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プライド崩壊の夜~元妻、二人目の妊娠~
結婚して3年。二宮潤(にのみや じゅん)が最も得意とするのは、村田明里(むらた あかり)の心をえぐるような言葉を投げつけることだった。 義...
Chương (1)
第1章
結婚して3年。二宮潤(にのみや じゅん)が最も得意とするのは、村田明里(むらた あかり)の心をえぐるような言葉を投げつけることだった。
義理の両親からの風当たりが強く、恩師からも見放されかけても、明里は夫をいつか自分の真心で温められると信じていた。
しかし今日、彼女は残酷な真実を知ってしまった。なんと夫の初恋の相手は、夫の弟の婚約者だったのだ。なんて滑稽な話だろう。
潤と少しでも長く一緒にいるために、子供を産もうと考えていた明里だったが、資格がないと告げられた。さらに滑稽な話だ。
結婚記念日当日、明里はついに潤のもとを去ることを決意した。そして、研究に打ち込み、賞を目指し、国に貢献しようと心に誓った。
輝きを増す明里の周りには、優秀な男性たちが次々と現れ、言い寄ってきた。
3年後、明里が子供を連れて産婦人科から出てきたところに、潤がまるで狂ったように駆け寄り、こう言った。「明里、妊娠してたのか?」
明里は微笑み、見下ろすように言った。「私が子供を産もうと、元夫に関係あるかしら?」
第1話
村田明里(むらた あかり)は不思議でたまらなかった。昨夜、夫である二宮潤(にのみや じゅん)はベッドの上で自分を激しく翻弄した。一体どうしたっていうんだ。
そして今朝、明里は理由を知った。
潤の弟・二宮隼人(にのみや はやと)が婚約するのだ。
しかも、その女性は潤の初恋の相手だった。
つまり、潤が長年想いを寄せていた女性が、彼の弟と結婚することになるのだ。
なんとも皮肉な話だ。
昨夜、潤が自分の腰を掴み、赤い目で、まるで狂ったように何度も激しく抱いてきたことを思い出し、明里は言いようのない虚しさに襲われた。
明里が階下に降りると、既に身支度を整えた潤が出かけるところだった。
190cm近い長身は、それだけで威圧感を与えていた。
長年、高い地位にいるせいか、彼の整った顔立ちよりも、その強いオーラに目が行きがちだった。
しかし、実際は、潤の顔立ちは端正で、どんなに冷徹な表情をしていても、美男子であることは隠しきれない。
さらに、広い肩幅に細い腰、スラリと伸びた長い脚は、高級スーツに包まれ、力強さと自信を醸し出している。
二宮家の御曹司である夫は、落ち着き払っていて、常に冷静沈着であることを、明里はとっくに知っていた。
まるでこの世に、彼の感情を揺さぶるものは何もないかのようだった。
ただ一人、あの女性を除いては……
明里は胸に込み上げる苦しさを押し込め、潤を見ないようにして、ダイニングへと向かった。
潤は明里を一瞥すると、カフスボタンを直し、そのまま出て行った。
二人は一言も言葉を交わさなかった。
ドアが閉まる音を聞き、明里は苦笑いした。胸に、じんわりと痛みが広がる。
こんな冷え切った結婚生活を受け入れられると思っていたのに……
自分の気持ちはどうすることもできなかった。この男に、少しずつ心を奪われていく。
明里は朝食を食べるものの、味も分からず、ぼんやりとしていた。
スマホが鳴り、明里は出ると、席を立った。「すぐ行きます」
午後になり、明里は研究所で疲れ切っていた。
これまで息の合った岩崎凪(いわさき なぎ)と組んでいたのに、彼は突然異動になり、新しく来た田中俊介(たなか しゅんすけ)はデータ分析が苦手だった。
一人で二人の仕事を抱え、さらに心のモヤモヤも重なり、余計に疲れていた。
仕事を終え、スマホを見ると、潤からメッセージが届いていた。【今夜、屋敷へ戻れ】冷淡な短い文字だった。
隼人と清水陽菜(しみず ひな)の婚約発表だろうと明里は思った。
隼人は、潤の異母兄弟だ。
そして陽菜は、潤が忘れられない女性だった。
兄弟が同じ女性を好きになるなんて。
今夜の夕食は……きっと一触即発の空気になるだろう。
二宮家の屋敷に着いた明里は、玄関を入ろうとしたところで、角に佇む潤と陽菜を見つけた。
少し離れていたため、何を話しているのかは聞こえなかった。
しかし、潤がプレゼントの入った袋を陽菜に渡すのが見えた。
陽菜の顔は、幸せそうな笑みに満ちていた。
彼女は、守ってあげたくなるような顔を上げていた。その表情は、明里が見慣れた、か弱い乙女の表情そのものだった。
一方、潤は、この角度からは横顔しか見えないものの、高い鼻筋と引き締まった顎、そして少しだけ上がった口角が印象的だった。
明里と一緒にいる時には決して見せない笑顔だった。
明里の心は、締め付けられるような痛みを感じた。
明里は爪を手のひらに食い込ませ、視線を逸らし、階段を上った。
ヒールが石段に当たる小さな音が響いた。
その音に気づいた潤は、こちらを振り返った。先ほどの笑顔は消え、視線は冷く、表情も硬かった。
明里は潤を見ずに、ドアを開けた。
そして、潤は立ち去ろうとした。
その時、陽菜が潤に声をかけた。「潤さん、明日の午後は時間ある?隼人は彼の先生のとこに行くから、一緒に動物病院に付き合ってくれない?」
潤は低い声で答えた。「明日の午後は会議があるんだが……ちょっと確認してみる。とにかく、早く中へ入るんだ。寒いだろ」
陽菜は微笑んで言った。「潤さん、先に入ってね。隼人に電話する」
潤が去るのを見届けると、陽菜の口元に笑みが浮かんだ。それは、自信に満ちた、勝ち誇ったような笑みだった。
リビングに入った明里の耳に、嫌味な声が飛び込んできた。
「食事に来るのに、何度も催促させるなんて、どういうつもり?二宮家の嫁なら、もっと自覚を持つべきでしょう。結婚したら、家で夫を支え、子供を育て、家事をするのが当たり前なのに、外で仕事をするなんて、みっともないわ!」
明里が視線を向けると、潤の継母である九条真奈美(くじょう まなみ)がソファに座っていた。いかにも裕福な貴婦人といった雰囲気だ。
しかし、言葉は辛辣で、傲慢だった。
二宮家は大きな家業を抱えており、潤の父親である二宮湊(にのみや みなと)が亡くなってからは、潤が中心となって切り盛りしていた。
真奈美は継母であり、潤とは折り合いが悪く、当然、二宮家の財産は全て自分の息子に相続させたいと思っていた。
彼女は潤が嫌いだったし、明里も嫌いだった。
当時、湊の指示で潤と明里が結婚することになった時、誰もが村田家は二宮家には釣り合わないと思っていた。
ただ一人、真奈美だけは、この結婚を喜んでいた。
潤が身分の低い女性と結婚すればするほど、隼人が釣り合う相手と結婚して家業を継ぐのに有利になるからだ。
今の息子の婚約者には、真奈美はとても満足していた。
清水家には息子が二人いるが、娘は陽菜一人だけなので、とても大切にされていた。
陽菜の上には二人の兄がおり、二人とも彼女をとても可愛がっていた。そして、将来は隼人の助けとなるだろう。
こうして比べてみると、明里は何の取り柄もない女に見えた。だから、誰もいない時は、真奈美は遠慮なく明里に辛く当たった。
しかし、真奈美が言い終わるか終わらないかのうちに、潤が明里の背後に現れた。
彼は手を伸ばし、明里の背中に手を当て、冷たく言った。「ここで何をしている?入れ」
明里は潤の手を避け、中へ入った。
潤は握り拳を作り、指の関節が白くなった。
真奈美は立ち上がり、上品な笑みを浮かべて言った。「潤、いらっしゃい。もうすぐ食事よ」
潤は真奈美に向かって冷たく言った。「なぜリビングにいるんだ?キッチンにいるべきだろ?二宮家に嫁いできたなら、夫を支え、子育てをし、家事をするのが当たり前だろ!」
第2話
この冷淡で強引な義理の息子を前に、真奈美は一度も優位に立ったことがなかった。
潤に真正面から楯突く勇気はなく、いつも裏でこそこそと画策していた。だから真奈美は今、潤の言葉を聞くとすぐに、先ほどの明里についての自分の発言を彼に聞かれたことで、わざと意地悪をされているのだとすぐに察した。
とはいえ、別に二人の夫婦仲が良いというわけではなく、潤はただ自分の権威を誰かに逆らわれるのを許せないからだろう。
潤はかつて、和夫の圧力で明里と結婚させられた。二人の関係は形式的なものに過ぎず、潤の心には別の女性がいると噂されていた。だから真奈美は、ずっとこの夫婦がこじれるのを笑いものにしたかった。
だが、現に今の真奈美は反論する勇気もなく、気まずそうに笑いながら言った。「明里と冗談を言っていただけよ。明里は科学者だから、私も彼女が社会的に活躍して、二宮家の名を高めてくれるのを楽しみにしているのよ。台所仕事なんてさせるわけないじゃない」
その言葉には、皮肉と棘がたっぷりと含まれていた。
一言、社会的に活躍する科学者と言っても、それを成し遂げられる人はそうそういないのだから。
潤はスーツを脱ぎ、そばに放り投げると言った。「だったら聞きたいね。あなたは社会のためにどれだけ貢献して、この家にどれだけの名誉をもたらしたんだ?」
それを言われ、真奈美の顔から笑みが消えかかった。
そこへちょうど、陽菜が家に入ってきた。彼女は潤の後ろから、優しい声で呼びかけた。「潤さん、どうしたの?」
すると潤の顔から、いら立ちと険しさがすっと消え、陽菜を振り返って、「何でもない」と答えた。
