風だけが、知っている

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風だけが、知っている

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彼がようやく異変に気づいたのは、若い恋人を連れて海外へ逃避行してから、私からの連絡が途絶えて、丸ひと月が経ったあとだった。 「千紗(ち...

Chương (1)

第1章

彼がようやく異変に気づいたのは、若い恋人を連れて海外へ逃避行してから、私からの連絡が途絶えて、丸ひと月が経ったあとだった。 「千紗(ちさ)の脚の傷、もう治ったか?あいつの皮膚を美和(みわ)に移植させたが、怒ってはいないだろうな」 電話の向こうで、秘書は長く黙り込む。そして、ためらいがちな声で告げた。 「高瀬さんは一か月前に退院されました。もう、朝倉(あさくら)家にはいません」 その瞬間、彼の脳裏にあの日の光景がよみがえる。 ホテルの天井が崩れ落ちたあの瞬間、自分が反射的に抱き寄せたのは、彼女ではなく美和だった。 そして、がれきの向こうで見た―― 千紗の瞳は、もう何も映していなかった。 それは悲しみではなく、静かに閉じていく光だった。 第1話 朝倉怜司(あさくら れいじ)の支援を受けて十年、高瀬千紗(たかせ ちさ)は海外企業からのオファーを受け取った。 カフェのテーブルを囲む友人たちが、半ば叫ぶような声で騒いでいる。 「千紗、本気で言ってるの?もうビザまで取ったって?なんでそんな急に!」 「そうよ、朝倉さん、あんたのことどれだけ大事にしてきたと思ってるの?十年だよ?お姫さまみたいに甘やかされてきたじゃない!」 「九十九回もプロポーズしたんだよ!みんなで見てきたんだから!映画よりロマンチックで、あんた一度も頷かなかったのに、それでも朝倉さんは諦めなかった。それこそ本当の愛じゃないの?」 「まさか柚木美和(ゆのき みわ)のせいじゃないよね?あの子、新しく朝倉さんに支援された子でしょ?身の上が可哀想だからちょっと構ってるだけで、比べ物にならないって!」 「そうそう、あんなの一時の気まぐれよ、朝倉さんの本命はどう見たってあんただってば!」 「……」 愛? 千紗は顔を上げた。喧しい声を通り越して、向かいの通りに視線を向ける。 見覚えのある黒い車が、ゆっくりと止まる。運転席の男が身を傾け、隣の少女の髪を、ごく自然に撫でて整える。 怜司だった。 その隣で美和が、顔を上げて笑っている。目尻が柔らかく弧を描き、その横顔が――若い頃の自分に、少し似ていた。 怜司の顔に、久しぶりに見る笑みが浮かぶ。力の抜けた、優しさすら感じる穏やかな表情。 けれどそれは、もう半年以上、千紗には向けられたことのない笑みだった。彼が自分を見るときの顔はいつも、疲れていて、どこかうんざりしている。 友人たちも、千紗の視線を追ってその光景を見てしまう。笑い声が止まり、空気が凍る。 「……偶然じゃない?たまたま見かけただけよ、きっと」 「朝倉さんも、ああやって誰かに……」 言葉が続かない。 千紗は視線を戻し、カップを手に取った。コーヒーをひと口。苦味が舌に広がり、胸の奥まで染み込んでいく。 「ごめん、ちょっと疲れたの。海外に行くことは、もう決めたから」 立ち上がり、静かに微笑んで店を出た。 午後の風が頬を撫でた。陽は暖かいのに、なぜか肌寒かった。 十年。 あの日、彼に拾われたときのことを思い出す。湿った匂いの部屋の隅で、怯えて息を潜めていた自分。 怜司はそんな自分を見つけ、手を差し伸べた。礼儀を教え、世界を見せ、贅沢も愛情も惜しみなく与えた。 彼の隣に立つことが、すべての誇りだった。 九十九回のプロポーズ。そのどれもが華やかで、完璧で、夢のように美しかった。 けれど心のどこかで、いつも不安が囁いていた――これは夢だ、目が覚めれば消えてしまう。 だから彼女は、待った。もっと自分が相応しくなるまで、この愛を信じ切れる日が来るまで。 変化が始まったのは、一年前。 怜司は美和を連れて現れ、少女の髪を撫でながら、冗談めかして言った。