Đang tải thông tin quảng bá...
父と子は元カノしか愛せない?私が離婚したら、なんで二人とも発狂した?
紗夜は文翔を十年間密かに想い続け、彼との結婚を「念願叶った」と信じていた。 たとえ彼が冷たい鉄塊のような男でも、自分の愛で少しずつ温め...
Chương (1)
第1章
紗夜は文翔を十年間密かに想い続け、彼との結婚を「念願叶った」と信じていた。
たとえ彼が冷たい鉄塊のような男でも、自分の愛で少しずつ温められると思っていた。
しかし、現実は彼の冷たい視線と無関心しか返ってこなかった。
彼は元カノにはとことん優しく接するのに、紗夜にはまるで捨てられたゴミのように冷たく、疎ましく、蔑むような扱いをした。
それでも紗夜は全てを耐えてきた。
二人の間にはひとりの息子がいたからだ。
息子のために、愛のない結婚という牢獄に身を閉じ込め、「長沢奥様」の肩書きを守ることを選んだ。
だが、彼女が誘拐された夜、文翔は彩の傍にいて一晩中帰って来なかった。
さらに、彼女が何よりも愛していた息子までが彼女を捨て、彩を「本当の母親」だと言い出したのだ。
紗夜はその瞬間、やっと悟った。
冷えきった夫も、心の通わぬ息子も、もう要らない。
これからは自分のために生きる、と。
離婚後、紗夜はかつての夢だったフラワーデザインの道を再び歩み始め、起業して大金を稼ぎ、数々の賞を総なめにした。
恋愛は花を育てるようなもの、自分自身をもう一度鮮やかに咲かせるために、彼女は日々を生きていた。
そんな彼女の元には男たちが群がり始め、焦った元夫・文翔は目を赤くして土下座しながら懇願した。
「紗夜、愛してる......頼む、離れないでくれ......」
紗夜は冷たく笑った。
「長沢さん、もう遅いのよ」
息子が彼女の脚にすがって泣いた。
「ママ、僕を捨てないで!」
彼女は無表情のまま彼を振り払い、言った。
「ママなんて呼ばないで。私はあんたの母親じゃないわ」
第1話
深水紗夜(ふかみ さや)は思っていた。
十年の片思い、五年の結婚。
たとえ氷のように冷たい鉄の心でも、自分が少しずつ温めればいつか変わるはずだと。
でもそれは、結局すべて彼女ひとりの思い込みに過ぎなかったのだ。
浴室からはシャワーの音が聞こえていた。
紗夜はベッドのそばに立ち、ふとスマホに届いた一枚の写真を見る。
それは、京浜(きょうはま)でも最高級と言われる西洋レストラン。
テーブル越しに向かい合って座る長沢文翔(ながざわ ふみと)と一人の女性。
柔らかな光の中で、彼の目元は優しく穏やかだった。
紗夜はその女性を知っていた。
竹内彩(たけうち あや)――文翔の元恋人だ。
彼女は先月、海外から戻ってきたばかり。
その夜、文翔は紗夜を放り出し、彼女に会いに行っていた。
文翔にとって彩は、忘れられない存在。
そして紗夜は、真っ白な壁に不意に現れた、目障りなシミのような存在。
浴室のドアが開き、文翔がバスローブ姿で現れた。
湿った蒸気が彼の背後に立ちのぼる。
紗夜はスマホを置き、振り向こうとしたその瞬間、彼の高くて細身の体がすぐ背後に迫っていた。
彼は彼女の顎をつかみ、顔を覗き込む。
「んっ......」
紗夜は眉をしかめたが、文翔は力を緩めない。
むしろ、彼女が苦しむ顔を見ると満足そうに唇を奪い、顎を握りしめ、腰を掴んでベッドへと押し倒した。
「ちょっと......」
紗夜は胸に手を当てて制止した。
「今日は......体調が悪いの......」
夕食の後から、胃が痛み出していた。
だが文翔は、彼女の言葉にただ鼻で笑った。
「お前は五年前から俺に付きまとってきたよな。今さら清純ぶる演技でも始めたのか?」
その口調には、あからさまな嘲りがにじんでいた。
紗夜の顔がサッと青ざめる。
「そんなこと、してない――」
だが言葉の途中で、文翔は容赦なく彼女をベッドに投げつけた。
優しさなど一片もなく、愛も思いやりもなく、ただ欲望だけがぶつけられた。
紗夜は痛みに眉を寄せ、唇を噛みしめて耐えるしかなかった。
表面上は禁欲的で上品に見える彼だが、彼女に対しては一切の思いやりを見せず、まるで憎んでいるような態度を取っていた。
紗夜は耐えながら、その美しく整った顔を見つめた。
まるで神が自ら彫刻したような完璧な容貌。
なのに、その顔には冷たい表情しかなく、どんな時であっても優しさはなかった。
でも彼女は、見てしまったのだ。
写真の中で彩を見つめる彼の、あの優しい眼差しを。
彼にも、あんな優しい一面がある。
ただ、その優しさは自分に向けるものではなかっただけだった。
震えるような一瞬。
本来ならば、満たされたその感覚は優しさであるべきなのに、紗夜の心の中には、水を吸って膨れ上がったスポンジのような何かが詰まっていて、今にも息が詰まりそうだった。
目尻から、涙がひとしずく、零れ落ちる。
「泣くな」
文翔は彼女の涙を指で拭い去り、身体を離すと、後処理を済ませ、一箱の薬を紗夜の前に差し出した。
紗夜は布団を引き寄せて身を起こし、無言で薬を受け取った。
避妊をしていたはずだが、それでも彼は慎重すぎるほど慎重だった。
というのも、五年前、彼女はあの「事故」の夜に妊娠してしまい、そのことがきっかけで家族の手配によって彼との結婚が決まったのだった。
文翔との結婚は表には出されなかったが、そのせいで彩が傷つき、海外へと去ったことは事実だった。
だから文翔は、きっと紗夜を憎んでいるのだろう。
でなければ、あんなにも毎回彼女を壊すような行為をとるわけがない。
目の前の薬を見つめるだけで、紗夜の胃に鈍い痛みが走った。
「......飲まなきゃいけないの?」
文翔は何も言わず、一杯の水を差し出した。
それだけで十分だった。
紗夜は唇を噛み、水を受け取って薬を飲み込んだ。
ちょうどその時、文翔のスマホが鳴った。
「ああ、今行く」
彼の声が少し柔らかくなり、手近の上着を手に取った。
こんな夜更けに彼を呼び出し、そして彼があんな声で応じる相手など、紗夜には彩以外に思い当たる人物はいなかった。
それでも、つい口をついて出た。
「こんな遅くに、どこ行くの?」
「お前には関係ない」
それだけ言い捨てて、文翔は振り返りもせずに寝室を出て行った。
紗夜は、彼の背中を見送った。
階段のオレンジ色の明かりの中で、その背はだんだん遠ざかっていった。
紗夜はまぶたを伏せ、瞳の奥に寂しげな色が揺れた。
薬のせいなのか、胃の痙攣がまた始まっていた。
彼女はベッドに横たわり、身体を小さく丸める。
