その想いは、もう消えていく

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その想いは、もう消えていく

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天野希一(あまの きいち)の義妹である塚本京美(つかもと ことみ)が救出された時、頭部を強打して記憶をすべて失っていた。 彼女は希一の服...

Chương (1)

第1章

天野希一(あまの きいち)の義妹である塚本京美(つかもと ことみ)が救出された時、頭部を強打して記憶をすべて失っていた。 彼女は希一の服の裾を必死に握りしめ、澄んだ瞳を不安に揺らしてつぶやく。「あなた、怖い人たちが……」 その姿を、本物の妻である小野寺千佳(おのでら ちか)は、影の中から夫のこわばった横顔を見つめていた。 やがて希一は静かに京美の手を握り返す。「大丈夫だ、俺がいる」 京美が完全に眠りに落ちたのを確かめてから、ようやく彼の視線は千佳に向けられる。 「医者の話では、損傷した部位はかなり重要な場所だ。今の状態は脳の防御反応で起きている記憶喪失なんだ。無理に思い出させたり、大きな刺激を与えれば……」 一度言葉を切り、彼は低く続ける。「千佳、しばらくの間は彼女をこのまま信じさせておいてくれないか」 千佳はゆっくりと俯き、左手の薬指に視線を落とした。 第1話 天野希一(あまの きいち)の義妹である塚本京美(つかもと ことみ)が救出された時、頭部を強打して記憶をすべて失っていた。 彼女は希一の服の裾を必死に握りしめ、澄んだ瞳を不安に揺らしてつぶやく。「あなた、怖い人たちが……」 その姿を、本物の妻である小野寺千佳(おのでら ちか)は、影の中から夫のこわばった横顔を見つめていた。 やがて希一は静かに京美の手を握り返す。「大丈夫だ、俺がいる」 京美が完全に眠りに落ちたのを確かめてから、ようやく彼の視線は千佳に向けられる。 「医者の話では、損傷した部位はかなり重要な場所だ。今の状態は脳の防御反応で起きている記憶喪失なんだ。無理に思い出させたり、大きな刺激を与えれば……」 一度言葉を切り、彼は低く続ける。「千佳、しばらくの間は彼女をこのまま信じさせておいてくれないか」 千佳はゆっくりと俯き、左手の薬指に視線を落とした。 希一は京市でも名の知れた御曹司で、いつも女を取り替えるように身の回りに侍らせてきた。 だが六年前、あるパーティーで千佳を一目見た瞬間に心を奪われる。 翌日には遊び相手を全員遠ざけ、九十九本のバラを抱えて彼女の会社の前に立っていた。 「千佳、俺と結婚してくれ!」 彼女は即座に断った。 希一の名は京市で知らぬ者のないほど有名で、その隣に同じ顔が並ぶことは決してなかった。 千佳には、自分がその特別な一人になれる自信はなかった。 けれども彼は諦めずに半年以上も追い続け、飛行機で花を撒くのは日常茶飯事、星を買って千佳と名づけ、島を誕生日の贈り物として買い取り、さらには一族の反対を押し切って胸に彼女の名を刻んだ。 彼の友人たちは口を揃えて言った。「希一さんがここまで入れ込む相手なんて初めてだ」 彼女の友人たちもひそかに後押しした。「遊び人が本気になったんだ、これ以上の幸運はないよ」 それでも千佳は首を縦に振らなかった。だが、彼女が危険にさらされた時、彼が迷わず身を投げ出して守った。 その一瞬、千佳の心は揺れた。 結婚後の彼はさらに惜しみない愛情を注ぎ、彼女が好きだと言えば数億円の品であっても一瞬の迷いもなく差し出した。 京市の夫人たちが競って訪れ、夫を操る秘訣を尋ねるほどだった。 だが、そんな彼のそばにはいつも義妹の京美という影がつきまとっていた。 