七年目の終わり、雪が溶けた

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七年目の終わり、雪が溶けた

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新婚の夜、親友の弟が、髪から滴る水を拭いながらふと私に尋ねてきた。「ちょっと大きいけど……大丈夫?」 彼のきれいに割れた腹筋に目を奪わ...

Chương (1)

第1章

新婚の夜、親友の弟が、髪から滴る水を拭いながらふと私に尋ねてきた。「ちょっと大きいけど……大丈夫?」 彼のきれいに割れた腹筋に目を奪われながら、頭の中が真っ白になる。「え?な、何が……?」 私の話が聞こえなかったように、彼は真剣な顔で繰り返す。「大丈夫?」 急な展開に、自分の声まで裏返った。「ちょ、ちょっと待って!そういうの、まだこれからって言ってたでしょ?今日はさすがに急すぎるんじゃ……」 その夜、家のセンサーライトが明滅を繰り返し、夜が更けても消えることはなかった。 元夫の森崎賢吾(もりさき けんご)は家の外でうずくまり、目を腫らして泣いていたが、私は気にすることはなかった。 かつて、私が賢吾の幼なじみとの「形だけの結婚」を認めたとき、彼はそれで私たちの冷戦が終わると信じていた。 ある日、彼から電話がかかってきた。 「俺とみやびの結婚式は体裁だけ。母さんのためにやるんだ。終わったら、必ずお前とやり直す。一緒に暮らそう、約束する」 私は何も答えなかった。ただスマホの画面に表示されたカウントダウンを見つめていた――あと何日でこの家を出られるかを計算するために。 彼は気づいていない。私に黙って離婚届を提出したその瞬間から、私たちの夫婦関係はすでに終わっていたということを。 第1話 今年に入って九度目――義理の母、森崎百合子(もりさき ゆりこ)が戸籍謄本を破ったとき、森崎あずさ(もりさき あずさ)の心がふと折れた。 手元には真っ二つになった書類。その片方に、先ほど百合子がぶちまけたスープの跡がまだ残っている。 百合子が怒りを爆発させるたび、決まって最初に犠牲になるのはこの一枚だった。 「何を見てるのよ!」病床に凭れながら、百合子は甲高い声を上げる。 「あんたみたいな厄病神が来なければ、私が寝たきりになることなんてなかったのよ!」 あずさは黙って床に散らばった食器の破片を拾い集める。鋭い端で指先を切り、赤い線が滲む。それでも声は上げず、白いワンピースに飛んだ油じみをそっと拭った。 「可哀想ぶるんじゃないわよ!」百合子はベッド脇のコップを掴み、投げつける。 「さっさと出て行け!顔を見るだけで腹が立つわ!」 コップはあずさの耳すれすれを通り過ぎ、壁に当たって粉々に砕け散った。 あずさは静かに病室を出て、ドアを閉めると、廊下の壁に背を預けて大きく息を吸い込んだ。 鼻腔を刺す消毒液の匂い。二年間、病院で過ごしてきた数え切れない夜が一気に胸に押し寄せる。 彼女はスマホを取り出し、夫の森崎賢吾(もりさき けんご)にメッセージを送った。 【賢吾、介護の人をお願いできない?今日もお義母さんが……】 画面には「既読」の文字が浮かぶ。だが、返事はいつまで経っても来ない。 十数分ほど待ち続けた末に、あずさはスマホを閉じ、戸籍謄本を再発行してもらおうと区役所へ向かった。 区役所の窓口は閑散としていた。破れた書類を差し出すと、職員は確認のために端末を操作し、眉をひそめる。 「……森崎さんは離婚されたようですが、『離婚』とわかる戸籍謄本を発行してもよろしいですか?」 「……離婚?」あずさは耳を疑った。 画面がこちらに向けられる。 「ご覧の通り、ご主人が離婚届を提出されています」 あずさはカウンターの縁を掴み、指先から血の気が引いていく。 彼女の脳裏に、二週間前の光景がよみがえった。治療費の清算に必要だと言って、賢吾が自分の印鑑を借りたことがあったのだ。そのとき、百合子の世話で手いっぱいだった彼女は詳しく聞きもせず、印鑑を差し出したのだった。 「もしかして……離婚についてあなたの合意は得られていないのですか?」職員が気の毒そうに尋ねる。 背後で順番待ちの人々がひそひそと声を交わした。 「ねぇ、あれって、森崎家のお嫁さんじゃない?賢吾さんにすがりついてるって噂の」 「そうそう、あの人のせいでお義母さんの足の治療が遅れたって聞いたのよ」 あずさは無言で左手の薬指を見つめた。そこにはめている指輪が、胸の奥に針を刺すような痛みを連れてくる。 「いえ。