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春風は去り、彼もまた忘れ去った
結婚式を目前に、中原光平(なかはら こうへい)の初恋の人霧島伽耶(きりしま かや)が不治の病に倒れた。死期を悟った彼女は、光平の妻として...
Chương (1)
第1章
結婚式を目前に、中原光平(なかはら こうへい)の初恋の人霧島伽耶(きりしま かや)が不治の病に倒れた。死期を悟った彼女は、光平の妻として人生を終えたいと願う。
その願いを聞き入れた光平は、7日後に予定されていた寿夏穂(ことぶき かほ)との結婚式で、花嫁を伽耶へと変えた。
7年間、光平を愛し、支え続けてきた夏穂。
ついに彼女は、諦めることを決意する。
そして、夏穂が離れた時、光平は涙ながらに、もう一度愛してほしいと懇願するのだった。
第1話
「寿さん、この墓地は山を背に水を望む絶好の風水位置ですよ」
営業マンの声に、抱き合っていた中原光平(なかはら こうへい)と霧島伽耶(きりしま かや)は驚いて振り向いた。
中原光平は寿夏穂(ことぶき かほ)を見るなり、うんざりした表情を浮かべた。「お前、俺のことを尾行してたのか?」
夏穂は二人の絡み合う指から視線を外し、淡々と答えた。「墓地を見に来ただけよ」
脳に神経膠腫が見つかり、医者は手術の成功率は半々だと告げた。手術が失敗した場合、死後引き取り手がないことを避けるため、自分の後事を済ませておこうと思ったのだ。
だが、まさか墓地を買いに来ただけで彼らに出くわすとは思わなかった。
光平は顔をしかめた。「言い訳も面倒になったのか。伽耶が墓地を見に来れば、お前も墓地。次は、自分も不治の病で死ぬって言うんじゃないか?」
一ヶ月前、光平の初恋の人の伽耶が海外から帰国し、不治の病にかかり、死ぬ前にどうしても光平と結婚して、彼の妻になりたいと言った。
光平は迷うことなく、七日後に予定されていた夏穂との結婚式を、伽耶との結婚式に変更した。
夏穂はこみ上げてくる酸っぱい感情を堪えて言った。「不治の病は霧島の専売特許なの?彼女だけが患って、他の人は駄目なわけ?」
光平は怒鳴った。「お前は本当に理不尽だな。死ぬなら遠くで死んでくれ。俺の目の前で邪魔をするな!」
夏穂は目に溜まった涙を堪え、営業マンに言った。「ここにするわ」
営業マンは喜色満面で、契約の手続きをしようとしたが、伽耶に呼び止められた。
「こちらの墓地、風水の最高の場所にあり、並び順も私のラッキーナンバーです。こちらを購入させてください」
営業マンは困った顔で言った。「ですが、こちらは寿さんが先に」
光平は伽耶の肩を抱き寄せ、夏穂の前に立つと、非難した。「お前は本当に嫉妬深いな。墓地まで伽耶から奪うのか!」
夏穂は目尻の涙を隠し、冷たい声で言った。「私が先に目をつけたのよ。奪ったのは彼女の方じゃない!光平、耳が聞こえないの?それとも目が見えないの?」
伽耶は夏穂の手を取り、悲しそうな顔で言った。「夏穂、あなたが気に入ったのなら、この墓地は譲ります。お願いだから、もう光平と喧嘩しないで」
夏穂はその白々しい態度に吐き気を覚え、彼女の手を払いのけた。
すると、伽耶はまるで糸の切れた凧のように、後方へ倒れていった。
「伽耶!」
光平はすぐに伽耶を抱き起こした。
「光平、手が痛いよ……」
光平は彼女の擦りむいた手のひらを見て、怒りで顔を歪めた。
「夏穂、伽耶が重い病気だと知りながら、わざと突き飛ばしたのか!お前はなんて悪毒なんだ!」
夏穂は説明した。「私は全然力を入れてないわ。彼女が自分で転んだのよ」
伽耶は目を赤く腫らし、涙をいっぱいに溜めて泣いた。「光平、私が自分で転んだことにして。もう夏穂を責めないで」
光平は立ち上がり、夏穂の首を掴み、厳しい声で言い放った。「すぐに伽耶に謝れ!」
首を締め付けられ、夏穂は瞬く間に息苦しくなった、もがくように光平の手首を掴んだ。
「光平、私を……殺すつもりなの?」
彼女の苦しそうな表情を見て、光平は一瞬ためらい、彼女を突き飛ばした。
夏穂は地面に叩きつけられ、頭が固い石畳に強く打ち付けられた。その直後、彼女の視界は真っ暗になり、何も見えなくなった。