京美は希一の父の戦友の遺児で、幼い頃から天野家に引き取られて育った。 そして希一は、ことごとく京美に肩入れしてきた。 最初は結婚式の前。京美が「ウエディングドレスを一度も着たことがない」と言い出し、半年かけて仕立てられたイタリア製の純手縫いのドレスに、大きな裂け目を作ってしまった。 千佳が怒りを爆発させても、京美は泣きながら希一の胸に逃げ込み、彼は逆に千佳を責めた。「ドレス一着のことだろ、京美に悪気はなかった」 二度目は、京美がピーナッツバターを千佳の牛乳に入れ、「栄養になる」と言った時。 ピーナッツアレルギーの千佳は窒息しかけ、命を落とすところだった。 それでも彼は京美をかばった。「ただの冗談だろ、気にするな」 三度目は、千佳が初めて身ごもった時。 京美が「支えてあげる」と手を取ったものの、わざとらしく足を滑らせて二人して階段を落ち、千佳は流産した。 その後、京美は「償いに死ぬ」と泣きわめき、彼はまた千佳を諭した。「京美も反省してるんだ、責めるな」 …… 幾度となく繰り返される「偶然の事故」で、希一は必ず京美を庇った。 千佳は泣き、怒り、離婚届まで用意して署名を迫った。 だが彼は赤く充血した目で彼女を壁に押しつけた。「俺が死ぬ以外に、お前が俺から逃げる道はない!」 泣き叫ぶ千佳に対して、彼は結局柔らかな声で言った。「京美は妹だ。妻はお前だけだ」 そして今回、京美が拉致されて救い出されたものの、深い昏睡に陥った。 希一は片時も離れずベッドのそばに付き添い、そこにあるのは兄妹以上の感情だった。 彼は綿棒で京美の乾いた唇を濡らし、その仕草は壊れ物を扱うかのように優しかった。 通りすがりの看護師は感嘆の声を漏らした。「奥さんにあんなに優しいなんて、理想の旦那様ね」 千佳は胸を締めつけられながらも、自分に言い聞かせた。京美は傷ついたのだ、兄である希一が世話をするのは当然だ、と。 彼女自身も三日間、寝ずに病院を走り回った。 そして先ほど、京美は目を覚ました。 悲鳴をあげながら希一に抱きつき、涙を溢れさせる。 「あなた……縄が……痛かった……私を置いていかないで」 その一言一言が、針となって千佳の胸に突き刺さる。 …… 希一の腕の中で安心しきった顔で眠る京美を見つめながら、千佳はかすかに震えるまつげを伏せた。 「しばらくって、いつまでのこと?」 彼の瞳は一瞬にして冷たくなる。「千佳、京美は俺の妹だ。見捨てるわけにはいかない」 千佳の唇が小刻みに震えた。「もしも彼女が一生思い出さなかったら?そのまま一生夫を演じ続けるつもり? 私は何なの?」 希一は答えず、彼女を見ようともしなかった。 千佳はうつむいて小さく笑った。三度目までなら我慢もした。けれど「しばらく」がいつまでなのか彼が言わないなら、自分が決めるしかない。 病室を出ると同時に、彼女は左手の薬指の指輪を引き抜き、入口のごみ箱に投げ入れた。 もう京美と張り合わない。疲れ果ててしまった。 病院を後にした千佳がしたことは三つ。 一つ目、自分の戸籍を抹消すること。 二つ目、入国管理局で移民の手続きをすること。 三つ目、弁護士に離婚協議書を用意させること。 希一、彼女はもう要らなかった。 第2話 千佳が六年暮らした家へ戻ると、門を入った途端に執事が使用人たちを指揮して家具を運び出しているのが見えた。 古い家具は庭の一角に雑然と積まれており、そのひとつひとつは彼女が心を込めて選んだものだ。 執事は視線を逸らしながら言った。「奥様、旦那様が塚本様のお好きな家具に替えるようにと仰せでして。しばらくこちらにお住まいになるとのことです」 胸の奥で千佳は苦笑した。希一は、そんなに急いで「奥様」を迎え入れたいのか。 