99回目の拒絶のあとに訪れる涙

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99回目の拒絶のあとに訪れる涙

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鷹野家の後継ぎであり、一族のナンバーツーである夫・鷹野怜司(たかの れいじ)は、今日も私の電話を無視した。 白血病の末期を抱えた私は、...

Chương (1)

第1章

鷹野家の後継ぎであり、一族のナンバーツーである夫・鷹野怜司(たかの れいじ)は、今日も私の電話を無視した。 白血病の末期を抱えた私は、ふらふらの体で家の顧問弁護士を訪れる。 「すみません、離婚の手続きをお願いします」 その十数分後、怜司と家族たちが大慌てで事務所に押しかけてきた。 怜司は、私の顔を見るなり平手打ちを食らわせた。 「咲(さき)の昇進パーティを妨害したくて、緊急連絡番号を使ったのか?お前、頭はどうかしてるんじゃないか?」 私がしっかりと握っていた診断書は、母に無理やり奪われる。 母はちらっと診断書を見て、あざけるように鼻で笑った。 「またその手?仮病で同情を引いて、みんなの気を引きたいだけでしょ。澪(みお)、あんたは小さい頃から嘘ばかりついてきたじゃない」 妹の咲は、涙を浮かべて怜司の腕にすがる。 「ごめんね、お姉ちゃん。私なんかが昇進しなければよかったんだよね……だから、もう自分や怜司さんを傷つけたりしないで」 私は唇から滲む血をそっと拭って、弁護士をまっすぐ見つめた。 「……私にはもう、家族なんていません。三日後に遺体を火葬できるよう、離婚の手続きを急いでもらえますか」 第1話 私が鷹野家の顧問弁護士事務所を訪れるのは、これが最後だった。 冷たい大理石の床が足裏を擦るたび、全身に裂けるような痛みが走る。 白血病の末期症状で、もはや普通に歩くことさえできない。呼吸一つが、拷問だった。 「……すみません、鷹野家の跡取り、鷹野怜司(たかの れいじ)との離婚手続きをお願いしたいんです」 スーツ姿の弁護士が、哀れみを隠せない目で私を見つめてきた。 「奥様、ご家族の同伴は……?こういった手続きでご家族抜きというのは……珍しくて…」 私があまりにも青白く痩せているせいか、弁護士の声はやけに小さい。 何年も結婚しているのに、怜司は一度も私に公認の妻としての式を挙げてくれなかった。家の催しに連れて行かれることも、ほとんどない。 だから、誰も「跡取りの妻」が私だなんて、ろくに知らない。 「いいんです」私は淡々と言った。「死にかけの女に家族なんて必要ないですから」 その瞬間、事務所の扉が乱暴に開いた。 怜司の怒鳴り声が響く。「澪(みお)!お前、何やってるんだ!」 振り返ると、怜司の目に激しい怒りの炎が燃えていた。 その背後には桐島咲(きりしま さき)がぴたりとついてきて、いつもの嘘くさい笑顔を浮かべている。 「よりによって、今日まで騒ぐのか?」怜司は私の目の前まで詰め寄る。「咲が家の財務担当に昇進した日なんだぞ。家族みんなでお祝いしてるのに、こんな茶番をぶつけてきやがって!」 言うが早いか、平手打ちが飛んだ。衝撃でよろけて、頬がジリジリと痺れる。 しばらくしてから気づく。今日は確かに咲の昇進祝いだってことに。 怜司はわざわざ海外での仕事を延期してまで、咲のために予定を空けていた。 白血病の末期で、いつ死んでもおかしくない私は、たった一度、緊急連絡用のコードで助けを求めただけ。 その結果が、怜司からの「乱用」呼ばわりだった。 涙が滲む。でも絶対に泣かないと決めている。 何か言いかけた瞬間、激しい咳が襲った。 血がぽたりと床に落ちて、淡い大理石に濃い赤の花が咲いた。 やっと体を支えて、かすれ声で訴える。こんな時でさえ、私はまだ、どこかで期待していた。「怜司、私は本当に……」 怜司が私の口元の血に気づいたのか、眉をひそめる。 咲がすかさず声を上げる。「でも、怜司さんはお姉ちゃんのためにパーティーから駆けつけたんだよ……」 「だから言ったでしょ、咲。