灰となる薄幸、心を焦がす余燼

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灰となる薄幸、心を焦がす余燼

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私と一条慎也(いちじょう しんや)が籍を入れずに夫婦として暮らして九年目の春、彼の父親が亡くなった。 遺言の第一条は、慎也と水野有希(...

Chương (1)

第1章

私と一条慎也(いちじょう しんや)が籍を入れずに夫婦として暮らして九年目の春、彼の父親が亡くなった。 遺言の第一条は、慎也と水野有希(みずの ゆき)、二人の間に子供をつくること。 その子が生まれて一ヶ月を迎えた時、それが慎也の父親の遺産を正式に相続できる日となる。 この現実を、私は自分と慎也の寝室で二人が抱き合っているのを見てしまった時、慎也自身の口から知らされた。 あの夜、事が済んだあとで、彼は煙草に火をつけて、低く呟いた。 「理央(りお)、もう少しだけ待っててくれ。遺産が手に入ったら、必ず君を迎えに行く」 それからというもの、慎也が有希と家で会うたびに、玄関には小さな鈴の飾りがそっと掛けられた。 父親が亡くなってから今日まで、その鈴が鳴ったのは九十九回。 そして九十九回目のあと、私の耳に届いたのは―― 有希の妊娠と、二人の婚約披露宴の日取りの知らせだった。 娘は披露宴の招待状を見て、不安げに小さな声で私に訊いた。 「どうして、この招待状の中にパパの名前があるの?」 私はなんとか微笑みを作り、彼女の乱れた三つ編みを直してやる。 「パパは愛する人と結婚するの。ママも君を連れて、おうちに帰るよ」 慎也は知らない。私は、あの婚姻届に、一度たりとも執着したことはなかったのだ。 第1話 私と一条慎也(いちじょう しんや)が籍を入れずに夫婦として暮らして九年目の春、彼の父親が亡くなった。 遺言の第一条は、慎也と水野有希(みずの ゆき)、二人の間に子供をつくること。 その子が生まれて一ヶ月を迎えた時、それが慎也の父親の遺産を正式に相続できる日となる。 この現実を、私は自分と慎也の寝室で二人が抱き合っているのを見てしまった時、慎也自身の口から知らされた。 あの夜、事が済んだあとで、彼は煙草に火をつけて、低く呟いた。 「理央(りお)、もう少しだけ待っててくれ。遺産が手に入ったら、必ず君を迎えに行く」 それからというもの、慎也が有希と家で会うたびに、玄関には小さな鈴の飾りがそっと掛けられた。 父親が亡くなってから今日まで、その鈴が鳴ったのは九十九回。 そして九十九回目のあと、私の耳に届いたのは―― 有希の妊娠と、二人の婚約披露宴の日取りの知らせだった。 娘は披露宴の招待状を見て、不安げに小さな声で私に訊いた。 「どうして、この招待状の中にパパの名前があるの?」 私はなんとか微笑みを作り、彼女の乱れた三つ編みを直してやる。 「パパは愛する人と結婚するの。ママも君を連れて、おうちに帰るよ」 慎也は知らない。私は、あの婚姻届に、一度たりとも執着したことはなかったのだ。 …… 今日、慎也に食事に誘われた。 彼はまだ会議が終わっておらず、私は先に予約してあった個室に入った。 彼を待つ間、スマホを取り出して帰省の航空券を検索する。ちょうど夏休みの旅行シーズンに重なっていて、一番早い便も十日後しかない。 十日後は、私の誕生日。 そして、あの二人の婚約披露宴の日でもある。 まあ、そんなめでたい日に邪魔をすることもないだろう。 突然、慎也が勢いよくドアを開けて入ってきた。私は驚いて、スマホの画面を慌てて消した。 個室は広いのに、彼はわざわざ私の隣に座り、親しげに手を取った。 その瞬間、九年前に彼が私にプロポーズした夜を思い出した。 あの晩、彼は窓から私の部屋に忍び込み、私の手をゆっくりと唇に引き寄せ、優しくキスを落とした。 その頃の慎也は、まだどこか青くさくて、声も震えていた。 「俺たち、たとえ何度生まれ変わっても、一緒にいよう」――そんなふうに誓ってくれたっけ。 