突然の暗闇に恐怖が夏穂を包み込んだ。頭の痛みに耐えかね、彼女は前方に手を伸ばした。
「どうして何も見えないの……
光平、どこにいるの……」
第2話
光平は床を這いずり回る夏穂を見て、一瞬の戸惑いを覚え、彼女を助け起こそうとした。
しかし、伽耶が口を開いた。「光平、私たちの結婚式はやめましょう。このままじゃ、夏穂があなたを引き留めようと、自分が不治の病になったとか、目が見えないだとか言い出すでしょうから……」
その言葉に、光平は手を引っ込めた。「夏穂、君がこんなに演技が上手いとは知らなかったよ」
焦点の定まらない目から恐怖の涙を流しながら、夏穂は訴えた。「光平、嘘じゃないの。本当に何も見えないの……」
だが、光平はすでに伽耶を抱きしめ、冷酷に背を向けて去っていった。
結局、傍にいた営業マンが夏穂の様子がおかしいことに気づき、タクシーで病院に連れて行った。
医師は彼女に、衝撃で脳内の神経膠腫が視神経を圧迫し、一時的な失明を引き起こしたと説明した。
真っ暗な視界に、夏穂は不安を感じずにはいられなかった。
「先生、手術を早めることはできませんか」
「手術日程は変更できません。寿さん、まずは入院手続きをしましょう」
夏穂は、両親の最期を病院で見送った経験があるから、消毒液の匂いが大嫌いだった。
彼女は営業マンに謝礼を渡し、自宅に送り届けてもらった。
しかし帰宅してすぐ、二人の男に家に押し入られ、引きずり出された。
夏穂は必死に抵抗した。「あなたたち誰?どこへ連れて行くの?」
荒々しい声が返ってきた。「中原社長に会うんだ。大人しくしろ。乱暴はしたくない」
中原社長が誰かは言うまでもない。
夏穂は抵抗をやめた。
車は猛スピードでプラチナマンションに到着した。降りるや否や、夏穂は二人のメイドの噂話を耳にした。
「寿さんは中原社長の側で7年間尽くしてきたのに、やっと結婚話が出たと思ったら、花嫁が入れ替わるなんて……」
「霧島さんこそが中原社長の本命で、昔は彼女が社長を置いて海外に行ったそうよ」
「でも寿さんの方が社長を愛してるように見えるわ。彼女がいた頃は、社長の衣食住全てを世話してたのよ」
「恋愛なんて、誰にもわからないものよ。努力した方が報われるとは限らないわ」
夏穂の唇に苦い笑みが浮かんだ。彼女たちにも分かる道理を、自分はずっと見抜けなかった。
ボディガードに連れられてリビングに入った夏穂は、目が見えないため、光平の位置を声で確認するしかなかった。
「光平、私を呼んだ理由は?」
夏穂がまだ盲人を演じているのを見て、光平の怒りは一層高まった。
「夏穂、まだ芝居を続けるつもりか?そんなに演技が好きなら、女優にでもなったらどうだ?」
夏穂は無駄な言い争いを避け、再び尋ねた。「結局、何の用件なの?」
光平が口を開こうとした瞬間、伽耶が彼の腕を引いた。「光平、もういいわ。物は壊れてしまったのだから、これ以上あなたと夏穂の間を悪くする必要はないわ」
「でも伽耶、あの翡翠の腕輪は君が幼い頃から身につけていた母親の形見だ。彼女がわざと君を突き飛ばして壊したんだ。必ず責任を取らせる」
夏穂はようやく事情を察した。伽耶の嫌がらせはまだ終わっていなかったのだ。
自嘲的な笑みを浮かべながら、夏穂は言った。「光平、私にどう責任を取れというの?残念ながら、私には彼女の気を晴らすような母の形見なんてないわ……」
突然、夏穂は何かを思いついた。彼女は指輪を外し、光平がいるだろう方向に投げた。
「この指輪で彼女への賠償としましょう。これで十分かしら?」
第3話
指輪が光平に当たると、彼の顔は怒りで険しくなった。「夏穂、またどんな芝居だ?これは俺がお前にプロポーズした時の指輪だぞ」
夏穂は淡々とした声で答えた。「結婚式もなくなったのに、指輪なんて何の意味があるの?」
光平は眉をひそめ、不機嫌そうに言った。「いつ結婚式を取り消したって?伽耶の願いを叶えるために先に式を挙げるだけで、俺たちの式は一ヶ月延期しただけだ。
七年も待てたのに、たった一ヶ月も待てないのか?」
夏穂の虚ろな目に涙が溢れ、頬を伝って落ちた。「光平、私たちの縁はあと七日しかないの。もう待てない」