話し合って決めたことです、特に問題ありません」 かすれた声で言うと、職員は頷いた。 逃げ出すように区役所を後にする。真夏の日差しの下に立っているのに、全身が震えるほど寒かった。 タクシーに乗って病院に帰る途中、ようやく賢吾から返信が届いた。 「仕事で手が離せないんだ。夜に話そう」 何度もチャット画面を開き、問いただしたい衝動に駆られる。だが、文字を打ち込むことはできなかった。 病院へ戻ると、廊下は不思議なほど静まり返っていた。百合子の病室に近づき、中から笑い声が響いてくる。 そっとドアを押し開けたあずさは、その場に立ち尽くした。 ベッド脇に立つ百合子は、両足でしっかりと床を踏みしめ、器用にフォークで果物を口に運んでいた。 傍らには北沢みやび(きたざわ みやび)が座り、リンゴの皮をむいている。そして、忙しいと言い張っていた賢吾が母の肩を優しく揉んでいた。 「寝たふりなんて最高だわ」百合子は満足げに笑う。「あの小娘、私が歩けるようになったなんて夢にも思わないでしょうね」 「おばさんったら、またそんなことを……」みやびがにやりと笑う。「あずささん、あんなに一生懸命お世話してくれてたじゃないですか」 百合子は鼻で笑った。「当然よ。あの女が邪魔したせいで賢吾が電話に出られなくて、私は長い入院生活を強いられたのよ」 あずさはドア枠にしがみつくように手をかけ、賢吾の顔を見た。彼は複雑な表情を浮かべているが、母の言葉を否定しない。 「離婚届はもう出したのに、どうしてあいつはまだ出て行かないの?」百合子が詰め寄ると、賢吾は低く答えた。 「離婚については、まだ話してない。それに……」 「それにって?」百合子が甲高い声で遮る。「まさか未練でもあるっていうの?みやびのほうがあの女より百倍マシでしょ?」 「母さん!」賢吾の声が鋭く響いた。「離婚は俺なりの考えがある。母さんはゆっくり休んで、回復に専念してくれ」 「はいはい、勝手にすればいいわ」百合子は手を振り払うように言った。 「どうせもう別れるんだから。あいつがタダで世話をしてくれるなら、それはそれでいいわ」 あずさは一歩後ずさり、視界が涙でにじんだ。離婚の当事者である自分が、最後にそれを知るなんて…… 病室に背を向けると、背後ではまだ笑い声が弾んでいた。 あずさは窓辺に立ち、スマホの中で眠らせていたとある番号を押した。 「……もしもし、私よ」 彼女の声は驚くほど落ち着いていた。「ここを離れたい。できるだけ早く」 スマホの向こうが沈黙したのちに問う。「もう決めたんだね?」 「うん」窓の外の街路樹が風に揺れ、葉が静かに擦れ合う。 「この家に二年も尽くした。もう、十分でしょう」 通話を切り、病室の方へ一度だけ目を向けた。相変わらず笑い声が満ちている。 その声は、まるで幸せな家庭そのもののように響く。けれど、そこに自分の居場所なんて一度もなかった。 第2話 あずさは病室へ戻ることなく、タクシーに乗って家へ直行した。夜になって荷物をまとめ終えたころ、賢吾がドアを開けて帰ってきた。 「お義母さん、今日も三度も茶碗を投げつけてきたわ。私がみやびほど気が利かないんですって」 顔を上げずに告げると、賢吾はネクタイを緩め、うんざりした声を返す。 「二年も寝たきりだったんだ。機嫌が悪くても仕方がない。少しぐらい我慢してやれないのか」 「我慢?」あずさは思わず笑った。昼間スープで汚されたワンピースを手に取って見せる。 「これ、わざとよ。今朝、自分から浴びせかけてきたの」 「それがどうした!いい加減にしてくれないか!」賢吾はワンピースを奪い取り、ベッドに投げ捨てる。 「あずさ、昔のお前はこんなんじゃなかったんだぞ!」 「じゃ私はどんな人間だった?」あずさは立ち上がり、目頭が熱くなる。 「毎朝五時に起きてお粥を作ってた家政婦?それとも膝をついて床を磨きながら、『厄病神』って罵られても言い返さない意気地なし?」 賢吾は喉仏を上下させ、顔をそらした。 「……お前だってわかってるだろ、母さんが寝たきりになった理由を」 空気が凍りつく。 あずさは拳を握り締め、爪が掌に食い込む。 ――すべては一本の電話から始まったのだ。 二年前の結婚記念日の夜。肌を重ねた直後、百合子から電話がかかってきた。 「今日は出ないで」あずさは裸足のままカーペットに立ち、賢吾の腰に腕を回した。「今日は記念日なんだから」 賢吾は迷いながらも、唇を重ねたのち囁いた。「一分だけ、頼む」 「毎回それよ!」限界に達したあずさはスマホを奪い、床に叩きつけた。 「どうせ今度も仮病でしょ?この電話に出るなら、離婚するわ!」 賢吾の瞳には複雑な感情が浮かんでいた――驚き、諦め、そして妥協。 