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風も月も、そして彼もいない
「二宮様、こちらがご依頼に基づく偽装死サービスです。方法は交通事故、加害者は――あなたの夫、遠山正樹さんとなっております」 二宮雪乃の...
Chương (1)
第1章
「二宮様、こちらがご依頼に基づく偽装死サービスです。方法は交通事故、加害者は――あなたの夫、遠山正樹さんとなっております」
二宮雪乃の指先が「遠山正樹」という四文字に触れた瞬間、その瞳に複雑な影が揺らめいた。
だが、彼女は躊躇うことなく、依頼者欄に自分の名前を書き込んだ。
去り際、スタッフが思わず尋ねた。
「お使いの香水は何ですか?とても珍しい香りですね」
雪乃は微かに微笑んだ。
「手製のものです。『蝕骨』と名付けました」
スタッフは驚き、思わず口元を押さえた。
「まさか……あなたが、ネットで話題の謎の調香師、雪乃様ですか?」
雪乃は否定しなかった。
スタッフは興奮して言葉を続けた。
「伺いましたよ、あなたが愛する方のために、世界に一つだけの香水『愛の讃歌』をお作りになったんですよね。二人はきっと、深く愛し合っていらっしゃるのでしょうね……」
しかし、スタッフの顔色は一変し、言葉を止めた。
もし本当に深く愛し合っているのなら、偽装死サービスを利用し、わざわざ夫を加害者に指定するはずがない――
繁華街を目的もなく歩く雪乃の視線の先に、街頭の大型モニターが映った。そこでは調香師コンテストの最終結果が中継されていた。
「第20回世界調香師コンテスト金賞は――雪乃さん!受賞作品は、三年の歳月をかけ、何万回もの試行錯誤を経て完成した『愛の讃歌』です」
雪乃の胸は締めつけられるようだった。無数の深夜、彼女は地下室に籠もり調香に没頭し、一時は嗅覚さえ失いかけた。
あの頃、正樹は何をしていたのだろうか。
第1話
「二宮様、こちらがご依頼に基づく偽装死サービスです。方法は交通事故、加害者は――あなたの夫、遠山正樹(とおやま まさき)さんとなっております」
二宮雪乃(にのみや ゆきの)の指先が「遠山正樹」という四文字に触れた瞬間、その瞳に複雑な影が揺らめいた。
だが、彼女は躊躇うことなく、依頼者欄に自分の名前を書き込んだ。
去り際、スタッフが思わず尋ねた。
「お使いの香水は何ですか?とても珍しい香りですね」
雪乃は微かに微笑んだ。
「手製のものです。『蝕骨』と名付けました」
スタッフは驚き、思わず口元を押さえた。
「まさか……あなたが、ネットで話題の謎の調香師、雪乃様ですか?」
雪乃は否定しなかった。
スタッフは興奮して言葉を続けた。
「伺いましたよ、あなたが愛する方のために、世界に一つだけの香水『愛の讃歌』をお作りになったんですよね。二人はきっと、深く愛し合っていらっしゃるのでしょうね……」
しかし、スタッフの顔色は一変し、言葉を止めた。
もし本当に深く愛し合っているのなら、偽装死サービスを利用し、わざわざ夫を加害者に指定するはずがない――
繁華街を目的もなく歩く雪乃の視線の先に、街頭の大型モニターが映った。そこでは調香師コンテストの最終結果が中継されていた。
「第20回世界調香師コンテスト金賞は――雪乃さん!受賞作品は、三年の歳月をかけ、何万回もの試行錯誤を経て完成した『愛の讃歌』です」
雪乃の胸は締めつけられるようだった。無数の深夜、彼女は地下室に籠もり調香に没頭し、一時は嗅覚さえ失いかけた。
あの頃、正樹は何をしていたのだろうか。
彼は心配そうに雪乃を抱きしめていた。
「雪乃、無理してまで作らなくてもいい」
しかし雪乃は首を振った。
「約束したじゃない。結婚三周年には、あなただけの香水を贈るって」
正樹は目に涙を浮かべ、雪乃の額に深くキスをした。
雪乃は笑って手で押しのけた。
「早く出てって、邪魔しないで」
正樹は名残惜しそうに、何度も休むようにと促した。
だが――振り返れば、彼は家政婦の物言わぬ娘・小林香里(こばやし かおり)のベッドに潜り込んでいたのだ。
香里の部屋は地下室の真上にあった。
丸三年、千日以上にわたり、雪乃が香水作りに没頭する間、正樹と香里はその頭上で情事に耽っていた。
雪乃がマンションに戻ると、慌てて駆け寄ってくる正樹と出くわした。
汗だくで走り寄った彼は、雪乃を抱きしめた。
「君が朝早く出かけたって家政婦から聞いて、電話も出ないから心配したんだぞ」
雪乃は彼にまとう独特な香りを嗅ぎ取り、心の奥で静かに悲しみに沈んだ。
半月前、香里がうっかり送ったメッセージを受け取っていなければ、雪乃はまだ正樹の紡ぐ愛の童話に浸っていただろう。
