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朽ちゆく心、安らぎなし
結婚して二年。 篠宮瑶(しのみや よう)は、婿養子の夫が自分と結婚した本当の理由を知ってしまう――それは、妹への恩返しのためだった。 打...
Chương (1)
第1章
結婚して二年。
篠宮瑶(しのみや よう)は、婿養子の夫が自分と結婚した本当の理由を知ってしまう――それは、妹への恩返しのためだった。
打ち砕かれた心を抱え、彼女は迷うことなく弁護士に離婚を依頼。条件はただひとつ――夫に一切の財産を渡さず、「無一文で家を出る」ことだった。
第1話
「財産を一切持たずに離婚する協議書を作ってほしいの」
篠宮瑶(しのみや よう)は専属弁護士に電話をかけた。
「承知しました、篠宮社長。どなたが離婚されるのですか?また、どちらが財産を放棄する形になりますか?」
弁護士は当然のように、依頼は他人のためのものだと思い込んでいる。
「桐生真哉(きりゅう しんや)」
彼女は夫の名前だけを、簡潔に告げた。
その名を聞いた弁護士は、一瞬言葉を失った。
「お二人は、とても仲睦まじいと伺っていましたが......なぜ突然?」
彼女は沈黙を貫き、理由を語らない。
弁護士もそれ以上は詮索せず、淡々と応じた。
「三日後には、不備なく協議書をお渡しします」
電話を切ったあと、瑶は薄暗いホテルのベッドに腰を下ろし、窓の下に広がる車の流れをぼんやりと眺めた。
彼女と真哉が結婚したのは二年前。
ほかの夫婦と違い、彼は婿入りだった。
篠宮家には彼女一人しか娘がいないため、家族は婿養子を望んだ。
求婚してきた者がいなかったわけではない。
だが、世間の好奇と噂話に耐えきれず、皆途中で去っていった。
ただ一人、真哉だけが執拗に彼女に近づいてきた。
初めは、彼の実家の裕福さを思えば、婿入りなどあり得ないと高をくくっていた。
ところが予想に反し、彼はそれを理由に家族と絶縁までした。
結婚後、上流社会では「金持ちから転落して婿入りした男」と嘲笑されたが、彼は気にしなかった。
この二年間、彼の態度は変わらず、彼女を笑顔にする夫を装うため小細工が増えていった。
町中が「妻を目に入れても痛くないほど愛する夫」と羨む中――たった一時間前、彼女はその虚構を終わりにした。
一時間前。
バレンタインの日だから、瑶は仕事を早めに切り上げ、地方から飛行機で帰宅し、夫にサプライズを仕掛けようとした。
家に戻り、彼の好む服を身にまとい、クローゼットの中に身を潜めて待ち構える。
だが半日たって耳にしたのは、女の声だった。
「兄さん、もう瑶のそばで我慢するのはやめて。あの僧侶の言うことなんて、本当かどうかもわからないじゃない......」
真哉はその言葉を遮った。
「駄目だ!僧侶は、お前と彼女の因縁が消えなければ、それがお前に降りかかると言った。たとえ少しでも、俺はお前を巻き込めない。もう時間は残されていない。恩を返し終えたら、すぐに彼女と別れる。この二年、お前を苦しめて悪かった」
クローゼットの扉を少し開けると、女が彼の膝の上に跨っていた。
男女の荒い息遣いと、濡れた音が室内に満ちる。
彼女は口を押え、物音を立てまいと必死に息を潜めた。
目の前の光景が脳に凍りつく。
衝撃なのは浮気だけではなかった――その女は、真哉の妹、桐生煌花(きりゅう あきか)だったのだ。
養女であるとはいえ、血の繋がりの有無など関係なく吐き気を催すほどの衝撃だった。
二人が去って静けさが戻ると、ようやく身体が動き、近くの服をつかんで身を隠すように羽織った。
足元はおぼつかず、ふらつきながら屋敷を後にした。
――ここは自分の家だというのに、逃げ出すのは自分の方だった。
現実に引き戻したのは、電話の着信音だった。
表示された名前は――桐生真哉。
それでも彼女は通話ボタンを押す。
「瑶、ごめん。今日はバレンタインなのに一緒にいられなくて。本当に悪いと思っている。仕事が忙しくて会いに行かなかったけど......来年のバレンタインは必ず――」
彼の声音は申し訳なさと誠意に満ち、まるで本当に心残りがあるかのようだった。
瑶は口元をわずかに歪め、見事な演技力だと心で嘲笑った。
そして、わざと話をさえぎった。
「じゃあ今から来て。飛行機なら一時間半で着くでしょ」
受話器の向こうで、一瞬の沈黙。
平静を装った声が返ってきた。
「今は手が離せないんだ。明日君が帰ってきたら、ちゃんと一緒に過ごそう?」
――手が離せない?
