた時、不眠不休で病床の傍らで見守り、毎年精進料理を食べ、神社へ毎日通って瞳真の無事を祈った彩葉なのか? 息子は彼女の全ての希望、彼女が身を削って産んだ子だ。それをいらないと…… 蒼真の全身が凍りつき、胸が激しく上下した。 「お前を買いかぶっていたようだ。お前は確かにお前の父親が言う通り、自分のことしか考えない、冷血な人間だ。お前が瞳真を愛しているかと思っていたが、今見ると、人の心を掴むために、俺に芝居を見せていただけなのか?」 彩葉は嘲笑したが、心の先端に刺すような痛みが伝わった。 彼女の父親は、えこひいきで、家でも外でも、彼女を貶めることで雫の優秀さを引き立てていた。 実は、それを気にしていなかった。 母が亡くなったその瞬間から、彼女には父親などいなかったのだ。 だが彼女と蒼真は五年の夫婦で、同じ床で眠り、彼のために子を産み、この家を切り盛りした。 他人が彼女を理解せず、誹謗し、誤解するのは仕方ない。だが彼はどうして、こんなに簡単に彼女の全ての努力と犠牲を否定できるのか? 「そうよ、五年間演じたわ。もう演じ飽きた」 彩葉は男の冷たく無情な、しかしかつて彼女を無限に魅了した切れ長の目を見つめ、ついに心の底に五年間隠していた疑問を口にした。「今、後悔してるでしょう?最初に娶ったのが雫だったら良かったって」 しばらくの沈黙、抑圧、窒息―― 「当初雫を選んでいれば、確かにお前よりましだった」 蒼真の薄い唇が冷たく嘲り、「せめて彼女は息子さえいらないなんて言葉は言わない。母親なら、口が裂けてもそんな言葉は言えない!」 彩葉は再び笑った。今度は、笑顔に苦渋が滲んでいたが、それでも美しかった。 「なら離婚協議書、早く署名してね」 彩葉はスーツケースを掴み、背中を冷たく見せて去っていった。 蒼真の長身がその場に立ち、拳を握りしめ、怒りの感情を抑えた。 これが彩葉の駆け引きなのか、それとも本気なのか分からない。 だが、彼は彼女を引き留めることなどできない。彼の身分、彼の自尊心がそれを許さない。 それに、彼女が本当に離婚する勇気があるとは信じていない。 彩葉にそんな度胸はない。彼を離れたら、北都で立つ瀬もない! その時、携帯の着信音が鳴り、颯から電話がかかってきた。 「社長、氷室家にいつも納品している宝石商に連絡しました。良い品がないそうで、最新の入荷は最短でも来週だそうです。奥様のお誕生日プレゼントは、数日遅れそうです。でも急がせます」 「急がなくていい。もういらない」そう言って、蒼真は電話を切った。 本来、彼は先に彩葉に安いアクセサリーを贈って、後でまともなものを贈るつもりだった。 でもあの女は、分をわきまえず、彼が心を砕く価値もない。 蒼真は憤然とソファに座り、長い脚を組んで、クラフト封筒を開け、離婚協議書を引き出した。 その上に、きちんと「氷室彩葉」の名前が署名されている。白地に黒字が目を刺す。 次の瞬間、からんと音がした。 彩葉の結婚指輪が袋から滑り落ち、地面に落ちて、幽かな光を放った。 「つまらない!」 蒼真は舌先で頬の内側を押し、離婚協議書を粉々に破り、薄い唇を引きつらせた。「駆け引きか?俺がこんな手に乗ると思うのか?」 彩葉がリビングに着いたばかりの時、瞳真の嬉しそうな幼い声が聞こえた。 「雫おやすみ〜寝る時も僕のプレゼント付けててね〜!」 「瞳真くん、おやすみ〜」 雫の声は柔らかく甘い。子供が聞けば親しみを感じ、男が聞けば心を動かされるのだ。 「そうだ瞳真くん、今日はママのお誕生日よ。お誕生日プレゼント用意した?」 「毎日学校で、すごく疲れてるんだ。そんな暇ないよ。それにママは今日雫をいじめたし、プレゼントなんかあげないよ!」 その時、瞳真は背後から足音が聞こえた。 振り返ると、彩葉がスーツケースを引いて、足早に彼の前を通り過ぎていく。 