Đang tải thông tin quảng bá...
七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した
江崎詩織(えざき しおり)は、賀来柊也(かく しゅうや)と付き合って7年。それでも、彼からプロポーズされることはなかった。 痺れを切らした...
Chương (1)
第1章
江崎詩織(えざき しおり)は、賀来柊也(かく しゅうや)と付き合って7年。それでも、彼からプロポーズされることはなかった。
痺れを切らした詩織は、自ら柊也にプロポーズすることを決意する。
しかし、そこで彼女は知ってしまった。柊也には長年想い続けている「忘れられない女性」がいて、その人のためならエリートの座を捨て、不倫相手になることさえ厭わないという衝撃の事実を。
結局、自分は彼の「本命」のための当て馬でしかなかったのだ。そう悟った詩織は潔く身を引く。人生最大の敵とは、時に自分の思い込みに囚われた自分自身なのだから。
誰もが、詩織はただ拗ねているだけだと思っていた。柊也自身でさえ、そう高を括っていた。
7年も飼っていた犬が、飼い主から離れられるはずがない、と。
だが、やがて柊也は気づくことになる。飼い主から離れられなくなった犬は、自分の方だったと。
世間は詩織を「7年間も弄ばれた末に捨てられた哀れな女」と嘲笑う。
だが、柊也だけは知っていた。本当に弄ばれていたのは──自分の方だったということを。
第1話
どんな男の心にも、手に入らなかった「特別な女」がいるという。
江崎詩織(えざき しおり)はずっと、賀来柊也(かく しゅうや)だけは違うと信じていた。なにしろ二人は、若い頃からずっと一緒にいたのだから。
でも、そんなのはただの幻想だった。
結局、誰もがそんな「忘れられない人」を胸に抱いて生きている。柊也もまた、その例外ではなかったらしい。
詩織が柊也と付き合い始めたのは18の時。それから、もう7年が経つ。
二千日を超える夜と朝を共にし、誰よりも深く肌を重ねてきたというのに。それでも、彼が若い頃に一度だけ目にしたという女性の面影には、敵わないなんて。
なんだか、笑えてくる。
7年もかけて、一人の男の本心さえ見抜けなかったのだ。
一体どれほどの想いだったのだろう。こんなにも長い間、その人を胸の内に秘めさせてしまうほどだなんて。
詩織の意識が逸れていることに、彼女の上で激しく体を動かしていた柊也は気づいた。不機嫌さを隠しもせず、彼女に集中を促す。
彼はベッドの上では、いつも貪欲だった。
その拍子に、彼の腕がベッドサイドに置かれていた黒いビロードの小箱に当たった。
落ちそうになったそれを、柊也は慌てて受け止める。下にいる詩織に当たらないように。
見慣れないものだったからだろう。彼は珍しく興味を示した。
「なんだ、これ」
詩織は感情の読めない表情でその小箱をひったくると、無造作にベッドの脇へ放る。そして柊也の首に腕を絡め、喉仏に唇を寄せた。
「こんな時に別のものに気を取られるなんて。もしかして、私に飽きたの」
その吐息まじりの囁きに、柊也は抗えない。小箱のことなど一瞬で思考の彼方へ追いやられた。
男が自分に夢中になっているその時、詩織は傍らに追いやられた黒い小箱に視線をやった。瞳が、じわりと潤む。
──柊也、あなたはこの箱の中に何が入っているかなんて、永遠に知ることはないのよ。
……
ひと月前、エイジア・キャピタルが上場を果たした。柊也の仲間たちが、彼のためにささやかな祝賀パーティーを開いてくれた。
詩織はめいっぱいお洒落をして、そのパーティーで柊也にプロポーズするつもりでいた。
本来、そういうことは男がするべきだろう。
でも詩織は、柊也を深く愛していたから。彼のためなら、女の意地もプライドも捨てて、自分からプロポーズしたって構わなかった。
この日のために、彼女が丸7年も待っていたなんて、誰も知らない。
柊也は仕事一筋の男だった。詩織はそんな彼のために、好きだった専攻を変え、興味のなかった金融の世界に飛び込んだ。
大学を卒業すると、海外の有名大学からの誘いも断り、エイジア・キャピタルに入社して柊也を支えた。
一番下の平社員から、一歩一歩キャリアを積み上げ、彼のトップ秘書にまで上り詰めたのだ。
その裏にあった苦労は、詩織本人にしかわからない。
付き合い始めて一番夢中だった頃、詩織は何度も柊也に問いかけたくなった。
「私と、結婚してくれる?」
けれど、その言葉を飲み込んで、結局一度も口にすることはなかった。
母がよく言っていた。贈り物も愛情も、自分からねだるものじゃない、と。
相手が自ら与えてくれるのが「愛情」で、こっちから求めるのはただの「施し」よ、と。
それに、柊也は愛情を言葉にするような男ではなかった。
これまでの長い間、彼の隣には詩織しかいなかったし、他の女性の影など一度も見えたことはない。
だから結婚は、二人にとってごく自然な成り行きのはずだった。
詩織はその未来を信じて、これまで会社の矢面に立ち、がむしゃらに戦ってきた。
仕事の大小や困難さなんて、関係なかった。
交渉のためにどれだけ酒を飲み、何度病院に担ぎ込まれたか、自分でももう覚えていないくらいだ。
急性アルコール中毒で流産した時は、手術台の上で本当に死にかけた。
親友の近藤ミキ(こんどう みき)が彼女に尋ねた。
「死の淵を彷徨って、少しは後悔した?たった一人の男のために、自分をこんなボロボロにしてまで、それって価値のあることなの」
詩織は迷いなく頷いた。
「価値はあるよ」
そんな詩織に、ミキは称号を授けた。
『愛に突っ走る勇者』!
そして、こう言った。
「あんたが、負けないことを祈ってる」
その時の詩織は、自信満々に答えたのだ。
「柊也が私を負けさせたりしない」
その信念だけを頼りに、彼女はエイジア・キャピタルが上場するその日まで、ひたすら耐え抜いたのだった。
柊也が本港市で上場を知らせる鐘を鳴らしたあの日、詩織が部屋に閉じこもって、一人で泣きじゃくっていたことなど誰も知らない。
泣き終えると涙を拭い、詩織は柊也へのプロポーズのサプライズを準備し始めた。
仕方ない。柊也はあまりにも忙しすぎた。
エイジア・キャピタルが上場を果たし、いくつものプロジェクトを抱えている。親しい友人や仕事仲間からの祝いの席にも、次から次へと顔を出さなければならない。二人のことまで考える余裕なんて、きっとないはずだ。
だから、自分から動くことにした。
柊也の負担を、少しでも軽くしてあげたかったのだ。
早くから覚悟を決めていたというのに、いざその瞬間を前にすると、詩織は心臓が張り裂けそうなくらい緊張していた。
ドアの外に立ち、何度も深呼吸を繰り返しながら、震える手をもう片方の手でさする。
口を開く前に声が詰まって、暗記するほど練習したプロポーズの言葉が出てこなくなってしまいそうで、怖かった。
ドアの向こうではパーティーがたけなわで、男たちの大きな話し声が聞こえてくる。
「なあ柊也、柏木志帆(かしわぎ しほ)とはまだ連絡取ってんのか」
「柏木志帆?それって、柊也の『忘れられない女』だろ?なんで今さらその名前が」
「あいつ、近々桜国に帰ってくるらしいぞ」
「マジで?じゃあ、柊也もついに本命とよりを戻せるってわけか」
その言葉に、興奮で微かに震えていた詩織の手が、ぴたりと止まった。
「つーか、志帆ちゃんの親父さん、最近じゃかなり出世してるらしいじゃないか。柊也が彼女と結婚すりゃ、柊也自身にとっても会社にとっても、メリットは計り知れないだろ。エリートと美人のお嬢様、家柄だって釣り合ってるしな。
しかも相手は柊也の『忘れられない女』だ。仕事も恋も、一気に手に入れるってか。最高じゃん」
そう言ったのは、柊也の幼馴染である宇田川太一(うだがわ たいち)だった。
自分は柊也と「ガキの頃からの付き合いだ」といつも豪語している男だ。彼の言葉に、嘘はないのだろう。
柊也に……忘れられない人が、いたなんて。
詩織の心臓が、不意にぎしりと軋むような痛みを立てた。
「じゃあ、詩織さんはどうなるんだ?」誰かが興味本位といった口調で尋ねる。「なんだかんだ、もう長年尽くしてくれたんだろ」
太一は、それを鼻で笑った。
「手切れ金でも渡してやればいいだろ。
そんなに惜しいなら、結婚してから囲っとけばいい」
彼の周りでは、そういった男は珍しくもなかった。家庭を壊すことなく、外にも女を作る。それが彼らにとっては当たり前の感覚だったのだ。
ドアの外で、詩織は感覚がなくなるほど強く拳を握りしめていた。
彼女は、柊也の答えを必死に待っていた。
彼がすぐに反論し、そして皆に宣言してくれることを。愛しているのは詩織で、結婚するのも詩織なのだと。
しかし、いくら待っても聞こえてきたのは、彼の気のない一言だけだった。
「いつからそんなゴシップ好きになったんだ、お前ら」
反論も、否定もしない。
それは、まるで事実だと認めているかのような響きだった。
「はいはい、わかったって。せっかくのめでたい日なんだ、もっと面白い話をしようぜ。退屈で寝ちまいそうだ」
太一がソファから身を起こし、その場の空気を変えようとする。彼は札付きの遊び人で、いつも変わったゲームを提案しては場を盛り上げる役だった。
「各自、今までで一番ヤバかった経験を一つ話すってのはどうだ」
すると、誰かがとんでもないことを口にした。
「カーセックス」
太一が茶化す。
「そんなの、別にヤバくもなんともねえだろ」
相手は付け加えた。
「新幹線で、な」
その一言で、個室全体がどっと沸いた。
「お前、やるな!」
太一は興奮気味に、退屈そうにしている柊也に尋ねた。
「柊也は?なんかヤバい経験あるか」
柊也は数秒考え込んだ後、静かに口を開いた。
「好きな女のために、不倫した」
その一言で、部屋中が先ほど以上に沸き立った。
あの賀来柊也が、だぞ。この江ノ本市でも指折りの名家の跡取りで、どんな女だって手に入るはずの男が。本気で愛していなければ、そんなことまでするはずがない。
太一の反応は、誰よりも激しかった。その甲高い声は、ドアを隔てていても詩織の鼓膜をビリビリと震わせる。
「相手、柏木志帆だろ!やっぱりまだ志帆ちゃんのこと、好きだったんだな!昔、お前は志帆ちゃんが好きで、志帆ちゃんは俺のいとこ、宇田川京介(うだがわ きょうすけ)が好きだった。だから、お前は不倫相手に甘んじたのか! 柊也、お前ってやつは……マジもんの純愛ファイターだな!」
男たちの囃し立てるような笑い声が、頭から浴びせられた冷水のように、詩織の体を芯から凍えさせた。
胃の奥から、何かがせり上がってくる。気持ち悪さに耐えきれず、詩織はその場にゆっくりと蹲った。
太一はまだしつこく食い下がっていた。
「なあ柊也、正直に言えよ。十月十日、お前、志帆ちゃんに会っただろ」
柊也が聞き返す。
「なんで知ってる」
「あいつがあの日、SNSに上げてたんだよ。『再会はこの世で一番ロマンチックなこと』だってさ。絶対あんただと思ったぜ!
