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明月に映る前世
立都の最上流にある富裕層の社交界には、昔から暗黙の掟があった。 ——男の子は外でいくらでも女遊びをしていいことになっている。 けれど女...
Chương (1)
第1章
立都の最上流にある富裕層の社交界には、昔から暗黙の掟があった。
——男の子は外でいくらでも女遊びをしていいことになっている。
けれど女の子は、成人の日を境に、こっそりと「専属アシスタント」を抱え、密やかに欲を満たすしかない。
私の成人式の日、百人もの応募者の中から一目で選んだのは、金縁眼鏡をかけた篠宮聖真(しのみや せいま)だった。
彼は成熟していて、落ち着きがあり、しかも潔癖症。
彼が唯一受け入れた条件は「体は触れない、手だけ」というものだった。
そして終わるたびに、消毒用アルコールで百回も手を洗う。
五年の間に、使い切った空き瓶は別荘を七周できるほどに溜まった。
私はいつか彼の障害を乗り越えさせて、この男を完全に自分のものにできると信じていた。
ところがある日、酒に酔った私は、うっかり篠宮の部屋に入り込んでしまう。
枕の下に隠されていたハンディカムから見つかったのは、彼自身の自慰映像。
そこに映っていたのは、私に対して常に冷静で理知的だった男が、母を死に追いやった義妹の下着を前に、喉仏を震わせながら――
「長馨……愛してる……」
そう呟く姿だった。
その瞬間、私は気づいてしまった。
彼が私に近づいてきた一歩一歩は、すべて彼女への長年の執着に基づいたものだったのだと。
だがその後、私がその愛人の子の代わりに嫁いだのは、別の男だった。
篠宮聖真、どうして泣いているの……?
第1話
立都の最上流にある富裕層の社交界には、昔から暗黙の掟があった。
――男の子は外でいくらでも女遊びをしていいことになっている。
けれど女の子は、成人の日を境に、こっそりと「専属アシスタント」を抱え、密やかに欲を満たすしかない。
私の成人式の日、百人もの応募者の中から一目で選んだのは、金縁眼鏡をかけた篠宮聖真(しのみや せいま)だった。
彼は成熟していて、落ち着きがあり、しかも潔癖症。
彼が唯一受け入れた条件は「体は触れない、手だけ」というものだった。
そして終わるたびに、消毒用アルコールで百回も手を洗う。
五年の間に、使い切った空き瓶は別荘を七周できるほどに溜まった。
私はいつか彼の障害を乗り越えさせて、この男を完全に自分のものにできると信じていた。
ところがある日、酒に酔った私は、うっかり篠宮の部屋に入り込んでしまう。
枕の下に隠されていたハンディカムから見つかったのは、彼自身の自慰映像。
そこに映っていたのは、私に対して常に冷静で理知的だった男が、母を死に追いやった義妹の下着を前に、喉仏を震わせながら――
「長馨……愛してる……」
そう呟く姿だった。
その瞬間、私は気づいてしまった。
彼が私に近づいてきた一歩一歩は、すべて彼女への長年の執着に基づいたものだったのだと。
だがその後、私がその愛人の子の代わりに嫁いだのは、別の男だった。
篠宮聖真、どうして泣いているの……?