煌花から離れられないの間違いじゃないの?
予想していたこととはいえ、実際に耳にすると胸が痛む。
「......用事があるから切るわ」
肯定も否定もせず、彼女はそう告げて通話を終えた。
ふと視線を落とすと、指にはめられた指輪が目に入る。
それは、今朝彼からバレンタインの贈り物として渡されたものだった。
受け取った時はあれほど嬉しかったのに、今では皮肉に思える。
彼女は指輪を外し、そのままごみ箱へと放り込んだ。
――真哉が心から愛しているのが煌花なら、もう二人の前に立ちはだかるつもりはない。
だが、「因縁」などと勝手に名付けた茶番を、瑶は受け入れない。
瑶が拒む限り、煌花にも絶対にしたいようにさせない。
第2話
翌日、瑶が自宅に戻ると真哉はまだ家にいたが、煌花の姿はすでになかった。
玄関を入るなり、真哉が嬉しそうに駆け寄ってきて、両腕を広げて抱きしめようとしてきた。
ふわりと漂う香水の香り。
大きく開いたシャツの襟元から、肌に散らばる無数の赤い痕をのぞかせていた。
――昨夜、どれほど激しかったのかがわかる。
抱き寄せられそうになった時、胸の奥に鋭い痛みが走り、瑶は思わず彼を押し返した。
「ちょっと疲れてるの。先に休むわ」
真哉は異変に気づく様子もなく、心配そうに歩調を合わせてついてくる。
「ゆっくり休んで。だから仕事もそんなに無理するなって......」
瑶はその言葉を聞き流し部屋に入った。
そこで真っ先に気づいたのは、化粧台の上からいくつも小物が消えていることだった。
瓶や陶器のような壊れやすいものばかりだ。
彼女の視線に気づいたのか、真哉が口を開く。
「昨日、物を運んでるときにぶつけちゃってね。かなり壊しちゃったんだ。でも大丈夫、もう新しいのを注文してあるから、数日で届くよ」
――物を運んだ?
その「物」って、煌花のことじゃないの?
昨日、あの化粧台の上で何をしていたかを思い出し、瑶は吐き気がした。
「この化粧台、もういらないわ。処分して」
「どうして?プレゼントしたとき、あんなに気に入ってくれたじゃないか」
真哉は不思議そうだった。
確かに、あの時は嬉しかった。
物が欲しかったからではない――彼が贈ってくれたからだ。
けれど、目を覆っていた靄が消えた今となっては、かつての喜びなど滑稽なだけだった。
瑶は冷ややかな笑みを浮かべ、静かに言った。
「もう、好きじゃなくなったの」
その言葉にも真哉は怒らず、すぐに使用人を呼び化粧台を運び出させた。
「じゃあ、新しいのをまた贈るよ」
――彼はいつだってそうだった。
瑶の言うことには何でも従い、どんな無茶でも叶えようとした。
以前はそれを愛の証だと思っていた。
だが今は、それがすべて煌花のためだったとわかる。
主寝室のベッドにも、きっと二人は手をつけたに違いない。
瑶はたまらずゲストルームに向かい、ほとんど眠れなかった疲れから、ベッドに横たわるや否や眠りに落ちた。
昼になって、真哉が起こしに来た。
目を開けた瑶の目に飛び込んできたのは、一束の真紅のバラだった。
「瑶、起きて。今日はバレンタインのやり直しだ」
花束を一方的に胸に押しつけた。彼女が拒む間もなく抱き起こし、服を着せる。
昼食には、真哉が彼女を小料理屋へ連れて行った。
食事中、彼は終始もっと食べろと皿に料理を取り分け続ける。
これまでのデートと何も変わらない。
だが、見えないところではすべてがひっくり返っていた。
食事もほぼ終わりの頃、真哉がふいに箸を止めスマホを見ると「ちょっとトイレに」と席を立っていった。
少し急ぐ様子のその背中に瑶は胸騒ぎを覚え、静かに後を追った。
角を曲がった先で、真哉が助手らしき男の前に立っていた。
両手をポケットに突っ込み、苛立ちを隠さずに言う。
「親父とお袋に伝えろ。もし俺と煌花のことを認めないなら、二度と帰らないってな」
助手は困惑の色を浮かべた。
「ですが真哉様、今は篠宮さんとご結婚されているのでは?婿養子に入られることも桐生家は反対していませんし、次女様は何といっても――」
「彼女とは血は繋がってない。それに、婿なんてもうごめんだ。恥ずかしいだけだ!」
曲がり角の影で、瑶の身体が凍りつく。
――そういうことだったのね。
彼が家と縁を切ったのは、自分のためではなかった。
最初から、彼が私のためにしたことなんて一つもなかった。
心臓を鷲掴みされたような感覚とともに、涙が込み上げる。
それでも、意地でも涙をこぼすまいと気持ちを抑えた。
助手が立ち去った。真哉が戻ってくる前に、瑶は足早に個室席へ引き返した。
表情は大丈夫だが、胸の痛みは消えない。
感情の波が胸を締め付け、胃が激しく痛んだ。その痛みは全身へと広がっていく。
真哉は入ってくるなり異変に気づき、慌てて膝をついた。
「瑶、どうした?また胃が痛むのか?家に送るよ」
そう言うや、彼女を横抱きにし、足早に車へ乗り込む。
真哉の腕の中で、瑶はその表情が演技とは思えないほど必死に見え、心は混乱する。
――本当のあなたはどっち?
