結婚式の日、私は「死」を選んだ

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結婚式の日、私は「死」を選んだ

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「黒澤様、ご依頼どおり、あなたと瓜二つの遺体をご用意いたしました。十日後、賀川様とのご結婚式会場へお届けいたします」 受話器の向こうか...

Chương (1)

第1章

「黒澤様、ご依頼どおり、あなたと瓜二つの遺体をご用意いたしました。十日後、賀川様とのご結婚式会場へお届けいたします」 受話器の向こうから静かに響いた担当者の声に、黒澤雨音(くろさわ・あまね)は、長らく張り詰めていた神経がふっと緩むのを感じた。 「ありがとうございます。よろしくお願いします」 「いえ、こちらこそ。私どもの責任です。ご安心ください。この遺体に疑念を抱く者は、一人として現れないはずです」 その言葉に背中を押されるように、雨音は小さく息を吐いた。 搬入当日の段取りを改めて念入りに確認した後、通話を終えて静かに個室の扉を開けた。 ついさきほどまで賑やかだった室内は、彼女の姿が現れた瞬間、嘘のように静まり返った。まるで空気そのものが凍りついたようだった。 第1話 中央の席にいた賀川尚弥(かがわ・なおや)が、すぐに立ち上がって彼女の元へ駆け寄った。心配げな眼差しをたたえながら、手話で問いかけた。 [雨音、トイレにしては少し長くなかったか?気分悪いなら、今すぐ家に戻ろう] そう言って、彼は彼女の手を取ってその場を離れようとする。 その瞳の中には、自分しか映っていない。雨音は胸を締めつけるような痛みに耐え、かすかに首を振った。 [大丈夫。みんなと一緒にいたいの] 何度か確認を重ねたのち、ようやく彼は彼女の手を握り直し、ふたりは席へと戻った。 和やかな空気が戻りかけたその時——静かに、誰かが口を開いた。 「尚弥さん、奥さんともうすぐ結婚だってのに、外に囲ってる若い秘書の方はどうするんです?」 その一言に、雨音の指先は無意識に力を込め、掌に爪が食い込んだ。顔がかすかに青ざめた。 隣の男が、肘でその人を小突いてたしなめた。 「おい、奥さん目の前にいるんだから、ちょっとは空気読めよ」 「何言ってんだよ、どうせ聞こえねぇって。ただちょっと尚弥さんがどう処理するのか気になっただけだって」 嘲笑うような声とともに、テーブルの視線が一斉に尚弥へと向かう。 「このまま囲っておくさ」 尚弥はエビを一尾つかみ、丁寧に殻を剥くと、それを雨音の器にそっと置きながら、何気なく言った。 「彼女はただの暇つぶしだよ。俺が本当に愛してるのは、雨音だけだ。 でも雨音が知ったら、きっと俺の元を去ってしまうだろう。だから、うまく隠してる。結婚してからも絶対にバレないように。 それに——お前らも気をつけろよ。誰か一人でも雨音に口を滑らせたら、その時は……容赦しない」 言葉の最後に込められた冷たさと鋭い視線がその場にいる全員の背筋をわずかに凍らせた この場にいる誰もが、裏で女のひとりやふたり抱えているような世界に生きている。だからこそ驚く者などおらず、むしろ羨望すら浮かべながら口を開く。 「尚弥さんもなかなか大変だな。俺なんか嫁にとっくにバレてるよ」 「いやいや、尚弥さんは違うって。これは純愛だろ、な?」 場の空気がどっと和むなか、一人がニヤつきながら口を挟んだ。 「ねえ尚弥さん、奥さん耳が聞こえないんだから、家の中で秘書と……ってこともあるんじゃ?」 その言葉は途中で濁されたが、残された沈黙がすべてを語っていた。 尚弥はふっと笑い、指にはめた婚約指輪をくるくると回しながら気怠げに答えた。 「もちろん。なかなか刺激的だったよ」 一斉に拍手と歓声が湧き起こった。 「やっぱ尚弥さん、すげえな!」 「家の中全部制覇したんじゃね?うらやましいぜ!」 「結婚しても問題なしとか、マジで最強かよ!」 品のない賞賛が次々と飛び交うなか、誰ひとりとして気づいていなかった。雨音の手が白くなるほど強く箸を握りしめていたことに。 そして、誰も知らない。彼女の耳はすでに聞こえているということを。 そして——彼女はもう、尚弥との結婚をやめると決めているということも。 結婚式当日、尚弥の前に現れるのは——彼女そっくりに作られた、冷たい偽物の遺体だけだ。 そのとき、尚弥はようやく気づいた。彼女の器に入れたエビが、まったく手つかずのままだったことに。彼は手話で優しく問いかけた。 [雨音、どうして食べないの?] 雨音はその目に映る優しさを見つめ、ぎこちなく微笑んだ。 「ねえ、さっきみんなで何をそんなに楽しそうに話してたの?」 尚弥は穏やかに笑みを浮かべると、彼女の手の甲にそっと口づけを落とした。 [俺たちのことを羨ましがってたんだよ。世界一幸せな夫婦になるってさ] そう言って「愛してる」の手話を送った。 部屋の中で誰かがすっと目を細めた。その目に浮かんでいたのは明らかに嘲笑だった。