そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜

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そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜

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長いあいだ、高瀬玲にとって高瀬弘樹は唯一の「光」だった。 だがある日―― 「藤原家の令嬢との婚約は取り消さない。お前は、このまま俺の愛...

Chương (1)

第1章

長いあいだ、高瀬玲にとって高瀬弘樹は唯一の「光」だった。 だがある日―― 「藤原家の令嬢との婚約は取り消さない。お前は、このまま俺の愛人でいればいい」 弘樹の冷たい言葉を聞いた瞬間、その光は彼女を覆い尽くす影へと変わった。 その夜、彼女はすべてを諦めて家を出る。 周囲は口を揃えた。「高瀬家の庇護を失った玲なんて、すぐに行き詰まり、屈辱にまみれて戻ってくる」と。 けれど、世間の予想は鮮やかに裏切られる。 高瀬家と藤原家の婚礼の日。真っ白のドレスに身を包んだ玲が、藤原家を率いる秀一の腕を取り、堂々と姿を現したのだ。 その瞬間、彼女は「すべてを失った哀れな女」から、「高瀬夫婦の義姉」へと変貌を遂げる。 会場は騒然、誰もが息をのんだ。 弘樹は思った。玲は自分のために身を投げ出したのだと。 だから彼女を取り戻そうと手を伸ばす。 だが、その前に冷たい声が響き渡る。 「もう一歩でも近づいてみろ」 第1話 「15番の方、高瀬玲様、ご家族の方とはまだ連絡つきませんか?」 診察室の簡易ベッドに座っていた高瀬玲(たかせ れい)は、何度目になるかわからないその問いかけを、黙って聞いていた。手にしたスマホからは、いまだに何の反応もない。 白い蛍光灯の冷たい光の下、繊細な玲の指先は、スマホを握るうちに血の気が引いて白くなっていた。 白シャツに黒のパンツという、ごくシンプルな格好なのに、彼女が身につけるとどこか現実離れした美しさが漂ってしまう。 看護師の口調も、そんな彼女を前にすると自然と柔らかくなる。 「高瀬さん、あなたの足首の靭帯はかなり損傷してます。ひとりで帰ると再び痛める可能性が高いので、できればどなたかに迎えに来てもらってください」 「……すみません。多分仕事で忙しいんだと思います。もう、来ないかもしれません」 玲は俯いたまま、か細い声で答えた。 その日、アートギャラリーでちょっとした騒動が起きた。展示中の彫刻作品を、ふたりの子どもがふざけて壊してしまったのだ。 親たちは「子どもが遊んだだけでしょ?」と開き直り、そこからスタッフと保護者の激しい口論へと発展。ギャラリーは罵声と物音が飛び交う修羅場と化した。 玲は芸大卒で、今回の展示にボランティアとして協力していた先輩だった。止めに入ろうとしたものの、もみ合いの中で足首に展示台が倒れ込み、激しく負傷した。 昼過ぎに病院へ運ばれ、夜が更けた今、他の負傷者は全員家族に迎えられて帰っていったというのに、彼女だけが取り残されていた。 看護師がそっと言葉を添える。 「彼氏さんとか……いらっしゃいませんか?もし恋人がいれば、迎えに来てもらっても……」 彼氏…… 玲は唇をぎゅっと噛み締める。 連絡していたのは、まさにその彼氏だというのに。 そのとき、背後に設置されたテレビから賑やかなアナウンスが流れた。 「速報です!高瀬グループの御曹司・高瀬弘樹氏が、本日夜、ロイヤルホテルを貸し切り、藤原グループの令嬢・藤原綾さんにカスタマイズのガラスの靴を贈呈。ふたりは真剣交際中で、三ヶ月後に婚約予定とのことです!」 画面には、愛らしい顔をしている藤原綾(ふじわら あや)が映っている。玲が何度も連絡を試みた男──高瀬弘樹(たかせ ひろき)が、彼女の前で片膝をつき、ガラスの靴にピンクのリボンを結んでいた。 その瞳には彼女しか映っていないと、誰が見てもそう思うのだろう。 看護師たちもテレビを見て、思わず感嘆の声を上げる。 「いやぁ、まさに理想のカップルだね。イケメン社長と大財閥の令嬢、今頃ネットでも絶対バズってるよ」 「そうだね、しかもこんな時間にホテルで甘いひととき、私たちは病院でしんみり……悲しすぎるよ」 彼女たちの軽口が、玲の心をじわじわと冷やしていく。出血による顔色の悪さに、さらに拍車がかかった。 結局、玲は親友の水沢雨音(みずさわ あまね)に連絡を取り、迎えに来てもらった。 ここ数日、雨音は大規模なアート展示の準備で忙しくしていた。本当なら、こんな時間に呼び出すのは気が引けたが、他に頼れる人はいなかった。 だが、雨音は少しも迷惑そうな顔を見せなかった。 病室に駆け込むなり、玲の姿を見て涙ぐみながら彼女を抱きしめる。 「バカ!なんでもっと早く連絡してくれなかったの?おばさんは?やっぱり来てくれなかったの?」 十三年前、玲の母・高瀬雪乃(たかせ ゆきの)が高瀬家に嫁いだときから、玲は母の愛を無くしてしまった。 雪乃は再婚先の家で地位を築くことに必死で、実の娘には目もくれない。その一方、高瀬家の息子、弘樹の前では、理想の母親を貫いていた。 「ていうかさ、弘樹くんのニュースってどういうこと?三年前から、彼は玲ちゃんの彼氏だったよね?」 雨音の声に、玲の唇がかすかに震えた。母親が来てくれなかったことを突きつけられたときでさえ、これほどの動揺を見せなかったのに。 「……うん。彼は、私の恋人……だったはずなのに」 弘樹と出会ったのは、玲が八歳の頃、初めて高瀬家に行ったときだった。 だけど、本当に恋に落ちたのは、家でいじめられて、耐えきれずに飛び出したあの夜だった。 あのとき、弘樹は彼女の名前を呼び続け、ようやく泣きながら路地に座り込んでいた彼女を見つけた。そして、彼女の震える身体を抱きしめ、おんぶしてくれた。 帰り道、彼は掠れた声でこう言った。 「泣かないで、俺がついてるから。これからは、誰にもお前をいじめさせないよ」 涙を流しながら、玲は頷いた。冷え切った心が温められたその感覚は、一生忘れられない思い出となった。 しかし、二人の身分が違いすぎる。だから玲は、その想いをずっと胸の中に秘めることにした。一目だけ多く弘樹を見つめることができれば、彼女には十分だった。 そして十八歳の誕生日、玲は酔った勢いで弘樹に告白してしまった。 なんと彼は受け入れてくれた。 ただ、彼は条件をつけた。二人の恋を守るために、家族には悟られないようにしたいと。 玲は疑いもせずにうなずいた。二人が愛し続ければ、いつか堂々と並んで歩ける日が来ると信じていたから。 でも、恋というものは、どうして一番真剣なほうが、こんなに滑稽なのだろう。 三年が経ち、弘樹は玲ではなく、藤原家令嬢の手を取り、公の場で「恋人だ」と宣言した。 …… 雨音は忙しい仕事に戻るため、高瀬家の前で玲を降ろしてすぐに立ち去った。 そのわずかな間にも、ニュースはさらに拡散され、家の中では使用人たちまでもが浮かれていた。 藤原家の娘さんがすごい方だとか、結婚式が盛大になるだとか。 さらに、綾がすでに妊娠しているのではないかという噂さえ飛び交っていた。 そんな中、玲は痛む足をかばいながら、誰にも頼らず、そっと家の階段をあがる。 ひとりで静かに。誰にも見られたくない。 けれど部屋のドアを開けたその瞬間、彼女は固まった―― 目に飛び込んできたのは、長身で美しいあの男、弘樹の姿だった。 第2話 弘樹は、ロイヤルホテルから戻ってきたばかりだったのだろう。 玲の小さな部屋に立つ彼は、まだ真っ白な高級スーツを脱いでおらず、遠目にも品のある佇まいが際立っている。 穏やかな顔立ちはまるで絵から抜け出した人物のようで、十三年前と変わらぬ、ひと目で人を惹きつける魅力を放っていた。 だが玲にとって、この日、初めて彼がとても遠い存在に思えた。長い日々を共に過ごしてきたはずの恋人なのに、その姿が、見知らぬ人のようだった。 怪我を負い、疲れの色が顔に滲む玲を目にした瞬間、弘樹の眉間にわずかな皺が寄った。 「どうしてこんなことに?」 玲はドアノブを握る手に力を込めたまま、その場で立ち止まった。 「今日、ギャラリーの手伝いに行ったけど、ちょっとした事故があって……」 「病院には行ったのか?」 「ええ、処置は済ませたわ」 「そうか、午後あれだけ俺に電話をかけてきたのは、この件だったのか。悪かったな、次からは秘書をつけるよ。 それと、ギャラリーの手伝いはもうやめたほうがいい、危ないからな」 弘樹は眉間を軽く押さえ、低く落ち着いた声でそう告げた。