……
「わかったわ、保坂家のあの躁鬱の狂人に、清水長馨(しみず ちょうけい)の代わりとして嫁いでやる」
普段は無口な父が初めて机をひっくり返しそうになり、慌てて立ち上がって興奮した顔で叫んだ。
「南枝、お前、納得したのか?保坂家のほうが催促がきつい。来週には式を挙げることになるだろう。どんなドレスがいい?今すぐ手配させる……」
「いいえ、要らない。条件が二つだけある。あなたがそれを承諾すれば、私は嫁ぐ」
父の顔から喜色がすっと引いて、椅子に戻ると警戒を含んだ目で私を見た。
「何を要求するんだ?妹に危害を加えるつもりなら、早くその考えを捨てろ。俺を怒らせるなよ」
「私の妹はとっくに死んだでしょう、覚えてないの?お墓だってあなたが自ら移したのよ」
私は笑みを浮かべた。目の奥は氷のように冷たかった。
長馨は父の初恋の娘で、私より一つ年下だ。
八年前、彼女の母が亡くなった。
父は愛しながらも得られなかった女への未練を断ち切れず、彼女を家へ連れ帰り、養女として迎え入れた。
彼女がうちに来たその初日、母は階段から転落して命を落とした。腹の子も道連れに、一度に二つの命が絶たれた。
母が亡くなって、まだ初七日も過ぎないうちに――
彼女は父に泣きつき、母の墓を掘り返してまで自分の母の墓と取り替えさせたのだ。
母は死んでなお、安らぐことさえ許されなかった。
父は顔色を変え、手元にあった水晶の灰皿を掴んで私に投げつけようとしたが、その瞬間を堪えて声を絞り出すように冷たく言った。
「言え、条件を」
「第一に、清水長馨の母の墓を移してほしい。二度と高野家の霊園に入れさせないでほしい。
第二に、篠宮聖真を清水長馨のそばに配置してほしい。彼はもういらない」
父の顔は完全に陰鬱になった。
「高野南枝(たかの なんし)、お前は正気か?」
私は確かに正気を失っていた。この家に追い詰められて正気を失ってしまったのだ。口元を引き裂くように笑って、低く言った。
「承諾するかどうかだけを言って」
父は黙り、葉巻に火を点け、長く煙を吐き出して感情を何とか抑え込んだ。喉の奥から絞り出すような声で言った。
「わかった。承諾しよう。お前が嫁ぐその日に、すぐ手配する」
「駄目よ」
私は彼をじっと見据え、揺るがぬ調子で言った。
「嫁入り前に、あなたが墓を移すのを私が確認しなければならない。それができないなら、保坂家が清水長馨に報いを求めに来ることを覚悟しなさい」
水晶の灰皿が私の足元で粉々に砕け、父の嗄れた声が聞こえた。
「約束する」
第2話
高野邸を出たときには、もう午前三時を回っていた。
家に帰りたくなくて、ひとりバーで酒に溺れた。
アルコールが全身にまわった瞬間、思い出したのは聖真のことだった。
彼が面接に来たのは、ちょうど母の命日の日。
長馨は「不吉だ」と言って、母の写真をすべて池に投げ捨てた。
あれほど大勢いた使用人の誰ひとり手を差し伸べなかったのに、聖真だけが袖をまくり上げ、水の中から一枚一枚拾い上げてくれた。
胸が震えたのは、その一瞬だった。
だが昨日になって初めて知った。あれすら仕組まれた演出だったのだと。
彼が水に入ったのは私を憐れんだからではない。長馨の注意を引くためだったのだ。
昨日は長馨の誕生日だった。父は祝うために、わざわざ私に「家に帰るな」と言い含めた。私が顔を出せば、長馨の機嫌を損ねるとでも思ったのだろう。
聖真もまた「大事な用がある」と言って早々に休みを取った。
その夜、私はまた一人でバーに沈み、酒をあおっていた。
帰宅したとき、うっかり聖真の部屋に足を踏み入れてしまった。
枕の下に隠されていたハンディカムから流れたのは、彼の自慰映像だった。
画面の中で、私に対してはいつも冷静で理知的だった男が、わずかな布きれのようなランジェリーを前に、喉仏を震わせていた。
そして絶頂の瞬間、私は聞いてしまった。
「長馨……愛してる……本当に、心から愛してる……」
映像の終わりには、彼と執事の会話が録音されていた。
――聖真様、この「専属アシスタント」遊びはいつまで続けられるおつもりです?旦那様も奥様も、もう何度もお戻りになるよう催促されています。このままでは本当にお怒りになりますよ。
それに……聖真様は立都の御曹司ですよ。女なんて指一本でいくらでも手に入るのに、どうして三流財閥の養女なんかに執着して、わざわざ身分を隠し、姉のそばで従者のふりまでなさるんです?
聖真は金縁眼鏡を外し、欲情に濡れた瞳に柔らかな光を宿しながら答えた。
――仕方ないだろう……長馨は純粋なんだ。怖がらせたくない。
――では、高野南枝のことは?聖真様は何も感じられませんか?