それはぼやけた動画だった。
画面の中の裸の男は、身下の女に激しく腰を打ちつけていた。
香里の胸が揺れ、耐えがたい喘ぎ声をあげている。
雪乃は瞬時に、男の腰にある三日月形の傷跡を見抜いた――それは夫、正樹のものだった。
彼女は幾度もその傷跡を撫で、心を痛めた日々を思い出す。
三年前、二人はとある街へ旅行に出かけ、途中で強盗に遭った。
鋭いナイフが雪乃に向かうと、正樹は躊躇なく彼女を抱きしめ、自らが刺された。
病院で、正樹は顔色を失い、歯を食いしばりながら傷口を押さえ、片膝をついた。
「本当はこの街の初雪でプロポーズするつもりだったんだけど、ここでやるしかない」
消毒液の刺激臭の中、雪乃は泣きながら薬指に指輪をはめてもらった。
雪乃は一流の形成外科医を手配し、傷跡を除去できるよう試みたこともあった。
しかし正樹は拒んだ。
「この傷跡は残しておくよ。これは君への愛の証だ。これがある限り、君は俺から離れられない」
そして今、その傷跡は依然として彼の肌に際立っている。
だが愛する人は、すでに別人に変わり果ててしまったのだ。
ならば――このすべてを最も残酷な方法で終わらせよう。
彼に、自らの手で愛する人を失う苦しみを味わわせるのだ。
第2話
正樹は手を差し出し、雪乃の目の前で軽く揺らした。
「何をそんなに考え込んでいるんだ?」
現実に引き戻され、雪乃はわずかに作り笑いを浮かべた。
「一週間後には新作が発売されるけど、会社の方はすべて手配済みかしら?」
正樹は愛しげに雪乃の頬をつまんだ。
「二宮大先生、しばらく調香のことを忘れられないのか?今日が何の日かも忘れてるだろう」
雪乃はスマホのカレンダーをちらりと見た。
五月八日――彼女の二十八歳の誕生日だった。
「仕事人間は忙しいと、何でも忘れちゃうんだから。さあ、早く中に入って。サプライズを用意してあるんだ」
別荘の扉を開けると、友人たちが一斉に飛び出し、声を揃えて祝福した。
「お誕生日おめでとう!」
明かりと音楽に包まれ、正樹は雪乃の手を取り、大広間の中央へと導いた。
注目の視線が集まる中、正樹はブルガリのサファイアネックレスを雪乃の首にかけた。
人々の間にざわめきが走った。
「わあ!あのネックレス、私の推しアイドルもつけてたやつよ。確か四十カラットもあるって」
「遠山社長が半年前に予約したらしいよ。数十億するらしい。奥様は本当に幸せ者ね!」
「あれって『愛の讃歌』の香水に匹敵するんじゃない?まさに理想の夫婦だわ!」――
雪乃は喜びの表情一つ見せず、ただネックレスの重みに息を詰まらせた。
正樹は鋭く彼女の表情を読み取った。
「気に入らないのか?」
雪乃が答えようとしたその瞬間、視界の隅に香里が隅で笑みを浮かべ、こちらを見つめているのが捉えられた。
彼女のイヤリングは目立ちすぎるほどで、雪乃のネックレスとセットになっていた。
ここまであからさまにするつもりだろうか――
最初のダンスが半分ほど進んだ頃、香里は正樹に向かって手話で合図し、背を向けて立ち去った。
正樹のステップは度々乱れ、再び雪乃のドレスの裾を踏み、よろめいた。
「ごめん、雪乃。香里がクライアントから電話が入ったって言うから、ちょっと対応してくる」
彼は雪乃が手話を理解できないと思い込んでいたが、実は雪乃は聴覚障害者支援施設でのボランティア経験があり、手話を読むことができた。
香里が伝えていた内容は――「セクシーな下着で、物置で待っている」というものだった。
雪乃は、慌ただしく物置に駆け込む正樹を見つめ、一分後、香里もまた姿を消すのを確認した。
全身がこわばった。彼はそんなに待ちきれなかったのだろうか――
すると、聾唖の香里からのメッセージが画面に表示された。
正樹の欲望むき出しの声が響いた。
「小悪魔め、そんなに俺に抱かれたいのか?今日は雪乃の誕生日だから、大人しくしてるんだ」
香里は手話で問いかけた。
「じゃあ、旦那様は私とするのと、彼女とするの、どっちがお好き?」
正樹は彼女の耳たぶを軽く噛み、嘲笑った。
「あいつは君ほどエロくない。もちろん君とだよ」
香里は得意げにカメラに視線を向け、雪乃に見せつけるようだった。
遠くで正樹の友人たちがひそひそと囁く。
「さすが遠山だな。堂々と嫁の前で浮気するなんて、俺たちの手本だよ」
「ああいう女とやるって、どんな感じなんだろうな?」
一同は笑いながら言う。
「それは遠山に聞かないと。あいつは経験豊富だからな」
雪乃は拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込むのを感じた。
正樹の周囲は皆、正妻である自分を裏切って聾唖の香里と関係を持っていることを知っていて、自分だけが知らなかったのだ。