その音色にはかすかな気遣いが混じっていて、まるで昔と何も変わっていないかのようだった。 けれど玲にはわかっていた。 もう、すべてが変わってしまったのだと。 昔なら、足首の怪我どころか、指先の小さな切り傷でさえ、弘樹はすぐに駆け寄って確かめ、傷薬を塗ってくれた。 それなのに今の彼は、ただ遠くから彼女を見ているだけ。謝罪の言葉すら、どこか上の空だった。 そして、距離を隔てても、彼のスーツに染みついた甘ったるい香水の匂いが、玲の鼻腔を刺激した。 それは他の女のもので、二人が甘いひと時を過ごしたことの証拠だ。 そのとき、玲の胸の奥に複雑な感情が広がって行った。 彼女は唇を引き結び、まっすぐ弘樹を見据える。 「弘樹さん、私たちのこの三年間って……いったいなんだったの?私はあなたにとって、いったい何なの?」 「玲、お前はいつだって俺の家族だ」 短く視線を落とした後、弘樹は続けた。 「ニュースを見たんだろう。隠すつもりはない。俺は藤原家の令嬢と婚約するつもりだ。高瀬家の跡取りとして、釣り合う相手と結婚するのは俺の責任だからな。 でも安心してくれ。結婚しても、お前との関係は変わったりしないさ」 「……」 玲が沈黙し、部屋の空気も、一瞬にして凍りついた。 治療で麻痺していたはずの足首が、再び鋭く疼きだす。 その痛みは足から胸へ、そして心臓へと広がり、呼吸さえ奪った。 そして次の瞬間、玲は声をあげて笑った。 「ふふ……それはつまり、この三年間、私たちは付き合ってたわけじゃなくて、不倫をしてたってこと? 私はあなたの彼女ではなく、ただの愛人で、これからもあなたの結婚生活に寄り添う都合のいい女でいろってこと?」 弘樹は黙って彼女を見つめた。そして、ゆっくりと頷いた。 「そうだ」 足元がぐらりと揺らぎ、玲は壁に手をつく。 純粋で美しいと思った初恋が、彼の中ではこんなにも穢れたものだったなんて。 でも、弘樹は玲を騙せても、玲は自分を騙せない。 「そんな条件、受け入れられるわけがないわ」 涙を拭い、玲はまっすぐ立ち上がる。その瞳の奥には静かで強い光が宿っていた。 弘樹は一瞬沈黙し、ゆっくりと口を開く。 「じゃ……どうしてほしい?」 「選んで。私か、婚約か。どちらか一つだけよ」 玲ははっきりとそう言った。 その言葉に弘樹は眉を顰めた。柔らかかった雰囲気が、じわりと冷たい圧力に変わり、彼は一歩一歩と玲に近づく。 「もし俺が婚約を選んだら、お前は俺と別れると?」 「ええ。私を選ぶなら、これからどんな困難があっても、三年前と同じように支えるわ。でも婚約を選ぶなら、私たちの関係が終わり。私は自分の人生を取り戻すし、あなたの結婚生活も祝福してあげる」 玲は弘樹を愛しているが、尊厳を捨てるほど惨めな女じゃない。 藤原家の令嬢と、並び立つ気はない。 これは、彼に与える最後の機会だ。 弘樹の顔に、深い影が差した。 沈黙がしばし続き、ようやく彼は口を開く。その声は彼女を気遣う響きを帯びていたが、告げられた内容はあまりにも残酷だった。 「……本当に、それでいいのか? 別れるのは構わない。だが、結局いちばん傷つくのはお前かもしれない。 今は高瀬家に身を置いているが、お前は高瀬家の娘でもなければ、俺の妹でもない。上流の世界じゃ、お前のような立場の人間は、どこにも居場所なんてないんだ。 だが俺は違う。俺にはいくらでも選択肢がある。 それに……お前は俺を愛してる。たとえ周りがみんな冷たくしても、実の母親に見放されたとしても、俺だけはお前の味方だ。 ……それでも、別れる覚悟があるのか?」 弘樹の声は残酷なほど冷静で、まるで人間界を見下す神のようだった。 彼は信じていた。玲が自分と別れるわけがないと。 しかし、たとえ全身が凍えるように冷えきっていても、玲は震える手で、力の限り彼の頬を打った。 弘樹は避けなかった。 顔が横に弾かれても、表情は微動だにしない。ただ、その拳の甲に青い血管が浮かび上がった。 そのとき、部屋に甲高い悲鳴が響く。 「な、何してるの玲!弘樹さんに手を上げるなんて!」 ちょうど雪乃が果物を盛った皿を手に、部屋へ入ってきた。 目に飛び込んできた光景に、彼女は皿を机に置くなり、心配そうに弘樹の頬を覗き込む。 「社長の顔に傷をつけるなんて……もし誰かに見られたらどうするの! まったく、あれほど口を酸っぱくして言ってきたのに……どうしてまだわからないの?」 雪乃は怒りを募らせ、今にも玲を叩こうと手を振り上げたが、その手首を弘樹が掴んだ。 弘樹は雪乃の瞳をまっすぐに捉え、穏やかさの奥に確かな力を宿した声で語りかけた。 「大丈夫だ、雪乃さん。さっきのは冗談みたいなものだ。父には俺から話すよ」 「あ、そうだったの。私ったら心配で、つい……」 雪乃にとって一番の懸念は、夫の機嫌を損ねることだ。 弘樹の言葉に少し安心したが、それでも釘を刺すように言葉を重ねた。 「若い人のことに口を挟むつもりはないけど、あんたも玲も、もう立派な大人よ。少しは周りの目を気にしなきゃ。 あ、誤解しないでね。弘樹さんのことを信頼してないわけじゃないの。 ただ、もうすぐ藤原家のお嬢様と婚約するんでしょう?お父さんも認めた結婚相手よ。うちの玲なんて、あの方の足元にも及ばないし、ましてや玲を好きになるなんて考えられないでしょうから」 弘樹は何も言わず、ただ玲を一瞥して部屋を出た。 雪乃も果物の皿を持って続き、玲の怪我した足に気づくことすらしなかった。 遠ざかる二人の背中を、玲は無言で見送り、そして小さく笑った。 ――やはり、一番近しい人にこそ、一番深く傷つけられるのだ。 …… その夜、玲は鍵をかけ、病院からもらった鎮痛剤を飲んで眠ろうとした。だが結局、一晩中痛みにうなされ、汗で全身を濡らし、ようやく明け方に眠りについた。 しかしまもなく、ドアを叩く音が響き、家政婦の声が聞こえた。 「玲様、お客様がお見えです。奥様が応接されています。弘樹様が、お手伝いをお願いしたいと」 「……」 玲は天井を仰ぎ、眉をひそめた。 怪我を抱えたままでも、もてなさなければならない客など、本当にいるのだろうか。 そんな疑問を抱く間にも、催促の声はしつこく響き続ける。 痛みに耐えながら、足を引きずってリビングへ向かう。 そして、階段を降りたその瞬間――玲は、その場で凍りついた。 第3話 玲が階段を下りると、リビングには大勢の人が集まっていた。 その中心に立つ人物を目にした瞬間、彼女の足が止まる。 昨日、ニュースで見たばかりの顔だ。 「玲、やっと来たのね!」 真っ先に立ち上がったのは雪乃だった。彼女は強引に玲の腕を取り、少し責めるような声音で言う。 「家政婦に何度も呼ばせたのに……また寝坊でもしてたの?未来のお義姉さんを待たせるなんて、失礼にもほどがあるわよ」 そう――今日ここに突然現れたのは、他ならぬ藤原綾。昨日、弘樹が世間に公表したばかりの婚約者だ。 彼女は今日も、弘樹が記者会見で贈ったというガラスの靴を履いていた。 遠目には気高い白鳥のように見えるが、丸い瞳と可憐な顔立ちが、どこか幼さも残している。 その隣には淡い色のスーツに身を包み、金縁の眼鏡をかけた弘樹が座っている。その瞳がレンズの奥に隠れて感情は読みにくいが、雪乃が「未来のお義姉さん」と口にしても、彼は否定の言葉を挟まなかった。 するとすぐに、綾が照れくさそうに微笑んだ。 「雪乃さん、全然大丈夫ですよ。弘樹さんはさっきからずっと一緒にいてくれたんです。それだけで私は十分嬉しいですから」 柔らかな声でそう言ったかと思えば、次の瞬間には玲に視線を向ける。 「でも玲さん……どうしてこんなに遅れたの?私たち、ずいぶん待ったのよ」 さっきまでのはにかみとは一転して、遠慮のない口ぶりだった。 その対比に、周りの人々も思わず目を見張る。 ――さすが藤原家の令嬢、という声が心の中で広がっていった。 玲は冷たい指先を握りしめ、笑みを作った。 「……遅れてすみません、藤原さん」 「謝るだけじゃ誠意が足りないんじゃないの?」 綾はすぐさま弘樹に向き直り、甘えるように言った。 「高瀬家は初めてだし、玲さんに案内してもらいたいわ」 そう言いながら立ち上がり、玲の腕を当然のように取る。 初めて高瀬家を訪ねた客人、しかも将来の奥様が望んでいるのだ。断る理由など誰にもない。 ただ、玲には無理があった。怪我を抱えた足では、屋敷中を歩き回ることなど到底できない。さっき階段を降りる時だって、玲は必死に表情を繕っていたが、歩き方のぎこちなさは隠しきれなかった。 綾が気づいていないのか、それとも気づいたうえでわざとそうしたのか、玲にはわからなかった。 