Đang tải thông tin quảng bá...
冬空に燃え尽きた恋
「加瀬さん、六回も体外受精してやっと授かった赤ちゃん、本当に諦めるんですか?旦那様もこの子を堕ろすことに同意してるんですか」 「大丈夫...
Chương (1)
第1章
「加瀬さん、六回も体外受精してやっと授かった赤ちゃん、本当に諦めるんですか?旦那様もこの子を堕ろすことに同意してるんですか」
「大丈夫です。彼ならきっと同意してくれます」
一睡もせずに夜を明かした加瀬早絵(かせ さえ)の声はかすれていたが、その目にはこれまでにないほどの冷静さが宿っていた。
「手術は一週間後に予約してあります」
その一週間後は、早絵と加瀬瑞樹(かせ みずき)の結婚記念日だった。
それでもいい、始まった場所で終わりにしよう。
旅立ちの航空券を手配し終えた早絵は、そっと自分の下腹部に手を当てた。そこにはまだ形も定かでない小さな命が宿っている。
過去五年間、彼女はこの命の訪れを心から待ち望んでいた。
けれど、その願いが叶ったその日に、自分から手放すことになるなんて思ってもみなかった。
第1話
「ピンポーン——」
スマホの画面に、半月もトレンド入りし続けているホットワードがまた浮かび上がった。
瑞樹が大金をはたいて豪華な屋敷を買い取り、自ら庭にバラを咲かせて結婚五周年の記念日を準備している。
再び世界中に向けて宣言した、瑞樹が心から愛しているのは早絵ただ一人だと。
コメントは数えきれないほどで、そのすべてが二人の愛を羨ましがっていた。
【年下との恋はうまくいかないって誰が言ったの?加瀬社長の最高の結納品は恋愛脳らしいよ。奥さんは六歳年上で、三年かけてようやく落としたとか】
【加瀬社長が奥さんにベタ惚れなの知らない人いる?二年前の地震で奥さんが閉じ込められた時、加瀬社長が命がけで駆け込んで、助け出されたときはボロボロだったのに、逆に怖がってた奥さんをなだめてた。ニュースで奥さんを抱いて泣いてる姿、マジで泣けた】
【それに去年、奥さんの年齢と不妊を馬鹿にしたメディアがあって、加瀬社長に訴えられて潰された。子どもがいてもいなくても関係ない、でもそれを理由に彼女を傷つけるのは絶対に許さないって加瀬社長が公の場で言い切ってたの、かっこよすぎ】
そのコメントを見て、早絵は思わず苦笑した。
誰にも彼女を傷つけさせない。瑞樹はその約束だけは確かに守った。
たとえその傷が彼女の肉を抉るものでも、刃を握っていたのは他でもない、彼自身だった。
妊娠がわかったばかりの頃、早絵はこの嬉しい知らせを一刻も早く瑞樹に伝えたくて仕方なかった。
けれど、その直後に見知らぬ誰かからメッセージが届いた。
そこには、妊婦の写真が添付されていた。
若い女が甘い笑みを浮かべ、瑞樹は片膝をついて、そのふくらんだお腹にそっと口づけしていた。まるでこの上ない幸せに満たされたような表情で。
大粒の涙が、ぼたぼたと落ちた。
六回にも及ぶ体外受精の痛みに耐えてようやく手にしたこのエコー写真が、まるで早絵自身を嘲笑っているかのようだった。
結婚したあの日、瑞樹は誓った。
この人生で愛するのは、彼女だけだと。
だけど彼の一生は、たった五年しか続かなかった。
そんなものなら、もう瑞樹なんていらない。
自分の子どもを、こんな嘘まみれの世界に産むわけにはいかない。
部屋のドアが開いた。
目を真っ赤にした早絵と目が合った途端、瑞樹は明らかに動揺した。
「どうしたの、早絵。何があったの?泣かないで、俺が全部なんとかするから」
彼はちらりと横のエコー写真に目をやったが、深くは見ず、そのまま早絵を抱きしめた。
「体外受精がダメだったっていい。子どもができなくてもいい、君さえいれば、それで十分なんだ」
「泣くなって。君が泣くと、俺が辛いんだよ」
早絵は泣き顔よりも痛々しい笑みを浮かべた。
ほんと、白々しい。
外に作った子どもは、もうすぐ生まれるっていうのに。
瑞樹は早絵の異変に気づかず、相変わらず甘えた声で言った。「早絵ちゃん。一週間後は俺たちの結婚記念日だよ。君のためにバラの花畑を作って、青い花火も用意したんだ 見に行こうよ、な?」
「青が一番好きだったじゃん?」
早絵は呆然と瑞樹を見つめながら、笑みを浮かべ、そして涙を流した。
彼はもう覚えていないらしい。彼女は青なんて一度も好きだと言ったことがない。
「じゃあ一週間後、私からも記念日のプレゼントあげるね」