強い屈辱感が、雪乃を震えさせた。
バースデーソングが流れ、ようやく雪乃は我に返った。
そして、十段重ねのケーキが運ばれてきた。
「お願い事をして!」
雪乃は両手を合わせ、心から願った。
――正樹が永遠に愛する者を失い、骨まで蝕まれる痛みを味わいますように、と。
目を開けると、正樹がそこに立っていた。彼は雪乃の手を握り、情深げな眼差しを向ける。
「どんな願いをしたの?」
彼に纏わる愛の讃歌の香りは、甘ったるく生臭い匂いに覆われ、雪乃は吐き気を堪えた。
雪乃は顔色を変えずに手を引いた。
「もちろん、ラブスノー社がますます繁栄しますようにってね」
「君のような世界級の調香師がいれば、ラブスノーは必ずさらに上をいくさ」
ラブスノー社――二人が築き上げた香水会社は、無名から絶頂期までのし上がった。
正樹の経営手腕だけでなく、雪乃の卓越した調香技術が、その成功の土台となっていた。
ラブスノー――雪乃を愛する。今思えば、なんと皮肉な響きだろう。
二人は共に誕生日ケーキを切り、最初の一切れを雪乃に渡した。
雪乃が形式的に一口かじると、突然顔色を変えた。
「ケーキの中に、何が入ってるの?」
正樹は眉をひそめた。
「家政婦に新鮮なフルーツを注文させたんだけど、どうした?」
彼も一口味見して、驚いた。
「どうしてクルミとピーナッツが入ってる!?小林さん、どういうつもりだ?雪乃がアレルギーだって知らないのか!」
家政婦である香里の母・小林優子(こばやし ゆうこ)は澄ました顔で言い訳を並べた。
「申し訳ございません、旦那様。私の不手際で、全て私の責任です」
だが、雪乃には優子の目尻に潜む企みが見えた。
当初、雪乃は小林母娘を憐れみ、家に迎え入れた。しかし、その慈悲は今、邪悪な策略となり牙を剥こうとしている。
深く考える暇もなく、雪乃は呼吸が苦しくなり、全身が灼熱感と激しい痒みに襲われた。
正樹は雪乃の腰に手を回し、声を震わせた。
「グズグズするな!すぐ病院へ向かうよう運転手に伝えろ!」
優子は再び無垢を装った。
「旦那様、先ほど運転手の上田(うえだ)さんをお使いに出したばかりで、まだ戻っておりません」
雪乃は喉が腫れ、言葉を発することすらできなかった。
この母娘は、自分を死に追いやり、その座を奪おうとしている――
第3話
意識が遠のく直前、雪乃は必死に正樹の襟を掴んだ。
「ま、正樹……、私に……死んでほしいの?」
正樹の瞳に宿った恐怖はあまりにも生々しく、彼は泣き叫ぶように声を上げた。
「早く救急車を呼べ!急いで!
雪乃、きっと大丈夫だ。俺が何とかするから、心配するな」
眩しい手術灯の下で、雪乃は一瞬だけ意識を取り戻した。
手術室の外から、正樹の叫び声が響いた。
「妻を助けてください!どうか妻を!」
冷たいメスが喉をかすめ、雪乃はようやく深く息を吸った。
――目を覚ますと、正樹はベッドの傍らでうたた寝していた。
眉をひそめ、無精ひげを伸ばしたまま、着ているのは昨日のスーツのままだった。
雪乃には理解できなかった。
なぜ、自らの命を顧みずナイフを受けた男が、その一方で平然と浮気などできるのだろうか。
しかも相手は聾唖の女性だというのに――
死の淵をさまよったあと、雪乃はいくつかのことを悟った。
もし正樹がここで手を打ち、香里と優子を解雇するなら、すべてを水に流そう。
これ以上責任を問うつもりはない。正樹に命を救われた恩として――
やがて正樹が目を覚まし、涙をにじませた。
「雪乃、死ぬほど驚いたよ。危うく君が……愛してる、雪乃!」
雪乃は彼の手の甲を軽く叩いた。
「バカね。見ての通り、私は無事よ。試練を越えた者には、必ず幸運が訪れるわ」
「でも、君の首には……心配するな。最高の医師に頼んで消してもらうよ」
雪乃は静かにうなずいた。
「一日中、何も食べていないよね。何が食べたい?」
気管切開のため、雪乃はまだ固形物を口にできなかった。
「お粥が食べたいわ」
正樹は即座に立ち上がった。
「俺が直接車で買いに行くよ。必ず熱々のお粥を届けるから」
去り際、正樹は身をかがめて彼女の首の傷跡にそっと口づけ、顔一面に慚愧の色を浮かべた。
病室のドアが閉まると、雪乃は偽装死サービスのスタッフにメッセージを送った。
【依頼をキャンセルします。費用の返金は不要です】
――一時間経っても、正樹は戻らなかった。
雪乃が何度電話しても応答はない。
暇つぶしに地元のショート動画を眺めていると、目を刺すような見出しがあった。
【ラブスノー社社長、某病院産婦人科に出現――夫人の妊娠疑惑が浮上か】