ふと目に入ったのは、使用人たちがリビング中央に掛けられていた結婚写真を運び出そうとする姿だ。 「誰がそれを動かせと言ったの!」 彼女は慌てて駆け寄り、震える声で叫ぶ。「元の場所に戻して!今すぐよ」 使用人たちは顔を見合わせ、執事が慌てて駆け寄る。 「奥様、旦那様からのご命令で、すべての結婚写真や二人の写真を外すようにとのことで、塚本様が……」 千佳は怒りを爆発させた。「私はまだ天野家の妻よ!塚本京美なんて何者なの!」 空気が張りつめたその時、千佳の携帯が鳴った。 通話ボタンを押すと、聞こえてきたのは糾弾するような希一の声だ。 「京美が何者かを決めるのはお前じゃない。お前が天野家の妻でいられるかどうかを決めるのは俺だ」 千佳は思い出した。庭には監視カメラがあり、自分の動きは希一に見られている。 「希一、あれは私とあなたの結婚写真よ。この家に六年間ずっと飾ってきたの! どうしてあなたの一言で外されなきゃならないの!」 彼女の必死な叫びに対して、希一は冷静そのものだ。 「ご両親は世界一高価な墓地に眠っている。維持費は毎年1億円だ。俺が払わなければ、どうなると思う?」 千佳の全身が震える。「希一、そんなこと、できるわけがない!」 電話の向こうで彼は嘲笑した。「試してみろよ」 かつて彼が強く主張して、荒れた山中から両親の墓を高額な墓地へ移した。その墓を今、彼は脅しの材料にしている。 通話終了の音が響く中、千佳は力なく携帯を下ろした。 脇へ身を引き、目の前で大切に整えた家が少しずつ空になり、別のもので埋められていく様子をただ見つめる。 やがて、過去の痕跡はすべて消え去った。 執事が恭しく尋ねる。「奥様、この古い家具はどうなさいますか」 千佳は地下のワインセラーに降り、無造作に数本のボトルを持ち出すと、結婚写真の希一の顔に向かって叩きつけた。 次の瞬間、彼女はライターの火を放り投げた。 炎が一気に広がり、六年の結婚生活は一瞬にして灰と化した。 そこへ、京美を抱きかかえた希一が扉を押し開ける。黒煙が渦巻き、京美は口を押さえて激しく咳き込んだ。 希一は眉をひそめ、責めるような視線を千佳に向ける。「どこかのごみ捨て場に捨てれば済むのに、こんなに煙を撒き散らして」 庭には既に使用人たちが整列し、彼の指示どおり一斉に声をそろえた。 「奥様、お帰りなさいませ!」 千佳は両手を握りしめ、爪が食い込むほど強く拳を作った。 京美は赤い顔で彼の胸に身を寄せ、囁く。「あなた、この人は誰?」 使用人たちの視線が一斉に千佳に注がれる。 希一はわずかに瞼を上げ、冷ややかに横目で彼女を見た。 「彼女は天野家の住み込み家政婦だ」 千佳の胸の奥で、何かが轟音を立てて崩れ落ちた。住み込み家政婦?笑わせるにもほどがある。 京美は身を乗り出し、上から下まで彼女を眺めて小首を傾げた。「ずいぶん派手な格好ね。知らない人が見たら、この家の女主人だと勘違いするんじゃない?」 希一は甘やかすように京美の鼻先を軽くつつく。「すぐに質素な服に着替えさせるよ。本物の奥様の座を脅かさないようにな」 第3話 京美が当然のように主寝室に入り、千佳は隣の部屋へ移った。 一晩中眠れずに過ごし、夜が明けてようやく深い眠りに落ちる。 夢の中で、彼女は希一と結婚したばかりの頃に戻っていた。 毎朝、彼の口づけで目を覚まし、頬杖をついて愛おしそうに見つめられていた。 「千佳、お前を妻にできた俺は本当に幸運だ。一生愛し続けるよ」 別荘の裏庭には、彼が自ら植えてくれた赤いバラが咲いている。花言葉は狂おしい愛。 六年の間に、花は幾度も咲いて散ったけれど、愛は少しずつ色褪せていった。 千佳は騒がしい笑い声で目を覚ます。階下に降りると、京美が全身を映す鏡の前で赤いワンピースを身につけ、うっとりと眺めていた。 