数分後、部屋のドアがノックされ、使用人が声をかけてきた。
「奥様、本日ご主人様と若様がお着替えになったお洋服はすでに洗濯室に持っていきました。今お洗濯いたしましょうか、それとも明日にいたしますか?」
胃を押さえながらしばらくじっとしていた紗夜は、ようやく身体を起こして答えた。
「......今やるよ」
明日には明日の用事がある。
文翔は他人に自分の下着類を触られるのを嫌う。
だから彼のシャツはすべて紗夜が手洗いしていた。
息子もまた、小さい頃からホコリにアレルギーがあり、衣類には特別気を遣っていた。
使用人に任せるのも心配で、彼の部屋の掃除も文具の整理も、毎日欠かさず彼女自身が行っていた。
紗夜が体調の悪い体を引きずりながら洗濯室へ行くと、中から使用人たちのひそひそ声が聞こえてきた。
「服まで自分で洗ってるなんて、あの「長沢奥様」が?ただの家政婦じゃない?」
「しっ!そんなこと言ったら、クビにされるよ」
「でも、事実でしょ......」
そのとき洗濯室のドアが開き、使用人たちは紗夜が立っているのを見て、青ざめて硬直した。
「お、奥様......」
震える声に、紗夜は穏やかに言った。
「ここは私がやるから、大丈夫よ」
「は、はいっ」
使用人たちはすぐに逃げるようにその場を離れた。
彼女たちが去ると、紗夜の目元に浮かんでいた微笑みがすっと消え、まぶたを伏せて、文翔の衣類が入ったカゴの前に歩み寄る。
手に取ったシャツからは、かすかなバラの香水の匂いが残っていた。
香り高く、誘惑的なその匂いは、紗夜が日頃絶対に身につけない種類のものだった。
長沢家の花を日々管理している彼女は、香りが混ざるのを防ぐために、強い香水は一切つけない。
つまり、この香りは彩のものだ。
近い距離でなければ、相手の香りが服に移らない。
紗夜の指先が微かに震えた。
深く息を吐いて、気持ちを落ち着ける。
文翔には愛されていない。
でも彼女には、息子がいる。
たとえ夫に愛がなくとも、母と子の間には血の繋がりがある。
それが唯一の救いだった。
だからこそ、紗夜は「長沢奥様」としての役割を果たし続ける。
息子を、正々堂々と長沢家の後継者にするために。
だが、息子の衣類を手に取った瞬間、胃の中が急にかき回されるように苦しくなった。
「っ......!」
紗夜は口を押さえ、洗面所に駆け込み、便器に向かって夕食をすべて吐き出した。
吐けば少しは楽になるかと思っていたが、次々と押し寄せる激痛に、意識が遠のきそうになる。
彼女は最後の力を振り絞って、洗面台のガラス容器を突き落とした。
ガシャン。
その音に気づき、長沢理久(ながざわ りく)が駆け寄ってきた。
理久は、紗夜と文翔の息子。
そして、紗夜がこの五年、希望のない結婚生活の中で唯一心の拠り所としてきた存在だった。
「理久......」
紗夜の目がぱっと明るくなり、彼に手を伸ばす。
よかった、息子はまだ自分を心配してくれていた......
だが、その手が触れる寸前、理久は一歩後ろに下がり、彼女を避けた。
第2話
紗夜の手は空を切り、肘が固い床にぶつかって、思わず息を呑むほどの痛みが走った。
だが、理久は無表情のまま彼女を見つめ、一切の焦りも見せなかった。
彼は、紗夜が命がけで出産した我が子だというのに......
目の前で母親が倒れ、苦しみながら床に横たわっている姿を見ても、まるで何の感情も湧かなかった。
紗夜の胸の奥が、まるで目に見えぬ手で鷲掴みにされたように苦しくなり、呼吸すらできなかった。
このとき彼女はようやく気づいた。
理久は、目元こそ自分と少し似ているものの、それ以外は父親の文翔にそっくりだったのだ。
冷酷で、無情で、すべてが彼と同じだった。
紗夜の目に、つんとくる痛みが広がり、視界がぐるりと揺れて、暗闇に落ちた。
そのまま彼女は、意識を失った。
最終的には、使用人が救急車を呼び、紗夜は病院に運ばれた。
――
再び目を覚ましたとき、鼻先に漂ってきたのは消毒液の匂いだった。
「消化器機能の乱れによる急性胃炎ですね」
医師はそう診断し、食生活に気をつけるように、そして過度な思考やストレスを避けるよう注意を促した。
紗夜はうなずいたが、その顔色はどこか青白かった。
「奥様、旦那様に連絡をお入れしましょうか?」
使用人が遠慮がちに尋ねてきた。
実際使用人は、怖くて電話できないのだった。
長沢家の人間は皆知っている。
文翔は紗夜のことを少しも好いてはいないということを。
だが、それでも紗夜はれっきとした「長沢家の正妻」なのだ。
「大丈夫よ。少し休めばよくなるから」
紗夜は微笑んでみせた。
「あなたも休んでいいわよ」
その笑顔は、使用人の目には「強がり」としか映らなかった。
小さくため息をついて、彼女は病室を後にした。
部屋には紗夜ひとりだけが残った。
ベッドに戻ろうとしたそのとき、病室のドアの前に小さな影が現れた。
理久だった。
「理久?」
思いがけない訪問に驚いた紗夜だったが、すぐに思い出されたのはさきほど、自分が激痛で床に倒れたときに、彼が無表情のまま遠ざかった、あの光景だった。
彼は母親である自分に、まったく心を寄せていないのではないかという疑念が、どうしても胸をよぎる。
だが......
「お母さん」
理久はぽつりとそう言った。
その声は幼く、柔らかく、どこか愛らしささえにじむものだった。
たった一言で、紗夜の中のわだかまりはふわりと溶けていった。
彼女はほっとしたように微笑みかけた。
「心配しないで、お母さんは大丈夫よ」
優しくそう声をかけ、手を差し伸べる。
大切な、かわいい我が子を抱きしめたい――
そんな想いでいっぱいだった。
紗夜は知っていた。
理久は長沢家の本邸でずっと厳しく育てられてきた。感情の表現が苦手なだけ。
本当は、彼の心にも母である自分の存在があるはずだと。
だからこそ、たとえ文翔にどれだけ嫌われようとも、理久のためならすべてを耐えるつもりだった。
彩と文翔が再婚して、彩が継母になれたら、理久がどれほど辛い思いをするか。
上流階級の家庭では、継承権を巡ってどれほどの争いがあるか、紗夜はよく知っていた。
彼女が守りたいのは、ただ一人――
この子だった。
そう思いながら、理久を見つめる目には、穏やかで強い愛情が宿っていた。
だが、その手がようやく理久の肩に触れようとした、その時。
「お母さん、パパと離婚してくれない?」
理久は小さな顔を上げて、真剣な目で彼女を見つめて言った。
紗夜の手が、空中で止まる。
まさかまだこんなに幼い子が、自分たち夫婦の破綻を見抜いていたというの?
