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彼は愛を口にしない
「北村さん、本当に戸籍を移したいのですか?もし戸籍を移せば、佐藤さんとの結婚申請は無効になります。法律上、直系姻族の間の婚姻は禁止さ...
Chương (1)
第1章
「北村さん、本当に戸籍を移したいのですか?もし戸籍を移せば、佐藤さんとの結婚申請は無効になります。法律上、直系姻族の間の婚姻は禁止されています」
北村知佳(きたむら ちか)はふっと笑った。
「仕方ないでしょ。長年行方不明だった私の実の両親が、婚約者の養父母だなんてね」
電話越しの担当者は一瞬黙り込んだが、すぐに事務的な口調で答えた。「それでは関連書類を持って結婚無効証明を受け取りに来てください。大体一週間ほどかかります」
「分かりました」
第1話
「北村さん、本当に戸籍を移したいのですか?もし移転が成功すれば、あなたと佐藤さんの結婚申請は無効になります。法律上、直系姻族の間の婚姻は禁止されています」
北村知佳(きたむら ちか)はふっと笑った。
「仕方ないでしょ。長年行方不明だった私の実の両親が、婚約者の養父母だなんてね」
電話越しの担当者は一瞬黙り込んだが、すぐに事務的な口調で答えた。「それでは関連書類を持って結婚無効証明を受け取りに来てください。大体一週間ほどかかります」
「分かりました」
電話を切ると、知佳は視線をオークション会場の入り口に向けた。
会場では、世界でも珍しいサファイアの指輪が競売にかけられており、落札者には指輪の命名権が与えられるという。
立ち上がり、知佳は指輪を見た。
すると、佐藤健太(さとう けんた)が彼女の視線の先に気づき、まるで彼女が欲しがっているとでも思ったのか、すぐさま競りに参加し、巨額の20億円を投じて指輪を落札した。
扉を押し開けて入った瞬間、場内の視線が一斉に知佳へ集まる。
健太は赤いケースを手に、片膝をついた。
「知佳、もう俺のプロポーズを受け入れてくれたけれど、それでももう一度、プロポーズしたいんだ」
「この指輪の名は知佳。俺が君に捧げる、永遠の愛を表したいんだ」
知佳が見下ろすと、彼の瞳には偽りのない愛を感じた。
だが、彼は彼女が留学していた三年間、郊外の別荘に彼女に瓜二つの愛人を囲っていたのだ。
立ちつくしていると、健太は彼女の手を取り、そっと指輪をはめた。
後方の席にいた若い女が、友人の腕を引っ張りながら羨ましそうにに囁いた。
「北村さんが留学に行ったとき、佐藤社長は三年間ずっと待ってたんだって。言い寄る女は全員断って、彼女が帰国するとプロポーズしたみたい。今は書類の準備中なんだって」
「それだけじゃないよ。北村さんが昔、生死の境をさまよったとき、佐藤社長が肝臓を提供して助けたって聞いたわ。私も将来結婚するなら佐藤社長みたいな人がいい。家の都合で縁談なんて、絶対いや」
「素敵すぎる……羨ましいな。絶対に幸せになってね」
健太は微笑み、知佳を抱き寄せた。
「知佳、俺は一生、君を裏切らない」
彼は周囲の人に向かって大きく愛を宣言した。
だが知佳の胸には、痛みが走った。
昔、養父に半殺しにされていた自分を助けてくれた時も、彼は同じ言葉を口にした。
そのとき、健太は暗闇の中の唯一の光だった。
知佳は対等な愛を望み、彼に頼りたくないと強がった。
すると彼は、彼女と一緒に皿を運び、飲み会に付き合い、胃を壊して吐血し入院するまで働き詰めた。
その姿に知佳は心を打たれ、病室で泣きながら「もうアルバイトも節約もしない」と約束した。
健太は「遅かれ早かれ結婚する。俺が稼ぐ金はすべて二人の共同財産だ」と言った。
それ以来、彼の金は彼女の金とされるようになった。
知佳は、彼にとってなくてはならない存在であり、決して手放せない唯一の存在だった。
彼は雪の荒野を越えて北極まで行き、エーデルワイスを摘んできた。
それは、彼女がエーデルワイスという歌を聴いて「帰る場所が分からない」と泣いたからだ。
知佳の両親を見つけられなかった彼は、せめて歌の中の花を彼女に見せようとした。
彼は年月をかけて愛を語り続けたが、その思いは三年間の空白で崩れ去った。
知佳は良い顔をしなくて、彼を押しのけた。
シャツの上のボタンは外れ、胸元には紫色の痕をのぞかせている。
「愛してる」と言いながら、心に浮かべていたのは彼女か、それとも愛人か。
健太は彼女の異変に気づかず、手を強く握った。「帰ろう。今夜は君の好きな料理を作るよ」
そしてスマホを取り出して時間を確認した。
「そうだ、君の好きな映画がやっている。食事のあと観に……」
