Đang tải thông tin quảng bá...
深き夢、儚き花
「栗原さん、今回のプロジェクトのテスターになるということでよろしいでしょうか? 念のため申し上げておきますが、このプロジェクトへの参加...
Chương (1)
第1章
「栗原さん、今回のプロジェクトのテスターになるということでよろしいでしょうか?
念のため申し上げておきますが、このプロジェクトへの参加がもたらす結果はただ一つです。
つまり、あなたはいずれかの時空へ転送され、この世界から姿を消すことになります。
会社の上層部としましては、やはり慎重にご判断いただきたいと……」
担当者の言葉が終わる前に、私は静かに口を挟んだ。
「考える必要はありません。消えることこそ、私が一番望んでいる結果です」
こうするしか、横山雅紀(よこやま まさのり)親子に見つからずに済む方法はないのだ。
第1話
「栗原さん、今回のプロジェクトのテスターになるということでよろしいでしょうか?
念のため申し上げておきますが、このプロジェクトへの参加がもたらす結果はただ一つです。
つまり、あなたはいずれかの時空へ転送され、この世界から姿を消すことになります。
会社の上層部としましては、やはり慎重にお考えいただきたいと……」
担当者の話が終わる前に、私は静かに口を挟んだ。「考える必要はありません。消えることこそが、私の一番望んでいる結果です」
電話の向こうは明らかに驚いた気配を見せたが、それでもプロとして淡々と告げた。
「もう一点、ご説明しなければならないことがあります。
あなたが消えた後、この世界であなたを愛している人と憎んでいる人を除き、それ以外の人々はあなたのことを記憶しなくなります。
それでもよろしいでしょうか?」
この世界に、まだ私を愛してくれる人なんているのだろうか。憎む人なら……まあ、いるかもしれない。
私は乾いた笑みを浮かべた。「構いません」
「承知いたしました、栗原さん。プロジェクトは十日後に正式に始動いたします。当日はお待ちしております」
電話が切れた直後、先方から生命免責同意書の電子版が送られてきた。転送中に不慮の事故で死んだとしても、会社は一切責任を負わない。家族も追及できない。すべては双方の合意のもと、そう記されている。
一瞬ためらいがよぎったが、私は迷わず自分の名前を書き込んだ。
プロジェクトが始動すれば、私は横山雅紀(よこやま まさのり)親子と二度と会わずに済む。それこそが、私の切実な願いだった。
物思いに沈みながらベランダから寝室へ戻ると、雅紀に腰を抱き寄せられ、そのままベッドへ押し倒された。彼の瞳には濃い情欲が宿っており、これから何が始まるのか言うまでもない。
胸の奥に吐き気が込み上げる。「疲れたから、早く寝たい」
結婚して十年、私は一度として雅紀を拒んだことがなかった。だが今回は、彼の驚いたような表情を背に、そっぽを向いて横になった。
「本当に怒ってる?悪かったよ。ちょっとした仕事くらいで、稔ちゃんとの映画を断るべきじゃなかった。
お詫びにさ、明日、君の好きなブランドの新作バッグを届けさせるから。許してくれるだろ?」
その声はどこまでも優しく、機嫌を取るようだった。私は気のない「ええ」とだけ返した。
「稔ちゃんは、本当に機嫌が直るのが早いな」
雅紀は優しい眼差しで私の腰を抱き寄せ、首筋に顔を埋めて眠りについた。
彼は知らない。女がすぐに機嫌を直すのは、男への愛情がまだ残っているからだということを。だが今の雅紀は、私をなだめる範囲をとうに逸脱し、侵してはならない一線を越えてしまっていた。
三日前の深夜。寝ぼけて目を覚ました私は、自分が苦労して産んだ息子・横山七生(よこやま ななお)が、とある女性の写真を抱き締め、恋い慕うような眼差しでその人を「ママ」と呼ぶ姿を目にした。
その女性は、私ではない。
そして、夫は満ち足りた顔で言った。「七生くんも大きくなったな。ナナちゃんの良さが分かるようになったか」
「パパからナナさんの話を聞くたびに、すごく幸せな気持ちになるんだ。あの女と違ってさ。勉強しろってうるさく言うだけで、ほんとウザい!」
全身の血が凍りつき、胸が締め付けられるように痛んだ。