あの子が現れるとろくなことにならないって」母の桐島綾子(きりしま あやこ)が、扉の向こうから声を上げた。 「小さい頃から人の注目を集めたくて何でもやる子だったのに、いまさら信じろって?」 怜司の目が一気に冷たくなる。「澪。お前、俺を騙して咲の昇進祝いを台無しにしようとしてるのか?自分を傷つけてまで?」 じわじわ詰め寄ってきて、私の襟元をつかむ。咲が慌てて怜司を止める。 咲の目に涙が浮かび、か細い声で訴えかけてきた。 「ごめんね、お姉ちゃん。私、昇進なんて受けるべきじゃなかった。全部私のせいだから、もう自分を傷つけないで。怜司さんだって、お姉ちゃんのことですごく悩んでるの。もし本当に反省するなら、私……家からのどんな役職も受けないから!」 一つ一つの言葉が胸を抉り、私をどんどん悪者に仕立て上げていく。 その様子を見て、母の綾子が急に優しい声になる。「咲、あなたが立派だからこそ手に入れた役職なのよ。胸を張りなさい」 そんな「理想の母娘」の芝居も、見慣れているはずだった。それでも、何度見ても胸が痛くなる。 母親からもらえるはずだった愛情は、すべて咲に注がれた。 でももう、どうでもよくなっていた。死ぬ間際には、何もかもがどうでもよくなる。 心の中は砂漠のように乾いていた。なのに、また口の端に血の味が広がる。 怜司が私の診断書をもぎ取った。ざっと目を通し、鼻で笑う。 「白血病?演技が下手すぎるな」 びりっと音を立てて紙を破る。細かい紙片が足元に散った。 怜司の視線が、私の青白い顔で一瞬止まる。 目が合ったとき、不意に思い出す。二十歳の成人式、怜司の瞳は星みたいに輝いていた。でも今、その光はどこにもなかった。 もう愛なんて、残っていないんだろう。だから、もう光もない。 私は震える手で血を拭い、崩れそうな体をなんとか弁護士の方へ向ける。 「三日後にはこの家をきっぱり出ていきます。離婚の手続き、縁切りの書類もまとめてお願いします」 怜司の体が一瞬揺れた。私の手首を掴み、「咲の祝いを台無しにしたくて、弁護士まで巻き込んで芝居か!」 怒りを押し殺した声で、「くだらない真似はやめろ!いい加減にするんだ!澪。恥さらしだ」 そう言い残して、咲を抱き寄せ、出ていった。 赤くなった手首を見下ろして、私は笑ってしまった。 どうせ……わかってたことだ。怜司は、私のことなんて、信じたことなんてなかった。 体の痛みに耐えながら、私は一人で離婚協議書にサインをした。 私が死ぬその日、怜司のもとに、署名済みの離婚協議書と遺産分配の書類が届くだろう。 死までの三日間、自分の手で、この結婚に終止符を打つ。 その間も、夫は別の女を腕に抱き、栄誉とやらのために乾杯している。 第2話 よろよろと鷹野家の屋敷に戻ったけれど、別にここで死ぬつもりはなかった。 ただ、自分の荷物をまとめようと思っただけ。 だけど、改めて見渡してみたら、持っていくものなんて何もなかった。 かつて自分の部屋だったはずの場所は、今やただの物置に変わり果てている。 ドレッサーは隅に追いやられ、分厚い埃が積もっていた。大事にしていた本や写真立ても、無造作に段ボールへ押し込まれている。 ベッドだけは元の場所に残っていたけど、シーツはいつの間にか無機質なグレーの安物に変わっていた。 そして、埃まみれの古いアクセサリーケース。中には怜司が私にくれた唯一の誕生日プレゼント、安っぽいシルバーのチェーンだけが入っていた。 ベッドの端に座り、そっとドレッサーの埃を拭う。指先が写真立てに触れて、手が止まる。 そこには、二十歳の成人式で撮った一枚があった。シャンパン色のドレスを着ていた私は、まだ目に光が宿っていた。 あの頃は目が輝いていたのに、今はもう、すっかり光が消えてしまった。 咲の衣装部屋は、この物置の何倍も広い。しかも咲がいらなくなったものだけがここに運ばれてくる。 跡取りの妻だった私の寝室は、二年前から咲のヨガルームに改装された。 最新設備に、最高級のアロマ。 私は窓もない物置に追いやられて、それが私の部屋になった。 