そう言って彼はカフスボタンを外しながら部屋の奥へ歩いていき、明里のそばを通り過ぎる際に、「まだ突っ立っているのか?部屋に戻るぞ」と声をかけた。
そして、先に階段を上がっていった。
一方で、明里が陽菜に視線を向けると、陽菜は挑発的な笑みを返した。
先ほど潤が自分のために言葉を発してくれたのも、彼がこの継母を嫌っているからこそのことだ。
潤が一度機嫌を損ねると、誰も手がつけられない。
しかし、陽菜の「潤さん」という一言で、彼の全身から放たれていた刺々しいオーラは跡形もなく消え去った。
明里は自虐的に、陽菜と視線を交わした後、すぐに目をそらし、踵を返して階段を上がった。
彼らが去った後、真奈美は完璧な笑みを浮かべ、二、三歩前に出て陽菜を迎えた。「陽菜、早く入って。玄関は冷えるわ」
陽菜は素直に言った。「ありがとう、おばさん」
「まだ『おばさん』なんて」真奈美は彼女の髪を優しく撫でながら言った。「もうしばらくしたら、呼び方も変えないとね」
角を曲がると、階下の話し声はもう聞こえなくなった。明里は息を深く吸い込んで、自分と潤の部屋へと戻った。
すると、バスルームからシャワーの音が聞こえた。潤が入浴しているのだろう。
明里は窓際の椅子に腰掛け、眼下に広がる街の灯りを見つめていた。
そこで、スマホが鳴り、彼女は電話に出た。「凪」
凪は「ああ」と頷き、口を開いた。「午後のデータ、計算は終わったか?」
明里は人差し指でこめかみを揉みながら答えた。「終わった」
「他のデータはメールで送っておいた。これで明日は少し楽になるだろ」
「もうやってくれたの?」明里は驚いた。「そっちは忙しくないの?」
凪は言った。「まあな。あなたはこの分野のデータに慣れてないし、得意でもないだろ。計算するのも一苦労だろうから、ついでにやっておいた」
データの処理には、時に二時間もかかることがある。
データ処理が不得手な新しいパートナーのことを思い、明里は感謝の気持ちでいっぱいになった。「ありがとう。あなたも何かあったらいつでも声をかけて」
「ああ、じゃあまたな」
すると、バスルームから出てきた潤は、ちょうどその言葉を耳にした。
物音に気づいた明里が、彼の方を見上げた。
男は片手で髪を拭いていた。シャワーの湯気も彼の冷たい顔立ちを和らげることはなく、濡れたまつげでさえ、見る人にどこか鋭い印象を与えていた。
彼は腰にバスタオルを緩く巻いただけの姿で、見事に割れた腹筋が露わになり、目を引いた。
彼女が立ち上がって部屋を出ようとし、潤とすれ違う瞬間、手首を掴まれた。
「何よ」明里の声は冷たかった。「もう食事の時間よ」
陽菜に会ってからいうもの、彼女の感情も心も張り詰めたままだった。
そう言って彼女は彼の手を振り払おうとしたが、潤は明里をぐいと胸に引き寄せ、キスをしようと顔を近づけた。
明里は、彼が陽菜に向けた笑顔や、彼女にプレゼントを渡したことを思い出し、こみ上げてくるような胸やけを感じた。
明里は両手で潤の胸を支え、力いっぱい突き放した。
潤は眉間にしわを寄せ、どこか苛立った様子だった。
数秒後、彼は尋ねた。「どうした?どこか具合でも悪いのか?」
明里は知っていた。二人の間のスキンシップにおいて、潤が絶対的な主導権を握っていることを。
彼が求めれば、自分に拒否権はなかった。
その事実を思うと、明里はさらに胸が痛んだ。
潤は……自分を単なる性欲のはけ口としか見ていないだろうか?
明里は決然と彼の手を振り払った。「これから、私の許可なく、私に触れないで」
勇気を振り絞ってそう言い放つと、彼女は潤の反応を確かめずに階下へと向かった。
階下に降りると、二宮湊(にのみや みなと)の姿が目に入った。
湊は……とても幸運な男である。
若い頃は、彼の父である和夫が家業を支えていた。
そして、和夫が亡くなった後も、いや、まだ健在だった頃から、息子の潤がすでに大胆かつ迅速な手腕で後継者としての地位を固めていた。
湊には偉大な父親と優れた息子がいて、何もしなくても莫大な資産を享受できるのだ。
だからだろうか、五十代の彼は四十代前半にしか見えず、大人の優雅さと慈愛に満ちた眼差しを持っていた。
湊は明里に気づくと、手招きした。「明里、早く降りてきて食事にしよう。潤は一緒じゃないのか?」
この結婚は和夫が決めたもので、湊は昔から親孝行だった。そのため、父親が亡くなった今でも、彼は明里に対して何の不満も抱いていなかった。
明里は答えた。「彼もすぐに降りてくるから」
そこに陽菜が親しげに近づき、彼女の腕に絡みついた。「明里さん、こちらに座って」
明里は首を振り、自分の腕を引き抜いた。「この家でなら、私の方があなたを案内すべきよ」
すると、陽菜は途端に涙ぐみ、わざとらしく戸惑いの表情を浮かべた。「私、別にそんなつもりじゃ……」
傍らでそれを聞いていた真奈美は眉をひそめて口を挟んだ。「陽菜は親切で言ってるのに、あなたのその態度はなによ。この家の女主人にでもなったつもり?私をないがしろにして、礼儀知らずにもほどがあるわ」
そう言うと、彼女は湊に視線を移した。「これじゃ、これから陽菜がいじめられてしまうわ」
陽菜は、タイミングよく二度ほどすすり泣いた。
湊は頭を抱えた。「どうしていじめになるんだ?まあ、みんな座ってくれ。陽菜、泣かないでくれ……ああ、明里、早く彼女に謝ってくれ。潤と隼人を誤解させたくないだろ」
明里は陽菜に目を向けた。
陽菜は体を横に向け、他の人には見えないようにしながら、明里だけに見えるように、してやったりの傲慢な視線を送った。
二宮家に来た初日に明里を叱責させることができ、陽菜は満足気だった。
唯一の心残りは、潤がこの場面を見ていなかったことだ。
しかい明里が謝るなどするはずもなかった。
だけど、真奈美は執拗に言った。「湊さんが謝れと言っているのよ、聞こえなかったの?」
そのとき足音が聞こえ、全員が階段の上を見上げた。
潤が袖をまくりながら降りてきた。
チャコールグレーの部屋着を身につけていても、彼の気品と冷徹さは隠しきれていなかった。
潤の視線は、冷淡さと威厳をたたえながら、まっすぐに明里に注がれていた。
明里は、彼の眼差しに怒りと不満の色が浮かんでいるのを見て取った。
そうだろう、初対面から自分は潤の初恋の人を泣かせてしまったのだから。
ただ、先ほど自分にキスをしようとしたとき、彼は誰を思っていたのだろうか。
そう考えた途端、明里の胸を誰かに鷲掴みにされたように、激しく痛んだ。
同時に、吐きそうなほどの嫌気さえ覚えた。
潤の深く暗い瞳は沈んでいて、明里を擁護する言葉は一言も発しなかった。
湊は元々弱気な性格だから、息子である潤の言うことには何でも従っていたのだ。
最初は仲裁しようと思っていたが、潤の顔色を見て、彼も何も言えなくなってしまった。
真奈美は潤を好ましく思っていなかったが、それ以上に明里が嫌いだった。
同じ女なのに、自分はあれだけ苦労してやっと湊と結婚し、二宮家の一員になれたというのに、未だに潤の顔色を伺わなければならない。理不尽だ。
一方、明里はごく普通の家柄でありながら、やすやすと潤と結婚し、高い地位を手に入れた。
それに、潤と明里の関係が悪ければ悪いほど、真奈美にとっては好都合だった。
明里はというと、他のことに関しては何ひとつ恐れていなかった。
しかし、唯一、潤の疑いの眼差しだけが、彼女の心を徐々に冷えさせていった。
明里の指先が震え、唇の端に自嘲の笑みが浮かんだ。
潤が自分を愛していないことなど、とっくに分かっていた。もう慣れるべきなのだ。
それでも……やはり彼女の心は痛み、悲しみが込み上げてくる……
心はとっくに冷え切っているのに、わずかな痛みがかすかに響いていた。
彼女が湊に目をやると、彼の顔にはどこか気まずそうな笑みが浮かんでいた。
あまりにも気まずさに、湊はタイミングを見計らって口を開いた。「まあまあ、家族なんだから、早く座って食事にしよう」
明里は背筋を伸ばし、その後の食事中、一言も発しなかった。
謝る?自分は何も悪くないのに、どうして謝らなければならないのか?
陽菜は甲斐甲斐しく取り箸を使い、明里を含めた全員に料理を取り分けた。
最後に潤に取り分けようとすると、彼は言った。「そんなことしなくていいから」
陽菜は優しい声で答えた。「潤さん、すぐ食べるから安心して。ちゃんとたくさん食べるわ」
それを聞いて、明里のまぶたが微かに震えた。
隼人はまだ来ないのだろうか?
自分の婚約者が兄といちゃついているのを、何とも思わないのか?
食事が終わる頃、ようやく隼人が遅れてやって来た。
彼は自分の先生とあるプロジェクトを進めており、ここ数日多忙だった。
隼人の顔立ちは母親の真奈美に似ており、身長も潤には及ばない。全体的に軽薄な雰囲気を漂わせ、その眼差しには野心と計算高さが満ち溢れていた。
彼はが小学生の頃から、真奈美に、潤をライバルとみなし、いずれは二宮家の事業をその手に握るようにと、耳にタコができるほど言い聞かせてきた。
だけど隼人も自分の力がまだ及ばないことを自覚しているため、今まで潤に対してはいつも恭しく「お兄さん」と呼んでいた。
彼は陽菜の隣に座ると、彼女の椅子の背もたれに腕をかけ、今回のプロジェクトで得た利益と将来性について得意げに語り始めた。
真奈美はそれを聞いて、満面の笑みを浮かべた。「うちの息子は本当にすごいのよ。まだ大学も卒業していないのに、もう初仕事で大成功を収めるなんて!」
それを聞いて、明里は鼻で笑った。
これで「すごい」だって?