彼はため息をつき、スマホを拾って横におくと、彼女を抱き寄せる。 「わかった。もう出ないよ」 だが翌日になって、昨夜百合子は脳出血を起こして救急搬送されたことがわかった。賢吾が電話に出なかったため、処置が遅れて半身不随になったのだ。 「わかってる、あれは私のせいだから、償わなきゃいけないって」 あずさは絞り出すように言う。喉から出た声がひどく掠れていた。 「だからといって、二年間も馬車馬のように尽くさなきゃいけないの?お義母さんにご飯を服に吐かれても、みやびに家政婦扱いされても、黙って受け入れろっていうの?」 賢吾は苛立ったように髪をかきむしる。 「もういい……それより、明日からみやびにこの家に引っ越してもらう」 「……え?」 「母さんが気に入ってるんだ。ただ数か月だけ、母さんの容体が落ち着いたら出ていってもらうから」 子どもをなだめるように、賢吾が言った。 「あのね、賢吾」あずさは静かに返す。「今日、区役所に行ったの」 その一言で、彼の体が硬直した。 「職員に言われたわ。離婚届が出されてるって」 あずさは彼を見据える。 「一か月前、あなたが『治療費の清算だから』って私の印鑑を借りたのって……離婚届を書くためだったのね?」 「……気づいてたのか?」賢吾は慌てて彼女の手首を掴む。 「母さんが自殺するって騒いでたから、仕方なく出しただけなんだ。別に本気じゃない」 「本気じゃなくても、私に知らせるくらいできたでしょ?」 あずさは彼の手を振りほどき、声を震わせる。「七年も一緒にいたのに、私には事情を知る権利すらなかったの?」 「黙れ!」賢吾の怒りは完全に爆発した。「お前だってわかってるんだろ?母さんとお前の間に挟まれた俺が一番苦しんだって!」 あずさは呆然とした。頭の奥で、過去の記憶が次々に蘇る。 初めて森崎家に挨拶に行った日。百合子は賢吾の目の前で彼女にスープをぶちまけ、「森崎家の嫁はみやびだけだ」と言い放った。 その夜、賢吾は彼女を抱きしめながら謝った。「母さんはああいう性格だから……頼む、俺のために我慢してくれ。俺だって窮屈な思いをしてるんだ」 結婚式の日。百合子は頑として出席せず、彼はあずさの手を握りながら「時間をかければきっと認めてくれる」と言った。 そして百合子が倒れたとき、彼は土下座してあずさに仕事をやめるよう頼んだ。「あずさ、母さんの面倒を見れるのはお前しかいないんだ」 そのたびに、彼女は賢吾のお願いを聞き入れてしまった。 「ねえ、賢吾」あずさは心から疲れた。「まだ……私を愛してるの?」 彼は驚くように瞬きすると、反射的に答えた。「もちろんだ!」 「だから、あずさ……俺を追い詰めないでくれるか?」 あずさはため息をついた。あと数日でこの家を出られる、それまでの辛抱だ。 無言で頷くと、賢吾は話題を切り替えるように言った。 「そうだ、みやびは客室に泊まらせる……お前も早く休め」 寝室に入ってドアを閉めると、あずさはベッドに座り込んだ。 月明かりがカーテンの隙間から差し込み、埃をかぶった写真立てを照らす。 そこには、海辺で賢吾に背負われて笑っている自分がいた。 ドレスを濡らした自分に、賢吾が振り向いて笑う。「しっかり掴まってろ、俺のお嫁さん!」 七年の愛は、結局は泡沫のように消えていくのだった。 スマホを手に取り、あずさは一通のメッセージを送る。 【七日後、予定通り迎えに来て】 送信ボタンを押したその瞬間――階下からドンッと鈍い音が響いた。 第3話 あずさが階段を降りると、百合子がみやびに車椅子を押され、数人の使用人と一緒に荷物を運び込んでいるところだった。 「まあ、やっと来たの?」百合子がまぶたをわずかに上げ、唇に冷ややかな笑みを浮かべる。「てっきり一生、部屋に閉じこもっているのかと思ったわ」 みやびは横に控え、手にしたお茶を差し出しながら、柔らかい声をかけた。 「おばさんはリハビリを終えたばかりなんです。お医者さんからは、とにかく歩くようにって」 「リハビリ?」あずさの視線が百合子の足元へ向く。 百合子は得意げに膝を軽く叩いた。「驚いた?医者が言うには、回復は順調で、もう少し養生すればすっかり治るんですって」 そう言って彼女は上の階を指差した。「今日からみやびがここに住むわ。私の世話をするためよ。あんたがどう思おうと、これは決まったことなんだから」 あずさは唇をわずかに歪めただけで、黙って賢吾に目を向ける。 彼は唇を引き結び、小さく答えた。「……この件について、あずさはもう了承してある」 百合子は一瞬驚いたが、すぐに鼻で笑った。