一瞥もくれなかった。 第7話 母親が自分をいないもののように扱うのを見て、瞳真の眉がぐっと吊り上がった。 ママが帰ってきた? いつの間に?全然気づかなかった。 以前なら、ママが帰ってきたら、まず屋敷中を探し回って自分を見つけて、優しい笑顔で抱きしめて、おでこにキスしてくれたのに。 それが、雫のことを好きになってからは、自分がママと仲良くするたびに、雫がしょんぼりすることに気づいたんだ。 だからだんだんママと距離を置くようになって、ママに触られるのも嫌になった。 それでも、ママは自分を見ると、本当に嬉しそうな顔をした。 今みたいに、無関心なことなんて絶対になかった…… 「瞳真くん?まだ聞いてる?」 「雫、明日また話そうね」 そう言って、瞳真は通話を終えると、彩葉に向かって叫んだ。 「ママ!」 彩葉は足を止め、淡々と振り返った。 瞳真はソファから飛び降りると、両手を後ろに組んで、子供らしからぬ大人びた足取りで母親の前に歩み寄った。 「帰ってきたなら、教えてよ」 彩葉は黙ったまま、何の感情も読み取れない声で答える。 「雫とのお喋りを邪魔したくなかっただけよ。それでよかったのでしょう?」 瞳真は唇を噛んだ。 ママの言う通りだった。毎日楽しく雫と会って、ママの機嫌を気にしないで、思う存分お喋りできる……それが今、一番望んでる生活だ。 でも、なぜだろう。ママが今日はやけに素直で、逆に胸がザワザワする。 すごく、居心地が悪い。 瞳真は不機嫌に眉をひそめた。「ママがさ、僕が雫と仲良くしてるから、当てつけで僕とパパに意地悪してるの?」 彩葉の心に残っていた熱が、ほとんど消え去った。乾いた笑みが浮かぶ。 「これからは、彼女とどう付き合おうと口出ししない。むしろ、いつまでも仲良くできるといいわね」 だって、彼女があなたの新しいママになる人なんだもの。 「瞳真、おやすみ――さようなら」 彩葉は厳かな口調で、五年間守り抜いた息子に別れを告げる。一歩踏み出そうとしたその時、瞳真が真剣な顔で呼び止めた。 「ママ!」 決然と去ろうとしていた彩葉だったが、その幼い呼びかけに、また足を止めてしまう。 プレゼントがなくても、せめて「お誕生日おめでとう」の一言があれば、それだけで育てた甲斐があったと思えるのに。 だが次の瞬間、瞳真の言葉は、頭から冷水を浴びせかけられたかのように、彼女を骨の髄まで凍えさせた。 「今日病院で、雫がママに意地悪されて泣いたんだ。ママ、電話で謝りなよ」 彩葉が何も答えないのを見て、瞳真の口調がさらに冷たくなる。「ママ、いつも僕に言ってたよね、自分のしたことには責任を持って、勇気を出して間違いを認めなきゃダメだって。どうしてママはできないの?」 「確かに言ったわ。でも、それは本当に間違ったことをした場合よ。間違ってもいないのに、どうして謝るの?」 彩葉の瞳が冷ややかに細められる。「謝るべきは、瞳真、あなたの方よ。 今日、どうして人前で嘘をついたの?古江さんのせいにしてまで」 瞳真はママの美しくも威厳に満ちた顔を見上げ、小さな顔を青ざめさせ、狼狽えた。 ママはいつもは穏やかなのに、厳しくなるとパパにも負けないくらいの威圧感がある。そう思うと、やっぱり慌てた。 それに比べて、雫がいいよ! 何をしても応援してくれるし、何を食べたくても止めたりしない! 「ママが雫をいじめなければ、僕だって嘘なんかつかなかった!」 瞳真はフンと鼻を鳴らし、心底不服そうに言った。「普段ママが僕と雫が仲良くするのを嫌がって、いつも怒るからでしょ。僕は板挟みで、すごく辛いんだよ!」 「嘘をついたのは、彼女を守るため。でも、他に方法はあったはずよ。なのに、よりによって一番ダメで、一番卑怯なやり方を選んだ」 彩葉は目の前の息子を静かに見つめ、その眼差しが次第に冷えていく。 