でも、今やその物置すら私のものじゃなくなっていた。 不意にスマホの着信音が鳴って、思考が中断された。 「……はい、天使湾記念霊園です」穏やかな女性の声が電話の向こうから響く。「鷹野澪様、先日ご相談いただいたお墓の件ですが、いまご入金いただければ七日間お取り置きできます。期限を過ぎますと、他のお客様を優先せざるを得ません」 一か月前、死後のために下見した場所だ。 純白の大理石像が立ち並び、天井から光が差し込む水晶の棺がきらめいていた。 もし死ねるなら、あそこで永遠に眠りたい。それが私の唯一の願いだった。 値段は1200万円。 財布の中にあるのは、数万円だけ。 「大丈夫です。やっぱり結構です」 骨髄移植の費用すら払えない人間に、死ぬことさえ、許されないみたいだった。 電話を切ったと同時に、ドアが開く音がして顔を上げる。 怜司が部屋に入ってきた。 この家のどこにいても、ふわっと鈴蘭の香りがするのが当たり前だった。 私が鈴蘭の香りが好きで、どこにいてもその香りがするようにしていたから。 でも、今のこの部屋には、ただ埃とカビ臭さしかなかった。 怜司は不機嫌そうに眉を寄せ、無意識に深呼吸して馴染みの香りを探していた。 けれど、どこにも見つからない。ただ、埃っぽい空気が漂うだけ。 すぐにその違和感を押し殺して、私を睨みつける。 「今、墓がどうとか電話で言ってたな?」 「……」 「澪、前にも言っただろ」怜司の声はひどく冷たい。「そんな縁起でもないことを言って、同情を誘うな。ふざけてるのか?」 何も言いたくなかったけど、反射的に口が動く。「違う、私は……」 「何が違うんだ?」怜司は食い気味に遮って、ますます冷たい目になる。 「お前はもう、咲から何も奪えない。 そもそも、お前が持つべきじゃなかったものだ」 気がついたら涙が頬を伝っていた。 怜司は、昇進祝いも、跡取りの妻という立場も、全部「咲のもの」だと言う。愛さえも。 ――じゃあ、私のはずだったものは?全部、忘れてしまったの? 私は怜司を見上げる。「ひとつだけ、聞きたいんだけど。私の二十歳の成人式、覚えてる?」 怜司の表情が一瞬だけ固まる。視線が写真立てへ流れて、すぐまた逸らされた。 「何が言いたいんだ?」 「そのとき『盛大な結婚式を挙げて、みんなに私を紹介する』って言ってくれた。でも結局、『お前にはふさわしくない』って全部なかったことにしたよね」 「だから?」 「二十一歳の誕生日も、二十二歳のも、二十三歳のも――全部、忘れてたよね。でも咲の記念日だけは、絶対に覚えてる」 「もういい加減にしろ!」怜司が声を荒げる。「そうやって、いつも小さなことを大袈裟にして……家のことを全然分かってない! お前がいつまでも弱いから、存在感なんてなくなるんだろ」 怜司の冷たい視線が突き刺さる。 私は、この人にとって存在自体が間違いなのだと痛感した。 私の愛も、努力も、痛みも、すべて間違いだった。 私はかすかに笑って、「そうだね。全部私のせいだね」 背を向け、もう彼を見なかった。 「左の二段目の引き出しに、あなたへの手紙が入ってるから、三日後に読んで」 怜司は無言で出ていった。 零時の鐘が鳴る。部屋は再び静寂に包まれる。 私は埃だらけの写真立てを抱きしめながら、生命が少しずつ消えていくのを感じていた。 残り、あと二日。 第3話 一睡もできないまま朝を迎えた。 明るくなった頃、下のほうから車のエンジン音が聞こえてくる。 父と母、それに咲が帰ってきたのだ。 遠くからでもわかるほどの怒鳴り声が、玄関越しに響いてくる。 「澪、お前、よくも平気でここに帰ってこられたもんだ!」 部屋のドアが乱暴に開き、父の桐島義人(きりしま よしひと)が冷たい目で私を見つめた。 「咲の昇進パーティーをめちゃくちゃにして、咲はお前を許してほしいと泣き崩れるほどだったんだぞ! 少しは反省したらどうなんだ? 今すぐ咲に謝りなさい!」 私はそっと目を閉じて、深呼吸する。あと二日。あと二日だけ耐えればいい。 昔、父はこんなふうに優しく私を守ってくれたことがあった。 