で、どうだったんだよ、その夜は。再会を祝して一発、ってとこか?」
第2話
太一の野次馬根性は留まるところを知らない。
部屋の中では、他の男たちも一緒になって騒ぎ立て、その喧騒はひどくなるばかりだった。
詩織には、柊也が何と答えたのか聞き取れなかった。ただ、胃がキリキリと締め付けられるように痛む。
だがその痛みさえ、胸を抉るような心の痛みに比べれば、物の数ではなかった。
十月十日。
それは、彼女が急性アルコール中毒で倒れ、流産した日。
彼女がたった一人で死の淵を彷徨っていた、まさにその時。彼は『忘れられない女』と、かつての愛を再燃させていたのだ。
「お客様、どうかなさいましたか。ご気分でも」
通りかかった店員が、床に蹲って真っ青な顔をしている詩織を見て、ぎょっとした声を上げた。
詩織は、か細い声で救急車を呼んでほしいと頼んだ。
救急車の中で冷や汗を流していると、柊也から電話がかかってきた。
いつもなら、どんなに疲れていても眠くても、彼の電話には真っ先に出た。
けれど、今日の彼女は、あまりにも痛すぎた。
痛くて、何もかもどうでもよくなって、何も欲しくなくなった。
柊也、その人でさえも。
……
詩織は、重度の胃炎で五日間入院した。
原因は、前回のアルコール中毒と流産のあと、ちゃんと体を休めなかったことによるものだった。
入院している間、柊也から連絡は一度もなかった。
メッセージの一本すらなかった。
もしかしたら最初から、柊也の世界にとって自分は、いてもいなくてもいい存在だったのかもしれない。
ただ、今までの自分が、それに気づいていなかっただけなのだ。
月曜日、詩織が会社に出社すると、アシスタントの小林密(こばやし ひそか)が駆け寄ってきて、こそこそと噂話を切り出した。「詩織さん、聞きました?うちのエイジア・キャピタルに、落下傘が来るらしいですよ!女の人です!」
「落下傘?」詩織は眉をひそめた。その言葉が信じられなかった。
柊也は人事に関しては非常に厳格で、この詩織でさえ、入社した時は一番下のインターンからだった。
会社にコネ入社なんて前例は、これまで一度もなかったはずだ。
だが、密はきっぱりと言い切った。「本当なんです!私、社長が直々にサインした辞令、見ちゃいましたから。投資第三部のディレクター、だそうです!」
詩織の眉間が、ぴくりと動いた。
そこは、かつて柊也が彼女に約束したポストだった。
この数年間、詩織が会社のために身を粉にして働いてきたことは、社内の誰もが知っている。
社内の昇進規定からいえば、彼女はとっくにディレクター職を任され、一人でプロジェクトを動かせるだけの実力があった。
それを柊也が、「秘書は君じゃないと慣れない」「代わりが見つからない」という理由で、今まで秘書部に留め置いていたのだ。
投資第三部のディレクターの席は、ずっと君のために空けておく、と。
上場が成功したら、自らの手で辞令を出し、昇進させるとも言っていたのに。
「そう……」まぶたが微かに痙攣するのを感じながら、詩織は感情を押し殺して尋ねた。「名前はなんて言うの」
「ええと、確か柏木……なんとかさん、でしたかね」密はちらりと見ただけで、はっきりとは覚えていなかった。
詩織の指先が震えた。その瞬間、手からマグカップが滑り落ちる。床に叩きつけられ、中のお湯が飛び散った。
密が小さな悲鳴を上げる。「詩織さん、火傷しませんでしたか!」
「大丈夫」
お湯は、それほど熱くはなかった。だが詩織は、本物の火傷よりももっと、肌を焼くような痛みを感じていた。
「柏木志帆」詩織が呟いた。
密は何のことかわからず、きょとんとしている。「え?」
詩織は深く息を吸い込んだ。「その人の名前は柏木志帆。今度、投資第三部のディレクターになる人よ」
「あ、そうです!その名前です!詩織さん、お知り合いなんですか」
「知らない」
そう言って、詩織はカップを手に、再び給湯室へと歩き出した。
落下傘人事の噂はあっという間に社内に広まり、詩織の元には、ひっきりなしに真偽を確かめようとする社員が訪れた。
その対応に疲れ果て、ついに堪忍袋の緒が切れた詩織は、声を荒らげた。「そんなに知りたいなら、直接社長に聞けばいいでしょ」
詩織の声が響くと、社長室フロアは一瞬しんと静まり返り、その静寂を破るように、柔らかな女性の声が聞こえた。
「柊也くん、あなたの会社の社員って、ずいぶん気が強いのね」
声のした方に目を向ける。そこに立っていたのは、寄り添うように並ぶ男女の姿だった。その光景は、詩織の目を焼くには十分すぎるほど、お似合いの二人だった。
何日も顔を合わせていなかった柊也の視線は、詩織の上を冷ややかに滑っただけだった。彼は皆に向かって、隣に立つ女性を紹介する。
「皆に紹介する。こちらが、新しく投資第三部のディレクターに着任された柏木志帆さんだ。今後、第三部のプロジェクトは全て彼女が担当することになる」
社員たちは口々に志帆へ挨拶した。
志帆は人当たりがいいのだろう、誰に対してもにこやかに微笑みかけている。「これから皆さん、どうぞよろしくお願いします」
彼女が用意した着任の挨拶代わりの手土産、その紙袋を、隣に立つ柊也が持ってやっていた。
詩織は自嘲気味に口の端を歪めた。
以前、柊也と一緒に行動する時は、いつも荷物を持つのは詩織の役目で、彼が手を貸してくれることなど一度もなかったのに……
それが、あの女性が相手だと、自分から進んで持ってやるのだ。
ああ、やっぱり。愛されているかどうかで、こうも扱いは違うものなのか。
志帆は詩織にも手土産を渡した。カピバラのリストレスト付きマウスパッドだった。
「あら、かぶっちゃったみたい」志帆は詩織のデスクの上にある同じものを見て、少し驚いたように言った。
そして、柊也の方を振り返って言う。「柊也くん、この方と趣味が合うのね」
続けて、詩織に申し訳なさそうに微笑んだ。「この手土産、柊也くんに付き合って選んでもらったの。まさか同じものだなんて思わなくて……もし、嫌だったら、後で何か別のものを用意するわ」
「いえ、お気遣いなく。気にしませんので」詩織はそのリストレストを受け取った。
「江崎秘書」柊也が詩織に命じた。「柏木ディレクターに社内を案内してくれ」
詩織に断る理由はなかった。
エイジア・キャピタルの秘書としての服務規程、その第一条。『社長の命令を最優先とすること』
見るからに、志帆は人当たりが良く、誰に対しても物腰が柔らかく、丁寧な言葉遣いだった。
容姿もまた、非の打ち所がない。まさに完璧な顔立ちをしていた。
あの柊也が焦がれた女性なのだ。並大抵の女であるはずがなかった。
詩織が一通り案内を終えると、志帆は自分のオフィスを見てみたいと言い出した。
そのオフィスは、半月前に内装が仕上がったばかりだった。
詩織が自ら、現場監督まで務めた場所だ。
内装も、家具の配置も、すべて詩織の好みでデザインされている。
誰よりも、このオフィスで働くことを心待ちにしていた。
それは、ずっと柊也と結婚することを願ってきたのと同じように。
それなのに、今の詩織の手には、愛もキャリアも、何一つ残らなかった。
「このオフィスの雰囲気、すごく好き。思っていたより温かみがあるし、柊也くんの部屋にも近くて嬉しいわ」
志帆はとても満足そうだった。その喜びを柊也にも伝えたかったのだろう、彼女は詩織をそこに残したまま、急ぎ足で隣の社長室へと向かった。
オフィスに一人取り残された詩織は、自分がまるで道化師のようだと感じた。
自分が心を込めて作り上げた空間を見回すと、心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような感覚に陥った。
息が、苦しい。
……
昼からの定例会議は、エイジア・キャピタルで週に一度開かれる最重要会議だ。社内の誰もが、一番緊張を強いられる時間でもある。
遅刻が許される者など、誰もいない。それは詩織も例外ではなかった。
──ただ一人、志帆を除いては。
入社したばかりの新人のくせに、彼女は柊也が自ら定めたルールを、いとも簡単に破ってみせた。
詩織は、柊也が怒りを露わにするだろうと思った。
少なくとも、一言二言、咎めるくらいはするはずだと。
しかし彼は何も言わず、厳しい言葉一つかけることなく、ただ静かに、詩織に資料を配るよう指示しただけだった。
その瞬間、詩織は少しだけ、目の前の現実が信じられなかった。
ふと、昔の記憶が蘇る。
自分がまだインターンだった頃、インフルエンザの高熱で会議に遅刻し、全社員の前で柊也に名指しで罵倒された日のことを。
そのインフルエンザが、彼の看病をしたせいでうつったものだということには、一切触れずに。
後になって悔しさをぶつけた詩織に、柊也は言った。会社はまだ始まったばかりで、規律を示す必要があったのだと。見せしめだったのだ、と。
そして詩織は、彼が社内に権威を示すための、ただの道具にされたのだった。
それでも詩織は自分に言い聞かせた。柊也はただ公私をきっちり分けているだけで、自分を狙い撃ちにしたわけではない、と。
何年も経った今、目の前で繰り広げられるこの光景は、まるで力一杯に頬を張り倒されたかのような、強烈な衝撃を詩織に与えた。
彼にだって、公私を混同することがあるのだ。ただ、彼にそうさせる相手が、自分ではなかったというだけ。
人は、相手によってここまで態度を変えるものなのか。
それは、愛されているか、そうでないかの違いと、全く同じだった。
第3話
詩織が資料を配り終えて振り返ると、志帆はすでに席に着いていた。
けれど、そこはいつも詩織が使っている、社長の隣の席だった。
一瞬、詩織は息を呑み、そこは自分の席だと伝えようと口を開きかけた。
だが、それを遮ったのは柊也の声だった。「お前は今後、向こうの席を使え」
志帆が、申し訳なさそうに詩織へ微笑みかける。「ごめんなさいね。私、入ったばかりで分からないことだらけだから、柊也くんにすぐ質問できるよう、隣の方が都合がいいかなって」
柊也自身にそう言われてしまえば、詩織に反論の余地などあるはずもなかった。
彼女は黙って自分の書類をまとめると、ノートパソコンを抱えて部屋の隅の席へと静かに移動した。
その間、会議室にいる誰もが息を殺し、一言も発さない。けれど、突き刺さるような視線だけははっきりと感じられた。皆の目に浮かぶあからさまな同情が、かえって針のように詩織の背中を刺す。
まるで、針の筵に座らされているかのようだった。
会議が中盤に差し掛かった頃、柊也があるプロジェクトについて、厳しい声で問い質した。
「この案件、なぜ今になっても進捗がないんだ。担当は誰だ」
彼のことをよく知る者なら、それが怒りの兆候だとすぐに分かった。会議室は氷ついたように静まり返る。
張り詰めた空気の中、詩織がすっと立ち上がった。「……はい。私の担当です」
氷のように冷たい視線が、詩織を射抜く。その声は、底冷えするほどに厳しかった。
「理由を聞かせろ」
「申し訳ありません。数日前から体調を崩しておりまして、プロジェクトの進行が遅れて……」
詩織が言い終わる前に、柊也の怒声が飛んだ。「そんなものは理由にならん!どんな人間であれ、私的な事情で業務を滞らせることは許さないと、何度も言ったはずだ!それがこの会社のルールだろうが!」
詩織は唇をきつく結び、それ以上の言葉を飲み込んだ。ただ静かに、こう告げる。「……すぐに、遅れを取り戻します」
その返事を聞いて、柊也はフンと鼻を鳴らし、ようやく満足したようだった。
会議が閉会する直前、柊也が全員に向けて声をかけた。
今夜、『リヴ・ウエスト』で柏木さんの歓迎会を開く。会社を挙げての歓迎会だ、ぜひ全員参加してほしい、と。
『リヴ・ウエスト』といえば、この街で最も格式の高い会員制クラブで、その料金も桁外れだ。
破格の待遇と言っていい。
それだけで、柊也がいかに志帆を特別扱いしているかが、嫌でも伝わってきた。
その事実を目の当たりにし、他の社員たちも志帆のことを一目置かざるを得なかった。
普段は少し鈍感な密ですら、そのただならぬ雰囲気を察していた。
会議室の片付けを手伝いながら、彼女はそっと詩織に尋ねた。「詩織さん……大丈夫、ですか」
密は、詩織と柊也の関係を、薄々ながら感づいている数少ない人物の一人だった。
詩織は努めて平静を装って答える。「ええ、大丈夫よ」
「でも、なんだか顔色が……真っ白ですよ」密が心配そうに詩織の顔を覗き込む。
詩織は自分の頬に触れた。「そんなに、わかる?」
密はこくりと大きく頷く。「はい、はっきりと」
「ちょっと胃の調子が……いつものことよ、持病みたいなもの」詩織は、咄嗟にそう言って誤魔化した。
「じゃあ、今夜の歓迎会はどうします?」
詩織は少し考えてから、答えた。「私は、やめておくわ。悪いけど、社長にはそう伝えておいてくれる?」
それでいいのだ、と詩織は自分に言い聞かせた。
どうせ、柊也は全社員を招いて、志帆の歓迎会を開くのだ。大勢いるのだから、自分一人が欠けたところで、誰も気にも留めないだろう。
いいや、今の柊也は、きっと私のことなど思い出しもしない。私が行こうが行くまいが、彼にとっては些細なこと。何の違いもないのだ。
「その方がいいですよ。早く帰って、ちゃんと休んでくださいね。体がいちばんですから」密が心から気遣うように言った。
詩織は自嘲気味に思った。アシスタントの密にさえ、私の不調は一目でわかるというのに。
誰よりも深く肌を重ねてきた柊也は、それに気づかない。
今までは、自分に言い聞かせることができた。彼は仕事人間だから、細かいことには気づかないだけなのだ、と。
けれど、もう……もう、そんな嘘で自分を慰めることはできそうになかった。
まるで、そんな詩織の心を嘲笑うかのように、きり、と胃が鋭く痛んだ。
けれど、手元の仕事はまだ山積みだ。詩織は鎮痛剤を数錠、水なしで無理やり喉の奥に押し込み、なんとか痛みをやり過ごすしかなかった。
どうにか終業時間まで耐えきり、詩織は家に辿り着くと同時に、ベッドに倒れ込むように体を丸めた。指一本動かす気力さえ、もう残っていなかった。
心も体も、すり減って限界だった。
しばらくそうして体を丸めていると、強張っていた体が僅かに弛み、そこへどっと眠気が押し寄せてくる。
今はただ、眠ってしまいたい。ぐっすり眠れば、少しは楽になれるかもしれない。詩織は朦朧とする意識の中でそう思った。
だが、眠りに落ちた直後、けたたましい着信音が鼓膜を突き刺した。
それは、柊也だけのために設定した、特別な着信音。
かつては心を躍らせたはずのその音が、今はただの拷問のように響く。
出たくない。詩織は目を閉じたまま、それが鳴り止むのをじっと待った。
柊也は短気だ。一度出てこなければ、二度とかけてくることはない。今までは、ずっとそうだった。
しかし、その日に限って、彼は自らの原則を破った。
一度目が切れ、静寂が戻ったのも束の間、再び同じ音が鳴り響く。
こうなっては、さすがに出ないわけにはいかない。
「……社長、何か御用でしょうか」詩織は、自分でも驚くほど冷たく、他人行儀な声でそう言った。
これまでの彼女とは、まるで別人だった。
受話器の向こうから聞こえてきたその声に、柊也は思わず眉を顰め、スマートフォンの画面に視線を落とす。表示されている名前は、間違いなく『江崎詩織』だ。かけ間違えたわけではない。「……お前、どこにいるんだ」
柊也の問いに、詩織は淡々と答えた。「体調が優れないので、今日は失礼します。皆さんで楽しんでください」
それだけを言うと、詩織は通話を切ろうとした。
しかしその瞬間、受話器の奥から、甘えるような志帆の声が割り込んできた。柊也に話しかけているのがわかる。
「江崎さんはいらっしゃらないの? ねぇ柊也くん、もしかして私、歓迎されてないのかしら」
その言葉に続くように、柊也の凍てつくように冷酷な声が、詩織の耳を打った。「詩織、偉そうな態度はやめろ。全員揃っているのにお前だけ来ないとは、自分が特別だとでも言いたいのか」
「私は……っ」
「二十分やる。もし来なければ、明日から会社に来なくていい」
それだけを一方的に告げると、通話は乱暴に断ち切られた。
ツー、ツー、という無機質な音を聞きながら、詩織は乾いた笑いを漏らしそうになった。
たかが歓迎会を一つ欠席しただけで、あの男は私をクビにすると言うのか。
じゃあ、私がこの会社に捧げてきた七年間は、一体何だったというの?