言い終える前に、彼はふと動きを止めた。
画面にメッセージが表示される。
【ご主人様、今夜は猫娘ですよ】
健太はごくりと唾を飲み、慌ててスマホをしまった。「知佳、ごめん。会社に急ぎの用ができて、映画は一緒に行けなくなった」
額にキスしようとしたが、知佳はさりげなく避けた。
「仕事なら仕方ないわ。私は一人で帰るから」
彼を見送ったあと、知佳は指輪を外し、バッグにしまった。
以前なら、こんな高価な贈り物は受け取らなかった。
だが今は違う。
佐藤家は彼女の実の両親の家だ。
戸籍が移れば、彼女と健太は血のつながらない兄妹になる。
兄が妹に贈り物をするのは当然のことだ。
知佳にも準備がある。
彼女はLINEを開き、実の両親にメッセージを送った。
【お父さんお母さん、戸籍が移ったら健太に私たちの関係を話しますね】
あと七日。
彼がこの贈り物を喜んでくれることを願う。
第2話
知佳が二人の新居に戻ると、見知らぬフランス人が数人いた。
健太の秘書が近寄ってきた。「佐藤社長が今夜は一緒に夕食と映画に行けないことをとても残念がってらっしゃいました。奥様のお好きなフランス料理のシェフを呼んでお食事を用意するよう言われたんです」
テーブルには、彼女の好物ばかりが並んでいた。アロマも、彼女の好きなクチナシの香りだ。
けれど、一人きりのキャンドルディナーにどんな意味があるというのか。
「いらないわ」知佳は秘書を見て言った。「彼らを帰らせて」
彼らが帰ると、広々とした家には静寂が落ちた。
この家は、健太が彼女と一緒に選んだ新婚用の家だ。彼女がクチナシが好きだと言えば、彼は自ら庭一面にクチナシを植えた。
秋になれば散ってしまう花を惜しみ、彼は園芸の専門家に習いながら温室を建て、一生懸命花の世話をした。
温室の花は確かに美しいが、風や雨を耐え抜く強さはない。
けれど知佳は違う。彼女は弱々しいつぼみではない。健太がいなくても、自分の人生を歩いていける。
彼が愛人を養っていると知った瞬間、知佳は手放すと決めた。
二人が生涯を共にすることは、もう絶対にない。
料理人を追い返したと聞いたのか、すぐに健太から電話がかかってきた。
「知佳、怒ってるのか?もしそうなら、今すぐ仕事を放り出して帰るよ」
まるで自分が理不尽に駄々をこねているかのような言い方だ。
知佳は冷めきった料理に目を落とし、電話の向こうから聞こえる荒い息を聞きながら目を閉じた。「大丈夫よ。そっちは仕事して。私は平気だから」
電話を切ると、知佳は荷物をまとめ始めた。
主寝室の金庫には、1095通の手紙が眠っている。
彼女が留学していた三年間、健太は毎日欠かさず一通ずつ手紙を送り続け、文字の一つ一つに愛を込めた。
帰国してから、彼女はそれらを家の金庫に収め、結婚式のときに取り出すつもりでいた。
だが、もうその必要はない。
知佳は千通を超える手紙をすべて燃やした。
これで本当に終わりだ。
そのとき、大きな扉の鍵が回る音がした。
炎の向こうに現れたのは健太だった。
息を切らせながら駆け寄り、彼は知佳を強く抱きしめる。「よかった……君の声に元気がなかったから、てっきり……」
「てっきり、私が自殺でもすると思った?」
知佳は片方の口角をあげ、残っていた最後の一通を火の中に投げ込んだ。「仕事で忙しいのに、わざわざフランス料理まで用意してくれる婚約者がいるのよ。死にたいなんて思うわけないじゃない。もし裏切られていなければの話だけど」
その言葉に、健太は心臓が口から出そうだった。彼は必死に彼女を抱きしめ、ぽたりと涙を落とした。
「怖いんだ、知佳……どうか、俺を置いていかないでくれ」
肩に伝わる涙の温もりに、一瞬だけ迷いが生まれる。
彼はあまりにも上手に一人だけを愛している男を演じていた。
知佳は深く息を吸い、彼を押し離した。
健太は慌てて言い訳をしようとしたが、息が整わず激しく咳き込んだ。
その背後から、山田美穂(やまだ みほ)が駆け寄り彼を支える。
その位置からは、彼女の手が彼の服の中に差し入れられているのがはっきり見えた。
健太は眉をひそめただけで、されるがままになっていた。
知佳は見ていないふりをし、足元の火鉢を軽く蹴る。
炎は次第に弱まり、千日以上の愛の記憶は灰となって消えた。
その音で健太は我に返り、美穂を押しのけて火鉢に目をやる。
「知佳、何を燃やしていたんだ?」
彼は知佳だけに集中していて、彼女が燃やしていたものに気づかなかったらしい。
知佳は気にしないように微笑む。「ただの紙切れよ」
安心してほっと胸をなでおろすと、健太は彼女の手をそっと包み込んだ。「次からは俺に任せてくれ。火なんて危ない。君が怪我でもしたら……」