断ろうと口を開くより早く、弘樹の声が響く。 「玲、綾がお願いしてるんだ。案内してやってくれ」 その声音は穏やかで、しかし逆らえない圧を帯びていた。 胸の奥に鋭い痛みが走る。どうして、そんなことが言えるの? 玲が弘樹に振り向いたときには、綾が歓声を上げていた。 「やった!ありがとう、弘樹さん!」 彼女は玲の手を強く引き、楽しげに庭へと駆け出す。 高瀬家の庭園は著名なデザイナーが手がけたもので、人工の池や岩組み、四季折々の植栽が広がり、ひと回りするだけでも三十分はかかる広さだ。 玲は数分歩いただけで、すでに額に汗を浮かべていた。 昨夜から疼き続けていた足は、すでに包帯の下で血が滲み、痛みは全身に広がっていく。 けれど綾は気づきもせず、ひたすら喋り続けた。 「玲さんって、お母様の再婚で高瀬家に来られたわよね?ちょっと気になってたんだけど、ご両親はどうして別れたの?」 「……父は、私が七歳のときに事故で亡くなりました。その後、母が茂さんと出会って、それから再婚したんです」 「そうなのね、じゃあ、ある意味災い転じて福となすって感じかな?」 綾はあっけらかんと言う。 「だってお父様は亡くなったけど、こんなに立派な家で育って、みんなに大事にされて。十分幸せじゃないの? それにね、私なんて小さい頃から母に厳しく育てられて、やっと今は会社で部長を任されてるの。でも玲さんは……彫刻専攻なのに、卒業の後ろくに作品も出さずに、ギャラリーでボランティアしてるくらいでしょう? そうそう、弘樹さんと出会ったのも、仕事でご一緒したのがきっかけなの。毎日肩を並べて頑張ってたから、惹かれあったのよ。 もし私が玲さんみたいに家にこもってたら、きっとこんなご縁なんてなかったと思うの」 綾がにやにやしながら話すと、玲の胸に、痛みとは別の熱がこみ上げた。 「……」 「玲さん、もしかして怒ってるの?」 綾はわざとらしく首をかしげ、玲を上から下まで眺め回す。 「大丈夫よ。あなた、実力はないけど顔は悪くないものね。うちの兄も、あなたには借りがあるんですって?」 ――うちの兄。 綾は名前こそ出さなかったが、玲はあの人物のことを思い出す。 綾の兄、藤原秀一(ふじわら しゅういち)。 家の後ろ盾がなくても、常に頂点に立ち続ける冷徹な男。 彼と出会ったのは、弘樹と同じ幼少期だった。その頃、ほんの些細なきっかけで彼を助けたことがあり、それを彼はいまだに覚えているのだ。 玲にとって、あれは取るに足らない出来事で、恩を売る気もさらさらなく、むしろ一生口にしないと決めていた。 けれど綾は、彼女のことを徹底的に調べ上げたらしい。 玲は足を止め、綾に問いかける。 「……藤原さん、あなたはいったい何が言いたいんですか?」 「別に。ただ不思議に思っただけ。どうしてみんな、玲さんばかり大事にするのかなって」 綾は尖った声でそう言うと、突然しゃがみ込み、足元のガラスの靴を脱ぎ捨てた。 「もういいわ。私はここで水遊びがしたいから、あんたは戻っていいわよ」 まるで下僕を追い払うような調子で言うと、綾は池に歩み寄り、つま先で鯉を引き寄せようとした。 玲は黙ってその場に立ち尽くし、視線を芝生に転がる靴に落とす。きらめくクリスタルの輝きが、ひどく虚しく映った。 彼女はそれ以上振り返らず、足を引きずりながら屋敷の方へ歩き出した。綾とは、なるべく距離を取ったほうがいいと、彼女の勘がそう告げている。 部屋に戻った玲は、震える手で包帯を解いた。案の定、傷口は再び開き、真っ赤な血が布を染めていた。 目の前が暗くなりそうな痛みに耐え、何度も深呼吸しながら再度手当てをする。 だが、ようやく落ち着いたところでノックの音が響いた。 今度は雪乃の声だ。 「玲!大変よ、藤原さんのガラスの靴が盗まれたらしいの!すぐに降りてきて!」 ……どういうこと? 呆然と立ち上がり、ドアを開ける。 「あのガラスの靴が?でも……どうして私に?」 雪乃は血相を変えて言った。 「どうしてって、あんたしかいないじゃない! あの靴は弘樹さんが藤原さんに贈った大事なものなのよ。さっき庭を案内してたのはあんただけなのに、途中で勝手に切り上げて戻ってきたでしょう?そのあと靴がなくなったのよ!」 雪乃は声を荒げ、まるで犯人を前にしたように指を突きつけた。 「とにかく靴を返して!それから綾さんに頭を下げて謝りなさい!」 第4話 弘樹と綾が交際を公にしたのは、ほんの昨日のこと。ところが、その大切な愛の証であるガラスの靴が今日には消えていた。 確かに大問題だ。だが、まさかその件に自分が巻き込まれるとは、玲が夢にも思わなかった。 足の痛みをこらえながら、玲は雪乃に連れられて階下へ向かう。 リビングでは、庭から戻った綾がソファに座り、失った靴を思って涙ぐんでいた。弘樹はそんな彼女を抱き寄せ、優しく慰めている。けれど、玲の姿を見た途端、その眼差しから一切の温もりが消え去った。 「靴は?」 弘樹は容赦なく問いただす。すでに犯人がわかったかのように、綾の味方となった。 玲は唇をきゅっと結び、綾に目をやる。綾の顔には、はっきりとした悪意が滲んでいた。 「藤原さん、私が盗んだって言いたいんですか?」 「違うって言うの?」 綾は冷たく笑った。 「庭を案内してもらったとき、あんた、ずっと不機嫌そうな顔をしてたでしょ?それで私は靴を脱いで一人で水遊びをしようって思ったの。しばらくして振り返ったら、あんたも靴も消えてた。 ねえ玲さん、身分の低いあんたが、あの靴を見て物珍しいと思ったのはわかるけど、盗むのはさすがにひどいじゃない」 その言葉に合わせて、綾の視線は完全に「泥棒」を見下すものだった。 弘樹はますます険しい顔をしてソファに腰をかけ直す。 あまりに稚拙な罠に、玲は思わずため息をつきそうになった。 それでも反論は必要だと、庭を指さした。 「庭に防犯カメラがあります。確認してみればわかります」 「今日はセキュリティの点検で全部停止中よ」 雪乃が口を挟んだ。 高瀬家の防犯システムは、アップデートのため年に一度リセットされる。偶然にもその日が今日だ。 つまり、玲が自分の潔白を証明できる手段は完全に断たれていたということだ。 しかし、これはただの偶然なのだろうか? 玲は鋭い視線で綾を見て、彼女が庭をやけに熟知していたのを思い出す。 だが、綾は少しも動揺を見せず、なおも強気で迫った。 「防犯カメラのことを持ち出すなんて、最初から止まってるって知ってたからでしょ?これも、疑われないようにするための策略なんじゃないの? ふん、いくら足掻いても無駄よ。私も、みんなも騙されないから! 玲さん、私と弘樹さんにとって大事な靴を盗んだのは、どうせ私を高瀬家から追い出すためでしょ?だったらもう出ていくわよ!これで満足?」 そう言って立ち上がる綾の手を、弘樹がすかさず掴んだ。 彼は彼女の手を優しく包み込みながらも、冷たい視線を玲へと向ける。 「持ち主のものは持ち主の手に戻るべきだ。それに、綾を追い出すなんて言語道断。玲、靴を出せ。さもないと、父に報告する」 弘樹の父は高瀬家の当主であり、高瀬グループの社長、高瀬茂(たかせ しげる)だ。 物事に厳しい彼に知られれば、玲が一族の仕来りにより、厳しく罰せられるだろう。 雪乃は娘のために反論しようかと一瞬ためらっていたが、夫の名が出た瞬間には顔色を変え、焦ったように玲を見つめた。 しかし玲は何も言わなかった。 彼女はあたりを見渡し、弘樹の背後で勝ち誇った笑みを浮かべる綾を見て悟る――もう何を言っても無駄だと。 ならば、別の方法で立ち向かうしかない。 「……じゃあ警察を呼びましょう」 自分への罵声が飛び交う中、玲はそう言ってスマホを取り出し、ためらいもなく綾へ放り投げた。 騒ぎを望むなら、とことん付き合ってやると、玲は覚悟を決める。 場が一瞬で静まり返る。部屋の隅っこで高みの見物をしていた家政婦たちすら息をのみ、まさか玲が「自首」するような真似をするなんて、思いもよらなかった様子だ。 勝者気取りの綾だったが、スマホに足を当てられたうえ、玲の言葉に動揺し、足元が覚束なくなる。 弘樹が彼女を支えたが、足が傷つけられたと思い、眉をひそめて玲を睨む。 「玲、ふざけるのも大概にしろ!」 「ふざけてないわ。最も公平な解決方法を提案しただけよ」 玲は涼しい顔のまま、さらりと言い返した。 「私がお二人の『愛の証』を盗んだって言うなら、警察に調べてもらえばいいじゃない」 「通報したらどうなるか、考えたことがあるのか?」 弘樹の声は低く沈み、呆れと苛立ちが混じっていた。 「警察を呼べば高瀬家の名に傷がつく。