この耳で直接聞かなければ、素直で優しい息子が、裏では私を心底嫌っているなんて信じられなかっただろう。
夫が分厚いドイツ語の本を開き、息子がその中に写真をそっと挟み込むのを見て、私は理解した。なぜその本がいつも本棚の一番高いところに置かれていたのか。なぜ二人が何度も「ドイツ語は嫌いだ」と言っていたのか。
二人が嫌うものには、私は触れようともしない――そのことを、彼らは知っていたからだ。
私の愛情を利用して私を傷つける。それが、最も親しいはずの者たちからの罰なのだろうか。涙は途切れることなく頬を伝ったが、私は問い詰める言葉すら発せなかった。
夫と息子が熟睡した後、私はようやく勇気を奮い、あの写真を本から取り出してまじまじと見つめた。
見慣れているはずの顔に、私の瞳孔は思わず大きく開いた。
結婚式の日、夫の友人が放ったひと言が、まるで耳元で反響するかのようによみがえった。
「生きている憧れの相手より、死んで『生ける伝説』になった者のほうが、よほど手強い」
なるほど。あれは私に向けられた言葉だったのだ。そして今日、その意味が痛いほど証明された。なぜなら、写真に写っていた女性こそ、夫が手の届かないまま憧れ続け、今は亡き水野七海(みずの ななみ)その人だったのだから。
私は口元にかすかな苦笑を浮かべた。もはや分からないことなどひとつもない。
ナナ――それは七海の愛称ではなかったか。
この名前は、いつの間にか私の生活の隅々にまで浸透していた。息子の名は七生、夫のパソコンのパスワードは「nana」。そして私たちの結婚指輪には、あの「ナナ」という二文字が刻まれている。
私はずっと、夫が息子を――私たちの愛の結晶を――深く愛しているからだと信じていた。何度も、幸せだと思った。しかしそのすべては、憧れの女性を記念するためだったとは。私が抱いていた幸福感は、ただの思い込みに過ぎなかったのだ。
雅紀と顔を合わせる前から、彼に憧れの女性がいたことは知っていた。
自分でも分かっていた。本来なら、そんな男には関わるべきではなかった。
七海が交通事故で亡くなるまでは。
私は大きな契約を成立させて部門マネージャーに昇進し、社長の随行として数々のビジネス提携の場に出向いていた。提携先の一つに横山家があり、往来が重なるうちに、私は若き当主・雅紀と親しくなった。
雅紀が本格的に私へアプローチを始めたのは、その一年後のことだった。宝飾品だけでなく、ビジネス契約までも私への贈り物にし、私が担当する案件には書類をろくに確認もせず、即座にサインした。
彼に諦めさせようと、私はわざと厳しい条件ばかり提示したが、雅紀はすべて受け入れた。本来なら大きな利益を生むはずのプロジェクトは軒並み赤字となり、ついには彼の両親から「家を出ろ」と言われる始末だった。
雅紀が追い込まれていることを知りながら、私は知らぬふりをした。それでも彼は変わらなかった。いつも優しい言葉をかけ、決して声を荒らげることなく、ビジネスの場で私がたとえ無茶をしても許容してくれた。そのおかげで私は、数ヶ月でマネージャーから会社の副社長へと駆け上がり、地位はうなぎ登りだった。
私が彼に警戒していると気づくと、雅紀は公のインタビューで「稔以外とは結婚しない」と言い放ち、瞬く間に多くのネットユーザーが私たちを応援し始めた。もはや曖昧な態度は取れず、私はついに雅紀を断った。彼は必死に理由を求めてきた。
「あなたの昔の恋愛は、あまりにも劇的だったから。未来の夫の心に、いつまでも憧れの女性が居座り続けるなんて、私には耐えられないの」
「過去の事実は否定できない。でも、稔ちゃんが僕の生涯唯一の最愛の人になることは、保証できる」
「じゃあ……本当に彼女を忘れられるの?」
「ああ。稔ちゃんのためなら、何だってできる」
この誠実で熱のこもった誓いを、彼は何度口にしただろう。
私の心が本当に揺れ動いたのは、ある事故がきっかけだった。
第2話
あの日、私たちは共にジュエリーの晩餐会に出席した。
リフェン夫妻との提携を成功させるため、私は両親が遺した唯一の形見――希少なルビーをあしらったかんざし――を持参していた。
ところが、メイクアップアーティストの誤った付け方のせいで、私と雅紀が車を降り、会場へ歩き出した途端、かんざしはするりと落ちてしまった。それに気づき、拾おうと引き返した瞬間、思わぬ事が起こった。