彼の愛情は、以前と変わらず丁寧で優しい。
けれど、その男が美穂に心を乱されている。
知佳の視線は目の前の健太ではなく、その後ろの美穂へと向けられている。「……で、彼女は誰?」
第3話
知佳が初めて美穂の名前を耳にしたのは、健太の母親、彼女の実母――佐藤紗英(さとう さえ)の口からだった。
留学していた三年間、健太の友人や家族は皆、その愛人の存在を知っていた。ただ一人、恋人である彼女だけが、何も知らなかったのだ。
最初、紗英も真実を告げようとはしなかった。
だが知佳が佐藤家を訪れる回数が増えるにつれ、紗英は彼女が長年行方不明だった自分の娘と酷く似ていることに気づいた。
どうしてもはっきりさせたくて、二人は親子鑑定を受けることになった。
結果を受け取った瞬間、紗英は怒りを抑えきれず、真実を打ち明けた。
彼女の目には、息子が浮気する事は許せても、娘が妥協する結婚だけは絶対に許せなかったのだ。
だが、知佳はどうしても健太の裏切りを信じられなかった。
異国で過ごした千日余りの間、彼は毎日欠かさず彼女に連絡をしていた。
初雪が降れば、「ずっと一緒にイラレっますように」と初雪に願ったことを嬉しそうに伝えてきた。
満月の夜には、わざわざ外国まで会いに来た。
高熱を我慢して、映画も一緒に観に行った。
こうやって二人は、手を取り合い一歩ずつ歩んできたのだ。
彼が裏切るはずがない!そう信じていた。
しかし、現実は容赦なく彼女を打ちのめした。
紗英に渡された住所を頼りに、ある部屋を訪ねた。すると、そこで健太が美穂の額に口づけをしていたのだ。
友人たちは茶化すように彼女を奥さんと呼び、彼は否定することなく、むしろ彼女を抱きしめ、貪るように口づけを続ける。
ようやく唇を離すと、こう釘を刺した。「知佳にはバレたくない。俺と彼女は婚姻届を書いたばかりだ。まだ提出していないから、正式に結婚したわけじゃない」
友人たちは笑いながらまくし立てる。「この業界で一番の愛妻家は健太くんだな」
「知佳さんは本当に幸せ者だ」
美穂は不満そうに、彼の耳たぶを噛む。「あなたは知佳を愛してるって言うけど、じゃあ私のことは?私のことも愛してるの?」
健太は彼女の腰を強くつねり、低い声で笑う。
「ベッドの上ではもちろん愛してるさ、ハニー」
その瞬間、知佳は堪えられなくなった。扉を開けて問いただそうかと思ったが、ふと目に入ったものに足を止めた。
美穂の手首に数珠のブレスレットが光っていた。
彼女の手にも全く同じものがある。
それは健太が、山で祈願してきたものだった。
「ほとけさんに誓った愛だから、俺たちは来世まで離れない」と彼は言った。
だが、その誓いは二つに分けられていたのだ。
一つは自分に、一つは愛人に。
その瞬間、知佳の中で何かが崩れ落ちた。扉から手を離し、魂が抜けたかのように車へ戻った。
飲み会が終わると、健太は美穂の腰を抱き、郊外の別荘へと消えていった。
同時に、彼女の携帯にメッセージが届く。
【知佳、会社で急な用事ができた。今夜は会社に泊まる。帰れない。】
携帯を握りしめると、心臓を誰かに鷲掴みにされたかのように痛んだ。息ができないほどに。
男は誰しも浮気をするのか。
あれほど自分を愛していたはずの彼さえも。
知佳は苦笑いを浮かべながら、手首の数珠を引きちぎり床に叩きつけた。
汚れた男なんて、もう要らない。
ちょうどそのとき、紗英から電話が入った。「早いうちに健太とあの女を切らせるわ。知佳、あなたは私の実の娘で、健太は養子よ。結婚すれば、会社を安心して任せられる」
知佳は唇を噛みしめ、ティッシュで涙を拭った。
「お母さん、私と彼は結婚しません。裏切りは絶対に許せません」
そう話し合ったあと、二人は戸籍の移転を密かに進めた。
知佳は思う。
健太のおかげで、自分は親を見つけることができた。
彼がプロポーズして、彼の家に連れて行ってくれなければ、自分の両親が佐藤グループの会長だと知らぬままだっただろう。
ならば彼の代わりに、自分が継げばいい。
我に返った知佳は、慌てふためく健太を見ながら再び問いかけた。「彼女は、誰?」
彼女は何も知らない婚約者を完璧に演じていた。
七日後、彼に驚きの戸籍謄本が届くその日まで。
そのとき、健太は初めて気づくだろう。自分たちはもう結婚できないことを。
彼は知佳を完全に失うのだ。
知佳の問いに健太の心は再び凍りつく。
ぎこちなく咳払いをして答えた。「……彼女は秘書だ。資料を取りに来ただけだ」
美穂は片方の口角をあげ、芝居じみた笑顔で手を差し出した。「北村さん、はじめまして。必要な資料を昨夜隣の書斎に置いてきてしまったみたいなんです。取ってきていただけませんか?」