車内で瑶は窓の外を見つめ、痛む胃を押さえていた。
耳元では、絶え間なくスマホの着信音が鳴り響く。
煩わしくなって真哉に目を向けると、彼は赤信号の間に画面を開いた。
その瞬間、彼の顔が分かりやすく動揺していた。
瑶の視線にも入ったメッセージには、こう表示されていた。
【兄さん、食欲がなくて......ご飯が食べられないの】
――煌花からだ。
瑶は目を伏せ、作り笑いをうかべた。
「......行ってあげれば?」
しかし真哉は首を振った。
「駄目だ。君の胃は痛み出すと危険だ。今、置いて行けるはずがないだろ」
そのとき、画面が再び点灯する。
【兄さん、胃がちょっと痛いの。そばにいてくれない?】
――また、煌花からだった。
第3話
真哉は、一瞬言葉につまりながら言い直した。
「......わかった。じゃあ車を呼んで、君を送ってから行くよ」
車が路肩に停まる。
瑶はますます強くなる胃の痛みを押さえ、うつむきながらわずかに口角をあげた。
停車してまだ一分も経たないうちに、また画面が光る。
【兄さん、胃がとても痛くて......吐き気もするの。早く来て】
その文字を見た瞬間、瑶はもう彼の選択がわかった気がした。
やっぱり――
「瑶、ごめん、ちょっと急ぎの用事ができた。車はもう呼んだから、二分くらいで着くよ。それに乗って帰ってくれ」
予想通りの言葉に、瑶は苦笑いして車を降り、道端に立った。
ドアが閉まるや否や、真哉はアクセルを踏み込み、猛スピードで走り去っていく。
降ろされた場所には大きな水たまりがあり、タイヤがはねた水が全身にはねかえった。
初冬の冷たい水が肌にしみ込み、胃を押さえるべきか、体を抱えるべきかもわからない。
「二分」と言われたはずが、実際には二十分近く待ってようやく車が来た。
乗り込むなり運転手がぼやく。
「お嬢さん、何度電話しても出ないから心配しましたよ。迎えに行ったのに見当たらなくて、何度も同じ場所を回ったんです」
――彼はすでに、別の人の世話に忙しくしていたのだ。
そう思っても瑶は口にせず、ただ「すみません」とだけ返した。
そのとき、スマホに見知らぬ番号からのメッセージが届く。
開くと動画が再生された。
画面いっぱいにカップルグッズが並び、テーブルの上には真哉と煌花のツーショット写真。
カップルのルームウェア姿の真哉が、エプロンをつけてキッチンから出てくる。
「まだ具合が悪い?お粥を食べれば少しは楽になるはずだよ」
そう言って、彼はスプーンを手に煌花の口元へ運び、優しさにあふれる目で見つめる。
もし何も知らなければ、誰もが「仲睦まじい恋人同士」だと思うだろう。
「気分が悪いから、いらない」
煌花が首を振ると、真哉は怒るどころか柔らかい笑顔をみせた。
「じゃあ、何が食べたい?作り直すよ。辛いものはだめだ、胃に悪いからね」
――彼は瑶のために料理を作ったことはある。
だが、そのとき胃に悪い香辛料を避けたことなど一度もなかった。
知らなかったのだと思っていたが、違う。
知っていても気遣おうとしなかったのだ。
瑶の口元に苦い笑みが浮かぶ。
動画はまだ続く。
「今日は急に呼び出しちゃったけど、迷惑じゃなかった?お兄さん」
「迷惑なわけないだろ。お前のことは、いつだって最優先だ......」
瑶は再生を止め、そのまま閉じた。
すると下にもう一つメッセージが現れた。
【昨日、あなたクローゼットの中にいたでしょ?兄さんが急ぎすぎて気づかなかったけど、私はちゃんと見てた。もう知られたなら、隠す意味もないわ。私は因縁なんて信じてない。でも兄さんが気にするから、合わせてあげてるだけ。覚えておいて、彼が愛してるのは私だけ。あなたへの優しさは全部、私のためよ。変な勘違いはしないでね】
涙が静かに頬をつたった。瑶はメッセージを削除し涙をぬぐった。
――あと二日。
離婚協議書を受け取れば、すべてが終わる。
家に戻った瑶は薬を取り出して飲んだ。