後ろから迫ってきた高級車が、まさにその上を轢こうとしていたのだ。宝石が砕け散る音さえ聞こえた気がしたその瞬間、雅紀が身を投げ出し、命懸けでかんざしを守ってくれた。
だが、無事だったのはかんざしだけだった。
雅紀は肋骨を三本折り、腕は骨が覗くほど深く裂け、鮮血が止めどなく流れていた。救急車に運ばれる時でさえ、私の提携が滞らぬよう側近の助手を寄越し、さらに両親が私への偏見を深めることを恐れ、たった一人で手術と縫合に耐え抜いた。
「稔ちゃんのためなら、何だってできる」
私は、その言葉を疑いなく信じてしまったのだ。
ナイトライトの灯りに腕をかざすと、今でも雅紀の腕に長く伸びる傷跡が浮かび上がる。
十年経っても、少しも薄れる気配はない。
しかし、私の心はもう死んでしまった。
今夜を越え、あと九日。私が去った後は、雅紀父子には七海の写真を抱えて生きていってもらおう。
それこそが、誰にとっても丸く収まる結末なのだろう。
早朝。
目を覚ました雅紀は、そっと私に布団を掛け直し、いつものように額にキスを落とした。七生もやって来て真似をするように同じ仕草を繰り返し、そして父に急かされる。
「七生くん、また遅刻するぞ!」
ドアの前に立つ雅紀は、呆れながらもどこか愛おしげに私たちを眺めていた。
こんな何気ない温かな時間が、毎朝のように繰り返されてきた。
かつては、それこそが何よりの幸せだと信じていた。だが今となっては、皮肉以外の何物でもない。
自分で決めたことだから、彼らと平然と向き合えると思っていた。けれど結局、「情」というたった一文字の重みを、私は甘く見ていたのだ。特に七生の名前が耳に響くたび、万本の矢に貫かれたかのように胸が締めつけられ、息すらできなくなる。
洗面所で、雅紀が毎日用意してくれる歯磨き粉をゴミ箱に放り、リビングの物音に気づいて足を向けた。そこにはもう誰もおらず、大量のバッグだけが部屋いっぱいに積み上げられていた。
しかし、彼が「良かれ」と思って贈ってきたこの部屋中の高級品を前にしても、開けてみたいという欲求は微塵も湧かなかった。
背を向け立ち去ろうとした時、テーブルの上に一枚のメモが置かれているのに気づいた。
【映画の約束を破ったから、愛する妻に午後の時間を埋め合わせする。仕事が終わったら会社に迎えに行くから、待ってて】
残りの日々は、互いの最後の体面を保つためだけのもの。私はそう割り切っていたので、断るつもりはなかった。もっとも、もう去る身である私に、最後まで良き妻を演じるほどのプロ意識は残っていなかったけれど。
私は雅紀に電話をかけた。
「会社に来なくていいわ。退職手続きは昨日済ませたから。帰って迎えに来て」
一瞬だけ戸惑いがあったものの、続いた声には抑えきれない喜びが滲んでいた。
「ずっと待ってたよ。やっと稔ちゃんが仕事を辞めてくれるって。仕事から帰って稔ちゃんに会える瞬間が、毎日どれほど楽しみだったか。これからはもっと君を囲っていたい。毎日、家で独り占めできるなんて……最高だ」
私は嘲るように笑った。それなら、あなたの言うその幸せを、せいぜい大切にすることね。
今日から私は、毎晩あなたを待つわ。だって、あなたがそれを味わえるのは、もう残り数日しかないのだから。
午後、彼は私を迎えに来た。最初に向かった先は映画館だった。私と一緒に観られなかった映画の埋め合わせのためだ。予想はしていたが、まさかこれほど興味深い内容だとは思わなかった。
主人公の男性が心の中で浮気をし、昔の恋人を忘れられず揺れ動く。私は自虐的なほど一コマも見逃すまいとスクリーンを凝視した。
映画が進むにつれ、雅紀の表情はどんどん硬く、冷たくなっていった。
「秘書の奴、こんな簡単なこともできないのか。どうしてこんなくだらない映画を選んだんだろう?」
「そう?私は面白いと思うけど。ねえ、雅紀。もしあなたが映画の主人公だったら、最後はどっちを選ぶ?」
雅紀は一瞬、呆然と私を見た。
「情熱的で華やかで、薔薇のように燃える昔の恋人?それとも、長年連れ添った奥さん?」
その途端、雅紀は表情を切り替え、甘い笑みを浮かべた。その瞳には、私だけを映すような熱烈な愛情さえ宿っていた。