「デザインは古いけど、生地は悪くない。私が着ればレトロな雰囲気になるでしょ」 千佳の顔色が一変する。「誰がそのドレスを着ていいって言ったの」 その赤いワンピースは、亡き母が最後に誕生日に贈ってくれた大切な品だ。 京美は驚いたように彼女を見る。「私はこの家の女主人よ。この家は全部私のもの。着る服まで、あんたみたいな家政婦にお伺い立てなきゃいけないの?」 千佳は駆け寄り、彼女の体から無理やりドレスを引き剝がそうとする。「これはお母さんがくれたものよ。今すぐ脱ぎなさい!」 もみ合いの最中、千佳の手が京美の頬を打った。 「千佳!」 いつの間にか希一が入口に立っていた。「ここに居たいなら、素直に京美……奥さんに謝れ」 京美は頬を押さえ、わざとらしく悲しげに立ち尽くす。「いいのよ、私みたいな妻に威厳なんてないもの」 だが希一は彼女をかばい続けた。「お前は天野家の妻だ。家政婦の彼女がお前に頭を下げるべきだ」 千佳は顔を上げる。「そのドレスを脱がせてくれれば、謝るわ」 希一の瞳に怒気が宿る。「京美、それは死人のものだ。脱いで渡せ」 死人という言葉を強調する彼の声が、千佳の胸を深く突き刺す。 京美は顔をしかめ、ウォークインクローゼットへ走っていく。「どうりで臭いと思った。気持ち悪い」 千佳は唇を震わせ、喉に込み上げるものを堪えながらかすかに笑った。 「希一、あなたの口にする死人は、私の母、あなたの義母よ!」 希一は声を潜める。「忘れるな。この家の女主人は京美だ。お前はただの家政婦。身の程をわきまえろ。 少しの間だけ我慢してくれ。彼女の具合が良くなるまで……」 千佳の声が震える。「もし一生良くならなかったら?私はずっと、自分の夫と彼女が私たちの寝室で夜を共にするのを見ていなきゃいけないの?」 高いヒールの音が近づき、京美が腰を揺らしながら戻ってきた。手には切り刻まれたドレスを持っている。 「あなた、新しい服が欲しいわ。一緒に買い物に行きましょう」 希一は黒いカードを手渡した。「これを持て。好きなだけ使えばいい」 京美の顔に崇拝の色が浮かぶ。「ありがとう、あなた!」 千佳は破れたドレスを抱えて階段を上がりかけ、ふと足を止める。 完璧だったはずのドレスは、無残に切り裂かれた布切れになっていた。 「塚本京美!」 彼女はドレスをその足元に投げつける。「どうして切り裂いたの。返してよ、私の大切なドレスを!」 千佳が詰め寄ると、希一は彼女を乱暴に押しのけた。 「たかが一枚の服だろう。すぐに十着でも買ってやる!」 千佳は乾いた笑いを洩らす。 彼と初めてのデートの日、この赤いワンピースを着ていた。 手を取られてくるくると回され、満開の赤いバラのようだと褒められた。 「そんなに好きなら、これから毎日着てくるわ。飽きたりしない?」 希一は彼女を抱き寄せた。「飽きるわけない。ずっと飽きることなんてない」 今では何もかも変わってしまった。 千佳はしゃがみ込み、破れたドレスをゴミ箱に放り込む。壊れてしまったものの行き着く先は、結局そこしかない。 第4話 京美の機嫌はまったく揺らぐことなく、好奇心いっぱいに辺りを見回す。「え、結婚写真がないじゃない」 希一は優しく説明する。「古くなったから外させたんだ」 京美は唇を尖らせて甘える。「だめよ、結婚写真がなきゃ夫婦らしくないでしょ」 希一は笑いながら彼女の頬をつまむ。「わかった、じゃあ時間がある時に撮り直そう」 京美はすぐに飛び上がる。「今すぐ行きたい!一秒だって待てないわ」 「小野寺、私のバッグ持って」 車の中、京美と希一は仲睦まじく笑い合う。「ねえ、私たちどうして子どもを作らないの?」 千佳の視線が暗くなり、横目で希一を見やる。 「俺たちはまだ若い。