強い薬だけに効き目は早い。
胃の痛みが和らぐと、そのまま書斎にこもって仕事を始めた。
かつては真哉のためなら仕事を後回しにすることもあった。
だが、彼にそんな価値はない。
書斎に置かれた真哉の私物が目障りで、使用人を呼んですべて処分させた。
どうせ離婚すれば、この家に彼の物など一つも残らない。
夜まで仕事を続けていると、真哉が突然帰ってきた。
デスクの前まで来るなり、彼女を抱き上げ下へ運ぶ。
「まだ仕事?夕飯も食べてないのか?だから胃を悪くするんだよ」
彼の胸元から、あの日と同じ匂いが漂う。
瑶は何も言わず、抵抗もしないまま運ばれていった。
食卓に着くと、真哉はテーブルの上の保温容器を開けた。
「時間を見つけて作ったお粥だ。胃にいいから、飲んで」
覗き込んだ瞬間、瑶は気づく。
――あの動画に映っていたお粥だ。
煌花が口をつけなかったものを、自分に回したのか。
真哉は使用人から受け取った碗にお粥を盛り、スプーンを手に食べさせようとする。
瑶は苦い顔をし、顔をそらした。
「......いらない」
真哉は無理強いせず碗を置き、「もう休め、仕事はやめろ」とだけ言った。
テーブルの上の碗を見つめ、瑶は自嘲の笑みを浮かべる。
――煌花には作り直すのに、私にはついでで十分。
もともと愛ではないのだから、楽しようとするのは当然か。
階段を上がり、ベッドに横になると真哉がドアを開けて入ってきた。
「瑶、さっきお手伝いさんが言ってたけど、俺の物を捨てたって、本当か?」
瑶は、まっすぐに彼の目を見て答えた。
「ええ。邪魔だったから」
第4話
真哉はその言葉に一瞬きょとんとしてから苦笑いした。
彼女が拗ねているのだと思ったのだろう。
「わかった、ごめんよ、瑶。今日は本当に急用があったんだ。もう二度とこんなことしない」
ベッドに腰を下ろし、布団ごと瑶を抱き寄せる。
おどけた笑顔で約束するその顔を見ても、瑶の心は微動だにしなかった。
――もう「これから」など、二人の間にはない。
しばらく彼は言葉で機嫌を取ろうとした。それから何気ないふうを装って尋ねてきた。
「瑶、明日、パーティーがあるんだけど......行くか?」
瑶は一瞬考える。
確かに明日はパーティーの日で、これまでは必ず真哉を連れて出席してきた。
だが、今回は一緒に行く気などなかった。
だから、嘘をついた。
「行かない」
そう言って背を向け、眠る態勢をとった。
そのため、答えを聞いた瞬間に真哉の目に浮かんだ喜色を、彼女は見逃した。
翌朝、真哉は「用事がある」と言って早々に家を出た。
夜は遅くなると言ったが、瑶は気にも留めない。
パーティーの時間が近づくと、瑶はクローゼットで着替えを始めた。
いつもなら手を伸ばすのはシックなスーツドレス。
だがその日は指先がふと止まり、代わりに横のイブニングドレスを手に取った。
これまで滅多に着なかったが、ふと思い立ったのだ。
会場の入り口で知り合いに声をかけられる。
「瑶、今日のあなた、本当に綺麗よ。だから言ったでしょ、もっとドレスを着るべきだって。綺麗なスタイルを隠すなんてもったいないわ。でも......そのネックレス、二年前のデザインじゃない?」
瑶は思わず首元に目を落とす。
そこには、真哉から贈られたネックレスが光っていた。
少し間を置き、「間違えてつけてきちゃったの」と答える。
中に入ると、視線が一斉に彼女に注がれた。
その中には、煌花を連れて出席している真哉の姿もあった。
彼がこのような装いの瑶を見るのは初めてで、しばし言葉を失い見入っていた。
煌花が何度も呼びかけてようやく我に返る。
そして瑶もまた、二人の親しげな様子に気づいた。
――そういうことか。
昨日あの質問をしたのは、私が来ないと確認しておきたかったから。
邪魔されたくなかったのだ。
瑶は唇の端を冷たく上げ、視線を逸らすと、近くのテーブルのグラスを取った。
真哉はその背を見て一瞬ためらい、すぐに煌花へ向き直る。