見出しの下には鮮明なGIFがあり、正樹がある女性を支えながら、産婦人科の受付へ入っていく姿が映っていた。
恐ろしい考えが、雪乃の頭の中で渦を巻く。
そのとき正樹から電話が入った。
「雪乃、少し渋滞してるから、慌てずもう少し待ってて」
雪乃は鼓動を押さえ、平静を装った。
「急がなくてもいいわ、ゆっくり運転して」
通話を切ると、点滴を外し、雪乃は二階の産婦人科フロアへ向かった。
曲がり角で立ち止まり、診察室の扉から出てくる正樹と香里を目にした。
彼は片手で香里の腰を支え、もう一方の手を彼女の腹に添えていた。
「お腹の子に免じて、ケーキの件はもう追及しない。
ただし、あのドジな母親に伝えろ。次があれば追い出すと」
香里は慌てて手話で弁解した。
「母はわざとじゃない、彼女は子供の祖母よ。それに奥様も無事だし」
正樹は重くため息をついた。
「雪乃に出産の苦しみを味わわせたくなかったから、君に妊娠させたんだ。幸い彼女は無事だったからよかったものの、そうでなければ君の子も取り上げてたよ」
――正樹は浮気だけでなく、香里に子を孕ませた挙げ句、その理由が「雪乃に出産の痛みを経験させたくなかった」とは、あまりに滑稽だ。
香里が彼の冷酷さに呆然とする中、正樹は慰めるように告げた。
「でも心配するな。雪乃の命は助かった。醜い傷は残ったが、命に別状はない」
その時、優子が階段口から現れ、同じ保温容器を二つ手に持っていた。
正樹は身を起こし、警告した。
「今度は変なものを入れてないだろうな?」
優子はぺこぺこと媚びへつらった。
「とんでもございません。香里にも食べさせますので、娘を害するはずがありませんよ」
――娘は害さないが、雪乃なら平気で害すのか。このクソババアめ。
正樹は鼻で笑い、差し出された保温容器を受け取ろうとしたが、もう一方の容器を奪い取った。
「大人しくしていろ。無事に子を産めば冷遇はしない。ただ余計な考えは捨てろ。正妻は、これからも雪乃だけだ」
雪乃は足取り重く病室へ戻り、洗面所の鏡に映る白い首の醜い傷を見つめ、冷ややかに笑った。
そしてスマホを手に取り、偽装死サービスの担当者に電話をかけた。
「サービスを続行してください。日時を来週の月曜日に繰り上げます」
第4話
来週の月曜日――それは雪乃と正樹の結婚三周年記念日であり、同時にラブスノー社の新製品発表会の日で、当日は多くの記者や顧客が来場する予定だ。
衆目の注目を集めるその場で、正樹を破滅の淵に突き落とし、すべてを奪ってやる――雪乃はそう心に決めていた。
そのとき、正樹が背後から雪乃を抱きしめ、雪乃の首筋に頭をすり寄せた。
「お腹空いただろ?早くお粥を食べて」
二人分のお粥は――まるで二つに分けられた愛情のようだった。
雪乃はふと、ある言葉を思い出した。
――「同じものを二人に分け与えるくらいなら、私の分はいらない」
保温容器の蓋を開けると、食欲を削ぐような具材が目に入った。
「腐ってるわ。もういらない」
正樹が一口味見した。
「腐ってなんかないよ」
腐っているのはお粥ではなく、正樹の心の方だ。
「小林母娘をどうするつもり?」
雪乃が問いかけると、正樹は複雑な表情で答えた。
「香里はケーキのことを知らない。小林優子には厳しく叱って、給料を半年分差し引いた。これでいいだろう?」
優子からは三か月分を差し引きながら、娘には無制限のクレジットカードを渡す――正樹は相変わらず、すべてを掌で転がしている。
雪乃は首の傷跡を示し、「それだけ?」と問いかけた。
正樹は気まずそうに顔を背け、しばらくしてようやく、母娘をすぐに追い出すと告げた。
だが、雪乃にとってあの二人が出ていくか否かは、もはやどうでもよかった。
ただ――自分のものが他人の手に渡ることだけは絶対に許せなかった。
正樹であれ、ラブスノー社であれ――去る前に、自らの手で壊してやる。
退院して別荘に戻ると、案の定、優子と香里の姿はなかった。
そして、雪乃は新しい香水を調合するという理由で、正樹を追い出した。
地下室に籠もり、丸三日を費やして、正樹と香里のためだけの特別な香水を完成させた。
一方その間、正樹も手をこまねいてはいなかった。
彼は香里と優子を郊外の別荘に匿い、香里は連日、挑発的なメッセージを雪乃に送り続けていた――動画、GIF、チャット記録まで。
動画には、正樹が欲望の獣のように香里の上に覆い被さる姿が映っていた。
香里は喘ぎながら手話で訴える。
「旦那様……もう勘弁してください、私が悪かったです」
GIFでは、香里の妊婦健診に付き添う正樹が、父親になるような優しさを浮かべていた。
彼は医師に妊婦の注意事項を細かく尋ね、まるで理想の夫のように振る舞っている。