知佳は断らなかった。
むしろ確かめたかったのだ。彼が、この家でどこまで愚かしい真似をするのか。
主寝室の設計は、彼女が何度も徹夜して図面を練り、ようやく仕上げたものだ。
結婚のその日を特別に彩るために整えた部屋だ。だが今となっては全て無駄に終わった。
いずれ時間を見つけて、不要なな飾りをすべて取り払おう。
そう思いながら部屋を出ると、背後で美穂の甘い声が響いた。「お兄さん、今夜は鞭も用意したの。絶対私にお仕置きしに来てね」
健太の低い声が答える。「ああ。俺の好きなあの制服を着て待っていろ」
知佳は耳を塞ぎ、逃げるように書斎へ向かう。
机の上には一冊の企画書しか置かれていない。
それを手に取り、戻るべきか迷ったそのとき、下に隠されていた書類に気づいた。
それは、この家の権利証だ。
名義は美穂。
それを見た瞬間、知佳は氷の底へ落ちていくような感覚に襲われる。
自分が一生懸命飾り付けた家は、彼の愛人を喜ばせていただけだったのだ。
第4話
知佳の胸が締めつけられる。考えるより先に、彼女は手にした権利証を握りしめ、健太を問い詰めようと歩き出す。
だが、半開きの寝室の扉に近づいたとき、足を止める。
中から女の甘ったるい声が聞こえてくる。「健太、もう少し我慢して。まだ彼女が隣の部屋にいるのよ」
「……隣に知佳がいると知りながら俺を誘惑するなんて」健太の声は荒く、目も赤い。
扉の隙間からのぞくと、美穂はトレンチコートの下に刺激てきなレザーの衣装を着ていて、その中に健太の手がもぐり込んでいる。
知佳の体が震える。
どうして?どうして彼は「愛している」と言いながら、私が心を込めて整えたこの寝室で他の女と抱き合えるの?
涙が込み上げ、思わずそのまま扉を開けて問い詰めてやりたかった。
その瞬間、知佳のスマートフォンが鳴り響いた。
中の二人は慌てて服を着て、健太は美穂を強くベッドに突き飛ばした。
「もし知佳に知られたら、わかってるな」
そして慌ただしく部屋を出てきた彼は、廊下に立つ知佳と目が合った。
健太は驚きのあまり心臓が飛び出そうだった。声を震わせながら言う。「知佳……いつからそこに?」
知佳は視線を逸らし、涙をこらえた。
「資料は渡すわ。私、もう行く」
スマホを握りしめたまま、彼女は足早に廊下へ向かい、電話を取った。
相手は紗英だった。「知佳、ちょっと聞きたくてね。健太に、まだチャンスはあるかしら?この子は二十年以上育ててきて、人となりも分かっている。あなたが嫁いでくれれば、私たちも安心なんだけど……もしあなたが許してくれるなら、あの女のことは必ず片付けるわ。二度と好き勝手はさせない」
知佳は唇を噛みしめ答える。「お母さん、説得しても無駄です。私は絶対に彼を許しません」
電話越しに、深いため息が漏れる。
電話を切って振り返ると、そこには健太が立っていた。
彼はおびえたように知佳を抱き寄せた。「知佳……誰を許さないって言ったんだ?」
知佳の表情に違和感を感じた彼は、すぐに言葉を続けた。「ごめん、盗み聞きするつもりじゃなかったんだ。ただ、あまりに急いで出ていくから心配になって」
知佳は唇をかすかに動かし、冷静に言った。「聞き間違いよ。あなたのお母さんが私に贈り物をくれるって言ったけど、私は断っただけ」
その落ち着いた態度に、健太の不安はさらに煽られた。
確認するかのように彼はすぐ紗英にメッセージを送り、事実が知佳の言葉通りだと知って、ようやく胸をなでおろした。
彼は機嫌を取るように知佳の手を撫でた。「君は佐藤家の嫁なんだ。母さんがくれる物は素直に受け取ればいい。明後日のオークション、一緒に行こう。気に入った物があれば、全部競り落としてあげる」
知佳は首を横に振った。ちょうど断ろうとしたそのとき、背後から甘ったるい声が聞こえる。
「佐藤社長、今夜の会合を忘れないでくださいね。お待ちしてますから」
美穂が策画書を手に寝室から出てきた。わざと襟元を広げ、首筋の赤い痕を知佳に見せつけた。
健太は彼女を睨み、慌てて体をそらして知佳の視線を遮った。そして話題を変えた。
「知佳、今夜は何が食べたい?俺が作るよ」
知佳は彼の顔を見つめた。その瞳には偽りのない愛を感じる。
けれど、ほんの数分前、その男は別の女とこの部屋で抱き合っていた。
知佳は拳を固く握りしめ、爪が食い込む痛みでかろうじて冷静を保った。
「……美穂にはもう会いたくない」
「ごめん、知佳。これからは二度と彼女をここに連れてこない。今回は許してくれる?」
いいえ。
知佳は心の中で強く繰り返した。
絶対に許さない。
彼女は健太を避けるため、リビングへ向かった。