「煌花、ちょっと行ってくる。ここで待ってて」
返事も待たずに瑶を追い、肩をつかんで言い訳を始めた。
「瑶、昨日、煌花が一人で出席するって言うから、君が来ないと聞いてついてきたんだ。来るならもちろん一緒に来たよ」
瑶は振り向き、淡々と「そう」とだけ答えた。
もう二人のことに心を砕くつもりはない。
真哉もそれ以上は言わず、二人は表面上いつも通りふるまった。
何人かに挨拶を終えたあと、真哉は洗面所へ。
瑶が一人で立っていると、煌花がワイングラスを手に近づいてくる。
瑶は目も合わせず、視線を横へ逸らした。
「お義姉さま、今日はとても素敵ね。でも、そのネックレス......少し合わないんじゃ?二年前の型よね。もしかして、兄さんからの贈り物?」
「彼が贈るのって、いつも型落ちじゃない?どうしてかわかる?」
その言葉に瑶は固まった。
確かに、真哉から贈られたアクセサリーは高価だが、どれも型落ちのものだった。
彼は流行に疎いだけだと思っていたが――
煌花は、瑶の反応を見て挑発するかのような笑みを浮かべた。
「毎回兄さんが私に最新作を買ってくれて、その代わりに古いのをあなたに渡すの。つまり、あなたが大切にしている物は全部、私のお下がりってこと」
瑶の頭に鈍い音が響き、首元が焼けつくように熱くなる。
――何もかも、残り物。
アクセサリーも、お粥も、愛情さえも。
もう痛むことはないと思っていたが、真哉はいつも新しい方法で心をえぐってくる。
視線を逸らすと、遠くから戻ってくる真哉と目が合った。
彼はその目の奥に揺れる感情を読み取り、胸を刺されるような痛みを覚えて歩みを速める。
瑶はすぐに視線を外した。もう彼に近寄られたくない。
その様子を煌花はしっかりと見ていた。
目には確信からの光が宿り、口元には歪んだ笑みが浮かべた。
そこへ真哉が駆け寄ってきた。
「瑶――」
次の瞬間、グラスが傾き赤いワインが煌花のドレスにかかった。
「お義姉さま、ごめんなさい。わざとじゃないの。兄さんを呼んだ、私が悪かったの......」
瑶は眉をひそめる。
煌花は手のグラスを床に落とし、割れる音とともに瑶の手をつかんだ。
そのまま小さく声を上げ横に倒れ込む。
ようやく真哉が、目の前にいるのが煌花だと気づき、慌てて抱きとめる。
瑶は、その瞬間に煌花の狙いを理解した。
だが、あまりに稚拙で、普通なら誰でも見抜けるはず――普通なら。
けれど、真哉は違った。
第5話
抱きしめられたままの煌花は、まだ芝居を続けた。
「兄さん、放して。お義姉さまが見たら不快に思われるわ。今日は全部私が悪いの、瑶お義姉さまのせいじゃない」
真哉を押し離すと、わざと足首をくじいたようにふらつき、再び彼の胸に倒れ込む。
真哉は眉間にしわを寄せ、痛ましげな表情で腰をかがめ、そのままお姫様抱っこをした。
そして瑶を見るその瞳には、抑えきれない怒りが宿っていた。
「もう説明しただろ?なんで俺がいない間に煌花をいじめるんだ。普段から気が強いのはまだしも、嫉妬までそんなに強いのか?」
反論の余地さえ与えず、真哉は煌花を抱えたまま足早に彼女の脇を通り過ぎた。
勢い余って肩がぶつかり、瑶は二歩下がった。
その拍子に背後のテーブルを倒し、床に転んでしまった。
真哉と煌花の姿は宴会場から消え、瑶は一人、散らかった床に身を伏せたまま取り残された。
最初から最後まで、彼は一言も彼女の話を聞かず、気にかけるのは煌花のことだけ。
瑶は自嘲の笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がると、出口へ向かって歩き出した。
背後からはひそひそ声が追いかけてくる。
「やっぱり篠宮さんって気が強すぎて、桐生さんでも手を焼いているんじゃない?煌花さんみたいに優しくて可愛いほうがいいわよね」
「でも煌花さんって、桐生さんの妹でしょ?」