初めて銃に触れて怖がったとき、「大丈夫だ、澪。人それぞれだ」と、何度でも励ましてくれた。 鷹野家の仕事を覚えられずにつまずいたときも、根気よく、何度も何度も教えてくれた。 けれど咲がやってきてから、すべてが変わった。 咲は十五歳で家の財務を一人で任され、十六で一家の精鋭チームのリーダーにまでなった。 私は十八になっても銃も持てず、家の仕事も一族で最下位。 気がつけば、父の「自慢の娘」の座は咲に奪われていた。 しかも咲が家に来てから、私はどんどん身体が弱くなっていった。 めまいや吐き気、訓練でもすぐに息切れし、小さな傷さえなかなか治らない。 家の医者は「体質だから、もっと栄養を」と言ったけれど、どれだけ努力してもどんどん悪くなる一方だった。 やがて、父の目には落胆しかなくなっていった。 「澪、咲を見てみろ。お前と同じくうちの娘なのに、どうしてこうも違う? 鷹野家の跡取りの妻として、そんな能力じゃ何も守れないだろう。怜司さんを支えることもできない。 家同士の縁談がなかったら、お前にこの地位を与えたことさえ後悔してるくらいだ」 そのうち、父の目は落胆から恥へと変わった。 まるで、私が「家の恥」で、咲こそが誇りの娘だとでも言いたげに。 私はそっと顔を上げ、ドアのそばに立つ咲を見る。 無垢な瞳でこちらを見つめ、心配そうな顔をしている。 「お姉ちゃん、仲直りしよう?昔みたいに戻ろうよ?」やけに優しい声で、涙までにじませてみせる。 ――それが、咲の得意技だ。 「私のために香水を調合してくれたの、覚えてる?」咲が続ける。「明日は家の記念日だから、もう一度香水を作ってほしいの。昇進祝いとして」 母の綾子の目が一瞬だけ嬉しそうに光り、すぐに私に言った。 「それくらいしか取り柄ないんでしょ、澪。咲は、あんたにチャンスをくれてるのよ。ありがたいと思いなさい」 私は動かなかった。香水の香りが七年前の記憶を呼び覚ます。 あのとき、咲が家に来たばかりで、私ははりきって彼女のために人生初のオーダーメイド香水を作った。 「ローズマリーの香りが好き」と言われて、珍しい香料を必死に集め、指先は何度も薬液でただれた。 本当は、私の体質では多くの香料が毒みたいにしみて、毎回触るたびにひりついた。 でも、我慢して完璧な香水を作った。 だけど、咲が使った途端に全身が真っ赤な発疹で倒れた。 医者は「香水の成分でアレルギー反応が出た」と言った。 目を覚ました咲は、すぐに泣きながら怜司の胸に飛び込んだ。 「怜司さん、香水はお姉ちゃんが一生懸命作ってくれたの。ちょっと試してみたいって言ったのは私だから、彼女を責めないで。全部私が悪いの」 私は医務室の前で、怜司の責めるような視線を受けて、ただ立ち尽くしていた。「咲がアレルギーなんて知らなくて……」と言いかけたけど、怜司は私の話を聞かず、そのまま私を地下室に閉じ込めた。 三日間、水も食べ物もなく、暗闇と湿気のなかで過ごした。 隅でうずくまり、外の賑やかな笑い声を聞きながら、咲の回復祝いが開かれるのを感じていた。 やっと外に出られたときには、立つこともできないほど衰弱していた。 「忘れたの?」私は咲の完璧な顔を見つめて言う。「あんた、香料アレルギーだったよね」 その瞬間、部屋の空気が張り詰める。 ちょうどそのとき、怜司が入ってきた。 彼は私たちの会話を聞いて、足を止めた。 あのとき、地下室で意識が朦朧とするなか、実は夜中に一度だけ怜司が様子を見に来てくれたのを覚えている。 でも、もうどうでもいい。 今の怜司は、完全に咲の味方なのだから。 「アレルギー?」咲が笑う。どこか焦ったような響きが混じっていた。「そんな昔の話、もうどうでもいいじゃない。今は体質も変わったし、もう平気だよ」 さらに近づいてきて、私の手を取ろうとする。 咲の指が私の肌に食い込むほど強くなり、思わず振り払ったそのとき―― 彼女は、バランスを崩したふりをして床に倒れた。 その瞬間、咲のもう片方の手がそっと袖に触れたのを見逃さなかった。 「きゃっ!」咲が大袈裟に倒れ、痛そうにうめく。 ほとんど同時に、咲の真っ白な頬に赤い斑点が浮かび上がった。 