会社にだって悪影響が出る。世間は騒ぎ立て、炎上する可能性も高いんだ。そんな責任、お前に取れるのか?」 「もちろん取れないわよ。けど、そもそも私が責任を取る必要なんてある?」 玲は唇の端を冷たく吊り上げ、一語一語を突き刺すように言った。 「騒ぎを起こしたのは藤原さんでしょう?立場も名声もある方なんだから、責任はご自身で取ればいいわ。それにスマホはもう渡してある。通報したければ、ご自由にどうぞ。 ……それとも、怖くて通報できないの?」 本当に大切なものを失くしたなら、ためらわず警察を呼ぶはずだ。 だが、スマホを手にした綾は通報どころか、押すべきボタンに指を伸ばすことすらできず、かえって動揺しているように見えた。 その姿を目にして、周囲の人々の胸に小さな疑念が芽生える。綾の顔からは、みるみる血の気が引いていった。 弘樹の表情は険しさを増し、ついに一歩踏み出す。 「玲、もういい加減にしろ!」 だが玲は引かない。むしろ静かな強さを宿した瞳で、真っ直ぐに弘樹を見つめ返した。 「いいえ、まだ終わってないわ」 かつての卑屈さはなく、毅然とした声がその場に響いた。 「弘樹さん、昨日、私は選んでほしいって言ったわよね。だから今、あなたの答えを聞かせて。 今回の件は、私を陥れるために藤原さんが仕組んだ罠。 あなたは……私を信じてくれるの?」 第5話 玲が弘樹と出会ったのは八歳の頃。それから十三年、彼女が何を言っても、弘樹は無条件で信じ、常に味方でいてくれた。 だから今日、綾が仕掛けた稚拙な罠に、雪乃が気づかなくても、弘樹だけは見逃さないと玲は信じていた。 だが彼はしばし玲を見つめたあと、ゆっくりと綾のもとへ歩み寄り、その手を取った。 「玲、これが最後の警告だ。靴を綾に返し、彼女に謝ってくれ」 その迷いのない言葉と態度に、周りの人々の視線が一斉に玲から離れていく。つい先ほどまで彼女が無実だと信じていた者も、今や「意地を張って認めないだけ」と思い始めていた。 静まり返ったリビング。綾のそばには、彼女を信じて支える人々が並んでいる。だが、玲の隣には誰一人いなかった。 玲はその現実を受け止めながらも、不思議と体の傷はもう痛まない。胸を満たしていたのは、失う悲しみではなく、すべてを奪われたあとの虚無だけだった。 ――弘樹は綾を選んだ。彼女との婚約をも。 三年間の想いも、尽くしてきた努力も、権力の前では塵に等しい。 その残酷な事実を突きつけようと、玲と弘樹の関係を知った綾は、今日という場を仕組んだのだろう。玲に「弘樹はもう自分のものではない」と思い知らせ、敗者として蹴り落とすために。 けれど、玲は這い上がっていこうとした。 周りの冷たい視線を無視して顔を上げると、足を引きずりながら落ちていたスマホを拾い上げ、ためらいなく「110」に発信した。 「弘樹さん、私は謝らない。警察に来てもらうわ」 「……」 弘樹の眉間に深い皺が刻まれる。額に浮かぶ血管が怒りを物語っていたが、その威圧も、もはや玲を怯ませることはなかった。 一方、綾は動揺を隠しきれず、慌てて横へと視線を逸らす。 そのとき、運転手らしき男がガラスの靴を抱えて駆け込んできた。 「お嬢様!靴はこちらに……池のそばに置かれていたのを見つけまして。盗まれたのかと心配で、勝手に保管しておりました。ご迷惑をおかけして申し訳ありません!」 「えっ……あなたが持っていったの?」 綾は芝居めいた驚きを浮かべ、すぐに玲へと顔を向ける。 「ごめんなさいね、玲さん。まさか、うちの者が余計なことをしていたなんて。 でも……この靴は私にとって大切なものなの。まさか私と意地を張るために、高瀬家の名誉まで潰そうなんて思っていないわよね?」 謝罪の裏に忍ばせた、見え透いた脅し。 しかしよそから見れば、「藤原家の令嬢が、自分より身分の低い相手にまで頭を下げた」と映るだろう。わがままな一面があるとしても、すぐに過ちを認める素直さと寛大さも持ち合わせていると。 実際、通報などすれば高瀬家も綾自身も世間の笑いものになるだけ。 だからこそ、綾は玲をなんとか宥めようと必死だった。 だが玲は、綾には目もくれず、ただ弘樹だけを見据える。 「弘樹さん、さっきまで私が盗んだって言い切ってたわよね?こうして真相が明らかになったのだから……自分の言葉、恥ずかしくないの?」 皮肉を込めた笑みを浮かべながら、玲は運転手の手にあるガラスの靴を見た。 「でも今日、はっきりわかったの。 不相応なものを欲しがってはいけないって。見た目は美しくても、所詮ただのガラクタだから」 ガラスの靴は輝いて見えても、履けば痛みと冷たさしか残さない。 ――まるで弘樹という男のように。 温もりを知らずに育った高瀬家で、玲にとって弘樹だけが唯一の優しさだった。 だから彼女は自分を押し殺し、必死に「いい子」を演じ続けてきた。ただ、彼のそばにいるためだけに。 けれど、弘樹は優しい男ではなかった。玲がすべてを捧げるほど、価値ある相手でもなかった。 綾と結婚したければすればいい。自分たちの恋は、ここで終わりだ。 そう思った瞬間、玲の口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。その顔には、もう憎しみも未練も残っていない。 彼女の表情を見た弘樹は、拳を固く握りしめた。手の甲の血管は、張りつめた弓の弦のように、今すぐ切れてしまいそうだった。 ――彼は、自分から何か大切なものが離れていくのを悟ったのかもしれない。 だが結局、彼が口にしたのは冷たい一言だけだった。 「……もういい。玲、靴を綾に返せ」 通報の電話は運転手が入ってくる前に繋がったため、雪乃が玲のスマホを取り上げ、警察に事情を説明すると、そのまま電話を切った。 彼女にとってすべては夫と弘樹の意志次第。弘樹が「もういい」と言ったのなら、従うまでだ。 弘樹の言葉に、玲は静かに頷いた。 だが、綾が靴を受け取ろうと手を伸ばしたその瞬間、玲はそれを思い切り壁へ投げつけた。 「きゃあっ!」 甲高い悲鳴とともに、靴は粉々に砕け散る。 「何をするの……?あれは私と弘樹さんの愛の証なのよ!」 取り乱す綾に、玲は平然と答えた。 「何って、私を陥れた代償を支払っていただくだけです」 「……っ、謝ったじゃない!」 「ええ。けどその謝罪に、いったい何の価値があるというのですか?」 雪乃が慌てて割って入る。 「玲!なんて口をきくの!藤原さんに失礼でしょう!」 玲はしばらく黙り、母をまっすぐに見つめた。やがて、冷ややかな声で言う。 「お母さん……もう耳が遠くなったの?私が理不尽に責められても黙っていたのに、どうして他人をかばう時だけ必死なの? 外の人には頭を下げて、身内をきつくしつけておけば、尊敬されると思ってるの?そんなわけない。もし本当に尊敬されてたなら、娘の私がいじめられることなんてなかったはず。 それに藤原さんだって――もし本気でお母さんを敬ってるなら、最初から私をこんなふうに扱ったりしなかったわ」 バシッ! 乾いた音が響き、玲の頬に熱が走る。 あまりの衝撃に雪乃は青ざめ、動けなくなった。 しばらく耳鳴りが続いたあと、玲はゆっくりと我に返る――自分を打ったのは弘樹だった。 自分の母を罵倒した時には動かなかったくせに、綾を口にした途端、彼はためらいなく手をあげたのだ。 そのとき、威厳のある声が部屋に響いた。 「なんの騒ぎだ」 現れたのは高瀬家の当主、茂だった。 リビングにいた全員がはっと我に返る。自室で仕事をしていた彼が、騒ぎを聞きつけて姿を現したのだ。 もみあげには白いものが混じり始めていたが、その眼差しはなお鷹のように鋭く、場を一望する。 茂の面影を宿した弘樹の目にも、暗い影が落ちていた。 「お父さん、お騒がせしてすみません。今日のことは俺に任せてください。 玲……綾に免じて見逃してやろうと思ったが、どうやら罰を与えなければ懲りないようだ。 ならば、お父さんに報告するまでもない。 田中さん、鞭を取ってきてくれ」 弘樹の声に応じ、執事の田中(たなか)が腕ほどの太さもある棘の鞭を持ってくる。 高瀬家に古くから伝わる、過ちを犯した者に与える罰の象徴だった。 雪乃は思わず止めようとしたが、夫の鋭い視線に射すくめられ、言葉を飲み込むしかなかった。 代わって綾が、勝ち誇ったように笑みを浮かべ、玲に囁く。 「弘樹さんを責めないでね。あんた、私を侮辱したんだから当然よ。この痛みで思い知りなさい――これが、私に逆らった報いよ」 頬を腫らした玲は、その言葉を黙って聞いていたが、やがて口の端を吊り上げた。 「藤原さん……私が打ちのめされる姿を見たいのでしょうけど、ひとつ言い忘れていました。