なのに今、彼の指には見慣れない指輪がはめられている。 このブランド、私は知っている。慎也の身分でも、一生に一度しか手に入らない特別なリングだ。 そんなに待ちきれないのね、有希と永遠を誓うのが。 リングの金属面がレストランの照明を反射して、目の奥がじんと痛くなる。 私の視線に気づいたのか、慎也は気まずそうに笑い、指輪を外した。 「ごめん……外すの忘れてた」 私は淡々とした声で答える。 「外す必要なんてないわ。それ、もともとあなたのものでしょう」 慎也は一瞬、動きを止めた。その時、彼のスマホが鳴り始める。電話を取った途端、彼の表情がみるみる曇っていく。 「追突?大丈夫か?君が平気って言っても、医者は何て?……待ってて、すぐ行くから!」 電話を切って、私の方を向く。どうしようもなく困った顔。 「有希が車で追突事故に遭ったみたいで……今、妊娠中だし、誰かがついてないと心配なんだ。悪いけど、今日の食事は一人でお願いできる?必ず埋め合わせするから」 急に、どうでもよくなってしまった。 私は静かにバッグをまとめ、立ち上がる。 「ちょっと用事を思い出したから、先に失礼するわ」 慎也は慌てて私の腕をつかむ。 「怒ってるのか?理央、頼むから、もう少しだけ大人しくしててくれよ。すぐに終わるから!」 私は何も言わず、その手を振りほどいて個室のドアへ向かう。 「理央!理央、待って!」 深く息を吸い、振り返る。 「慎也、私は急いでるの。 もう、待てない」 ――もう、いいわ、慎也。 私は足早に通りに出て、顔を上げる。 誰にも見えない涙が、ひとすじ光った。 十日後だよ、慎也。 ――これで、お互い別々の道を歩いていこう。 第2話 娘が病気になり、会社に休みを申し出て、彼女を病院へ連れて行った。 タクシーに乗ったとき、つい癖で、いつもの住所を口にしてしまった。 降りてから気がついた——そこは一条家が経営する病院だった。 娘は隣で採血されていて、小さな顔をぎゅっとしかめている。 私は心配でたまらず、彼女の頭をそっと撫でて、優しく声をかけた。 その時、不意に院内がざわつき始めた。 顔を上げると、見慣れた姿がこちらへ歩いてくる。 ――慎也だ。 数日前、有希が事故に遭ったせいで、一条夫人はすぐに彼女を病院で静養させると決めた。 今、有希はこの病院の最上階で入院しているはずだ。 慎也はこちらに気づいたようで、驚いた顔をして私たち親子に近づいてきた。 「楠乃(くすの)はどうしたんだ?それに……なんで俺に一言も連絡しなかった?」 私は鼻で笑い、スマホを取り出して慎也とのトーク画面を見せつけた。 画面には、三時間前に送ったメッセージがはっきりと表示されている。 慎也は気まずそうに視線を逸らし、何も言わない。少し間を置いて、突然話題を変えた。 「ちょうどよかった……母さんが君に、ちょっと上まで来てほしいって」 私は娘を抱き上げ、慎也に案内を促した。 有希の病室は最上階、一条家専用の個室だ。 部屋に入ると、有希が大きなお腹を抱えて、ベッドから降りようとしているところだった。 慎也は慌てて彼女に駆け寄り、優しく支える。その表情には、彼女を気遣う思いに満ちていた。 一条夫人が私を冷たい目で睨みつけていた。 この家の両親は、昔から私のことを認めたことがない。 私は「私の故郷では、籍を入れずに一緒に暮らすのが普通なんです」と何度も説明してきた。 それでも一条家の両親は、私のことを「無責任だ」「ふしだらな女だ」と決めつける。 さっきまでの冷ややかな態度が嘘のように、一条夫人は有希に向かってにっこりと微笑んだ。 「有希はこの前、大変な思いをしたけど……幸い母子ともに無事だった。 なら、これからのことも、ちゃんと決めないとね」 そう言って慎也の肩を軽く叩き、私には冷ややかな視線を投げる。 「ふしだらな女が産んだ子なんて、ろくなもんじゃない。一条家の名に泥を塗るだけだ。 外では、有希のお腹の子だけが慎也の子供だって言うんだよ」 慎也は顔をしかめ、「母さん、それはさすがに……理央だって……」と反論しかける。 