「ようやく物分かりが良くなったのね」 みやびはすぐさま嬉しそうに百合子の腕に絡む。 「おばさん、荷物は私が運びますね」 「ええ、好きな部屋を選ぶといいわよ」 「ありがとうございます!」 みやびは弾むように階段を駆け上がり、ほどなくしてガタンと大きな音が響いた。 顔を上げたあずさの目に映ったのは、みやびが使用人に指示して、廊下に飾られた絵を外させている姿だった。 その絵は、あずさと賢吾が初めてのデートで訪れた海を描いたもの。二人で選んだ大切な思い出だった。 「こんなの、部屋の雰囲気に合わないでしょ」みやびは悪びれもせず笑い、絵を脇へ放ると、さらに壁の写真を指さす。 「この辺も、邪魔だから片付けちゃって」 次々と外されていく写真の中には、二人の結婚写真もあった。 賢吾は階段の途中で立ち止まり、険しい顔をした。何かを言いかけて、けれど結局、あずさに向かって小声で言っただけだった。 「……放っておけ。あとで戻せばいい」 あずさは口元を引きつらせ、何も言わなかった。 そのとき、みやびが階上から顔を出し、甘えるように賢吾を呼ぶ。 「賢吾さん、私、主寝室がいいな。おばさんの部屋にも近いし、看病もしやすいでしょ?」 「そうね、そのほうが助かるわ」百合子がすぐさま同調する。 賢吾は無意識にあずさの顔色をうかがった。反対されると予想していたのだろう。 だが、あずさは静かに頷いた。「いいわ。私は客室に移るから」 くるりと踵を返した彼女の手首を、賢吾が咄嗟に掴んだ。「……あずさ、どうしたんだ?」 あずさは振り返り、冷ややかに笑う。「どうもしないわよ。泊まらせるって言い出したのは、そっちでしょ?」 「でも……以前のお前なら、こんなの許すはずがなかった」賢吾は眉毛をひそめる。 「以前の私?」彼女の笑みはさらに深まった。「まあいいじゃない。これで、あなたの望み通りになるから」 そのまま腕を振りほどき、主寝室に入り、自分の衣服を次々とスーツケースに詰め込み始める。 賢吾は黙って立ち尽くし、ようやく声を絞り出した。 「……あずさ、お前、本当はどうしたいんだ」 「別に何も」彼女は顔も上げずに答える。「ただ場所を空けてあげてるだけよ」 喉がつまったように賢吾は言葉を失った。 夜七時、食事の時間になり、あずさは階段を降りた。ダイニングルームに入ると、賢吾と百合子、そしてみやびはもう食卓を囲っていた。 みやびが煮魚を百合子のお皿によそうと、百合子は満足げな笑みを見せる。 「ありがとうね。やっぱりみやびが優しいわ。私の好物をよく覚えてくれてる」 賢吾があずさを見ると、彼女に手招きする。「早く来い、食事だ」 だがあずさが座り、並べられた料理を見渡す瞬間、体がこわばった。 エビ、マンゴー、ピーナッツ……彼女のアレルギーを引き起こすものばかりで、食べられる料理は一つもなかった。 視線を上げれば、百合子が含み笑いを浮かべている。 賢吾は気づきもせず、エビを一尾すくってみやびの器に置いた。 「これ、好きだったろ。味見してみて」 「ありがとう、賢吾さん」みやびは頬を染め、嬉しそうに笑う。 さらに賢吾は百合子に椀を差し出し、スープをよそってやる。そしてようやく、動かないあずさに目を留めた。 「……いい加減拗ねるのはやめろ。ご飯くらいちゃんと食べないと」 あずさは愕然とした。 ――彼は忘れているんだ。 自分のアレルギーについて彼は知っていたはずだ。 かつて、わずかなエビを口にしただけで、彼女が夜中に病院へ運ばれた。そのとき、賢吾は泣き腫らした目で「アレルギーのものがあれば全部取り出してやる」と約束したのだ。 それなのに今は、みやびに笑顔でエビをすすめては、百合子にスープをよそった。あずさのアレルギーなんて気にもせずに。 あずさは目を伏せ、黙って野菜を一口食べる。 そのとき、百合子がふいに口を開いた。 「賢吾。みやびは長いことあんたを支えてきたのに、見返りもなくてかわいそうよ。せめて式くらい挙げてやったらどう?」 賢吾の箸がぴたりと止まる。視線があずさへと流れる。 みやびが小さく首を振り、わざとらしく困ったように笑った。 「……私は大丈夫です。賢吾さんを困らせたくないから」 「だめよ」百合子は彼女の手を取って強い口調で言う。「こんなに尽くしてくれてるんだから、ちゃんと森崎家の人間として迎えたいわ」 食卓には重い沈黙が落ちる。 賢吾はしばらく迷った末、低くつぶやいた。「……あずさと相談してから決める」 「いや、結構よ」 静かな声で遮ったのはあずさだった。全員の視線が彼女に注がれる。 彼女は箸を置き、表情ひとつ変えずに言った。 「反対してないから、好きにすればいいわ」 第4話 食卓は一瞬で静まり返った。 