胎児に問題がないと聞けば、正樹は感極まって涙をこぼし、香里も手話で喜びを伝えていた。
まるで幸せな夫婦が、新しい命の到来を待ちわびているかのようだった。
そして、香里はさらに挑発的なメッセージを繰り返し送っていた。
【奥様、旦那様はあなたの首の傷跡を見ると興ざめすると言ってましたよ。私といる今、すごく元気なのに】
【私が彼の子を妊娠したこと、ご存じですよね。彼はラブスノーの株を譲ると約束してくれました】
雪乃は冷ややかに笑った。
香里が聾唖であっても、正樹の情は確かに彼女に注がれている――そう思わざるを得なかった。
雪乃は証拠を保管しつつ、「命日」への準備を着々と進めていった。
三年間の恋、そして三年間の結婚で、正樹は決して物惜しみはなかった。
数百万から数千万の高級バッグが壁一面を埋め尽くすが、雪乃が最も愛用してたのは二千円ほどのトートバッグだった。
世界最高級のジュエリーが引き出しにぎっしり詰まっており、その価値は数百億に上る。
そして、数えきれないほどの限定品の服、靴、腕時計諸々……
だが、最も貴重だったのは、出会いから結婚までのすべてを綴った恋愛手帳だった。
雪乃は手帳をめくり、二人の若々しい顔が寄り添い、笑い合う写真を目にした。
涙がこぼれ、紙に一滴ずつ吸い込まれていく。
やがて文字はにじみ、見苦しい墨の染みに変わった。
雪乃は涙を拭き、品物を梱包し、ブランド品の中古買取サイトに出品した。
十分も経たないうちに、すべて売却された。
売上金はすべて聴覚障害者支援施設へ寄付した。
最後に、恋愛手帳と愛の讃歌の調合レシピを炉にくべた。
燃え上がる炎を見つめながら、心まで焼けるような痛みを覚えた。
――そのとき、別荘の扉が勢いよく押し開けられ、汗だくの正樹が飛び込んできた。
彼の焦りに満ちた声が響いた。
「雪乃、俺があげたものを全部売ったって……何かあったのか?」
第5話
本来、正樹は香里の甘い誘惑に溺れ、抜け出せないでいた。
だがアシスタントから電話が入り、雪乃が中古買取サイトに大量の高級品を出品していると知るや、正樹は香里を押しのけ、赤信号を無視してまで別荘へと車を走らせた。
雪乃は淡々と言った。
「全部古くなったから、新しいのに替えたかっただけよ」
その言葉を聞き、正樹は安堵の息をもらした。
「わかった。君が欲しいものなら何でも買う。世界に一つしかなくても、君に贈るよ」
しかし雪乃の表情は、相変わらず冷静そのものだった。
「ええ」
正樹の胸に不安がよぎる。
以前なら、雪乃は彼の言葉に瞳を輝かせ、抱きついてきたはずだ。
なのに、今の彼女は異様なまでに冷静で、何かを悟ったかのようにも見える。
やがて焦げる匂いに気づき、正樹はそばで燃え上がる炎に目を奪われた。
正樹は火勢を顧みず、恋愛手帳を掴み取る。高価スーツの袖で灰を払いながら、声を荒らげた。
「どうしてこれを燃やしたんだ?これは俺たちの愛の証だぞ」
雪乃は冷ややかに答えた。
「古いものを捨てなければ、新しいものは来ない。そうよね、正樹」
その言葉の裏に含まれた意味を正樹は察した――もしかすると雪乃は、香里との関係を知ってしまったのかも知れない。
正樹は探るように尋ねた。
「雪乃、何か聞いたのか?」
雪乃は逆に問い返した。
「何って、何かあるの?」
言葉に詰まった正樹に、雪乃は微笑みながら歩み寄り、彼を抱きしめた。
「ただ、写真の中の自分があまりにも不細工だったからよ。驚かせちゃったようね」
正樹は雪乃を強く抱き返した。
「それなら俺が撮影を勉強して、君をもっと綺麗に撮るよ。焼けてしまったものは仕方ない。俺たちにはこれから何十年もある、またいくらでも恋愛手帳や結婚手帳を作ればいい。
雪乃、絶対に俺から離れないって約束してくれるよね?」
雪乃は鏡の中の自分を見つめた。
憔悴した顔に、両目から輝きを失っていた。
六年の青春は、一瞬の炎に呑まれて灰となった。
ただ枯木に花咲くごとく、奇跡の再生を願った。
それでも雪乃は諦めきれず、正樹に尋ねた。
「正樹、私たち……子供を作りましょう?」
「子供」という言葉に、正樹の体は硬直した。
しばらく沈黙ののち、声を絞り出した。
「雪乃、君の体は丈夫じゃない。もう少し待とう」
心の底で、最後の一片の愛も完全に消え去った。
雪乃は目を閉じ、心を鬼にした。
「わかったわ。新しい香水を作ったの。『幽閉』って名前なんだけど、試してみる?」
話題を逸らしたことに安堵した正樹は、香水名の意味を深く考えなかった。
彼は微笑みながら雪乃の髪を撫でた。
「二宮大先生の言う通りにするよ。今すぐ試そう」
甘く濃密なジュニパーの香りと、エストラジオールの酸味が入り混じり、正樹の耳元に漂った。