「僕は主人公じゃないから、代わりに選んでやることはできないよ。でも、稔ちゃん、知ってるだろ。僕は君なしじゃ生きていけない。誰を天秤にかけたって、僕にとって君は唯一の選択肢だよ」
確かに、雅紀は主人公ではなかった。憧れの相手との醜聞を隠して妻を欺く主人公よりも、ずっと巧妙な嘘を吐く人間だったから。
「そう?でも、私の知ってるあなたなら……瑞々しくて、艶やかな薔薇の花の方が好きそうな気がするけど」
かすかな笑みを浮かべた私の口元から、何気ない一言がこぼれた。けれどその一言に、雅紀はまるで針の筵に座っているかのように身じろぎした。
映画が終わると、雅紀は急いで私を外へ連れ出した。
「稔ちゃんを喜ばせるため」という名目で遊園地へ向かい、ジェットコースターなどのスリリングなアトラクションを体験させようとした。
以前の私は、確かにこういうものが好きだった。
けれど、雅紀は極度の高所恐怖症だ。彼が私にプロポーズした日も、遊園地だった。
あの時、私は軽い冗談のつもりで言った。「プロポーズを受け入れてほしいなら……できなくもないわよ。まず私と一緒にジェットコースターに乗って」
何気ない冗談だったのに、雅紀は本気で頷いた。四分間のジェットコースターを降りたあと、彼は三十分も吐き続けた。彼が私とジェットコースターに乗ったのは、あの日が最初で最後だった。
遠ざかっていく記憶の波が胸を満たし、瞳の縁に溢れた涙の光が、また私を情けなく泣かせそうになる。
「本当に……もう一度、一緒に乗ってくれる?」
その言葉が唇から零れ落ちる前に、彼の携帯電話の着信音が、空気を鋭く切り裂いた。
第3話
結局、あの日私が乗ったのはジェットコースターではなく、タクシーだった。
雅紀が電話に出ると、そのまま慌ただしく立ち去り、私をひとり取り残した。こんなことは初めてだった。
私はタクシーの運転手に、近すぎず遠すぎない距離を保って雅紀の車を追うよう頼んだ。道は次第に見覚えのある景色へと変わり、やがて車はなんと自宅の団地の前で停まった。ちょうど警備員が、一組の母娘の立ち入りを阻んでいるところだった。
「ここは高級住宅地ですよ。どのオーナーさんのご家族なのか、私が知らないとでも思ってるんですか?詐欺を働くつもりなら、場所を間違えたね!」
それでも母娘は食い下がり、警備員も手を焼いている様子だった。そこへ雅紀が歩いてくるのが見え、警備員はようやくほっと息をつき、笑顔で迎えた。
だが雅紀は、心配そうな顔でその母娘のもとへまっすぐ向かっていった。
「お義母さん、遥ちゃん」
振り返った二人の顔を見て、私は瞬時に彼女たちの正体を理解した。七海の母・晶子(あきこ)と、妹の遥(はるか)だった。
何よりも、その若い娘の顔立ちが七海にあまりにもよく似ていた。
私が思考を巡らせる間もなく、遥は甘えた声を上げて雅紀の腕に絡みついた。
「雅紀さん、もう少しでこの警備員さんにいじめられるところだったの!」
「よしよし、僕が来たからにはもう大丈夫だよ」
優しさと愛情を滲ませた顔。七海とよく似ていた遥の顔の前では、雅紀はどんな強い言葉も口にできるはずがない。
「そういえば、お二人はどうしてこちらへ?」
晶子は深いため息をついた。「この子のお父さんのせいよ。またあなたがくれたお金を全部持ってギャンブルに行っちまったの。二千万まるまるよ!すっからかん!私たち母娘、来月どうすればいいの?」
遥はそのとき、これ見よがしにぶるっと震え、雅紀の胸に痛みを刻んだ。
「お金のことは心配しないで。中で話しましょう。遥ちゃん、寒そうだ」
「雅紀さん大好き!やっぱり雅紀さんが一番優しいわ!」
花が咲いたように笑う遥を前にして、雅紀が一瞬心を奪われたのは明らかだった。今、彼の頭の中はきっと七海のことでいっぱいなのだ。
夫が七海の母と妹を、当然のように自宅へ招き入れていく。その背中を、私は呆然と見つめるしかなかった。
きっとすぐに、雅紀からメッセージが届く──そう確信していた。
そして予感どおり、現実もその通りに動いた。
【稔ちゃん、こっちで急用ができたから、付き添えなくなっちゃった。でも助手を行かせたから、彼女がちゃんと楽しませてくれるよ】
あなたの急用とは、七海の家族をもてなすために、助手に私を足止めさせて家に帰らせないことだったの?