プロジェクトのために体を張って飲み続け、この身を蝕んだ胃の痛みは?全て、何の意味もなかったというの?
……
詩織が『リヴ・ウエスト』に駆けつけた時、個室の中は、まさに最高潮の盛り上がりを見せていた。
太一が、大声で囃し立てているところだった。柊也と志帆に、腕を絡めて杯を交わすよう煽っているのだ。
柊也の声は、先ほどの電話での冷酷さとはまるで別人のように甘やかす響きを帯びていた。「馬鹿を言うな」
「柊也、ノリ悪ぃって。こういう場は楽しまなきゃ損だろ。俺らはもうやったんだから、お前だけやんねーとかナシだろ?」
柊也が答えるより先に、志帆が自らグラスを手に取り、臆することなく大胆に柊也を誘った。「柊也くん、ただのゲームじゃない。ね、付き合ってよ。私に恥をかかせないで」
皆の期待に満ちた視線が集まる中、柊也はグラスを手に取る。
志帆が彼の腕に自分の腕を絡ませた、まさにその瞬間。柊也の視線が、入り口に立つ詩織のそれと、ふと交わった。
ほんの一秒。目が合ったのは、それだけだった。男はすぐに興味を失ったかのように視線を外し、志帆の体にぐっと顔を寄せ、持っていたグラスを掲げた。
太一が、この瞬間を仲間うちのネタにしようとスマートフォンを構えた。その興奮した拍子に、彼の体がぐらりと揺れ、志帆にぶつかってしまう。
「危ないっ」
二人の距離は、ごく僅か。
柊也はほとんど反射的に志帆の体を支えようと腕を伸ばす。
その結果、彼女は彼の胸の中へと、すっぽりと倒れ込む形になった。
個室内のボルテージは、この瞬間、最高潮に達したかのようだった。
詩織のいる場所から見ると、二人はまるで、睦み合う恋人のように見えた。
その光景を前にしても、不思議と、胸の痛みは感じなかった。
心が、麻痺してしまったのだろうか。
ただ、胃の奥がぐらぐらと煮えくり返るような感覚だけが、やけに生々しかった。
その熱気を切り裂いたのは、甲高い悲鳴にも似た声だった。
声の主は、密だった。
入り口に立つ詩織の姿を認め、思わず叫んでしまったのだ。「詩織さん!?なんでここに……?体調が悪いんじゃ……家で休んでいなかったんですか!?」
彼女の心からの気遣いは、この場の狂騒的な空気とは、あまりにも不釣り合いだった。
志帆が柊也の腕の中から顔を上げ、詩織に視線を向ける。その顔には、いつもの人懐こい笑みが浮かんでいた。「あら、江崎さん。来てくれたのね?さあ、入って入って。あなたが来るのを待ってたのよ」
「申し訳ありません、少し立て込んでおりまして」
詩織は平静を装い、個室の中へと足を踏み入れた。
詩織の落ち着き払った態度に、逆に太一の方が妙な罪悪感を覚えた。何か弁解しようと口を開きかけたが、当の柊也が、氷のように冷たい表情で口を開いた。
「遅れてきた人間は、まず罰として三杯ほど一気するのが筋ってもんだろう。誠意を見せるためにな」
三杯、という言葉を聞いた瞬間、詩織の胃は、さらに激しく収縮した。
痛みと吐き気が、荒れ狂う嵐のように、腹の底で渦を巻く。
第4話
密は、詩織が酒を飲むと聞いて、血相を変えた。
「ダメです!詩織さん、体調が悪いんですから、お酒は飲めません!」
かつて詩織がアルコール中毒で倒れた時、その接待の場に付き添っていたのは密だった。
あの時の凄惨な光景が、今も彼女の脳裏には焼き付いている。
あと少し搬送が遅れていたら、命が危ないと医者にはっきり言われたのだ。その恐怖は、今も消えていない。
だが、太一はその言葉を鼻で笑った。「密ちゃん、詩織さんのこと、なめすぎでしょ。彼女が酒豪で有名なの、知らないわけ?前に柊也と北の方に出張した時なんか、二十人相手に差しつ差されつやっても、最後まで平然としてたんだぜ?なのに何?今さら三杯ぐらいで音を上げんの?それとも、相手を見て態度変えてるだけ?……ああ、もしかして、志帆ちゃんの顔を潰す気か?」
場の空気が凍りつくのを感じて、志帆が割って入った。「太一くん、江崎さんも女の子なんだから、そんなにいじめちゃだめよ」
「いじめてなんかないって」
太一は納得いかない様子で、柊也に同意を求める。「なぁ、柊也。これって、いじめてることになるか?」
柊也が、すっと瞼を上げた。色のない視線が詩織の頬を撫でるように滑り、その唇の端を、冷ややかに歪めて言い放った。「……別に」
その一言で、太一は完全に勢いづく。「だよな!柊也もこう言ってんじゃん。志帆ちゃんは心が綺麗すぎるんだよ。詩織さんみたいに、修羅場を潜り抜けてきて、損得勘定で動くことにかけてはプロな人間とは違うんだからさ」
侮辱的な言葉を投げつけられても、詩織は何も言い返さなかった。ただ、じっと柊也を見つめた。
彼の瞳の奥に、何か、別の感情を探すように。
彼が助け舟を出してくれるのを、待っていた。たとえそれが、「もういい」とか「ふざけるな」という一言だけであっても、構わなかった。
それは、絶望の淵に沈む前の、最後の足掻きだったのかもしれない。
だが、柊也が口を開くことは、なかった。
彼の瞳に映るのは、氷のような無関心だけだった。
その瞬間、詩織の中で、何かがぷつりと切れた。
まるで背後から、氷の欠片が無数に混じった冷水を頭から浴びせられたように。心の奥で燻っていた最後の期待の火を、根こそぎ消し去っていく。
詩織は、どこか夢でも見ているかのように、ふ、と自嘲の笑みを浮かべると、テーブルの上のグラスに手を伸ばした。その声は、驚くほど穏やかだった。「……私の方が、無作法でしたね。ええ、いただきます」
かつて、接待の席で生き抜くために、数え切れないほどの酒の飲み方を学んだ。
飲む前に牛乳を飲んで胃に膜を張ること。少しずつ、ゆっくりと口に含むこと。
そんな処世術を駆使して、彼女はどんな酒席でも切り抜けてきた。
だが、今の詩織は、そのどれも使わなかった。
ただ、喉に流し込む。それだけだった。
一杯。
二杯。
三杯。
焼けるような強い酒が喉を通り過ぎ、鼻の奥がつんと痛む。すでに悲鳴を上げていた胃が、さらに激しく引き攣った。
それでも詩織は、何事もなかったかのように、空になったグラスを柊也に向けて、ことりと持ち上げてみせた。「……飲み終わりました。これで、失礼してもよろしいでしょうか。――賀来社長」
……
柊也が、最後に頷いたのかどうか。
詩織には分からなかった。いや、確かめる気にもならなかった。彼の返事を待つことなく、彼女はその場を後にした。
胃の奥から、激しい吐き気がせり上がってくる。この場で戻してしまうことだけは避けたかった。
化粧室の冷たい便器に縋りつき、胃の中のものが空になるまで、意識が朦朧となるほど吐き続けた。その時、彼女の頭をよぎったのは、飲む前に口にしたのがアルコールとの飲み合わせが最悪な薬ではなく、ただの胃薬でよかった、という場違いな安堵感だった。
生まれつき酒に強い人間など、いるはずもない。
エイジア・キャピタルに入社するまで、詩織は一滴もお酒を飲めない人間だった。
初めて柊也の接待に同行した時のことだ。厄介な取引先で、それが誠意の証だとかなんとか言って、柊也に酒を強要した。
だが、彼はアルコールアレルギーで、一滴も受け付けない体質だったのだ。
その時、彼の盾になるように進み出たのが、詩織だった。
それが、彼女が初めて口にした酒だった。
慣れないアルコールにひどくむせながらも、これが柊也がようやく掴んだ千載一遇のチャンスなのだと思えば、どんなに喉を通らなくても、無理やり飲み干すことができた。
そうして、彼女が体を張って、柊也のために勝ち取った最初の契約だった。
「お前はエイジア・キャピタルの功労者だ」と、彼は言った。「会社が成功したら、この栄光を、お前と分かち合いたい」と。
彼が描いてみせたその未来のために、詩織はそれ以来、柊也に一滴たりとも酒を飲ませなかった。
どんな接待も、すべて彼女が引き受けてきた。
彼女の酒の強さは、そうやって一杯一杯、この身を削るようにして培われたものだった。
――かつて、彼のために矢面に立ち、その身を削って磨き上げた鎧は。七年の時を経て、彼の「特別な女性」を守るための鋭い矢となり、今、まっすぐに自分の眉間を射抜いた。
痛みは、けれど、どうしようもないほどの覚醒を彼女にもたらした。
『リヴ・ウエスト』を出ると、外は雨だった。
晩秋の冷たい雨が、何の兆しもなく降り始めている。
吐き出した後も、胃の不快感は少しも和らいでおらず、顔からは完全に血の気が引いていた。
詩織がスマートフォンを取り出し、タクシーを呼ぼうとした、その時だった。柊也の運転手が彼女に気づき、小走りで駆け寄ってきた。
「江崎さん。もうお開きですか?社長は?ご一緒では?」
「ええ、まだしばらくは……」詩織の声は、自分のものではないかのように、どこか宙を漂っていた。
中はまだ、最高潮に盛り上がっているのだろう。腕の中には、愛しい女性がいるのだ。柊也が、そう簡単にこの夜を切り上げるはずがない。
柊也の運転手、鈴木は店の入り口を一瞥し、それから詩織のあまりに血の気のない顔色に気づくと、気を利かせるように言った。「江崎さん。よろしければ、私が先にお送りしますよ。こんな時間に雨も降っていますし、タクシーもなかなか捕まらないでしょう」
詩織は断らなかった。体が限界で、これ以上自分を痛めつけたくはなかった。
しかし、車が走り出してまだ半分も行かないうちに、柊也から電話がかかってきた。運転手はどこにいるのか、と。
鈴木が正直に、詩織の具合が悪そうだったので、先に送っているところだと説明する。まだしばらくは終わらないだろうと思った、と。
スピーカーフォンから響く柊也の声は、車の密室の中、ことさらに冷たく響いた。「誰がお前に給料を払っているか、忘れたのか」
その一言に、鈴木はびくりと体を震わせる。「も、申し訳ありません!すぐにお迎えに上がります!」
電話が切れる、その直前。柊也の声が、さっきまでの冷酷さが嘘のように、雪が解けるような優しい声に変わった。
「車はもうすぐ着く。外は寒いから、中で待っていなさい」
受話器の向こうから、志帆の甘えるような声が聞こえた。「じゃあ、柊也くんも一緒にいてよ」
柊也が彼女にどう答えたのか、詩織には分からない。そこで、通話は切られたからだ。
鈴木が、心底困り果てた顔でこちらを見ている。詩織は自ら口を開いた。
「鈴木さん、ここで降ろしてください。私は自分でタクシーを拾いますから」
その場所は、タクシーを拾うどころか、雨をしのげるような軒先一つない道端だった。
さすがに良心が咎めたのだろう。鈴木は車を降りる際、詩織に車載の傘をそっと手渡した。
今夜はとことん運に見放されていると思っていたが、天が最後に少しだけ哀れんでくれたのかもしれない。車を降りて、さほど待つこともなく、一台の空車が通りかかった。
それでも翌日、詩織は熱を出した。
流産してからというもの、彼女の体はすっかり弱り切っていた。持病の胃痛は頻繁にぶり返し、免疫力はほとんど機能していない。ほんの少しの風雨が、すぐに体にこたえるのだ。
だが今日に限って、トレヴィ社の辰巳剛(たつみ つよし)社長との打ち合わせが入っていた。昨日、会議で柊也に名指しで遅れを指摘された、あのプロジェクトだ。
これ以上滞らせるわけにはいかない。もしそんなことになれば、今度はどんな嫌味を言われるか分からなかった。
詩織は体温計に目を落とす。三十八度五分。死にはしないが、立っているのも辛い体温だ。