「血のつながりなんてないんだから、養女なら問題ないわよ。さっきの様子、絶対に......」
宴会場を出ると、その声も遠ざかっていった。
瑶は首元に手を伸ばし、ネックレスを引きちぎって、脇の植え込みに放り投げた。
家に帰ると、使用人が心配そうに駆け寄ってきたが、瑶は「大丈夫」とだけ言って手を振る。
服を着替えると、彼女は使用人を呼び寄せた。
「クローゼットにある、桐生真哉からもらった物を全部出して、捨てて」
使用人は驚いたように目を見開く。
――これで二度目だ。
彼女たちには何が起きているのかわからない。
夫婦仲は良好に見えていたからだ。
それでも、指示には逆らわずに従った。
その夜、真哉は一度も帰らず、連絡もなかった。
原因が煌花であることは明らかだったが、不思議ともう胸はそれほど痛まなかった。
翌日も真哉は戻らず、瑶は普段通り朝食を取っていた。そこへ弁護士から電話が入る。
「篠宮社長、離婚協議書が完成しました。すべて社長にとって有利な条件で、不備は一切ありません。桐生さんが訴訟を起こしても、一円も取れません。すぐに宅配でお送りします」
電話を切って三十分後、協議書が届いた。
一秒も無駄にしたくない。瑶はすぐに真哉へ電話し、帰宅するよう告げた。
電話を受けた真哉はまだ怒っていたが、それでも戻ってきた。
リビングのソファに座る瑶のもとへ歩み寄り、テーブルの上の書類には目もくれずに口を開く。
「昨日のこと、君が不機嫌なのはわかる。でも、だからって煌花にあたることはないだろ。あの子も一応、君をお義姉さんと呼んでるんだぞ」
開口一番、瑶を責め立てる真哉に彼女の表情が冷たくなる。
「私じゃない。彼女を突き飛ばしたりなんてしてない」
真哉は座りかけた体を起こし、声を荒らげた。
「じゃあ誰がやったって言うんだ?自分で酒をこぼして、倒れて足をくじいたって?昨日見たんだ、骨折しかけてたんだぞ。自分からそんな怪我をするはずないだろ。瑶、どうしちゃったんだよ」
――足をくじくほど自分を傷つけるなんて。
そこまで煌花はするなんて思いもよらなかった。瑶は胸の奥で冷ややかに感心さえした。
彼女は冷めた目で真哉を見上げる。
真哉はその視線から何かを察し、深呼吸して彼女の前にしゃがみ込むと、手を取って真剣な顔を向けた。
「瑶、俺が悪かった。こんな言い方するべきじゃなかった。でも君がそんなことするなんて信じられなかったんだ。喧嘩なんてしたくない。煌花に謝ってからこの件は水に流そう。前みたいに戻ろう」
真っ直ぐな視線を受け、瑶は思わず笑みをこぼす。
――信じられないと言いながら、話も聞かずに犯人扱いする。
彼はこの矛盾に何も感じないのだろうか。
瑶の視線はとても冷たい。
「......嫌よ」
思いがけない答えに真哉は一瞬言葉を失いながら立ち上がった。
「今は冷静じゃないな。落ち着いてから話そう。俺は一旦出かけるよ」
彼が玄関に向かおうとしたその背に、瑶の声がかかる。
「これにサインして」
離婚協議書をめくり、署名欄のページをテーブルの端に置き、ペンを添えた。
真哉は一瞬、仲直りの申し出だと思ったが、書類を見て顔色を変えた。
怒りを押し殺し、そのまま出て行こうとしたその時、玄関で執事が立ちはだかった。
「......サインしないと通さないってことか?」
「ええ」
瑶は一歩も引かず、真っ直ぐに彼を見つめ返した。
第6話
真哉は奥歯を噛みしめ、冷ややかな笑みを浮かべテーブルの端に歩み寄った。そして、書類をろくに見もせず乱暴に署名した。
ペンを置くこともなく、そのまま背を向けた。
――バタン。
玄関の扉が音を立てて閉まり、別荘は静けさを取り戻す。
ペンがテーブルから転がり落ちる音だけが響いた。
瑶は無言でペンを拾い上げ、自ら名前を署名欄にサインをした。
こうして二年の結婚生活は、華やかな始まりとは裏腹に、あまりにも突然に幕を閉じた。
サインを終えると書類をためらいなく封筒にいれ、着替えて会社へ向かう。