なぜそんな考えに至ったのか、まったく理解できなかった。
紗夜は彼の頭を撫でながら、優しく尋ねた。
「どうして?」
きっと、子ども特有の不安から来る発言なのだと思い、さらにやさしく言った。
「理久、怖がらなくていいのよ。お母さんは離婚なんてしないから......」
けれど、理久はこう返した。
「でも、お母さんがパパと離婚してくれないと、竹内おばさんがぼくのママになれないよ」
紗夜は一瞬、呆然とした。
「......なんですって?」
耳を疑った。
聞き間違いであってほしかった。
だが、理久はもう一度、同じ言葉を繰り返した。
「ぼく、お母さんに離婚してほしい。そうしたら、竹内おばさんがパパと結婚して、ぼくのお母さんになれるから」
幼いはずのその言葉が、なぜか刃物のように鋭く、紗夜の心に深く突き刺さる。
「竹内があなたのお母さんに?じゃあ、私は......?」
その声は、感情を抑え込んでいたために、かすかに震えていた。
実の息子が、他の女を「お母さんにしたい」と言う。
そんな現実を、どうして受け入れられるだろうか?
理久はうつむき、指をいじって黙り込んだ。
また、あの無言の状態に戻ってしまった。
紗夜はその様子を見つめ、ある疑念が頭をよぎった。
おかしい。
理久が、自分からこんなことを言うはずがない。
彼女は反射的に理久の肩を掴み、問い詰めた。
「理久、教えて。誰かに、こう言うように言われたの?」
理久は黙ったまま。
紗夜の眉間に皺が寄る。
「誰が脅したの?お母さんに教えて」
それでも彼は口をつぐんだまま。
紗夜の不安と焦りが高まり、思わず声を荒げた。
「理久、お願いだから何か言って......!」
すると理久は突然泣き出し、大声で訴えた。
「お母さんなんか嫌い!うわーん!竹内おばさんがいい!竹内おばさんがママになってよー!!」
紗夜は愕然とした。
「紗夜、何をしている」
冷たい声が病室に響く。
振り向けば、文翔の長身の姿がドア口に立っていた。
紗夜の目に一瞬、戸惑いの色が浮かぶ。
この時間、彼は彩のところにいるはずでは?
まさか、わざわざ自分のために......?
紗夜は希望をかけて彼を見上げた。
しかしその直後、彼の後ろから彩が姿を現し、優しい声で言った。
「深水さん、大丈夫ですか?」
その瞬間、紗夜の目に宿った光が、ふっと消えた。
やはり、思い違いだったのだ。
彼が自分のために来るはずがない。
彩よりも大事にされるなんて、ありえないことだった。
理久は父親の姿を見るなり、泣きながら駆け寄り、ズボンの裾を掴んで叫んだ。
「パパ!お母さんが意地悪するの!お母さんなんか嫌い!ぼく、竹内おばさんがいい!!」
その一言一言が、まるで針のように紗夜の心に突き刺さっていく。
呼吸するだけで、痛みが走った。
「理久」
文翔は眉をひそめ、威厳ある声で言った。
「何でもかんでも騒ぎ立てるな。躾がなってないぞ」
その声に、理久はぴたりと黙り、目を赤くしてすすり泣いた。
「文翔、理久はまだ子供よ。そんなこと言わないで」
彩が親しげに文翔の名を呼び、理久に優しく手を差し伸べた。
「理久、もう大丈夫よ。おばさんのところへおいで」
「理久!」
紗夜も焦って手を伸ばす。
「お母さんのところに......」
夫は彩に譲ってもいい。
でも、自分のたった一人の息子だけは、絶対に譲れない。
血のつながった、この子だけは......
必死にそう願いながら、紗夜は理久を見つめた。
だが、理久は紗夜を一瞥し、そして彩を見たあと......
そのまま、彩のもとへと歩いて行った。
第3話
紗夜は、普段は誰にも懐かない理久が彩の手を取ってその隣に歩み寄るのを、ただ呆然と見つめていた。
まるで庇護を求めるように彩に寄り添う様子は、彼女に対する深い信頼の表れだった。
そんな依存を、理久が紗夜に見せたことは一度もなかった。
その瞬間、彼女の心の奥で何かが音を立てて壊れた気がした。
顔色の悪くなった紗夜を見て、文翔が眉をひそめた。
「何の病気だ」
紗夜はゆっくり視線を彼に向け、その瞳にかすかな揺らぎが走る。
「私と文翔が、理久が病院にいるって使用人から聞いて心配で迎えに来たんですけど......病気なのは深水さんだったんですね」
彩が何気なく口を開き、紗夜に向かって優しげに続けた。
「大したことないといいのですが......私、残って看病しましょうか?」
「大した病気じゃないだろ。世話を焼く必要がない」
文翔は冷淡に言った。
紗夜の持ち上げかけた瞼が再び下がり、その目はますます暗くなる。
本当にどうしようもない、自分。
文翔が、彼女の病気なんかで心を動かすはずもない。
心配なんて、されるわけがない。
「文翔、そんな言い方よくないわ。深水さんはあなたの奥様なのよ?」
彩はそう言うと、真剣な表情で紗夜に向き直った。
「誤解しないでくださいね。文翔はもともと人に気遣いを見せるのが下手なだけです......私が以前病気した時は、彼、自ら看病してくれましたけど」
「......私は、大丈夫」
紗夜はもう、彼女たちの甘い過去など聞きたくなかった。
深く息を吸い込み、なるべく普通の声を保とうとしながら文翔を見た。
「もう遅いから、理久を先に連れて帰って」
理久は明日、長沢家の本邸で個人授業を受ける予定だった。
文翔の母は理久の遅刻を嫌っている。
いや、正確には、紗夜を嫌っているからこそ、理久にも厳しく当たるのだ。
文翔は深い眼差しで彼女を見つめ、薄い唇を一直線に結んでいた。
そのとき、理久が彼のズボンの裾を軽く引っ張りながらあくびをした。
「パパ、ねむい......」
「理久、眠いの?じゃあ、パパとおばさんと一緒におうちに帰ってねんねしようね?」
彩は彼の前でしゃがみ、優しい声で語りかける。
「うん」
理久は小さな手で文翔の指を握った。
「パパ、行こう」
その様子を見て、文翔はようやく紗夜から視線を外した。
紗夜は病室のベッドに身を戻し、背中を向けて彼らを見なかった。
やがてドアの開く音がして、彼女はそっと顔を上げた。
扉のガラス越しに見えたのは――
理久が片手で文翔の手を、もう片手で彩の手を握って歩いている姿だった。
まるで理想的な「家族三人」。
その完璧な光景が胸に痛く刺さった。
三人の姿がだんだんとぼやけていく。
紗夜は無意識のうちに手で顔を拭った。
手はもう濡れていた。
爛上(らんじょう)の夜は冷たい。
紗夜はしくしくと痛む胃を抱え、体を丸めてようやく眠りについた。
翌朝、使用人が運んできたのは薄味のお粥とおかず。
紗夜はほとんど食欲がなく、二口ほど食べてスプーンを置いた。
「奥様、旦那様から『必ず食べ終わるのを見届けろ』と言われてまして......そうしないと治りも遅くなりますし、旦那様も心配してらっしゃいますから」
使用人は困ったように、けれど丁寧に言葉を添えた。
心配?彼が......?