昔、あの方を助けた恩。返してもらうつもりはなかったけれど……気が変わりました」 その一言に、綾の顔色が一瞬にして変わる。 次の瞬間、重々しい靴音が響き渡り、空気が張りつめた。 皆が音のする方へ目を向ける。逆光の中、長身の影が姿を現す。 男の冷ややかに光る瞳は、まっすぐ玲を見つめていた。 光を受けて浮かび上がる深い彫りの顔立ちは、思わず息を呑むほどに美しい。どんな彫刻の名匠であっても、その端正で気高い気配までは彫り出せまい。 ただ立っているだけで、場の空気を一変させ、全員の呼吸を奪う――圧倒的な存在感。 彼こそ、首都の経済界を牛耳る藤原グループ現当主――藤原秀一だ。 玲は大きく息を吸い込み、真っすぐ彼のもとへ歩み寄ると、はっきりと言った。 「秀一さん……私を連れて行って」 第6話 「来なさい」 すらりと真っ直ぐに立つ秀一は、一瞬だけ瞳を揺らしたが、感情を見せることなく淡々と応じた。 高瀬家の玄関前に響いたその短い言葉だけで、張りつめていた空気がざわめきに変わる。けれど、長く胸を締めつけていた玲の心は、鳥がようやく巣へ戻るような安堵に包まれていた。 玲はすぐに秀一の後ろへ続き、家を出ようとする。 だがその前に、弘樹が素早く立ちふさがった。 「待て!……藤原さん。今日あなたがここに現れたのは、玲が呼んだからでしょう?」 秀一は立ち止まり、目を細めた。その表情は誰も読めない。 だが、普段なら決して高瀬家に足を運ばない男がここに現れた理由は、誰の目にも明らかだった――玲が助けを求めたのだ。 実際、雪乃が彼女を部屋から呼び出したあの時、玲はスマホに眠らせていた番号へと密かにSOSを送っていた。 玲は指先に力を込め、真っ直ぐ弘樹を見返す。 しかし弘樹は視線を合わせず、秀一に向かって言葉を続けた。 「藤原さん、あなたを呼び出すために、玲はきっと高瀬家のことを悪く言ったのでしょう。ですが、今日の件は彼女に非があります。どうか鵜呑みにされないでいただきたい……」 「つまり、君は彼女をここに残せと言うのか?」 秀一が低く問う。 「周りの人間すべてが彼女を責める中に置き去りにし、罰を受けさせろと?」 「そうです」 弘樹の声は低く、揺らぎがない。 「綾の靴を壊したのも、母に逆らったのも事実です。だから罰が必要なんです。ここで受け入れることで、彼女の今後の糧となるでしょう」 少し間を置き、言葉を続ける。 「藤原さん。昔、玲があなたを助けたことは承知しています。しかし今日の件は高瀬家の内輪の問題です。どうか、我々の面子を立てていただけると助かります」 確かに高瀬家は藤原家ほどの力は持たない。それでも首都で「四大」と称される名門の一つ。内輪の揉め事に他家が介入しないよう願うのは、決して無礼ではなかった。 だが、秀一の瞳は深海のように冷ややかだった。彼は弘樹に歩き寄る。 黒いスーツに包まれた秀一は、生まれつき感情に乏しいかのように見えるが、次に発せられた声には、明らかな嘲りが滲んでいた。 「高瀬。お前の家の面子を立てるほど、俺は暇じゃない」 突き放すようなその一言が、弘樹の仮面のような優雅さを一瞬で切り裂いた。 …… 結局、玲は秀一に連れられて家を出た。 残された人々の気分は最悪で、弘樹の手には血が滲んでいた。いつの間にか握りしめた鞭の棘が皮膚を裂いていたのだ。 それでも彼は包帯すら巻かず、鞭を捨てると父の元へ進む。 「お父さん、あの大人しかった玲が、こんなことをするとは思いませんでした。 けれどご安心を。綾を傷つけた以上、必ず償わせます。今日の罰は逃れられましたが、戻ってきたとき改めて処分するつもりです。これは綾へのけじめにもなるでしょう。 ……もっとも、玲が藤原を助けたのは一度きり。今日のような状況は二度と起こらないでしょう」 そのときの高瀬家の裁きは、当然高瀬家が下すものになる。 茂が秀一が去っていく方向を見つめ、瞳が鋭く光った。しばらくすると、彼は息子に向き直り、意味深な言葉を残す。 「弘樹……玲が素直に戻ると思うか?」 「はい」 弘樹は迷いなく答えた。 「今日の彼女はただ感情的になっているだけです。落ち着けば必ず帰ってきます」 何せこの家には彼女の母も、自分もいる。情を重んじる彼女なら必ず帰ると、弘樹は確信していた。 茂は納得したように頷く。 「よかろう。今の君の言葉をくれぐれも忘れるな。それから綾を慰めておいてくれ。お前はやがて彼女の夫になる、その心を汲み取るのも役目だ」 そして雪乃に視線を移し、柔らかく話しかけた。 「雪乃、実の娘だからといって、玲を庇わなかったこと……嬉しく思うよ。彼女を厳しくしつけることを、悪く思わないでくれ」 さっきの出来事でひどく落ち込んでいた雪乃だが、夫の優しい言葉を聞こえると、堪えていた涙を溢れさせ、夫の腕をぎゅっと掴んだ。 「悪く思うなんて……そんなことありません。悪いのは玲です。弘樹さんと藤原さんの大切な物を壊し、両家の婚約まで脅かすような真似をして……許されるはずがありません」 茂は彼女の手に自分の手を重ね、穏やかに慰める。 「そんなに怒らなくていい。玲が罰を受け、綾の気持ちも収まれば、この件は終わりだ」 夫に諭されると、雪乃は表情を整え、力強く頷いた。 「わかりました。すぐに電話して、玲を呼び戻します!」 そう言って、茂とともに二階へ戻っていった。 残された弘樹は、ウォークインクローゼットへ向かう。 玲と秀一が出て行った後、綾のために新しい靴を用意するよう家政婦へ命じていたのだ。 クローゼットに近づいたとき、物音がして、一足のハイヒールが足元に転がってきた。 有名ブランド「L」の春コレクションの新作――高価な一足が、まるでゴミのように放り捨てられている。 弘樹は宥めるように声をかけた。 「新しい靴、気に入らなかったのか?」 誇り高い綾が他人の靴を履くはずもなく、これは使用人に新しく買わせたものだ。 それでも綾の怒りは収まらず、弘樹を見るなり声を荒げる。 「こんなのじゃだめ!弘樹さんが買ってくれたわけでもないし、あの特別なガラスの靴でもない! ……全部玲のせいよ!あいつがいなければ、ガラスの靴が壊れなかった。秀一だってここに来ることがなかったのに!」 秀一が自分を空気のように無視した光景を思い出すと、綾の目はさらに憎しみに燃えた。 「私がいるってわかってて、あの落し子を呼び出すなんて……私への嫌がらせに決まってる!『自分にだって頼れる男がいる』って、そう見せつけたかったのよ!」 その言葉に、靴を拾おうとした弘樹の手の甲に青い血管が浮き上がる。 ――自分にも頼れる男がいる、だと。 体勢を戻した彼の瞳は、金縁の眼鏡の奥で冷たく光っていた。 「あいつに頼れる男なんていない。藤原は、ただ借りを返しただけだ」 だが綾はさらに毒を吐く。 「そうかしら?あの女、男に媚びることしか能がないのよ。 借りを返す?笑わせないで。汚い関係を隠すための言い訳なんじゃないの?」 弘樹は低く、しかし強い声で否定した。 「いや、玲は本当に、あいつを助けたことがあるんだ」 そう言って片膝をつき、新しい靴を綾の足にそっと履かせる。 「綾……今日は辛い思いをさせてしまって、すまなかった。明日、お前の望むままに付き合おう」 「ほんと?じゃあ、明日は私の秘書になって会社に来て!」 靴を履かせてもらうことで機嫌がよくなったか、綾は甘えるように笑い、弘樹に抱きつく。 弘樹は静かに頷き、抱かれるまま動かなかった。 機嫌が直ったものの、綾は追及の手を緩めない。 「でも玲のことは別よ。私を馬鹿にするなんて、絶対許さない!この私が頭を下げたのに、あんな態度されると……ムカつくに決まってるでしょ!」 「ああ、わかってる」 弘樹は短く答える。彼は綾の性格を熟知していた。先ほど父との約束を繰り返すように言う。 「玲が戻ったら、必ず償わせる」 「でも……あの女、ずる賢いもの。戻らなかったらどうするの?」 弘樹は迷いなく首を振り、目を細める。 「必ず戻る。あいつは、ここを離れられないんだ」 そう、玲は、自分の元へ戻るしか選択肢がない。 「……弘樹さん、今なんて?」 「なんでもない」微笑みを浮かべながら弘樹が答える。 「とにかく、玲が戻ってから考えよう」 「いや!私、待つのは苦手なの。とりあえず今日は仕返ししないと気が済まないわ」 綾は唇を尖らせ、やがて何かを思いついたように小悪魔の笑みを浮かべた。 「ねえ弘樹さん、私が何をしても……止めたりしないよね?」 第7話 気がつけば空はどんよりと暮れはじめ、夜が街を覆っていた。 静まり返った車内で、玲は助手席に座り、秀一と共に高瀬家を後にした。 月の光が車の窓から差し込み、秀一の横顔を淡く照らす。