瑞樹の瞳に驚きと喜びが浮かび、彼は早絵の感動の涙をそっと拭った。
「楽しみだな、早絵。君のサプライズ、待ってるから」
早絵は無言でエコー写真を見つめた。
その時になっても、瑞樹が本当にサプライズだと思ってくれるといいけどね。
第2話
翌日の昼、瑞樹は早絵を連れて加瀬家へ食事に行った。
瑞樹の母は早絵のことが気に入らず、結婚式の日でさえ顔を見せなかった。
結婚後、瑞樹は早絵を連れて家を出て、月末に一度だけ戻るようになった。
「早絵、母さんが何言っても気にすんなよ。俺はずっと君の味方だから。飯食ったらすぐ帰ろうな」
瑞樹は早絵の手を握りしめながらそう念を押した。
玄関に入った瞬間、早絵の耳に瑞樹母の笑い声が飛び込んできた。
「赤ちゃんってほんと可愛いねぇ、この小さな手と足、見てるだけで心がとろけそうね」
早絵の顔色が一気に青ざめ、その場で足が止まった。
瑞樹母の隣に立っていたのは、あのエコー写真に写っていた女だった。
「この子は友達の娘、千鶴ちゃんよ」
「妊娠中でね、家族が海外にいるから私が面倒を見てるの。今朝も一緒に健診に行ってきたばかりなのよ」
瑞樹母は芳野千鶴(よしの ちずる)の腕を取りながら近づき、エコー写真を瑞樹に手渡した。その視線には意味深なものが宿っていた。
「ちょっと見てみてよ、この赤ちゃん、父親と母親に似てると思わない?」
瑞樹の目に一瞬の動揺が走り、声にはほのかな牽制が滲んでいた。
「母さん、冗談やめてよ。俺今日初めて千鶴さんに会ったんだから、わかるわけないだろ」
瑞樹母は早絵を一瞥し、千鶴を前に押し出して言った。「じゃあ改めて紹介するわね、千鶴ちゃん、こっちがあなたの瑞樹兄ちゃんよ」
千鶴の頬が赤く染まった。「瑞樹兄ちゃん」
瑞樹は軽く頷き、片手で早絵を引き寄せた。「こっちはお前の義姉さん、早絵だ」
「義姉さん、初めまして」
早絵の心は完全に冷えきり、だらりと下ろした両手が止まらず震えていた。
千鶴の存在を、加瀬家の人間はみんな知っていた。知らなかったのは、早絵だけだった。
「どうした?」瑞樹はすぐさま慌てて、「低血糖か?」
彼はポケットから常備していた飴を取り出し、包みを剥いて早絵の口元へ差し出した。
早絵は機械的に口を開けた。
甘いはずの飴なのに、口の中に広がったのは苦味だけだった。
瑞樹は使用人に食事の準備を指示し、早絵の手を握ったまま席に着いた。
「朝あんまり食べてなかっただろ 昼はちゃんと食べろよ」
早絵が黙って水のグラスを手に取ると、瑞樹はそれに気づき、温かい水に取り替えてやった。
「そろそろ生理だろ。冷たいの飲んだらまたお腹痛くなるぞ」
「今日のエビ、いい感じだな。俺が剥いてやる」
その食事の間、瑞樹はほとんど自分では食べず、早絵の皿が空になることはなかった。
「瑞樹兄ちゃんって奥さんにすごく優しいんだね。義姉さんがうらやましいな」
千鶴が突然口を開いた。「私もエビ好きなんだ。瑞樹兄ちゃん、私の分も剥いてくれる?」
千鶴が差し出した皿を、瑞樹は無視して言った。「食べたいなら自分で剥け。俺は早絵にしか剥かない」
早絵は温かい水をひと口飲んで、こみ上げる吐き気を押し込みながら言った。「あげて、もういらない」
瑞樹は少し驚いたように目を見開き、子どもみたいに口を尖らせた。
「じゃあ俺が食べる。早絵ちゃんさあ、俺が剥いたエビを他人にやるなんてひどいだろ」
早絵の目に、冷たい嘲りの色が浮かんだ。
あれだけ寝ておいて、まだこんな茶番を続ける気か。
瑞樹母は無表情のまま箸を置いて言った。「早絵、もう体外受精失敗六回目だっけ?ちょうど千鶴ちゃんもいるんだし、少し教えてもらったら?」
「おばさん、私あんまり経験ないんです。彼とは一回目でできちゃって」千鶴は恥ずかしそうに首を振った。「ちょうどその日、私の誕生日で。気分が良かったからかもしれません」
「まあね。うちの嫁はあなたより十も年上だし、比べ物にならないわよね」
瑞樹母は皮肉たっぷりに言った。「千鶴ちゃんをこの家に住まわせようと思ってるの。その方が世話もしやすいし、福を分けてもらって早く孫の顔が見たいわ」
その言葉が終わるか終わらないうちに、瑞樹は即座に拒否した。
「俺は反対だ」
瑞樹母の早絵を見る目がさらに冷たくなる。「なに?自分が産めないからって、他人の出産まで邪魔したいの?」