私は胸の奥で渦巻く苦しみを必死に押し込めた。しかし、スマートフォンの画面が暗転し、そこに映り込んだ自分の顔を見た瞬間、息が止まるほど青ざめていた。
もう、自分を騙し続けることはできなかった。
雅紀が晶子を「お義母さん」と呼び、遥の若い顔に七海の面影を重ねたあの瞬間から──いや、彼が密かに七海の家族を支え続けていた事実を知ったその時から、すべてが変わってしまったのだ。
私に降りかかるすべては、鈍い刃物で少しずつ切り刻まれるような、終わりの見えない痛みの連続でしかなかった。
結婚後、雅紀は家計を私に任せてくれた。私はすべてのお金の流れを把握していたが、ただ一つ、毎月きまって二千万もの大金がどこかへ消えていた。問いただすと、雅紀は優しく私の腰を抱き寄せ、不満そうな顔で言った。
「あの悪友たちにいじめられてるんだよ。僕が家庭円満なのが妬ましくて、いつも奢らされるんだ」
あの御曹司たちが遊ぶ場所はどこも桁違いに高額で、月に二千万という額も、あり得なくはなかった。
だが、いつも夫ばかり奢らされるとはどういうことか。夫がなめられているのだろうか。私は恨みを残さない性質なので、その晩、雅紀の悪友たちに思い切り奢らせてやり、夫の面子を取り返した。
だが、二千万の支出は一向に減らなかった。直感的に何かがおかしいと感じたものの、雅紀のひと言が私の疑念をかき消した。
「大丈夫だよ、稔ちゃん。失った二千万は、ビジネスの場で取り返せばいいだろ?」
それもそうだ、と私は納得した。男同士のことは、彼ら自身で解決すればいい。
その後、私はこの二千万を毎月の固定支出として計上した。
十年間も続けて。
なんて滑稽なのだろう。私たち夫婦の共有財産が、十年ものあいだ、七海の家族三人を養うために使われ続けていたなんて。
手に鋭い痛みが走り、握りしめた拳を開くと、そこには血がにじんでいた。
それでも、どんな痛みも、心の痛みの万分の一にも及ばなかった。
第4話
「稔ちゃん、今どこにいるんだ?助手が遊園地に着いたんだけど、見つからないって」
私は階段を上がりながら、雅紀と電話で話していた。「外が寒すぎるから、家に帰ったの」
「家に帰ったって?」彼の声には、緊張と慌ただしさが滲んでいた。
「うん、もう玄関ポーチに着いたところ」
ドアを開けようとしたその瞬間、七生の慌てた声が耳に飛び込んできた。「どうしよう?ママはおばあちゃんと遥さんを追い出しちゃうかな?遥さんはナナさんに似てるから、いなくなってほしくないよ!」
雅紀が落ち着いた声で慰める。「心配するな。遥さんはそんなにすぐには行かないよ」
私が玄関に入ると、七生はさっと良い子の顔になり、私のバッグを受け取って奥へ運んだ。雅紀は自らスリッパを差し出しながら言った。
「ちょっと親戚の者が来ててね。あとで挨拶させようと思って」
「へえ、珍しいわね。私の知らない親戚ってこと?」
私はなんとか笑顔を作り、最低限の体面を保った。しかし七生は、私が疑い始めたのを恐れたのか駆け寄ってくる。
「パパの遠い親戚だよ。ママも知ってるでしょ。パパの家系は人が多いから、会ったことなくても普通だよ」
そう言いながら私の手を引き、七生はリビングへと促した。そこで私は、例の母娘と対面した。二人はあたかも自分たちが主であるかのような居丈高な態度で、刃のような目付きで私をまっすぐに見据えた。
しかし、雅紀が彼女たちの方を見た途端、その表情は掌を返すように和らぎ、無害で従順なものへと変わった。
私は雅紀に視線を送り、彼が用意していたであろう言い訳を披露する機会を与えた。「こちらは叔母さんの晶子で、もう一人は従妹の遥だ。帰国して定住してからしばらく経つんだけど、今回はわざわざ時間を作って僕たちに会いに来てくれたんだ」