「本当に彼女を守りたいなら、まず自分が堂々とした立派な人間になりなさい。じゃなければ、他人を守る資格なんてないのよ」 彼女はそれ以上叱らなかった。今はもう、昼間ほどの怒りも感じていなかった。 だって、もう二度と、彼を正しく導く機会はないのだから。彼は氷室家の後継者。氷室家も、「役立たず」の自分が、選ばれた人間を教育することなど望むはずがない。 彩葉はそれ以上何も言わず、身を翻して玄関へ向かった。 瞳真はママの孤独な後ろ姿と、その傍らの大きなスーツケースを見て、唇を開きかけた。どこへ行くのか、聞きたかった。 けれど、パパに言われていた。簡単に感情を出すな、大人になれ、ママがいないくらいで泣き喚く情けない子供になるな、と。 彼はくるりと身を翻し、彩葉に背を向けた。 どうせ、ママはどこに行ったって、最後は自分とパパのところに帰ってくるんだ。 彼女には、他に行くところなんてないんだから! …… その後三日間、彩葉は家で静かに体を休めた。 氷室の父子から、電話の一本もかかってくることはなかった。 それはむしろ好都合だった。ようやく自分の時間が、静かな生活が戻ってきたのだ。毎日、家庭の雑事に振り回されて心身をすり減らし、卑屈なまでに尽くしても報われなかった日々からの解放だ。 ようやく、心置きなく研究に打ち込める。自分の好きなことに。 「お嬢、離婚協議書はもう氷室蒼真に?」 テーブルに置いた携帯から、男性の涼しい声が聞こえた。 「ええ。でも、いつサインしてくれるかは分からないわ」 彩葉は、テーブルの上の精巧な車の模型をいじりながら答える。模型とはいえ、すでにクールで目を引くフォルムだ。 「それと、もう何年も言ってるけど、お嬢って呼ばないで。恥ずかしい。あなたがそう呼ぶたび、次の瞬間、どこかの劇みたいに『おやすみなさいませ、お嬢様』って歌い出すんじゃないかヒヤヒヤするわ」 男がくすくす笑う。耳に心地よい声色には、どこか甘やかすような響きがあった。 「君が望むなら、歌ってあげるよ」 彩葉はカチカチと模型に部品をはめていく。その十指は、軽やかで美しい。 「やめてよ。あなた、超絶運動音痴なんだから。あなたの踊りを見るくらいなら、店の前で揺れてるエアダンサーの方がまだマシよ」 男は苦笑し、どこか安堵したように息をついた。「お嬢……いや彩葉、やっと元の君に戻ってきたみたいだ。毒舌で、鋭くて、冗談好きで……良かった」 彩葉の指先が、ぴくりと震えた。淡い桃色の唇に、苦い笑みが浮かぶ。 蒼真と結婚するために、海外の最高学府で博士号を取るチャンスを捨て、研究者としての夢も、交友関係も諦めた。正体を隠して氷室グループの末端社員になり、時間の無駄としか思えないような仕事に甘んじてきた。 彼女の能力と才能があれば、氷室の研究開発チームの中核にだって入れたはずだ。AI技術で氷室の新エネルギー車を革新させ、その製品を新たな高みへ押し上げることもできたのに。 だが、蒼真は、まったく彼女にチャンスを与えなかった。 最初、彼は彼女を総務部に配属した。彼女があらゆる手を尽くし、何度も懇願して、ようやくあの男は研究開発部への異動を許可したのだ。 二年間、彩葉は懸命に働き、常人なら耐えられないような職場のいじめにも耐えてきた。 すべては、いつか中核メンバーになれる日を待ち望んでいたから。 あの頃はまだ、夢を抱いていた。自分が従順で、物分かりが良くて、家庭と仕事のバランスを完璧に取れば、いつか蒼真が自分を見直してくれるんじゃないか、と。 しかし、事実は―― 彼女の努力は、すべて無駄だったのだ。 ううん、そもそも蒼真の目には雫しか映っていなくて、他の誰かが入り込む隙間なんて、最初からなかったのだ。 「彩葉、もうすぐ離婚するわけだけど。氷室蒼真は、君の本当の正体を知ってるのか?」男の不意の問いが、彼女の思考を遮った。