雨音はその一瞬を確かに見た。 心の奥まで冷たい水に沈められたような感覚。凍てつくような静けさ。 愛人との関係を語っていた口で、「愛してる」と囁くその人。 尚弥。まさかあなたがここまで嘘のうまい人だったなんて。 第2話 雨音はそっと箸を置くと静かに席を立った。もうこれ以上、聞こえないふりをしながら、虚飾にまみれた言葉に耐える必要はなかった。 その動きを察した尚弥が、すぐさま立ち上がり、手話で問いかけた。[どうしたの?] 雨音はかすかに首を横に振り、小さな声で答えた。 「少し疲れたの。先に帰って休むね」 彼の返事を待つことなく、彼女は踵を返して個室をあとにした。 通りに出た瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは正面の高層ビルの巨大スクリーン。そこには、あのプロポーズの映像が夜の街を鮮やかに彩っていた。 【雨音、俺と結婚してくれ!】真っ白な文字が闇に浮かぶように輝いていた。 通行人が足を止めて歓声を上げた。 「わあ……賀川社長の彼女、耳が聞こえないんだって。それで、彼女のために市内で一番高いビルのスクリーン全部借り切って、プロポーズしたんだって!しかも成功してから一ヶ月ずっとこの映像流してるらしいよ」 「ほんとに愛してるんだね……あんな旦那さんなら幸せ間違いなしだよ」 そんな声に、雨音はわずかに口角を引きつらせただけだった。 ほんの一週間前まで彼女もそう思っていた。彼は世界で一番信じられる人だと。 児童養護施設で育ち、九歳のとき高熱をこじらせ、適切な治療を受けられなかったせいで、聴力を失った。 それからというもの、彼女は施設でも学校でも常にいじめられるようになった。 いじめ、無視、見えない悪意——心の奥に築かれた高い壁は誰にも超えられないはずだった。 その壁を最初に揺らしたのが尚弥だった。一目惚れだったと言い、何度も何度も告白してきた彼を雨音は執拗に拒み続けた。 それは恋という名の遊びを、彼女が幾度となく経験してきたから。 告白は九十九回、拒絶も九十九回。それでも彼は諦めなかった。 そんなある日、地震が起きた。鋼材が降ってくる中、彼は迷わず雨音を庇い、自らの肩を貫かれながらも彼女を守り抜いた。 病院で目を覚ましたとき、彼は力なく、しかし真っ直ぐに手話を送った。[君が無事でよかった] その瞬間、雨音の心にかすかなひびが入った。 三ヶ月かけて手話を習った彼の努力。 肩に残る、今も癒えぬ褐色の傷痕。 そのすべてが彼の本気の証のように見えた。 付き合っていた五年間、尚弥はずっと変わらず優しかった。その誠実な想いは、雨音の心にまっすぐ届いていた。 彼は賀川家の反対を押し切ってまでプロポーズしてくれた。 家族との板挟みになる彼を少しでも楽にさせたくて、そして結婚式で、彼の口から「誓います」という言葉をこの耳で直接聞きたくて、雨音は失敗すれば命の危険さえある手術だと知りながら、国外での治療に踏み切った。 たぶん、運命は彼女に味方してくれたのだろう。手術は、成功した。 雨音は、結婚式当日に尚弥へサプライズを用意しようと、聴力が戻ったことを誰にも知らせなかった。 「誓います」の言葉を自分の耳で聞いたとき、彼がどんな顔をするのか。それを何度も夢のように想像していた。 けれど。 彼女が海外から戻ったその日、偶然耳にしたのは尚弥と秘書の電話だった。ふたりは一切の遠慮もなく甘い言葉を交わしていた。 その瞬間、雨音はすべてを悟った。尚弥はずっと彼女に隠れてその秘書と関係を続けていた。 しかも、それは一年以上も前から。彼女は何も知らなかった。何一つ気づけなかった。 胸の奥がぎゅっと締めつけられ、思わずその場にしゃがみこんだ。自分を抱きしめるように、必死で震えを止めようとした。 頭の中には、あの個室で交わされた尚弥の冷たい言葉が、何度も何度もこだましていた。 たとえ結婚しても、彼はその関係を終わらせるつもりなどなかった。 彼女の耳が聞こえないと信じていたからこそ、尚弥は一生隠し通せると思ったのだろうか。 冬の夜風が頬を刺すように吹きつけ、その冷たさはやがて体の芯にまで届き、骨を凍らせていく。けれどその寒さが、むしろ彼女の頭を冴え渡らせた。 彼女は決めた。このまま傷つけられて終わるわけにはいかない。彼に教えてやる。どんな嘘でも、いつかは暴かれる日が来ることを。 そして、もうひとつ。 彼女は裏切りを決して許さない。 第3話 雨音は深く息を吸い込み、胸の奥を刺すような痛みをぐっと押し込んで、ゆっくりと立ち上がった。帰ろうとしたその瞬間、大きな手が彼女の腕を掴み、動きを止めた。 [雨音、どうして待っててくれなかったの?なんだか、今日は元気ないね。だったら、ドレス見に行こう? オーダーメイドのウエディングドレス、ようやく届いたんだ。気に入らなければ、何度でも直してもらえるよ] 尚弥は当たり前のように彼女を抱き寄せ、愛おしげにその髪に手を添えた。 「行きたくない。ドレスはあなたが決めて」 結婚式のその日には、もう彼の前から姿を消すつもりだった。