子どものことは急がなくていい」 千佳は自嘲気味に思う。彼はもう忘れてしまったのだろう、かつて二人に子どもがいたことを。 京美は艶やかに目を細める。「でも私、子どもが欲しいの。今すぐ作りましょう」 そう言って、両足を希一の腰に絡め、体を密着させた。 運転手は慣れた様子で車内の仕切りを下ろす。 男の荒い息遣いと女のあからさまな声が交じり合った。 千佳は耳をふさいでも、その声は容赦なく鼓膜を突き、心臓を刺す。 一時間の車の旅は永遠にも思えた。 車が止まり、京美は乱れた衣服のまま降りてくる。頬は赤く、唇は濡れて光っていた。 千佳は胃の奥が逆流し、助手席から飛び降りて道端で嘔き続ける。 ウェディングドレスの試着の合間、希一が声を潜める。 「車酔いなんてするんだな」 千佳は顔を上げ、彼の探るような瞳を見返した。「希一、本当に気持ち悪いと思わないの?あの人はあなたの妹よ」 希一はうんざりしたように手を振る。「俺と京美は血のつながりがない。厳密には兄妹じゃない」 千佳は薄く笑う。「つまり、ずっと京美を狙ってたって認めるのね」 希一は言葉に詰まり、反論しようとしたその時、京美が試着室の奥から千佳を呼ぶ声がする。 彼は千佳の腕をつかむ。「京美は病気なんだ。お前に同情の心はないのか」 千佳は哀しげに笑った。「今から天野家の奥さまのドレスの裾を直しに行くのよ。これで同情したって言えるかしら」 京美がカーテンの隙間から顔を出し、希一に甘えた笑顔を向ける。「ねえ、喉が渇いたの。水を買ってきてくれる?」 希一は頷き、店を出ていった。 カーテンが閉じられると同時に、京美の顔が一変する。 「二人で何話してたのよ」 千佳は黙々と背中のリボンを結びながら答える。「気になるなら本人に聞いたら?」 京美は振り返る。「小野寺、あんたが何考えてるかくらいわかってるわ」 千佳の目が鋭く光る。「やっぱり芝居だったのね。 彼に言ってやろうか?」 京美は腕を組み、全く動じない。「どうぞ。希一が信じるのはあんたじゃなくて私よ」 千佳の唇が震える。「恥知らず。彼はあんたの兄よ。あんたたちの関係は……」 言葉を遮るように京美が突然頭を抱え、甲高い声をあげた。涙まで浮かべて。 「助けて!殺される!」 千佳は目を見張る。「また芝居?今度は何のつもり?」 次の瞬間、カーテンが乱暴に開かれ、希一の険しい顔が現れる。 京美は震える指で千佳を指した。「彼女がカッターで私を傷つけたの!殺そうとした!」 見ると、京美の手首から真っ赤な血が流れていた。 「違う!私は何も持ってない!」 だが希一の瞳は恐ろしいほど暗い。「足をどけろ」 千佳が困惑して足を動かすと、床には血に濡れたカッターが転がっていた。 希一は京美をなだめながら、千佳に迫る。 彼女は後ずさりし、冷たい壁に背中をぶつける。 彼はかがんでカッターを拾い上げ、そのまま手を振り下ろした。 千佳の手首に鋭い痛みが走り、見る間に血が溢れ出す。 「これは警告だ。次は首だと思え」 彼の肩越しに、京美が得意げに眉を上げ、小さな血の袋を振ってみせる。 第5話 医師は「傷口が深いから、縫合の時に痛みますよ」と告げた。 「麻酔を増やしますか?」 千佳は、ようやく我に返ったように首を横に振る。もう、耐えられない痛みなんてない。 包帯が手首に厚く巻かれた。その時、病院で希一から電話が入る。 そこにあったのは心配ではなく、冷たい命令だけ。 「今夜の家の宴会、お前は京美と一緒に本家へ来い」 「本家」の二文字に、千佳の背筋はぞっとした。 かつて希一は一族に逆らってまで彼女を妻にした。 希一の母は彼女の家柄を嫌っていたが、息子の意志に押されて渋々認めた。 今や京美が記憶喪失を装い、希一を夫と勘違いしている。それで希一の母は、嬉々として宴を企画した。 