百合子が目を見開き、賢吾も勢いよく顔を上げる。「……今、なんて言った?」 あずさは立ち上がり、淡々と答えた。 「ごちそうさま。ごゆっくりどうぞ」 背を向けて階段へ向かう。背後で百合子が小声でつぶやいた。「なにそれ、頭おかしいの?」 階段に差しかかったところで、賢吾が追いかけてきて腕を掴む。 「さっきの話、どういう意味なんだ?」 あずさは振り返り、冷静に目を合わせた。「結婚式をするんでしょう?私は別に構わないよ」 賢吾の眉間に深いしわが寄る。 「あれはただの体裁なんだ!母さんが退院したばかりだから、機嫌を損ねたくないだけだ」 「うん」あずさは淡々とうなずいた。「好きにしていいから」 賢吾はじっと彼女の目を探るように見つめ、やがて低く言った。 「……安心しろ。離婚届を提出したとしても、俺たちが夫婦であることには変わりがないから」 あずさは小さく笑った。「うん、わかってる」 その笑みに安堵した賢吾は、つい手を伸ばし、彼女の髪に触れようとする。「……いい子だ」 だが、あずさはさっと身をかわし、唇の端を皮肉に歪めて階段を上がっていった。 残された賢吾は、彼女の背を見送りながら、得体の知れない不安を覚えた。 翌朝。賢吾が家を出た後、あずさはようやく客室から出てきた。 百合子はすでにダイニングに座り、待ちくたびれたように指先でテーブルを叩いていた。彼女はあずさを見つけるなり冷たく言い放つ。 「突っ立ってないで、さっさと顔を拭いてちょうだい」 これまでなら、あずさはすぐに湯を沸かし、タオルを絞り、しゃがんで彼女の顔を拭いては、髪を梳いた。ときには膝を床について、靴まで履かせていた。 だが今日の彼女は、ただ無表情で百合子を一瞥しただけで、台所へ入り、牛乳を注いで、ゆっくりとトーストを焼き始めた。 百合子の顔が一気に険しくなる。「話、聞こえなかった?」 すると、みやびが取り繕うように声をかけた。「おばさん、私がやりますね」 ぎこちない手つきで百合子の顔を拭くと、ほんの一瞬、百合子は眉をひそめた。 その光景を眺めながら、あずさは自分の愚かさを嘲笑った。 ――二年間も頑張って尽くし、食事から身の回りの世話まで一通りこなしてきた。百合子に食事を吐きかけられたときでさえ、笑顔で拭いていた。 なのに、百合子の顔を拭いただけで、みやびは微かに不機嫌な顔を見せた。 だが百合子は何も気づかず、みやびの手を取り優しく言う。「やっぱり、みやびは気が利くわね」 朝食を終えた百合子が、不意に言い出した。 「今日天気がいいから、日向ぼっこがしたいわ。あずさ、車椅子を押して」 あずさはコップを置き、淡々と返した。 「みやびのほうが気が利くんでしょ?譲ってあげますよ」 百合子の顔が一瞬で固まる。みやびも呆気に取られた。 「なにを――」百合子が声を荒げかけたが、みやびが慌てて笑顔を作った。 「大丈夫ですよ、私が押します」 「……ふん」百合子は鼻を鳴らし、渋々頷いた。 三人で外に出る。みやびが車椅子を押し、あずさは黙って横を歩いた。 やがて小さな下り坂に差しかかったとき、みやびが突然「きゃっ」と声を上げ、足を滑らせてあずさを押した。 不意を突かれたあずさは前に倒れ込み、肘が車椅子の端にぶつかる。 制御を失った車椅子が、坂をものすごい勢いで滑り落ちていく。 「お義母さん!」あずさは顔色を変え、無我夢中で駆け寄った。 だが、あと少しで手が車椅子に届くという瞬間――百合子が振り返り、逆に彼女を突き飛ばした。 「邪魔よ!」 あずさは足をもつれさせ、そのまま車道へ転げ出る。 ドン! 衝撃音に続いて、耳をつんざくようなブレーキ音が響いた。次の瞬間、あずさの体が宙に舞い、地面へ叩きつけられる。 激痛に視界が揺らぐ中、かすかに見えたのは――路肩に立ち、百合子を支えながら冷ややかに笑うみやびの顔だった。 第5話 「気がついた?」ベッドの脇から賢吾の声がした。 あずさは痛みを堪えながら顔を横に向ける。彼は椅子に腰かけ、眉間に深い皺を刻んでいた。その瞳には一瞬だけ憂いが浮かんだが、すぐに怒りがそれを覆い隠した。 「自分が骨折してるの、わかってるか?」声は低く重い。「医者が言ってた。あと少しずれてたら、命はなかったって!」 喉が焼けるように乾き、あずさはかすれ声で言った。「……みやびに、押されてたの」 賢吾の表情が一瞬で凍りつく。「この期に及んで、まだ他人を陥れるつもりか?」 「いや、本当よ!」あずさは必死に上体を起こそうとする。「あのあと、私を車道に押し出したのは、あなたの母さんよ!」 「いい加減にしろ!」