「咲!」母の綾子が叫びながら駆け寄る。「なんてこと、全身に発疹が……!」 みるみるうちに発疹が広がっていき、まるで重度のアレルギー反応そのものだった。 父の義人が怒りに震えて私を睨む。「澪、お前、咲に何をした!?」 何もしていない。ただ手を振り払っただけなのに、私は何も言い返せなかった。 咲は母に寄り添い、痛そうに泣きじゃくる。 「お母さん、すごく痒い……お姉ちゃん、ごめんね、私、本当に悪気はなかったの」 苦しみながらも、私をかばうような演技を見せて、家族の怒りはさらに燃え上がる。 義人が咲の赤く腫れた腕を見て、さらに怒鳴る。 「澪!いい加減にしろ!」 「ちがう、私は……」言いかけた声はあまりにも弱かった。 「何が違うんだ!」怜司が大股で近づいてきて、私を睨みつける。「まただ。お前はまた咲を傷つけた!」 怜司はそっと咲を抱き上げ、やけに優しく扱う。 「もう、私はアレルギーなんかじゃないのに……」咲は弱々しい声で怜司にしがみつき、「きっと他に原因があるはず……」と呟く。 けれど、その目だけは私をじっと見据え、うっすらと勝ち誇ったような光を宿していた。 私にだけ分かる、それが本当の咲だ。 「他に何が原因だっていうんだ?お前以外に咲に触れたやつがいるのか?」怜司は私をにらむ。 「この家で、香水にそんなに執着して持ち歩いてるのなんて、お前くらいだろ!」 全部、咲の思い通りだった。私には、ただ絶望しか残されていなかった。 咲は最初から、すべてを仕込んでいた。袖の中のアレルゲンも。 「澪!」怜司が叫んで、私の首を両手で締め上げる。「お前の本性なんて、とっくに見抜いていた!」 どんどん呼吸が苦しくなって、視界がぼやける。 そのとき、怜司が私の青白い顔と紫色になった唇に気づいた。 その死にかけた様子に、なぜか怜司の手が一瞬だけ緩む。 得体の知れない恐怖と、微かな良心が怜司を止めたのだろう。 私は壁に叩きつけられ、背中が痛む。口の中は、さらに鉄の味が濃くなる。 「怜司さん!」咲が怜司の様子に気づいて声を上げる。「どうしたの?顔色がすごく悪いよ?」 怜司は首を振って不安を押し殺し、私をもう一度見た。 怒りが消えることはなく、その目は今にも焼き尽くすような熱を帯びている。 「最初から分かっていれば、家同士の縁談なんて受けなかった。 出ていけ!二度と俺の前に現れるな!」 私は床に座り込んだまま、もう何も言う気になれなかった。 ――これで最後。 私はもう、彼らの「信じてくれない」に傷ついたりしない。 私の心は、もう完全に死んでしまったのだから。 第4話 母の綾子が私の口元の血に気づいたとき、一瞬だけ目に迷いが浮かんだ。 その刹那、ほんのわずかだけ昔の優しかった母の面影がよぎった気がした。 けれど、すぐに咲の泣き声が大きくなると、母はそちらへ駆け寄り、「大丈夫?お医者さん呼ぶ?」と甘い声で慰め始めた。 私は手の甲で血を拭い、ふらつきながらゆっくり立ち上がる。 部屋の隅には、ぼろぼろのキャリーケースがひとつだけ。 中身は、少しの衣類と小物だけ。 もう何日も前から、ここを出ていく覚悟はできていた。 この二日間、心の中でずっと別れの準備をしていた。 そんな私の行動を見て、家族は不思議そうに見ていたけれど、すぐに冷たい皮肉が飛んできた。 「どうした?もう親の言うことなんて聞かなくなったのか?出て行く気か?お前のためを思って注意してるのに、お前にはその気持ちが伝わらないのか?」父の義人が無表情で言い放つ。 「逃げて済むと思うなよ」 母も責める。「澪は昔から、困ったことがあればすぐ逃げ出そうとする。何も変わっていない。 あんたみたいな娘を育てた覚えはないわ」と冷たい声。 怜司は咲をベッドに寝かせると、私の方に向き直る。 その目には、一片の情もない。ただ、冷たい嫌悪だけがあった。「どこに行くつもりだ?」 「鷹野家を出る」 「澪!」怜司が急に声を荒げる。「自分が何をしようとしてるか分かってるのか?この家を出て行ったら、もう誰もお前を守れないんだぞ!」 何度も何度も繰り返された脅しの言葉。 