「千紗、見てみろよ。お前の小さな代わりを見つけたんだ。面白いだろ?」 やがて美和が、彼女の大切にしていたオルゴールをわざと落とした。怒る千紗に、怜司は眉をひそめて言った。「子どもみたいに怒るな、あの子はまだ若いんだ。壊れたなら、もっといいのを買えばいい」 香水の匂い。知らない番号からのメッセージ。説明も、否定もない。代わりに届くのは、ブランドの袋と「わかってくれ」の一言。 疲れた声で、彼は言った。「頼むよ千紗、少しは理解してくれ。俺だって忙しいんだ」 最後のプロポーズは、九十九回目。星空の下で指輪を差し出した怜司の瞳は、どこか遠くを見ていた。「次で百回目だ、今度こそ頷いてくれるんだろ?」 けれど、百回目は来なかった。 その代わりに訪れたのは、酔った夜のことだった。怜司は千紗の肩を抱き寄せ、軽く笑いながら、残酷な声で言った。「千紗、正直に言うとな……どんな料理でも十年も食えば飽きる。おとなしくしてりゃ、そのうち新鮮味も冷める。そしたら結婚してやるよ」 ――飽きた。 その言葉が、胸の奥に突き刺さった。 そして、最後の幻想は、先週の二十五歳の誕生日に、音もなく砕け散った。 彼女は夜通し待った。メッセージ一つ、電話一本、来ないまま朝が来た。 スマホに最後に届いたのは、匿名の送り主からの数枚のぼやけた写真だった。ホテルの前で、怜司が美和の腰を抱き、親しげに中へ入っていく。 十年のあいだ、彼が自分の誕生日に姿を見せなかったのは、これが初めてだった。 その瞬間、心の中で、何かが静かに崩れ落ちた。 千紗は歩みを止め、深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。 千紗は顔を上げ、枝葉の隙間から空を見上げた。高くて、青い。 スマホを取り出し、メールを開く。そこには、海外企業から届いたオファー。返信欄に指を滑らせ、たった一言を打ち込む。 ――【よろしくお願いします】 十年の夢から、目を覚ます時がきた。 第2話 ビザセンターの窓口で、千紗は最後の書類を差し出す。 職員が手早く確認し、顔を上げる。「はい、書類は全部揃ってますね。結果は一か月後、メールでお知らせします」 千紗は小さくうなずいた。「ありがとうございます」 振り向いて、出口へ歩き出そうとする瞬間。 「どこへ行くつもりだ!」 不意に響いた声が、空気を裂いた。疑いと怒りを含んだ、聞き慣れた声。 千紗の足が止まり、ゆっくりと振り返る。 数メートル先に、怜司が立っていた。険しい顔をして。 その腕にしがみついているのは美和。千紗と目が合った瞬間、美和は怯えたように目を伏せ、それでも唇の端がかすかに上がる。 千紗の唇がわずかに動いた。何かを言おうとしたその瞬間、怜司は冷たく言葉を遮った。 声には苛立ちが混じり、まるで当然のように命じる調子だった。「ちょうどいい、わざわざ言う手間が省けた。月末の海外オークションには、美和を連れて行く」 怜司は横目で美和を見て、声の調子をわずかに和らげた。「美和はまだこういう場を知らないんだ、見せてやろうと思って。お前はもう何度も行ってるだろ。もう飽きただろうし、今回はやめておけ」 千紗は呆然と立ち尽くす。 一週間前―― 怜司は書斎で彼女を後ろから抱きしめ、顎を彼女の髪に預けながら、オークションカタログをめくっていた。指先で一枚のページを指し、微笑んで言った。「このピンクダイヤ、お前に似合う。百回目のプロポーズはこれにしよう」 その言葉を、彼はもう忘れていた。 千紗は黙って怜司の顔を見つめた。冷たい光を宿したその瞳に、言葉は一つも届かないと悟った。 彼女は小さくうなずいた。「……わかった」 「待て」怜司の声が低く響いた。命令のように。「一緒に行こう。車は外にある」 建物の前に、見慣れた黒いベンツが停まっていた。千紗はいつものように助手席へ向かい、ドアに手をかけた。 その瞬間、怜司の眉がぴくりと動く。 「怜司さん!」美和が甲高い声を上げ、シートの背を指さした。そこには、明るいピンクのハローキティのステッカー【美和専用席】 「ほら、貼ったままだよ!」 