――明日は入札日。今は終わった愛に心をいためる暇などない。
このプロジェクトは、会社全体で何か月も準備を重ねてきた重要案件だ。
瑶は夜明けまで社内で資料の最終確認を行い、ようやく帰宅した。
着替えと身支度を整え、書斎からUSBを手に取って玄関へ向かおうとしたとき、使用人が声をかけてきた。
「奥さま、今朝、旦那さまが一度戻られました。二階でしばらく過ごしてから、また出て行かれました」
瑶はそっと頷き、それ以上気に留めなかったが、玄関を出る直前にふと思い出し、こう告げた。
「今日のうちに家の大掃除をして。真哉の物はすべてまとめて捨てて」
呆気に取られた表情を見せる使用人たちを残し、瑶は会社へ向かった。
これで三度目の「物の処分」だが、理由を知る者は誰一人いない。
入札会場に到着すると、入口で思いがけない光景が目に飛び込む。
――煌花と、その隣で気遣うように立つ真哉。
今回の入札には桐生グループも参加することは知っていたが、まさか煌花本人が来るとは思わなかった。
真哉も彼女を見て驚く様子はなく、「煌花の足が不自由だから送ってきた」と淡々と言った。
瑶は答えもせず、離れた席に腰を下ろし、資料を整え始めた。
その冷淡な態度に、真哉はわずかに戸惑ったが、煌花が少し笑みを浮かべて口を開いた。
「お義姉さま、まだ怒ってるのね。全部私が悪いのよ。兄さん、そばに行ってあげて。私なら杖があるから大丈夫。距離も短いし......転んじゃっても平気よ」
その声は決して小さくはない。
瑶は聞きながら、心の中で大きくため息をつく。
真哉は一歩踏み出しかけたが、煌花の「自分は平気」という言葉に足を止めた。
「お前のせいじゃない。自分を責めるな。俺がそばにいるから安心しろ」
名前が呼ばれ、瑶は立ち上がって入室した。
二人に視線を向けることなく。
プレゼンは順番に行われ、先に登壇したのは煌花だった。
壇上に向かう前、彼女は意味深な視線を瑶へを送る。
瑶は首をかしげたが、その理由はすぐにわかった。
煌花のプレゼン資料――それは瑶のものと寸分違わなかった。
発表を終えるころ、瑶の頭は真っ白になっていた。
自分の順番が来たが、同じ内容を繰り返すわけにはいかず、やむなく辞退した。
ここまで堂々と盗用してきたのなら、すでに根回しも済ませているだろう。
瑶が何を言っても、得られるものはない。
案の定、結果は煌花の勝利だった。
――瑶の原案を使って。
会議後、瑶はすぐに煌花の腕をつかんだ。
「どこでこれを手に入れたの?」
彼女はこのデータの重要性を理解している。
安易に他人の手に渡るはずはない。
だが煌花は挑発的に微笑み答えた。
「どんなに隠しても、真哉だけは疑わなかったでしょ?」
その言葉に、瑶は一瞬で今朝の使用人の報告を思い出した。
「父に成績を出せと言われてね。兄さんに相談したら、すぐあなたの原案を持ってきてくれたの。今日は本当にありがとう。あなたがいなきゃ、このプロジェクトは取れなかったわ」
頭の中で鈍い音が響く。
まさか、その「犯人」が真哉だとは。
怒りが全身を駆け抜け、瑶は勢いよく煌花を突き飛ばした。
彼女は体勢を崩し、後ろへ倒れ込む。
ちょうどそこへ真哉が現れ、咄嗟に抱きとめた。
「煌花、大丈夫か?」
無事だとわかると、すぐに瑶へ鋭い視線を向けた。
「瑶!今の見たぞ。まだ言い逃れするつもりか?」
「......あの原案、あなたが渡したのよね」
瑶は彼の言葉を遮り、事実を断定するように告げた。
真哉の動きが止まる。
返事を聞く必要はない。
瑶はすでにすべてを理解していた。
「――そう。真哉、あなたは本当に見事なことをしてくれたわね」
怒りを通り越した笑みに、目からは氷のような視線が向けられていた。
そんな表情を見たのは初めてで、真哉は胸の奥に得体の知れない焦りを覚えた。
何か言おうとしたが、瑶はもう耳を貸すつもりもなく歩き出す。
その背中を追おうと一歩踏み出したとき、腕を煌花に引かれ真哉の足が止まった。