千佳は地味なワンピースで屋敷の扉を押し開ける。京美は母の隣で甘え声を上げている。 「お母さま、私と希一はもう子どもを作る準備ができてるの。今年中に必ずお孫さんを抱かせますね」 希一は仕立てのいいスーツ姿で彼女の後ろに立ち、肩に手を置いて寄り添う。まるで理想の夫婦。 ダークカラーのドレスに身を包んだ母は、千佳に冷ややかな視線を投げた。 「これこそが私の認める嫁。誰かさんとは違うわね。無用の女」 一族の面々も、以前は希一の顔を立てて千佳に丁寧に接していただけ。 今は思う存分、彼女を貶める。 「まだここに来る神経があるなんて。図々しい女」 「所詮、貧乏人の娘なんて金目当てよ」 …… 千佳は心で日にちを数え、息を殺しながら庭の池のほとりに逃げ込む。 しかし京美がこの機会を逃すはずがない。 彼女はグラスを掲げてささやいた。「千佳、昔あんたが私から兄を奪った。でも今は取り返した。どう?」 千佳は取り合わず、机の酒を一気に飲み干す。 「天野家なんて腐った林檎。虫になるのが好きならどうぞ」 立ち去ろうとしたが、手首を掴まれた。 痛みに顔をしかめた次の瞬間、京美はわざと池に倒れ込む。 水面で必死にばたつき、何度も水を飲んだふりをする。 「京美!」 希一がどこから現れたのか、ためらうことなく池に飛び込み、京美を岸に上げた。 京美は目が閉じられたまま、ぐったりと地面に伏せる。 人々が慌てて彼女を屋内へ運び、家庭医が呼ばれた。 希一は冷たい表情で千佳に歩み寄る。「お前に警告したよな。京美に近づくなと」 千佳はようやく声を振り絞る。 「京美は演技よ!記憶を失ってなんかいない!それに私、押してなんかない!監視映像を見れば……」 パシン! 希一は手を挙げて彼女の頬を打って、場に居合わせた全員が息を呑む。 屈辱と悲しみの涙があふれる。「希一、忘れないで。あなたの本当の妻は誰か!」 一瞬、彼の動きが止まった。しかしすぐ冷徹に言葉を落とす。 「これが最初で最後の平手打ちであってほしい。教訓にしろ」 千佳は笑みを歪める。「教訓?だったらせいぜい守ってあげなさい。でなきゃ、私があの女を殺す」 希一は眉を寄せた。「昔のお前は優しかった。いつからそんなに毒に染まった」 「毒?」 千佳は短く息をつき、吐き捨てる。「あなたが殺したのよ」 希一の瞳に険が宿る。「宴に余興がないと退屈だろう。なら……」 彼は千佳を見下ろし、ゆっくりと告げた。「お前が美女と野獣を演じろ」 千佳の瞳が大きく見開かれる。「希一、私が何を一番恐れているか知ってるくせに!」 幼い頃、貧しさの中で野犬と食べ物を奪い合った。耳の後ろには今もその傷跡が残っている。 希一は使用人に彼女を引きずり去らせると、泣き叫ぶ声にも耳を貸さなかった。 千佳は檻の中で縮こまり、素足が冷たい鉄板に触れていた。 周囲では十数匹の野犬が低く唸り、獲物を睨みつけている。 客たちはシャンパンを口にし、楽しげに囁く。「妻を檻に放り込むなんて、最高の見世物だ」 鎖が鳴り、犬たちが一斉に飛びかかる。 鎖音がちゃりと鳴り、野犬が猛然と襲いかかった。 鋭い牙が彼女の足に食い込み、筋肉が裂ける音がくっきりと響く。 幼い日の恐怖の記憶と眼前の光景が重なり、千佳は魂が引き裂かれるような悲鳴をあげた。 さらに一匹が胸元に食らいつき、ドレスは無残に裂け散る。 身を守るようにうずくまり、彼女は力の限り叫んだ。 「希一、必ず後悔させてやる!」 ようやく彼は檻を見やる。 かつて愛を湛えた目が、激痛に歪んだ千佳の顔を一瞥する。 「京美に土下座して謝るなら、考えてやる」 千佳は震える唇を噛みしめ、鉄柵に血の混じった唾を飛ばした。 「死んでも嫌」 第6話 千佳が目を覚ますと、全身がまるで炎に炙られたかのように痛んでいる。