声には、甘ったるい笑いと、勝ち誇った響きが混じっていた。 千紗の手が宙で止まった。落ち着いた車には似つかわしくない、子どもじみたステッカーが目に入る。胸の奥を、見えない手で強く握り潰されたように痛みが走った。熱いものが鼻の奥までこみ上げ、視界が滲む。 その席に、彼女は十年近く座ってきた。 怜司が一瞬だけ視線を逸らし、わずかに咳払いした。だが次の言葉は容赦なかった。「美和は車酔いするんだ。後ろの席じゃきつい。悪いけど、今回は後ろに座ってくれ」 ――悪いけど。 千紗の胸の奥で、何かがひどく痛んだ。けれど声には出さなかった。「……わかった」 彼女は静かに頷き、手を引いて後部座席のドアを開けた。 車内はもう、まるで別の場所だった。 ピンクのウールのクッション。甘ったるくて、むせ返るようなアロマの匂い。座席ポケットには、美和のお菓子がぎっしり詰まっている。 自分の痕跡は、跡形もなく消えている。 車が動き出す。 前の座席から、ふたりの声が絶え間なく続く。 「怜司さん、スイスって今寒いの?」 「寒いよ。白い毛皮のコート、持ってきただろ」 「やった!あの雪山が見える部屋に泊まろうね!」 「ああ、いいよ」 ひとつひとつの言葉が針のように胸を刺した。 千紗は顔を背け、窓の外を必死に見つめた。街の景色が勢いよく後ろへ流れていく。爪が手のひらに深く食い込み、痛みが遅れてやってくる。 ぼんやりした一瞬、景色が重なった。 何年も前――そのときも、この同じ車だった。怜司は初めて千紗を海外に連れて行き、窓の外の見知らぬ景色を興奮したように指さしていた。 その手で、彼女の手をぎゅっと握りしめ、チケットもホテルの予約票も旅程表も、全部彼女に押しつけて笑った。「これからは、どこへでも一緒に行こう」 そのとき、彼の目には彼女しか映っていなかった。 ――ギィッ。 ――ドンッ! 突然、激しい衝撃が車体を襲う。 世界が回転する。金属が軋み、ガラスが砕ける音が響く。 車は横滑りしながら止まる。 千紗の身体は後部座席に押し潰され、痛みが全身を貫く。 呼吸をするたび、胸が焼ける。血の匂いが鼻を満たした。 前の座席から、うめき声が聞こえた。 次の瞬間、怜司の声。震えた声が、恐怖に滲む。 「美和!美和!大丈夫か!?安心しろ、俺がいるから!救急車!早く!」 ……彼は、忘れていた。 後ろにも、もうひとり人間がいることを。 千紗が、まだ息をしていることを。 千紗は、潰れたドアの隙間から、血にまみれた手で、少しずつ這い出した。 血が片方の目を塞ぎ、動くたびに意識が遠のく。 ようやく身体を引き抜き、冷たくざらついた路面に倒れ込む。息を荒く吐き出しながら、全身が震えて止まらない。 千紗は、必死に頭を持ち上げた。 眩しい陽射しが目を焼き、視界が滲む。 怜司は美和を横抱きにし、恐る恐る抱きかかえていた。まるで世界でいちばん壊れやすい宝物を守るように。よろめきながら、狂ったように救急車へ駆け寄っていった。 彼は、一度も振り返らない。ほとんど廃鉄と化した車を、見ようともしない。 後ろの席に、まだひとり残っていることも、思い出しもしない。 千紗は冷たい地面に崩れ落ち、血と埃にまみれた顔で、救急車のドアが閉まるのを呆然と見つめている。その扉がふたりの姿を遮り、サイレンの音とともに遠ざかっていく。 温かい血が額を伝い、ぽたりと地面に落ちる。 第3話 病院の中は、騒然としている。 怜司はほとんど怒鳴るように、駆けつけた主任医師の胸ぐらを掴んだ。「助けろ!早く治せ!一番いい薬を使うんだ!最高の医者を呼べ!」 目は血走り、指先まで震えていた。そのすべての焦りと恐怖は、今まさに手術室へ運ばれていった少女――美和に向けられていた。 混乱がようやく収まったとき、ようやくひとつの思いが、止まりかけた頭に落ちた。 ――千紗。 怜司の心臓が強く縮み、慌ててポケットに手を突っ込む。震える指先でスマホを探りながら、秘書に連絡して現場へ向かわせようとした。 そう思った瞬間、廊下の端に見慣れた影が見えた。 千紗だった。彼女はゆっくりと歩いてきた。まるで刃の上を進むように、ぎりぎりの足取りで。 