だから、ドレスなんて彼女にはもう必要なかった。 それがどれほど美しくても、彼女にとってはもはや何の意味も持たなかった。 尚弥はその冷たい声色にわずかに目を伏せ、不安げに手話で問いかける。 [雨音、最近、式の話しても全然楽しそうじゃないよね。まさか、本当は俺と結婚したくないの?] 揺らぎと怯えを湛えたその瞳を見つめながら、喉元まで言葉が込み上げる。 ええ、そうよ。もうあなたとは結婚しない。 裏切ったのはあなた。私たちの愛を泥にまみれさせたのもあなた。 なのに、今さら「結婚したくないのか」なんて。よく、そんな言葉を口にできるものね。 だが、彼女はそれを口にしなかった。まだ、その時ではなかったから。 ドレスショップの扉をくぐると同時に、カーテンの向こうから姿を現したのは、まるで芸術品のような純白のドレスだった。 [黒澤様、こちらが賀川様がフランスでご注文された特注ドレスになります。サイズや仕様のご希望があれば、何なりとお申し付けください] 傍のスタッフがすぐにその説明を丁寧に手話へと変換する。 その様子を見て、店内のスタッフたちは思わず声をひそめながらささやき合った。 「賀川様って、本当に気遣いが行き届いてるわ。通訳までちゃんと手配して」 「しかも、あのドレスのピンクダイヤ、オークションで落とした逸品らしいよ。デザイナーに直談判して、あの位置に埋め込んでもらったんだって」 「聞いた?そのデザイナーの今年のスケジュール、全部買い取ったらしいよ。一年かけて、彼女のためだけに仕立てた一着なんだって」 尚弥は満足そうに微笑みながら、そっと彼女の腰に手を回した。 [どう? 気に入った?] ドレスの中心には、鳩の卵ほどの大きさのピンクダイヤが煌めいていた。 五メートルにおよぶトレーンには無数の宝石がちりばめられ、照明を浴びてまるで星屑のようにきらめいている。 雨音はそっと手を伸ばした。 間違いなく、完璧だった。 付き合っていた頃、彼女は何度も口にしていた。「一番好きな色はピンク」、「トレーンの長いドレスが夢だった」と。 尚弥は、そんな彼女の何気ない言葉を一つひとつ胸に刻み、その想いを形にするように、完璧なウエディングドレスを仕立ててくれた。 けれど、どれほどドレスが美しくても、どれだけダイヤモンドが煌めいていても、一度ひび割れた心はもう元には戻らない。 [ドレスの中央のダイヤ、よく見て。K&K foreverって彫ってあるんだ。 永遠に残る石に、俺たちの名前を刻んだ。それは、俺の愛も永遠ってことだよ] 反射的に視線を向けると、確かにその宝石の中心には、彼女と彼の頭文字が小さく刻まれていた。 目を上げると、尚弥の瞳はいつも通り、彼女だけを映している。そこには揺るぎない深い愛が宿っていた。 「本当に?あなたの愛は、永遠なの?」その問いかけに、彼は焦るように手話を返した。 [俺、賀川尚弥は、生涯……いや、何度生まれ変わっても雨音だけを愛す。裏切らない。もしこの誓いを破ったら、雷に打たれてもいい] その言葉、聞きたかったのは、ずっと前だった。心がまだ彼に微笑み返せていた頃に。今ではもう、凍てついた胸の内に、その声が届くことはない。 誓いは、すでに破られている。それなのに、まだ誓うふりを続けている。彼は、疲れないのだろうか。 雨音はそっと顔をそらした。その愛しているという仮面の裏側が今はもう直視できなかった。 尚弥が何かを言いかけたその瞬間、スマートフォンが鳴った。 画面を一瞥した彼の顔がわずかに陰り、彼は静かにその場を離れて電話に出た。 数分後、戻ってきた尚弥の顔には、どこか芝居がかったような申し訳なさがにじんでいた。 [雨音、ごめん。急に会社から呼び出された。君はドレスをゆっくり見て。直したいところがあったらスタッフに伝えて。終わったら運転手を迎えに行かせるよ] 言い終えるや否や、いつものようにキスもハグもせず、一度も振り返ることなく、彼は足早に立ち去った。 その背中を見送りながら、店員たちが涙ぐんだ声でささやいた。 「さっきの誓いの言葉、まるで映画みたいだったわ」 「急な仕事でも、あんなふうに彼女のことを気遣って……眩しいくらいに完璧」 雨音の胸に込み上げてきたのはただの冷笑だった。 尚弥が仕事のせいで自分を置いていく?そんなこと、あるわけがない。 さっきの彼の瞳は、仕事の顔ではなかった。 あの目に宿っていたのは明らかに欲だった。 どうせ、また桐谷瑶(きりたに・よう)のもとへでも行くのだろう。 雨音は薄く笑みを浮かべ、ドレスから目を逸らし、ゆっくりとその場を後にしようとした。 「黒澤様、まだご試着いただいておりません!」スタッフが慌てて声をかけた。 彼女はふと振り返り、静かに首を横に振った。 「必要ないわ」 だってその日、ウエディングドレスに袖を通すのは、生きた花嫁ではないのだから。 第4話 帰宅したその瞬間、スマホの通知音が鳴り響いた。 雨音が画面を開くと、そこにあったのは一枚の写真—— 上半身裸で背中を向ける尚弥と、胸元の開いたマーメイドドレスに身を包んだ瑶。