「もういい加減にしてくれないか」瑞樹の顔は冷えきっていた。「母さん、俺にこの家から縁を切らせたいなら、好きに言えばいい」
「ごめんなさい。やっぱり私、お邪魔でしたね」千鶴は目を赤くして立ち上がり、足早にその場を離れた。
瑞樹は本能的に千鶴を追いかけようと一歩踏み出し、すぐにそれが早絵の目の前での行動だと気づき、無理やり足を止めた。
「ごちそうさま」早絵はこの茶番を冷ややかに見つめながら、席を立ってその場を離れた。
加瀬家を出た直後、早絵のもとに千鶴からのフレンド申請が届いた。
「3月5日は私の誕生日。あの日が私たちの初めてだったのよ。一日中、彼は私をベッドから離してくれなかった」
その日、早絵は五度目の体外受精に失敗した。
彼女は飲まず食わずで部屋に閉じこもり、一日中、誰とも顔を合わせなかった。
ようやく気持ちを落ち着かせてドアを開けたとき、そこには服の乱れた瑞樹が座り込んでいた。早絵はそんな彼を見て、心配して逆に慰めてやった。
あの時、瑞樹は千鶴のベッドからそのまま戻ってきたばかりだったんだ。
笑える。哀れすぎて。
五年間、あれだけの注射に耐えても平気だったのに。今は胸が締めつけられて、息すらまともにできなかった。
「早絵、なんで泣いてるの?」
瑞樹が慌てて追いかけてきた。早絵の顔は涙でぐしゃぐしゃで、それを見た彼は思わず彼女のスマホをのぞき込んだ。
第3話
スマホの画面が自動で暗くなった。
瑞樹は気にも留めず、早絵を腕の中に引き寄せ、背中を優しくぽんぽんと叩いた。
「な、泣くなって。俺が辛くなる」
「全部俺が悪い。連れてきてごめん。あれは俺の母親だけど、君が我慢する義理なんかない」
「殴っても、罵ってもいい。君が少しでも楽になるなら、それでいい」
帰り道、瑞樹はずっと早絵を宥めていた。
早絵は目を閉じ、寝たふりをすることにした。
耳元に時折メッセージの通知音が鳴り、道中の後半、瑞樹はずっと誰かに返信していた。
家の前に着くと、瑞樹は早絵の頭をそっと撫でた。
「早絵、会社で急ぎの用事ができた。家で待っててくれよ。夜にはちゃんと早く帰るから、な?」
早絵は何も言わずに静かに車を降りた。
瑞樹が去ったあと、早絵は千鶴の申請を承認した。
それから、彼女のタイムラインを開いた。
一番上に固定された投稿には、二枚の写真が載っていた。
一枚目は、瑞樹がバラを植えている後ろ姿だった。
二枚目には、青いバラが一面に咲き誇る花畑。
【大好きな青いバラを植えてくれたから、一回だけ許してあげる。早く迎えに来てね】
早絵の胸がぎゅっと締めつけられた。
青が好きなのは、千鶴の方だったんだ。
あのバラさえ、自分のために植えられたものじゃなかった。
早絵はタクシーを拾い、迷いなくあの屋敷へ向かった。
着いた瞬間、早絵の目に入ったのは、瑞樹の黒いベントレーだった。
少し先のバラ畑の前で、瑞樹が背を向けて立っていた。早絵の存在に気づいていない。
「早絵が子ども産めないから仕方なくお前を選んだんだ。あの子は俺の一線だ。彼女の前に現れて、文句言うとか、ふざけんな」
千鶴は涙を浮かべて言った。「じゃあ私に近づかないでよ。勝手にすれば?」
「泣くなよ」瑞樹の声が柔らかくなる。「お前がいい子にしてるなら、俺が一生面倒見るから」
千鶴は涙を拭き、笑いながら瑞樹の胸に飛び込んだ。
「もっといい子になれるよ、あなたが望むなら」
「今日の午後、わざわざ時間空けたんだぜ。俺がどうしたいか、お前ならわかってるだろ?」
瑞樹の声は掠れていた。千鶴を抱き上げ、そのまま屋敷の奥へと急いで歩いていく。
千鶴は振り返り、早絵に向かって勝ち誇ったように笑った。最初から彼女の存在に気づいていたのだ。
窓の向こうでは絡み合う影が揺れ、揺れていた。
道端で立ち尽くす早絵は、その光景をまるで自分を罰するかのように見つめていた。呼吸さえ冷たい。
心臓に逆刺しの釣り針が食い込むような痛み。一度引かれるたびに、生々しく肉が裂けていく。
「あなたも見に来たの?加瀬社長と奥さんって、何年経ってもラブラブなんだね。羨ましいわ」
隣で写真を撮っていた女性が、笑いながら話しかけてきた。
「加瀬夫人って、前世は救世主かもね。あんな旦那さん、誰だって欲しいわよ」
早絵は笑いながら、静かに涙をこぼした。
「でも、その奥さんはもう、いらないってさ」
唯一無二だと言って渡されたこの屋敷で、瑞樹は別の女を抱いていた。
女性は早絵の顔をじっと見て、動きを止めた。