額の血はすでに乾き、その暗い赤が蒼白な頬に生々しく残っていた。埃まみれの服が痛々しく、その姿は惨めで脆く見えた。 怜司の胸が痛む。ほとんど走るように彼女へ駆け寄り、腕を支えた。「千紗!大丈夫か?どこをケガしたんだ?さっき……」 怜司は言葉にならないまま、千紗の血の気のない顔を見つめた。遅れてやってきた恐怖が、胸の奥を締めつける。「美和がさっき気を失ったんだ。お前のことを忘れてたわけじゃない、わざとじゃないんだ」 千紗は顔を上げた。その瞳は虚ろで、怜司の焦った顔を見つめながらも、何も映していなかった。 彼女はそっと、その手を振りほどいて、ひとことも、言わなかった。 怜司は、千紗の死んだような反応に、かえって動揺した。無意識に視線を下げ、そして息を呑んだ。 彼女のすねには、長く深い傷が走っていた。皮膚は裂け、血と埃にまみれ、周りは青黒く腫れ上がっている。痛々しいほどの光景だった。 さらに目を奪われたのは、その傍らにあるいくつもの古い傷跡だった。白い肌に刻まれた、細く硬い線。 怜司は知っていた。千紗が傷跡の残りやすい体質だということを。 この十年間、彼は細心の注意を払い、新しい傷をひとつも増やさせないように守ってきた。 「先生!こっちへ!早く診てくれ!」怜司の声が鋭く響いた。通りかかった医師の腕を強く掴み、怒鳴りつける。「最高の薬を使え!最高の技術で治すんだ!絶対に跡を残すな!いいな!」 そして、千紗の肩を押さえ、必死に言葉を重ねた。「大丈夫だ!今の医療は進んでる、傷跡なんて残らないはずだ」 彼の瞳には、本気の心配と焦りがあった。千紗は、その色を見て一瞬だけぼんやりした。 そのとき――手術室の扉がわずかに開き、看護師が顔を出した。「朝倉さん!柚木さんが目を覚ましました。情緒が不安定で、あなたを呼んでます!」 怜司の身体がびくりと固まった。すぐに首をめぐらせ、視線を手術室の方へ向ける。その目にあった焦りが、瞬く間に別の方向へ移った。 看護師が、声を落として続けた。「顔の傷が少し深くて……感染もあります。組織が一部壊死しかけていて、処置をしても……おそらく、普通には治りません。永久的に凹んだ跡が残るかもしれませんし、顔の筋肉にも影響する可能性があります」 手術室の中から、美和の泣き声が響いた。胸を裂くような、叫びにも似た声だった。 怜司の顔色が何度も変わる。救急室の方を見ては、すぐに千紗の脚へ視線を戻す。その瞳の奥で、激しい迷いが揺れていた。 そして次の瞬間――何かを振り切るように、怜司は千紗の前に歩み寄った。喉が上下に動き、声は乾いて掠れていた。「千紗……美和の顔が、ひどく傷ついたんだ。医者が言うには、少しでいい、健康な皮膚を移植すれば治るって」 千紗ははっと顔を上げ、怜司を見つめた。信じられず、思わず息を呑む。今の言葉が幻聴ではないかと思った。 反射的に首を振り、身体をわずかに引いた。 「ほんの少しだけだ!」怜司は慌てて言葉を継いだ。だが、その目は彼女の視線をまっすぐに受け止められず、すぐに手術室の方へ逸らされた。 中から聞こえる美和の泣き声が、怜司の背を押した。「美和はまだ若い。顔に傷が残ったら一生が台無しになる。千紗……」彼は一瞬、言葉を詰まらせた。喉の奥でその言葉が焼けるように熱く、それでも、吐き出した。「十年の恩を返すと思ってくれ。俺はお前を十年、養ってきた」 ――十年の恩。 その言葉が、まっすぐに千紗の胸に突き刺さった。心の奥をえぐられ、血の気が引いていくのがわかった。 目の前の男を見つめる。十年寄り添ったはずの人。けれど今そこにいるのは、もう知らない誰かだった。彼の顔には、別の女のために心を焦がす痛みが浮かんでいた。その視線の先で、自分の脚にはまだ血の滲む傷。ついさっきまで「絶対に跡を残さない」と誓ったその口が、今は別の女のために皮膚を求めている。 胸の奥を押し潰すような痛みが広がった。言葉にならない苦しさが喉を塞ぎ、息さえ重かった。 千紗は唇を開いたが、声は出なかった。 そして――極めてゆっくりと、首を縦に振った。 怜司はほっと息を吐いた。けれどその顔に浮かんだのは、安堵とも痛みともつかない表情だった。