彼女の脳の神経膠腫は記憶を司る部位にあった。七日後には、死ぬか、彼のことを完全に忘れてしまうか。どちらにしても、二人に未来はなかった。
夏穂の様子を見て、光平の胸に痛みが走った。思わず近寄り、涙を拭おうとする。
伽耶が先に動き、床から指輪を拾い上げ夏穂の前に立った。「夏穂、この指輪は光平の愛の証。簡単に捨てていいものじゃないわ」
夏穂は目が見えず、伽耶が近くにいることに気づかなかった。手に鋭い痛みを感じ、反射的に振り払った。
次の瞬間、何かが倒れる音と光平の驚きの声が聞こえた。
光平は伽耶の額が机の角で切れているのを見て、顔を歪めた。
「ここまで悪質で、反省のそぶりすら見せないなんて。静願寺に連れて行け。輪廻の道を這わせて、罪を償わせろ」
夏穂の声が初めて恐怖に染まった。「光平、そんなことしないで……」
輪廻の道は元々ただの石段だったが、いつしか神秘的な伝説が付与された。
罪深き者が地に額を打ちつけるように祈りを捧げつつ、99段を登れば、前世の罪が消え、来世の報いを免れるという。
夏穂はボディガードに押さえつけられ、一段ごとに額をつけながら這い上がった。服は擦り切れ、膝は針で刺されるような痛みを感じた。
周りの参拝客の会話が耳に入ってきた。
「輪廻の道って自ら罪を償うものじゃなかったっけ?押さえつけられてるの初めて見たわ」
「この娘さん、清楚そうだけど。悪いことする人には見えないわね」
「人は見かけによらないものよ。悪いことしてなきゃ、ここまでされないでしょ」
「そうね。表面は優しそうでも、心の中は分からないものね」
「まあ!あの子、目が見えないみたいね」
「きっと目が見えなくなったのも天罰よ。そんな大罪人とは距離を置いた方がいいわ」
夏穂の体中に痛みが広がっていった。膝から、腕から、額から、全身に痛みが走る。
階段を半分ほど上がったところで、ボディガードの二人も同じ動作の繰り返しで腕や足が痛くなってきた。いらだちながら、夏穂を乱暴に押した。
「自分で這えないのか?死人みたいにじっとしてんじゃねえ!」
夏穂はすでに拷問のような苦痛で力が尽き果てていた。体ごと階段に倒れ込み、転がり落ちていく。
意識が朦朧とする中、夏穂は光平の絶叫のような声を聞いたような気がした。
第4話
夏穂は自分が落ちていく感覚に襲われた。7年の月日が頭の中を駆け巡り、思いは18歳のあの夏の日へと遡っていった。
その夜、自習してる間に教師から痴漢行為を受けた彼女は必死に抵抗し、教師の頬を平手打ちして職員室から逃げ出した。
教師は背後で「恩知らず」と罵り、大学入試すら受けられないほど社会的に抹殺すると脅した。
孤児院育ちの夏穂には両親がおらず、このような事態に遭遇した時の対処法を教えてくれる人もいなかった。
途方に暮れ、恐怖と絶望に押しつぶされそうになった彼女は、学校の屋上へと向かい、自らの命を絶とうとした。
そんな彼女を救ったのは、タバコを吸いに屋上に来ていた光平だった。
「聞いたことあるけど、飛び降りた人って脳みそが飛び散って、顔も原形をとどめないらしいよ。女の子って綺麗でいたいんじゃないの?」
夏穂は涙ながらに答えた。「どうせ死ぬんだから、醜いも綺麗もどうでもいい」
「なあ、死にたい理由を聞かせてくれないか?もしかしたら俺に何か出来るかもしれない」
光平は手を差し出した。「俺、今まで散々悪いことばかりしてきたけど、良いことするのは初めてなんだ。顔を立ててくれないか?」
救われた夏穂は、光平に事情を打ち明けた。
18歳の少年は正義感に燃えていた。特に光平は強大な後ろ盾があり、何も恐れるものがなかった。
「悪いのはお前じゃない。あの畜生だ」
光平はすぐさま屋上を降り、職員室に乗り込んでその教師を徹底的に殴りつけた。
さらに教育委員会に勤める叔父に電話をかけ、その教師を解雇し、永久に教員免許を剥奪させた。
夏穂にとって解決不可能に思えた問題を、光平はいとも簡単に解決してしまった。
光平が差し出した手は、暗闇の中にいた夏穂に一筋の光をもたらしたのだった。
しかし今、その同じ手で彼は夏穂を再び底なしの闇へと突き落とそうとしていた。
時が経ち、夏穂のまぶたが微かに動いた。目を開けると、まぶしい白い光景が広がっていた。
彼女は自分の手を上げた。見えるようになったのか?