「刺身が食べたい」
「分かった。すぐ新鮮な魚を取り寄せる」と健太は即答した。
魚をさばくのは面倒だが、知佳の望みなら天の星でさえ取って来て差し出すだろう。
知佳は彼の人生で最愛の女性だ。
たとえ来世でも、彼は知佳だけを愛する。そう信じていた。
知佳の好物を作るために、彼は名だたる料理人に弟子入りもした。
刺身どころか、国賓晩餐会レベルの宴会料理だって再現してみせるつもりだった。
健太が台所で支度を始め、知佳はリビングでテレビをつけた。
そのとき、テーブルの上の彼のスマートフォンが光った。
【知佳の目の前で浮気するのって、スリル満点じゃない?次は新しい遊び方を試してみない?】
知佳は唇を強く噛みしめた。、血の味が広がっても気づかなかった。
結局、私は盛り上げる道具でしかなかったのね。
ならば、私からも贈り物をあげましょう。
忙しそうに台所に立つ健太の背中を見ながら、携帯をさわった。
七日後に送信されるよう、メッセージを予約した。
【お兄さん。知佳はあなたと美穂の永遠の幸せを祈っています。】
紗英は約束してくれた。もし健太がまた美穂と関われば、彼のカードをすべて止めると。
そのとき美穂は、まだ「新しい遊び方」を考える余裕があるのだろうか。
第5話
翌朝、知佳は健太のキスで目を覚ました。
彼は疲れ切った様子で、急いで家に帰ってきたばかりだった。
知佳がベッドを降りようとすると、健太は片膝をつき、彼女に靴を履かせた。
「知佳、父さんと母さんが俺たちを呼んでる。一緒に食事に行こう」
知佳は目をこすり、平然を装いながら問いかけた。「昨日、帰ってこなかったの?」
健太はいつものように嘘をついた。「仕事が忙しくてね。起こしたくなかったから、そのまま会社で寝たんだ」
知佳の表情が少しひきつる。
もし本当に会社にいたのなら、昨夜彼女のスマホに届いた美穂からの艶めかしい写真は何だったのだろう。
彼の体からの香水の匂いは、どう説明するつもりなのか。
だが、彼女はそれ以上聞かなかった。
男の嘘は、追及してもまた次の嘘で覆い隠されるだけだ。
支度を終えると、健太は彼女のために用意した朝食をテーブルに並べた。
七年の交際の間、彼は彼女に関わることを他人任せにしたことがなかった。
「知佳、台所からお湯を持ってくるね。この二日くらいで生理が始まるだろ?お腹を冷やしたら駄目だよ」
彼女が飲み終えると、彼は優しくお腹を温めてくれた。「この時期は特に大事だから、絶対に冷たいものは口にしちゃだめだよ」
車に乗り込んでも、彼はまだぶつぶつと言い続けていた。
知佳はうんざりして、イヤホンを耳につけ、音楽を聴き始めた。
もう子供じゃない。自分の体くらい、自分でちゃんと管理できる。
彼女の拒絶を目から感じ、健太は一瞬言葉を失い、しばらくして低い声でつぶやいた。「……忘れてた。君は留学していた三年間で、もうちゃんと自分を大事にできるようになったんだな」
初めて彼女と出会った頃の知佳は自分の体さえ顧みなかった。
彼女はこう言ったのだ。「もし私が壊れてしまえば、あの人たちに息子のための犠牲を強いられることもなくなる」
その言葉に、健太は初めて「彼女のために何かしてやりたい」と強く思った。
そして一人で彼女の養父母の家へ行き、数百万円で彼女の戸籍を買い戻した。
昔、知佳は大変な人生を送っていた。だから、これからの人生は自分が愛で満たしてやろう。
大学時代、彼は彼女がするすべての選択を支えた。
留学を迷っていたときも、真っ先に背中を押し、経済学を学ぶことを勧め、費用をすべて負担した。
彼にとって、この世で知佳以上に大切なものは存在しなかった。
そう考えているうちに、思わず口にしてしまった。「知佳、俺は一生君のそばにいていいかな?」
「え?」
知佳はイヤホンを外した。
「今なんて言ったの?音楽聴いてて聞こえなかった」
健太は顔を上げ、笑みを浮かべた。「……なんでもない」
窓から差し込む朝日が彼の横顔を照らす。その一瞬、知佳はなぜか胸の奥にかすかな切なさを覚え、思わず視線をそらした。
「着いたわ」
屋敷の外では、すでに健太の両親が待っていた。
二人が降りてくると、嬉しそうに家へと迎え入れた。
リビングに座った健太は、ふと思い出したように口を開いた。
「そうだ。まだ知佳に結婚祝いを贈ってなかったな。考えた末に決めたんだ。俺が持っている佐藤グループの全株を、彼女に譲ろう」
その言葉に、健太の両親は目を見開き、知佳も驚いて彼を見つめた。
健太は彼女の手をしっかり握りしめた。「父さん、母さん。止めなくていい。俺の決意は変わらない」
健太の両親はしばらく見つめあっていた。