間違えるのも無理はない。
千鶴は、瑞樹と出会ったばかりの頃、二十四歳の早絵に、よく似ていた。
「結局、男ってみんな同じだよね」女性は何かを思い出したように、寂しそうな顔をした。
「加瀬社長はまだマシな方だよ。本当に子どもが欲しいだけなんだと思う。外の女も、あなたにそっくりだし」
「もう、見なかったことにすれば?何も知らなければ、元通りに暮らせるじゃん」
「同じじゃない」早絵の声は、かすかだった。
瑞樹が自分に似た女を選んだところで、感謝なんてしない。ただ、気持ち悪さが増すだけだ。
バラ園を後にして、早絵は病院へ向かい、中絶手術前の処置薬を受け取って家に戻った。
薬をテーブルに置いたまま、早絵はぼんやりと見つめ続けた。胸の奥から込み上げる酸っぱさに、全身が呑まれそうだった。
ドアが勢いよく開き、瑞樹が慌てた様子で飛び込んできた。シャツのボタンは二つも掛け違え、足元がふらついて椅子を倒してしまった。
彼は早絵の体を上から下まで見回し、顔色を真っ青にして言った。
「早絵、君はなんで病院なんか行ったんだ?」
第4話
早絵の診察カードには瑞樹の番号が登録されていて、彼女が診察や薬を受け取った通知は、すべて彼のスマホに届くようになっていた。
「早絵、何か言ってくれよ。マジで焦ったんだから」
早絵は無言で薬の袋を差し出した。
「医者が薬を変えてみろって。次の体外受精、成功率上がるかもしれないって」
「無事ならそれでいいよ。ほんと、心臓止まるかと思った」
瑞樹は袋を一瞥することもなく、テーブルの上にぽんと置いた。
早絵は冷たく笑った。
昔はどんな薬でも、瑞樹が一つ一つ説明書を読んで確認していた。
副作用があったら大変だと、必死になっていた。
「俺には君の代わりに痛みは背負えない。だからせめて、君が俺のために苦しんでるってことだけは忘れちゃいけない」彼はそう言っていた。
今、自分で中絶のケア薬を手渡したというのに。
彼はそれに目もくれなかった。
見慣れない香水の匂いがバラの香りと混じり合い、早絵は吐き気を催した。腹の奥もじわじわと痛み出す。
早絵は苦しげに腹を押さえた。
「冷えたんじゃない?生理中だろ」瑞樹が身を屈め、腹を温めようと手を伸ばしてきた。
早絵はその手を乱暴に振り払った。
「その匂い、気持ち悪い」
瑞樹は自分の匂いを嗅いで、笑った。
「バラの匂いかな。五周年の記念日、ちゃんと準備したくてさ。毎日何度もバラ園行ってるんだよ。今すぐ風呂入って着替えるから」
でも、今日彼が言ってたのは「会社に行く」だった。
早絵は真実を指摘する気も起きず、ただ薄く返事をした。「うん」
瑞樹が出て行ったあと、早絵はスマホを手に取った。
この五年間、早絵の交友関係は瑞樹の世界に縛られていた。自分だけの友達なんて、ひとりもいなかった。
この先、離れていくとしても、わざわざ報告する相手もいない。
唯一の家族である弟、時枝隼人(ときえだ はやと)を除いては。
しかし隼人の連絡先を表示したまま、早絵の指はなかなか発信ボタンを押せなかった。
隼人は瑞樹をとても信頼していたからこそ、変に揉め事にならないかが不安だった。
どうせなら、出発の直前に伝えよう。
夜になり、瑞樹は彼女の隣に横たわりながら、そっと腹をさすっていた。
「早絵、明日と明後日の仕事、他に回したから。生理の最初の二日が一番つらいだろ?君を一人にしておけないよ」
早絵は適当に「うん」とだけ返し、気にも留めなかった。
深夜、スマホの通知音で早絵は目を覚ました。
「ごめん、起こしちゃった?まだ仕事の指示が残ってて。今、マナーモードにするよ」
「いい子だから、もう寝な」
早絵は目を閉じたまま、もう眠気はどこかに消えていた。
瑞樹の左手は彼女の腹をさすりながら、右手では平然とスマホでメッセージを打っていた。
彼の指先から伝わる温もりと、ときおり漏れる抑えきれない笑い声。その一つ一つが、鈍い刃で肉を裂かれるように早絵を蝕んだ。
「早絵?」探るような声が響く。
彼の思惑通り、早絵は反応を返さなかった。
瑞樹は手を引っ込め、音を立てないようにそっと部屋を出ていった。しかしその軽やかな足取りには、隠しきれない焦りが滲んでいた。
「あんな写真まで送りやがって。覚悟しとけよ、明日はベッドから出られなくしてやる」
ドアが閉まったあと、早絵のスマホが数回震えた。千鶴からのメッセージだった。