すると、誰かに手をしっかりと握られた。「夏穂、目が覚めたのか?」
わずかに顔を向けると、光平の緊張した表情が目に入った。
彼女のことを心配しているのだろうか?
夏穂は自嘲気味に笑い、光平の手から自分の手を引き抜いた。
光平は心の中で不安が募り、再び夏穂の手を握った。「夏穂、もう喧嘩はやめにしないか?」
「光平、あなたが私を苦しめておいて、私が喧嘩していると言うの?」
光平は態度を軟化させ、「本当に伽耶の最後の願いを叶えてあげたいだけなんだ。彼女はもう長くない。嫉妬しないでくれ」と言った。
夏穂は真っ直ぐに光平を見つめ、苦々しい声で言った。「でも光平、私だって死にそうなのよ……」
光平は再び顔を引き締め、声音を落として言った。「夏穂、もう演技はやめろ。さっき医者に診てもらったが、お前は健康だ。目も問題ない」
「そんなはずない……」
夏穂は脳に神経膠腫があると知った時、誤診の可能性にかすかな希望を抱いた。しかし、複数の病院で診てもらっても結果は同じだった。
夏穂の頑なな態度に光平の忍耐も限界に達し、そばにあった検査結果を夏穂に投げつけた。
「ここにはっきり書いてあるだろう。まだ言い逃れするつもりか!」
夏穂は報告書を手に取り、病院名を見て事情を悟った。
「これは霧島家が出資している病院よ。偽の報告書を作るのは簡単。別の病院で検査すれば、本当に私が病気かどうかわかるはず」
光平は怒りに任せて夏穂の腕を掴み、ベッドから引きずり出した。
「じゃあ、他の病院に連れて行ってやる。今日中にお前の嘘を暴いてやる!」
夏穂は裸足のまま、靴を履く間もなく、膝の激痛に耐えながら光平に引っ張られて歩き出した。
彼女は光平に証明しなければならなかった。自分が嘘をついていないことを。
第5話
病室を出てすぐ、看護師が光平を呼び止めた。「中原様、霧島様がお目覚めになり、お会いしたいとのことです」
光平は即座に夏穂の腕を離し、隣の病室へ足早に向かった。
夏穂は光平の袖を掴み、目を赤くして訴えた。「光平、一緒に検査に行くって言ったじゃない」
光平は夏穂の手を振り払い、いらだちを隠さずに言った。「伽耶はお前のことを心配して倒れたんだ。いつまで嫉妬してるつもりだ!」
夏穂は力なく床に倒れこんだが、光平は振り返りもせずに立ち去った。
涙で視界がぼやける中、夏穂は壁に寄りかかり、涙を止めることができなかった。
しばらくして、夏穂は自分の服に着替え、退院手続きを済ませた。
夜になってようやく光平から電話がかかってきた。
「どこにいるんだ?検査に行くんじゃなかったのか?」
夏穂は冷ややかに答えた。「もういいわ。私は病気じゃない」
夏穂が病気ではないと聞いて、光平は思わず安堵のため息をついた。
「自分の過ちに気づいたなら、もう過去のことは問わない。家でゆっくり休んで、一ヶ月後の結婚式の準備をしてくれ」
「私は結婚なんて…」
夏穂の言葉が途切れたとき、電話の向こうから伽耶の甘い声が聞こえてきた。
「光平、パジャマを忘れちゃった。取ってきてくれる?」
夏穂は自嘲的な笑みを浮かべ、電話を切った。
一方、光平は伽耶のパジャマを見つけ、浴室のドア越しに渡そうとした。
しかし伽耶はドアを開け、裸のまま出てきた。彼女は白い腕を光平の首に回し、耳元で囁いた。
「光平、もうすぐ夫婦になるのよ。少し先取りしてみない?」