床を引きずるドレスの裾は腰まで捲られ、白く艶やかな両脚が尚弥のたくましい腰に絡みついている。あまりにも生々しく、そして淫靡な一枚だった。 続けて一本の動画が届いた。 頬を紅潮させた瑶が、尚弥の首に腕を回し、甘ったるい吐息を漏らしていた。 「賀川社長……今日届いたばかりのドレス、もうぐちゃぐちゃじゃないですか」 尚弥は喉の奥で笑い、耳元で低く囁いた。 「お前がウェディングドレスを着たがったのは、俺に見せるためだろ? ちゃんと雨音と同じデザイナーに頼んで作らせたんだ。今夜はお前の番だろ?」 彼女が小さく喘ぎ、映像はそこでぷつりと途切れた。 それでもまだ足りないとばかりに、もう一通のメッセージが届いた。 【うっかりしてた、黒澤さんって耳が不自由なんですよね?次は字幕つけてあげますね〜(笑)】 スマホを握る指の関節が白く浮き出し、雨音の瞳から溢れた涙がぽたぽたと床を濡らした。 心が裂けるというのは、こういうことなのか。それまで知らなかった。 二人の女にウェディングドレスを着せて悦に浸る男の「愛」など聞きたくもない。 そんな愛、耐えられないし、欲しくもない。 胸を締め付ける痛みに必死で蓋をし、目元に手をやったとき—— 薬指の指輪が視界に入った。 じっと見つめたのち、それを静かに外してゴミ箱へ投げ捨てた。 この指輪は、尚弥が自ら宝飾デザイナーの元で学び、図面を描き、職人の元を訪れ、金槌で一打一打、丹念に仕上げたものだった。 「俺が自分で作った指輪じゃなきゃ意味がない。この指に触れるたび、俺の想いを感じられるように——」そう言って、彼はプロポーズしてきた。 けれど、今の彼の「愛」はすでに腐りきっていた。それならば、この指輪にも、もはや存在意義はない。 深夜。ようやく尚弥が帰ってきた。 ベッドに沈む重みとともに、香水と石楠花の混じった匂いが鼻をつき、動画の映像が脳裏に蘇る。雨音はこらえきれず、洗面所に駆け込んで嗚咽を漏らした。 [雨音、大丈夫か?医者を呼ぶ!] 慌てふためく尚弥を、雨音は目を潤ませながら静かに制した。 「平気。ただ……吐き気がするような写真と映像を思い出しただけ」 尚弥は彼女の背中を撫でながら言った。 [そんなもの、もう見なくていい。お前が苦しそうなの、見てられない……] 手話では足りないと感じたのか、彼は雨音の手を取って自分の胸に当てさせた。ドクンドクンと鳴る心臓の音を感じてほしかったのだろう。 だがその瞬間、開いたシャツの隙間からいくつかの赤い痕が目に入った。 また、こみ上げる吐き気。 あの痕をつけた相手のもとから帰ってきたくせに、平然と「愛している」などと語るこの男は、一体どんな心臓をしているのか。 [誰だ……誰がそんな酷いものを送ってきた!?俺の雨音をこんなに傷つけやがって!] その声を聞きながら、雨音は皮肉な微笑みを浮かべた。 尚弥、私をこんな姿にしたのは他でもない、あなただよ。 これ以上この偽りの顔を見ていられなくて、彼を部屋の外へ追い出してドアに鍵をかけた。 「今夜は、一人で寝たい」 外から何度も心配する声が聞こえてきたが、雨音は聞こえないふりをしてベッドに身を沈めた。 [雨音のために、世界一特別な愛を] そう言って抱きしめてくれたあの夜。 彼は自分にとって、まるで救いの光だった。 でも、今はただの地獄への案内人。 深く深く愛したその先で彼は自分の心を殺した。 目を閉じた雨音の頬を一筋の涙がつたう。 もしも人生をやり直せるなら、きっと尚弥なんて、最初から知らなければよかった。 翌朝。ドアを開けると気まずそうな顔の尚弥が立っていた。 [雨音、昨日、どうして俺を追い出したの?まさかウェディングドレス店で置いてったの、まだ怒ってるのか?あれは本当に急用だったんだ。許してくれ……] 急用? 瑶とベッドを共にすることが彼にとっては「急用」? 何も言わず、ただ首を振る雨音。あと八日——その日が来れば、彼はすべてを知ることになる。 「怒ってないよ。仕事は大事だから、仕方ないとわかっている」 その静かな声色がかえって尚弥の胸を強く締めつけた。 [ち、違う!雨音のほうがずっと大事だ。絶対、二度と君を一人にしない!] そう手話で伝えると彼は強く彼女を抱きしめた。その腕には決して壊れないものを取り戻そうとする必死さがあった。 けれど、雨音の目はもう遠くを見ていた。 もう、「これから」なんてないのに。 第5話 きっと後ろめたさがあったのだろう。それから数日間、尚弥は雨音のそばを片時も離れず、仕事も自宅でこなしながら結婚式の準備まで細かく確認していた。 そしてその日。彼はどうしても出席しなければならないビジネスパーティーに向かうこととなる。 [一緒に来てくれ]と尚弥は言い、雨音が断る間もなくスタイリストの予約まで勝手に済ませていた。 会場に到着し、彼女はようやくその場に瑶がいることに気づいた。 Vネックのタイトなドレスに身を包んだ瑶は豊満なボディラインをこれでもかというほど際立たせ、笑顔で二人に近づいてきた。 