聖真の眉がわずかにひそめられ、嫌悪が一瞬だけ浮かんだ。
――感じるさ。吐き気がするほど、ね。
映像はそこで終わった。
私は腹を押さえ、洗面所の床に膝をついて嘔吐した。
心臓は張り裂けそうに痛み、どうにか身を起こして、その夜八本目の酒を開けた。
喧噪が耳に飛び込んできて、振り向くと――そこにいたのは聖真だった。
黒一色の制服に身を包み、皺ひとつなく整えられている。
白いシャツのボタンも、一番上まできっちりと留められている。
「高野さん、そろそろお帰りください」
私はふらつきながら立ち上がり、足を滑らせ、そのまま彼に倒れ込んだ。
聖真は顔をしかめ、即座に後ろへ身を引く。
私に触れることを一分一秒でも恐れるように。
「痛っ……」
床に倒れ、膝が擦りむけて血がにじむ。
それでも彼は冷静に、白い手袋をはめた手で私を軽く抱き起こすと、ためらいなくソファへ放り投げ、すぐさま洗面所へと向かった。
また消毒しに行くのだとわかっていた。
五年間、私のそばにいたあいだに、すでに千本以上の消毒液が空になった。
私に触れれば、消毒。
私の部屋に入れば、消毒。
ベッドで手を使うときさえ、その後は全身を洗い流すように消毒を繰り返した。
もし、あの日彼が長馨の写真を手に自慰しているのを見なければ、私は今も彼に「病的な潔癖」があるのだと信じていただろう。
口元に浮かんだ嘲笑は、泣き顔のように震えていた。
半時間後、聖真が戻ってきた。
手袋はなく、全身から消毒液の匂いが立ちのぼっていた。
第3話
もし以前の私なら、きっと反抗心を起こし、「抱いて」と駄々をこねただろう。
彼の身体に、私の匂いを一面に染みつかせるまで。
だが今日、聖真の警戒に満ちた視線を真正面から受け止めた私は、ただ顔を拭き、静かに目をそらした。
「行きましょう」
聖真は一瞬、驚いたように固まった。
帰り道、車内は重苦しい沈黙に包まれた。
彼は誰かにせわしなくメッセージを送り、私は父から届いたウェディングドレスの写真を無感動に眺めていた。
突然、彼が冷ややかに声を発した。
「停めてくれ」
「え……?」と私が振り向くと、彼はさりげなくスマホを隠し、端正な声で告げた。
「急用で南区へ行きます。高野さん、あなたはタクシーで帰ってください」
外は立都に激しい豪雨が降りしきり、午前四時を過ぎた街には人影も車もなかった。
私が「嫌」と拒もうとした瞬間、彼はもう車を停めさせ、ドアを開け、私の身体を外へ押しやった。
酒気で足元がおぼつかず、そのまま泥水に転げ落ちる。まるでずぶ濡れの犬のように。
「篠宮聖真!」
怒りに任せて叫んだが、彼は振り返りもせず、冷淡に運転手へ言い放った。
「行け」
車は豪雨を切り裂くように走り去り、跳ね上がった泥水が全身を打ちつけた。
私はただ雨の中に立ち尽くし、世界から見捨てられたように震えた。
どうにかタクシーを捕まえることもできず、びしょ濡れのまま五キロ先の別荘まで歩いて帰った。
灯りの点るリビングに入ると、長馨がフランス製のふわふわしたルームウェア姿で、夜食をつつきながら寛いでいた。
そこは南区でも名高い高級料理店の品。配達はなく、必ず自分で取りに行かねばならないはずだ。
聖真はその傍らに立ち、彼女を見る眼差しには抑えきれない熱情が宿っていた。
「お姉さん、帰ってきたのね」
長馨は嬉しそうに碗を置き、私の腕に親しげに絡んでくる。
「聖真さんが夜食を買ってきてくださったの。一緒に食べましょう?」
「触らないで」
私は腕を振り払い、軽蔑を込めて後ずさった。
長馨はきょとんとしたあと、すぐに目を潤ませ、泣き出しそうに聖真を仰ぎ見た。
「聖真さん……私、何か悪いことをしたか?」
聖真の瞳に憐れみが滲み、私を見る視線には押し殺した嫌悪が影を落とした。
その表情を見て、長馨の頬は満足げに染まり、羞じらいの色を浮かべる。
「あの、足が少し痛くて。聖真さん、私をお部屋まで抱いて運んでくれない?」
その瞬間、私は確かに見た。
聖真の喉仏が二度ごくりと動き、金縁眼鏡の奥の切れ長の瞳が深く沈んでいくのを。
彼は長馨を軽々と抱き上げ、階段を上がっていった。