光平は少し躊躇った後、パジャマを伽耶の肩にかけ、しっかりと包み込んだ。
「伽耶、俺たちの結婚式はただ君の願いを叶えるためだ。もうこんな話はやめてくれ」
かつて二人が結婚を考えていたとき、伽耶は手紙を残し、若すぎて結婚に縛られたくない、世界を見たいと言って逃げ出した。
伽耶と結婚できなかったことが光平の生涯の後悔だった。今、伽耶との結婚式はその後悔を埋めるものだった。
しかし、光平の心の中で真の妻は夏穂だけだった。
光平は伽耶を押しのけ、その場を去った。
伽耶の表情が歪み、目に憎しみが満ちた。
「夏穂、私がいない間に男を奪うなんて、許さないわ!」
夏穂は家で三日間静養した。
この間、彼女は新たに墓地を購入し、臓器提供意思表示カードの提出も済ませた。
もし手術台で命を落とすことになっても、自分の体が誰かの役に立てばと願った。
残りの四日間を静かに過ごせると思っていた矢先、伽耶から電話がかかってきた。
「夏穂、明日は光平との結婚式のリハーサルよ。あなたにブライズメイドをお願いしたいの」
夏穂は苦笑した。本来自分のはずだった結婚式が伽耶のものになり、今度はその付き添いまで求められるとは。
「伽耶、今回はどんな企みがあるにせよ、お断りするわ」
「来ないというのなら、こちらから人を迎えに行かせるわよ」
伽耶の声には露骨な脅しが込められていた。「ま、あなたが気に入るような迎え方じゃないと思うけどね」
夏穂はスマホを握りしめ、深呼吸をして答えた。「分かったわ。行くわ」
電話を切ると、夏穂はすぐにネットショップで何かを注文した。
彼女は伽耶にこの決定を後悔させてやろうと決意した。
第6話
結婚式は、市内でもっとも豪華なホテルで執り行われる予定だった。
かつて光平からプロポーズされたとき、夏穂は嬉しさのあまり一晩中眠れなかった。ついに報われる日が来たと信じていたのだ。
彼女は自ら結婚式の企画を立て、会場に飾る生花や装飾など、すべてを丹念に選び抜いた。しかし、結局その舞台に立つのは、彼女じゃなかった。
伽耶は数億円もする宝石を身につけ、傲慢な態度で夏穂の前に歩み寄ると、服を一揃い投げつけ、皮肉たっぷりの声で言った。
「早く着替えてちょうだい、私のブライズメイド」
夏穂は服を抱えて控室の試着室へ向かった。着替えを半分ほど終えたとき、隣から伽耶の甘ったるい声が聞こえてきた。
「光平、そんなに急がないでよ」
光平は軽薄な口調で言った。「そんなに艶かしい格好をしているのは、わざと俺を誘っているんじゃないか?」
伽耶は色香を漂わせながら、甘えるように笑った。「光平、いやだわ……」
試着室の騒ぎはますます大きくなっていった。
夏穂はドアに寄りかかり、隣室から聞こえてくる絶え間ない音に耳を傾けていた。胸の奥に何かが詰まっているように感じられ、息苦しさのあまり呼吸することさえ困難になった。
彼女は光平と伽耶が不潔な関係にあることを、ずっと前から知っていた。しかし、知っていることと、実際に耳にするのとではわけが違う。
伽耶は指で光平の首に抱きつき、夏穂を刺激するために、わざと甘く、人を惑わせるような声をあげた。
世の中に浮気をしない猫はいない。男も同じだ。
彼女は直接、光平に薬を盛り、彼と一夜を共にした。
一度それをすると、二度目もある。一線を越えてしまえば、男に自制心などないことに気づくだろう。
時間だけが過ぎていき、夏穂の心は麻痺していくようだった。