【義姉さんってもう年増で魅力ないんでしょ?瑞樹兄ちゃん、今日ずっと我慢してたみたいで、午後ずっと私に夢中だったよ。今夜は新しい体位に挑戦するって。私、お腹大きいのに、全然気遣ってくれないの】
「ほんと、あなたが可哀想に思えてくる。私が妊娠できたのは瑞樹兄ちゃんのおかげだし。あなたは冷たい機械で必死に頑張ってるのに、何回やってもダメなんだもんね」
暖房の効いた部屋の中で、早絵の体は芯まで冷えきっていた。
彼女はベッドから起き上がり、湯たんぽを取り出して、また静かに横になった。
この五年間、早絵はずっと思っていた。瑞樹と出会うのが遅すぎた。だから残された人生は短すぎるのだと。
けれど今、残り五日がこんなにも長く、耐えがたいものになるとは思っていなかった。
第5話
早絵は遅くまで眠り、起きたのも遅かった。
部屋を出たところで、ちょうど瑞樹が外からドアを開けて入ってきた。
「早絵、君が一番好きな店の蒸しエビ餃子、買ってきたよ」
瑞樹は自慢げに懐から包みを取り出し、「ずっと温めながら帰ってきたんだ。熱いうちに食べて」
以前、瑞樹は何か失敗して早絵を怒らせるたびに、この蒸しエビ餃子を買って機嫌を取ろうとしていた。
早絵は別にそこまで好きなわけじゃなかった。つい許してしまうのは、ただ彼を愛していたから。
今日のこれは、今度は何の埋め合わせ?
他の女と一晩中いちゃついた罪悪感からか?
「早絵、出かけるときにメッセージ送ったの見た?いつ起きた?」
理由はわからないが、ここ数日の早絵の様子に、瑞樹は妙な不安を感じていた。
「見てない。今起きたとこ」
早絵は箸を手に取った。もう瑞樹のせいで、自分を粗末に扱うつもりはなかった。
彼女の表情に何の変化も見られず、瑞樹はほっと胸を撫で下ろした。
「ちょっと仕事片付けてくる。君が食べ終わったら、一緒に散歩行こう」
早絵は食事を続けながら、スマホを開いた。
千鶴が新しい投稿を上げていた。
【彼って本当に甘やかしてくれる。エビ餃子食べたいって言ったら、すぐに買いに行ってくれた】
添付された写真のエビ餃子は、今早絵の目の前にあるものと同じ店のものだった。
テーブルの向かいに座る瑞樹が、ふっと笑った。
その瞬間、投稿に新しいコメントが付いた。
瑞樹【わかってくれたなら、それでいい】
少しして、瑞樹母もコメントを残した。
【甘やかされて当然よ。欲しいものがあったら遠慮なく言いなさい。あんたは功労者なんだから、あの卵も産めない居座り女とは違うわ】
瑞樹も、そのコメントをちゃんと見ているはずだった。
早絵は顔を上げて瑞樹の反応をうかがった。けれど彼は、穏やかな笑みを浮かべ、目元には優しさすら漂わせていた。
早絵は静かに笑い、スマホを操作して瑞樹母の連絡先をすべてブロックした。
ずっと、そうしたかった。
朝食を食べ終える前に、瑞樹のスマホに瑞樹母からの電話がかかってきた。
甲高い声がスマホ越しに響き、瑞樹は眉をひそめて早絵を見た。
「母さんが漢方届けたいって言ってるけど、君ブロックしたのか?」
「いらない。飲まないから」
瑞樹母は、よく得体の知れない民間薬を押し付けてきた。苦いだけで全然効かないのに、早絵はずっと我慢して飲んでいた。それでも毎回、感謝が足りないだの恩知らずだのと皮肉を言われ続けた。
「でもだからって……」
ブロックはした。でも、履歴はちゃんと残ってる。
早絵はスマホを瑞樹の前に突き出した。そこに残っていた最新のメッセージは、こうだった。
【子どもも産めない女が何よ。前に妊娠したときも流してるし、ほんと使えない。うちの加瀬家の血を絶やさないでよね】
結婚して最初の年、早絵は一度だけ妊娠していた。
だが七ヶ月目に入った頃、突然胎児の心音が止まり、やむなく中絶することになった。
その後も、瑞樹母は何度も同じような文句をぶつけてきた。
けれど早絵は、瑞樹が間に立ってくれていることも、かばってくれていることもわかっていたから、今まで一度も彼に言ったことがなかった。
けれど今回、瑞樹は初めて眉をひそめた。
「母さんだって悪気があるわけじゃないんだよ。少しは理解してやってくれよ」
「私が我慢してきたぶん、誰が私を我慢してくれるの?」
早絵は冷たく笑った。「瑞樹、あのときの私がどれだけ苦しかったか、あなたが一番わかってるくせに」
「でもさ、流産には原因があるんじゃないかって、思ったことない?」