「賀川社長、黒澤さん」 穏やかで品のある挨拶。まるで前夜にあの動画を送りつけてきた挑発的な彼女とは別人のようだ。 さすが尚弥の相手をするだけあって、演技も堂に入っている。 雨音はしっかり見ていた。尚弥の目が瑶を捉えた瞬間、ほんのわずかに暗くなり、喉仏が上下に動いたことを。それでも彼は雨音の手を握ったまま、冷徹な上司のような顔で軽く会釈を返した。 会場では尚弥の姿を見つけた来賓たちが、次々とグラスを片手に彼の元へ挨拶に訪れてきた。 一方で、奥さんたちが雨音に話しかけようとしても、彼女は相変わらず「聴覚障害者」としての役を演じ、何も聞こえないふりを貫いた。 尚弥は笑顔で事情を説明しつつ、雨音が退屈しないようにと、わざわざ彼女の好物のスイーツとジュースを選んで運んできた。その姿に周囲の人々から賞賛の声が上がった。 「賀川社長って本当に理想の男性よね」 「未婚の婚約者をあそこまで気遣うなんて、噂以上だわ」 雨音は黙って目を伏せ、長いまつげの陰に冷たい嘲笑を隠した。 そのとき、尚弥のスマホが鳴った。 画面を見た彼の顔に微かな変化が生じ、すまなさそうに一言。[すみません、少し仕事の連絡がありまして] そして手話で雨音に伝える。 [雨音、ちょっと用事がある。すぐ戻るから、ここで待っててね] 雨音の視線がふと会場内をさまよったら、瑶の姿は消えていた。 ほどなくしてスマホが振動し、画面を見ると、送信者は瑶だった。 開くとそこにはチャット画面のスクリーンショットだった。 送信者は背中が露わになった写真を送っていた。ファスナーが一番下まで下ろされたドレス。その一枚に、誰もが「その後」を想像せずにはいられない。 【賀川社長ファスナーが上がらなくて……手伝ってくれませんか?】 そして尚弥の返信——わずか二文字。【どこ?】 さらにメッセージは続いた。 【お手洗いで我慢できないんですって。人の出入りがあるのに、彼ったら我慢できなくて、二回も……もう歩けないくらい。あなたには一生無理ね、あの人が私に感じてるものは】 【それにさっきはゴムもつけなかったの。何回目か分からないくらい。彼、言ってたの。『もし妊娠したら産んでいい』って。もう私のお腹の中に彼の赤ちゃんがいるかも】 雨音はそっと目を閉じて手で心臓のあたりを押さえた。 たった数時間も待てないの? その刹那、またスマホが震えた。 今度はてっきり瑶からだと思って画面を開くと意外にも「死去偽装支援機関」からのメッセージだった。 「黒澤様、新しい身分はすでにご用意できました。航空券は五日後の午後六時、ロンドン行きです。最後に、ご本人の意思確認が必要です。本当に出発されますか?」 雨音はカメラを自分の顔に向けて短い動画を録画した。 「はい。私は離れます」 その直後だった。背後から、慌てた声が響いた。 [離れるって、何が?雨音、君がどこか行くのか?] 第6話 思わず振り返ろうとした雨音だったが、まだ「聴覚障害」の演技を続けていることを思い出し、無理やりその動きを止めた。 尚弥はすぐに彼女の前に駆け寄り、どこか怯えたような瞳で問いかけた。 [雨音、君……僕から離れるつもりなのか?もうすぐ結婚するっていうのに、どこへ行こうとしてるんだ?] 彼女が何の反応も示さないことに気づくと、ようやく尚弥ははっとし、手話で同じ問いを繰り返した。 雨音は表情を崩さず、静かに言った。 「友人が遠くへ行くの」 その冷静な言い方に尚弥はしばらく彼女の顔をじっと見つめた。嘘ではないと判断したのか、ようやく胸をなでおろした。 [よかった……雨音、さっき本当に心臓が止まるかと思ったよ。君がいなくなったら、僕、どうやって生きていけばいいんだ] そう言って彼は雨音を強く抱きしめ、怯えたように腕に力を込めた。 心に響くはずのその言葉も雨音の心には一滴の波紋すら起こさなかった。 そんなに怖がるくらいなら、なぜ裏切ったの? 私が「聞こえない」と思って、何をしてもいいとでも? 残念だったね。 尚弥はまだ不安げに彼女の腰を抱いたまま言った。 [雨音、帰ろう。これからは君を一秒たりとも見失わない] 「あら?じゃあ、あなたの秘書はどうするの?」 [少し体調が悪くて、もう先に帰ったよ] その嘘が、あまりにも自然だったことに、かえって雨音は寒気を覚えた。 駐車場に向かう途中、雨音はある光景を目にした。瑶が一人の男と揉み合っていた。 男は彼女の手首をつかみ、逃がすまいとし、もう片手は彼女の腰に触れようとしていた。 瑶は抵抗し、ついには平手打ちを喰らわせた。 逆上した男はその場に転がっていたビール瓶を掴み、彼女めがけて振り上げた—— その瞬間だった。 腰に感じていた尚弥の腕のぬくもりが、ふいに消えた。 彼は一瞬の迷いもなく瑶の元へ駆け出し、その体をしっかりと抱きしめて庇った。 ビール瓶が尚弥の肩に命中し、ガラス片が割れて血が吹き出した。白いシャツは瞬く間に赤に染まった。 尚弥の顔は凍りついたように険しくなり、瑶が無事なことを確認すると、そのまま男の胸倉をつかみ、容赦なく拳を叩き込んだ。 