解熱剤を飲めば少しは楽になるだろう。だが、よりにもよって、その辰巳社長は筋金入りの酒好きで、重要な商談ほど酒の席で決めたがることで有名な人物だった。
詩織は意を決して解熱剤の箱を引き出しに投げ戻すと、書類を掴み、振り返ることなくオフィスを出た。
……
詩織が料理と酒を注文し終えたところで、辰巳が姿を見せた。
テーブルに並んだのが自分の好物ばかりであることに気づくと、辰巳はたちまち上機嫌になった。「江崎さん、本気でうちへ来る気はないのかね?給料は君の言い値で構わんよ!」
「辰巳社長、身に余るお言葉です。ですが、まだエイジア・キャピタルとの契約が残っておりますので、今のところ移籍は考えておりません」
それは、詩織のいつもの決まり文句だった。
彼女の仕事ぶりは業界でも評判で、引き抜きの声は後を絶たない。
以前、ある取引先の社長が酒の勢いで、柊也の目の前で堂々と詩織を引き抜こうとしたことがあった。
柊也は表向きこそ何も言わなかったが、その夜は、まるで詩織を罰するかのように、執拗にその体を求めてきた。
結局、詩織が自らエイジア・キャピタルとの長期契約にサインすることで、ようやく柊也の機嫌を直させたのだ。
第5話
そんな過去を思い出しながらも、詩織は完璧な笑顔で応対する。辰巳は、詩織の返事を聞くと、残念そうにしながらも、どこか羨ましそうに言った。「賀来社長は本当に果報者だ。江崎さんのような逸材がいてくれるんだから、そりゃあ事業も成功するわけだ」
「いえ、とんでもないお言葉です。私からすれば、一代で会社を築かれた辰巳社長こそ、心から尊敬しております」
酒席での社交辞令に過ぎないと分かってはいても、辰巳は彼女の言葉にすっかり気を良くした。
「いやぁ、江崎さんと話していると、どうしてこうも気持ちがいいのかねぇ。こっちの言いたいことを全部汲んでくれる。さあ、この一杯は君にだ」
「辰巳社長は肝臓を労わらないといけませんから。この一杯は、私が代わりにいただきます。では、失礼して」
辰巳は、気風のいい人間との付き合いを好んだ。詩織のそういうさっぱりとした性格が、彼はことのほか気に入っていた。
彼女が杯を空にするのを見ると、慌てて声をかける。「おいおい、そんなに無茶するな。このプロジェクトの契約相手は、君しかいないと決めてるんだ。他の誰が来ても、ハンコは押さんよ!」
「……ありがとうございます、辰巳社長!」詩織はそう言うと、彼のグラスに丁寧に酒を注いだ。
その時、辰巳は彼女の顔色が普通でないことに気づき、気遣わしげに尋ねた。「江崎さん、君、もしかして具合でも悪いのかね? 顔色が優れないようだが」
「いえ、大丈夫です」
「無理はするな。なら、俺の運転手にでも病院まで送らせようか」
詩織が、それには及ばないと断ろうとした、その時。個室の扉が、コンコン、とノックされた。
ウェイターがドアを開け、中へと入ってくる。「辰巳社長。賀来社長が、辰巳社長がこちらにいらっしゃるとお聞きしまして。こちらのワインを、と」
辰巳は、ウェイターが恭しく差し出すワインに目をやった。
ロマネ・コンティ。――とんでもない代物だ。
だが、彼がそれ以上に不思議に思ったのは、柊也がこの店にいるのなら、なぜ詩織と一緒ではないのか、ということだった。
その疑問を口にする間もなく、柊也が、志帆を連れて姿を現した。
「辰巳社長、このワインはお気に召しましたか」柊也は、詩織の存在などないかのように、その視線を彼女の横を通り過ぎさせ、辰巳に声をかけた。
男が纏っているのは、清潔な白いシャツ一枚だけ。体に寸分違わずフィットしたそのシャツは、彼のすらりとした体躯と、どこか育ちの良さを感じさせる気品を際立たせていた。
では、その上着はどこにあるのかと言えば――
今、まさに志帆の肩に、ふわりと掛けられている。隠そうともしない親密さを見せつけながら。
皮肉なことに、そのジャケットは、かつて詩織が柊也のために自ら選んだ一着だった。
「これはこれは、賀来社長からの有り難いお心遣いだ。気に入らないはずがありませんよ。ところで、こちらは……」
辰巳の視線が、柊也に伴われてきた志帆の上で留まる。男が、自分の上着を女に着せかけてやっている。その関係性は、言うまでもない。
辰巳は、無意識のうちに詩織へと視線を送った。
彼女の表情は、驚くほど穏やかだった。ただ、その顔色は先ほどよりも一層、血の気を失っているように見えた。
「ご紹介します、辰巳社長。弊社の投資第三部ディレクター、柏木です」
柊也はそう言うと、今度は志帆に向き直った。「柏木さん、こちらはトレヴィ社の辰巳社長。我が社の古くからの友人だ」
志帆が一歩前に出て、辰巳に手を差し伸べる。「辰巳社長、はじめまして。柏木志帆と申します。これから、どうぞよろしくお願いいたします」
「いえいえ、柏木さん。こちらこそ」
トレヴィ社はエイジア・キャピタルとはいくつも案件を共にしてきた。だから、内情もある程度は耳に入っている。
投資第三部が設立されてまだ一年も経っておらず、そのディレクターのポストはずっと空席のままだった。誰もが、あの席は詩織のために用意されたものだと思っていたのだ。
彼女は本来の秘書業務と兼任しながらも、わずか一年で、第三部の業績を社内トップにまで押し上げた。その裏にあった彼女の尽力が、並大抵のものでなかったことは想像に難くない。
だが、まさか、その結末が……
彼女が懸命に育てた木に、別の人間が涼しい顔で腰掛けることになろうとは。
部外者である辰巳でさえ、詩織の境遇に同情を禁じ得なかった。
「ああ、そうだ辰巳社長。トレヴィ社とのこの共同プロジェクトの件ですが、今後は柏木の方で担当させていただきます。今日はそのご挨拶も兼ねて、彼女を連れてきました」
その言葉に、辰巳は思わず眉を顰める。「しかし、これまではずっと江崎さんが窓口だったが……急に担当が変わるというのは……」
だが柊也は、それを意にも介さない。「江崎はしょせん秘書ですから。以前は柏木がまだこちらに戻っていなかったので、一時的に代理をさせていただけのこと。本来の担当者が戻ってきた以上、持ち場を返すのは当然でしょう」
そう言うと、今度は辰巳をなだめるように言葉を続ける。「ご心配には及びませんよ、辰巳社長。柏木はM国のWTビジネススクールで金融学の博士号を取得し、海外のトップバンクでの実務経験もある。私が高給でエイジア・キャピタルに引き抜いた逸材です。その手腕は、疑う余地もありません」
辰巳が懸念しているのは、もちろん実務能力のことではない。彼が不憫に思ったのは、詩織のことだった。
彼女がこのプロジェクトのために、どれほどの心血を注いできたか。
それを、柊也はこうもあっさりと他人に引き渡してしまう。部外者である自分でさえ、見ていられないほどの仕打ちだった。
そんな辰巳の同情の視線を受けながらも、詩織の反応は、彼の予想に反して、驚くほど穏やかだった。
……ああ、そうか。柊也が自ら志帆を取引先に紹介して回る。彼女の将来のために、地盤を固めてやろうというわけだ。
本当に、手が込んでいる。
私が、一度も与えられたことのなかった、その気遣い。
そんな思いを押し殺し、詩織は、ただ静かに口を開いた。「……早急に資料を整理し、柏木さんに引き継ぎをいたします」
「ええ、よろしくお願いするわね、江崎さん」志帆は、どこまでも丁寧に応じる。
詩織は淡々と頷くと、立ち上がってバッグを手に取り、辰巳に会釈した。「辰巳社長。それでは、後は柏木さんと直接お話を。私はこれで失礼いたします」
辰巳は引き止めたい気持ちに駆られたが、自分にその資格がないことも分かっていた。
せめてもの抵抗として、彼は詩織のために、ささやかな反撃を試みた。「これは御社の決定ですから、私のような部外者が口を挟むことではありません。ええ、誰が担当でも結構ですよ。……ですが、賀来社長もご存知の通り、私は酒を酌み交わしてこそ、腹を割って話せるという古い人間でしてね。以前、江崎さんには強い酒を九杯も立て続けに飲んでいただき、その気骨には心底感服させられたものです。……それで、柏木さんの酒量は、いかがなものですかな?」
「江崎さんには及ばないかもしれませんが、辰巳社長にお付き合いする準備はできておりますわ」志帆はそう言って、臆することなく大胆に杯を手に取った。
しかし、柊也がその杯を、彼女が口にする前に奪い取った。「彼女は、体調が優れないんだ。この一杯は、私が代わろう」
そして、辰巳が何か言うより先に、それを一気に呷した。
辰巳は知っていた。柊也が、アルコールを受け付けない体質だということを。だからこそ、どんな酒席でも、常に詩織が彼の代わりに酒を飲んできたのだ。
彼と付き合い始めてから、柊也が誰かのために酒を飲むところなど、一度も見たことがなかった。
では、これまで詩織が彼のために体を張って飲んできた、あの無数の酒は、一体何だったというのか。
扉の外に佇む詩織もまた、同じことを考えていた。
……
家に帰り着き、薬を飲んでベッドに横になった、まさにその時。詩織のスマートフォンが着信を告げた。親友のミキからだった。
電話に出るなり、ミキは詩織の体を気遣う質問を立て続けに投げかけてくる。
最近ちゃんと休めているのか、体調は万全なのか、医者の言いつけを守って、決してお酒に口をつけていないか、など……
詩織は言葉を濁す。
するとミキは、それだけで全てを察したようだった。
「……また飲んだんでしょ」
「仕事の接待で……仕方がなかったの」
電話の向こうでミキが声を荒らげるのがわかった。「あんた、死にたいの!? 急性アル中で死にかけたこと、もう忘れたわけ!?ていうか、賀来柊也のやつ、なんであんたを飲み会なんかに参加させてんのよ!」
「……もう、しないから」詩織はなだめるように約束する。
だがミキは、そんな言葉を信じようとしなかった。「あんた、前も同じこと言ってたじゃない!」
「今度は、本当だから」
「……どのくらい?」
詩織は少し考えを巡らせてから、ミキに尋ねた。「ねえ、ミキ。知り合いに弁護士いないかな。エイジア・キャピタルの法務部と渡り合えるくらい、腕の立つ人が」
電話の向こうで、ミキが息を呑む気配がした。「……なにする気」
「エイジア・キャピタルとの契約を解除しようと思ってるの。でも、前に結んだ長期契約、覚えてるでしょ。条項が私にとってすごく不利なものばかりで……おまけに、あそこの法務部は強気だから、そこらの弁護士じゃまず引き受けてくれない」
そこでようやく、ミキは詩織が本気なのだと悟った。驚愕の声を隠せないまま、彼女は問いかける。「え……あんた、本当にあの詩織?」
「本物よ、正真正銘のね」
「今日はなんて記念すべき日かしら! 恋に目が眩んでた親友が、ついに目を覚ましたんだから!」
ミキは、心の底から詩織の決意を喜んでくれた。詩織が休まなければならないと分かっていなければ、今すぐにでも飛んできて一晩中語り明かしたい、そんな気持ちが声色から伝わってくる。
「弁護士のことは私に任せて。なんとかして腕の立つ人を探してあげるから」
電話を切る直前にも、ミキは「安心して」と念を押すのを忘れなかった。
親友に胸の内を話せたことで、詩織の心はいくらか軽くなった。そして、心地よい眠気が襲ってきた、まさにその時だった。
柊也から着信があった。
詩織は電話に出た。その声は、驚くほど平坦だった。
「社長、何かご用でしょうか」