自分と隼人は同い年だが、こちらはすでに修士課程を終えて、社会人として働いている。
それなのに、隼人はまだ学士課程すら終えていない。
そのプロジェクトとやらも、二宮家が資金を提供したもので、誰がやっても利益が出るに決まっていた。
「初仕事で大成功」と言うなら、潤こそが本物の成功を収めてきていたのだ……
明里がふと顔を上げると、偶然にも潤の漆黒な瞳と視線がぶつかった。
今日のこの食事会は、元々、隼人が陽菜を家に連れて帰り、婚約について話し合うためのものだった。
湊がちょうど、両家の顔合わせについて話し始めたその時、カタン、と音がした。
潤が箸を置いた音だった。
明里が目を向けると、彼の表情は険しく、その瞳は墨のように黒く、まるで嵐の前の静けさのようだった。
初恋の人が実の弟と婚約しようとしている。潤は……もう我慢の限界なのだろう。
第3話
それを見て真奈美はドキッとした。
彼女はこの縁談には満足しており、当然、潤に邪魔されたくはなかった。
しかし、潤と正面から衝突する勇気もなかったので、彼の冷たい表情を無視して、湊に笑顔で尋ねた。「それなら今週末はどうかしら。隼人にまず贈り物を持って陽菜の家へ行かせて、その後、両家で食事をするの」
湊が頷いた途端、明里のスマホが鳴った。
彼女は慌てて電話に出ると席を立ち、食卓の皆に軽く手を振って席を外すことを示しながら言った。「凪、どうしたの?」
柔らかな口調で、その目元は美しかった。
そして、彼女は電話をしながら、遠ざかっていた。
その声を聞いて、潤は訝しげに明里の方を見た。
真奈美は、「忙しいことね」と呟いた。
陽菜が顔合わせの話を続けようと口を開いた。「食事の時は、潤さんも一緒に来てね」
潤は頷くと、おしぼりで手を拭き、そして何も言わずに立ち上がって、長い脚で外へと歩き出した。
湊が彼を呼び止めた。「どこへ行くんだ?まだ食事の途中だろう!」
陽菜もまた、彼を呼んだ。「潤さん!」
潤はようやく振り返った。「気にするな。食事を続けてくれ」
一方で、明里が電話を終えて戻ってくると、潤の姿はもうなかった。
陽菜が目を赤くして言った。「潤さんはこの縁談に反対だから、怒って帰ってしまわれたのかしら?」
そうよ、初恋の人が実の弟と結婚するんだもの。彼が何も思わないわけがない。
明里は胸がさらに締め付けられるように痛くなり、テーブルの上の料理を見つめる視界が霞んでいった。
隼人が口を挟んだ。「そんなわけないだろ。それに、俺の結婚だ。彼に口出しされる筋合いはない」
食卓の面々は、入れ代わり立ち代わりと陽菜を慰めた。
皆が話し終えるのを待って、明里は言った。「私はこれで失礼するね。皆さんごゆっくりどうぞ。婚約の日取りが決まったら教えて。お祝い準備するから」
陽菜は穏やかな表情で彼女を見つめ、その眼差しには勝者の笑みが浮かんでいた。「ありがとう、明里さん」
明里は陽菜を数秒見つめた後、背を向けてその場を去った。
先ほどのデータに問題があったこともあり、明里は心が乱れ、いっそのこと研究所へ戻ることにした。
あるデータがおかしいことに気づき、彼女は無意識に凪に尋ねようとした。
しかし、一瞬止まった後、彼が昨日付けで異動になったことを思い出した。
いろいろ片付けて、仕事が終わる頃には、もう夜の十一時近くだった。
明里はまだ、あの複雑な数式のことを考えており、階段を降りる際に足元への注意が疎かになり、足を捻って転びそうになった。
その衝撃で彼女は足を引きずり、地面に足が着くたびに痛みが走るため、タクシーで帰宅するしかなかった。
結婚後、明里と潤は雲海レジデンスに住み、週末だけ二宮家の屋敷に戻っていた。
K市で最も高価な不動産の一つであり、土地の値段は非常に高かった。
彼らが住んでいるのは高級住宅街で、あたりは静かで、見晴らしも良かった。
そのため、一面ガラス張りの窓のそばで酒を飲んでいた潤は、玄関にいる明里の姿がすぐに見えた。
その時、時刻はすでに夜の十二時になろうとしていた。
タクシーで移動する間に少し落ち着き、明里の足の痛みはそれほどでもなくなっていた。ゆっくりと地面に足を下ろしてみると、何とか歩けそうだった。
彼女はゆっくりと歩き、足首を捻挫したとはほとんど分からないほどだった。そして、庭を通り、家のドアを開けた。
中に入った途端、手首を掴まれ、そのまま玄関の壁に押し付けられた。
潤は全身から酒の匂いをさせ、何も言わずに、顔を傾けてキスをしてきた。
明里が両手で彼を押しのけようとしたが、その両腕は頭の上で押さえつけられてしまった。
力において、男女差は歴然としていた。
結局、明里は抵抗を諦めるしかなかった。
どれほどの時間が経ったのか、男はようやくそのキスをやめた。
彼は背筋を伸ばし、明里を見下ろした。
激しくキスをされたせいで、明里の髪は乱れ、瞳は潤んでいたが、その眼差しは冷ややかだった。
潤が口を開いた。その声は低く魅力的だったが、温度は感じられなかった。「なぜこんなに遅いんだ?」
潤の冷たい視線を受け、明里の唇はまるで重く貼りついたかのように動かず、何も言えなかった。
そう、潤の初恋の人が婚約するのだ。彼が平気でいられるはずがない。
だがなぜ自分が八つ当たりを受けないといけないんだろう?
彼女は彼を突き放し、歩き出そうとした。だが、一歩踏み出した途端、足首に激痛が走った。
明里は息を飲み、体がぐらついた。その瞬間、潤がとっさに彼女の腰を支えた。
彼の声には、わずかながら心配の色が滲んでいた。「足をどうした?」
次の瞬間、潤に抱き上げられ明里は思わず声を上げた。
「怪我をしているなら、強がるな」
潤は硬い表情のまま、明里を寝室へと運んだ。
彼女を寝室に下ろすと、すぐに踵を返して電話に出るために部屋を出て行った。
明里は深く息を吸い、力がぬけたように笑った。
彼女はベッドから降りると、ゆっくりとキッチンへ向かい、氷を取り出した。そして、洗面所でタオルを探した。
新しいタオルは棚にあるはずだったが、開けてみても見当たらず、いくら探しても見つからなかった。
痛みをこらえながら、あちこち探し回ったが見つからず、明里は仕方なく使い古しのタオルで氷を包み、怪我した箇所に当てた。
寝室のドアは開いたままになっており、数分後、部屋のドアをノックする音が聞こえた。
潤が医師を連れて入ってきて、言った。「彼女の骨が傷んでいないか診てください」
幸い骨に異常はなく、ただの捻挫だった。冷やした後、湿布を貼れば、明日には大体良くなるだろうとのことだ。
医師を見送ると、また潤のスマホが鳴った。彼は穏やかな声で話し始めた。「陽菜、さっきは……」
話し声は足音と共にどんどん遠ざかり、次第に聞こえなくなった。
さっき潤が電話していた相手は、陽菜だったのね……明里はそう悟った。
彼女の心の奥が、鋭いものでチクリと刺されたような痛みが走った。
一方で潤は電話の向こうの声に耳を傾けながら、寝室の方を見つめて言った。「分かった」
翌日、明里は一日中研究所にこもり、帰宅しようと立ち上がった時、足首にまだ違和感があることに気づいた。
彼女はゆっくりと歩いて足を慣らし、少し回復したのを確認してから、車で帰宅した。
家に着いたのは、またしても夜の十一時近くだった。
明里はシャワーを浴びてすぐにベッドに横になると思考回路が混乱していたが、無理やり目を閉じた。
明日もやるべきことは山積みなのだ。
足音が聞こえてきたが、明里は身じろぎもしなかった。
するとマットレスが軋み、続いて、背中が熱い胸板に押し当てられた。
男は明里の肩を抱き寄せ、その大きな手は腕を滑り降りて、彼女の華奢な腰を掴んだ。
しかし、明里は彼の手を掴んだ。「今日は、そういう気分じゃ……」
潤は眉をひそめた。「生理か?月末のはずだが?」
「生理じゃない」明里は目を閉じた。「したくないの」
「だが、俺はしたい」
第4話
明里には、潤が落ち込んでいる理由が分かっていた。おそらく、陽菜の婚約が関係しているのだろう。
だがその事実に彼女の胸はさらに締め付けられ、いっそ潤の手を振りほどくと、ベッドから降りた。「今夜はゲストルームで寝る」
潤は何も言わず、ただ明里の手首を掴んでベッドに引き戻した。
「潤、やめて」明里は目に涙を浮かべながら言った。「私の気持ちも、少しは尊重してくれない?」
「俺はお前の夫だ。今、お前を抱きたい。だったら、お前も俺を尊重してくれないか?」
「今まであなたの好きにさせて、私が逆らったことなんて一度でもあった?」
二人の体は密着していたが、室内の空気は凍え切っていた。
潤はフッと冷ややかに笑うと、不快感を露わにした目で言った。「明里、俺とセックスするのが、そんなに苦痛か?」
その言葉を聞いて、明里は目を閉じ、涙が静かに頬を伝った。
-
バスルームからシャワーの音が響いてくる。明里は数秒間呼吸を整えてから、立ち上がってゲストルームへ向かった。
その数日間、明里はゲストルームで寝泊まりし、潤は彼女に会いに来なかった。
やがて土曜日になった。その日は二宮家と清水家の両家顔合わせの日である。
潤は明里に時間と場所をラインで送ったが、約束の時間が近づき、清水家の両親が到着しても、明里は姿を見せなかった。
潤は立ち上がると、慌てる素振りもなく袖口を直し、すらりとした立ち姿で言った。「電話してくる」
陽菜も立ち上がり、「私も様子を見てくるね」と言った。
潤は料亭の入り口で電話をかけたが、やはり誰も出なかった。
そこへ陽菜がやって来て、小声で尋ねた。「潤さん、明里さんは……もしかして、私のことが気に入らないのかしら?」
潤は内心の不快感を抑え、優しく言った。「そんなことないよ、陽菜。考えすぎだ」
「でも、なんだか悲しい」陽菜は目に涙を溜めて彼を見つめた。「潤さん、私……少し怖いんだ」
潤は尋ねた。「何が怖いんだ?」
「隼人が、婚約したら屋敷で一緒に暮らそうって。でも……」陽菜はそこまで言うと、潤を見上げた。その瞳には、彼に縋るような色が浮かんでいる。「潤さん……明里さんと一緒に、あの家に戻ってきてくれない?」
それを聞いて、潤の目元がピクリと動いた。
彼は陽菜を温かい眼差しで見つめ、小さく頷いた。「わかった」
明里が車を停める前に、その光景が目に飛び込んできた。
女は満面の笑みを浮かべ、寄り添うように、熱っぽい視線で潤を見つめていた。
そして潤はわずかに身を屈め、口元に笑みを浮かべ、その眼差しは優しさに満ちていた。
明里は車を停めると、二人のほうへ歩いていった。
「なんでこんなに遅いんだ?事故にでもあったかと思ったぞ」潤は眉をひそめて言った。「電話にも出ないし」
明里も不機嫌な声で答えた。「渋滞に巻き込まれていたの。スマホはマナーモードにしていたから、気が付かなかった」
そう言うと彼女は陽菜を一瞥したが、その視線は険しかった。
陽菜は笑顔で言った。「明里さん、来てくれてよかった。早く中に入ろう、みんな待ってるわ」
明里はそれ以上何も言わず、先に料亭の中へと入っていった。
陽菜と潤が一歩後ろを歩く姿は、傍から見ればまるで夫婦のようだった。
全員が揃い、挨拶を交わした後、両家は婚約についての話し合いを始めた。
明里はまるで部外者のように、ただ黙々と自分の食事を進めるだけだった。
すると突然、陽菜の声が聞こえた。「潤さんたちも戻ってきてほしいな。その方が、みんなで暮らせて賑やかになるし」
それを聞いて明里はハッと顔を上げた。
そもそも、自分と潤が結婚した時、家を出て二人で暮らしたいと言い出したのは潤の方だった。
正直なところ、夫婦二人だけで暮らす方が、間違いなく気楽で快適だ。
二宮家の屋敷に戻る?