もう、そんなものには何も感じない。 この家は、一度だって私に帰る場所を与えてくれなかったから。 「構わない」私はキャリーを引きずって玄関に向かう。「もともと私には、居場所なんてなかったから」 だって、もうすぐ死ぬんだから。 そのまま振り向きもせず、大きな玄関扉へと向かった。 怜司は私の後ろ姿を見て、何かに突き動かされるように胸を押さえた。 どこか、嫌な予感がしていたのだろう。 あのとき放った冷たい言葉が、自分自身を切り刻む刃になって返ってきたような感覚。 それでも、強いプライドと怒りが怜司の心を支配していた。 「全部、澪自身のせいだ。弱いから、こうなるんだ」と自分に言い聞かせるしかなかった。 それでも、わけのわからない焦りが消えず、イライラが募って、手元のガラスコップを力任せに投げつけた。 背後でガラスの割れる音が響く。 割れた破片がフローリングに散らばり、月明かりに照らされて小さくきらめいていた。 怜司は二階の窓辺に立ち、燃えるような怒りの目で私の背中を見下ろす。 「澪!」怜司の声がかすかに震えていた。「戻ってこい!」 私は足を止め、最後にもう一度だけこの家を振り返った。 月明かりが屋敷の壁を照らし、不思議なほど冷たく見えた。 「約束を破った人間は、永遠に大切なものを失う」 玄関を出た瞬間、夜風が体を包み込む。 自由のにおいと、終わりの予感を運んでくる。 怜司はガラス越しに、私が出ていくのをただ見ていて、私が残した言葉に、思わず身震いした。 彼は私の身体が弱いことを知っていた。寒い夜にひとりで出て行ったら、きっとまた傷つくのではないか―― そう思いながらも、さっきの「出て行け」という言葉が全部本心だったわけじゃない、と気づく。 本当は、引き留めたかった。だが、咲がくるりと振り返り、リビングの怜司に笑いかけた。 「ねえ、怜司さん。ほっとけば、そのうち戻ってくるよ。 結局、この家を出ても、お姉ちゃんは何もできない。誰にも守ってもらえないことくらい、すぐ分かるから」 怜司はその言葉に、説明のできない苛立ちを覚えた。 黙って視線を外すと、誰にも気づかれないように握りしめた拳が、かすかに震えていた。 爪が手のひらに食い込み、じんわりと血が滲んでいた。 第5話 キャリーケースを引きずり、町はずれの古びた安宿を見つけた。 かび臭く、空気はどこまでも淀んでいる。壁紙は剥がれ、カーペットにはしみが広がっていた。 でも、家を追い出された私には、ここしか泊まる場所がなかった。 深夜、激しい痛みにうなされて悪夢から目覚める。 がんが骨まで広がったせいで、体の奥が針で刺されるみたいに痛い。息をするだけで苦しい。 薄い毛布の中で丸くなりながら、子供の頃の記憶が押し寄せてくる。 あのとき私は十二歳。やっと家の勉強が始まったばかりだった。 咲はいつも「お姉ちゃん、この服似合うよ」と優しく選んでくれた。でも彼女がくれた服を着ると、決まって肌が痛くて痒くなった。 授業中も体がきつくて倒れてしまい、全身に発疹。みんな「澪が弱すぎるせい」としか思わず、私自身もそう信じかけていた。 「澪は本当にひ弱だなあ」先生もため息をついていた。 咲は駆け寄ってきて、「大丈夫?薬持ってくるね」と心配そうに声をかける。 十四歳のときは、模擬戦の訓練中に誰かに突き落とされ、高台の下で一晩中動けなかった。 捜索隊が見つけてくれたときには、高熱で意識も朦朧としていた。 咲は涙を浮かべ、「私がもっと早く助けてあげればよかった」と周囲に語ってヒロインになる。 私はどんどん助けが必要な厄介者というレッテルが貼られていった。 でも本当に恐ろしかったのは、「栄養補給」と称したサプリだった。怪我をすると、決まって咲が「私がやる」と言って薬を用意してくれる。優しいふりをして飲ませてくれたけど、私はますます体が弱くなった。 今思えば、あのサプリには骨髄をじわじわ壊す毒が混じっていたんだ。 ゆっくり、静かに、私の命が削られていった。 みんな、私が生まれつき弱いんだと思い込んでいた。私自身でさえ、ずっとそうだと信じてた。 