紗夜はかすかに唇を歪めた。
ありえない。
彼が自分を心配するなんて。
けれど、今はそんなことを気にする余裕もなかった。
なぜなら、心が勝手に理久のことばかりを気にしてしまうから。
彩が戻ってきて、まだ一ヶ月も経っていない。
それなのに、理久はすでにあれほど懐いている。
なぜ?
その時、彼女のスマホに通知が届いた。
紗夜は反射的に目を輝かせた。
理久からかと思った。
だが、送り主は彩だった。
添付されていたのは一本の動画。
映像には、文翔がテーブルでタブレットを見ながら財務報告を読んでいる姿。
理久はその隣で、ぶらぶらと足を揺らしながら座っていた。
そして、彩がその隣に座り、手ぬぐいで理久の手を優しく拭っていた。
あまりにも和やかな光景だった。
けれど、紗夜の体はひやりと冷えていく。
「理久、おばさんが作った朝ごはん、おいしい?」
彩が微笑みながら尋ねる。
「おいしい!」
理久は満面の笑みで答えた。
「じゃあ......お母さんの朝ごはんと、おばさんの朝ごはん、どっちが好き?」
理久は間髪入れずに答えた。
「もちろん竹内おばさんの!お母さんはぼくの嫌いなにんじんとか野菜ばっかり食べさせるけど、竹内おばさんはそんなことしないもん。竹内おばさんは世界一!」
紗夜は乾いた笑いをもらした。
理久は未熟児で生まれ、体が弱かった。
だから彼女は息子の成長のために、食事に最大限の気を使い、栄養士の資格まで取って工夫を凝らしてきた。
けれど......
その献身は、息子の記憶の中では「お母さんが嫌いなものばかり食べさせる」原因にすり替わっていた。
まるで、彩と比べられる「欠点」のように。
なんという皮肉。
そして理久は、彩の服の袖を握りながら、きらきらした瞳で言った。
「竹内おばさん、ここに住んで、毎日朝ごはん作ってくれる?」
「ここに......?」
彩は少し戸惑ったような笑顔で、ちらりと文翔に視線を送る。
「そうだよ、そしたらパパとぼく、毎日竹内おばさんに会えるから!」
その言葉に、彩が何かを返そうとする直前で動画は終わった。
紗夜の胸には、大きな石が置かれたような重みがのしかかってくる。
つまり、彩は夫も、息子も奪って、今度は、この家までも......
「ダメ......」
紗夜はしくしく痛む胃を押さえながら、ベッドを抜け出す。
止めなきゃ。
なんとしてでも。
だが、病室の扉を開けた瞬間、彼女は思わず足を止めた。
そこには黒いマスクに黒いキャップを被った人物が立っていた。
紗夜が何かを言う前に、相手は一歩踏み込んできて、素早く彼女の口と鼻を塞いだ。
「......っ!?」
紗夜は目を見開き、もがこうとしたが、意識はすぐに闇へと落ちていった。
――
紗夜が目を覚ましたとき、すでに朝の光が差していた。
だが、そこは病院ではなく、廃工場のような場所だった。
「やっと起きたか」
顔に傷のある男が近づいてきて、鼻で笑う。
「よく寝る女だな。丸一日眠り続けやがって」
丸一日......?
紗夜は反射的に自分の服を見る。
入院着は少し皺があるだけで、乱れた様子はなかった。
「見ればわかるだろ?」
傷の男が鼻で笑った。
「上から『手を出すな』って言われてなきゃ、とっくにバラバラだったぞ?」
上......?
紗夜の目に疑念がよぎる。
だが、突然目の前に突き出された鋭いナイフに思わず体が震えた。
「な、何するの......?」
「緊張すんなよ、ちょっと金が欲しいだけさ」
別の太った男が口を開いた。
「お......お金なんて持っていない」
紗夜は体を丸め、警戒心を全身にみなぎらせる。
父が投獄され、母が重病になって以来、自由になるお金などなかった。
だからこそ、「長沢家の若奥様」という立場だけは必死に守ってきたのだ。
それだけが、文翔から毎月わずかな生活費を受け取れる唯一の手段だった。
けれど、毎月の小切手を受け取るたび、自分がどれだけ惨めな女かを思い知らされる。
その小切手は、文翔が彼女を欲望のはけ口にしたあとの「報酬」に過ぎなかった。
紗夜は目を伏せ、胸の奥に鈍い痛みを感じる。
その金もすでに母の治療費としてまとめて三ヶ月分支払い、もうほとんど残っていない。
「シラを切るな!お前は長沢家の若奥様だろ。長沢家って言やぁ、京浜でもトップの名門じゃねぇか。旦那は金持ってんだろうが!」
傷の男は彼女のスマホを投げ返してきた。
「今すぐ旦那さんに電話しろ!」
紗夜は電話をかけたくなかった。
だって、彼女が一日一夜も姿を消していたのに、長沢家は何の反応も見せなかった。
つまり、文翔は彼女のことなど、最初から探してなどいないのだ。
探さない=気にしていない。
紗夜は唇を噛んだ。
この誘拐犯は、なぜ文翔に電話させようとするのだろう?
「早くしろ!」
傷の男がナイフを振り上げ、恐ろしい形相で怒鳴る。
「......わ、分かりました」
紗夜は震える手で文翔の番号を押した。
電話が繋がったその瞬間、彼女の胸にはわずかな期待がよぎった。
夫婦だった。
愛されなくても、命の危機くらいは気にしてくれるのではないか。
......だが。
「もしもし?」
受話口から聞こえたのは、彩の声だった。
紗夜の動きが止まる。
彩......