彼は視線を逸らし、慌ただしく命じる。「早く!手術の準備をしろ!麻酔を強めろ!絶対に痛がらせるな!」 そう言い残して、怜司は救急室へ駆け戻った。泣きじゃくる美和を抱きしめるために。 千紗はストレッチャーに乗せられ、手術室へ運ばれた。まぶたを閉じたとき、熱い涙がひとすじ頬を伝った。 麻酔が効き始める直前、千紗の脳裏に浮かんだのは、ただひとつの思いだった。 ――これで、いい。 一枚の皮で、十年の借りを返す。 目を覚ましたとき、麻酔の余韻がまだ身体に残っていた。世界が薄い靄に包まれているようで、意識は遠く霞んでいた。 脚に、鈍い痛みがじわじわと広がる。 千紗は、ゆっくりと首を傾けた。 病室の中。怜司は少し離れたソファに座っていた。けれど、その視線も手も、すべては腕の中の細い影に注がれていた。 美和は頬に包帯を貼り、怜司の胸にもたれながら、かすかにすすり泣いていた。 怜司は優しく彼女を抱き、背中を撫でていた。「泣くな、もう大丈夫だ。手術はうまくいったから、跡は残らない。俺がついてるからな」 怜司の声は、驚くほど優しかった。そして真剣だった。その優しさも、視線も、心のすべてが――もう別の人に向けられていた。 千紗はそっと視線を逸らした。震える指先で、布団の端を静かにめくる。 太ももの外側には、厚いガーゼが重ねられていた。 その縁から、赤く腫れた皮膚がわずかに覗いている。 かつて、彼女がいちばん恐れていたもの。 ――傷跡。 今、それが本当に残っていた。 胸の奥が痛んだ。まるで、あの皮膚と一緒に心までもえぐり取られたように。 けれど、それでいいと思った。 一枚の皮で、十年分の借りを返した。 ――これで、帳消しだ。 第4話 脚の傷は思うように治らない。昼も夜も、鈍い痛みが波のように寄せてくる。 医師がガーゼを外して診ると、眉をひそめる。「絶対に食事に気を付けてください。お酒、辛い物、刺激物は一切だめです。炎症が出れば、さらに深い跡が残ります」 怜司は横で真剣にうなずく。「わかりました、先生。気をつけます」 家に戻ると、怜司はネクタイをゆるめ、ゆっくり階段を上がっている千紗に声をかける。「今夜は大事な祝賀会だ。美和も行く。初めてで何もわからないから、目を配ってやってくれ」 千紗は足を止めず、背中がわずかにこわばり、低く応える。「うん」 夜の祝賀会はまばゆい。光と香りが渦を巻き、人の波がきらめく。 千紗は黒のロングドレス。目立たないように、気配を消す。 美和はピンクのショートドレス。怜司の腕にぴったりとつき、好奇心いっぱいに視線を走らせる。 ひそひそ声が、蚊みたいに周りを飛び交う。 「本命と予備、一緒に来たわね」 「最近はあの若い子ばかり、いろんな所へ連れていってる」 「千紗さんもお立場が危ういわね。十年の情なんて、男には軽いもの」 ひとつひとつが細い針になって、穴だらけの心に刺さる。 化粧室から出た瞬間、手首を荒くつかまれる。壁際へ引きずられ、息が詰まる。 怜司の顔は血の気を失い、冷たくこわばっていた。怒りと苛立ちが目にのぼる。「どこへ行ってた?美和を見てろと言っただろ」 痛みで言葉が出ないうちに、半ば引きずられて会場の中央へ戻される。 そこは気まずい空気で張りつめている。取引先の山田(やまだ)社長が胸元をびしょ濡れにし、酒臭い息で怒鳴っている。 「どれだけの服かわかってるのか?弁償できるのか?」 美和は怜司の背にしがみつき、涙で震える声。「怜司さん、わざとじゃないの。さわられて、怖くて……」 怜司の表情がさらに沈む。美和を庇い、山田社長に頭を下げる。「誤解です。服は十倍で弁償します。彼女のことは、俺が代わりに謝ります」 「謝る?」山田社長は鼻で笑う。頬は赤く、執拗に言い募る。「謝るなら、形ってもんがある。そうだな……」 指が美和を指す。「この酒、全部飲め。一滴も残すな。でなきゃ、タダじゃ済ませられない」 それは度数の高い酒だ。 美和は悲鳴を上げ、怜司の腕にすがる。「いや!飲めない!そんなの飲んだら、死んじゃう」 山田社長はいやらしい目で千紗と美和の間を往復させ、口の端を吊り上げる。「じゃあ、二択だ。