私は深く息を吸い、娘を抱えて慎也の前に立つ。 「ほら、楠乃。これからは、この人のことは『おじさん』って呼ぶのよ。『パパ』じゃない」 そして、一条夫人に向き直り、淡々と告げた。 「お望み通りに」 慎也は驚き、狼狽した表情を浮かべた。 楠乃は状況がわからず、唇を震わせて泣き出す。 慎也には目もくれず、私は楠乃の頬をそっとつまんであやした。 有希は恥ずかしそうに微笑んで、私に視線を送ってきた。 「理央さん……私、本当にあのとき怖かったんです。この子ももうダメかと思って」 そう言って、彼女は目元をそっと拭う。 「慎也から聞いたんです。あのブレスレット、妊婦のお守りになるって……楠乃を生んだときに着けていたそうですね」 有希は私の手首をじっと見つめる。その意図は、言葉にしなくても分かった。 ――そのブレスレットは、私と慎也が付き合って三年目の記念日に、彼から贈られたものだ。 第3話 私は黙ってブレスレットを外し、それを強く掌の中に握り込んだ。 しばらく重苦しい沈黙が流れる。 ふいに私は目元を和らげて、その翡翠のブレスレットを有希に差し出した。 慎也は終始、うつむいたまま何も言わない。 ――滑稽な話だ。さっきまで私は、このブレスレットを見て慎也が思い出し、有希を止めてくれるかもしれない、なんて期待していた。 考えすぎだった。 私は微笑んで言う。 「とても似合っているよ」 楠乃をもう一度抱き直し、その体をぎゅっと引き寄せて背を向けた。 「理央……」 慎也が呼び止めようとするが、一条夫人がそれをさえぎった。 「早く帰しなさい!こんな縁起でもないもの、ここにいたら子どもに悪影響しかないんだから……」 有希が驚いた声を上げる。 「慎也、お腹の子が……動いたみたい!」 「え、本当?……ちょっと触らせて」 私は足早にその場を離れ、後ろの声はどんどん遠ざかっていった。 家に戻っても、楠乃はまだ「パパがいなくなった」という悲しみから抜け出せず、小さな顔をしかめていた。頬にはまだ涙の跡が残っている。 彼女は私の手をぎゅっと握り、しゃがれた泣き声で言う。 「パパと、もう一回だけお誕生日したい……」 私は心配で、彼女の汗ばむ前髪をそっと耳にかけ、膝の上に抱き上げて、優しく言い直す。 「『パパ』じゃなくて、『おじさん』よ、楠乃。もうパパじゃないの。 ママが一緒におうちに帰ろうね、いい?」 「でも、ここは楠乃のおうちじゃないの?」 娘の声は泣きすぎてかすれていた。 「ここは一条おじさんの家。ママと楠乃のおうちじゃないの。 もう少しだけ待ってて。ママがちゃんと連れて帰るから」 楠乃は涙に濡れた瞳で、リビングの隅に置かれたグランドピアノをじっと見つめていた。それは去年の誕生日に慎也が贈ったもの。 そのときは一日中、大喜びでパパにピアノを教えてとせがみ、「私、世界一幸せな楠乃お姫様!」と何度もはしゃいでいた。 慎也もやさしいまなざしで、その様子を見守っていた――まなざしには、父親の愛情があふれていた。 でも、その幸せな日々も、もう過去のものになってしまった。 「もう一回だけ、パパとお誕生日できる?」 小さな娘は、まだうまく「おじさん」と呼び変えることができない。 私は叱ることなく、そっと頭を撫でて答えた。 「うん、ママが一条おじさんに頼んでみるね」 楠乃は、もうどうしても大人たちの争いに巻き込まれてしまった。 私はただ、この子にできるだけの幸せを与えたいと思うだけだった。 第4話 楠乃の誕生日当日、彼女は朝早く目を覚まし、いちばんお気に入りのプリンセスドレスを選んでいた。 前回の教訓を活かし、私は三日前から慎也にメッセージを送っておいた。しかし、返事はなかった。 楠乃は、ピアノの前で「きらきら星」を練習し終えると、期待に満ちた瞳で私を見上げた。 この曲は、去年慎也に教えてもらった、思い出の一曲だった。 この二日間、彼女は何度も繰り返し練習していた。 私と目が合った瞬間、楠乃はすべてを悟ったようだった。 小さくうつむき、ゆっくりとピアノのふたを閉める。 