ついに、隣からドアが開く音が聞こえ、光平が出て行った。
伽耶の声がドア越しに聞こえてきた。「夏穂、壁に耳を立てている気分はどう?」
夏穂はドアを開けて外に出ると、伽耶を見て確信を持って言った。「伽耶、あなたは不治の病じゃないの?」
あの日、病院での検査報告書がすり替えられた後、彼女はふと、ある可能性に思い至った。
伽耶は、自分が神経膠腫になったという検査報告書を健康なものにすり替えることができたのだから、自分自身が不治の病にかかったという報告書を偽造することもできるのではないか、と。
伽耶は顔を紅潮させ、首筋には星屑のようなキスマークが散りばめられ、ソファーに斜めに座って明るく笑った。
「当然、私は不治の病ではないわ。不治の病にかかっているのはあなたでしょう」
彼女は傲慢な態度で夏穂を見下した。
「私のものは結局、私のものになるの。夏穂、あなたが光平に7年間付き添ったとしても、彼の心の中で愛しているのは私なのよ」
彼女の言葉に、夏穂は反論できなかった。しかし、彼女が今日ここに来たのは、別の目的があったからだ。
「あなたが不治の病にかかっていると嘘をついたのは、光平を取り戻すため?」
「伽耶、あなたは光平を愛しているの?」
伽耶は当然のように答えた。「当然愛しているわ。そうでなければ、なぜ彼に会いに来たと思うの?」
「彼を愛しているのなら、なぜ以前、結婚を破棄したの?」
夏穂は突然厳しい口調で非難した。「あなたには光平の愛を受ける資格はない!」
伽耶は少し頭に血が上ったように言った。「貧乏人のあなたに何が分かるの?あの時、中原家は融資に問題が発生し、倒産寸前だったのよ……」
当初、彼女は確かに光平と入籍するつもりだった。しかし入籍の前日、彼女の父親から、中原家は融資に問題が発生し、倒産する可能性が高いと告げられた。
もし彼女が嫁いだとしても、何も得られないばかりか、借金を背負うことになる。
彼女は光平を愛していた。しかし、彼のためにすべてを犠牲にできるほどではなかった。
考え抜いた末、彼女は手紙を残し、自分はまだ若く、結婚に縛られたくない。世界を見たい。そうすれば、どちらにも逃げ道があると考えた。
しかし、まさか途中で夏穂という邪魔者が現れて、彼女の座を奪うとは。光平は彼女と結婚しようとしている。
中原家が倒産から立ち直り、事業が発展していくのを目の当たりにして、彼女は当然黙っていられなくなった。そこで、不治の病という作戦を考え出したのだ。今となってはその効果は、彼女の予想通りだと言えるだろう。
伽耶の声は途切れた。
夏穂は彼女の言葉の意味を理解し、彼女に代わって言い終えた。
「あなたが以前、結婚を破棄したのは、結婚に縛られるのが怖かったからではなく、中原家が倒産して、あなたに贅沢な暮らしを提供できなくなるのが怖かったからでしょう?」
伽耶の顔に一瞬、狼狽の色が浮かんだ。しかし、すぐに落ち着きを取り戻し、鼻で笑った。
「あなたが知ったところで何になるの?光平があなたのことを信じると思う?」
「夏穂、もし光平の前で余計なことを言ったら、私のやり方を試させてあげるわ」
伽耶は腰をくねらせながら去っていった。
夏穂は目を伏せ、ポケットからボイスレコーダーを取り出した。
彼女は余計なことは言わない。彼女は彼らの結婚式に、とっておきのプレゼントを贈るつもりなのだ!