どっちが飲むか、朝倉さんが決めな」 会場の視線が一斉に怜司へ集まる。 怜司の唇が強張り、視線がふたりの間を素早く行き来する。 迷いは、三秒も続かない。 指が千紗を指す。視線は向けないまま、低く言う。「彼女が飲ます」 耳の奥で、ブーンという音が鳴り、医師の言葉がよみがえる。 脚の奥で、鈍い痛みがじわりと広がる。 ――忘れている。 いや、もう気にしていない。 怜司の意識は、怯えた美和だけに注がれている。背をさすり、落ち着かせ、こちらには目もくれない。 心が死んだとは、たぶん、こういうことだ。 千紗は口角をわずかに引く。笑っているようで、泣くよりひどい顔になる。 彼女は何も言わず、視線も上げず、歩み出て、酒瓶を取る。 最初の一口で喉が燃える。刃で線を引かれたみたいな痛み。胃が波打つ。 一杯。 二杯。 三杯―― 歓声が遠のく。見えるのは、怜司が大事そうに美和を抱える背だけ。 十杯。一滴も残さないまま。 空になった瓶を、卓上に置く。喉が痛くて声が出づらい。胸には風穴が開いたみたいだ。 「これで、いいですか」 山田社長は一瞬だけ目を丸くし、鼻を鳴らして黙る。 怜司はそのときやっと気づく。眉がわずかに寄る。だが、腕の中の美和がまたしゃくり上げ、彼の注意はたちまち吸い寄せられる。 千紗は踵を返す。ふらつく足で、化粧室へ駆け込む。 化粧室の扉をバンと叩き閉め、冷たい洗面台に突っ伏す。激しくえずくが、何も出ない。 冷や汗がにじむ。身をかがめ、震える指でドレスの裾を持ち上げる。傷が開いていないか、血が滲んでいないか、確かめようとする。 痛むところへ、つい息を吹きかける。子どものころ、転んだ膝に自分でフーフーしたみたいに。 そのとき、隣の個室から、聞き覚えのある男女の息が漏れてくる。 怜司の声は、火がついたように甘い。「小悪魔だな。人を狂わせて……」 美和の笑いがからみつく。「ねえ、怜司さん。千紗さん、どうするの?」 「あいつなんてどうでもいい。お前が一番大事だ」言葉はすぐに、口づけの湿った音に溶ける。布の擦れる気配が重なる。 音は遠慮なく、大きくなっていく。 千紗はかがんだまま、動けなくなる。 痛みで、息もうまくできない。 第5話 祝賀会のざわめきがしだいに収まっていき、会は終盤に入る。 誰かが「記念写真を」と言い出し、人々が笑いながら中央に集まっていく。 怜司は、会場の隅の影にひとり立つ千紗を見つける。 血の気のない顔。彼は歩み寄り、声を和らげ、わずかな後ろめたさを滲ませながら、指先で頬に触れようとする。千紗はそっと顔をずらして避ける。 彼の手が空中で止まり、間を置いて下りる。「脚、まだひどく痛むか?」 怜司は声を落とす。「帰ったら佐々木(ささき)教授に連絡して、海外で開発された特効薬を取り寄せる。傷跡にはそれがいちばんだ。絶対に跡は残させない」 千紗は顔を上げ、静かな視線が怜司の顔をかすめ、背後で裾をつまんで駆け寄る美和へと落ちる。 ふたりとも、頬がほんのり赤い。 嫌でも目に入って、胸に苦いものが広がる。 「うん」千紗は低くひと言だけ答える。 怜司は、その従順さにわずかに驚く。 いつもの彼女なら、とっくに怒って、問い詰めて、泣いて、説明を求めていたはずだ。 怜司は、静まり返った横顔をしばし見つめる。「最近、静かだな」声に、探りの色が滲む。 千紗は黙ったままだ。 静か? 彼女はかつて、声が枯れるまで怒り、泣き、問いただした。 代わりに返ってくるのは、いっそう冷えた不機嫌と、美和へのさらに露骨なひいきだけ。彼の振る舞いがはっきり物語る。千紗の感情はどれほど値打ちがなく、どれほど子どもじみているか。 もうすぐ発つ。ビザは間もなく下りる。 もう、どうでもいい。最後くらい、争う力も惜しむ。 人の波が押し合い、カメラマンが「こちら、レンズを見てくださーい」と声を張る。 ドォン―― 頭上で鈍い爆音が裂け、水晶のシャンデリアが狂ったように揺れ、照明が一斉に消える。 宴会場全体が激しく揺れ始める。 「キャー!」 悲鳴、泣き声、割れる音が一気に押し寄せる。 天井パネルが大きな塊となって剥がれ落ち、人々は一斉に四方へ逃げ出す。 彼らの立ち位置は、ど真ん中。