冗談じゃない。
湊はまだしも、真奈美は継母、隼人は義理の弟だ。おまけに、陽菜もいる。
彼女は潤の初恋の人なのだ。
これから、彼女と同じ屋根の下で暮らすなんて。
明里は思わず潤を見た。
その場にいる全員が、彼の答えを待っていた。
明里は箸を置いた。
潤は間髪入れずに答えた。「わかった」
その答えに明里は思わず眉をひそめた。
了承した?
どうしてこんなにもあっさり了承したんだ?
自分に一言の相談もなしに?
屋敷に戻ったら、また二人は同じ部屋で寝ることになる。
真奈美はもちろん潤が戻ってくることを望んでいなかったが、彼女は明里をちらりと見て、にやりと笑った。「それもいいわね。それに、もし明里が妊娠したら、私が面倒を見てあげられるし」
しかも、子供を作るかどうかについても、二人の間では既に話がついていた。
いや、正確には潤が一方的にそう通告してきただけだ。
当分子供は作らない、と。
それなのに、真奈美はなぜ妊娠の話など持ち出すのだろう。
陽菜は嬉しそうに言った。「潤さん、明里さんと戻ってきてくれたら、話し相手ができて本当に嬉しい!」
それもそうか。陽菜は潤にとって特別な存在なのだから、彼女の頼みを断れるわけがないのだ。
それに、陽菜と一緒に暮らすことは、おそらく彼にとっても願ってもないことなのだろう。
明里の意見は、完全に無視されていた。
いや、むしろ、この食卓で彼女のことなど気にかけている者など、一人もいなかったのだ。
そうだろう。家柄も後ろ盾もなく、夫も味方になってくれない。誰が自分を尊重するというのだろうか。
たとえ自分が嫌だと言ったところで、誰が耳を貸すだろうか?
この食事会は、明里を除いては、誰もが満足のうちに終わった。
帰り際、陽菜はにこやかな笑顔で顔を上げ、潤を見つめた。「潤さん、早く引っ越してきてね!」
潤は答えた。「うん、明日には引っ越していくよ」
それを聞いて、明里は息を深く吸い込んで、自分の車に向かおうとした。
だが、その手首を掴まれた。他の人々はもう去り、残っているのは潤だけだった。
彼は彫りの深い顔を無表情にこちらに向けた。「俺の車に乗れ」
「自分の車で来たから」明里は彼の手を振りほどいた。「それと、引っ越しは反対よ。戻りたいなら、あなた一人で戻ればいいじゃない。どうして私も一緒に行かなきゃいけないの?」
屋敷に戻れば、彼女は潤と同じ部屋で寝るしかない。
大勢の目がある前で、彼と別々に寝るためにゲストルームを使うことなどできるはずもない。
「どうしてだと?」潤は彼女を見下ろした。「お父さんの手術費用を払ったのが俺だから。お前の実家を買ったのも俺だから……」
それを聞いて、真っ青になった明里の顔を見て、潤はすぐに顔を背けた。「これで納得できたか?」
一方で明里は潤の言葉に指先を震わせ、心の一部がガラガラと音を立てて崩れていくようだった。
彼女は目を閉じ、離婚の考えが強く頭に浮かんだ。
この結婚生活を、もうこれ以上続けるのは無理だ。
長い沈黙の後、明里は言った。「納得よ。あなたの言う通りにする。引っ越すよ」
そう言うと、彼女は踵を返して歩き去った。
闇の中に佇む潤の姿は、鋭く、真っ直ぐだった。
明里は家に帰ったが、シャワーを浴びる気にもなれなかった。しかし、それ以上に潤と顔を合わせたくなかった。
明里は子供の頃から優等生で、特に理数系が得意だった。思考は常に緻密で論理的だ。
だからこそ、普通のことなら大抵制御不能なリスクは回避できるはずだった。
だが、彼女は自分の心だけは制御できなかったのだ。
潤を愛することが後戻りのできない道だと知っていながらも、かつての彼女は抗うことなく、のめり込んでしまった。
潤自身の持つ資質はすでに卓越しており、それに加えて、彼は舌を巻くほどの巨大なビジネス帝国を築き上げていた。
これほど成功し、独特のカリスマ性を持つ男に、女性が我を忘れてしまうのも無理はない。
明里も例外ではなかった。
彼女は良き妻であろうと努め、従順な女を演じてきた。
しかし、結局……彼は自分に目もくれなかった。
ならば、もうきっぱりと諦めよう。自分自身の人生を歩むべきだ。
そう決心すると、明里はゲストルームに閉じこもった。
おそらくこれが、彼女に残された最後の自由であり、ささやかな抵抗だったのだろう。
翌朝、アラームの音で目を覚ました明里は、ベッドの上でしばらくぼんやりとしてから、ようやく起き上がって身支度を整えた。
彼女がゲストルームから出ると、意外にもまだ潤がいた。
男は朝のジョギングから帰ってきたばかりのようで、グレーのスポーツウェアに身を包み、髪は自然に下りている。普段の冷徹な雰囲気とは違い、どこか少年のような朗らかさがあった。
明里はそっと視線を逸らした。
「今日の午後、荷物をまとめろ」潤は言った。「そしたら、引っ越そう」
そんなに急いでいるのか。
まあ、初恋の人が待っているのだから、当然か。
「午後は予定があるの」明里は彼が眉をひそめるのを見て、続けた。「夜にするから」
潤は尋ねた。「手伝おうか?」
明里は首を横に振った。
潤はそれ以上何も言わず、二階へと上がっていった。
明里は食事を終えて研究所へ向かい、デスクに着いた途端、入口からひょっこりと顔を覗かせる者がいた。
第5話
明里は手招きをした。「おいで」
すると、吉田菜々子(よしだ ななこ)は笑顔で駆け寄ってきて、手に持っていた差し入れを明里に差し出した。「ほら、あげる」
菜々子も研究所に勤めているが、彼女は核心的な内容には触れることができない立場だった。
「ありがとう」明里は菜々子から差し入れを受け取りと座らせた。「数日休んで、どうだった?」
菜々子は家の用事で、数日間休みを取っていたのだ。
彼女は頷いた。「全部片付いたよ」
二人はしばらく話していたが、やがて菜々子は明里を見て、何か言いたそうにもじもじしていた。
明里は彼女にお菓子を渡した。「これ美味しいから食べてみて。何かあるならはっきり言ってよ、なんでそんなに言いづらそうにしてるの」
菜々子は俯いた。「私、昨日、潤さんを見かけたの」
明里はきょとんとして、少し意外に思った。「どこで見かけたの?」
潤は普段会社にいるし、たとえ外出しても、会員制の場所に行くことがほとんどだったからだ。
「ペットショップで」菜々子は彼女の顔色をうかがった。「陽菜さんと一緒にいて、二人は……恋人みたいだった」
陽菜はポメを飼っていて、可愛らしくてきれいな犬だった。
菜々子は明里の顔色が悪いのに気づき、さらに言葉を続けた。「こういうこと、私もあなたに隠したくなくて。明里、あなたたちが結婚してもうこんなに経つのに、彼、どうしてまだ……どうしてあんなことができるの?」
明里は何も言わず、顔は真っ青で、まつげが微かに震えていた。
菜々子は眉をひそめ、彼女の手を握った。「明里、あなたはこんなに素敵な人なのに、どうして……」
明里は微笑んだ。「菜々子、大丈夫。全部知ってるから。数日休んだんだから、仕事がたくさん溜まってるでしょ。早く仕事に戻って」
「じゃあ、お昼は一緒に食べよう」
昼食の時、菜々子はあれこれと話しかけてきたが、明里は何も耳に入らなかった。
菜々子はとうとう諦めてため息をつき、彼女に尋ねた。「何か悩みでもあるの?私に話してくれない?」
明里は菜々子を見つめ、どこか途方にくれたような目をしていた。「菜々子、あなたは私を……どう思う?」
「それは素晴らしいと思ってるに決まってるでしょ!」菜々子はためらわず、心から彼女を褒めた。「あなたほど優秀な人、私は見たことないよ!」
「違うの、専門分野のことについて」
「専門分野?それだって十分すごいじゃない!」菜々子は言った。「研究所で一番若いのに、このプロジェクトは最も重要視されてる。あなたの代わりにできる人なんていないんだから」
明里は首を振った。「私はそんなにすごくない。それにいろいろ至らないところも沢山あるし」
「それは仕方ないよ。完璧な人なんていないんだから」