晶子は盛んに笑っていたが、その笑みは事情を知らない者から見れば、本心からの温かいものにしか見えなかった。
「ええ。あなたたち夫婦がこんなに仲睦まじいのを見て、安心したわ!」
そう言い終えると、わざとらしく時計を見た。「もう遅い時間だし、遥、私たち、夫婦水入らずの邪魔をしちゃいけないわね」
そのまま帰ろうとした時、雅紀と七生が顔を見合わせた。
七生はその場で遥の太ももに抱きついた。「僕、遥さんを一目見て大好きになっちゃった。だから泊めてあげてよ、ママ」
雅紀と七生は息を合わせ、もう私の意志など置き去りにして決定を下していた。
遥は、二人が与えた口実を何のためらいもなく受け取り、七生が寂しがるからと、そのまま居座った。
だが、本当に引き留められたかった相手は、七生だったのだろうか。
夜になって、遥は涼しげな格好でソファに腰を下ろし、七生と楽しげに遊んでいたが、その視線は時折、雅紀へと流れていた。意図的な動きに合わせて、太ももの付け根の布地が少しずつずり上がり、私の位置からは彼女の下着がはっきり見えるほどだった。
雅紀もその様子に気づき、一瞥すると、家政婦に七生を二階へ連れていくよう促した。
去り際、七生はまだ雅紀と、そして父親を誘っているあの女のことを気にかけていた。
「パパ、今ならママは絶対寝てるよ。絶好のチャンスだ、逃すなよ!」
七生の姿がリビングから完全に消えるのを待ち、雅紀は遥に向き直って警告した。
「ナナちゃんなら、こんな軽はずみな真似は絶対にしなかった。ましてや、既婚の男性に……妹として、少しはみっともないと思わないのか?」
「雅紀さん、そんな風に言うなんて。だって私は、お姉ちゃんの大切な人を守ってあげてるだけだもの」
遥の細い指が、挑むように雅紀の胸元をなぞる。その瞳は、妖しく潤んでいた。
「雅紀さん、今この瞬間だけでいいから、私のことをお姉ちゃんだと思ってもいいのよ。この顔を見て……雅紀、私と何かしたいって思わない?」
第5話
さっきまで、雅紀はまるで正義そのものを掲げるかのように毅然としていた。
だが次の瞬間、七海に酷似したその顔を前に、彼の最後の理性はあっけなく崩れ落ちた。
私たちの家で、私たちの寝室と壁一枚隔てた場所から、ふたりが愛し合う気配が断続的に伝わってくる。その音は私の耳元でいやでも膨れ上がり、逃げ場などどこにもなかった。
胃が裏返るような激しい嫌悪感に襲われ、私はあわててトイレに駆け込んだ。生理的な不快と、心の底から湧き上がる嘔気が混じり合い、私は便器にしがみついたまま、目が真っ赤になるほど嘔吐を繰り返した。
立ち上がろうとしたときには足元がおぼつかず、クリームの容器を床に落として中身をぶちまけてしまった。
その音が、ちょうど彼らの逢瀬を断ち切った。
猫のように甘えた声がふっと止まり、息を弾ませた声が「今の音、何?」と問いかける。
雅紀は、何か重大なことを思い出したかのように緊張した気配を帯びた。「稔ちゃん?」
遠ざかっていた足音が、たちまちこちらへ向かって駆け戻ってくる。
「稔ちゃん?」
彼は靴も履かずに走り込んできた。床に散ったガラス片を見た途端、ひどく狼狽しながら私を抱き上げる。
「どうしてこんなに不注意なんだ?怪我は……怪我はないか?」
私が答えないのを見ると、雅紀は必死な様子で私の全身を確かめ、小さな擦り傷にさえ青ざめた。「どうしてこんな……血まで……」
私は胸の奥の痛みを必死に押し殺していたが、こらえきれず落ちた涙が彼の手の甲に落ちた。