「アレルギーの薬を届けてくれ」柊也は、いつものように当然といった口ぶりで命じた。
「かしこまりました」
通話を切ると、詩織はそのままスマートフォンの電源を落とし、ベッドに深く体を沈めた。瞼の裏に、柊也の顔が浮かんでくる。
どこかの誰かさんが、「か弱いお姫様」のために騎士よろしくお酒を呷あおり、アレルギー反応を起こしたかなんだか知らないけれど……
それが、今の私に何の関係があるというのだろう。
第6話
翌日、詩織が出社するなり、アシスタントの密が何やらこそこそとした様子で近づいてきた。
「詩織さん……」
周囲に聞き耳を立てられないよう、密はぐっと声を潜めている。
「昨日の夜、柏木さん、社長とお泊まりだったみたいです」
スマートフォンの画面に映し出されていたのは、彼女がこっそりと撮ったという証拠写真だった。
「今朝、お二人、同じ車でいらしたんです。それに柏木さん、昨日のままの服で……」
詩織はスマートフォンの画面に目を落とした。
車のドアの前に立つ柊也は、顔の半分を影に落とし、降りようとする志帆を俯き加減に見つめている。
絶妙な角度で撮られたせいだろうか、写真の中の二人からは、どこか密やかな情愛が漂っているように見えた。
数秒間、詩織は無言でそれを見つめていたが、やがて視線を外し、手のひらにあった薬を一気に口の中へと放り込んだ。
数口の白湯で薬を流し込む。熱い液体が喉を通り過ぎていくが、不思議と熱さも痛みも感じない。本当に、何も感じなかった。
詩織は午前中いっぱいを使い、自分が担当してきたプロジェクトの資料をすべて整理し、その合間に退職願まで書き上げた。
その間、志帆が柊也のオフィスを訪れたのは四回。毎回、三十分以上も中に留まっていた。
想い人がそばにいて機嫌が良かったせいか、昨夜、詩織が彼の元へ行かなかった件で柊也が詰問してくることは、意外にもなかった。
昼休みが近づいた頃、柊也と志帆がオフィスから連れ立って出てきた。
詩織のデスクの横を通り過ぎていくが、一瞬たりとも足を止めることはない。
志帆が柊也に話しかけているのが聞こえる。お昼は何が食べたいか、と。
昨夜、自分の代わりにお酒を飲んでくれたお礼に、ご馳走させてほしい、と。
柊也は、近くにいい薬膳スープの店がある、と答えた。そこの滋養スープは気や血を補うのに良く、今の志帆の体にぴったりだと。
「柊也くん……優しいのね」志帆の、見るからに感動した様子の声が聞こえた。
エレベーターの扉が閉まる、その直前。詩織は、書き上げた退職願に自分の名前を打ち込んだ。
密から【お昼、どうします?】とメッセージが届く。
詩織は少し考えて、返信した。【例の薬膳スープのお店、行ってみない?】
すぐに【いいですね!】と返事が来た。
ちょうど昼食時で、店内は多くの客で賑わっていた。
店に足を踏み入れた途端、詩織は見てしまった。柊也と志帆の姿を。嫌でも目に入る、窓際の特等席に二人はいた。
「うわ……すごい偶然」密が小声で呟き、詩織の様子を心配そうに窺う。
詩織の反応は、けれど、驚くほど穏やかだった。二人の姿など存在しないかのように視線を素通りさせ、彼女は言う。「あそこ、空いてるわ」
店員は詩織と顔なじみだった。詩織が席に着くと、にこやかに声をかけてくる。「江崎さん、こんにちは。今日も社長さんのための、あの安眠スープですか」
詩織は穏やかに首を振った。「ううん、今日は違うの。胃に優しいスープをいただこうかな」
「あら、社長さん、不眠症は良くなられたんですか」店員はつい、といった様子で尋ねた。
それもそのはず、詩織はこれまで、雨の日も風の日も、決まってこの店へ柊也の不眠症に効くという薬膳スープを買いに来ていたからだ。
いつしか店の常連となり、ほとんどの店員が彼女の顔を覚えていた。
詩織は淡々と答える。「ええ……もう、必要なくなったんです」
これからは、自分の胃だけを労わればいい。
「あの」と、密が店員に割って入った。「貧血に効くようなスープってありますか。ちょうど生理中で、ちょっとふらふらするっていうか……」
「ございます、ございます!本日、三食限定で滋養スープをご用意しておりまして……お客様、運がいいですよ、ちょうど最後の一食が残っております。他の二食は、そちらの席の男性が、お連れの女性のためにご注文されましたので」
店員の声には、隠しきれない羨望の色が滲んでいた。「お二人、すっごくお似合いですよねぇ。美男美女で、雰囲気もあって……なんといっても、彼氏さんのほうが彼女さんのことを、ものすごく気遣ってあげてて!あんな素敵な方、今どきなかなかいないですよぉ」
密は思わず店員さんの口を手で塞ぎたくなった。
店員が語っているのは、言うまでもなく柊也と志帆のことなのだから。
つまり、柊也がわざわざ志帆をこの店に連れてきたのは、彼女が生理中で、滋養が必要だったから。
昨夜、体調が悪いと言って彼女の代わりに酒を飲んだのも、それが理由だったのだろう。
どれほど親密で、深い関係にあれば、そこまで相手のことを把握できるのだろうか。
付き合って七年。
夫婦にだって「七年目の浮気」という言葉があるくらいだ。詩織と柊也の関係とて、その例外ではいられなかった。
エイジア・キャピタルが成長し、その事業領域が拡大していくにつれて、柊也は息つく暇もないほど多忙になった。
二人の間に、甘い時間が流れることなどとうになくなっていた。
最後に二人きりでデートしたのがいつだったか、詩織にはもう思い出せない。
ましてや、こんな細やかな気遣いなど、望むべくもなかった。
店員が立ち去るやいなや、密はすぐさま心配そうな顔で詩織に問いかけた。「詩織さん、大丈夫ですか……?」
詩織は物思いから我に返ると、静かに首を振った。「ええ、平気よ」
評判通り、この店の薬膳スープは絶品だった。小ぶりの椀に二杯も飲むと、胃のあたりがじんわりと温まり、心地よい。
やはり、人間は自分自身を大切にしなければ。
他人への献身は、必ずしも報われるとは限らない。
けれど、自分自身を大切にすれば、その見返りは必ず、そして何よりも直接的に返ってくるのだ。
……
午後からは、投資決定会議が予定されていた。
志帆が投資第三部のディレクターとして参加する、初めての会議だ。
鳴り物入りでやってきた新しいディレクターが、どれほどの能力を持っているのか。誰もが固唾をのんで見守っていた。
会議が始まると、志帆はまず自らの経歴を朗々と語り始めた。M国の名門、WTビジネススクールで経済学の博士号を取得した、と。
その瞬間、会議室全体に感嘆のどよめきが広がった。
なるほど、社長がわざわざ海外から引き抜いてきたわけだ。
どうりで、エイジア・キャピタルに落下傘で来られたはずだ。
あれほどの美貌を持つだけでなく、これほどの高学歴だったとは。
M国のWTビジネススクールといえば、世界でもトップクラスに名を連ねる超名門校だ。
そこで経済学の博士号を取得できる人間など、ごく一握りしかいない。
ましてや、これほど容姿端麗な女性となれば尚更だ。
江崎秘書も……これでは、勝ち目がない。
つい先ほどまで詩織に同情的な視線を向けていた何人かの社員たちの心も、この瞬間、揺らぎ始めていた。
人は、強い者に惹かれる。それは、彼らにとっても例外ではなかった。
国内の大学を卒業しただけの、修士ですらない詩織が、一体どうやって彼女と張り合えるというのか。
詩織はいつも通り、淡々と議事録を作成していた。
ただ、「WTビジネススクール」とキーボードで打ち込んだその指が、ほんの数秒、止まっただけ。
かつて、自分もそのWTビジネススクールから、合格通知を受け取ったことがあった。
けれど、柊也の事業を助けるために、その機会を自ら手放したのだ。
その選択が原因で、大学時代の恩師は、今でも詩織に口も利いてくれない。
皮肉なものだ。長年の時を経て、自分が捨てたその選択肢によって、今、打ち負かされることになるとは。
志帆がその輝かしい経歴というお墨付きを得た後では、柊也が「トレヴィ社との案件は彼女が獲得した」と発表しても、もはや誰もそれを不自然だとは思わなかった。
まるで、本当にあのプロジェクトが、初めから志帆の手柄であったかのように。
なんとも、滑稽な茶番劇だった。
密は憤りを隠せない様子で、詩織にプライベートメッセージを立て続けに送りつけてきた。
【ちょっと待ってください、なんでトレヴィ社の案件が柏木さんの手柄になってるんですか?】
彼女は本気で腹を立てているらしく、メッセージは止まらない。
【あれは詩織さんが、胃から血を吐くほどお酒を飲んで、やっとの思いで取ってきた案件じゃないですか!そんなのってアリですか?】
【社長、いくらなんでもえこ贔屓が過ぎます!】
【訳が分かりません、私、全然納得できません!】
【もう、爆発しそうです!】
詩織は、荒ぶる密を宥めるように返信した。
【いいから、落ち着いて。もう、どうでもいいことだから】
七年間愛した柊也本人ですら、手放そうとしているのだ。プロジェクトの一つや二つ、くれてやったところで何だというのだろう。
それでも、密の怒りは収まらない。
【でも、あれは詩織さんが、あんなに苦労して勝ち取ったプロジェクトですよ!?社長は、詩織さんがこの案件のせいで……赤ちゃんを失ったこと、ご存じないんですか?】
第7話
『赤ちゃん』という言葉に、詩織が無理やり心の奥底に押し込めていた痛みが、じわじわと全身に広がっていくのを感じた。
……真っ白な天井の照明。……鼻をつく消毒液の匂い。……処置を終えた後の、体の芯まで凍えるような寒気。
一生、忘れられない。
自らの血肉が剥がれ落ちるような、あの痛みも、永遠に。
今になって思えば、あの子は何かを予感していたのかもしれない。
だから、静かにやって来て、また静かに去っていった。
まるで、自分に代わって大きな厄災を引き受けてくれるかのように。
会議が終わると、志帆が密に声をかけた。「小林さん、さっきの議事録、一部送ってくださる?」
内心の怒りを抑えきれない密は、棘のある言い方で答える。「まだ、まとめてません」
「だったら、整理してからでいいわ」
「こっちは死ぬほど忙しいんです。そんな時間ありません」
志帆は眉をひそめ、密を一瞥した。
密はそんな彼女を無視して、詩織の周りの片付けを黙々と手伝っている。
志帆が部屋を出て行った後で、詩織は彼女を諭すように言った。「覚えておいて。仕事に感情を持ち込んでは駄目。この会社では、それは許されないことよ。もしあなたがここで長くやっていきたいなら、誰の反感も買っちゃいけない。特に、自分より職位が上の人にはね」
「……だって、詩織さんのことを思うと、悔しくて」
「悔しいとか、そういうものじゃないの」詩織の表情から、すっと感情が抜け落ちていた。
彼女にしてみれば、恋愛は等価交換ではない。
自分が柊也に尽くすのは、自分がそうしたかったから。
それに対して柊也がどう応えるかは、彼自身の選択だ。
その二つの間に等号を引こうとすれば、自分で自分の首を絞めるだけだ。
柊也を愛していたから、将来を賭けて、海外留学の機会も諦めて、彼の起業に付き添い、彼を支えることを選んだ。
結果は芳しいものではなかったけれど、後悔はしていない。
負けを認めて、潔く身を引く。人生における最大の敵は、時として、自分の思考という名の檻に囚われたままの自分なのだから。
ただ、一つの恋が終わること。それはどうしようもなく、人を疲れさせ、悲しませる。