第7話
夏穂はブライズメイドのドレスに着替えて出ていった。
光平は彼女を見ると目を奪われ、慌てた様子で尋ねた。「夏穂、どうして君がここに?さっき試着室にいたのか?」
夏穂の瞳には冷笑が宿っていた。口を開こうとしたちょうどその時。
伽耶が光平の腕に抱きつき、笑いながら言った。「光平、私と夏穂は心を開いて話し合ったの。彼女はもう私たちのことを理解してくれたわ。そして、私のブライズメイドとして私の最後の願いを叶える手伝いをしてくれると言ってくれたのよ!」
光平は複雑な表情で夏穂を見て言った。「後で用事がなければ帰っていいよ。ここは君にふさわしい場所じゃない」
夏穂は淡々とした声で言った。「別に、来たくて来たわけじゃないわ。あなたの花嫁があまりにも熱心にもてなしてくれるから」
伽耶は夏穂を睨みつけ、すぐに光平を連れて立ち去った。
光平の母親が近づいてきて、ブライズメイドの格好をした夏穂を見ると、皮肉たっぷりに言った。「寿さん、よくもそんな厚かましいことができるわね。光平はもうあなたのことなどどうでもいいと思っているのに、しつこく付きまとって、愛人になるつもりなの?」
夏穂は挑発的な笑みを浮かべた。「私が愛人になるわけないでしょ?伽耶はもうすぐ死ぬじゃない。光平が彼女と結婚するのは、ただ哀れんでいるだけよ」
中原の母親は鼻で笑い、夏穂を見る目はさらに軽蔑の色を増した。「ずいぶんと都合のいいことを考えているようね。でも、あなたの目論見は外れるわ。伽耶は死なない」
夏穂が考えていた通り、中原の母親は伽耶の仮病のことを知っていた。
「そう?もしかして彼女の病気は嘘なの?」
中原の母親は、うっかり口を滑らせたことを後悔し、慌てて取り繕った。「光平はすでに最高峰の医療チームを招いて、伽耶を治療しているの。彼女が死ぬはずないじゃない。
とにかく、光平に付きまとうのはやめなさい。さもないとただでは済まさないわよ」
なぜ彼女たちは皆、彼女を脅すのが好きなのだろうか。彼女がお金も力もないからか?
でも――彼女たちは知らないのだろうか。何も持たない者ほど、恐れるものなどないということを。
リハーサルが始まり、光平は伽耶の手を引いて登場した。司会者が結婚の誓いを述べた後、2人は抱き合ってキスをした。
伽耶はもともと彼女のものであったウェディングドレスを着ており、大きなダイヤモンドの指輪がライトの下でまばゆいばかりの輝きを放っていた。
夏穂は自分の指が何もないことに気づき、そっと踵を返して去っていった。
キスが終わると、光平の母親は中原家の嫁の証である翡翠の腕輪を取り出し、伽耶の腕につけようとした。
どういうわけか、光平は突然手を上げて彼女を止めた。
「母さん、この腕輪は伽耶には渡せない」
中原の母親と伽耶は困惑した表情で彼を見た。
光平は舞台の下の空席をちらりと見ると、慌てて中原の母親の手から腕輪を取り上げた。「この腕輪はいつか、俺の妻となる人に直接渡すよ」
中原の母親は伽耶をからかうように言った。「光平は正式な結婚式で渡したいのね」
伽耶は辛うじて笑顔を浮かべたが、その瞳には憎しみが宿っていた。
結婚式の前夜、つまり夏穂が手術を受ける前夜、彼女は突然光平から電話を受けた。
電話の向こうは騒がしく、光平の声は明らかに酔っていて、言葉も途切れ途切れだった。
「夏穂、君に……会いたい。迎えに来て……ほしい」
しばらくためらった後、夏穂は「今どこにいるの?」と尋ねた。
「迷情……迷情クラブ……806号室」
夏穂は心の中で、光平がかつて彼女を助けてくれた恩を返すだけだと言い聞かせた。
どうせこれが最後だ。
「分かった。待ってて」
電話を切ると、夏穂は病衣を脱ぎ捨てて病院を出た。タクシーを拾い、迷情クラブへ向かった。
彼女は806号室を見つけ、ノックしようとした。
しかし、室内は真っ暗だった。
壁のスイッチに手を伸ばそうとしたちょうどその時。
突然、背後から誰かが彼女を抱きしめた。
第8話
夏穂は驚きのあまり、その人を押し返した。「誰なの?!」