彼は貪るようにその香りを吸い込んだ。
「なんて特別な香りだ。すごく気に入ったよ」
雪乃は眼底に潜む憎しみを隠しながら告げた。
「気に入ってくれて良かった。あなたにとても似合ってるわ」
正樹は全身に吹きかけながら、製品化を提案した。
「こんな独特な香りなら、きっと『愛の讃歌』に劣らない」
しかし雪乃はその提案を断った。
「これはあなただけの香りよ。他の人には触れさせたくないの」
彼女の独占欲に、正樹は恍惚と笑みを浮かべ、再び彼女を抱きしめた。
「俺たちは互いにとって唯一の存在だ。愛してるよ、雪乃!」
雪乃は彼に問いただしたい気持ちに駆られた。
――もし自分が唯一なら、香里は何なのか、と。
正樹の唇は雪乃の額から首筋へと滑り、淡くピンクがかった傷跡に執拗な口づけを落とし、その瞳の端には欲望を宿した。
雪乃は嫌悪感を抱きつつも押しのけなかった。
むしろその唇を受けとめ、舌を絡め返した。
正樹の目には野生のオオカミのような欲情が迸る。彼は雪乃を抱き上げ、寝室へ運ぶと、薄い衣服を指先でかき分け、素肌の熱を探った。
微かに唸り声を漏らすと、正樹は我慢できずに挿入しようとした。
――一度、また一度と挿入を試みる。
やがて正樹は汗だくになり、焦った声を出した。
「……ちょっと待ってて、雪乃」
再び挑もうとした瞬間、正樹は恐怖に顔を歪め、雪乃の上に伏せた。
「雪乃、俺……」
雪乃の膝が、彼の股間に触れた。――力なく柔らかいままだった。
雪乃は起き上がり、服を着ると両手で彼の顔を撫でた。
「大丈夫。あなたは仕事で疲れているだけよ。休めば治るわ」
正樹はがっくりとうなだれた。
「そうだな、そうだよな」
そう言って、頭を彼女の肩に埋め、自分が不能なのではなく、ただ疲れているのだと自分に言い聞かせた。
その時、枕元のスマホが数回震え、雪乃はちらりと画面を見た。
――香里からだ。
正樹は落胆した様子でベッドから起き上がった。
「会社からだ、ちょっと出てくるよ」
寝室を出ると、彼は声を潜めて電話に出た。
「どういうつもりだ?家にいるときは電話するなと言っただろ!」
雪乃は冷ややかに鼻で笑い、上着を羽織った。
――やはり彼は抜け目がない。
彼女は「幽閉」を取り出し、じっくりと観察した。
量が少し多すぎたかもしれない。だが、欲深い正樹には、ちょうど良い分量だ。
ときに、香水は毒を調合することと同じだ。
香水は人を夢中にさせ、毒もまた人を堕落させる。
第6話
電話は優子からだった。
「旦那様、やむなくお電話しました。香里が腹痛を訴えておりまして、心配だったもので……」
香里の不具合を聞いた瞬間、正樹の胸に渦巻いていた苛立ちはたちまち消え去った。
彼は受話器に口を近づけ、声を低めて問いかけた。
「さっきまで元気だったじゃないか。また変なものでも食べたのか?今すぐ行く」
そう告げると、正樹は申し訳なさそうな顔で寝室に戻った。
「雪乃、発表会の進行でちょっとトラブルがあって、出かけてくるよ」
雪乃は手際よく彼の乱れた襟を整え、「幽閉」をそっとポケットへ忍ばせた。
「疲れたらこの香水をひと吹きしてね。集中力が高まり、疲れも和らぐから」
彼は振り返り、少し疑わしげに尋ねた。
「雪乃、香料の使いすぎは体に良くないと聞いたが、副作用はないのか?」
雪乃は無頓着に答えた。
「知ってるでしょ。私が調合する香水はすべて天然成分よ。特にこれは妊婦でも使えるの。安心して」
彼女はわざと「妊婦」という言葉を強調し、正樹の疑念を完全に打ち消した。
彼はすぐさま言った。
「それならいくつか余分に用意してくれ。車やオフィスにも置きたいんだ」
そう言って、彼はうつむき加減に雪乃の眉間へ軽く口づけした。
「そうすれば、いつでも君の愛を感じられる」
雪乃はすでにアシスタントに指示し、「幽閉」を正樹の行動範囲すべてに配置していた。
満足げな正樹は、先ほどの不快な出来事をすっかり忘れたかのように別荘を後にする。
車が門を出ると、すぐに香里からメッセージが届いた。
【口ではあなたを愛してると言っても、結局旦那様は、私のところに戻ってくるんですよ】
続いて、正樹が香里を抱きかかえて病院へ向かう動画が送られてきた。
香里は彼の肩に大人しく身を預け、愛らしい妻を演じている。
【お腹が痛いって言ったら、彼はとても心配してくれました。だって私のお腹には彼の第一子がいるんですもの】
【医者が言うには、この子は男の子なんですって。将来は跡継ぎになれますね。奥様は何を持って私と張り合うおつもりですか?まさかあの瓶詰めのガラクタで?ご冗談を】――
香里は小学校さえ卒業しておらず、学問とは無縁の身。
彼女には知る由もなかった。