傷の男の鋭い視線が彼女を射抜いている。
紗夜は仕方なく口を開いた。
「......文翔は?急用があるの。彼を......」
「文翔を?彼、今はまだ寝てますよ」
第4話
彩の柔らかい一言は、まるで鋭い刃のように紗夜の胸に突き刺さった。
「文翔、昨夜はとても疲れていたので、先程ようやく眠りにつきました。起こすのもかわいそうですし、後でかけ直しいただけますか?」
その瞬間、紗夜の手からスマホが滑り落ち、膝の上にポトリと落ちた。
二人の誘拐犯は、まるでこの展開を予想していたかのように、面白がるような表情を浮かべていた。
「ちぇっ、何だよ。お前の旦那、浮気してたのか」
太った男が舌打ちしながら言った。
「つまり、お前なんて眼中にないってことだな」
傷の男がさらに一言、彼女の心の傷に塩を塗るように付け加えた。
そうだ。
文翔の心の中にいるのは、最初からずっと彩だった。
二人が一緒にいるのは、ある意味当然だったのかもしれない。
「ってことはさ、長沢社長にとっちゃこの女、取るに足らない存在ってことか」
傷の男は軽蔑するように紗夜を一瞥し、吐き捨てるように言った。
「まったく、縁起悪い!今ここでヤッちまうか!」
「焦るな。まだやれることがあるだろ」
太った男がスマホの通知を見て、意味ありげに目を光らせたあと、ふと呟いた。
「......あいつ、息子がいるんだろ?」
その言葉に、紗夜の口元がかすかに引きつり、苦笑のような表情を浮かべた。
脳裏には、理久が自分を捨てて彩の方へ歩いていった場面がよみがえる。
もし理久が、母親が誘拐されたって知ったら......心配してくれるだろうか?
だって、彼は、彼女が命懸けで産んだ子なのだから。
「息子に電話しろ」
太った男が命じる。
紗夜は動かなかった。
その様子を見て、男は彼女の顔を覗き込みながら問う。
「見たくないのか?自分の母親が誘拐されたのを見た息子が、どんな反応をするのか。その心の中に、まだ『母親』としてのお前がいるのかどうかってな」
その言葉は、紗夜の中に残るほんの少しの希望に火をつけた。
彼女は葛藤の表情を浮かべながらも、最後にはわずかな望みに賭けて、理久の腕時計電話に発信した。
ビデオ通話が繋がり、理久の顔が画面に映った瞬間、紗夜の瞳に一瞬だけ喜びが灯る。
「理久......」
言いかけたその瞬間......
太った男が突然、彼女の首を締め上げ、画面に映る理久に向かって怒鳴りつけた。
「よく見ろ!こいつがてめぇの母親だ!今すぐ助けねぇと、死ぬぞ!」
その鬼のような形相。
普通の五歳児なら、こんな状況で泣き出すのが普通だ。
だが、理久はただ冷然と画面の紗夜を見つめていた。
まるで、誰かを見定めるような視線で、幼い眉をひそめた。
「理久......!私は大丈夫よ......」
紗夜は息が詰まり、顔が赤くなっても、理久の心を気遣っていた。
だが......
「この人は、ぼくのママじゃない」
理久の澄んだ声には、何の感情もこもっていなかった。
まるで画面の中の女性は、ただの見知らぬ人であるかのように。
その一言は、紗夜の胸に鉄槌のように打ち込まれた。
目の前がぐらぐらと揺れる。
「よく見ろよ!お前の母親だろ?」
傷の男が刃物を持ち、紗夜の首にあてがい、声を荒げた。
「違うっていうなら、すぐにでも首を切ってやる!そしたらもう、ママはいなくなるぞ!」
画面越しに理久が紗夜を見つめる。
紗夜は息を詰め、ただ彼の反応を見つめ続けた。
この世に、自分の母親が命の危機にあるのに、無関心な子どもなんているの?
......いた。
理久だ。
「違う!ぼくのママは竹内おばさん!今、パパと一緒にいるもん!」
その瞬間、紗夜の目に灯っていた最後の光も完全に消えた。
喉が詰まり、何も言えなくなった。
理久はそれ以上何も言わずに、通話を切った。
まるで、紗夜の心の最後の希望まで一緒に切り捨てたように。
紗夜は濁った息を吐き出し、ぼんやりと曇った空を見上げた。
一粒の雨が頬に落ちた。
まるで涙のように。
......でも、泣けなかった。
十五年も思い続けた夫は、彼女を一度も心にかけたことがなかった。
五年間大切に育てた息子は、別の女を母と呼び、彼女の死すら気に留めなかった。
地面に崩れ落ち、泥のように無力な姿を見せる紗夜を見て、太った男と傷の男は視線を交わし、口元を歪めた。
スマホを取り出し、紗夜の写真を一枚撮ると、ある人物に送った。
「指示どおり、長沢社長と長沢お坊ちゃんに電話させましたよ」
次の瞬間、スマホが鳴り響き、応答すると、女の声が響いた。
「よくやったわ」
得意気なその声には、紗夜を徹底的に打ち砕いた満足感がにじんでいた。
文翔を奪おうなんて、この女、身の程知らずにもほどがある。
夢なんて、全部粉々にしてやる。
「で、こいつはどうします?」
太った男が尋ねた。
「好きにしていいわ」
女は笑いながら、電話を切った。
男はスマホをしまい、意味深な目つきで紗夜を見た。
「好きにしていいってさ」
「やったな」
傷の男の目が光り、にやけながら手をこすり、紗夜に近づいていく。
「な、何を......?」
紗夜は壁に背を押しつけるようにして、必死に逃れようとする。
「何って......上がそう言ったんだ。俺たちが好きにしていいってな。だから、今ここで楽しませてもらおう」
傷の男が卑劣な笑みを浮かべ、手を伸ばしたその瞬間......
「待て」
太った男がその手をつかんで止めた。
「また?なんだよ!」
苛立つ傷の男に、太った男はニヤリと笑う。
「もっといい方法がある」
そう言って、スマホを確認すると、400万円の入金通知が表示されていた。
紗夜を上から下まで眺め回しながら、まるで「商品」を見るような目を向けた。
「この顔、この体......売れば一週間足らずで400万円なんて余裕で回収できる」
「確かに......」
傷の男はあごの無精髭を撫でながら、ニヤリと笑った。
二人のいやらしい視線を浴び、紗夜は全身が凍りつくような恐怖に包まれる。
逃げようと身をよじった瞬間、首筋に激痛が走り、そのまま意識を失った。
......
紗夜が目を覚ましたのは、耳をつんざくようなクラブミュージックの中だった。
目を開けると、誰かが彼女の服を脱がそうとしていた。
「やめてっ!」
紗夜は恐怖で相手を突き飛ばし、胸元を抱えながらソファの隅へと逃げ込んだ。
相手は五十を越えた女で、震える紗夜を見て軽蔑したように鼻を鳴らした。
「こんな所に来ておいて、今さら清純ぶってんじゃないよ。さっさと服着替えて、接客に出な!」
......接客?
紗夜の喉がひゅっと鳴り、声が詰まった。
第5話
深水家がまだ没落していなかった頃、彼女は一人娘として、父・深水和洋(ふかみず かずひろ)の目に入れても痛くない宝物だった。
幼い頃から周囲の愛情を一身に受けて育ち、少しの苦しみすら知らなかった。
まさか、文翔と結婚してからは、まるで家政婦のように冷遇され、今やこんな場所に売られて客を取らされる羽目になるとは......
ありえない、絶対にそんなのはイヤだ!