知佳の錯覚かもしれないが、紗英の目に涙が光ったように見えた。
やがて二人は静かにうなずいた。「……わかった。知佳と結婚するのなら、家族の一員として株を持つのも当然だ」
少し話したあと、使用人が昼食の用意ができたと告げにきた。
食卓で紗英は料理を取り分けながら言う。「あなたの好みがわからなかったから、健太が細かく注意点を書いてくれたのよ。口に合うかしら?食べてみて」
知佳は無意識に言う。「ありがとうございます、お母さん」
そうい言った瞬間、場の空気が凍りついた。
結婚の手続きは済ませたが、正式に結婚したわけではない。今まで「おばさん」と呼んでいたのに、お母さんと呼ぶには、まだ早すぎた。
しかし健太はにこやかに笑い、彼女の頭を撫でた。「早く呼んでくれるに越したことはないよ。俺の最後の願いは、君を妻として迎えることなんだから」
知佳は胸をなで下ろした。疑われてはいなかった。
食後、健太は彼女を連れて佐藤グループへ行き、株の譲渡契約書に署名した。
そのとき、ふと知佳が指に何もつけていない事に気づき、彼の心がぎゅっと締め付けられた。
「知佳……俺が贈った指輪は、どこにあるんだ?」
第6話
知佳は左手の薬指に目をやってから、ためらいなく署名を終えた。
二人の署名が入った株式譲渡書を弁護士に差し出し、ようやく健太に視線を向けた。
「ぶつけたりするのが怖くて、指輪は家に置いてきたの」
健太は彼女の手を包み込んだ。「知佳、自分をもっと大事にしなきゃ。指輪くらいまた買えばいい。君が望むなら鉱山ごと買い取って、君だけのジュエリーを作らせるよ」
彼は困ったように笑い、頭をかいた。「でも……そうなると俺がジュエリーデザインを勉強しなきゃな。センスあるかどうか分からないけど」
知佳は黙って彼の瞳を見つめ続けた。
健太は未来の話を紡ぎ続けた。「結婚式が終わったら、旅行に行こう。君がずっと行きたがってたところへね。好きなだけ滞在すればいい。もしかしたら、その間に子どもができるかもしれないね」
一拍置いて、すぐに首を振った。「いや……やめておこう。子どもを産むのはとても辛いって聞くし、無理に望む必要はない。もし欲しくなったら、養子を迎えればいい」
もう、聞いていられなかった。
彼と未来を描く資格は、自分にはない。
知佳は口を開いた。「……健太。帰りましょう」
彼は一瞬きょとんとした。知佳の様子がおかしいことに気づいた。
「知佳、誰かに嫌なことを言われた?」
「いいえ。ただ疲れただけ。家に帰って休みたいの」
彼女を傷つけている張本人は、目の前のこの男だった。
知佳はバッグを手に取り、一人で歩き出す。
社長室を出ると、むっとするような脂っぽい匂いに吐き気を催した。
視線を落とすと、秘書デスクには半分食べかけの弁当があった。
思わず眉をひそめたその時、コップが目の前に差し出された。
知佳はつい受け取ろうとした。だが、唇に触れる寸前で、差し出した相手が手を放した。
床に倒れ込む音。
「知佳さん……!せっかくお水を渡そうとしたのに、どうして突き飛ばすんですか?」
涙声で訴える美穂。
その言葉が、ちょうど背後から来た健太の耳に届いた。
彼は一瞬迷ったが、すぐに美穂を抱き上げた。
「知佳、俺が彼女を病院に連れていく。君は運転手に送ってもらって」
そう言い残し、足早に去って行った。
知佳はもう堪えきれず、洗面所に駆け込み吐いた。
口をすすぎ、荒い呼吸を整えると、まっすぐ健太のオフィスへ戻った。
彼のパスワードはいつも彼女の誕生日だ。
迷うことなく解錠すると、彼女は必死に探し始めた。
あの千通を超える自分の手紙を。
家に持ち込んだ荷物を自分で整理したとき、手紙はなかった。
ならばここにあるはずだ。
だが、どれだけ探しても、オフィスは驚くほど片付いていて、人がいた形跡もない。
「……どうして?」
知佳は顔を覆い、声を殺して泣いた。
大切にしまっていたはずの返事が、どこにもない。
もしかして読み終わった途端に、捨ててしまったのだろうか。
彼女は最後の望みをかけ、部屋の隅の金庫を見つめた。
誕生日を入力すると、軽く音を立てて扉が開いた。
だが、中は空っぽだった。
唇をかみしめ、彼女の心は一気に冷え込んだ。
すぐさま車を走らせ、佐藤家の屋敷へ行った。
両親に挨拶もせず、真っ直ぐ健太の部屋へ駆け込んだ。
そこにもまた、何もなかった。
彼と過ごした痕跡、彼女が贈った思い出の品――ひとつも。
床に座り込み、現実を認めざるを得なかった。
彼にとって、自分の愛はその程度のものだったのだ。
屋敷を出て、両親の心配に大丈夫とだけ答え、足の向くまま歩いた。
辿り着いたのは、二人で選んだ家だった。