賢吾は立ち上がり、目に炎を宿す。「母さんはさっき目を覚まして、お前が突き飛ばしたってはっきり言ってたんだぞ!みやびだって見てたんだ、車椅子にぶつけたのはお前だって!」 あずさは彼を真っ直ぐに見据え、低く言った。「じゃ防犯カメラを調べて」 「そんなの調べるまでもない!」賢吾は彼女の手首を乱暴に掴んだ。「母さんはどんな人間なのか、俺が一番よくわかってる!それにみやびは優しいし、母さんに危害を加える理由もないんだ!」 あずさはふっと笑った。けれどその目は真っ赤に染まる。彼は誰の言葉でも信じるのに、自分の話だけは信じてくれない。 あずさは震える指でナースコールを押した。入ってきた看護師に、彼女ははっきりと告げる。 「警察を呼んでください」 「……正気か?」賢吾の顔色が一変する。 ほどなくして警察が到着した。事情を聞かれ、あずさが答えようとしたとき、賢吾がきっぱりと遮った。 「彼女は精神的に不安定なんです。うつを患っていて、しょっちゅう妄想に囚われてるんですよ」 警官の視線が疑わしげにあずさへ向けられる。 「私は道路の防犯映像を確認したいだけです」あずさは落ち着いた声で言った。 賢吾は低く言い添える。「すみません、彼女、最近情緒が不安定で……これから精神科へ連れて行く予定なんです」 警官は逡巡したものの、簡単な記録だけ残して去っていった。 扉が閉まるや否や、賢吾はあずさの肩を強く掴み、声を冷たく落とす。 「そこまで事を荒立てたいのか?」 「私は真実が欲しいだけ」あずさは静かに答えた。 「真実?」賢吾は鼻で笑う。「昨日から芝居を打ってたのは、母さんを殺してみやびまで巻き込むつもりだったのか?あずさ、お前はそこまで卑しい人間だったとはな」 あずさは反論せず、ただ静かに彼を見返した。 その視線に賢吾の胸が一瞬ざわつく。だが次の瞬間、病室の扉が開き、みやびが泣き腫らした目で駆け込んできた。 「賢吾さん……!おばさんが目を覚ましたそばから言ってたんです。自分を突き飛ばしたのはあずささんだって!」 賢吾の目が完全に冷え切る。 「やっぱりな」 彼はあずさを離し、廊下に控えていた警備員に命じた。 「……治療室へ連れて行け」 とある部屋に放り込まれると、あずさは放電する治療台に押さえつけられ、四肢を拘束された。 賢吾は入り口近くに立ち、眉間に深い皺を刻み、ためらうように目を伏せた。 そのとき、みやびがそっと彼に近づく。 「賢吾さん……おばさんが言ってたわ。あずささんの精神が不安定で、今のままじゃ、また彼女を傷つけかねないって」 賢吾は目を閉じ、息を吐き捨てる。「……始めろ」 電流が走った瞬間、全身を裂くような痛みが押し寄せる。 あずさは唇を噛み締め、血の味が口いっぱいに広がった。 「あなたが森崎百合子さんを突き飛ばしたんですね?」医師が問いかける。 あずさは答えない。 二度目の電流で、体は勝手に痙攣し、喉から苦悶の声が漏れた。 賢吾の手が震え、ついに声をあげた。「もういい!」 しかしみやびがそっと彼の腕を押さえた。 「賢吾さん……おばさんが言ってたんです。少し痛い目にあわせておかないと、あの人は絶対に認めないって」 賢吾は拳を握りしめ、視線を逸らした。 三度目の電流が流れる。あずさの心が折れ、かすれた声が絞り出された。 「はい……私が……やったの」 賢吾はさっと振り返った。その瞳に一瞬だけ痛みが揺れたが、すぐに落ち着いた。 「最初から素直に認めればよかったのに」 近づいてきた彼が手を伸ばす。頬に触れようとしたその瞬間、あずさは顔を背けた。 指先が宙に止まり、やがてゆっくりと引っ込められる。 「……二日ほど閉じ込めておけ。頭を冷やす必要があるみたいだ」 吐き捨てるように言い残し、彼は背を向けて病室を出ていった。 みやびはその場に残り、医師へ小さく目配せをした。 第6話 二日が過ぎたころ、重く閉ざされていた扉が軋む音を立てて開いた。差し込んだ眩しい光に、あずさは思わず身を縮め、壁際へと後ずさる。 入り口には賢吾が立っていた。眉間に深い皺を刻み、低い声を落とす。 「……これはどういうことだ?」 説明しかけた医師の言葉を遮るように、みやびが早足で中に入り、柔らかく声を掛けた。 「賢吾さん、あずささん、ずいぶんつらそうだけど、早く連れて帰ってあげましょう」 彼女がそっと手を伸ばすと、あずさはびくりと体を震わせ、乱暴に避けた。彼女の長い髪は乱れ、顔を覆い隠す。右手首には包帯が巻かれ、指先も微かに震えていた。 賢吾は不快そうに目を細めた。「二日間閉じ込められただけだろう?どうしてこんな有り様に?」 医師は言い淀んでいると、みやびはすぐに賢吾の腕にすがりついた。