「菜々子、私、博士課程に進みたいの」
菜々子は驚いた。「あ、あなた……やっと吹っ切れたの?」
明里は十六歳ですでに、トップレベルの物理学科を有する名門大学に受かっていた。
その後、教授である・高田健太(たかだ けんた)に才能を見出され、自身の優秀な成績もあって、同大学の大学院に推薦され進学した。
大学院を卒業する年、健太は彼女に博士課程への進学を勧めたが、明里は断った。
結婚することになったからだ。
彼女のその決断に健太は激怒し、彼女を自己中心的だと罵り、恋愛のことしか頭になかったのかと叱責した……
この二年間、明里が研究所で上げた実績は誰もが認めるところだが、それは健太の期待には遠く及ばなかった。
明里もまたずっと健太の指導を無駄にしてしまったと感じて、連絡を取る勇気もなかった。
しかし、最近になって……
彼女の、恋愛一色だった心が、学問の道へと揺れ動き始めたのだ。
離婚して、再出発する。そして、自分の心に従い、好きな専門分野を追求するのだ。
明里はうなずき、静かに、「うん」と返事をした。
菜々子は彼女をよく知っていた。明里は普段、穏やかで話し方も優しいが、一度決めたことは、非常に頑固に貫き通すタイプなのだ。
そして、誰にもその決意を変えることはできないのだ。
菜々子は言った。「いいことじゃない。高田先生は学術界の権威だし、彼に付いていくならたくさんのことを学べるよ」
「ただ……先生がまだ私を受け入れてくれるか分からない」
「受け入れてくれないわけないじゃない!」菜々子はそう言ってから、暗い表情になった。「私みたいなのは先生もいらないでしょうけど、あなたみたいな優秀な人は、みんなが欲しがるに決まってるよ」
明里は彼女の手を握った。「何言ってるの?あなたも私も同じよ、あなただってすごく優秀じゃない!」
菜々子は笑った。「明里、頑張ってね!いい知らせを待ってるから!」
だが、二人がそれぞれのプロジェクトチームに戻ると、菜々子の顔から笑顔が消えた。
一方で、明里はそのような決断を下した以上、もうためらわず、オフィスに戻るとすぐに健太に電話をかけた。
しかし、相手は電話に出なかった。
となると、明里もそれ以上電話をかける勇気がなかった。
先生がまだ自分に腹を立てているのではないかと怖かったからだ。
やはり、直接会いに行くべきなのだろう。
午後五時過ぎ、彼女は潤からメッセージを受け取った。たった一言、【戻ってこい。引っ越すぞ】と。
明里は手元の仕事に目をやり、彼に返信した。【戻れるのは、たぶん二時間後くらいになる】
彼女がスマホを置き、仕事に戻ろうとした途端、また着信音が鳴った。
手に取って見ると、陽菜がグループチャットを作り、二宮家の全員を招待していた。
そして彼女は一枚の写真をグループに投稿し、さらに明里を個別にメンションした。
【明里さん、潤さんの荷物はもう全部運んできたよ。あなたはいつ来るの?】
写真は明里と潤の部屋で撮られたもので、潤が洗面用具を置いているところだった。彼のその手は、陽菜が撮ったものだ。
彼女はそれを家族のグループチャットに投稿し、公然と見せつけた。
それを見た明里は力がぬけたように笑い、再びスマホを脇に置いた。
仕事を終えたのは八時近かった。彼女は急いで荷物をまとめ、雲海レジデンスに戻った。
実際、荷造りするものはそれほど多くなく、洗面用具と普段着る服が数着だけだった。
明里は小さなスーツケースに荷物を詰め、そして二宮家の屋敷へと向かった。
車を停め、トランクから荷物を取り出そうとすると、突然、一連の子犬の鳴き声が遠くから近づいてきた。
ポメはとても美しい犬種で、ふわふわの白い毛に覆われ、まるで子狐のようだった。
体も大きくなく、小さくて可愛らしい。
しかし、このポメは明里に向かって激しく吠え立て、声は明らかに拒絶と敵意に満ちていた。
明里はもともと小動物が好きだったが、これほど激しく吠えられると、さすがに動けなくなってしまった。
明里が動かないでいると、ポメはますます激しく吠え、距離を詰めてきた。その凶暴な様子に、彼女は思わず一歩後ずさった。
だが、明里が後ずさった途端、ポメは突然飛びかかってきて、彼女に噛みつこうとした。
明里は驚き、本能的に足を上げてそれを蹴り飛ばした。
ポメはもともと小型犬で、重さは三キロほどだった。明里の一蹴りで、数歩後ろに飛ばされた。
彼女はそれ以上攻撃してこないようにと、力を加減したつもりだった。
「モモちゃん!」
明里が顔を上げると、陽菜が駆け寄ってくるところだった。
彼女の後ろには潤がいて、冷たい視線をこちらに向けていた。
陽菜はポメを腕に抱きしめ、まず心配そうに全身を確かめてから、目を赤くして明里を見た。「明里さん、私に何か不満があるなら直接言って。モモちゃんはこんなに小さいのに、蹴り飛ばされたら死んじゃうでしょ?」
明里は胸を押さえ、まだ動悸が収まらなかった。
彼女はポメが突然襲いかかってくるとは思ってもみなかった。普通、このようなペット犬が自ら人を攻撃することはまずない。
犬は大きくないが、飛びかかってきたときは、やはり怖かった。
明里は震える声で口を開いた。「噛みつこうとしてきたの」
潤が大股で近づいてきた。「ただの子犬じゃないか。明里、いつからそんなに臆病になったんだ?」
陽菜は二人が話しているのを見て、すぐにポメを抱きしめて潤に寄り添った。「潤さん、今はそんなこと言わないで、早くモモちゃんを病院に連れて行って!」
それを聞いて、明里は一人でスーツケースを引きずって屋敷に入った。
彼女は自分の荷物を片付け、シャワーを浴びてからベッドに横になった。そして少し考え、さらに横に十センチほど移動した。
幅二メートルの大きなベッドで、明里が占めるスペースは三分の一にも満たなかった。
どれくらいの時間が経ったか分からないが、潤が戻ってきた。彼がベッドでおとなしく眠る彼女を見ると、表情はいくらか和らいでいた。
しかし次の瞬間、明里がベッドの端できちんと横になっているのを見て、自分と意図的に距離を置き、はっきりと境界線を引いていることが分かった。
すると、潤の顔つきは、とたんに険しくなった。
彼もベッドに横になると、明里に背を向けた。二人の間には、もう一人寝られそうなほどの距離が空いていた。
明里は目覚ましが鳴るまでぐっすり眠った。
以前、二人が雲海レジデンスにいた頃、彼女は潤が朝何時に起きるか知らなかった。
とにかく目を覚ます頃には、潤はほとんどの場合もういなかったからだ。
しかし今回は、明里が目を開けると、少し様子が違うと感じた。
腰のあたりが熱い。潤の手のひらが素肌に触れているのだ。
そして彼女が触れていた肌は、硬すぎず柔らかすぎず、極上の手触り……それは潤の胸だった。
明里が目を開けると、潤のたくましい胸筋が目に飛び込んできた。
そして顔を上げると、男と目と目が合った。
明里は急に恥ずかしくなり、すぐに彼を突き放そうとした。
しかし、潤は明里の手を掴むと、そのまま彼女を自分の下に押さえつけた。
明里は一瞬にしてパニックに陥った。「何するの?」
だが、相手は何も答えなかった。
彼女にとって、夫婦の営みは情と愛の結合であるべきだと考えていた。
しかし、愛情のない親密な接触は、獣と何が違うというのか?
だが、どうやら潤にとっては、情と欲は完全に切り離せるもののようだった。
明里は潤のキスをされるがまま受け入れたが、その瞳はひどく冷え切っていた。
潤も動きを止め、その目は一見淡々としていたが、秘められた鋭さは彼女を容赦なく突き刺した。
「なんだその表情は?俺と結婚しておいて、誰かのために操でも立てるつもりか?」
そう言い残し、彼はベッドから降りて浴室に入っていった。
明里は数秒間静かにしてから、手を伸ばして布団を引き寄せ、自分の体を覆った。
自分は彼にとって一体、何なのだろう?
妻という存在は、彼にとって一体何なのだろうか?