相手は酒臭い息を吐きかけながら、夏穂の頬や首筋に乱暴に口付けを落とした。
夏穂は恐怖で頭皮が痺れ、大声で叫んだ。「助けて! 光平、助けて!」
すると、大きな手が夏穂の口を塞いだ。その人は耳元で嘲笑するように言った。「光平は隣の部屋で奥さんと幸せな時間を過ごしているから、お前のことなど構ってくれないよ」
それは光平の友人、若林勇太(わかばやし ゆうた)だった。
「夏穂、光平はお前のことを俺にくれたんだ。俺と付き合ってみないか?ずっとお前の味を試してみたいと思っていたんだ」
絶望に襲われる夏穂。光平がこんなことをするとは思いもよらなかった。
勇太の手が夏穂の細い腰を撫でる。その瞬間、夏穂はまるで高校三年生の時、教師からわいせつな行為を受けた時に戻ったかのようだった。
理性が急に覚醒した。誰も助けに来てくれないなら、自分で自分を助けるしかない。彼女はもう、頼る者のいない子供ではないのだ。
夏穂は手を後ろに回し、勇太の髪を掴み、力を込めて彼の頭を壁に叩きつけた。
そして、振り返って彼の股間を蹴り上げ、外へ逃げようとした。
勇太は痛みに叫び声をあげ、怒鳴った。「この売女め、今日は絶対に殺してやる!」
夏穂がドアを開けた途端、光平と伽耶がドアの外に立っているのが見えた。伽耶は驚いて「あなたたち、一体……」と声をあげた。
勇太は痛みを堪えながら先手を打って説明した。「彼女が俺を誘ったんだ。光平に捨てられたから、次の相手を探さなければならないって」
「嘘よ!あなたこそ、私に乱暴しようとした」
伽耶は信じられないといった顔で言った。「夏穂、たとえ私と光平が結婚式を挙げることになっても、光平はあなたのことを捨てるなんて一言も言っていないわ。それなのに、どうして……」
光平は冷たい目で、全身から冷気を発しながら言った。「夏穂、お前は本当に安っぽい女だな!そんなに男がいないと生きていけないのか?」
彼の口から発せられる悪意のある言葉は、まるで刃物のように夏穂の心を突き刺した。「男がいないと生きていけないのなら、そう言えばよかったのに!喜んでお前のことを満足させてやったのに!」
夏穂は手を上げると、思い切り光平の頬を叩いた。
「光平、今日から、私はあなたに何も借りはない」
そう言うと、彼女は踵を返して去っていった。
彼女はもう、光平が今回の彼女に対する策略の中で、どのような役割を果たしていたのかを詮索したくなかった。
彼女はただ、彼から遠ざかりたかった。
夏穂の決然とした後ろ姿を見ながら、光平の心にはこれまで感じたことのないほどの恐怖が湧き上がってきた。夏穂がこうして立ち去ってしまったら、本当に彼女を失ってしまうのではないかという気がした。
思わず足を上げて追いかけようとしたが、伽耶が彼の腕を掴んだ。
「光平、行かないで。私一人では怖い……」
光平は怒りを抑えながら、伽耶を宥めて先に部屋に戻らせた。
そして、殺気に満ちた表情で勇太に近づくと、力いっぱい蹴りつけた。
「俺の女に、手を出すとはいい度胸だ!」
勇太は狼狽した表情で言った。「光平、彼女が……」
「誰が言い出したことだろうと関係ない。彼女に手を出したからには、ただでは済まさないぞ」
彼は拳を何度も何度も、彼の顔に叩きつけた。
夏穂はクラブを出ると、直接タクシーで結婚式場へ向かい、以前に録音した音声を再生するようにセットした。
伽耶はあらゆる手を使って彼女を陥れた。今度は彼女が、伽耶がもっとも望んでいる結婚式をぶち壊してやるのだ。
すべてを終えると、夏穂は病院へ戻った。
夜に起こった出来事のせいで、彼女は少しも眠れず、ベッドに座って夜明けを待った。
彼女は太陽が東から少しずつ昇り、まばゆいばかりの光を放つのを見ていた。
これが自分の人生最後の日の出かもしれない。
午前9時、夏穂は移動ベッドに乗せられ、手術室に運ばれていった。
一方、光平は新郎の列に乗り、伽耶を迎えに式場へ向かっていた。
手術室の扉が静かに閉まり、手術中を示す赤い灯りが点灯した。
これからの夏穂の運命、生死に関わらず、光平との全ての繋がりは完全に断ち切られてしまうのだ。