第7話
瑶は下へ降り、タクシーに乗り込むと部門の責任者に電話をかけた。
「今回の入札......失敗した」
その一言を口にするまでに、少し時間がかかった。
今もなお、受け入れられない現実だった。
電話の向こうで、責任者が驚きの声を上げる。
「どういうことですか?うちの提案書は完璧で、落ちるはずがありません!」
瑶は目を閉じ、深いため息を漏らす。
「......提案書が漏れたの、私から。私の過失だから、全責任は私が負うわ」
それ以上は何も言わず、電話を切った。
車の外を景色が矢のように流れ過ぎる中、胸の奥はどうしようもない絶望感で満ちていく。
この案件のために、自分も会社もどれだけの時間と労力を費やしたか。
何度も徹夜し、数えきれないほどの出張をこなし、接待の席にも数十回は足を運んだ。
そのすべてを、真哉は知っていた。彼女の努力を、傍らで見てきたはずだった。
それでも、煌花が一言頼めば、何のためらいもなく提案書を渡してしまう。
――彼女がどうなるかなど少しも考えもせずに。
そして瑶自身も、信じ切っていた心を傷つけられ、部下まで巻き込んでしまった。
タクシーはやがて邸宅の前に停まる。
瑶は車を降り、その足で警備室へ向かい、真哉の入館情報をすべて削除させた。
「篠宮さん、桐生さんはもうここにお住まいじゃないんですか?情報を全部消すなんて......」
警備員が不思議そうに尋ねる。
瑶は淡々と「ええ」とだけ答え、立ち去る前に一言付け加えた。
「もし彼が来ても、中には入れないで」
――彼が自分を探しに来ることはないだろう。
それでも、余計なことは起こさないに越したことはない。
屋敷に入ると、庭先に山のように積まれた荷物が目に入る。
すべて真哉の私物だった。
「奥さま、本当に捨ててしまうんですか?」
使用人が恐る恐る尋ねる。
その問いは想定内だった。
彼女たちの目には、夫婦に大きな確執などないように映っている。
かつての瑶自身がそうだったように。
「全部捨てて。ひとつ残らず。これから彼はここには住まない。玄関の暗証番号も変えて」
家の中に入ると、テーブルには二通の離婚協議書が置かれている。
瑶は一通を手に取り、執事に渡した。
「これを桐生家に送って」
それから書斎に籠もり、午後まで仕事に没頭していたところ、スマホが激しく震え出した。
画面を開くと、真哉からのメッセージ。
【瑶、ごめん。あの提案書を渡すべきじゃなかった。でも、彼女は俺の妹だ。放っておけなかった。わかるだろ?】
「ごめん」と言いながら、一片の悔いもない――その文面に、瑶は冷ややかに笑い、彼を即座にブロックした。
続けて煌花のチャットを開き、一行だけ送る。
【もし本当に因縁があるなら、あんたの報いもそう遠くないわ】
そんなものは信じてはいない。けれど、相手の胸をざわつかせられるなら、それでいい。
送信後、煌花もブロックした。
一方そのころ、真哉は瑶から返信がないことに苛立ち、何度もメッセージを送っていた。
しかし、メッセージを送っても、いつまで経っても既読はつかなかった。
指先が止まり、胸の奥に不安が広がる。
急いで帰ろうとした瞬間、横から手が伸び、腕をつかまれた。
「兄さん、どこに行くの?」
煌花の甘い声が耳に届く。
だが、真哉は上の空で言葉を返すと、車を発進させた。
道中、何度も瑶に電話をかけたが、すべて通話中だった。
――ブロックされたのだと悟った。
胸騒ぎがし、法定速度ぎりぎりで邸宅街へと急いだ。
ところが、ゲートで車が認証されず足止めを食う。
「おかしいな、登録済みのはずだが」
車を降りて警備室に向かうと、警備員は彼の顔を見るなり状況を説明した。
「桐生さんですよね。今朝、住民情報が削除されました。住人の許可なしではお通しできません。入るには、奥さまからの連絡か、お迎えが必要です」
「......何だって?」
真哉の顔色が、一瞬で変わった。