もう少し、時間が必要なだけ。
きっと、乗り越えられる。
……
終業時刻が近づいた頃、詩織は志帆宛てにメッセージを送った。
投資第三部のプロジェクト資料はすべて整理が完了したこと、必要であればいつでも届けに行く、と。
志帆からの返信は、驚くほど早かった。
【江崎さん、悪いけどその資料、柊也くんのオフィスに届けてもらえるかしら。私、帰国したばかりで国内のビジネス環境にはまだ疎いの。だから、柊也くんに少し分析をお願いしたくて】
メッセージの中では、何度も「柊也くん」という言葉が繰り返される。あまりにも気安い、親密な響き。
そして柊也は、その呼び方を一度も咎めようとはしなかった。志帆がそう呼ぶのを、ただ許している。
詩織は、はっきりと覚えていた。柊也は、社内で役職以外の名で呼ばれることを、何よりも嫌っていたはずだ。
この七年間、詩織はそのルールを固く守り、社内でも、取引先との会食の席でも、彼を「賀来社長」と呼び続けてきた。
忠実に、職務を全うしてきた。
そのすべてが今、一つの滑稽な茶番劇のように思える。
つまり、柊也が作ったルールは、しょせん「他人」にしか適用されないものだったのだ。
そして自分は、その「他人」に他ならなかった。
本当に好きな相手には、彼は何の制約も設けない。
詩織は【承知いたしました】とだけ返信し、整理し終えた分厚い資料の束に、柊也のサインが必要な書類を重ね合わせた。一緒にオフィスへ届けるつもりだった。
席を立つ直前、彼女は引き出しから署名を済ませた退職願を取り出し、柊也に提出する書類の間に、そっと差し込んだ。
彼がサインをするかどうかは分からない。それでも、踏むべき手順は踏まなければならなかった。
大量の資料を抱え、詩織は社長室へとまっすぐに向かう。
いつもと同じように、ドアをノックし、そして――返事を待たずに、そのままドアを開けた。
それが、柊也が彼女に与えた唯一の特権だったから。
秘書として、彼との業務上のやり取りはあまりにも多い。時間のロスをなくし、効率を上げるため、社長室への入室はノックのみで許可されていた。
いつしかその習慣は、詩織の体に深く染みついていた。
だから、彼女はノックをした後、無意識にドアノブに手をかけ、中へと足を踏み入れたのだ。
「失礼します」という言葉が口をついて出る前に、詩織の心臓は、目の前の光景によって激しく握りつぶされた。
志帆が、柊也のデスクに腰かけていた。その上半身は、椅子に座る柊也の方へと、乗り出すように傾けられている。
柊也の顔と、志帆の胸元が、触れんばかりに近付いていて……
それは、想像を絶するほど、親密な姿だった。
「きゃっ……」
詩織の突然の入室に驚いたのか、志帆はバランスを崩し、そのまま柊也の腕の中へと倒れ込んだ。
柊也は眉間に深い皺を刻み、氷のような声で詩織を叱責した。「ノックもできないのか」
詩織は、ノックはした、と言いかけた。
だが、そんな反論の言葉が、今この状況で何の意味を持つというのだろう。
「礼儀も知らないのか! それがお前の仕事のやり方か!」
男の顔は冷たく、その声は刃のように鋭い。彼女に特権を与えたのが自分であることなど、とうに忘却の彼方らしい。
「……申し訳ありません。次からは、気をつけます」詩織は、ただ頭を下げた。
――もう、次などないのだから。
志帆が、ようやく柊也の腕の中から顔を上げた。その頬は潤んだように赤く染まり、艶めかしい。
「柊也くん、そんなに怒らないであげて。江崎さんも、わざとじゃないんだから」志帆はそう言って、甘えた声で彼を諌める。
そして、今度は詩織の方へとにこやかに視線を向けた。「江崎さん、プロジェクトの資料を届けてくれたのよね。悪いのだけど、そこに置いてもらえる?今、ちょっと手が離せなくって」
詩織は己の感情を殺し、言われた通りに資料をデスクの端に置いた。そして、付け加えるように言う。「中に、社長のサインが必要な書類も入っております」
「わかったわ。じゃあ、もう出て行ってちょうだい」まるで女主人のように、志帆は詩織に命じた。
柊也もそれに続く。「用がないなら、二度と入ってくるな。邪魔だ。……他の者にもそう伝えておけ」
その言葉に、詩織の胸がずきりと痛んだ。震える指を、ゆっくりと握りしめる。「……承知いたしました」
詩織は、彼にそう約束した。
あの息の詰まるようなオフィスから、どうやって自分が退出したのか、詩織には思い出せない。
ただ覚えているのは、自分が部屋を出るその瞬間まで、志帆が柊也の膝の上に、泰然と座り続けていたことだけ。
まるでそこが、当然のように自分の居場所であるとでも言うように。
そして柊也もまた、彼女を突き放そうとする素振りなど、微塵も見せなかった。
彼が怒り、苛立っていたのは、自分たちの「いいところ」を邪魔されたからなのだろう。
出会って七年。柊也が、ここまで理性を失った姿を、詩織は初めて見た。
彼の冷静さと知性など、すべてが上辺だけの虚像だったかのようだ。
男という生き物は、本当に好きな女の前でだけ、内なる衝動と激情を抑えきれなくなるのだろうか。
でなければ、真昼間から、オフィスでこんな情事を繰り広げようなどと思うはずがない。
定時を迎えると、詩織はさっとパソコンの電源を落とし、帰る支度を始めた。
その様子に、秘書室の誰もが驚きに目を丸くした。
それもそのはず、詩織はエイジア・キャピタルでその名を知らない者はいないほどの仕事の鬼として知られ、年間を通して社内の残業時間記録を更新し続けている張本人なのだ。
特に投資第三部の業務を兼任するようになってからは、会社に寝泊まりすることさえ厭わず、まさに「会社が家」という状態だった。
その彼女が、定時で帰るなど……
誰もが我が目を疑う光景だった。
会社の正面玄関を出たところで、城戸渉(きど わたる)からまた電話がかかってきた。
いつもなら、詩織は着信を無視するか、適当な理由をつけて断っていたはずだ。
渉は、ヘッドハンターなのだ。
これまで何度も詩織を引き抜こうとアプローチしてきたが、そのたびにけんもほろろに断られていた。
だが今回、詩織は迷うことなく通話ボタンを押した。
電話の向こうの渉は、あまりの意外さに、自分がなぜ電話をかけたのかという本来の目的さえ忘れかけるほどだった。
詩織の方から話を切り出した。「城戸さん、お時間ありますか? 一度、お食事でもいかがでしょう」
渉は、隠しきれない興奮を声に滲ませた。「あ、あります、ありますとも!江崎さんからのお誘いとあれば、いつでも時間は作ります!何料理がお好みですか、すぐに店を押さえますよ!」
「できれば、胃に優しい……あっさりした味付けのお店にしていただけると。少し胃の調子が悪くて」
「はい!もちろんです!すぐに手配して、お店の情報を送りますね!では、後ほど!」と、渉は二つ返事で快諾した。
「ええ、後ほど」
詩織は一旦帰宅して私服に着替えてから、約束の場所へと向かった。彼女が借りているアパートは、会社からそう遠くない。
家賃は高いが、会社に近ければ通勤も残業も楽だという理由で選んだ場所だった。
以前、柊也はそのことを全く理解できず、詩織の部屋を「狭すぎるし、ごちゃごちゃだ」と貶し、一度訪れたきり二度と足を踏み入れることはなかった。
用がある時はいつも、詩織を自分のマンションに呼びつけた。
第8話
だが彼は知らない。あの部屋が散らかっていたのは、彼の物で溢れかえっていたからだということを。
柊也は根っからの仕事人間で、首席秘書である詩織は、彼の都合に合わせて二十四時間いつでも動けるように待機していなければならなかった。
机の上には、彼がいつ必要とするか分からない各種資料が山積みになっていた。
壁には、彼のスケジュールや業務計画を記したメモがびっしりと貼られていた。
クローゼットには、彼がパーティーで着るための様々な礼服が掛けられていた。
床には、彼がクライアントに贈るためのギフト類が無造作に置かれていた……
もともと広くもないワンルームは、詩織にとって第二のオフィスと化していた。
部屋全体で、彼女自身のものだと言えるのは、あの小さなシングルベッドだけだった。
皮肉なことに、柊也はそのベッドさえも「狭すぎる」と嫌い、あの日以来、二度と彼女の部屋に来ることはなかった。
家を出る前、詩織は引っ越し業者に一本電話を入れ、週末に荷物の整理を手伝う人員を手配してくれるよう頼んだ。
もう、自分のものではない物をすべて部屋から運び出す時が来たのだ。
……
渉が選んだのは、最近オープンしたばかりで、体に優しい繊細な味わいで評判の創作料理の店だった。
店名は『月蝕』。
電話口で詩織が「胃の調子が悪い」と言ったのを聞いて、気を遣ってくれたのだろう。テーブルに並べられたのは、どれも胃に優しそうなあっさりとした料理ばかりだった。
本当に、気が利く人だ。
こういう気遣いは、誰かに教わってできるものではない。
詩織は今まで、柊也が生活の中の些細なことを見過ごすのは、ただ仕事に集中しすぎているからだと信じようとしてきた。
だから、そんな彼を受け入れ、気にしないように自分に言い聞かせてきたのだ。
けれど今日、思い知らされた。柊也は、志帆が生理中だと知るや、彼女を気遣って薬膳スープを出す『百草庵(ひゃくそうあん)』へとわざわざ連れて行くような男だったのだ。
彼もまた、ちゃんと気が利く人だった。ただ、その相手が自分でなかったというだけで。
詩織は、いつもの生真面目な印象をがらりと変えていた。体に貼り付いていたようなスーツを脱ぎ捨て、長年きつくまとめていた髪も解いている。
もともと透き通るように白い肌が、淡い色のワンピースに映え、まるで発光しているかのようだ。
渉は、一目見ただけでは彼女だと気づけなかった。
詩織の方から声をかける。「城戸さん、すみません、お待たせしてしまって」
渉は呆然としたまま彼女を見つめ、目が飛び出さんばかりに瞠っていた。「え、江崎さん……?あまりに雰囲気が違っていて……全然気づきませんでしたよ!」
詩織が席に着くと、一筋の髪が肩から滑り落ち、彼女はそれをさりげなく耳にかけた。
「江崎さん、一つお聞きしてもいいですか」渉は、好奇心を抑えきれないといった様子で口を開いた。
「ええ、何なりと」詩織はおおらかに答える。
「御社って、何か妙な決まりごとでもあるんですか」
詩織が片眉を上げる。「例えば?」
「例えば、美女はわざと野暮ったく見せなきゃいけない、とか」
詩織はくすりと笑った。「それは、城戸さんからの褒め言葉だと受け取っておきますね」
「いえいえ、褒めてるつもりはないですよ。俺は、思ったことを正直に言うのが得意なだけですから!」
ヘッドハンター、それもトップクラスとなれば、コミュニケーション能力が並外れて高い。
二言三言で、場の空気を和ませてしまうのだ。
太一が個室から出てきた時、窓際に座る詩織の姿が目に飛び込んできた。
最初はただ、その美しさに目を奪われただけだった。
詩織が座っているのは、絶好の場所だった。
大きな窓の外から、夕陽が斜めに差し込んでいる。
光の中に佇む彼女は、まるで神々しいまでの美しさを放っていた。
太一は呆然と立ち尽くし、無意識にそちらへ足が向いていた。
ちょうどその時、詩織がふと太一の方に視線を向けた。
太一ははっと足を止め、信じられないという顔をした。いや、それ以上に、あり得ないという表情だった。
あれは……詩織?