まさに彼女が「ガラクタ」と呼ぶ香水こそ、正樹を月収数万円のサラリーマンからフォーブス誌の富豪ランキング入りへ押し上げた原動力だったのだ。
――井の中の蛙、大海を知らず。
雪乃はそれらのメッセージを無視し、スマホの電源を切って地下室へ向かった。
三年を費やして開発した愛の讃歌を一瓶だけ残し、残りはすべて破棄した。
さらに、パソコンで配合データを修正し、ほとんど知られていない香料をつけ加えた。
作業を終えると、自動消去設定付きメールで会社の研究開発部に送信した。
送信が完了すると、開発部の責任者から電話がかかってきた。
「二宮社長、『愛の讃歌』の配合レシピを受け取りました。すぐに生産に入りますか?」
雪乃は少し間を置き、落ち着いた声で答えた。
「ええ、すぐに増産体制に入って。来週の月曜日までに発売できるように準備してちょうだい。
それと、開発部に最近、小林博己(こばやし ひろみ)という人が入社したわよね?今回の開発は彼に一任して」
開発部の責任者は、正樹の意向を確認すべきかと尋ねた。
「彼とは相談済みだから、私の指示通り進めてちょうだい」
三年の歳月を注ぎ込んだ香水。
ラブスノー社の株価が下落しなかったのは、国際的な賞を受賞した「愛の讃歌」のおかげだった。
もしこの香水に問題が生じれば、会社は壊滅的な打撃を受け、開発を担当した者は全責任を負い、軽ければ罰金や停職、重ければ刑事責任を問われることになる。
正樹が香里の弟を密かに会社の要職に据えた以上、雪乃が非情な手を打つのも無理はない。
第7話
病院では医師と看護師が慌ただしく動き回り、必要な検査はすべて終了した。
「妊婦さんの状態は良好です。気分を穏やかに保ち、軽い運動を心がければ問題ありません」
正樹の眉間のしわが、一瞬でほどけた。
「これで安心だな。アシスタントに上質なナマコを手配させたから、食事に少しずつ混ぜて栄養をつけなさい」
香里は相変わらず甘えた様子で彼にもたれかかり、手話で伝えた。
「あなたにもっと付き添ってほしいの。最近、お腹の赤ちゃんがよく蹴るから、夜もちゃんと眠れないの」
正樹は世界限定のバッグをいくつか買い与え、慰めるように言葉を添えた。
ふと、雪乃が「幽閉」には精神を落ち着かせる効果があり、妊婦も使えると語っていたのを思い出す。
彼はすぐにポケットから香水を取り出した。
「これを吹きかければ、ぐっすり眠れるぞ」
そう言うと、香里の腹部に半瓶ほど勢いよく吹きかけた。
その独特の香りに、香里は表情を緩めた。
だが、傍らにいた優子が、ためらいがちに口を開いた。
「昔から妊娠中は香水を控えろと申しますが……使いすぎない方がよろしいのでは?」
正樹は鋭い目で睨みつけた。
「田舎者に何が分かる?これから朝昼晩、欠かさず吹きかけろ。母体の安らぎは胎児にも良い」
娘の腹の子によって多くの利益が転がり込むと考えた優子は、渋々香水を受け取り指示に従うことを承諾した。
香里は目で合図を送り、優子は気を利かせて部屋を出た。
検査室には正樹と香里だけが残った。
香里は両手で彼の首に絡みつき、両脚を腰に巻きつけ、熱っぽい瞳で正樹を見つめた。
欲情に駆られた正樹は、素早く白衣をつかみ羽織った。
「こちらの患者さん、どこか具合が悪いんですか?私が全身検査してあげましょう」
香里はすんなりと検査台に横たわり、虚ろな瞳を漂わせ、唇はわずかに湿っていた。
正樹は焦りながら、彼女の白いレースのストッキングを脱がせた。
「小悪魔め、いずれ君に骨の髄まで搾り取られるな」
狭い空間で、「幽閉」の香りが漂っていた。
数分後、正樹は香里の上にぐったりと寄りかかり、荒い息を吐いた。
香里は不満げな表情を浮かべ、まだ物足りなさそうだった。
彼女は手話で伝えた。
「旦那様、どうしたの?まだ欲しいのに」
正樹は疲れ切った体を起こした。
「最近、少し疲れてるんだ。服を着て帰って休め」
香里は心の中で不満を抱きつつも、正樹を怒らせるのを恐れ、我慢するしかなかった。
「旦那様、それじゃ今夜、別荘で待ってるね。新しいおもちゃを買ったの」
正樹は内心苛立ち、早く帰るよう促した。
廊下で様子を伺っていた優子は目を丸くした。
いつもなら少なくとも三十分はかかるのに、今回は十分ほどで済んだからだ。
「香里、一体どうしたの?遠山さんを惹きつけなきゃ、奥様の座は遠のくわよ」
香里は足を踏み鳴らし、手話で訴えた。
「私にもわからない。私のお腹が大きくなったから?旦那様は、こういう体を好まないのかしら」
優子は周囲を見回し、小声で囁いた。
「いずれにせよ、遠山さんをつなぎとめなさい。あの女のところへ行かせちゃだめよ。何とかしてでもね」
そして、念を押すように続けた。