そして去り際、大広間の灯りをきっちりと消すことも忘れなかった。
私は全身ずぶ濡れのまま、闇の中に取り残された。
長く立ち尽くした末、ふっと笑みを零し、亡霊のように自室へ戻った。
その夜、私は高熱に倒れた。
朦朧とする意識の中、ふと漂ってきたのは聖真特有の消毒液の匂い。
だがよく嗅げば、そこに混ざっていたのは、私が最も嫌悪する甘ったるい香水――長馨の香りだった。
――二日後。ようやく熱が引き、残されたのは結婚までわずか四日という現実。
身支度を整え、買い物に出かけようとすると、長馨がなぜか駄々をこね、無理やり私の車に乗り込んできた。
聖真もまた、その横で鋭い視線をこちらに注いでいた。
私は二人を気にも留めず、車窓の外をぼんやり眺めていた。
交差点に差し掛かったとき、突然、車体が制御を失った。
黒いマイバッハがそのまま立都湾大橋を突き破り、海へと墜落していく。
冷たい海水が一気に喉へ流れ込み、もがけばもがくほど胸は焼けるように痛んだ。
視界に滲んだのは、自らの血の赤。
砕けたガラス越しに見えたのは――聖真が窓を打ち破り、長馨を抱きかかえ、必死に水面へと泳ぎ上がる姿。
だが、海水が私の意識を呑み込むその瞬間まで、彼は一度も振り返ることはなかった。
第4話
病院で目を覚ましたとき、もう二度目に見捨てられたことを自覚した。
喉は焼けただれたように痛み、息をするたびに骨の奥まで刺すようだった。
医師は言った――もしあと一秒遅ければ、一生植物状態になっていたかもしれない、と。
薬を飲んで、私はまた意識を失った。途中で揺り起こされると、長馨が聖真の腕にすがりついて、涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。
「聖真さん、全部私のせいよ。お姉さんを助けなかったのは、私を守るためでしょ?もしお姉さんに何かあったら、私、一生自分を責め続けるわ」
聖真は潔癖を忘れたかのように、きめ細かく彼女の涙を拭い、その声までもが信じられないほど優しかった。
「そんなふうに責めないでください。何度時間が戻っても、私はまずあなたを助けます」
「本当?」
長馨は涙に曇った瞳をあげる。聖真の視線は熱を帯び、もはや抑えきれない想いが滲んでいた。
「もちろんです。私はあなたのことが好――」
バン!
モニターを床に叩きつけた瞬間、甘やかに浸っていた二人は現実に引き戻された。
聖真は驚愕のままこちらを振り向き、私の青ざめた顔を見ると一瞬言葉を失った。
「高野さん、あなたは……」
「出て行け」
私は低く言った。聖真は信じられないといった顔で訊ねる。
私は彼を真っ直ぐに見据え、そこにはもう情など欠片も残っていないことを示した。
「あなたと清水長馨、二人とも――出て行きなさい」
長馨は眉を寄せ、また涙を溜める。
「お姉さん……」
私は花瓶を掴み、床に叩きつけた。粉々に砕ける陶の音に、私は薄く笑みを浮かべた。
「まだ出ないの?それとも私があなたたちを殺すまで居座るつもり?」
長馨は凍りつき、嗚咽とともに涙が溢れ出した。
彼女は聖真に哀願するような視線を投げ、そして走り去った。
聖真は無意識に追いかけようとして足を上げたが、ぐっとその動きを抑えた。
しばらくして、ようやく一言だけ吐き出した。
「高野さん、どうかお怒りをお鎮めください」
私は彼を見ず、そのまま横になって目を閉じた。結婚までは、あと三日だった。
翌日、私は医師の制止を振り切って退院を強行した。
明日、私は嫁ぐ。
私は自分の目で、長馨の母の墓が移されるのを確かめなければならない。
あの日、彼女が父を焚きつけ、私に彼女の母へ頭を擦りつけさせた、あの屈辱の時と何ひとつ変わらない。
土を掘り返すとき、父は姿を見せなかった――自分が耐えられないからだろう。
だが私にはわかっていた。母の棺が掘り出されたとき、あのとき父は顔を赤らめて笑っていたのだ。
途中で長馨がやって来た。彼女は初めて仮面を剥ぎ、憎悪のこもった顔で私を見下して叫んだ。
「高野南枝、このクソ女!どうしてまだ死なないのよ!