似ている。だが、まるで別人だ。
何しろ太一の記憶の中の詩織は、年がら年中古臭い格好をしていて、どうにも垢抜けず、色気の欠片もない女だったのだ。
以前は、周りにいくらでもいる美女には目もくれず、よりによってあんな女を選ぶなんて、柊也のセンスを本気で疑ったこともあった。
今にして思えば……甘かったのは、自分のようだ。
あいつ、この七年間、とんでもないご馳走を独り占めしていたわけか!
詩織の視線が、太一のものと絡んだ。だが、すぐに逸らされる。その反応はあまりに平然としていて、まるで知らない人を見るかのようだった。
それが、太一のプライドを妙に刺激した。
これまで散々、詩織のことを見下してきたのだ。柊也に「来い」と言われれば尻尾を振って駆けつけ、「あっちへ行け」と命じられればすごすごと引き下がる、ただの犬じゃないか。
そんな女が、この俺の前で気取った態度を見せる資格なんてあるものか。どうせ、気取っているフリだろうが!
太一は城戸渉のことも知っていた。彼はわざわざ二人のテーブルに歩み寄ると、詩織には目もくれず、渉にだけ声をかけた。
「城戸さん、ご無沙汰してます。相変わらずお忙しいようで」
江ノ本市の名家・宇田川家の次男坊とあっては、多少道楽が過ぎるきらいがあっても、その背景にある影響力は無視できない。渉も商売柄、無下に扱うわけにはいかなかった。
「これは宇田川さん。俺の仕事はご存じでしょう。もちろん、優秀な人材を探して走り回ってますよ」
「人材探し、ねえ……」
太一は詩織に意味ありげな一瞥をくれると、嘲るように、いや、それ以上にせせら笑うように口の端を上げた。
「あんたの腕も、大したことないみたいだな」
「とんでもない。江崎さんは、この業界では引く手あまたの逸材ですよ」
太一はその言葉を無視し、続けた。「あんたは知らないだろうけどな、エイジアの賀来社長が最近、海外からとんでもない大物を引き抜いてきたんだ。WTビジネススクールの博士号持ちで、前職はユニコン・バンク。今はエイジアの投資第三部でディレクターをやってる」
彼は得意げに口角を上げる。「そっちの業界じゃ、文句なしのトップクラスだろ?」
渉は正直に認めた。「ええ、間違いなくトップクラスの人材ですね」
「だから言ったろ。あんたの腕も、まだまだだってな」太一は渉の肩を、ぽん、と軽く叩いた。
渉は怒るでもなく、ただ笑顔で応じる。「ご指摘ありがとうございます」
太一は言いたいことを言って満足したのか、すっかり上機嫌だ。「ああ、そうだ。この店、俺も一枚噛んでてね。今日の食事は俺のおごりってことで」
「いえいえ、そんなわけには」
「遠慮しないでくれよ。この先、俺があんたに人探しを頼むことだってあるかもしれない。そのための先行投資ってやつさ」
帰り際、太一は侮るような視線で、ちらりと詩織に目をやった。
おそらく、彼女の顔に屈辱や嫉妬の色が浮かぶのを期待していたのだろう。
だが、残念なことに、詩織の表情は凪いだ水面のように静かなままだった。
彼はそこから、何一つ感情を読み取ることができなかった。
それが、どうしようもなく気に食わなかった。
だから店を出た後、真っ先に柊也に電話をかけて告げ口をしたのだ。
「柊也、今俺が誰見たと思う!?」
柊也はまだ残業中で、太一の言葉に応える暇もなく、内線で秘書室に繋いだ。「江崎、コーヒーを一杯頼む」
電話の向こうで、太一は一瞬、言葉を失った。
まさか柊也は、詩織がもう会社にいないことを知らないのか?
面白いことになってきた、と太一は思った。
コーヒーを待つ間、柊也は太一に問い返した。「で、誰に会ったんだ」
「城戸渉だ」太一はすぐには本題に入らない。「また誰かの引き抜きさ」
その時、社長室のドアがノックされ、柊也は「入れ」と短く告げた。
入ってきたのは密だった。コーヒーを運んできたのだ。
柊也は一瞬動きを止め、無意識に眉をひそめた。「江崎は?」
「退勤されました」と、密は答えた。
その言葉に、柊也の眉間の皺がさらに深くなる。「今夜は残業じゃないのか?」
「はい、しておりません」
柊也は腑に落ちないものを感じたが、それ以上は考えなかった。仕事でミスをすることが滅多にない彼女のことだ、何か別の用事でもあるのだろうと軽く流した。
彼は密を下がらせると、カップを手に取り、コーヒーを一口含んだ。
わずかに和らいでいた眉が、再びきつく寄せられる。
いつも自分が口にしている味ではなかった。
柊也はコーヒーを飲む気も失せ、カップをデスクに戻すと、二度とそれに手をつけようとはしなかった。椅子に深くもたれかかり、眉間を揉みながら太一に尋ねる。「誰を引き抜こうとしてたんだ」
ようやく本題だ。太一は、待ってましたとばかりに口を開いた。
「城戸の奴、江崎を引き抜こうとしてたぜ!」
第9話
太一は、柊也が驚愕するだろうと踏んでいた。
ところが、彼の反応は驚くほど平然としていた。「城戸の奴、まだ諦めてなかったのか」
「ってことは……あいつ、江崎に声をかけるの、初めてじゃないのか?」
「ああ」柊也は意にも介さず、その口調には確信さえ滲んでいた。「だが、あいつに引き抜けるようなタマじゃない。江崎は行かない」
太一も同意見だった。彼はせせら笑う。「だよな。江崎がエイジアを辞めるわけねえよな」
他の理由はさておき、柊也がエイジアにいる限り、詩織が会社を去ることなどあり得ない。
「あの女も大概、食えねえよな。俺の見立てじゃ、わざと城戸をあの店に呼び出したんだ。俺に目撃させて、その噂をお前の耳に入れさせるために。そうすりゃ、お前が焦って引き留めてくれるとでも思ったんだろ」
太一は、すべてお見通しだと言わんばかりの口調で続けた。
「お前が志帆ちゃんを重用して、自分を構わないから嫉妬してんだ。まったく安っぽい手だよな。分別ってもんがねえ。男が、女の嫉妬だの小細工だのを一番嫌うって分かってねえのか。そんな真似すればするほど、お前が離れていくってのによ。
ほんと、身の程知らずもいいとこだ。自分が何様だと思ってんだ?志帆ちゃんと張り合おうなんて、土台無理な話だろ。どっちを選ぶかなんて、少しでも頭が回りゃ分かることだろうに」
柊也に、太一のゴシップに付き合っている時間はなかった。適当に相槌を打って電話を切る。
サインすべき書類の束をめくると、一枚の書類が目に留まった。
詩織からの、退職願だった。
彼はごく僅かに眉をひそめたが、すぐにその書類を脇に放ると、何事もなかったかのように他の書類にペンを走らせ始めた。
……
詩織は渉との話が弾み、すっかり上機嫌になっていた。帰り道、マンションの一階にある花屋で、自分のために花束を一つ買った。
家に着いて、そういえば花瓶が一つもなかったことを思い出す。
部屋中に溢れる、自分のものではない品々を眺めているうちに、せっかくの明るい気持ちが少しだけ翳りを帯びた。
詩織は段ボール箱を見つけ出すと、そこへ書類をすべて詰め込んでいく。そうしてようやく、ダイニングテーブルの上を何もない状態に戻した。
部屋をぐるりと見回し、やがて花瓶の代わりになりそうなものを見つけ出した。
一つの、トロフィー。
エイジア・キャピタルの優秀社員賞トロフィー。
かつて柊也が自らの手で彼女に授与した、詩織がずっと宝物のように大切にしてきたものだった。
以前、親友のミキが酔い潰れて泊まりに来た夜のことだ。
夜中に気分が悪くなったミキが、そのトロフィーを掴んで吐き込もうとした時、詩織は血相を変えてそれを奪い取った。
ベッドを汚される方が、このトロフィーを汚されるよりもずっとましだったのだ。
詩織はトロフィーに水を注ぐと、買ってきた花を生けた。
しばらくそれをじっと見つめ、やがてぽつりと呟く。「ようやく、少しは役に立ったわね」
眠りにつく前に、携帯電話の電源を完全に切る。そんな新しい習慣を身につけた彼女は、その夜、朝までぐっすりと眠った。
朝九時、詩織は定刻通りに出社した。
この時間になってようやく姿を見せた彼女に、他の同僚たちは一様に不思議そうな顔を向けた。いつもなら、詩織は誰よりも早く会社に来ているはずだったからだ。
しかも今日の彼女は、いつもの堅苦しいスーツ姿ではなく、淡い色合いのブラウスにスカートという出で立ちだった。
「江崎さん、今日、なんだかいつもと雰囲気違うね」
詩織は微笑んで問い返した。「どこが違うかしら?」
「すごく、綺麗」
正確に言えば、息を呑むほど綺麗だった。
薄化粧を施しただけなのに、醸し出すオーラが昨日までとはまるで違う。
透明感があり、華やかさの中にも楚々とした優雅さが漂う。
老若男女を問わず、誰もが思わず目で追ってしまうような、まさに「雰囲気美人」だった。
「ありがとう」詩織は、さらに機嫌を良くした。
詩織は出勤途中に朝食を済ませていたので、会社に着くと胃薬を飲むため給湯室へ向かった。
ドアに差し掛かったところで、中からひそひそと話す声が聞こえてきた。
「ねえ、江崎さんと柏木さん、どっちが綺麗だと思う?」
「うーん、タイプが全然違うから、比べられないんじゃないかな」
「前だったら、間違いなく柏木さんだったけどねえ。昔の江崎さんってすごく堅苦しかったし、服装もメイクも野暮ったくて、十歳は老けて見えたもん。でも、元がいいから、ちょっと変えるだけでこんなにハッとさせられるんだって驚いた」
「わかる!雰囲気ありすぎて、思わず『お姉さん』って呼びたくなっちゃう!」
「見た目だけなら江崎さんに軍配が上がるかもだけど、柏木さんは学歴も家柄もずば抜けてるから。そこはもう、江崎さんじゃ太刀打ちできないでしょ」
「そうよねえ。頭の良さとか家柄って、天性のものだもの。生まれる家を選ぶのも、才能のうちってことね」
「江崎さん、たしか片親なんだっけ……」
詩織は、その会話を遮るように中へ入っていった。場の噂話をぴたりと止める、絶好のタイミングだった。
「おはよう」詩織は何も聞こえなかったかのように、平然とした顔で室内のシンクへ向かい、挨拶をする。
数人は慌てて挨拶を返すと、そそくさとその場を立ち去っていった。
薬を飲み終えて自分のデスクに戻った途端、投資第三部の深見部長が慌てた様子でやってきた。賀来社長直々のご指名で、スカイウィング社とのドローンプロジェクトに関する評価レポートを至急で欲しい、とのことだ。
詩織が資料を手渡すと、彼は思い出したように尋ねた。「そういえば江崎さん、携帯、壊れてる?」
「いえ、別に」詩織は、きょとんとした顔で答えた。
「それが、何度かけても繋がらなくて。社長が今朝から出張で、このレポートが急ぎで必要だったのに、江崎さんと連絡が取れなかったんですよ」と、深見は説明した。
詩織はそれを聞いても、ただ淡々と「電池が切れていたのかもしれません」と答えるだけだった。
あまりにわざとらしい言い訳に、深見でさえ信じているようには見えなかった。
だが彼はそれ以上は追及せず、「社長は柏木さんと一緒に、スカイウィング社のドローンプロジェクトを視察に行かれました。戻りは来週になるかと。このレポートは、先に俺の方から送っておきます」とだけ言った。