どうでもいい相手ってことか。
おそらくそれはただ、潤の心に自分がいないというだけのことなのだろう。
二宮家の朝食は、家族全員で一緒に食べるのが決まりだった。
明里が階下に降りてくると、食卓は和やかな雰囲気に包まれていた。
しかし、彼女の姿を見ると、陽菜はすぐに緊張した様子を見せた。「明里さん、お、お願い、モモちゃんを蹴らないでもらえる?お願い」
第6話
不思議なことに、陽菜がそう言った途端、明里の姿を確認したポメはすぐに吠え始めた。
陽菜は慎重にポメを抱き上げ、伏し目がちに、「モモちゃんを先に外に出すね」と言い続けた。
彼女はすぐにポメをドアの外に出し、そしてまた中へと戻ってきた。
明里は既に席についていた。
湊がその場を取り繕うように言った。「明里が来たばかりで、モモちゃんもまだ慣れていないだけだよ。数日もすれば吠えなくなるさ」
一方、真奈美は、「不思議なものね。他の人には噛みつかないのに、明里にだけ噛みつくなんて」と言った。
隼人も相槌を打った。「そうだ、モモちゃんは普段お利口なのにな」
陽菜は明里を一瞥してから、おずおずと口を開いた。「聞いた話だけど……犬って鋭いんだって。誰が善意を持っていて、誰が悪意を持っているのか感じ取れるらしい。明里さん、モモちゃんを嫌わないで、モモちゃんはとってもいい子なんだよ!」
明里は本来、何も言い返すつもりはなかった。しかし、陽菜のその言い方を聞いて、これ以上我慢する必要はないと決めた。「モモちゃんに会ったのは初めてで、私は何もしていないのに噛みつこうとしてきたわ。どちらかといえば、飼い主のしつけがなっていないのを責めるべきじゃないかしら」
陽菜の目はすぐに赤くなった。「明里さん、でもモモちゃんは今まで一度も人に噛みついたことなんてない。本当にいい子なの……」
だが明里は引かなかった。「庭に防犯カメラがあるでしょ。モモちゃんが私に襲いかかってきたかどうかは、調べればすぐに分かることよ……」
「もういい」
明里が言い終わらないうちに、潤が口を挟んだのだ。
そして、彼の冷ややかな視線が明里に向けられ、その眼差しは不快感に満ちていた。「食事にしろ」
潤の一声で、誰もそれ以上何も言えなくなった。
しかし、ただ一人、明里だけが悔しい思いを押し殺していた。
そんな状況で彼女は食欲など湧くはずもなく、すぐに立ち上がった。「みなさんごゆっくり。私は先に失礼するから」
それを聞いて、潤の指が、箸を強く握りしめた。
数分も経たないうちに、彼も席を立った。「じゃ、俺もこれで」
すると陽菜もさっと立ち上がった。「モモちゃんが心配なので、様子を見てくる」
潤が車を出すと、陽菜がポメを抱いたまま、目を赤くして門の前に立っているのが見えた。
彼は車の窓を下ろし、口を開いた。「安心しろ、誰にもモモちゃんを傷つけさせたりしないから」
陽菜は素直に頷いた。「はい、分かった。潤さん、運転気をつけてね」
潤が去った後、陽菜はポメの毛並みをゆっくりと撫でながら、そっと微笑んだ。
明里は研究所に着くと、まず自分の手元の仕事を片付けてから、チームリーダーに休暇の申請をしに行った。
昨夜のうちに、彼女は健太の妻・岩崎智子(いわさき ともこ)にメッセージを送り、今日、健太は講義がなく、午前中家にいることを確認していた。
明里はこれから訪問しようとしていた。
明里が訪ねていくことを聞くと、智子はとても喜び、昼食に誘ってあげた。
K大は国内のトップレベルの大学であり、近年、物理学と化学の分野で目覚ましい発展を遂げ、数ある大学の中でも群を抜く存在となっていた。
明里は、智子が好きなチェリーとマンゴーを買った。
マンションの下に着くと、彼女はバッグを斜めがけにし、果物の入った袋を持った。
すると、ふと手が軽くなり、顔を上げると、そこには慣れ親しんだ姿があった。
「俺が持つよ」
男はそこに立っているだけで、降り注ぐ陽の光が彼の周りに柔らかな光輪を描いていたようだ。
すらりとした長身で、気品が漂っている。
高橋拓海(たかはし たくみ)は、容姿端麗で、穏やかで謙虚な、とても優れた男性である。
黒いカシミアのコートが、彼の気高さを一層際立たせていた。
「……先輩」明里はそう声をかけると、彼の手から荷物を取り返そうとした。「一つ持ちます」
「いいよ」拓海は明里の手をすっとかわした。「行こう。先生も智子さんも待ってる」
「先輩、私が今日来ること知ってたんですか?」
「昨日の夜、智子さんから電話があったんだ」拓海は彼女に目を落とし、伏せられたまつげが多くの感情を隠していた。「あなたを説得してくれって」
明里は黙っていた。
実は、彼女は大学院を卒業し、キャンパスを離れてからというもの、健太に会う勇気がなく、拓海にさえ会っていなかったのだ。
明里が黙っているのを見て、拓海は口を開いた。「考えすぎないで。今は……あなたをただの後輩として見てるから」
明里は彼を見上げた。その瞳は澄み渡り、明るく輝いていた。
拓海は顔をそらした。「なんだよ。恋人になれなかったからって昔のよしみもなくなってしまうのか?」
それを聞くと、明里はつんと鼻の奥が痛くなり、口を開いた。「先輩、ごめんなさい」
「なんであなたが謝るんだ?」拓海は優しく笑った。「泣くなよ。智子さんに見られたら、俺が怒られちゃうだろ」
かつて、明里は彼の告白を断り、その後結婚してからは連絡を取っていなかった。
今こうして再会した拓海は、堂々としており、穏やかで自然体だった。
その態度に、明里も心が落ち着いていくのを感じた。
二人が健太の家のドアをくぐると、智子が温かく迎えてくれた。「まあ、来てくれたのね。手ぶらでよかったのに」
健太は真の研究者で、真面目で、才能を重視し、少し融通が利かないところもある人物だった。
彼は明里を三年間指導し、彼女の高い才能を認め、さらに研究を深めさせたいと願っていたが、まさか結婚してしまうとは思ってもみなかった。
しかし、こうして明里が戻ってきたことは、皆にとって喜ばしいことであった。
食事は和やかな雰囲気で進み、帰り際に健太は明里に数冊の本を手渡し、よく読んでおくようにと伝えた。
拓海は彼女と一緒に帰り、マンションの下に着いてからようやく口を開いた。「そろそろ、俺のことブロックリストから出してくれないか?」
それを言われると、明里は恥ずかしさと気まずさで顔を赤らめた。「先輩、あの時は……」
「あなたのせいじゃない」拓海は軽く笑った。「もう終わったことだよ。俺にも、好きな人ができたしね」
明里の目がぱっと輝いた。「好きな人ができたんですか?」
拓海は彼女の美しく澄んだ瞳を見つめ、頷いた。「うん。好きな人ができたんだ」
明里はすぐにスマホを取り出して操作すると、言った。「それならよかったです。先輩もお幸せに!早くお相手の方に会わせてくださいね!」
拓海は手を伸ばし、彼女の頭を撫でようとしたが、途中で自制するようにその手を引っ込めた。「ああ。アキ、幸せになるよ」
アキとは明里の幼い頃からの愛称で、知る人はごくわずかだ。
「うん!」今度の彼女の笑顔は、心からリラックスした、嬉しい笑顔だった。「もうブロックしませんから」
明里の車が走り去るのを見送ると、拓海は視線を戻し、スマホを取り出して電話をかけた。「金は振り込んだ。確認しておいてくれ」
彼と別れた後、明里はかなり上機嫌で研究所に戻った。
午後の仕事が終わり、菜々子が彼女を訪ねてきた。明里のウキウキした様子を見て、尋ねた。「学校に帰ったの?どうだった?」
「決めたの。もう出願もしたし、高田先生から本も何冊かいただいた。それに、先輩にも会ったの」
「先輩?」菜々子はきょとんとした。「もしかして、高橋先輩?」
「そうよ」明里は微笑んだ。「久しぶりに会った」
菜々子は彼女に寄り添い、小声で尋ねた。「それで、彼は……まだあなたのことが好きなの?二人で会って、気まずかったりしない?」
明里は慌てて言った。「何言ってるの。彼も好きな人ができたのよ」
菜々子はそれを聞いてほっと息をついた。「それならよかった、本当によかった」
仕事も終わりが近づき、二宮家の屋敷に帰れば陽菜に会い、夜は潤と同じベッドで眠らなければならないと思うと、明里は帰るのをやめて、健太からもらった本を取り出し、しばらく勉強に没頭することにした。
しかし、読み始めると時間を忘れてしまい、お腹が鳴ってようやく、もう八時を過ぎていることに気づいた。
立ち上がろうとしたその時、スマホが鳴った。拓海からで、博士課程の試験に関連するファイルがいくつか添付されていた。
明里は感謝のスタンプを返信した。
拓海からの返信が来た。【先生はあなたに戻ってきて欲しいけど、それでも手続きはちゃんと踏まないといけない。定員は二人だけだから、周りを納得させる必要があるんだ】
明里は文字を打ち込んだ。【先輩、頑張ります。ありがとうございます】
スマホをバッグにしまい、明里は外に出て車に乗り、二宮家の屋敷へと向かった。
屋敷の中は楽しげな笑い声に満ちていた。
湊が言った。「陽菜が来てくれて本当によかった。彼女が来てから、この屋敷はずいぶん賑やかになった。潤も毎日帰ってくるし、本当によかったよ」
真奈美も言った。「やっぱり私選んだ嫁ね。陽菜、隼人がこの時期を乗り切ったら、どこかへ遊びに連れて行ってもらって」
陽菜は笑って言った。「おばさん、私は毎日こうして皆さんと一緒にいられるだけで、とても楽しいの。それに、潤さんも、私を本当の家族みたい思ってくれてるし」
ポメは彼女の足元にうずくまり、従順で愛らしかった。
一方で、潤は玄関から視線を戻し、短く、「ああ」とだけ応えた。
陽菜は時計を見て言った。「もうこんな時間で、明里さんはまだ帰ってこないのかしら?潤さんより忙しいなんて」
彼女がそう言った途端、うずくまっていたポメが突然立ち上がり、短い四本の足をぱたぱたと動かして玄関へと走って行った。そして、走りながら、甲高く澄んだ声で吠えた。
次の瞬間、明里がドアを開けて入ってきた。
ポメは彼女を見上げて吠えたて、まるで精一杯威嚇しているようだった。
明里は眉をひそめ、視線を上げると、家族全員がそこに座り、ただ傍観しているだけだった。
陽菜が小走りで駆け寄り、ポメを抱き上げた。「明里さん、ごめん。本当に、どうしてモモちゃんがあなたを嫌うのか分からないの」
明里はスリッパに履き替えながら言った。「大丈夫よ。私にも分からないけど、犬は飼い主に似るって言うしね」
それを聞くと、陽菜の顔色がさっと変わり、目には涙が浮かんだ。「明里さん……これ、どういう意味?」
第7話
明里は背筋を伸ばしていたが、指先だけが微かに震えていた。
彼女の首は長く、その立ち姿は気高くすっとしていた。
歩み寄ってくる潤を、明里は冷たく頑なな眼差しで見つめ、一言も発しなかった。
陽菜はしゃくり上げながら口を開いた。「私が悪いの、ごめん……潤さん、お願いだから明里さんのこと、責めないで」
明里は泣いている彼女を見下ろし、「どいてくれる?邪魔なんだけど」と言った。