その冷たい光が彼の持つ鋭さを際立たせ、どこか近寄りがたい雰囲気をまとわせた。 さっきまで高瀬家で強気を張っていた玲も、いつもの大人しさを取り戻し、礼儀正しく秀一に声をかける。 「あの……藤原さん、今日はありがとうございました」 先ほど大勢の前では思わず「秀一さん」と呼んでしまったが、冷静になって考えればあまりにも無礼だ。彼は弘樹と同じ、玲より六歳も年上で、しかも立場もある人間。軽々しく下の名前で呼んでいい相手ではない。 ハンドルを握る秀一の眉がわずかに動いた。玲の呼び方の変化に気づいたらしい。彼は短く視線を寄越したが、言葉はなかった。だがその沈黙が、かえって車内の空気を重くする。 自分の感謝に誠意が足りなかったと思い、玲は焦って言葉を継いだ。 「その……急に連絡してしまってすみません。もしかしたら大事なお仕事中だったかもしれないのに、勝手に頼ってしまって…… でも、もう二度と迷惑はかけません。今日が最後です。これから何があっても、絶対連絡したりしませんから」 玲は欲深い人間ではない。今回のことで借りを返してもらえたと思い、スマホを取り出して秀一の番号を削除しようとする。 そのとき、車が不意に停まった。 身じろぎした玲の耳に、低く落ち着いた声が落ちてきた。 「足と顔をどうした?高瀬に何をされたのか?」 ――足と顔? その言葉に意識を向けた途端、無理に忘れようとしていた痛みが一気に蘇った。 包帯で覆った足は血に染まり、唇は腫れてひりついている。 「足はこの前、ギャラリーで転んだんです。顔は……弘樹さんに、殴られて」 言葉にした瞬間、車内の空気が張り詰めた。秀一が横目で彼女を射抜くように見る。 白く繊細な肌に浮かぶ腫れ。血の気を失った顔――今の彼女は、触れれば砕けてしまいそうな人形のようだった。 「理由は?君は高瀬と付き合っているはずだが」 「っ……!」玲の耳が熱くなる。 衝撃で反応が遅れたが、慌てて声を上げる。 「ど、どうしてそれを……」 弘樹との関係は、ごく親しい友人にしか話していない。仕事で忙しい秀一が、知っているはずがないと思っていた。 秀一は前を向き直る。 「一度、俺を助けてくれた恩人だ。君の近況について、たまに情報が入る」 つまり、偶然の延長で、彼は彼女と弘樹の関係を知ったにすぎない。 玲は呆然としながら頷いた。たった一度助けただけの相手に、ここまで注目されていたとは夢にも思わなかった。 だが同時に、今日の出来事を知られてしまったことが、どうしようもなく恥ずかしかった。 三年も尽くしてきた相手が、他の女のために自分を殴るなんて…… だが冷静に考えれば、弘樹と綾の婚約は両家の利害だけではなく、もともと二人の気持ちが結びついていたのかもしれない。 玲ははっきり覚えている。庭を案内していたとき、綾は「仕事がきっかけで弘樹が好きになった」と微笑んで語っていた。 思い返せば、一年前。弘樹が高瀬グループの部長に昇進した日。 綾は彼を驚かせようと、一日がかりで料理を用意し、家で待っていた。だが退勤時刻が近づいた頃、弘樹は「忙しいから帰れない」と告げたのだ。 がっかりしながらも、玲はそれに慣れていた。ワインを飲みながら料理を口にし、次のサプライズを考えようと気持ちを切り替えていた。 けれどあの夜。ゴミを捨てに出たとき、月明かりの下で弘樹が細い影を抱き寄せている姿を見てしまった。 その女性は背伸びして彼に口づけようとし、弘樹は動かなかったが、それでも拒まず受け入れていた。 手にしていたゴミ袋が、鈍い音を立てて地面に落ちる。その気配に弘樹の肩が震えたが、玲が駆け寄ったときには、あの小さな影はもう消えていた。 「さっきの相手は誰?」と問うと、弘樹は玲の頭を撫で、柔らかな声で答えた。 「ただの同僚だよ。送ってくれただけで、挨拶して帰った。お前、飲みすぎて見間違えたんだろ」 酒で頭がぼんやりしていた玲は、幼い頃から彼を信じてきたこともあり、その言葉にすがりついた。本当に見間違えたのだと、自分を納得させた。 玲は疑わなかった。一番優しい弘樹が、裏切るはずがないと。 けれど実際には、あの瞬間から弘樹は玲を傷つけ始め、自らも堕ちていったのだ。裏切りには必ず兆しがある。 それでも玲は毒を蜜だと信じて飲み続け、血を流し、涙を流し、ついにはボロボロになった。 思い出の中から意識を戻し、玲は潤んだ瞳で秀一を見る。 「私と弘樹さんは……もう別れたんです」 「……本当か?」 秀一の声は深く、瞳は底の見えない海のようだった。 数分の沈黙ののち、彼はゆっくりと言葉を継いだ。 「綾と高瀬の婚約は、まだ三か月先だ。止めたければ間に合う」 確かにそうだ。両家の婚約は、弘樹と綾の意志だけで決まることではない。 秀一は綾の腹違いの兄にして、藤原家の本当の当主。 玲は八歳から高瀬家で暮らし、心の底から弘樹を愛してきた。だからこそ、認められなくても三年も彼と関係を続けてこられたのだ。 秀一には、この大切な恋を彼女がそう簡単に手放すとは思えなかった。 だが玲は小さく首を振り、微笑みさえ浮かべる。 「今日、高瀬家で騒ぎを起こしたのは、ただ頭に血が上っただけだと思われるかもしれません。でも、もう十分考えました。 私は弘樹さんを愛していたから、たくさん我慢してきました。でも今回、はっきりわかったんです。片方だけが必死にしがみつく恋なんて、意味がないって。 だから潔く終わりにします。弘樹さんとの関係は、もう完全に終わったんです」 恋だろうと家族だろうと……求められないなら、自ら手放すまで。 秀一に婚約を止めてもらう必要など、どこにもない。 玲は真剣な面持ちで続けた。 「藤原さん。私と高瀬家のことは、簡単に片付けられるものではありません。今日こうして私を連れ出してくださっただけで、十分恩を返していただきました。だから、どうか私のために、ご自身を巻き込んだりしないでください」 そもそも、子供の頃、玲が秀一を助けたのも、ほんの偶然にすぎなかったのだから。 第8話 玲が弘樹と初めて出会ったのは八歳のとき。そして秀一に初めて会ったのも、同じ年齢だった。 ただ、その頃の秀一は、今のように遠い存在ではなかった。 十五歳の秀一は、藤原家の嫡男ではあったが、幼い頃に誘拐され、七年ものあいだ行方不明だった。ようやく家に戻ったものの、周囲の環境はすっかり変わり果てていて、立場は決して楽ではなかった。 玲が川辺で泥をこっそり掘り、泥人形を作って遊んでいたときのこと。彼女は、腹違いの弟に秀一がいじめられている場面を目撃してしまった。 あのタチの悪い子は取り巻きを引き連れ、秀一の首にかかっていた観音の首飾りを力任せに引きちぎると、ためらいもなく川に投げ捨てた。それだけでは飽き足らず、秀一を殴りつけ、全身傷だらけにしてから得意げに立ち去った。 その場に残された秀一は、立ち上がるのもやっとの状態だったのに、よろめきながら川へと駆け込み、腰まで水に浸かりながら首飾りを必死に探していた。目は真っ赤に充血し、必死さが痛々しかった。 季節は晩秋。冬ほどではないにせよ、川の水は骨身にしみる冷たさだ。本来なら見て見ぬふりをするのが普通だったのかもしれない。だが、玲は気づけば駆け出しており、川へ飛び込んで彼と一緒に首飾りを探していた。 思いがけず現れた彼女に、傷だらけの少年は驚いたように一瞬だけ固まった。しかし一言も声をかけない。どうせすぐに諦めて帰るだろうとでも思っていたのだろう。 だが、玲は水が肩までくる深さの中で、三時間近くも探し続けた。 流れは次第に速くなり、水温も下がっていく。小さな首飾りは泥に沈み、見つかる気配すらない。玲の唇は紫色に変わり、体は震え、感覚が薄れていった。 それでも、奇跡は起こった。ようやく泥の中から首飾りを見つけたとき、玲は心の底から「やった!」と思った。 だが長時間の冷水で脚が痙攣し、岸に戻れなくなってしまった。結局、秀一に抱き上げられて岸まで運ばれ、溺れる最悪の事態だけは免れた。 夕闇の中、首飾りを握りしめて笑う玲を見たときの秀一の目は、先ほどまでいじめられていた時よりもさらに赤く染まっていた。あのとき、彼は玲に「一つ借りを作った」と言ったのだ。 玲にしてみれば、大したことをしたつもりはない。勝手に助けただけで、秀一から頼まれたわけでもない。だからその後の十数年、彼が落ちぶれていようが、一気にのし上がろうが、その借りを盾にする気はなかった。 ――少なくとも今日までは。 だが、弘樹と綾の件で追い詰められた彼女は、とうとうその借りを持ち出してしまったのだ。 「でも……これが最後です」 玲ははっきりと言った。 「私はもう弘樹さんと別れたんです。