「あずささん、右手も怪我してるから、つらいに決まってるよ」 賢吾はわずかに眉をひそめ、あずさに歩み寄ると、彼女の頭に手を伸ばした。「……帰ろう、あずさ」 だが彼女は条件反射のように身をすくめ、さらに後ろへ逃げた。 賢吾の手は宙に止まり、そのまま固まった。 帰りの車の中。あずさは窓に身を預け、流れていく景色を虚ろな目で追い続けていた。 「……明日だが」賢吾が口を開いた。ためらいのにじむ声だった。「明日、俺とみやびの結婚式は、ただの儀式にすぎないんだ。母さんを喜ばせるための」 賢吾はあずさを一瞥するが、彼女は何も答えなかった。 「離婚の件も気にしないでくれ、いずれまた婚姻届を出せばいい。俺とみやびの間には、本当に何もないんだ」 あずさはなおも沈黙し続けた。 助手席のみやびが振り返り、にこやかに言う。「あずささん、あとで一緒にドレスを見に行かない?」 「彼女の怪我はまだ治ってない」と賢吾は眉をひそめる。 「でも、あずささんは結婚式の経験があるから、きっといいアドバイスをしてくれるでしょ?それに、私……あずささんと一緒に選びたいの」 賢吾は少し迷い、やがてあずさに視線を向けた。「行けるか?」 あずさは小さく答えた。「……いいよ」 ウェディングドレスの店に入り、みやびは嬉しそうにはしゃいだ。 「このドレス、すごく可愛い!」みやびは裾に指を滑らせ、振り返って賢吾に笑顔を向けた。 「賢吾さん、これがいい!これにしましょ?」 あずさが顔をあげると、心臓が凍りついた。 ――それは彼女のドレスだった。ウェディングドレスデザイナーであるあずさの母が生前、娘のために仕立てた世界に一着しかないドレスであり、彼女の遺作だった。あまりにも貴重なため、結婚後も店に預けたままだった。 「だめ!」あずさの声は震えていた。「それは……私のドレスよ」 みやびはしおらしく賢吾を仰ぎ見る。「でも、本当に気に入ってしまって……」 しばし沈黙ののち、賢吾は低く言った。「あずさ、ただのドレスだ。譲ってやれ」 あずさは呆然と彼を見つめる。「譲るって……賢吾、あなたは何を言ってるのか本当にわかってるの?」 それは母が彼女に残した唯一の形見だ、譲るわけにはいかない。 「また新しく仕立てればいい」賢吾は視線を逸らし、冷ややかに言い放つ。 みやびは待ちきれない様子でドレスを手に取り、試着室へ消えていった。あずさは拳を握り締め、爪が手のひらに食い込めても、痛みを感じなかった。 数分後、みやびはドレス姿で現れると、店内は歓声に包まれた。 「すごく似合ってますね!」 「まるであなたのために仕立てられたドレスみたいです!」 くるりと回ったみやびは、あずさに視線を投げた。「あずささんはどう思う?」 あずさは唇を噛み、声を失って立ち尽くす。 賢吾の視線が一瞬だけ揺らぎ、それでも口を開いた。「……よく似合ってるよ」 みやびの笑顔がさらに輝いた瞬間―― 「きゃっ!」裾を踏んで転び、布地が裂ける音が響いた。 あずさの頭が真っ白になる。咄嗟に駆け寄り、みやびを突き飛ばすようにしてドレスを抱き締めた。 「わざとでしょ!」あずさの声が震える。 みやびはそのまま賢吾の腕に倒れ込み、瞳に涙を滲ませる。「違うの……私、そんなつもりじゃ……あずささん、どうして私を押すの?」 「あずさ、いい加減にしろ!」賢吾が彼女の手首を掴んだ。 あずさの涙がドレスに落ちる。「これは……母さんがくれた最後の贈り物なのに……」 賢吾の顔が一瞬だけ揺らいだ。だが、みやびがすすり泣きながら彼の肩に縋る。「賢吾さん……痛いよ……」 彼は目を閉じ、吐き捨てるように言った。「……もうやめろ。見苦しい」 そして、賢吾はドレスを脱いだみやびを連れて去っていった。 残された店員たちは顔を見合わせ、ひそひそ声を漏らす。 「可哀想に……」 「でもね、彼女のせいで、お義母さんが二年間も寝たきりになってたらしいよ」 あずさは床に膝をつき、散らばったダイヤの飾りと裂けた布を一つひとつかき集めた。涙が手の甲に落ち、熱く沁みる。 胸に抱えたドレスは無残に裂かれ、彼女の嗚咽が店内に響いた。 ――このドレスはまるで彼女の愛そのもの。かつては眩しいほど輝いていたのに、今や粉々に砕け散ってしまったのだ。 第7話 あずさは、結婚式場の隅にひっそりと立っていた。爪が食い込むほどに掌を握りしめる。 明日。 明日になれば迎えがきて、この家から完全に解放される。 だが今日だけは、賢吾とみやびの結婚式を、この目で見届けなければならない。 赤いバージンロードの両脇には招待客がぎっしりと並び、車椅子に座る百合子は満面の笑みを浮かべている。 