まさか十二歳のころから、ずっと毒を盛られていたなんて―― そのころ、鷹野家本邸では怜司が机に向かっていたが、仕事なんて手につかなかった。 得体のしれない不安が胸に溜まり、じっとしていられない。 「……くそっ!」怜司は衝動的に机の上の書類を払いのけた。 すぐにでも澪の元へ駆けつけて、無事を確かめたかった。 でも、自尊心が邪魔をしてどうしても理由が欲しかった。 ベッドサイドのスマホが鳴ったとき、私は痛みで意識が飛びそうになっていた。 怜司からのメッセージは冷え切っていた。 【澪、すぐに戻ってきて咲に謝れ。逃げても無駄だ】 もう返信する気力も残っていなかった。 怜司は、少しでも私のことを心配してくれているのだろうか。 ……いや、もうどうでもいい。 残された時間は、あと一日だけ。 翌日、近くの美園食堂の女性スタッフが部屋をノックしてくれた。 澄んだ瞳が印象的な、どこか素朴で温かい子だった。 「あの……うちのオーナーが、よかったらこれをどうぞって」 湯気の立つスープを大事そうに運んできてくれた。 あたたかい善意に、思わず涙がこぼれそうになる。この世に、まだ私みたいな厄介者を気にかけてくれる人がいたんだ―― 感謝して受け取ろうとした、そのとき。突然、咲が現れた。 真っ黒なレザージャケットに身を包み、完璧な笑顔を浮かべている。 「お姉ちゃん、やっと見つけた」 まっすぐ歩み寄ると、女の子を強引に押しのけた。 スープが床にぶちまけられ、熱さに思わず体をよじる。 「ごめんなさいね」咲はわざとらしく頭を下げ、「こういう得体の知れないものは飲まないほうがいいよ」と嘲る。 女の子は怒りに震え、「どうしてそんなことするの?」と睨みつける。 「子供は口を挟まないことね」咲が冷たく言い放つと、少女は怯えて逃げ出した。 「それから、お姉ちゃんの離婚手続きを手伝った弁護士は、もうクビになったよ」咲は何でもないことのように笑う。「家の掟を破った罰だって。怜司さんが自分で追い出したの。 見てみなよ。あんたが無能だから、他人まで巻き込んで不幸にしてるのよ。 今や鷹野家のみんなが、あんたを裏切り者扱いしてる」 その言葉に、世界が崩れていくのを感じた。 私のせいで、助けてくれた人まで傷つけてしまった。 私は、みんなに迷惑ばかりかける存在になってしまった。 「なぜそこまでするの?」声を振り絞って尋ねる。 「だって、私はお姉ちゃんが大嫌いだから!」 咲の笑い声は突き刺さるように鋭い。 「もうすぐ死ぬのに、なんでとっとと消えないの?なんでまだこの辺うろついてるの? 怜司さんが本当にお姉ちゃんを信じてると思う?最初から最後まで、ただのお荷物扱いだったくせに!」 それが、本当の咲だ。誰も知らない完璧な妹の本性。 私は静かに問いかけた。 「咲……私は一度だって、あんたを傷つけたことなんてない。どうしてそんなに私を憎むの?」 「仕方ないじゃん。所詮、赤の他人の子供より、家族の血を引いた娘のほうが価値があるんだよ」咲は見下ろしながら言う。 「私はずっと思ってたんだ。なんであんたみたいな役立たずが、全部手に入れるんだろうって。 跡取りの妻の座も、お父さんの愛も、怜司さんの視線も……全部、本来は私がもらうはずだったのに! あんたが体弱い理由、私にはちゃんとわかってたよ」 咲の目に、底知れぬ悪意がきらめく。 「十二歳からずっと、あんたのサプリに毒を混ぜてた。じわじわとあんたの体を壊してやったんだよ。 服の中の虫も、高台から突き落としたのも、毒入りの薬も、ぜんぶ私がやったんだよ」 怒りで体が震えた。けれど、手を振り上げた瞬間、あっけなく押し倒される。 もう、私の体なんか、まるで役に立たない。 咲はしゃがみ込んで、冷ややかに笑う。 「悔しい?恨めしい?でも、あんたには何もできない。役立たずなんだから! 私に一発入れる力も、もう残ってないでしょ?」 そのまま何度か蹴りつけ、私が床で呻くのを見て、満足そうに立ち上がる。 「あんたが弱っていく姿を見るのが、一番の楽しみだったんだ。 お姉ちゃんが死んだら、怜司さんの隣にいるのは私だけ」 激痛に目の前が暗くなる。 