明日、彼が藤原さんと婚約しようと、三か月後に婚約しようと、それはもう二人の問題で、私には関係ありません」 「そうか……じゃあ、その先に結婚しても、君は平気なんだな?」 秀一の黒い瞳が、深く玲を射抜くように見つめていた。 玲は一瞬ためらった。その質問の意味を理解したからだ。 婚約はまだ解消できる。しかし結婚してしまえば、綾は本物の「高瀬家の妻」となる。そこからはもう後戻りできない。 だが―― 「ええ、それも二人のことです」 玲は静かに微笑んだ。 「だいたい、婚約する時点で結婚は前提です。どちらにしろ同じことだと思います」 弘樹が選んだのは綾との政略結婚だ。その時点で、婚約解消などあり得ない。むしろ玲は、綾が一日も早く「高瀬家の妻」になればいいとすら思っていた。 あれほど我の強い女だ。婚前ですら弘樹に執着しているのだから、結婚後はさらに苛烈になるだろう。 綾と雪乃の関係もこじれるに違いない。実の娘を裏切るまで雪乃が綾を庇っていたけれど、綾の性格では、嫁姑の騒動は火を見るより明らかだ。 ――それならそれで、傍から見ている分には面白いと、玲は思った。 秀一は長く玲を見つめ、ようやく小さく頷いた。 「……そう思えるなら、いいことだ」 「ええ」 自分の覚悟を褒めていると察し、玲は感謝を込めて言った。 「今日は助けていただいて、本当にありがとうございました。これで失礼します」 「待て」 その低い声に、どこか不思議な響きを帯びていた。 「高瀬さん、今日高瀬家で起きたことは詳しく知らないが、あの日、君が首飾りを見つけてくれたこと……あれは君が思っている以上に、俺にとって大きな出来事だった。だから今日、君を高瀬家から連れ出したくらいじゃ、とても借りを返したことにはならない」 「……え?」 玲は目を丸くした。借りが消えていない? それならまた頼んでもいいということ?しかも返せたかどうかの判断は秀一次第? 「で、でも……それじゃ私が得しすぎじゃないですか?」 「そんなことはない」 秀一は淡々と、けれど目だけは逸らさずに言った。 「十五のとき、俺が自分の電話番号を渡したのは、いつでも頼っていいという意味もあった。もし本当に借りを清算したいなら、次はもっと大きなことを頼め」 玲は思わず目を見開いた。その言葉の奥に、説明できない奇妙な響きを感じたのだ。 だがそのとき、秀一のスマホが鳴り、重要な連絡が入ったようだ。 玲はすぐに気持ちを切り替え、邪魔しないよう車を降りた。 秀一も多くを言わず、車を運転して去っていった。 残された玲は、自分の怪我の足を見下ろし、途方に暮れる。今の自分、どこに行けばいいのだろう――そう思った矢先。 車輪の音が近づき、スーツ姿の中年男性が車椅子を押して現れた。その目はなぜかキラキラとしている。 「高瀬さんですね。お迎えにあがりました。私はロイヤルホテルの支配人です。お部屋の準備ができていますので、ご案内させてください」 「えっ……?」 玲は驚いた。気づけば、今いる場所はロイヤルホテルの前だった。ここは、弘樹が綾にガラスの靴を贈るため貸し切った、都内でも指折りの高級ホテルだ。 「でも……私、予約なんてしてません。それに、本人確認書類とかも持ってなくて……」 「ご安心ください」 支配人はにこやかに答え、彼女を車椅子に座らせた。 「こちらは藤原社長の常宿のスイートですので、本人確認などは不要とのご指示をいただいております。本来なら社長ご本人が直接ご案内したかったのですが、本日は早朝から海外との重要な会議があり、急いで戻らねばならなかったのです。そのため、私がお迎えに参りました」 ――ということは、玲が助けを求めたとき、秀一は国際会議の最中だったということだ。 それでも十五分で駆けつけ、高瀬家から自分を救い出した。 車椅子に身を預けながら、玲は思わず胸の奥で呟く―― 人は見かけで判断しちゃいけない。もし誰かが「藤原秀一は冷たくて非情だ」と言ったら、絶対に反論してやると。 第9話 月明かりが枝先にやわらかく降りそそぎ、夜は静けさを増していた。 その頃、秀一が藤原グループ本社に戻ると、会議室はすでに空っぽになっており、ただ一人、椅子にふんぞり返ってスマホゲームをしている男がいた。 水沢友也(みずさわ ともや)だった。 秀一の姿を見つけると、友也はようやくゲームを閉じて、にやにやしながら声をかけた。 「やれやれ、やっとお戻りか。国際会議の真っ最中に突然席を立つなんて前代未聞だぞ。俺がいなかったら数十億の契約がパーになってたからな? ……で、一体何があったんだ?お前が仕事を放り出すなんて、初めて見たぞ」 秀一は無言で上座に腰を下ろし、こめかみを揉みながら短く答えた。 「玲が困ってたんだ」 そして淡々と、今日起きた出来事を語った。 「弘樹と綾は婚約したが、綾は以前から玲と弘樹の関係を探り当てていた。だから今日、高瀬家に現れ、あのガラスの靴を利用して玲を陥れ、玲の母親まで含めて家族全員を玲に敵対させたんだ。 結果、玲はすべてに絶望し、弘樹との縁を切ることになった」 秀一が間に合わなければ、玲は今ごろひどい処罰に遭っていたのだろう。 友也は頭を抱えるようにして絶句した。 「……お前、いつそんなことまで調べ上げたんだよ。情報量が多すぎて頭が追いつかねえ……」 友也もまた「四大」と呼ばれる名門の跡取りとして、高瀬家の事情は耳にしていた。だが秀一と兄弟分になって初めて、玲と弘樹の関係を知ったのだ。 玲は十三年もの間、ひたむきに弘樹を想い続けてきた。少女の初恋も青春も、すべて弘樹に捧げ、他の男など目に入らなかった。 そんな彼女が、一生弘樹から離れられないだろうと友也は思ったが、まさか心を折られたとは。 とはいえ、友也のような適当な男でも、玲の気持ちは理解できていた。 母親は自分より高瀬家を選び、愛した男は他の女と婚約して、その女と一緒に自分を追い詰めてくる。そんな状況、誰だって耐えられない。 もしそれでも、玲が高瀬家に居続けるというのなら、彼女を誘拐してでも連れ出すに違いない。 そこまで考え、友也は秀一に問いかける。 「あの嬢さんを連れ出したなら、なぜ側にいないんだ?今ごろ一人で泣いてるんじゃねえのか」 秀一の瞳がすっと細められる。 「……あいつは俺の前じゃ泣かない」 それだけ言うと、まっすぐ友也を見た。 「雨音さんの電話番号を教えろ」 玲はことあるごとに他人を頼るような人間じゃない。だから代わりに彼が動くしかないのだ。 「はあ?」友也は即座にスマホを抱え込んだ。「あいつに何の用だ?俺たちの仲じゃ、お前が連絡するってことは、俺が連絡したと同然だろ?あの嫌な女と関わるなんて、絶対にごめんだ!」 雨音は名目上、彼の妻だ。だが強制された結婚を認める気は毛頭なかった。 「……番号を渡さなくても、俺はいずれ手に入れる。信じるかどうかはお前次第だが」 秀一の低い声が、冷ややかに響いた。 「……っ!」友也は口をつぐんだ。信じるからだ。 何せ、秀一が欲したものを手に入れられなかった例など、一度もない。たかが電話番号なら、尚更だ。 結局、友也は観念して、一瞥するだけでイラつく番号を送信する。 ほどなく秀一は雨音に電話をかけ、短いやり取りのあとすぐに切った。相手は慌ただしく動き出したらしい。 友也は天を仰いでため息をつき、それでも気になって尋ねる。 「なあ……高瀬さんが昔お前のために見つけたっていう首飾りって、そんなに特別なもんなのか?だから俺を裏切ってまで雨音に頼る気になったのか?」 秀一はしばし黙り、窓の外の月を仰いだ。その目は遠い過去の川の水面を見つめるかのようだった。 やがて低くつぶやく。 「……母が遺した、唯一の形見だ」 友也は一瞬息をのんだ。幼い頃に秀一が誘拐され、悲しみに暮れて亡くなった彼の母。その背景を思えば、軽口を叩く気にもなれなかった。 「……そういうことか。じゃあ仕方ねえな。高瀬さんがそんな大事なもんを取り戻してくれたんじゃ、そりゃ恩義も深いわ。俺だったら一生離さねえ」 秀一は答えず、ただもう一度スマホを手に取り、別の番号を押した。 …… その頃、玲はホテルのスイートにいた。有能な支配人の手配で、車椅子に乗ったまま快適に部屋へ案内される。 秀一が泊まっていた部屋だけあって、そこは想像を超える優雅な空間だった。広いリビングに、月光を取り込む大きな窓。 さらに玲を驚かせたのは、すぐに医師がやって来たことだ。 「高瀬さん、こちらは藤原社長の専属医師です。怪我の処置を任せてください」 玲の足も顔も、医師の診察が必要な状態だった。 足の傷は何度も裂けてしまい、このままでは後遺症が残る恐れがある。きちんとした処置が欠かせない。 