音楽が鳴り響き、漆黒のタキシードに身を包んだ賢吾が、みやびの手を取って歩み出した。 あずさの脳裏に、自分の結婚式の日がよみがえる。 同じ教会、同じ赤い絨毯。賢吾は緊張で手に汗をかきながらも、強く彼女の手を握りしめ、耳元で囁いた。 ――「あずさ、やっとお前を妻にできた」 だが今、彼は別の女と腕を絡め、落ち着いた顔でかつて彼女が歩いた道を、ためらいもなく進んでいく。 不意に涙がこぼれ落ち、あずさは慌てて拭った。だが耳には、周囲のささやき声が容赦なく届く。 「ねえ、あれって森崎社長の元奥さんじゃない?こんなとこに顔を出すなんて、図々しいわね」 「精神的におかしいって噂よ。お義母さんを危うく殺しかけたとか」 「哀れな人ね」 あずさはそれらの声を聞こえなかったふりをして、ただ、壇上の賢吾を見つめ続けた。 彼もまた何かに気づいたように、視線を巡らせ、やがて彼女の涙をとらえる。 ほんの一瞬、彼の表情が揺らいだ。だが結局、何も言わずに顔を背け、儀式を続けた。 ――あずさ、お前ならわかってくれるだろう? 式が終わり、客が次々と帰っていく。 あずさが主寝室の前を通りかかった時、中から甘やかな声が漏れた。 「賢吾さん、もっと優しくして……」 みやびの艶めいた声が、鋭い刃となってあずさの胸を突き刺す。 全身が硬直し、指先が震えた。 やがて賢吾の押し殺した息遣いが重なる。 「っ……声を抑えろ」 みやびが小さく笑う。「別にいいでしょ?そのうちわかっちゃうから」 「……黙れ」 「ねえ、あの人と結婚したの、後悔してる?」不意に、みやびはそう聞いた。 あずさは息を呑む。 短い沈黙のあと、苛立ちを含んだ賢吾の声が響く。 「ああ、後悔してるよ」 その言葉が、熱い鉄のように胸に押し当てられ、内臓が焼き切れるように痛んだ。 結婚式の日、彼は神父の前で「一生後悔しない」と誓ったはずなのに、今は「後悔してる」と言った。 これ以上は耐えられなかった。あずさは踵を返し、よろけながら客室に戻ると、扉を閉めて床に崩れ落ちた。 壁の向こうからは、夜更けまで途切れない喘ぎと床の軋む音が聞こえていた。 最後に百合子の弾む声が重なる。 「早く子どもが授かるといいわね。母さん、孫の顔が待ち遠しいわ!」 あずさは壁に背を預け、嗤いながら涙をこぼした。 翌朝。あずさはすでに荷物をまとめ終えていた。 スマホの画面を見下ろす。今日は迎えが来る日だ。 階下からは楽しげな声が聞こえてくる。 リビングに降りると、賢吾は百合子のスカーフを直してやり、みやびは小ぶりなバッグを手に嬉しそうに立っていた。その光景は、まるで本物の家族のように温かかった。 「まあ、早起きね」百合子の笑顔は、あずさを見た瞬間、冷ややかに変わった。「私たちは出かけるから、賢吾たちの寝室のシーツは取り替えておきなさい」 「それは使用人に任せましょう。あずささん、まだ手を痛めているのに」みやびがわざとらしく気遣ってみせる。 その時、賢吾が初めてあずさを見やった。「どこに行くんだ?」 「区役所よ」彼の目をまっすぐに見つめ、静かに言う。「また婚姻届を出すって言ってたでしょ?書類をもらってくるの」 賢吾は一瞬言葉を失い、「今日は母さんとみやびを温泉に連れて行く約束なんだ」と口ごもる。 重い沈黙が落ちた。 「……今日はお前一人で行ってこい」不意に彼は言った。「温泉から帰ってきてたら、何もかもが元通りになるよ」 「……わかった」あずさは小さくうなずいた。 安堵したように息を吐いた賢吾は、母を支えながら車へと向かう。「母さん、車に乗ろう」 黒塗りの車が庭を出ていくのを、あずさはその場に立ち尽くして見送った。 車が完全に消えた瞬間、彼女は頬を伝う涙を拭い、スーツケースを引いて門を出た。彼女が向かうのは区役所ではなく、弁護士事務所だった。 「こちらが離婚協議書になります。財産分与などについて記載されていますので、ご確認ください」弁護士が一冊の書類を差し出す。 あずさは一通り目を通すと、それを速達用の封筒に入れて森崎家の住所を書いた。「着払いでお願いします」 弁護士事務所を出ると、迎えの車がすでに停まっていて、運転手が手を振る。「こっちこっち!」 乗り込む直前、あずさはふとポケットから結婚指輪を取り出した。 海辺で賢吾が跪き、指にはめてくれたもの。内側には「Forever」と刻まれている。 数秒だけ見つめ、彼女は窓を開けて外へ投げた。 硬い音を立ててアスファルトに転がった指輪は、すぐに走り抜けた車に踏み潰された。 「出して」あずさは車の扉を閉めた。「こんな場所、もう二度と戻りたくないわ」