最も危険な場所だ。 巨大な装飾パネルが、風を切って一直線に落ちてくる。 次の瞬間、怜司の顔色が変わる。最も近くにいた美和を胸に引き寄せ、背で庇い、分厚い円卓の下へ滑り込む。 千紗はすぐそばにいて、彼の動きが起こす風圧すら感じる。 不意の事故に、思考が止まり、怜司が迷いなく別の人を守る背中を見つめる。 十年。 思い出が、一気に脳裏を駆け抜ける。 ――あの古い団地で。高いスーツのまま、彼は手を伸ばしてくれた。暗がりがふっと明るくなるみたいに。 ――不器用な指で髪を束ね、初めてのケーキを分け合った。その甘さが、やけに嬉しかった。 ――九十九回のプロポーズ。あの目には、たしかに愛があった。 愛も憎しみも絡まって、十年。 結局、手の中には――何も残らない。 鋭い破片が、怜司の後頭部めがけて落ちてくるのが見える。 考えるより先に、身体が走る。 千紗は踏み込み、円卓の下で美和を庇う怜司の背を、全力で突き飛ばす。 ほとんど同時に―― ドンッ! 重い破片と折れた飾りが雪崩れ込み、千紗を一気に呑み込む。 怜司は弾かれて前のめりに倒れ、はっと振り向く。 千紗が立っていた場所は、乱れたがれきに覆われ、白い手が一本だけ、外へ無力に垂れている。指先は、かすかに丸まっている。 怜司は、そこで固まる。 「怜司さん、怖い……」腕の中の美和の泣き声が、怜司を我に返す。 救助隊がすぐ到着し、混乱の中で生存者を探す。 見つかる。 医療スタッフが手早く診て、せかす。「担架を!ここに傷者二人!車はあと二人いける、急いで」 怜司は、震えて泣きやまない美和を支えて立たせる。 反射で口が動く。「まず美和を運んでくれ、顔は移植したばかりだ、感染だけは絶対に避けてくれ、ミスは一つも許されない」と言いながら、彼女の頬を指し示す。 言い終えてから、やっと床に倒れる千紗へ目を向ける。眉を寄せ、早口でなだめる。「千紗、少しこらえてくれ。すぐに二台目を回させる。大丈夫だ、頑張れ」 少し間を置き、腕の中の美和を抱き寄せて付け加える。「美和は臆病で、怯えてるんだ。俺がそばにいないと」 千紗は冷たい装飾の破片の中に横たわり、意識が朦朧としても、その言葉をはっきりと聞く。 胸の奥の最後の小さな火が、ぷつりと消える。 やっぱり。また、同じだ。 失望すら遠のき、痺れるような苦さだけが残る。最初から、わかっていたはずだ。 残っている力のすべてで、ほんのわずかに頷く。わかった、いいよと合図する。 怜司はその物分かりのよさにほっと息をつき、もう迷わない。泣きじゃくる美和を庇い、担架の後を早足で追い、二度と振り返らなかった。 闇と静寂に沈み、千紗は遠ざかる足音と救急車の鋭いサイレンを聞く。 意識は、波が引くように、ゆっくりほどけていく。 第6話 千紗は目を開ける。焦点が合うまで、ずいぶん時間がかかる。 固くなった首を、痛みに耐えてわずかに動かす。 病室は静かだ。 ベッド脇には、誰もいない。 喉が焼けつくように渇いている。起き上がって水を飲こうとわずかに体を動かすだけで、全身の骨がばらけるように痛む。とくに、上から押し潰された背と脚が鋭くうずく。 病室のドアが、そっと開く。 入ってきたのは怜司の秘書だ。手に書類を持っている。 「高瀬さん、目を覚まされたんですね」秘書は小走りで近づき、簡潔に伝える。「三日間、意識がありませんでした。全身に打撲があって、軽い脳しんとうです。しばらく静養が必要です」 千紗は唇を開く。「彼は?」 秘書の顔に、わずかな気まずさが走る。眼鏡に手を添えて言う。「社長は、昨日の便で柚木さんを連れてヴェルヌへ行きました。前から決まっていたオークションで、柚木さんが楽しみにしていまして……水を差したくないと。ご用があれば、何でも私に言ってください」 覚悟していたはずなのに、胸が不意に強く刺される。痛みが、細かく広がっていく。 命を賭けて、彼を庇った。 死にかけたのに。 それでも彼は、ベッドの傍で目覚めを待つことさえ、しなかった。 痛みが極まると、かえって何も感じなくなる。 千紗は秘書を見て、ゆっくり頷く。「わかった。