「誰に手を出してるつもりだ、ああ!?死にてぇのか!」 次々に放たれる鉄拳に、男は顔を青ざめさせ、もはや抵抗する余裕もなく許しを乞うばかりだった。 一方、雨音の頬にはガラスの破片が当たり、薄く裂けて血がにじんでいた。だが、彼女はそれすら気に留めず、ただ静かにその光景を見つめ続けていた。 この場面は、どこかで見たことがある。記憶の奥に沈んでいた映像がゆっくりと浮かび上がってきた。五年前、まだ尚弥と付き合い始めたばかりの頃。あのときもビジネスパーティーだった。 彼の恋人として初めて人前に立った日。彼の「溺愛」ぶりはまだ世間に知られておらず、彼女が聴覚障害者であると知ると、人々はあからさまに軽蔑と嘲笑の視線を向けてきた。 やがて尚弥が商談でその場を離れると、数人の男が雨音の元に近づいてきた。誰もが、彼女を一時の気まぐれだと思っていたのだ。 口にした言葉は聞こえなかったが、目に映るのは侮蔑と欲望にまみれた顔。 彼女は助けを求めたくても、尚弥に迷惑がかかるのが怖くて何もできなかった。繰り返し拒絶しても、彼らの笑みはどんどん歪んでいった。 そのとき、尚弥が男を蹴り飛ばし、怒りに染まった目で彼らを叩きのめした。その後、すぐに秘書に命じて関係各社との取引を切らせ、業界からも徹底的に排除させた。 あの日以降、誰もが知っていた。雨音は尚弥の「禁忌」、決して誰にも触れさせない存在だと。 けれど今。同じような場面。庇われたのは、もう……私じゃない。 第7話 病院へ向かう車の中。先ほどまで瑶の肩を抱き、気遣いの言葉をかけていた尚弥がようやく雨音の頬の傷に気づいた。 病院に着くと、流血が止まらない自分の肩をよそに尚弥は医師に懇願した。 「もうすぐ結婚式なんだ。僕の雨音の顔に絶対に傷を残さないでくれ!」 そう言い終えると手話で彼女に向き直り、申し訳なさそうに言った。 [ごめんね、全部僕のせいだ。さっき瑶を庇ったのは彼女が僕の部下だからだよ。君を怒らせたくなかった……許してくれる?] 雨音は何も返さなかった。ただ、医師に向かってこう告げた。「私の傷は後回しでいいので、彼の肩を優先して処置してください」 どうせ結婚式には出席しないから、顔に傷が残ろうと、もうどうでもいい。 尚弥は彼女が痛みを隠してまで寄り添う姿を、自分のための「無償の愛」だと信じ込み、どこか感極まったように静かに微笑んだ。 医師が血に染まったシャツを切り開くと、露わになったのは生々しい傷口。 その位置を見た瞬間、雨音の視線が止まった。ちょうど、五年前の地震で鉄筋に貫かれた場所と同じ。 当時できた丸い傷跡は新たな裂傷にすっかり覆われ、跡形もなくなっていた。 そうか……これは神様が示しているのかもしれない。私たちの関係は、もう終わるべきだと。 病院を出る頃、瑶が両腕で自分を抱きながら尚弥にしがみつくように話しかけた。 「ねえ、今夜、あなたの家に行ってもいい?」 そのか細い声に尚弥は戸惑いながらも、目に見えて心を揺らがせた。 視線をそっと雨音に移し、探るように手話で問いかけた。 [雨音、今日は瑶がひどく怯えていて……少しの間だけ、うちに泊めてあげてもいいかな?] すぐに、まるで誤解されまいとするかのように、必死で続けた。 [変な意味じゃないんだ。ただ、上司として責任があるから……] その言い訳めいた説明に、雨音は手のひらに爪を食い込ませた。 この人、本気でこの場に連れて帰るつもりなの? しかし、次の瞬間。自嘲の笑みが口元に浮かんだ。 もういいわ。どうせ私が去ったあと、遅かれ早かれ彼女があの家に住むんだから。 「好きにして」 その一言に、尚弥はどこか安堵しつつも、瑶の前では極力距離を取った。 彼女が話しかけようとしても、尚弥は目で制した。 雨音は、そんな二人の芝居じみたやりとりすら見る気がせず、窓にもたれて目を閉じた。 家に着くと、尚弥は瑶の期待を裏切り、彼女を二階のゲストルームへ案内した。その視線には、明らかに「仕方なく」という色が滲んでいた。 寝室に戻ると、尚弥は消毒液と絆創膏を持ってきて、雨音の傷に優しく手当てをした。 [雨音、どうして医者に診てもらわなかったの?もし傷が残ったら、僕がどれだけ後悔すると思う?] 手当てが終わると、彼はそっと額にキスを落とした。 [もう二度と、君に傷なんてつけさせない。今日は咄嗟だったんだ。部下が目の前で襲われて、考えるより先に体が動いた。 だって、僕の社員に手を出すってことは、僕自身を侮辱するのと同じだから。君なら、わかってくれるよね?ね、雨音] もっともらしいその言葉に、もし彼らの関係を知らなければ——もし、彼の目に宿る所有欲と怒りを知らなければ、信じていたかもしれない。 けれど、雨音は何も言わず、「疲れたから休む」とだけ答えた。 尚弥はいつものように、寝る前のミルクを持ってきて背をさすりながら優しく寝かしつけた。 深夜。雷鳴に雨音は目を覚ました。 ぼんやりとした意識のまま、隣にいるはずの尚弥の腰に腕を回そうとしたが、そこには何もなかった。 冷えたシーツの感触に瞬時に眠気が吹き飛んだ。 