二人で通路を塞いでしまっていた。
すると陽菜のすすり泣く声は、さらに大きくなった。
明里が体をかわして中に入ろうとしたその時、潤がまっすぐ彼女の腕を掴んだ。
明里は彼をまっすぐに見つめ返す。その冷たい眼差しには、意地と恐れを知らない強さが宿っていた。
そして、愛情の色は、ひとかけらもなかった。
明里のいつもとは違う、どこか苛立ちを帯びた眼差しに気づいた潤が口を開いた。「明里、お前は義理の姉だろう。陽菜にもっと優しくするべきだ」
それを聞いて、明里の心にあったひび割れが、今や粉々に砕け散ったようだった。
かつての恋心や想いは、その破片と共に砕け散り、全身に突き刺しような痛みを感じた。
その痛みは針で刺されるようなチクチクとする痛みだった。
彼女は一度目を閉じたが、すぐにまた見開いた。
自分は離婚し、いずれこの家を出ていく決意をしていた。だからこそ、今ここで余計な揉め事を起こす必要はないのだ。
潤を怒らせてしまえば、彼がどんな仕打ちをしてくるか分かったものではない。
明里は陽菜に目をやり、言った。「モモちゃんの機嫌を損ねてしまったみたいね。どいて」
彼女の瞳は潤んでいるように見えたが、よく見るとそれは涙ではなかった。
冷たく、淡々として、そして決然とした、何か別の感情だった。
潤は一瞬言葉を失い、心の奥底の固い何かが揺さぶられるのを感じた。
しかし、その感情を整理する間もなく、明里はもう早足で通り過ぎて行った。
彼女のかすかな香りだけが、潤の鼻先をかすめた。
明里が階段を上り、踊り場に差し掛かったところで、陽菜が口を開いた。
彼女は泣き声で言った。「明里さん、全部私が悪いの。モモちゃんにはちゃんと言い聞かせるから。何かあったら私に言って。モモちゃんには当たらないで、お願い」
明里はふっと笑い、振り返ることすらなかった。
湊は慌てて言った。「まあまあ、大したことじゃない。陽菜、もう泣かないで。明里も気にしてないさ」
真奈美が口を挟む。「気にしてないだって?あの顔を見てよ、まるで誰かに恨みでもあるみたいじゃない!」
一方、潤も気高く冷徹な表情のまま、不機嫌そうに黙って階段を上がっていった。
彼が寝室に入ると、明里が着替えを手にシャワーを浴びようとしているところだった。
「明里、話がある」
潤の方から、その魅力的な声で切り出した。
「話すことなんてある?」明里は彼を見上げた。「全部、私が悪いんでしょ?」
「俺に対するその態度、どうにかならないのか?」潤の声はさらに冷たくなった。「お前は外でも、こんな嫌味ったらしい態度で人に接するのか?」
潤は言った。「言っておくが、自分の行動も管理できず、毎晩のように帰りが遅いなら、仕事なんてやめろ。明里、お前は自分の立場をわきまえろ」
長い間抑え込んできた感情がついに爆発し、明里は口を開いた。「潤、今のあなたって……正直、吐き気がするんだけど」
それを聞いて、潤は金槌で殴られたような衝撃を受けた。
明里のその言葉は、まるで爆音のように潤の耳を貫いた。「今、何と……」
しかし、明里はもう一度繰り返す気にはなれなかった。これ以上、自分を傷つけたくなかったのだ。
だが、一度口から出たその言葉は、紛れもなく彼女の本心だった。
かつて心から愛した男は、今や……見るのも嫌になってしまうほどになっていた。
「明里、よくも……よくもそんなことが言えたな……」
潤は目を赤くし、彼女を掴んで引き寄せると、その体をバスルームのドアに押し付けた。
明里は潤に触れられたくなかった。彼の様子を見れば、何をしようとしているかは明らかだったからだ。
だが、こんな状況で、彼女は潤の思い通りにさせてやる気など毛頭なかった。
「触らないで」明里は、白黒のはっきりとした瞳で、冷ややかに潤を見つめた。
その眼差しも、体も、彼を拒絶していた。
そして、潤も一切の優しさも見せず、力ずくで彼女を組み伏せた。
「触らないでって言ったでしょ」明里は声を押し殺しながらも、その声には怒りが滲んでいた。「潤、尊重っていう言葉を知ってるの?」
「知らないな。ぜひ教えてよ」潤はそんな言葉を口にしながらも、声は相変わらず冷たかった。
「俺の腰に絡みついて離れようとしない、そんな淫らな姿を見せるのは、どこの誰だったかな?」
「離婚よ!」
それは喉から絞り出すような、悲痛な声だった。
明里は潤を見つめた。
「潤……」
明里の声は低く、かすれ、そして感情のかけらがなかった。
潤は立ち上がり、彼女に背を向けた。
明里が目を閉じると、涙が目尻から流れ落ちた。
「私たち……離婚しよう」
すると、空気が急に緊迫し、辺り一面が圧迫感に包まれ、息苦しささえ感じられるようになった。
「離婚?」潤は背を向けたまま、かすれた、それでいて氷のように冷たい声で問い返した。「お前が、離婚を切り出すとはな?」
明里はなんとか体を起こした。「潤、こんな結婚生活に、何の意味があるの?おじいさんはもういないのよ。誰かのために芝居を続ける必要なんてないじゃない!」
潤は勢いよく彼女を振り返り、信じられないという表情で言った。「離婚したいだと?俺は認めない。明里、わがままを言うな」
彼はそう言うとバスルームに入り、ドアを叩きつけるように閉めた。
やがて潤がバスルームから出てくると、部屋に明里の姿はすでになかった。
階下に下りると、真奈美はまだテレビを見ていた。
「明里と何かあったの?あの子、何も言わずに飛び出して行ったわよ」真奈美は不満げに言うと、小声で、「本当に失礼な子」と付け加えた。
潤の顔色はさらに険しくなったが、何も言わずに踵を返し、再び二階へ上がっていった。
真奈美は彼の後ろ姿を見送りながら、独り言を呟いた。「喧嘩はいいけど、離婚だけはしないでちょうだい。二人でずっと、このまま膠着状態でいてくれればいいんだから」
潤ほどの男が、もしまた有力な後ろ盾のある女と再婚でもしたら、自分の息子に勝ち目は完全になくなってしまう。
夜更けに家を飛び出した明里だったが、雲海レジデンスには戻りたくなかった。そこは潤の家だからだ。
かといって実家に戻れば両親を心配させるだけだろう。
結局、彼女は研究所へと向かった。オフィスには仮眠室があり、そこには小さなベッドが一つ置かれていた。
だがその小さなベッドに横になっても、彼女はしばらく呆然としていた。
体の震えは止まらず、心はきつく縮こまり、ひどく苦しかった。
このところ、ずっと離婚のことが頭をよぎっていた。
明里は良いタイミングを見計らって、潤としっかり話し合おうと思っていた。
しかし、まさかあんな最悪の状況で、「離婚」という言葉を口にするとは思ってもみなかった。
かつては、潤と一生を添い遂げられると信じていた。
たとえ、互いに敬意を払うだけの冷めた関係だとしても。
だが、もう無理だった。
潤は彼女を尊重せず、その気持ちを顧みず、一人の人間として扱おうともしなかった。
こんな結婚生活を続ける意味は、本当にもうなかった。
しかし、潤は離婚に同意しない。だけど彼にそんな権利などないはずだ。
明里は苦悩と葛藤の渦に飲み込まれていった。
夜も更け、明里はようやく眠りに落ちた。
翌朝早く、潤は会社に出勤した。まもなく会議が始まるが、まだ少し時間があった。
彼はスマホを取り出し、ある番号に電話をかけた。
長いコールの後、ようやく繋がった電話の向こうからは、苛立ちを含んだ声が聞こえてきた。「よっぽど緊急の用件なんだろうな!朝っぱらから人の眠りを妨げるなんて、潤、お前いい加減にしろよ?」
潤はスマホを握りしめ、眉をひそめて言った。「まだ寝ていたのか?」
「今、何時だと思ってんだ!」増田啓太(ますだ けいた)は悪態をついた。「お前に夜の営みがないからって、他の奴らもみんな禁欲的だとは思うなよ!俺は昨夜、愛しい彼女と朝まで愛し合ったんだ……」
彼の浮ついた話に興味のない潤は、その言葉を遮って尋ねた。「女の機嫌の取り方を教えろ」
まるで新大陸でも発見したかのように、啓太はベッドのヘッドボードに寄りかかり、タバコに火をつけた。「女を、だと?誰が?お前が?一体、誰をだよ?」
第8話
「いちいちうるさいな」潤は苛立ったように言った。「もういい、大したことじゃない。これから会議があるんだ」
啓太は笑いながら言った。「おいおい、珍しいじゃないか、そんなことを言うなんて。機嫌の取り方にもいろいろあるだろ。誰のご機嫌を取りたいのか、まずはそこから教えてくれよ。明里さんか?まさかな。どうした、夫婦生活を続けていたら情でも湧いたか?」
潤は少し間を置いて言った。「もちろん彼女じゃない」
啓太は高らかに笑った。「はいはい、からかうのはもうやめるよ。陽菜の機嫌を取りたいんだろ?だったら簡単だ。若い女の子なんて、買い物させとけば喜ぶんだよ。服、バッグ、アクセサリー、高いものを選んで買ってやればいい」
そこまで聞いて、潤は堪忍袋の緒が切れた。「じゃあな、切るぞ」
「おい!潤!用が済んだらお払い箱かよ、この……」
潤は電話の向こうで騒ぐ声を無視して、そのまま通話を切った。
しばらくして、秘書の小野勳(おの いさお)がノックをして入室し、いつものように業務報告を始めた。
報告が終わると、潤はいくつかの意見を述べ、最後にこう付け加えた。「岩崎さん主催のチャリティーオークションがある。そこでジュエリーを一つ落札してこい」
勳はメモを取りながら答えた。「かしこまりました」
他に用件はなかったため、彼が退室しようとしたその時、潤が再び呼び止めた。「待て。ジュエリーは……二つ落札しろ」
その日の午後、勳がジュエリーを届けてきた。潤は今夜会食があり、それが終わった頃には、すでに八時を過ぎていた。
屋敷に戻ったが、やはり明里の姿はなかった。
十分後、彼は再び車で出かけていった。
明里がわざと研究所で時間を潰していたのは、家に帰りたくなかったからだ。
しかし、今朝早くに湊から電話があり、昨夜はどこに行っていたのか、喧嘩でもしたのかと問い詰められ、今夜は早く帰るようにと念を押されていたのだ。
これだから、明里は屋敷に戻って暮らすのが嫌だったんだ。
雲海レジデンスなら、何時に帰ろうと誰も気にしないし、それに潤とは別の部屋で寝られる。
だが屋敷に戻れば、湊は目上の方であり、自分に良くしてくれるし、明里もずっと彼を尊敬していた。
彼に言われれば明里も断れなかったので、彼女は、今夜は早く帰ると約束したのだった。
だがそれでも、ぐずぐずしているうちに九時近くになって、ようやく階下へ降りた。
すると、下に降りたところで潤の姿を見つけた。
この男はあまりにも目を引く存在だった。ただそこに立っているだけで、まるで絵に描いたような美しい顔立ちで、その圧倒的な存在感に、道行く誰もが思わず目を奪われてしまうのだ。
黒塗りの高級車は色こそ地味だが、そのエンブレムとナンバープレートは少しも控えめではなかった。
潤という人そのものと同様、どこか高貴な雅やかさを漂わせているのだ。
明里は少し驚いた。潤がどうしてこんな所に?