ありがとう」 秘書はどこか安堵した顔で、書類と栄養剤を置き、医師の注意をいくつか繰り返すと、足早に出ていく。 病室は再び、音が消える。 千紗は枕にもたれ、しばらく虚ろに座ってから、ゆっくりとサイドテーブルのスマホを手に取る。 SNSの通知が、赤く点る。無意識のまま開く。 画面は、美和の投稿で埋まっている。 九枚の写真。 ファーストクラスの座席。セレス湖のホテルのテラス。オークション会場の内観。 どれも、美和は花が咲くように笑い、怜司に寄り添っている。 怜司が顔を傾け、千紗が長いあいだ見なかった優しい目で、美和を見ている。 【怜司さんが、ここのチーズフォンデュが一番だって】 【ヴェルヌの夕陽はきれいだけど、ある人がくれた夕陽には敵わない】 添付は、怜司からの大きなダイヤのネックレス。 【きゃー!本当に落としてくれた!私にぴったりだって】 添付は、最高級のエメラルドのハイジュエリーセット。 ひとつひとつが、千紗の目と胸に容赦なく刺さってくる。 最後の投稿は、一時間前。 言葉は長くない。手元のアップ写真が一枚だけ。 重ねられた二つの手。 下の手は骨ばった男の手、怜司のだ。 上の手は白く細い女の手。薬指には、眩しいピンクダイヤのリング。 添えられた文字は、たったひと言。 【結婚します】 そのピンクダイヤを、千紗は知っている。 オークションの図録で、あのとき彼が指さして囁いたのだ。「千紗、これがいちばんいい。お前にぴったりだ。百回目には、これでプロポーズする」 百回目は遅れたのではない。相手が、変わったのだ。 冷たい手で心臓を鷲づかみにされ、砕かれるような感覚。痛みに身体が丸まり、涙があふれて枕を濡らす。 ひとりきりの、冷たい病室。 スマホには、経済と芸能の見出しが次々に押し寄せる。 【朝倉グループ社長、桁違いの大盤振る舞いで彼女を笑顔に】 【ヴェルヌ国際オークションに超高額のピンクダイヤ!婚約の証か!?】 【シンデレラ・ストーリー?朝倉社長の新恋人、ゴールイン間近!】 ひと文字ごとに、十年が嘲られる。巨大で、残酷な冗談のように。 それから数日、怜司からは一通のメッセージも、一本の電話もない。まるで、彼という人間がこの世にいないかのように。 代わりに美和が、挑発するみたいに写真を送ってくる。 雪山のふもとで抱き合い、高級レストランで食べさせ合い、ホテルの部屋での自撮り、背景には、眠る怜司の横顔。 一週間後、千紗は退院した。 ビザが下りた通知が、静かにメールに届いている。 病院の玄関で、千紗はスマホを出す。長く迷った末に、怜司へ電話をかける。 しばらく鳴ってから、つながる。 賑やかな音が混じる。どこかのパーティの最中らしい。 「もしもし」怜司の声は上の空で、どこか鬱陶しげだ。 「私」千紗の声は乾いている。 「ああ、どうした?退院か、秘書に迎えに行かせる」怜司は早口になる。 「いつ、戻るの?」気づけば口が動いていた。 一瞬の沈黙。すぐに、美和の甘えた声が遠くから混ざる。「怜司さん、誰?早く来て、これおいしいよ」 怜司の声が遠ざかり、甘くなる。「大したことない、いい子だ。先に食べてろ」 それから受話口に戻り、事務的な声で言う。「美和がまだ遊び足りないって。もう少しいる。こっちで買収の案件もあるから、しばらくしてから帰るよ。先に帰ってて。何かあれば秘書に言ってくれ」 千紗はスマホを握り、人の往来が途切れない歩道に立つ。ふっと、ごく薄く、皮肉に笑う。 「わかった」 通話を切る。 かすかに残っていた期待が、完全に消える。 千紗は別荘へ戻る。 十年暮らし、かつて家だと信じていた場所へ。 荷物をまとめる。必要な書類だけを持ち出す。 最後に書斎へ行き、怜司の大きなデスクに腰を下ろす。 白紙を一枚抜き、彼がいつも使っていた万年筆を取る。 ペン先は長く紙の上で止まり、胸に詰まった言葉は、出てこない。 書いたのは、ほんの数行。 手紙を折り、無地の封筒に入れ、差出人は記さず、封筒をデスクのいちばん目につく場所に置いた。 すべて終えると、立ち上がって、軽くて古いスーツケースを引き、最後に部屋を見渡す。 背を向け、ドアを閉める。 錠前が、カチリと鳴る。 終わりにする。ここで、すべてを。