「私は長沢家の若奥様よ!私に手を出したら、彼が黙っていないわ!」
紗夜は叫んだ。
ここまできても、まだ文翔の名前が抑止力になると信じていた。
「長沢家?」
女は何か面白い冗談でも聞いたかのように笑い、皮肉たっぷりに言い放った。
「アンタが?長沢家の?笑わせないでよ。アンタが長沢夫人なら、私は総理大臣ってとこかしらね!長沢社長が未婚なのなんて誰でも知ってるのに、よくそんな口叩けるわね。頭おかしいんじゃない?」
紗夜は何か言い返したかったが、言葉が出てこなかった。
文翔は一度も彼女の存在を公にしたことがなかった。
彼らの結婚だって、まるで世間に知られてはいけない秘密のようだった。
誰も彼女を「長沢文翔の妻」だなんて信じてくれない。
女は、さらに意味深な一言を口にした。
「はっきり言ってあげるわ。ここじゃ、社長たちが飽きた愛人を『お得意様用の遊び道具』として送り込むのが当たり前なの。もしかして、アンタをここに売ったのも......旦那の差し金かもしれないわよ?」
その一言は、彼女にとって雷が落ちたような衝撃だった。
ありえない。
文翔がそんなことをするはずがない。
彼は彼女を嫌っていたとしても、自分は理久の母親だ。
それに夜、情が高ぶったときには、確かに彼の口から自分の名前が......
あれは確かに、本物の愛情のようだった。
でも、あの時の傷の男の言葉が頭の中でぐるぐると回る。
「上がそう言ったんだ。俺たちが好きにしていいってな」
紗夜は拳を握りしめた。爪が掌に食い込むほどに。
「早く着替えな!上客が待ってんだよ!」
女は彼女の襟首を乱暴に掴み、無理やり引き起こす。
「いやっ......!」
どこから湧いた力かわからないが、紗夜は女を突き飛ばし、個室を飛び出した。
「このアバズレが!待ちなさい!」
女が怒鳴りながら後を追ってくる。
紗夜はまるで命からがら逃げる罪人のように、ただ必死に走った。
確かめたい。
これが本当に文翔の指示だったのか。
彼は、彼はそこまで自分を憎んでいるのか?
どれだけ走ったのかわからない。
やがて体力が尽き、足をもつれさせて転び、膝を強く打ちつけた。
あまりの痛みに、息を吸い込んだまま動けなかった。
立ち上がろうとしたとき......
「文翔、これ食べてみて......」
目の前の個室から、よく知った女の声が聞こえた。
彩の声だ!
ならば、その「文翔」は......
紗夜は息を止め、個室の扉の隙間に目を向けた。
狭い隙間の奥に、見慣れた文翔の姿が映った。
紗夜の目が見開かれ、手が伸びる。
扉を開けようとした、まさにその時......
「彩おばさん、ぼく、ママって呼んでもいい?」
理久の無邪気な声が聞こえてきた。
彩おばさん?あや......
紗夜の全身が電流に打たれたように固まる。
あや......さや......
この数年間、文翔が夜毎に呼んでいた名前は......彩のことだったのか。
たった一文字の違いだというのに、どうしてずっと勘違いしてたんだろう......
自分は、ただその代わりとして抱かれていただけだったのか。
一瞬で力が抜け、伸ばしていた手が地面に落ちる。
「いいよ、理久が呼びたいなら」
彩が甘えるように笑い、続けて不安そうに文翔を見る。
「文翔、深水さんがもう一日も帰ってないの、大丈夫かな......」
「彼女の話はもういい」
文翔は眉をひそめ、氷のような声で言い放つ。
「生きても死んでも、別にいいだろ」
生きても死んでも、別にいい......
紗夜は口元を引きつらせたが、もはや苦笑すら浮かべられなかった。
一粒の涙が目尻から落ち、手の甲を濡らす。
そのとき......
「今度は逃げられないわよ!」
女の怒声が背後から飛んできた。
「早く連れて行きな!」
紗夜ははっとして、再び扉を開けようとする。
わずかに扉が開いたその瞬間、足首を何者かに掴まれ、無理やり後ろに引き倒された。
「文翔......っ、んっ!」
助けを呼ぶ声も途中でふさがれ、彼女は廊下の隅へと引きずられていった。
「このアバズレが!」
頬に一発、平手が飛んでくる。
火のような痛みが走り、口元から血がにじむ。
そのとき、個室の扉が開き、文翔が顔を出した。
誰かに名前を呼ばれたのか、気になった様子だ。
紗夜は必死に身をよじって声を出そうとしたが、喉から漏れるのはかすかな嗚咽だけだった。
女がすぐさま前に出て頭を下げた。
「申し訳ありません、長沢様。新人が無礼を働きました。気をつけますから」
文翔の顔は冷え切っていた。
「そんな新人、処理しておけ」
その言葉を聞いた瞬間、紗夜の喉は干からびたように音を失った。
再び平手が飛んで、彼女は地面に叩きつけられる。
遠くで、理久が彩の手を引きながら言った。
「パパ、ママと一緒におうち帰ろ!」
彩の白い頬が薄く紅潮していたが、その喜びは隠しきれていなかった。
紗夜は表情一つ変えずに、三人が並んで立つ姿を見つめた。
まるで完璧な家族のような、その光景を。
「見た?あれが本物の長沢家の若奥様ってもんよ」
またも平手が飛び、同時に空が轟音を立てた。
まるで、彼女の十年の片想いと、五年の結婚生活が、いかに滑稽で、いかに無意味だったかを告げるかのように。
ようやく、紗夜は悟った。
文翔が彼女を憎んでいたのは、ただの嫌悪ではない。
彼は、彼女をこの世から消し去りたいほどに、彩と「本当の家族」を築きたかったのだ。
そして、彼女は最初から最後まで、「不要な存在」だった。
窓の外では、雨が勢いよく降っていた。
その音は、まるで彼女の頬を叩くような残酷さで、彼女の全身を痛めつけた。
けれど、その痛みすら、胸の中の絶望に比べれば微々たるものだった。
「文翔......」
彼の背中を見つめながら、紗夜は絞り出すように呟いた。
その声は、風に消えそうなほどに弱くか細かった。
耳の奥に、あの簡素すぎる結婚式で牧師にかけられた問いが蘇る。
「深水さん、あなたは長沢さんを生涯愛することを誓いますか?」
「はい、誓います」
かつて彼に捧げたすべての愛が、今や無数の刃となって、彼女の傷だらけの心に突き刺さっていた。
「私は......もう二度と、あなたを愛したりしない」
雷鳴が轟き、空が裂けた。
そして、視界がかすみ、意識が朦朧とする中で......
「紗夜!」
冷たくも焦ったような声が響いた。
その声は......文翔のものだった。
まさか、今になって幻聴まで......
自嘲の笑みを浮かべようとした彼女は、力尽きて倒れ込んだ。
だが、彼女が倒れ込んだ先は、冷たい床ではなかった。
それは、どこか懐かしい温もりを持った胸の中だった。
かつては夢にまで見たその場所。
けれど今はただ、突き放したいだけの場所。
......