詩織は静かに頷くと、パソコンを立ち上げて今日の業務に取りかかった。
あのドローンプロジェクトは、これまでずっと詩織が一人で進めてきた案件だった。二度にわたる現地視察も、先方との交渉も、すべて彼女が取り仕切ってきたのだ。
柊也がその件について口出ししてきたことは一度もなく、ましてや彼女に同行して地方の視察へ赴くことなど、あり得なかった。
何しろ、それはエイジアが抱える数多のプロジェクトの一つに過ぎず、柊也が自ら出張るほどの重要案件ではなかったからだ。
だが今回は、彼自らが足を運んでいる。
誰の目にも明らかだった。柊也の目的はプロジェクトの視察などではなく、志帆の後ろ盾となって、彼女に箔を付けることなのだ。
結構なことだわ。まるで、おしどり夫婦の出張ね。
柊也が会社にいないだけで、仕事量は半分になったように感じた。その上、もう第三部のプロジェクトに関わる必要もない。
驚くほど、心も体も軽やかで、居心地が良かった。
詩織は、仕事帰りに風間先生の診察を予約していた。胃の不調を治すための薬を処方してもらうためだ。
このボロボロの体を、そろそろ本気で立て直さなければならない。
風間先生は、江ノ本市では名の知れた内科と伝統医学の権威で、普段は予約を取ることすら困難だった。
以前、詩織がクライアントの家族のために、朝早くからクリニックに通い詰めてはどうにか予約を取り付けていた時期があり、その頃から顔見知りになっていた。
風間先生は詩織のその仕事熱心さを高く評価する一方で、会うたびに体のことを気遣い、こう口を酸っぱくして言っていた。
若いからといって無茶を続けていると、年を取ってから後悔することになるぞ、と。
そんな彼女が自ら体を顧みるようになったのが嬉しいのだろう、先生はわざわざ診察時間を過ぎても、詩織を待っていてくれることになっていた。
ところが、詩織がクリニックへ向かう途中、スカイウィング社の社長、早乙女怜(さおとめ れい)から電話がかかってきた。
「江崎さん、大変なことになったんです。すぐにこちらへ来てもらえませんか!」
詩織は眉をひそめ、何があったのか尋ねた。
怜の話では、エイジア・キャピタルの人間がプロジェクトの視察に訪れ、当初はすべて順調だったという。
だが、交渉の段になって、エイジア投資第三部の柏木志帆が、一度は合意したはずの評価額から、さらに3パーセントもの値下げを強要してきたらしい。
そればかりか、スカイウィング社のドローンは工業向けに偏りすぎていて商業的価値が低い、市場シェアも他の商用ブランドに劣る、などと難癖をつけては、執拗に値下げを迫っているとのことだった。
「江崎さん、あの時、あなたが誰よりも誠意を見せてくれて、私たちの未来に寄り添った提携案を考えてくれたから、私たちはエイジアを選んだんです!他にも提携したいっていう投資家は、たくさんいたんですよ!こんなやり方、あまりに信義に反します!私が交渉の席につくのは、江崎さん、あなただけです。もし来てくれないなら、この話はもう、なかったことにします!」
第10話
詩織が怜をなだめる間もなく、一方的に電話は切られた。
すぐにかけ直そうとした、まさにその瞬間、今度は柊也からの電話が割り込んできた。
詩織は、それに出るしかない。
「広江に来い」
柊也は用件だけを告げると、すぐに電話を切った。
相変わらず、命令口調だ。
詩織は数秒ためらったが、最終的に広江へ向かうことを決めた。
だが、それは柊也のためではない。スカイウィング社と、怜のためだ。
あの案件は、彼女自身が選び、心血を注いできたプロジェクトだった。
何度も怜の元へ足を運び、提案を練り直し、ようやく相手の心を動かして漕ぎつけた提携なのだ。
それを途中で見捨てるのは、どうしても忍びなかった。
こうなっては、風間先生との約束を反故にするしかない。案の定、電話口でこっぴどく叱られた。
詩織は、この件が片付いたら必ず、大人しく治療に専念しますからと、必死に約束するしかなかった。
深夜、広江市に降り立つと、外は土砂降りの雨で、気温もぐっと下がっていた。
詩織は急いで来たため、何の準備もできていない。おまけに、タイミング悪く腹の奥が鈍く痛み始め、体調は最悪だった。
どうにか体を支えてタクシーに乗り込み、ホテルに着いた頃にはもう深夜零時を回っていた。
時間は遅かったが、詩織はスカイウィング社の件について、柊也と事前に話をしておきたかった。
明日の早乙女社長との再交渉で、こちらの方針が統一できていないせいで話がこじれるのを恐れたのだ。
部屋に入ると、雨で濡れた髪を拭うのも忘れ、すぐに柊也の携帯を鳴らした。
コールが数回鳴った後、ようやく相手が出た。
だが、詩織が口を開くより先に、電話の向こうから聞こえてきたのは、志帆の声だった。
「柊也くん、江崎さんから電話よ」
柊也の返事はくぐもっていて、はっきりとは聞き取れない。
志帆が、彼の言葉を伝える。「江崎さん、柊也くん、今シャワーを浴びているの。だから、後でまたかけ直してもらえる?」
詩織は、思わず喉を詰まらせた。
「……大したことではありませんので。賀来社長のお邪魔はいたしません」詩織はそう言うと、一方的に電話を切った。
深夜のホテル。男女が一つ部屋に二人きり。何かが起こるには、あまりに都合のいいシチュエーションだ。
窓の外では、雨足がさらに強まっている。詩織は窓際に立ち尽くしながら、体の芯まで這い上がってくるような寒気を感じていた。
広江は、江ノ本よりもずっと冷えるらしい。
腹の底から突き上げるような痛みが、いよいよはっきりとしてきた。トイレに立った詩織は、そこで自分が生理になっていることに気づく。
予定日より、一週間も早い。しかも、痛みはこれまでのどの時よりも激しかった。
脂汗を滲ませながら、彼女はフロントに助けを求める電話をかけ、鎮痛剤と生理用品を部屋まで届けてくれるよう頼んだ。
部屋に来たスタッフは、彼女のあまりの顔色の悪さにぎょっとした。
「お客様、病院へお送りいたしましょうか?」
詩織は首を横に振る。「大丈夫です、鎮痛剤を飲めば、少しは落ち着くと思うので」
それでもスタッフは心配そうに、「何かございましたら、ご遠慮なくすぐにフロントにご連絡ください」と言い添えた。
「はい」
頷きはしたものの、結局詩織は誰の手も借りず、独りでその夜を耐え抜いた。
翌朝、ベッドから起き上がっても、体調は一向に優れない。化粧で隠そうとしても、土気色の顔はどうにもならなかった。
今から会う柊也が、このことで難癖をつけてこないようにと、心の中で祈るしかなかった。彼は、社員が仕事中に生気のない顔をしているのを、何よりも嫌う男なのだから。
胃の薬を飲まなければならないため、詩織は時間を見計らって、何か口にしようとホテルのレストランへ向かった。
着いたところで、ちょうど朝食を終えたらしい柊也と志帆が、レストランから出てくるところだった。
三人は、ばったりと鉢合わせした。
先に口を開いたのは、志帆だった。「あら、江崎さん。今、起きたところ?もうレストラン、あまり食べるもの残ってなかったわよ」
詩織は表情を変えずに応じる。「ええ、少し出遅れてしまいました」
柊也は、詩織には一瞥もくれず、玄関の外に目をやりながら志帆に話しかけた。
その声は低く、そして驚くほど優しい。「外は雨だ。まだ気温も下がるだろうし、一度部屋に戻って上着を取ってこよう」
「ええ」と頷いた志帆は、詩織に軽く会釈すると、柊也と共にその場を去っていった。
……柊也にも、人を気遣う心があったのか。
そんな彼の姿を初めて目の当たりにした詩織は、その場で数秒、呆然と立ち尽くした。
レストランの中は、志帆が言った通り、食べられるものはほとんど残っていなかった。
詩織はパンを二つほど皿に取り、とりあえずこれで済ませようと席に着こうとした、その時だった。柊也から電話がかかってきた。
詩織はそれに応答する。
聞こえてきたのは、さっきの優しい声とは打って変わって、冷え冷えとした声だった。「出ろ」
「……今、ですか?」詩織は手の中のパンを見つめ、わずかにためらった。
「なんだ。俺たちを待たせる気か?」
詩織はしばし絶句した後、「……分かりました」とだけ答えた。
彼女はパンをバッグに押し込み、急いで玄関ロビーへ向かう。そこでは、柊也と志帆はすでに車に乗り込んでいた。
二人は後部座席に並んで座っており、詩織のために空けられていたのは助手席だけだった。
詩織はすっとまつ毛を伏せ、胸中の思いを隠すように、黙って助手席に乗り込んだ。
車のドアが閉まるやいなや、柊也は苛立たしげに運転手を促した。
バッグの中のパンにはまだ僅かな温もりが残っていたが、詩織にそれを食べる機会はなかった。
柊也が車内で飲食するのを嫌うからだ。
七年間、彼の秘書を務めてきた詩織は、柊也の好みをすべて知り尽くしている。
彼の好みに合わせることは、長年のうちに体に染み付いてしまった習性で、もはや無意識に従ってしまうのだ。
たとえ今、胃の不調を紛らわすために、何かお腹に入れる必要があったとしても。
もちろん、柊也が彼女にそんな時間を与えるはずもなく、彼は早速プロジェクトの話を切り出した。
「以前、スカイウィング社とはどう話を進めていた」
その声は、プロジェクトが滞っているのはお前のせいだとでも言うような、詰問する響きを帯びていた。
詩織は、冷静に事実を述べようと努めた。「この案件はすでに二次交渉を終え、基本合意書も締結済みです。投資比率も合意の上でしたから、今になって一方的に条件を変えれば、スカイウィング社側が反発するのは当然です……」
詩織が言い終わる前に、柊也が冷たく遮る。「プロセスが完了していない限り、すべては変更の範囲内だ」
彼は一瞬言葉を切り、バックミラー越しに詩織と視線を合わせると、薄い唇を歪めた。「俺のそばにこれだけ長くいて、そんな理屈も分からないのか?」
詩織はぐっと言葉を飲み込み、目を伏せて尋ねた。「でしたら、比率を引き下げる理由を、お聞かせいただけますか」
今回、彼女に答えたのは志帆だった。「私の経験から見ると、スカイウィング社のドローンは商業化の面で不十分よ。事業計画書にあるような市場の将来性には、到底達しないわ。だから比率の引き下げを提案したの」
「スカイウィング社は歴史のあるブランドで、確かな技術力と充実したアフターサービスも魅力です。そこを評価して、エイジアは投資を決めたはずでは」
「けれど、ビジネスに必要なのは利益であって、情ではないわ」志帆の一言が、詩織の言葉をすべて否定した。
彼女は赤い唇の端をわずかに持ち上げ、柊也に戯れるように言う。「柊也くん、やっぱりあなたの教育が足りなかったみたいね」
「ふん」と柊也は浅く相槌を打った。そして何気ない素振りで詩織に視線を流す。「だから秘書止まりなんだ。投資ディレクターは務まらん」
志帆はくすりと笑う。「投資の世界でやっていくには、やっぱりそれなりの頭脳と先見性が必要だもの。江崎さんは、学部卒なんでしょう?プロジェクトを動かすのは、彼女には少し荷が重かったのよ、きっと」