ベッドを出て階段を降り、二階の廊下に足を踏み入れたとき、かすかな女の喘ぎ声が耳に届いた。 足が止まった。心のざわめきを押し殺し、一歩、また一歩と音を立てないように歩みを進め、ゲストルームのドア前まで辿り着いた。 ドアは大きく開け放たれ、あたたかみのある照明の下——そこには、何も纏わぬまま絡み合う、二つの裸の体があった。 第8話 瑶が両腕で尚弥の首にしがみつき、頬を紅潮させながら、かすれた声で喘いだ。 「尚弥……ダメ、もう無理……」 尚弥は頭を彼女の胸元にうずめ、嗄れた声で呟いた。 「さっきあの男に触られたんだ……お前の体には、俺の痕だけを残さなきゃ気が済まない。今日は俺が『終わり』って言うまで休ませない」 瑶は快楽にゆがむ顔を上向け、息も絶え絶えに笑った。 「もし……もし桐谷さんに見られたら、どうする?」 その言葉が終わらぬうちに、尚弥の動きが止まり、冷えきった声で言い放った。 「彼女の耳は聞こえない。バレることはない。……絶対に、彼女の前でこのことを話すな」 瑶はしょんぼりとした表情で、尚弥の胸元に指で円を描いた。 「わかってるよ。ただ……彼女がもうすぐあなたの奥さんになるのに、私は誰にも知られない存在なんだと思うと、つらくなるの」 その弱音に、尚弥の顔に一瞬、哀れみが浮かんだ。彼は彼女の頬を軽くつねり、口元に笑みを浮かべた。 「プチ嫉妬魔か?君を家に連れてきたってだけでも、十分特別なんだよ。 安心しろ。たとえ結婚しても、君を捨てたりはしない。雨音に与えるものは君にもすべて用意するから」 その言葉に、瑶の顔にようやく笑みが戻った。 「じゃあ……結婚式までの間、ずっと一緒にいてね?」 尚弥は少しだけ躊躇したものの、彼女の潤んだ瞳に見つめられ、結局うなずいた。 「ああ、わかった」 瑶の目が嬉しそうに輝き、彼の耳元に口を寄せて囁いた。 「ねえ、今すぐ……あなたが欲しいの」 尚弥の目に再び欲情の色が宿り、彼女の腰を強く引き寄せた。 二人の体は再び絡み合い、情欲に溺れていった。 そのとき、部屋の外に立つ一人の女性がいた。雷光が窓辺を照らし、その光の中に浮かび上がったのは、蒼白な顔をした雨音だった。 彼女は唇を噛み、両手で口を必死に押さえ、嗚咽を堪えようとしていた。涙はとめどなく頬を伝い、視界をぼやけさせた。 いくらあの女が送ってきた動画を何度も見たとしても、今この目で見た「現実」ほど心を抉られることはなかった。 響き渡る喘ぎ声、甘くねっとりとした囁きの一つひとつが、鋭い刃となって、彼女の心を何度も何度も突き刺した。 「……もう、無理」雨音は踵を返し、音もなくその場から逃げ出した。 寝室に戻った彼女はベッドの上で膝を抱えて丸くなった。それでも、体は冷えきったままだった。 頭の中では、あの部屋で響いていた喘ぎ声が何度も反響する。耳を塞いでも追い払うことはできなかった。 そして、彼女は裸足のまま外へと駆け出した。 激しい雨が叩きつけるように降っていた。けれど、雨音の体にはもう何も感じなかった。彼女の背後にあるあの豪奢な邸宅が、血に濡れた大きな口を開けて彼女を呑み込もうとする「化け物」のように見えてならなかった。 ただ、ただ、離れたい。一歩でも遠くへ、もう二度とあの場所へ戻りたくなかった。 冷たい雨に打たれながら、感覚が麻痺していく。目を開けているのも辛くなってきたころ、ふと、雨が止んだように感じた。 顔を上げると、そこには若き日の尚弥が、一本の傘を差しながら佇んでいた。その瞳には、かつてのような切実な愛しさが宿っていた。 [雨音、あの『もう君を愛していない俺』から離れてくれ。許さないでくれ] 雨音は涙をにじませながら、その「かつて愛した男」を見つめた。 うん。私は、きっと離れる。もう二度と、あなたを許さない。 空がようやく白み始める頃、雨音はずぶ濡れのまま、ふらふらと帰宅した。 びしょ濡れの服を脱ぎ捨ててベッドに身を沈めた瞬間、ドアが静かに開く音がした。尚弥だった。 いつものように毛布を整え、そっと彼女を腕の中に引き寄せた。そして額にキスを落とし、囁いた。 [雨音……本当に、君を愛してる。あと三日で、君は僕の奥さんになる。ずっとずっと一緒にいよう、白髪になるまで] 彼は穏やかな声で愛を語り続ける。だが、彼の腕の中、雨音の目尻からは一筋の涙が音もなくこぼれ落ちた。 彼女はネットで見かけた言葉をふと思い出した。「男の急な愛情表現は大抵『浮気の罪悪感』から来るものだ」 以前は理解できなかった。けれど今なら、痛いほど分かる。 どうか、時間よ、早く過ぎて。あの「離れる日」が、一日でも早く訪れますように。 第9話 朝になり、雨音が目を覚ましたとき、尚弥と瑶はすでに階下で朝食をとっていた。 彼女が姿を見せると尚弥はすぐに立ち上がり、椅子を引いて席をすすめた。差し出されたのは、すっかり冷めた粥。 雨音は無言で箸を取り、淡々とそれを口に運ぶ。尚弥はどこか後ろめたさを滲ませながら言った。 [雨音、会社で急な出張が入ったんだ。数日間は婚礼の準備をプランナーに任せてもらえる?