第6話
紗夜は、とても長い夢を見ていたような気がした。
夢の中で彼女は文翔の腕に手を添え、親族や友人たちの見守る中、花で敷き詰められた道を歩いていた。
その瞬間、紗夜の顔には幸福が満ちあふれていた。
長年片想いをしてきた彼とついに結ばれる。
自分は世界で一番幸せな人だと、そう信じて疑わなかった。
だが、目の前の光景は突如として鮮血のような赤に染まり、足元の花は腐って悪臭を放つ枯れ枝へと変わった。
戸惑いと困惑の中で、文翔は無表情に彼女の手を振りほどき、冷たい声が呪いのように耳に響いた。
「お前みたいに腹黒い女、俺は絶対に愛さない」
紗夜ははっと目を覚ました。
目尻から一筋の涙がつっと流れる。
目に映ったのは白い天井だった。
あの薄暗い廊下でもなく、雷鳴も豪雨もない。
窓の外は日差しが眩しく、木々の影が揺れていた。
あまりに穏やかで美しい光景に、胸が締めつけられる。
どうして、自分はここに?
「目が覚めたか」
淡々とした声がした。
紗夜が顔を向けると、ベッドの傍に座る文翔が目に入った。
一瞬、戸惑いが彼女の表情をよぎった。
まさか、あの出来事のすべては夢だったのだろうか?
だが、唇を動かした途端、火が走るような痛みが顔に広がった。
紗夜は、夢ではなかったことを確信した。
夫は自分を憎み、息子には母とすら認められていない。
すべてが現実だった。
紗夜は静かにまぶたを下ろし、手をぎゅっと握りしめた。
「お母さん!大丈夫?」
ちょうどその時、理久が小走りでベッドに駆け寄ってきた。
いつになく心配そうな声をしていた。
父親が血まみれの紗夜を抱いて出てきた時、理久はひどく驚いた。
竹内おばさんは「これは、お母さんが誘拐された時、理久は冷静でいられるかどうかを試すゲームだよ。成功したら遊園地に連れて行ってあげるって、約束したの」と言っていた。
でも、目の前の傷だらけの紗夜を見た今、心に重たいものがのしかかる。
「お母さん......」
理久はおそるおそる手を伸ばした。
いつもなら、彼が少しでも甘えれば、紗夜は微笑んでくれた。
しかし今回は、紗夜はそっと手を引き、彼の手を避けた。
その拒絶に、理久は一瞬きょとんとし、目を瞬かせた。
「お母さんはまだショックが癒えていない。部屋に戻れ」
文翔が冷静に言った。
理久は名残惜しそうに紗夜を見たが、すぐに竹内おばさんと遊園地へ行く約束を思い出し、あっさり「うん」と返事して部屋を出ていった。
部屋には、静寂が訪れた。
「なぜ、あそこにいた?」
文翔が先に口を開いた。
眉をひそめている。
あの時、彼が紗夜の声を聞いたと確信し、帰る直前に引き返していなければ、彼女はきっと他の男に連れ去られていたはずだった。
そのことを思い出すと、訳の分からない苛立ちがこみ上げた。
「病人があちこち出歩いて、お前、バカか?」
紗夜は何も答えず、ただ手を見つめていた。
文翔の言葉から察するに、誘拐や売られたことに彼は関与していないのか?
だが、たとえそうでも、元凶は彼なのだ。
「紗夜、聞いてるのか?」
反応がないことに業を煮やした文翔は、彼女の顎をつかみ、無理やり顔を上げさせた。
「まさか、同情でも買えると思ってる?その手の芝居が、まだ通用するとでも?」
紗夜は彼の怒った顔を見て、思わず失笑しそうになった。
「そっか。文翔にとって、私の受けた仕打ちは全部、作り話の茶番だったのね?」
傷ついたのは自分なのに、彼の目にはただの演技としか映らない。
「......そうな風に私を見てたんだね」
彼女の淡々とした言い方に、文翔の眉がピクリと動いた。
「忘れるなよ?お前はその手で、俺に土下座して父親の命乞いをしたんだぞ」
その言葉が、紗夜を五年前へ引き戻した。
あのとき、彼女はすでに妊娠七ヶ月だった。
突然、文翔が彼女の父・深水和洋を告発した。
かつて栄華を誇った深水さんは、冤罪の収賄容疑で捕まり、死刑判決を受けた。
紗夜はその知らせを聞いて、ショックで体調を崩したが、それでも文翔の元へ赴いた。
強い意志を持つ彼女は、その時、彼の前で膝をついた。
声を震わせながら、必死に言った。
「文翔......お願い......お父さんを助けて......」
しかし彼は冷たく運転手に「送り返せ」と命じるだけだった。
彼女はその足にすがりつき、出血しながらも放さなかった。
その姿を見てようやく文翔は、和洋の命を見逃すことにした。
その結果、紗夜は早産と大量出血で、命の危機を乗り越えながら理久を産んだのだ。
だが、彼女の命懸けの哀願も、今となっては「見苦しい芝居」にすぎなかったというのか。
紗夜は笑いたかったが、顔の傷が痛んだため、それすらできなかった。
「......疲れた。もういいなら、出て行って」
文翔は、腫れた頬に残る紅い掌痕を見つめた。
どんなに彼女が嫌いでも、他人に侮辱される筋合いはない。
「連中の始末は、俺がつける」
そう呟いた。
紗夜は一瞬彼を見上げた。
もし以前なら、この一言で舞い上がったかもしれない。
だが今の彼女の目には、何の波風も立たなかった。
彼女は「今さら与えられる優しさ」には、もう何も求めていない。
文翔は彼女の反応がないのを見て、何も言わず部屋を出ていった。
扉が閉まると同時に、紗夜の緊張していた背中が崩れ、虚ろな目でベッドに沈んでいく。
「奥様......」
使用人の池田がトレイを持って入ってきた。
薬瓶がずらりと並べられている。
「旦那様が、先生に『最高の薬を使う』と命じました」
紗夜は微動だにしなかった。
「それに......この二日間、旦那様は一度も会社に行かず、家で仕事をこなしながら奥様の様子を見てました。旦那様は......本当は奥様のこと、心配してるんだと思います」
ならなぜ、あの時彩の腕の中にいたの?