重たい頭を動かし、頭上の医療機器に視線を向ける。「どうして死んでないの?」 看護師が針を抜きながら入ってきた。その目には同情と哀れみが浮かんでいた。 「天野さんから大切にお世話するようにと仰せつかっています。早く立ち直れるよう願っておられますよ。子どもはまた授かれますから……」 空に落ちる稲妻とはこういうことだろう。 千佳は平らになった腹を呆然と見つめた。また子どもを失ったのか。 彼女は看護師に静かに問いかける。「天野さんは……ご存じなんですか」 「はい、手術の同意書にサインされたのもご本人です」 病室の扉が開き、希一が入ってきた。麻のカジュアルなスーツに着替え、袖口ひとつ乱れていない。 看護師は静かに出て行き、室内には二人だけが残される。 希一は軽く咳をして口を開く。だが最初の言葉は責めだ。 「妊娠しているのに無理をするなんて、どうして性格を改められないんだ」 千佳はふっと笑った。「塚本は?死んでないんでしょ」 希一の瞳の色が瞬時に冷たくなる。「京美は大きなショックを受けた。医者からはもう二度と刺激を与えるなと言われている」 そして声色を和らげて続けた。「千佳、子どもを失って辛いのは分かる。でもそれを京美のせいにするのは違うだろう」 千佳の喉が鈍い刃でかき回されるように痛み、声はかすれて壊れていた。 「じゃあ、あなたは?あなたは悲しくないの?」 予想外の質問に、希一の目には戸惑いが浮かぶ。 千佳の瞳から涙が音もなくこぼれ落ちた。「あなたは子どもの父親なのに、少しも悲しくないの?」 希一の視線が揺らぐ。「俺は……」 ちょうどその時、秘書が扉を押し開ける。「社長、奥様……いえ、塚本さんからお電話です」 電話からは京美の泣き声が響いた。 「あなた、どこにいるの?怖いの」 希一の口元がすぐに緩む。「会社で少し仕事を片づけている。すぐ帰るから、一緒にいよう、いいね」 電話が切れると同時に、千佳は枕元のバッグから一束の書類を取り出した。真ん中に離婚協議書と印刷された一枚を差し込む。 通話が終わると、彼女は手のペンを差し出した。 「これから忙しくなるから、退院の同意書に先にサインしておいて。余計な手間を省けるわ」 希一は一瞬ためらったが、結局何も言わずに署名していく。 「身体を大事にしろ。毎日栄養のあるものを届けさせる」 扉へと向かいかけて、彼はふと足を止める。「千佳、俺は必ず京美を治してみせる。それが済めば、また以前の生活に戻れるんだ」 千佳は答えなかった。掌には爪で跡が刻まれていた。 希一が去ると、千佳は離婚協議書を取り出す。 「天野希一」と記された文字を指先でなぞる。かつて恋文を書いてくれた時と同じ、流れるように洒脱な字。 「希一、私たちに未来はもうない」 彼女は医師の制止を振り切り、退院を強行した。 まず区役所に離婚書類を提出すると、職員が告げる。 「一か月の期間があります。その間、いつでも撤回可能です。 異議がなければ、一か月後に離婚届受理証明書が双方に郵送されます」 役所を出たところで、出入国在留管理庁から電話が入った。 「申請が承認されました。早めに手続きを進めてください」 通話を終えると、千佳は人波の中でしゃがみ込み、声を押し殺して泣いた。 手続きを終えた後、墓地へと足を運ぶ。 「お父さん、お母さん、私は行くね。しばらくは会いに来られないと思う」 初めて希一を連れて来た日のことを思い出す。彼は真剣に受け止め、亡き両親に会うためのスーツまで仕立ててきた。 墓前で彼は彼女の手を握り、誓った。 「ご安心ください。必ず千佳を守ります。誰にも傷つけさせません」 けれど今、この身体の傷も心に刻まれた痛みも、すべて彼から与えられたものだった。 千佳は石段に膝をつき、深々と頭を下げ、涙を拭って立ち上がる。 