「パパ、忙しいから来られないんだよね」 彼女はケーキの箱を開け、そっと一切れを切り分ける。 「大丈夫だよ、ママ。二人で分けたら、もっとたくさんケーキが食べられるもん」 楠乃のけなげな強がりは、私の胸に刃のように突き刺さった。 私はなんだか自分がとても情けなくなってしまい、娘のささやかな願いさえ叶えてやれない自分がもどかしかった。 ため息をついて、慎也とのチャットを開く。 『楠乃は、あなたと一緒に誕生日を過ごしたいだけ』 『それだけの願いすら、叶えてくれないの?』 五分ほどして、メッセージの通知音が鳴った。 『悪いけど、先に始めてて。誕生日はあとで埋め合わせるから』 怒りがこみ上げてきた、その時だった。相手側でメッセージが削除され、すぐに新しいメッセージが届いた。 『今すぐ行く』 第5話 私は思わず目を輝かせて、楠乃を抱き寄せた。 「一条おじさん、ちゃんと覚えててくれたよ。すぐ来てくれるって!」 楠乃はたちまち元気を取り戻し、またピアノのふたを開けて、幼い指で鍵盤を鳴らし始める。 「『きらきら星』を弾けたら、賢い楠乃だって、パパが言ってくれたの!」 「パパ、きっとすごく驚くよ!」 知らせを聞いてからというもの、楠乃はずっとそわそわしながら、何度も何度も嬉しそうに私に話しかけてきた。 顔いっぱいに幸せな笑顔を浮かべて。 三十分ほど経った頃、玄関のチャイムが鳴る。 楠乃は飛び跳ねるようにドアに駆け寄り、そのまま慎也の胸に飛び込んだ。 「パパ!」 だが、慎也の隣には有希が立っていて、その後ろからは上流階級の知り合いたちがぞろぞろと押しかけてきた。 「一条家の未来の新居に、なんでこんな他人の子がいるの?」 「それに、この女も一体どうやって入り込んだんだ。早く追い出しなさいよ!」 「ほんと、縁起でもない……」 誰も彼もが好き勝手に言いたい放題、私への冷たい視線や噂話が容赦なく耳に飛び込んでくる。 すぐに、警備員たちがこちらへ向かってきて、私を無理やり外へ引きずり出そうとした。 胸の奥で、嫌な予感が一気に膨らむ。 ――慎也、あなたは本気で、私たち母娘をここから追い出すつもりなの? 鼓動がどんどん早くなる。 私は周囲の喧騒など聞こえないふりで、ただ彼の方をじっと見て、静かに呼びかけた。 「慎也……?」 しかし、慎也は反射的に楠乃を腕から押し離し、鋭い目で彼女を睨みつけた。 「勝手に俺を『パパ』なんて呼ぶな!」 そして私からも慌てて目をそらし、集まった人々に向かって言い放つ。 「この人とは、顔を合わせたことはあるけど、特に知り合いじゃない。どこから来たのかも知らないし……勝手に入り込まれて迷惑してる」 有希、その翡翠のブレスレットを手遊びしながら、どこか満足そうに微笑んでいる。それが本当にわざとなのかどうか、私にはわからなかった。 心の中の重い石が、とうとう音を立てて沈んだ気がした。まるで内臓まで引き裂かれるような、痛みが全身を走った。 ――九年という月日が、たった一言「知らない人」で終わるなんて。 楠乃は、押し出された勢いで数歩よろめき、すぐに目が真っ赤になった。 彼女は必死に鼻をすすり、怯えた声で言い直す。 「一条おじさん……」 それでも、ぐしゃぐしゃの顔でピアノの前に歩み寄り、そっと椅子に座る。 「パ……一条おじさん、私、曲を弾いてあげるね」 本当は、どうしてもパパと一緒に誕生日を過ごしたかった。 幼い彼女は、二人だけの思い出のメロディを奏でれば、きっとパパが元に戻ってくれると信じていた。 まだ一音も弾かないうちに、その小さく白い手――今にも折れそうなほど細い楠乃の手首が、誰かにしっかりと掴まれた。 有希は女主人然とした笑みを浮かべて言う。 「ここは私たちの新しい家よ。よその子どもが騒いでいい場所じゃないわ」 楠乃の顔色は一瞬で真っ青になり、どうしていいか分からず、ぽろぽろと涙をこぼした。 大粒の涙が、ひとつ、またひとつと床に落ちていく。 けれど、その様子を見ても、誰一人として同情の色を浮かべる者はいなかった。 娘の涙が次々と頬を伝い落ちるのを目の当たりにした瞬間、私は胸の奥から怒りが一気に込み上げてきた。 