「これもあなたのためよ。遠山家に嫁げば、贅沢三昧の暮らしが待ってるんだし、私や弟も安泰だわ。
そうそう。弟を遠山さんの会社に入れる件、ちゃんと話したの?血のつながった弟なんだから、気を配りなさいよ」
香里はうなずき、得意げに笑った。
「お母さん、安心して。さっき正樹が言ってたわ。博己を会社の重要部門に配置したって。あの子が真面目に働けば昇進はすぐよ」
「本当に!?」
優子は喜びのあまり、目を見開いた。
香里はあごを上げ、自信に満ちた表情で伝えた。
「私が宿しているのは彼の子よ。これくらいのことで、正樹が嘘をつくわけないわ」
第8話
香里は街裏の診療所で高価な薬を取り寄せ、毎食、正樹に滋養強壮剤を飲ませた。
個人診療所が調合する薬は強烈で、正樹はかつての威風を取り戻すと、疲れを忘れ、情熱に身を任せた。
彼は発表会で忙しいと称して、まる三日間帰宅せず、昼夜を問わず快楽に浸っていた。
その間に、雪乃は「死に赴く」ための準備を着々と進めていた。
彼女は手持ちの52%のラブスノー社の株を段階的に売却し、すべての現金をS国の個人口座に振り込んだ。
すべてを終えた雪乃は、初めて正樹に会ったときの青いワンピースに着替え、長年使い慣れたトートバッグを手に取った。
鏡の前で、明るい黄色のスカーフを首に巻き、かつての傷跡を巧みに隠した。
雪乃は最後に三年間暮らした家を見渡すと、振り返ることなく、偽装死サービスのビジネスカーに乗り込んだ。
「二宮様、死亡予定時刻は午前十時十分です。こちらが新しい身分証明書となります。余生のご多幸をお祈りいたします」
――郊外の別荘では、リビングルームの中央に置かれたベッドは乱れ果て、ある種の風情を醸していた。
香里の声はすでにかすれ、喘ぎながら手話で空中に伝えた。
「……旦那様、もうやめて……死んじゃうわ」
低い唸り声とともに、正樹はベッドに倒れ込んだ。
今日は月曜日、十時半には新製品発表会が始まる。これ以上の無茶は許されない。
三日間にわたる情事の結果、彼の両脚は力を失っていた。
三日間、マナーモードにしていたスマホを取り出し、雪乃が必ず連絡してくると思っていたが、画面はきれいに空白のままだった。
正樹の胸に不安が走り、嫌な予感が突如襲った。
冷静に考えれば、「愛の讃歌」の発表は目前で、ラブスノー社の株価は上昇し、フォーブス誌の富豪ランキングでの彼の順位も跳ね上がるはずだ。
さらに今日は、雪乃との結婚三周年記念日――三重の喜びの日だ。
今夜はしっかり雪乃に償おう。この三日間、放置してしまった埋め合わせとして。
喜びに心が満たされると、人は気分が高揚する。
正樹は鼻歌を口ずさみながらオーダーメイドのスーツに袖を通し、空気中に幽閉をたっぷりと吹きかけた。
雪乃はこの香りが一番好きだと言っていたため、彼はこの三日間、自分をその香りで満たしていた。
香里はベッドにぐったりと横たわり、全身に青紫の痣と傷跡が浮かんでいた。
心の奥で、優子が薬の分量を考えずに投入したことを責めていた。
「当分来ないから、ちゃんと休んどけよ。あまり無理すると子供に悪い」
香里は従順にうなずいた。
時間が迫っていたため、正樹は運転手を呼ぶ暇もなく、郊外の別荘のガレージから、久しく使っていなかったジープを取り出した。
ダークレッドのジープが都心を通過すると、黒塗りのビジネスカーとすれ違った。
正樹は無意識に視線を向け、車体側面の文字を目にする。
――あなたのためにカスタマイズされた死に方。
胸に一瞬凍りつくような感覚が襲い、彼は慌ててスマホを取り出し、雪乃に電話をかけた。
「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」
何度かけても、冷たい自動応答しか返ってこなかった。
苛立った正樹は、スマホをハンドルに叩きつけた。
その瞬間、前方の交差点からスポーツカーが飛び出してきた。
正樹は慌ててブレーキを踏むが、長年整備されていなかったため、ブレーキが老朽化して機能していなかった。
赤いジープはそのままスポーツカーに激突し、混乱の中で彼は時間を一瞥した――午前十時十分。
ジープは路肩の電柱に衝突して、ようやく停止した。
両手でハンドルを握りしめた正樹の全身は凍りつき、胸が喉まで締めつけられる。
ただ、スポーツカーの運転手の無事を祈るだけだった。
しかし次の瞬間――「ドカン!」
スポーツカーが爆発し、続いて炎が激しく燃え上がった。
正樹の頭皮が痺れ、青いワンピースを着た車内の女性に見覚えがある気がした。
雪乃は街角のビジネスカーの中から、自らの「死」を見届けた。
今日を境に、この世に二宮雪乃はいなくなったのだ。