無理に口角を上げて、扉を開ける。
寝室の机には、旅行の写真がある。
壁には、彼が贈ってくれた肖像画だ。
部屋中が彼との記憶にあふれている。
だが、そこに彼女が贈った物は一つもなかった。
手作りの菩提樹のサイコロ数珠も。
心を込めて編んだセーターやマフラーも。
何もない。
知佳は乾いた笑いを漏らし、机の写真立てを掴むと、床に叩きつけた。
割れたガラスが飛び散った。
全部、壊してしまおう。
宝飾品は寄付する。
細々とした物は、燃やせるものは燃やし、燃やせないものはネットに出品する。
やがて、部屋に残ったのはただ一つ。
「知佳」と名づけられたブルーサファイアの指輪だけだった。
彼女は迷わず電話をかける。
「もしもし、寄付を――」
その瞬間、手首を強く掴まれた。
目の前の健太が、充血した目で問い詰めた。
「知佳……どうしてだ?どうして俺たちの家を壊そうとするんだ?」
第7話
健太の首筋には、まだ消えきらない紫色の痕が残っている。
知佳は彼を無視し、電話の相手に続けた。
「ブルーサファイアの指輪を寄付したいんです。後で取りに来てください。ええ、住所はいつものところです」
電話を切っても、健太はなお彼女の手首を放さなかった。
知佳は深く息を吸い、適当に理由を作る。「新しく家を飾り直したいの。それで物を整理しているだけよ」
しかし彼の力は強く、決して離そうとしなかった。彼は悟った。知佳を本当に失うかもしれない。
そんなことは絶対に許せない。彼女は自分の命そのものだから。
沈黙のあと、知佳は静かに言った。「あなた、私にもっと自分を大事にしろって言ったでしょ?だから、必要としてくれる人に寄付して、新しいものを買うの」
「そうだな……じゃあ新しいのを買いに行こう。二人で。今すぐにでも」そう言った途端、健太は激しく咳き込み、息が乱れて手を離してしまった。
知佳は一歩退いて問いかけた。「風邪?お湯を沸かしてあげようか。温かいものを飲めば少しは楽になるはず」
健太はふらつきながら部屋へ行き、引き出しから薬を取り出すと、錠剤を何個かそのまま飲み込んだ。
瓶に薬の名前はなく、風邪薬か何かだろうと知佳は思っていた。
彼は机に手をつき、しばらく息を整えたあと、うつむいて謝った。「さっきは強く握ってごめん。焦ってしまったんだ。君が捨てたいというなら、一緒にやろう。君の名義で二億も寄付しよう」
ほどなくしてスタッフがやって来ると、二人は一緒に宝飾品を仕分けた。唯一残されたのはブルーサファイアの指輪だ。
健太はさらに二億円を寄付し、その場で証明書を受け取った。
スタッフが帰った後、健太は空になった主寝室を見渡し、胸が締めつけられた。
それでも無理に笑顔をつくり、知佳に声をかけた。「部屋のレイアウト、どうするつもりだ?今回は一緒に設計してみないか?」
知佳は梱包した箱を見て、少し笑った。「大丈夫、私がやるわ。あなたは会社が忙しいでしょう」
健太は首を振った。「この数日は仕事を全部家に持ち込む。どこへも行かない。ずっと君のそばにいる」
そうして彼は本当にオフィスを家に移し、毎日工夫して新しい贈り物を知佳に渡した。家を再び思い出で満たそうと必死だった。
五日後、彼の誕生日が来た。
その朝、健太は早くから動き出し、花束を抱えて知佳の部屋へ入った。
「知佳、俺の誕生日プレゼントは?」
「……」花を受け取る手が一瞬止まった。
例年、彼への贈り物はすべて知佳の手作りだった。今年もそうするつもりで、一ヶ月前から準備を始めていた。
だが、彼が外に愛人を囲っていると知ってからは、一度も手をつけていなかった。
未完成の品は地下室に取り残されたまま。
「プレゼントはケーキを切るときに渡すわ」
その場で考えた言い訳をしながら、彼女はカフスボタンを買ってごまかすつもりだった。
健太は頬にキスをし、笑みを浮かべた。
「楽しみにしてるよ。でも今日一番の贈り物は、やっと婚姻届を提出できることだ」
知佳は答えなかった。
今日、本来なら二人が正式に婚姻届を提出する日。彼女の戸籍も佐藤家に移るはずだった。
だが婚姻届は、もう永遠に手に入らない。
最後に、彼女は恋人として彼の誕生日を祝うことを決めていた。
朝食後、彼女は用事を口実に街へ出て、紫色のカフスボタンを選んだ。
夜七時、誕生日会が始まった。
知佳がまだ部屋に入る前、健太の友人たちの声が聞こえてきた。
「今夜は知佳さんもいるんだろ?それでもするつもりか?」
「俺なら知佳さんが寝たら、すぐ隣の部屋でやるね。スリル満点だろ?」
健太は軽く咳払いをした。
「このところ知佳の様子がよくない。騒ぎを起こしたくないんだ」