瑞樹はため息をついて言った。「なんか変なもの食べたとかさ、化粧品が合わなかったとか……」
その瞬間、早絵の目から涙がぽろりとこぼれ落ちた。
「泣くなよ」瑞樹はようやく自分の言葉の意味に気づき、「悪かった。そういう意味じゃないんだ」
初めての妊娠。早絵は誰よりも慎重だった。
一度も化粧をせず、外食も避け、ほんの少し遠出することさえ、ずっと控えていた。
赤ちゃんがいなくなったとき、早絵の世界は崩れ落ちた。
あのときの瑞樹は、片時も彼女のそばを離れず、四六時中付き添っていた。
何度も、何度も彼女に言ってくれた。
「早絵、君のせいじゃない」
「この先子どもができなくてもいい。俺が大事なのは、君だけだから」
あのとき、瑞樹は一ヶ月ずっと、早絵と一緒に闇を歩いてくれた。
でも今、彼女はようやく気づいた。
彼も、心のどこかで思っていたのだ。
赤ちゃんを失ったのは、彼女のせいだと。
第6話
「ごめん、殴っても罵ってもいいから、泣かないでくれ」
瑞樹は彼女を強く抱きしめた。
「俺がバカだった。何もかも俺が悪い」
早絵はその腕から逃れられず、ただ静かに涙を落とし続けた。
でも彼女はもう分かっていた。
瑞樹は口を滑らせたんじゃない。最初から全部、彼女に責任をなすりつけたかっただけだった。
自分の裏切りを正当化する、都合のいい理由が欲しかっただけ。
瑞樹はさらに低姿勢になっていく。
「母さんにはちゃんと言うよ。いつかあの人が君を尊重できるようになったら、そのときまた、考えてくれないか?」
早絵は泣きながら、うっすら笑った。
瑞樹、もうあなたとのこれからなんて存在しない。
その後の二日間、瑞樹はずっと家にいて彼女のそばにいた。
早絵がほとんど口も利かなくても、彼は自分で台所に立ち、好物をせっせと作っていた。
それでも、千鶴のタイムラインにはまた新しい投稿が増えていた。
瑞樹が注文したベビー用品が届いた。
瑞樹は千鶴のために最高級の産後ケアセンターを予約した。
瑞樹が特別に手配された妊婦用の食事も、千鶴の元に届けられた……
そのすべての投稿に、瑞樹は「いいね」を押していた。
夜、瑞樹が足湯の準備をしてくれているとき、スマホの着信音が鳴った。
「義弟から。大口の契約が取れたって、みんなで祝うから一緒に来てくれってさ」
スピーカーに切り替えると、隼人の声が響いた。
「姉ちゃん、ずっと会ってないし。義兄さんと一緒に来てよ」
出発まで、もう残り二日。次に会えるのがいつになるかもわからない。
唯一の弟。早絵は断れなかった。
「うん、行くよ」
隼人は友人たちを呼び、時家の庭でバーベキューをすることになった。
早絵たちが到着すると、隼人がすぐに駆け寄ってきた。
「姉ちゃん、タバコ嫌いだろ?ちゃんとみんなにしまってもらったよ。俺、気が利くだろ?」
その言葉の直後、周りの誰かがツッコミを入れた。
「いや、それ瑞樹さんが事前にメッセ送ってたんだろ?なんでお前の手柄になってんの?」
「瑞樹さん、早絵さんのことマジで甘やかしてるよな」
隼人も笑った。「そりゃ当然っしょ。じゃなきゃ、俺が義兄さんとして認めるわけないし」
瑞樹は袖をまくって、早絵の好きな食材を手に取り、網の上に並べ始めた。
「いくら手間かけても、俺の嫁なら当然だろ」
「早絵、こっち座れ。煙が来ない場所にしてある」
「食べたいのあったら言って。俺が焼くからな」
早絵は黙ったまま、ひと言も返さず、付き合う気も起きなかった。
隼人が突然声を上げた。「義兄さん、酒切れたから、地下の倉庫から一緒に持ってこようぜ」
瑞樹は早絵の頭を撫でて、「待っててな。すぐ戻るから」
ふたりが出ていった直後、千鶴から現在地の共有が送られてきた。
千鶴もまさか時枝家に来ているなんて。
早絵の胸がぎゅっと締めつけられた。隼人が感情的になったらまずいと、すぐに立ち上がって後を追った。
だが、想像していたような修羅場はなかった。そこにいたのは、三人で仲良く談笑している姿だった。
千鶴は瑞樹の指に自分の指を絡めて、「あなたの息子がさ、さっきからずっと蹴ってるの。パパに会いたいんだって」
「義兄さん、ふたりで話してて。俺、酒運んでくるから」隼人は意味ありげに笑い、場を離れた。
隼人がいなくなると同時に、瑞樹は千鶴を引き寄せた。
「俺に会いたかったの、息子だけかよ?」
「そんなの、わかってて聞いてるくせに」
瑞樹は笑いながら、千鶴にキスを重ねつつ部屋の中へ入っていった。