あんたがそんなに悪辣だったと知っていたら、あのときあんたの母さんだけを始末するだけで終わらせず、あんたも一緒に連れていってやればよかった!」
頭が一瞬、ぶち破れたように痛んだ。
「何だって?」と私が吐き捨てると、長馨は唇を歪め、甘く毒のある笑みを浮かべた。
「ねえ、あんたのお母さんがどれだけ愚かだったか、わかる?私が彼女を突き落としたとき、あの人は『許さない』なんて言わずに、『救急車を呼んで』って私に頼んだのよ。
私が何をしたか、知りたい?」
彼女は嗜虐めいた楽しげな声で続けた。
「私は彼女の腹を踏みつけて、『白鳥の湖』を踊ってやったのよ」――と。
理性はそこで切れた。
私は野犬のように飛びかかり、母と腹の子のために、彼女に償わせようとした。長馨は即座に跪き、涙で懇願した。
「お姉さん、お願い。母を許してあげてください。私を殴って、罵って、どんなことでも構わない。お願い、母を放っておいてください」
彼女の泣き声は生々しく、聖真の心に深く突き刺さった。彼は震えるように彼女を見つめた。
「高野南枝、お前は毒女だ!」
聖真は飛びかかり、私を強く突き飛ばした。
後頭部が墓石に直撃し、そのまま意識が落ちていった。
失神する直前、私は聖真の震える瞳がぼんやりと揺れているのを見た。
第5話
目を覚ますと、聖真は窓辺に立っていた。
低くかすれた声が落ちてくる。
「清水さんが全部話してくれました。あなたは彼女を責めるべきじゃないです」
私は一瞬理解できず、手の甲に涙が落ちた。
「何て言ったの?」
「あなたのお母様を高野家の霊園から移すと決めたのは旦那様で、清水さんじゃないです。
彼女はまだ子どもです。何もわかりはしないです。それに……」
聖真は言葉を切り、初めて私から目を逸らした。
「昨夜、郊外の霊園にあるお母様の墓が荒らされ……棺も遺体も、消えていました。
聞いた話では……立都の篠宮家の者の仕業だと。旦那様も止められなかったそうです」
篠宮家。
止められなかった。
——それは、あなたの家だろう、篠宮聖真!
口を開けて声を出そうとしたが、いくら力を込めても一言も発せなかった。
痛みが極限に達すると、人は声さえ出せないのだと知った。
私は発狂したように点滴の針を引き抜き、聖真に飛びかかった。
——殺してやる。絶対に殺してやる。
だが聖真は、私が悲しみに暴れているだけだと勘違いし、強く抱きしめて離さなかった。
その声には、微かな慈しみすら滲んでいた。
「もう大丈夫、大丈夫です。もう大丈夫……」
私は彼を噛んだ。だが痛がりもしない。
物を投げつけても、彼はただ同情するように見下ろしてくるだけ。まるで駄々をこねる子供でも見守るように。
やがて力尽きた私は、彼を部屋から追い出し、引き出しからこれまでの「愛」の証をすべて引っ張り出した。
片思いの日記は破り捨て、大事にしまってきた誕生日の贈り物は叩き壊し、彼に触れられた服は全部集め、火を点けた。
燃え上がる炎の前で、私は冷たい床に座り込み、ただ夜明けを待った。
夜が明けると、冷水を浴び、入念に化粧を施し、鏡に向かって笑顔を何度も練習した。
そして母が遺してくれたアルバムを抱え、保坂家へ向かう車に乗り込んだ。
出発のとき、聖真が庭に立っていた。
彼は驚いたように目を見開き、初めて私に行き先を尋ねた。
「どこへ行かれるのですか?」
それは、彼が初めて私の行き先を気にかけた瞬間だった。
そして、私が初めて彼に嘘をついた瞬間でもあった。
「少し気晴らしに」
聖真は深く追及せず、頷いた。
「お供いたしましょうか?」
「いいわ」
私は目を逸らし、瞳の奥に潜む死の静けさと憎しみを悟られぬようにした。
「もし暇なら、私の部屋を片付けておいて。昨夜、荒れて汚れたから」
聖真は疑いもせずに頷き、「承知しました」と答えた。
去り際、彼は振り返り、静かに言った。
「どうかお気をつけて」
私は軽く頷くだけで、もう何も言わなかった。
彼の背中が見えなくなるまで待ち、それから運転手に告げた。
「行って。保坂家へ」
その頃、聖真は部屋に残された灰を見つけた。
灰の中央に、まだ溶けきらない水晶のブレスレットが微かに光を放っていた。
「これは……俺が贈ったもの?」
二年前の誕生日。
私はまたひとりで誕生日を過ごし、帰り道に聖真を無理やり引き止めてせがんだ。
彼は面倒そうに車を降り、道端の露店で百円の水晶のブレスレットを買ってきた。
私はそれを宝物のように扱い、毎日身につけていた。
だが今朝、それだけは焼き忘れていたらしい。
聖真は一瞬で頭が熱くなり、潔癖も忘れてその水晶のブレスレットを手に取った。
そのまま駆け出そうとしたとき、父に行く手を阻まれる。
「聖真、ちょうどいい。お前に大事なことを伝えておく。
今日、南枝は嫁ぐ。これからはお前は長馨の側につけ」
手首から水晶のブレスレットが引きちぎられ、珠が床一面に散らばった。
聖真は呆然と父を見つめ、目に血走った光を宿す。
「今、なんと?」