それを聞いた美穂は、顔を赤らめながらコートを脱ぎ、健太の膝に腰を下ろした。
「今夜のために手錠まで用意したのよ。本当にしないの?」
健太は彼女の服の中へ手を入れる。「これ以上言うと、今すぐやるぞ」
美穂は唇を噛み、涙ぐむように囁いた。「……ならいいよ」
その瞬間、知佳は堪えきれず、勢いよく扉を開けた。
場の視線が一斉に健太へと向けられた。
次の瞬間、彼は口から血を吐き、力尽きてソファへ倒れ込んだ。
第8話
知佳の喉まで出かけた言葉は、結局声にならなかった。
震える指でスマホを操作したが、あまりの動揺で手を滑らせ床に落としてしまった。
その音に場がざわめき、すぐに誰かが慌てて携帯を取り出し、救急車をよんだ。
その時、着信音が鳴る。
知佳がかけようとした番号の画面は、紗英からの着信画面になっていた。
だが彼女はそれを見る暇もなく、駆け寄って倒れ込んだ健太に声を張り上げた。「彼に何があったの!?」
脱力した健太を支えきれず、美穂は床に倒れ込んだ。
彼女は知佳の言葉を聞くと、スマホを握っていた手を引っ込め、挑発的な眼差しで顔を上げた。
「刺激が欲しくて、薬を飲んだのよ」
そしてわざとらしく化粧を直し、立ち上がって知佳に歩み寄り、冷たい声でつづける。「あなたはベッドでは取り柄がない。だから彼は私を選んだの」
「……正気なの?」
周囲の男たちが慌てて美穂を止める。この業界で知らぬ者はいない。健太は知佳を命のように大切にしている。もしこの女の言葉が本人の耳に入れば、自分たちも無事では済まない。
だが美穂は顔をゆがめ、知佳を見下すような視線を向けている。「一晩中できる私と違って、その体で彼をどれだけ満足させられるの?身の程をわきまえて身を引きなさい」
「美穂!」
兄弟分の一人がついに声を荒げ、彼女の口を塞ごうとした。
「美穂」
その名を呼んだのは知佳だった。
彼女の声に、場の空気が凍りついた。
この業界に足を踏み入れてから、健太は幾度となく「知佳を尊重しろ」と言い聞かせてきた。
だからこそ、彼女が口を開いた瞬間、誰もが動きを止めた。
知佳は静かに身をかがめ、床に落ちたスマホを拾い上げた。
そして立ち上がると同時に、迷いなく美穂の頬に平手打ちをした。
「今日をもって、彼をあなたに譲るわ」
その言葉に、男たちは一斉に息を呑んだ。世界の終わりとは、きっとこういう瞬間を言うのだろう。
命とまで呼んでいた女に健太が捨てられるなど、誰も想像したことがなかった。
知佳は周囲の反応を一切無視し、振り返ることなく出ていった。
外に出てから彼女は、先ほどの電話をかけ直した。「お母さん、何か御用ですか?」
電話の向こうの紗英は慌ただしそうに答えた。「知佳、海外で大事な商談があるの。私と父さんは忙しいし、健太を行かせるのも不安なの。あなたが代わりに行ってくれない?」
知佳は涙が一粒、頬を伝っていることに気づき、そっと拭って「……はい」と答える。
「よかった。今夜の便よ。チケットは秘書に取らせるわ。生活用品は向こうで買えばいいから」
紗英親はそれだけ言うと、彼女の返事を待たずに電話を切った。
すぐに秘書から連絡が入り、チケットが手配された。
知佳は言われるがまま、空港へ向かう車に乗り込んだ。
「そんなに急ぎの用事なんですか?」と彼女が聞くと、秘書は少し笑った。
「籍を移されたので……奥様は佐藤社長が騒ぎ立てるのを心配して、知佳さんを海外に避難させたいんです」
知佳は唇を噛みしめる。ちょうど今日、戸籍が正式に佐藤家へ移された日だ。
本来なら、彼の誕生日に婚姻届が受理されるはずだった。
七年の想いは、この日を境に灰となり風とともに散ったのだ。
空港へ行く前、彼女は車をホテルに回させる。
結婚式場もドレスも、まだ解約していなかったからだ。
知佳は自ら二倍の違約金を払って式場をキャンセルすると笑顔で見送られた。
彼女のためにイタリアから特注したウェディングドレスは家に保管されていた。
最後に一目見てから、迷いなくハサミを入れた。
床に宝石がひとつひとつこぼれ落ちる。
それらは全て彼女の好みに合わせ、職人が丹念に縫い付けたものだった。
「君は千の星に値する」と健太は言った。
天の星を贈れぬ代わりに、最も輝く宝石をドレスに散りばめたのだ。
彼の言葉通り、彼のそばを歩く一歩一歩は、まるで運河を渡るかのようだった。
溢れ出す記憶に胸を押し潰され、息ができなかった。
彼が告白してくれたあの日が蘇る。
だが、彼女は背を向けた。
立ち上がり、秘書から渡された航空券を握りしめ、知佳は振り返ることなく海外への飛行機に乗り込んだ。
また会える日が来るのなら。
その時は、ただ一言「お兄さん」と呼びたい。