雅紀は、火に触れたかのように私を見つめ、「稔ちゃん、泣かないでくれ!すぐに救急箱を持ってくるから」と、慌ただしく部屋を出ていった。
彼には分からないのだ。どんな特効薬でも、私の心の傷には一滴たりとも効かないということが。
雅紀がいなくなった途端、遥は頬の紅潮を残したまま、ゆっくりと笑みを浮かべて姿を現した。その紅い跡が、残酷なほど私の目を刺した。
遥は私の前でしゃがみ込み、まるで本妻である私に対して所有権を突きつけるかのように告げた。
「あなた、最初から私が誰か分かってたでしょう?なら理解できるはずよ。雅紀さんは元々、お姉ちゃんの夫だったの。もしお姉ちゃんが亡くなった時、私がもう少し大きかったら、横山家の女主人の座なんて、あなたに回ってくることはなかったわ。だから大人しくしていたほうがいい。もう彼の気を引こうなんて、思わないことね」
ずっと押し込めていた感情が、その言葉をきっかけに堰を切ったように溢れ、私は低く問い返した。
「どんな資格があって、私にそんなことを言うの?七海に似たその顔が……そんなに重要なの?」
言い終わるや否や、遥の表情には濃い怒気と不満が走り、その目は恨みの色に染まった。まるで私こそが、七海の幸せを奪った張本人であるかのように。
「それだけで十分よ!」
その言葉の意味を理解するより早く、遥は床に散ったガラス片を拾い上げ、ためらいなく自分の頬を切り裂いた。そして、悲鳴を上げる。
「やめて!私の顔、傷つけないで!お願い、傷つけないで!」
その声を聞いた雅紀は、息を呑むような勢いで駆け戻ってきて、蒼白になりながら遥のもとへ向かった。
遥は涙をこぼし、震える声で訴える。
「雅紀さん……どうしよう……私、顔が……台無しになっちゃう……?」
雅紀の瞳には痛ましいほどの動揺が浮かび、そして、彼は迷うことなく私を責めた。
「稔!いつからお前はこんなふうになった?どうしてこんなひどいことができるんだ!」
第6話
「もし私が『やってない』って言ったら、信じてくれる?」
「女が自分の顔をわざと傷つけるなんてあるか?君じゃないなら、遥ちゃんが自分でやったとでも言うのか?」
その詰問めいた、しかし最初から答えを決めつけているような態度に、私は一瞬、言葉を奪われた。
「防犯カメラを見ればわかるでしょ」と喉元まで出かかった言葉は、そのまま沈んでいった。
かつて「永遠に君を信じる」と言った人は、今では冷ややかに私を一瞥し、遥を抱きかかえながら、救急箱まで持って行ってしまった。
なるほど。彼の「永遠」には、ちゃんと期限があったらしい。
ふたりの背中から目をそらし、テーブルの隅に置かれたカレンダーに視線を落とす。
あと三日。
私が雅紀とぎこちなくしている間に、この家の女主人はまるで入れ替わったかのようだった。
七生と雅紀は、まるで私が存在しないかのように振る舞い、遥はふたりのそばで嬉しそうに笑っている。
どこを切り取っても、部外者のように見えるのは、私だけだった。
翌日の夜、雅紀はどうしようもなさそうな顔で、私の手をそっと握ってきた。
「なあ、この件はもともと稔ちゃんが原因なんだからさ……遥ちゃんに謝ってくれれば、それで終わりにしないか?」
「そんなに急いで私に謝らせたいなんて、従兄が従妹を気遣ってるというより……別の理由がありそうね」
淡々とそう言うと、雅紀の表情がわかりやすく強ばった。
「おい、変な勘繰りはやめろよ。遥ちゃんはせっかく遊びに来てくれてるのに、顔に怪我までしたんだ。晶子さんに知られたら、家の和が乱れるだろ」
家の和?
本当に心配しているのは、あの初恋の人に似た顔に、傷が残るかどうか、じゃないの?