咲はご機嫌で部屋を出ていった。 彼女は気づかなかった。私がベッドサイドに置いたスマホが、今も録音中だったことを。 赤いランプが、静かに点滅していた。 たった今のやりとりが、すべて録音されている。 私は汗まみれの服でどうにか起き上がり、スマホを手に取る。 録音データを確認して、思わず笑った。 やっと、やっと、すべての真実が暴かれる。 人生最後の日。すべてが明るみに出るその瞬間を、私は待っている。 第6話 スマホの録音ファイルを開いて、ためらいなく怜司と両親に一斉送信した。 同時に、家の相談役や幹部たちにもバックアップを送る。 あの音声データには、咲のすべての悪事が克明に残されている。 「高台から突き落としたのも、毒入りの薬も、ぜんぶ私がやったんだよ。 お姉ちゃんが死んだら、怜司さんの隣にいるのは私だけ」 全部、証拠として残った。 そして私は、携帯のSIMカードを抜き、すべての連絡手段を断った。 残り20時間しかない命。やっと、やっと自分の手で何かを成し遂げた。 もう、静かに最後の時間を過ごしたい。 外はすっかり夜になって、安宿の看板がぼんやり光っている。 私はよろよろと部屋を出て、美園(みその)の食堂へと向かった。 この世界で、唯一、私を拒まなかった場所。 10分、20分と歩いて、やっと明かりの灯る小さな店にたどり着く。 窓の向こうで、美園が一人でテーブルを拭いている。その手つきは穏やかで、どこまでも優しい。 「美園さん……」 そっとドアを開けると、美園の顔に驚きと心配が浮かんだ。「澪ちゃん?どうしたの、そんな顔色して」 「……少しだけ、ここにいてもいいですか」 「もちろんよ。ほら、座って。すごく疲れてる顔してる。スープでも作ってあげるから、待っててね」 何も聞かず、ただ静かに食べ物を用意してくれる。 その優しさに、思わず目頭が熱くなった。 やがて熱々の野菜スープが運ばれてきた。 「さあ、これを飲んで。少しは楽になるはずよ」 私は一口ずつ、ゆっくりスープを飲んだ。体の芯まで冷えていたのに、少しだけ温かさが戻ってきた。 美園は、そっと優しく問いかける。「澪ちゃん、どうして家に帰らないの?」 私は静かに微笑んで答えた。「……もう、帰る場所なんてないんです。家族にも、もう要らないって言われましたから」 美園はしばらく私を見つめてから、静かに語り始めた。「ねえ、澪ちゃん。私、昔、あなたと同じくらいの娘がいたの。 でも、ある日突然、事件に巻き込まれて帰ってこなくなったのよ。 もしあの子が生きていたら、きっとあなたみたいに優しくて、綺麗な女の子になっていたと思う」 美園はそっと私の髪を撫でてくれた。 「澪ちゃん、よかったら……私に、少しだけお母さんをやらせてくれない?」 その瞬間、こらえていた涙が一気に溢れた。 こんなふうに、無条件で誰かに愛されたのは、生まれて初めてだった。 美園の優しさは、ただ純粋なものだった。 見返りも条件もない、あたたかな愛情。 「さあ、奥の部屋で少し休みましょう」美園がそっと手を差し伸べてくれる。 案内された部屋はこじんまりとしていたけれど、とても居心地がよかった。 壁には、笑顔の女の子の写真が飾ってある。 美園は私にきれいなワンピースを貸してくれて、そのあと、ゆっくりと髪を梳いてくれた。 「澪ちゃんの髪、本当にきれいね。今夜の月明かりみたい」その声が、やさしく心に響く。 私は美園の肩にもたれ、生まれて初めての安心感に包まれた。 体の痛みさえ、少しだけ遠のく気がした。 「ありがとう、美園さん……」 「何言ってるのよ、こちらこそ。あなたのおかげで、私ももう一度母親になれた気がする」 私は目を閉じて、だんだんと意識が薄れていく。 けれど、不思議と心は安らかだった。 最後の最後に、ようやく本当の家族に出会えた気がした。 美園の静かな声が耳に残る。「ありがとう、澪ちゃん……あなたのおかげで、あの子を思い出せた」 返事をしようとしたけれど、もう言葉は出てこなかった。 ただ、体がふわりと軽くなっていく。 命の灯火が、そっと消えようとしていた。