ふたりが入っていったのは、早絵が嫁ぐまで使っていた、あの部屋だった。
早絵の体から一気に血の気が引き、思わずその場によろめいた。
両親が事故で亡くなったとき、早絵はまだ十三歳だった。
学校に通いながら、弟の隼人を養うためにいくつもバイトを掛け持ちしてきた。どんなに汚れて、どんなにきつい仕事でも、彼女は選ばなかった。
結婚の日、隼人は彼女の手を引いて送り出しながら、息も絶え絶えになるほど泣いていた。
「姉ちゃん、加瀬がもし姉ちゃんを泣かせたら、いつでも帰ってこいよ。姉ちゃんの部屋、ずっと空けて待ってるから」
それなのに今。
一番大切だったふたりに、背中を深く突き刺された。
気づけば、早絵は庭に戻っていた。隼人がちょうど酒を運び出してきたところだった。
視線が交わった瞬間、早絵は口元だけで笑ってみせた。
「彼はどこ?」
第7話
「義兄さん、姉ちゃんのために牛乳温めに行ったよ。冷たいのダメだってさ。マジで、こんなに気が利く男、他にいないよな」
「酒もまだ全部出してないし、ちょうど呼びに行こうと思ってた」
早絵の目は赤く染まり、爪が掌に深く食い込んでいた。
一体何度嘘をついてきたら、ここまで平然と演じられるようになるんだろう。
もう、一秒だってこの場にいたくなかった。
「眠くなったから、先に帰る」
「じゃあ、義兄さんに送ってもらえば?」
早絵はじっと隼人を見つめて言った。「いいよ。彼の邪魔したくないから」
隼人は彼女の表情に気圧され、どこか落ち着かずに言った。「じゃあ俺が車手配するよ」
車に乗る前、早絵はもう一度だけ、自分が育てた弟の顔を見た。
隼人は目を逸らし気味に、「どうしたの、姉ちゃん?」
早絵は視線を外し、無言のままドアを閉めた。
家に着いたばかりで、瑞樹から電話がかかってきた。
「なんで送らせてくれなかったんだよ。こんな時間に一人とか、心配に決まってんだろ」
けれどそのとき、千鶴からのメッセージが届いた。
【最初ってこのベッドだったんでしょ?あの人、お姉さんって保守的すぎて全然つまんないって言ってたよ】
【そりゃ二日間我慢できたわけだ。私、壊れるかと思ったもん】
結婚式の夜、瑞樹は彼女の緊張と不安にすぐ気づいた。
彼は新居を出て、彼女を連れて時枝家へ戻り、昔の自室に入った。
その夜、瑞樹は自分を必死に抑えてまで、早絵の気持ちを最優先にしてくれた。
優しくて、大切にしてくれていた。
早絵が泣けば、彼も泣いた。
「早絵、俺は君を愛してる。絶対に後悔なんてさせない」
でも今、彼女は心から後悔していた。
電話越しに、瑞樹がまた遠慮がちに彼女の名前を呼んだ。
早絵は口元を押さえ、声にならない嗚咽だけが漏れていた。
「電波悪いのかな?大丈夫、車は俺が手配したし、到着確認も出てるよ」隼人の声が続く。
「義兄さん、あとは千鶴さんのとこ戻ってて。後で俺から姉ちゃんにLINE入れておくから」
「お前な、余計なこと言うなよ。バレたら終わりだぞ」
隼人は軽く笑った。「姉ちゃんが俺を疑うわけないだろ。それに妊娠できないのは姉ちゃんだし、誰かが産むしかないじゃん?」
「隼人!」瑞樹が激怒した。「姉ちゃんにそんな口きくな!」
「はいはい、わかったって」
電話が切れた。
すぐに、隼人からのメッセージが届いた。
【義兄さんがせっかく来てくれたから、今日は付き合って飲んでもらうよ。うちに泊めることにした。姉ちゃん、俺がついてるから安心して】
続けて、瑞樹からのメッセージ。
【早絵、眠かったら先に寝ていいからな】
【隼人が初めて大口契約取ったんだ。今日は君の分も含めて、しっかり祝ってやるから、待たなくていい】
早絵は一言も返さなかった。
胸の奥でぐらぐら煮えたぎっていた感情が、ふっと静かに鎮まった。
早絵は自分の涙を拭った。
もう、待つつもりはなかった。
待つに値しない相手に、これ以上自分をすり減らす意味なんてない。
瑞樹も、隼人も、どちらももう同じだった。
早絵は立ち上がり、部屋へ戻って布団に入った。すべての嫌なことを頭の外に追いやり、ぐっすりと眠った。
結婚記念日の朝。
朝早くから、瑞樹は彼女のために朝食を作った。
「早絵、今夜は君のために用意した花火、見れるからな」
早絵は微笑み返しただけで、何も言わなかった。
「ちょっと会社行ってくる。夜は一緒に花火見ような」
瑞樹が席を立とうとしたとき、早絵は引き出しから用意していた離婚届を取り出し、彼の前に差し出した。