顔のほうは、弘樹に全力で殴られた衝撃が耳まで響いていた。精密検査を急がなければ、聴力に障害が残ってからでは手遅れになる。 秀一が車内で彼女の怪我について聞いたとき、玲は軽い気遣いだけとして受け止めていた。だが彼はすでに、彼女の怪我を細かく気にかけ、医師まで手配していたのだ。 「……藤原さん、本当に……優しい人」 堪えきれず、胸が熱くなった。 「耳も怪我してることまで気づいてくださるなんて」 支配人が微笑んで言葉を添える。 「社長は常に周囲をよく見ていらっしゃいますから」 しかし次の瞬間、ふと声の調子を落とした。 「……もっとも、それは社長自身が慣れてしまったからかもしれませんが」 「それは……どういう意味ですか?もしかして藤原さんもよく怪我を?」 玲は目を見開いた。 「今はお怪我はされていませんが、社長は昔から継母、つまり現在の奥様にずっと目を付けられてきたんです。表向きは慈愛に満ちた母親の顔をしていても、裏ではことあるごとに彼を傷つけてきました……身体中に残っている古傷の数、きっとご本人しか知りません」 現在の奥様。名前は藤原美穂(ふじわら みほ)で、綾の実母だ。 秀一が攫われ、元の藤原夫人、紀子(のりこ)が亡くなったあと、後妻として藤原家に嫁いだが、紀子の親友だったらしい。 新しい藤原夫人になった後、すぐ男女二人の子をもうけた。その後秀一が戻り、再び藤原家の嫡男となったが、美穂は彼をよくしていたと聞く。だから首都では、完璧な母として讃えられているのだ。 しかしまさか、そんな彼女が、裏で秀一を疎み続けていたとは。 やはり「人は見かけで判断しちゃいけない」と、玲はますますそう思った。 「今では藤原さんは藤原グループのトップですよね?それでもまだそんなことが?」 玲の問いに、支配人は小さく首を振った。 「はぁ、権力を持った今でも、奥様は諦めていません。社長の縁談にまで口を出そうとしているんです。自分が選んだ女性を押し付けて支配するためにね。 ですが、社長は決して靡かない。潔癖なまでに、誰も側に置こうとしないんです」 支配人は彼女をじっと見て、静かに続けた。 「もし社長に心から寄り添う人が現れて、早く結婚してくだされば……奥様も手出しできなくなるのですが」 第10話 支配人は、まるでスイッチが入ったかのように饒舌になった。 「高瀬さん、社長はね、見た目は冷たそうに見えるけど、実際はとても情に厚い方なんです。結婚すれば、奥さんを誰より大切にして、守ってくださいます。他人にいじめられるなんて、絶対にありません。 それにね、あの綾さんだって、社長の前では牙を引っ込めて大人しくなるんですから」 調子に乗った支配人はさらに言葉を畳みかける。 「もっと言えばですよ?社長の奥様になれば、『高瀬弘樹のお義姉さん』という立場にもなるわけです。もし彼とトラブルがあったら、堂々と仕返しができますし、絶対に反撃なんてされません」 ――確かに。弘樹は首都では揺るがぬ存在。だが秀一を後ろ盾にできれば、立場は一気に跳ね上がり、これまで弘樹や綾に受けた屈辱を、すべてまとめて返せるだろう。 そう考えるだけで、唇の端がつい吊り上がりそうになる。 だが、玲にはそんな未来を思い描くことすらできなかった。 自分と弘樹の間にさえ大きな隔たりがあったのに、秀一の妻になるなど、あり得ない話だ。 秀一は優しい人だ。きっといつか、彼にふさわしい女性と結ばれるだろう。それが自分でないことは、最初から分かっている。 玲は真剣に頷き、支配人に穏やかに微笑んだ。 「おっしゃる通りです。藤原さんのお嫁さんになる女性は、きっと幸せでしょうね。そのときは、私もぜひご祝儀を包ませていただきます」 「……」 支配人は一瞬、言葉を失い、微妙な表情を浮かべた。 そして、玲の怪我の手当てが終わると、医者とともに気まずそうに部屋を出ていった。 玲は少し戸惑っていたが、部屋に静けさが戻ると同時に、張りつめていた気力が一気に切れ、どっと疲れが押し寄せてきた。 ベッドに腰を下ろすと、着替える余力もなく、そのまま仰向けに倒れ込む。 腰のあたりに硬い感触を覚え、ポケットからスマホを取り出すと、誤操作でアルバムが開いてしまった。 そこには弘樹と過ごした三年間の、秘密の恋の記録が収められている。 二人の関係は人に知られることはほとんどなかったが、普通の恋人たちのように、二人で撮った写真は数えきれないほどある。 その中でも、玲がひときわ大切にしていたのは、交際一周年の記念日に撮った一枚だ。 あの日は、小さな陶芸教室を訪ね、互いの人形を作ろうとした。 幼いころから土に親しんできた玲は手際よく形を整えたが、弘樹は不器用で、泥まみれになりながら悪戦苦闘していた。 それでも、必死な彼の姿が玲にはひどく愛おしかった。 こっそりシャッターを切ろうとした瞬間、気付いた弘樹に抱き寄せられ、彼の膝の上でツーショットを撮ったのだ。 弘樹のおふざけで、顔が泥まみれになった玲が困ったように笑い、普段は穏やかな雰囲気を纏う弘樹も太陽のように朗らかに笑っている。 玲はその写真を「私の光」と名付け、大切に保存してきた。 十三年前、初めて出会ったときから、弘樹は彼女の人生を照らす光だったからだ。 だが今、その光は影に変わり、彼女を押し潰している。 写真を眺めながら削除しようかと迷っていると、不意にプッシュ通知が届いた。綾のSNSからの新しい投稿だ。 綾は頻繁に発信をしていて、そこそこのフォロワーを抱えている。 投稿されたのは、有名ブランドLの春コレクションのハイヒールを履き、ポーズをとる綾の写真だった。 靴は確かに美しかった。だが、その足元には、無惨に砕かれた小さな泥人形があった。 添えられた文章にはこうだ。 【弘樹さんが買ってくれた靴。可愛いって褒めてくれた。みんなも褒めて!】 フォロワーたちの羨望が次々とコメントに並ぶ。 【うわあ、昨日はガラスの靴、今日は有名ブランド!さすが綾様、愛されてるね!】 【綾ちゃん可愛い!羨ましい!こんなに大事にされる彼女なんて初めて見た!】 【……でも背景のあれ何?床に落ちてるの、人形のかけらっぽいけど?】 綾は、そのコメントにだけ返した。 【ただのゴミよ。使用人が片付け忘れただけ】 玲は画面を閉じた。 綾が踏みつけていたのは、交際記念日に弘樹と作った小さな人形だった。 玲はそれを何年も大切に保管してきた。乾燥や湿気に気を配りながら。 それが今、見つけられ、粉々に砕かれ、見せしめのように足蹴にされている。 弘樹との写真を記念に残すべきか、そう迷っていた玲の心は、その瞬間、完全に決まった。 彼女はアルバムを開き直し、冷たい指先で「私の光」を削除した。クラウドのバックアップも含めて、すべて。 さらに三年間のすべての写真を、一枚残らず消し去った。 最初から、その恋が存在しなかったかのように。 そもそも二人の関係は秘密だった。 弘樹の望み通り、外でのデートもなく、映画も観ず、贈り物ひとつなかった。 だから写真が消えれば、思い出もまた跡形もなく消えていく。 ちょうどそのとき、雪乃から電話が入った。 かつてなら、どんな状況でもすぐに出た。たとえ入浴中で両手が泡まみれでも――母からの急用かもしれないと気を遣って。 だが今は違う。出たところで、そこにあるのは叱責と命令だけ。玲にはそれがわかっていた。 彼女は通話を切り、そのまま着信拒否に設定した。 今日からは、もう誰にも振り回されない。 他人を自分より優先することもしない。 家族だろうと恋人だろうと、自分より大事な人間はいない。 すべての操作を済ませて深く息を吐いたそのとき、突然、部屋の扉が激しく叩かれた。 ドンドンドン! 次の瞬間、電子ロックも解除され、扉が勢いよく開く。 玲は驚き、ベッドから跳ね上がって扉を見た。そして入ってきた人物を認め、さらに目を見張った。 「……雨音ちゃん?どうしてここがわかったの?」 「よくそんな顔で私に聞けるわね!」 怒鳴りながら飛び込んできた雨音の目は、真っ赤に腫れていた。そのまま勢いよく抱きしめられる。 「この馬鹿!何かあったらすぐ私に連絡しなさい!心配で死ぬかと思ったんだから!」 秀一からすべてを聞かされた雨音は、ここに来るまでの道中ずっと、弘樹を罵りながら泣き続けていたのだ。 玲は声を失っていた。だが、親友の腕に包まれた瞬間、こらえ続けた感情がついに決壊し、子どものように泣きじゃくるしかなかった。 …… そのころ、秀一は会社から自宅の別荘へと戻っていた。 静まり返った部屋でネクタイを緩めたところに、一本の電話がかかる。彼は通話に応じ、スマホをテーブルに置く。 「……頼んでいた件、ちゃんと済ませたか?」