墓地を出た瞬間、黒服の男たちに取り押さえられ、車に押し込まれた。 助けを呼ぶ間もなく、意識を奪われた。 第7話 冷水が頭から浴びせられ、千佳は激しく目を見開いた。 両手両足を縛られ、眩しいライトに照らされた視線の先に、高い影が逆光に浮かんでいる。 その顔を見分けた瞬間、心臓が大きく揺れた。 「希一?何をするつもりなの」 高級なウールのコートをまとい、黒いレザーの手袋をはめた希一は、冷ややかで気品ある姿だ。 彼はしゃがみ込み、千佳の顎をつかむ。「千佳、お前を甘く見ていたようだな」 指に力を込める。「言え、京美をどこへやった」 千佳は呆然とした。「何を言っているの?塚本がどこにいるかなんて、私が知るはずない」 希一の瞳には深い失望が宿る。「最後にもう一度だけ聞く。京美はどこだ」 希一は会議中に京美からの着信を受けた。電話の向こうで息も絶え絶えに訴える。 「小野寺に拉致されたの、早く助けて……」 即座に折り返すも、応答なし。慌てて別荘に戻ると、彼女の姿はなく、明らかな引きずられた痕が残っている。 そして千佳の電話も繋がらない。 彼は京市中の人脈を使い、二時間かけてようやく千佳を見つけ出した。 「お前じゃないと言うなら、この二時間どこにいた?病院はもう退院したと聞いている」 千佳は唇を動かすも、結局は首を振って虚ろに笑った。 「希一、六年の愛をかけて誓う。私は塚本を拉致していない」 希一は目を閉じる。「千佳、恨むな。俺は冷酷で残忍なんだ」 廃墟の倉庫に両手を吊られたまま、千佳の服は一枚ずつ剥がされていく。 そのたびに、希一の問いが繰り返された。「京美はどこだ?」 千佳が叫び、泣き、懇願するが、希一は動じない。 下着姿になってもなお、京美の行方は知らないと繰り返す。 彼の視線が、露わになった彼女の身体を捉える。野犬に咬まれた足首の傷跡がくっきりと残っている。 希一は深く息を吸い、唇を引き結んで近づく。 「千佳、俺は京美を治して、元の暮らしに戻るつもりだった。どうしてこんなことを」 千佳の瞳は虚ろで、まつげは死にゆく蝶のように震えている。 「希一、最後にもう一度言う。拉致なんてしていない。六年連れ添った妻の言葉を、信じられないの」 彼の手が彼女の蒼白な頬を覆う。「千佳、京美を解放しろ。そうすれば何もなかったことにする」 彼女は苦笑し、もはや争う気力もなく、砕けた人形のようだ。 希一は両拳を握りしめる。「脱がせろ」 彼が背を向け、衣擦れの音だけが倉庫に響いた。 唇を噛みしめ、千佳の胸の奥には屈辱と痛みが渦巻く。 そこへ秘書が駆け込んでくる。「見つかりました!」 梁から吊られ裸同然の千佳を見て、顔色が変わる。 「社長、塚本さんが見つかりました」 「どこだ」 助手は言葉を濁した末、「小野寺家の古い屋敷で発見されました」と答えた。 希一は振り返り、冷ややかに千佳を見た。「まだ言い逃れをする気か」 そして顔を背けた。「放してやれ」 千佳はみじめに地面に伏せり、低い嗚咽が漏れると、涙が堰を切ったように落ちていった。 希一はコートを脱いで投げかけた。 「今回の件はこれで終わりだ。もう愚かな真似はするな」 千佳は散らばった服を一つずつ拾い、身にまとっていく。 最後のコートを着ると、彼女は口元を引きつらせた。 「希一、ありがとう」 希一は首を傾げる。「なぜだ?」 千佳は答えず、ふらつきながら倉庫を出た。 その瞬間、六年の愛情は跡形もなく消え去った。 ありがとう。決別の勇気をくれたことに。 千佳は携帯を取り出し、一番早い便を予約した。 登機前に携帯のSIMカードを抜き捨てる。 滑走する機体の窓から京市を見やる。五月、真紅のバラが咲き誇る季節。 「さようなら、紅いバラ」 「さようなら、希一」