気がつけば、数人がかりの屈強な警備員に押さえつけられていた腕を、力任せに振りほどいていた。 傍にあった琉璃の盃をつかんで、思わず慎也めがけて投げつけていた。 慎也は反応が遅れ、鋭いガラスの角が額をかすめて血がにじむ。 「子どもをいじめて楽しいの!?」 私は息を切らしながら、目を真っ赤にして慎也を睨みつける。 真実はとても単純だった。 さっきのメッセージは、最初から慎也が送ったものじゃない。 本当は、有希が彼の名前を使って、わざとみんなの前で私たち親子に恥をかかせ、慎也にも私たちを完全に切り捨てさせようとしたのだ。 でも――こんな茶番、もうこれ以上、付き合うつもりはなかった。 第6話 周囲が急に静まり返り、その場にいた全員が一瞬、息を呑んだ。 このよく分からない女が、御曹司に手を上げるなんて――命知らずにもほどがある、と誰もが思ったに違いない。 慎也は額を押さえ、唇を固く結んでいた。 有希は慌ててお腹を抱え、目を剥いて顔を歪ませ、もはや取り繕う気配すらなく、両手を振り回しながら叫び出した。 「どうしてそんなことができるの!? 慎也を殴るなんて……許せない!みんな、この女をやっつけて!」 号令がかかると、屈強な警備員たちが一斉に私に襲いかかってきた。 力の限り抵抗したが、女の力ではどうしても敵わず、すぐに押さえつけられて床に叩きつけられた。私は精一杯体を丸めて、せめて急所だけは守ろうとした。 「やめて!ママをいじめないで!」 楠乃が絶叫しながら、私のもとへ駆け寄ってきた。 小さな体で私に覆いかぶさるようにして、雨のように降り注ぐ拳を全身で受け止めようとしていた。 私はかすれ声で楠乃の名を呼んだが、彼女を突き放す力も残っていない。 仕方なく、気がつけば身を翻して、楠乃を自分の体の下にかばい込む。 やっとの思いで片目だけ開け、遠くにいる慎也を探した。 彼は唇を震わせていたが、結局何も言えなかった。 私は諦めたように目を閉じ、容赦のない暴力が全身に染み渡っていくのを、ただ無抵抗に受け入れるしかなかった。 もはや、心が動かなくなった。 ――慎也、もう、私たちの間には何も残らない。 娘の泣き声はどんどん大きくなり、その叫びが、ようやく慎也を我に返らせた。 「もうやめろ!有希、止めてくれ!」 慎也が怒鳴ると、有希は渋々手で合図し、ようやく暴力が収まった。 私は荒い息をつきながら、何度も立ち上がろうとしたが、手も肘も床で擦りむけて血が滲んでいた。 その傷は、慎也の額の傷よりも、よほど痛々しかった。 最後には、楠乃が私を支えてくれた。 幸い、私が守ったおかげで大きな怪我はなかったようだ。 有希は人々に囲まれて、まるで主役のように立っていたが、その表情にはまだ怒りと不満が色濃く残っていた。 まるで自分が一番可哀想だと言わんばかりの顔で。 私は体が鉛のように重くて、思うように動かなかった。それでも力を振り絞って楠乃の手をしっかりと握る。 これから先、私たちはお互いだけが唯一の支えになるのだ。 私は最後に一度だけ、自分から慎也に目を向けた。 だが、もうそこには何の感情も湧かなかった。 私はかすれた声で口を開いた。 「お騒がせして、申し訳ありませんでした」 人々に軽く頭を下げ、背筋を伸ばしたまま、ゆっくりとその家を後にした。 楠乃は、もう何も言わず、ただ小さな声で問いかける。 「ママ、荷物はどうするの?」 私は首を振った。 「全部、火事で燃えちゃったことにしよう」 夜も深まり、もう泊まれる場所もほとんどなかったので、私はやむなくホテルを一部屋とった。 部屋は思ったより清潔だった。 そういえば、私と楠乃の誕生日は一日違いだった。 明日は、私の誕生日だ。 ようやく、帰るべき場所に戻る時が来た。 その時、携帯が二度震えた。 画面を見ると、慎也からのメッセージが届いていた。 『この二日間は戻ってこないでくれ。明日は有希の検診があるから、付き添わなきゃいけない』 『あとでまた説明する』 私はしばらくスマホを見つめたまま、何度も文面を書き直しては消した。 結局、たった一言だけ送信した。