仕事が終わったらすぐに戻ってくる。結婚式の後はちゃんと一週間休みを取ってあるから、君の好きな場所にハネムーンに行こう] だが雨音はすでに「出張」の本当の理由を知っていた。 それでも、彼女はただ軽くうなずいただけだった。 玄関先で靴を履いた尚弥を雨音は呼び止めた。 「尚弥」 尚弥はきょとんとした顔をし、次の瞬間、いつものように彼女の頭を撫でて微笑んだ。 [なに?俺がいないと寂しくなっちゃうの?でももうすぐ結婚するんだし、すぐまた会えるよ。毎日、君のそばにいるからね] 外から、瑤の明るい呼び声が響いた。尚弥は彼女の頬にキスを落とし、振り返ることなく出ていった。 あれが、きっと最後に見る彼の後ろ姿だった。 出発して間もなく、雨音のスマホに瑤からメッセージが届いた。 【黒澤さん、昨日のこと全部見てたんでしょ?まさかあそこまで我慢できるとは思わなかった〜】 【尚弥はね、これから数日間ずっと私に付き添ってくれるって。結婚目前なのに、他の女の隣にいるなんて、あなた本当に世界一哀れな花嫁ね】 【今日は二人で新居を買いに行くの。『これからの私たちの家』なんだって!遊びに来てね】 雨音は返信をせず、静かにメイドを呼びつけた。「屋敷の中の、私に関するもの全部——写真も持ち物も婚約関連のものも庭に集めてください」 メイドが困惑しながら聞いた。 「結婚式写真も……ですか?」 雨音は視線を客間の中央に掲げられた巨大な結婚式写真へ向けた。自分はカメラを見つめ、尚弥は優しく彼女を見つめる——まるで愛が溢れて止まらないようなその視線。 かつては宝物のようだったその一枚が、今となってはただの冷たい虚像にしか見えなかった。 「はい、全部です」 そしてすべての「思い出」が積み上げられた庭に、彼女は静かに火を点けた。 火の粉が舞い上がり、写真、手紙、指輪の箱——すべてが、灰へと変わっていく。 五年の記憶。今ここで、燃やし尽くす。 残り、あと二日。 その日、また瑤から写真付きのメッセージが届いた。 【うっそ、ほんとに妊娠しちゃった♡これが霆舟の初めての赤ちゃんよ?彼、大喜びだったの。株を赤ちゃんに分けるって言ってたし♡】 【でも昨日、彼が激しすぎて……少し出血しちゃって、安静にって言われたの。彼ったら心配して、自分でスープ作って飲ませてくれたのよ♡幸せすぎて死んじゃいそう♡黒澤さんも私の幸せを祈ってくれるわよね?】 雨音はそれにも一言も返さなかった。その足で、ウェディングドレスショップへ赴き、自分のために仕立てられたドレスを受け取った。そして、ハサミで細かく切り刻んだ。 あの男との未来の象徴なんてもう何の価値もない。 出発当日、瑤からまた写真が送られてきた。左手の薬指に光る大粒のダイヤモンドリング。 【尚弥がプロポーズしてくれたの♡ちゃんと盛大な式を挙げてくれるって】 【もうすぐ奥さんの座は私のものよ♡黒澤さんはそろそろ身を引いたら?】 このとき、雨音はようやく一通だけ返信を返した。 「お幸せに」 そして、屋敷の監視カメラの記録をチェックした。尚弥と瑤は、何度も何度もこの家でまるで自分の存在などなかったかのように抱き合っていた。 彼女はその映像を編集して結婚式のプランナーに送った。 「尚弥へのサプライズです。式当日、大画面で流してください。絶対に秘密厳守でお願いします」 「了解しました」と、即答が返ってきた。 そしてすべての手配が終わった直後、尚弥からビデオ通話がかかってきた。 画面の中の彼は申し訳なさそうな顔をしていた。 [雨音、ごめん、仕事が押してて、明日の朝にならないと戻れそうにないんだ。でも、必ず結婚式には間に合うから、安心して] 雨音は唇に笑みを浮かべ、穏やかに言った。 「いいわ。明日の式、あなたにサプライズを用意したの」 尚弥の顔が嬉しそうに綻ぶ。 [えっ、なに?サプライズ、楽しみすぎて眠れないかも! もうすぐ、君が僕の妻になる。本当に、嬉しくてたまらない——] 突然、画面の中の彼の動きが止まった。息が漏れるような声が聞こえた。 雨音はその顔を静かに見つめ、冷ややかに告げた。 「尚弥——そのサプライズ、きっと気に入るわ」 そのまま、電話を切った。彼女は静かに玄関を出た。 すでに「死去偽装支援機構」の用意した車が家の前で待機していた。 空港に着くと、彼女はスマートフォンの画面に何かを打ち込み、それをスタッフに手渡した。 「明日、スマホと遺体を新郎に届けてください。私は『午後6時に死んだ』と遺言もスマホに残してあります。必ず、彼にそう伝えてください」 午後6時——それは、彼と通話を終えたあの時刻 彼とあの女が最も愛し合っていたあの時間に、自分が死んだと知ってもらうために。 そしてその遺言で、彼を一生後悔させるために。 スタッフはうなずき、新しいIDと航空券を彼女に渡した。 「光希(みつき)様、すべての足取りはこちらで完全に消去いたします。どうか、どうか、これからの人生に光が満ちますように」 光希―それが彼女の新しい名前。 過去を焼き捨て、これからの人生を自分の手で歩いていく。