「サインして」
第8話
離婚届は最終ページが開かれていて、瑞樹はそれを受け取ると、そのまま迷わず署名した。
「中身、確認しなくていいの?」
「試験管のプラン変更でしょ?早絵がいいと思うなら、それでいい。全部、君に任せる」
彼の背中を見送りながら、早絵はふっと笑みを漏らした。
口では全部自分のためって言いながら、結局、何ひとつ見ていない。
彼女はテーブルの上に六日間置きっぱなしだった薬を手に取り、静かに飲み下した。
腹にそっと手を当てると、喉の奥がひどく痛んで締めつけられた。
赤ちゃん、ごめんね。
これだけ何度もチャンスを与えたのに、彼は一度もそれを掴まなかった。
早絵は荷物をまとめ、一人で病院へ向かった。
「妊娠四週、胎児は心拍もあり、発育も順調ですよ。本当に、諦めていいんですか?」
「……はい、大丈夫です」
「もったいないですね。前回は間違った漢方のせいで胎児が止まり、あれだけ大変な思いをしてようやく授かったのに。次はもっと難しいかもしれませんよ」医師はため息をついた。
「前回、流れたのは……あの漢方のせいだったんですか?」
早絵は顔を上げ、喉が張りついたように乾ききって、言葉を絞り出した。
医師は眉をひそめ、「えっ、加瀬様から聞いてなかったんですか?」
そうか、彼は知ってたんだ。
耳の奥が、ぶうんと唸るように響いていた。
初めて妊娠したとき、瑞樹母は毎週「安胎薬」と称して漢方を届けてきた。
その漢方は苦くて渋くて、毎回瑞樹が甘い言葉で誘って飲ませていた。
結局、引産で身体を壊し、体外受精に頼るしかなくなった。
早絵はずっと、それはただの不運だと思っていた。
五年、六回の試験管。そのうち五回は失敗。
瑞樹はその間、彼女が罪悪感に潰されるのを黙って見ていただけだった。
赤ちゃんがいなくなったのは、彼女が悪くないと言った。
でも、本当に彼女のせいじゃなかったと、一度も口にしなかった。
「加瀬さん?大丈夫ですか?」
医師から差し出されたティッシュを受け取って、初めて自分が泣いていたことに気づいた。
「今はちょっとお辛いようですし、少し時間を置いて、また改めて……」
「もう、考えることなんてないです」
早絵は涙を拭って、静かに、でも強く言った。
「お願いします」
麻酔薬が体に回り意識が薄れていく中、早絵はぼんやりと医師を見た。
「赤ちゃん……痛いかな」
医師は言葉を失い、黙ったまま目を伏せた。
そのまま早絵は深い眠りに落ちた。
目が覚めたのは、数時間後のことだった。
少しだけ体力が戻ったところで、彼女はベッドを降りて歩き出した。
産婦人科の前を通りかかった瞬間、早絵の足が止まった。
少し離れた診察室の前、瑞樹が千鶴と一緒に出てきた。
「わかった?赤ちゃんが挨拶してくれてるんだよ。パパ、ママと赤ちゃんを守ってくれてありがとう」
千鶴は瑞樹の手を自分のお腹に当てて、涙ぐんでいた。
「瑞樹兄ちゃん、さっきお腹痛くなって、ほんと怖かったの」
「バカだな」瑞樹は彼女の額に口づけて、「お前と赤ちゃんは、俺が絶対に守る」
千鶴が瑞樹の胸に顔を埋めたそのとき、偶然にも早絵と目が合った。
千鶴はわざとらしく声を大きくして、得意げに笑った。
「ねえ、今夜一緒にいてくれるよね?」
瑞樹は黙り込んだ。
「彼女と花火なんて、またいくらでも見れるでしょ?でもうちの赤ちゃん、もうすぐ生まれるの。今夜また痛くなったら……」
「瑞樹兄ちゃん、私ほんとに怖いの」
しばらくの沈黙の後、瑞樹はとうとう口を開いた「わかった」
「やっぱり、一番私を大事にしてくれるのは瑞樹兄ちゃんだね」
ふたりが去っていく後ろ姿を、早絵は冷えきった目で見送った。
トレンドに載ってから、もう二十二日が経っていた。
街中の人々が、今夜七時に瑞樹が妻へ贈るという豪華な花火を心待ちにしていた。
瑞樹はそれを知らないわけじゃなかった。知っていながら、彼は早絵を一人にした。
早絵はスマホを取り出し、瑞樹に最後のメッセージを送った。
【あなたへのサプライズ、もう準備できてるよ】
そしてタクシーを呼び、そのまま空港へ向かった。
空港でスマホの電源を落とし、荷物に添えて配達員に手渡した。宛先は加瀬家。
午後七時。
青い花火が予定通りに夜空を裂き、眩く光りながら半分の空を染め上げた。
人々の歓声があちこちで沸き起こる中。
早絵はスーツケースを引いて、搭乗口を静かに通り過ぎた。一度も、振り返ることはなかった。