紗夜は冷たく思った。
「......竹内さん、家に泊まってるの?」
ふいにそう問いかけた。
池田(いけだ)は一瞬言い淀んだが、結局うなずいた。
「はい。竹内さんは最近引っ越す予定で住む場所がなくて、それにお坊ちゃんが竹内さんにとても懐いていて......だから旦那様が、数日だけ泊まっていいと......」
やっぱり、そうか。
「でも、旦那様は竹内さんを二階のゲストルームにしか泊めていませんし、三階には......」
池田が必死に説明を加えようとした時、紗夜は静かに口を閉じた。
今は二階の客間。
次は、三階の主寝室の隣。
その次は、主寝室そのものだろう。
紗夜は無意識に胸元に手を置いた。
けれど、もう心は痛まなかった。
愛をやめたら、心は痛まない。
それでいい。
紗夜はまぶたを閉じた。
この家に新しい「女主人」が来るのなら、自分は空気を読むべきだ。
池田を部屋から出したあと、紗夜はパソコンを開き、静かに文書を打ち込んだ。
【離婚協議書】
第7話
紗夜は文翔と結婚する前にすでに婚前契約にサインしており、長沢グループの財産とは一切無関係で、一銭も受け取れないことになっていた。
だが、彼女はそんなこと気にも留めていなかった。
自分のものでないなら、欲しいとも思わない。
離婚協議書を整えた後、紗夜は一切の迷いもなく自分の名前を書き入れた。
思い返せば、かつて文翔と婚姻届に署名したときは、嬉しさのあまり手が震えてペンすら持てなかった。
そして今、紗夜は無表情のままペンを置き、その書類を封筒に入れ、引き出しへしまい込んだ。
「紗夜ちゃん、本当に長沢と離婚するって決めたの?」
電話の向こうから驚いた声が響く。
白鳥海羽(しらとり みう)だった。
海羽は紗夜の親友で、無名女優から這い上がって一線のトップスターになった努力家。
多忙なスケジュールのせいで会う機会は少ないが、昔から良好な関係を保っていた。
紗夜という人間をよく知っているからこそ、海羽はこれほど驚いていた。
紗夜がどれだけ文翔を愛していたか、誰よりも分かっているからだ。
文翔は、かつて彼女たちの学校で誰よりも目立つ存在だった。
彼の名は、後輩の彼女たちにまで知られていたほどだ。
16歳でトップ大学に推薦合格。
18歳で全課程を早期修了して留学。
20歳で自分の会社を立ち上げ、半年でトップクラスの企業に成長させ、1年で上場し海外市場を一気に拡大。
22歳にはその会社を長沢グループに統合し、父を飛び越えてグループの次期当主に就任。
容姿も非の打ち所がなく、まさに完璧な男だった。
だが唯一の欠点は、心が冷え切っていること。
何事にも興味を示さず、誰に対しても無関心。
そんな彼に好意を抱いた女性たちは数多くいたが、誰一人として報われることはなかった。
誰だって、想いに応えてくれない相手に身を捧げることなどできない。
共に生きるには、あまりにも孤独な相手。
だが、紗夜だけは違った。
みんなが彼に憧れを抱いたのは、16歳での華々しい活躍以降だった。
だが紗夜は、それよりもずっと前から密かに彼に恋をしていた。
蛾が火に飛び込むように、彼女は身を焦がしてでも突き進んだ。
その一途な想いを、海羽はずっと見てきた。
それでも、結婚生活の中で彼女がどれほど苦しんでいたかも知っていた海羽は、何度も離婚を勧めたことがあった。
けれど紗夜はいつも首を横に振った。
「この想いはいつか必ず届く」
「彼を愛し抜けば、彼も心を開いてくれる」
そう信じていた彼女は、何度も傷つけられ、癒える間もなくまた新たな傷を負って、気づけば心も体もボロボロになっていた。
文翔という男は、元々心を持たないか、持っていても彼女のものではなかった。
燃えるような愛も、孤独な勇気も、すべて現実に打ちのめされた。
だから紗夜は、もう頑張らないと決めた。
「うん、もう決めたの」
彼女ははっきりと答えた。
「何かあったの?」
海羽が慎重に尋ねる。
「別に」
紗夜は笑った。
吹っ切れた人間の声は、まるで風のように軽やかだった。
「離れたいから離れる。それだけだよ」
電話越しにしばし沈黙が流れたあと、海羽の声が急に明るくなった。
「その考え、私も大賛成!離れたいときに離れる、それが本物の女ってものよ!」
親友として、紗夜の選択は理由を問わず受け入れるつもりだった。
けれど、子供のことはやはり気がかりだった。
「理久のことは?親権は取りに行かないの?」
理久は、紗夜が命懸けで産んだ子だ。
たくさんの愛を注いできた。
「要らない」
紗夜は淡々と答えた。
「文翔は長沢家の一人息子。理久も彼の唯一の息子。長沢家が親権を渡すわけがないわ」
「でも......もし長沢が竹内と再婚したら、彼女は理久の継母になるんだよ?継母ができれば、実の父親だって変わってしまうかもしれない。虐められることになったらどうするの?」
海羽は本気で心配していた。
紗夜も、そのことはずっと考えていた。
理久のために「長沢家の若奥様」という立場を守り、愛のない結婚生活に甘んじてきた。
文翔が再婚しても、理久が傷つかないように。
だが、結局すべては彼女の一人相撲だった。
理久は母親としての彼女を求めず、代わりに彩を望んだ。
だったら、譲ってやるだけだ。
その先どうなろうと、それは彼自身の選択。
自分の責任で背負えばいい。
その後、1時間ほど海羽と話した。
3つのうち2つは励ましの言葉だった。
「平気平気!男は山ほどいる!長沢なんかよりもっといい人、すぐ見つかるって!
今、撮影さえなければ絶対飛んで行って、お祝いしてやるのに。
それとも今夜帰って、大きなハグでもしてあげよっか?ついでに肩も貸すよ?」
「......ちょっと、そんなにヒマなの?」
紗夜は苦笑しながら返した。
「本当に平気だから、そんなに心配しないで」
「うーん......そう聞くと安心した」
海羽はようやく息をついた。
「でさ、いつ長沢家を出るの?」
紗夜は少し考えた。
「一ヶ月後くらいかな。全部片付けたら、そっちに行く」
「約束だよ?迷い直し禁止!」
「約束するから」
紗夜は、言葉の一つひとつに確かな決意を込めていた。
通話を切った後、紗夜は立ち上がって衣装部屋に向かった。
ここで五年間暮らしていたから、持ち物もそれなりに多い。
中には宝飾品もあった。
大半は、文翔がチャリティーオークションで適当に競り落とし、彼女のジュエリーケースに放り込んでいたものだった。
ダイヤのブレスレットを試しにはめてみたが、サイズが大きすぎてすぐ落ち、机に「カラン」と音を立てて転がった。
本来、こういう高級ジュエリーはサイズを厳密に調整するもの。
それが合っていないということは、買うときから全く気にしていなかった証拠。
まるで彼女という妻への接し方と同じだった。
紗夜は唇を引き結び、長沢家の祖母から贈られた数点を残し、それ以外を箱に詰めた。
買取業者にも連絡を取った。
グループの財産には一切手を付けない。
だが気高く振るつもりもない。
これらの宝石を現金に換えて残すのは、五年分の労働の報酬だと思えばいい。
家政婦でも給料はもらえる。
自分は五年間、心も体も注ぎ込んで、それでも手に入れたものは傷だらけの身体だけ。
取引日時を決めた後、箱を閉じた彼女の目に、ふと薬指の指輪が映った。
それは文翔が唯一、彼女のサイズを測って贈ったダイヤモンドリング。
結婚式で彼が自ら、彼女の指にはめたものだった。
彼女はそれを宝物のように扱い、五年間一度も外したことがなかった。
紗夜は数秒間、ためらった。
指先が、微かに震えた。