まさか自分を迎えに来たわけではあるまい。
しかし、そのまさかだった。
潤は顔を上げてこちらを見ると、いつもの冷たい眼差しの中に、どこか淡々とした様子を滲ませて言った。「仕事は終わったか?」
明里は研究所の正面玄関で彼と揉めたくはなかったので、「何か用?」とだけ尋ねた。
「乗れ」潤は彼女の手を引こうとした。
明里はその手を避けた。「自分の車で来たから」
「俺の車に乗れ」彼女が動こうとしないのを見て、潤は付け加えた。「明日の朝は俺が送ってやる」
それでも明里が動かないのを見て、潤は眉をひそめた。「明里、言うことを聞け。それとも、抱きかかえられて乗せてほしいのか?」
研究所の入り口は人通りが多く、明里は笑いものになりたくなかったため、素直に助手席に乗り込んだ。
潤も車に乗り込むと、明里が座ったのを確認してから、準備していた小さな袋を彼女に放り投げた。
明里は思わずそれを受け止めると、ピンク色のギフトバッグを呆然と見つめた。「これ……何?」
「開けてみろ」
明里が袋を開けると、中には同系色のジュエリーボックスが入っていた。
華やかなラッピングの箱を開けると、中から現れたのは一対のダイヤモンドのピアスだった。
きらきらと輝いていて、とても綺麗だった。
第9話
「気に入ったか?」潤は片手でハンドルを握りながら、明里に視線を向けることなく、あたかも彼女に気に入られて当然だという様子だった。
明里は数秒間黙り込んだ後、ようやく口を開いた。「……とても綺麗ね」
だが、気に入ったかどうかについて、彼女は何も言わなかった。
潤は眉をひそめた。「気に入らないのか?つけてみろ」
明里はパタンとジュエリーボックスの蓋を閉じた。「気に入ったよ、ありがとう」
潤はさらに眉間にしわを寄せた。「それが気に入ったって奴の態度か?」
明里は前方を真っ直ぐに見据えたまま言った。「行こう。家に帰るんでしょ?」
「明里!」潤は深呼吸をして、怒りを抑え込んだ。「それで、まだ怒っているのか?」
明里は微笑んだ。「私が?もちろん、怒ってないよ」
「いいだろう。なら、もう二度と離婚の話はするな」潤の声には、見下すような施しの響きがあった。「これで仲直りってことでいいだろ」
なるほど、そういうことだったのか。
実のところ、明里は非常に驚いていた。まさか、潤が……プレゼントを買って自分の機嫌を取ろうとするなんて。
以前の彼女であれば、感動で泣きじゃくっていたかもしれない。
しかし、この数日間で多くのことがありすぎた。粉々に砕けてしまった明里の心が、そう簡単に癒えるはずもなかった。
明里は彼の手を避けた。
その態度に、潤はついに怒りを爆発させた。「これ以上、俺にどうしろって言うんだ?明里、ほどほどにしろよ!」
明里は潤を見つめた。その非の打ちどころのない端正な顔が今、怒りに歪んでいて、陽菜の前で見せるような穏やかさや優しさは微塵も感じられない。
思えば、彼が自分に対してあのような顔を見せたことは一度もなかった。
彼女は軽く笑った。「私がほどほどにしろって?潤、知ってる?私、ピアスなんて開けてないのよ」
それを聞いて、潤は一瞬固まり、その視線がジュエリーボックスに落ちた。「……どういう意味だ?」
「私はピアスを開けてないの。あなたがくれたのは、ピアス」明里は続けた。「ほどほどにしないといけないのは私?それともあなた?」
「ピアス?」潤は数秒間黙り込んだ後、言った。「悪かった」
明里は無感動に返した。「別に」
「いや、俺は……」潤はこめかみをもみ、何か言いかけて口をつぐんだ。「まあいい。次は別のものを買ってやるから」
「いらない」明里はきっぱりと言った。「そういうものは必要ないから」
もともと彼女はそういった物に執着がなく、その上一日中、研究所や実験室に籠っているため、身につける機会もなかった。
しかし、潤は言った。「だが、お前は俺の妻だ。他の女が持っているものは、お前も持つべきだ」
それは、彼自身の体裁を保つためなのだろう。
明里がそれ以上何も言わなかったので、潤も口を閉ざした。
車が進み、屋敷に近づいた頃、彼が突然口を開いた。「離婚の話は、もうするな。家族に聞かれると面倒だ」
明里は答えなかった。
潤の声には、どこか投げやりな響きがあった。「あるいは、何か欲しいものがあるなら言え。用意させるから」
それを聞いて、明里は、ようやく彼のほうを向いた。
彼女の角度から見ると、潤の高く通った鼻筋、その凛とした、非の打ちどころのない横顔の輪郭が見えた。
もし以前なら、彼がプレゼントをくれて、こんな言葉をかけてくれたなら、たとえその口調が施しを与えるようなものであっても、明里は感動しただろう。
だが今は……彼女自身でも何とも言えない妙な気分になっていた。
「潤」彼女は静かに潤の名前を呼んだ。「私が欲しいのは、昔から、そんなものじゃなかった」
住宅街に入り、しばらく走ってから彼は車を停め、明里の方を見た。「なら言え。お前は何が欲しいんだ」
明里と潤の視線が交錯した。
彼の瞳は漆黒で、その眼差しは深く、眉間には凍えるような冷たい光が宿り、まるで刃物のように鋭かった。
だが、この瞬間、その瞳に冷たさや嫌悪の色が消えているように見えたのは、彼女の錯覚だったのだろうか。
第10話
明里は伏し目がちに、すべての感情を隠した。
潤は彼女の手を握った。「言ってみろ」
明里は鼻の奥がツンとし、目が熱くなった。
潤にもこんなに優しい一面があったなんて。しかし、皮肉なことに、それは以前は陽菜にした見せない顔だった。
そう思っていると、男の涼やかな香りが近づき、彼は手を伸ばして彼女を腕の中に抱きしめた。
「お前の欲しいものは、できる限り何でも叶えてやる」潤の甘く、惑わすような声が頭上から響いた。「だから、離婚だけは口にしないでくれないか?」
彼の声はもともと心地よいが、冷たさが消え、低く、心を掻き乱すような色気を帯びていた。
明里は潤の胸に頬を寄せながら、その落ち着いた胸の鼓動が耳に届いていた。
その瞬間、辺りの景色までもが優しく色づいたようだった。
明里の傷ついて沈んだ心が、また力強くときめき始めたのだった。
そう思うと、彼女は自嘲気味に笑った。
自分がとても惨めに思えた。
こんな状況になっても、いとも簡単に心が揺れてしまうのだ。
それは相手がこの潤だからこそなのだろう。
しばらくして、彼女は、「わかった。言わない」と静かに口を開いた。
潤は彼女を離し、その顎に手を添えて持ち上げた。
明里は古典的な美人の証である卵型の顔立ちで、華やかさと気品、そして女性ならではの柔らかな美しさを兼ね備えていた。
特にその瞳は、漆黒で潤んでおり、まつ毛は濃くカールしていて、鼻筋はすっと通り、鼻先は小さかった……
潤は思わず顔を寄せ、明里の艶やかな唇にキスをした。
これほど優しいキスを交わしたのは、二人にとって初めてのことだったかもしれない。
潤の深く、絡みつくようなキスは、明里にまるで自分が彼の手のひらで大切にされているかのような錯覚を抱かせた。
それはまるで、これまで苦しみを味わい、心身ともに疲れ切ったところに甘美な潤いを与えられ、乾ききった心が再び蘇ったかのようだった。
ああ、なんて甘いんだろう。
その甘さは、これまでの痛みも信念も忘れさせてしまうほどだった。
たとえこの一瞬だけでも、潤の心に自分がいるのなら、これまでの数年間の努力は無駄ではなかったと思えるのだ。
どれくらい経っただろうか、潤がキスをやめた。
彼の呼吸は荒くなり、その唇は明里の頬をかすめ、そして耳たぶへと移っていった。
最後に、潤は彼女の首筋に顔を埋め込んで、動かなくなった。
「少し、落ち着かせてくれ」潤の声は一層低くなっていた。「動くな」
明里は潤の体の反応を感じ、耳たぶが熱くなり、心臓が激しく鼓動した。
彼女は顔をそむけ、彼と距離を取ろうと試みた。
しかし、二人の体は隙間なくぴったりと密着していた。
潤は不意に体を起こすと、忘れずに明里のシートベルトを締め、そしてエンジンをかけて車を発進させた。
屋敷まではここから数分の距離だというのに、明里の心臓はまだドキドキと鳴りやまなかった。
潤は片手でハンドルを握りながら、もう片方の手で、彼女の手をずっと離さずに握っていた。
屋敷に着くと、潤は車を降り、助手席のドアを開けて、明里の手を取ってそのまま降ろした。
二人は暗黙の了解のうちに屋敷へと歩き出し、心の中には密かな渇望があった。
彼の熱い手のひらは、明里に先ほどのキスを何度も思い出させた。
この先何が起こるか、彼女ははっきりと分かっていた。そして……期待もしていた。
もしこれが良い始まりなのだとしたら、もう一度、自分と潤にチャンスを与えてもいいと、明里は心からそう思った。
もう遅い時間だったので、二宮家の人々はそれぞれ自分の部屋に戻っていた。
潤は明里の手を引いて、そのまま二階へと上がった。
寝室に入った途端、潤は彼女をドアに押し付けた。