遥は怪我をしてからというもの、治療に行くどころか、わざわざ口実を作って拒み続けていた。
「稔さんが私の顔を気に入らないなら、治療しなくてもいい」などと言い出すほどに。
明らかに、私を不快にさせ、謝罪を引き出そうという魂胆だった。雅紀だって、薄々は気づいている。それでも今こうして私に頭を下げるしかないのだ。
「なあ、遥ちゃんに……謝りに行ってくれよ」
「いいわよ」
あまりにあっさり返したせいか、雅紀は呆けたように目を見開いた。
胸の奥を、得体の知れない不吉な感覚がかすめたが、それはすぐに消え、彼はいつものように私のそばに寄り添ってきた。
「よかった、稔ちゃん……もう、僕たち父子と冷戦するのはやめてくれよ。君が僕たちを見ようともしなかったこの二日間、どれだけ辛かったか……七生くんなんて、二回も泣いたんだ」
「私も辛かったわ」
その言葉に、雅紀は怯えるように私を見上げた。まるで、何かひとつ間違えれば私の機嫌を損ねると恐れているかのようだった。
「知ってるでしょう?私、潔癖症なの。生理的にも、心理的にも。汚れたものは……もう、いらなくなっちゃうの」
雅紀の顔が強張り、見たことのないほど慌てた様子で私を抱きしめた。
「心配いらないよ、稔ちゃん……そんなことない。僕と七生くんを捨てないでくれ。君がいないと、僕たちは生きていけないんだ」
私は微笑んだ。声は柔らかくても、その眼差しには一片の温度もなかった。
「もちろんわかってるわ。あなたがそんな人じゃないってこと。心の中で誰かを想うなんて、まして浮気なんて、するはずないもの。七生くんだって、他の女の人を母親だなんて認めるわけないでしょう?」
第7話
言葉の途中で、雅紀が私を抱きしめる腕を、かすかに震わせ始めた。
その力はじわりと強まり、名残惜しさを滲ませながらも、どこか決意を帯びた声で言った。
「明日、遥ちゃんを家に帰らせるよ。僕たち家族三人の生活を、よそ者に邪魔されたくないんだ」
「わかった。じゃあ、早く帰ってきてね。一緒にご飯食べよう。家であなたと七生くんを待ってるから」
私がこれほどあっさり承諾したのは、明日こそが私の「立ち去る日」と決めていたからだ。
その夕食は、おそらく私たちにとって最後の晩餐になるだろう。
当日の朝。
七生が、まるで離れがるように私をぎゅっと抱きしめてきた。
「ママ、また夜にね。僕、ママに会えないと寂しくなっちゃうから」
私は淡々と頷き、彼のランドセルの奥へそっと絶縁状を忍ばせた。
「ママ、僕のバッグに何入れたの?」
「あなたへのプレゼントよ」
「パパにもある?」
「もちろんよ」
七生が出ていったあと、私は離婚協議書を雅紀の書斎机に置いた。
昼までには、部屋に残る私の痕跡という痕跡を、すべて消し去った。アクセサリー、洋服、写真、書画──リビングに飾っていた花に至るまで、私に関わるものはすべて廃棄センターへ送った。
私が望んだのは、彼らの生活から完全に姿を消すこと。
そのすべてを終えたあと、私は午後から夜までひたすら動き続け、親子のために最後の夕食を整えた。だが、約束の時間になっても二人は帰ってこなかった。
三度電話をかけ、ようやく遥が出た。
「しつこいなあ。雅紀さんと私はお墓参りに行ってるの。今夜は帰らないから。待ちたければ夜が明けるまで待ってればいいわ」
「じゃあ、七生くんは?彼は……」
「もちろん、お姉ちゃんのお墓参りをしてるわよ」
途切れた通話音だけが、がらんとした部屋に虚しく響き続けた。
私は腕の力が抜け、テーブルの上の、本来なら食欲をそそるはずの料理がひどく目障りに感じられ、そのすべてを一気にゴミ箱へと放り込んだ。
唯一の色彩が消え失せた部屋を見渡すと、目に映るのは白と黒ばかり。
けれどその白黒の中には、私と雅紀、そして息子がともに笑っていた日の残響がまだ微かに漂っていた。気づけば頬を伝っていた涙を、私はそっと拭い取った。
時計の針が八時を指し、チリンと乾いた音が鳴る。それが、この世界から去るための最終時刻だった。
そこへ、プロジェクト担当者からメッセージが届く。
【栗原さん、お時間になりました。現時点では、まだ考え直すチャンスがございます】
【いいえ、準備はできています】
私は雅紀へ、最後のメッセージを送った。
【さようなら。もう二度と会わない】
スマートフォンのSIMカードをためらいなく折り、その場に未練を残さず踵を返した。
瞳には、ただひとつ、揺るぎない決意だけが宿っていた。
車は私を株式会社アサヒテクノロジーへ運び、そして予期せぬ未来へと連れていく。
雅紀と七生が、私に会う最後の機会をみすみす逃したのだ。ならば、もうこれで終わりだ。
なぜなら、この先の人生で、私は雅紀の妻でも、七生の母でもなくなるのだから。
ただ一人の人間、栗原稔(くりはら みのり)として、この世界から消えてみせる。
そうなれば、もう誰も、私を探し当てることはできないはずだ。