二度目の人生、私はもう中隊長の夫に執着しない

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二度目の人生、私はもう中隊長の夫に執着しない

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人生をやり直せるなら、私は婚姻届に妹の名前を書くことにした。 今度こそ、陸野軒也(りくのけんや)の願いを叶えてあげよう。 この世界線で...

Chương (1)

第1章

人生をやり直せるなら、私は婚姻届に妹の名前を書くことにした。 今度こそ、陸野軒也(りくのけんや)の願いを叶えてあげよう。 この世界線では、彼より先に妹にウェディングドレスを着せ、婚約指輪を妹の薬指にはめてあげた。 二人が出会うきっかけとなる場面も、すべて私の手で整えていく。 彼が妹を連れて京市(けいし)へ行くと聞けば、私は何も言わずに南へ下り、深南大学(しんなんだいがく)に進学することを決めた。 なぜなら、前世で私は五十を過ぎてもなお、彼と息子は土下座までして私に離婚を求めてきたから。 全ては、彼と妹との最後の縁を成就させるためだった。 二度目の人生、私はもう恋愛に縛られたくない。自由に、空高く羽ばたきたいだけなのだ。 第1話 「名前、書き終わったら渡してくれ」 陸野軒也(りくのけんや)は苛立った様子で机をトントンと叩いた。 私は婚姻届をじっと見つめ、指先でざらつく紙の端をそっと撫でる。心はどこか遠くを漂っていた。 前世の私は、まるで聖なる命令書でも受け取るように、慎重に自分の名前を書き込んだ。それから嬉々として軒也を引っ張って、お祝いのお菓子を買いに行った。 でも、彼は私に怒鳴りつけた。理由は、生理中の相沢慧奈(あいざわ けいな)に黒糖生姜湯を作りに帰るのが急がしかったから。 私は適当に返事をする。「分かった、分かったよ」 ちらりと顔を上げると、彼は焦った顔で何度も腕時計を見ている。 今日の彼は白いシャツを着ていて、袖を肘までまくり上げ、すらりとした前腕が見えていた。 思い出す。慧奈はこの格好が一番好きだった。「こうしてると、清潔感があって素敵」と言っていたっけ。 「用事があるなら、先に行ってもいいよ」 私は胸の奥の苦さを必死に押し隠し、わざと軽い声を出す。「記入が終わったら、私が提出しておくから」 予想通り、彼はほっとした様子で、少しだけ口調も和らいだ。 「心配しなくていい。俺たちは結婚するんだから、責任は取る。 でも、もう二度と慧奈のことでヤキモチ焼いたりしないでくれ。周りに知られたら、慧奈の評判が悪くなる」 私は口をつぐんだ。前世では何度も説明したけれど、彼の目には私はただの嫉妬深くて心の狭い姉に映っていた。 優しくて弱い妹を許せない、そんな女。 彼はそれ以上何も言わず、足早に立ち去った。 私は大きく息を吸い込み、乱れた鼓動を必死で落ち着かせようとした。けれど、脳裏には前世の記憶が何度も何度も蘇る。 新婚初夜、彼は「病気の妹の世話をする」と言い残し、一晩中帰ってこなかった。軍隊への赴任も、慧奈だけ連れて行った。慧奈はまだ京市に行ったことがないからだと。 私たちの息子が生まれた日すら、彼は現れなかった。代わりに、離婚した慧奈の慰めに寄り添っていた。 そして死の間際、息子は枕元で何度も説得してきた。 「お母さん、もうお父さんと離婚して。おばさんには敵わないよ。 お父さんだって、ずっと我慢してお母さんと一緒にいたんだ。もう手放してあげてよ」 私は病床で、冷たい目をした夫を見つめた。彼は一言も発しなかった。 その静寂が、彼の答えだった。 私は唇を噛みしめ、血の味が広がるまで力を込めた。 もう、二度と同じ道は歩まない。 私はペンを取り、婚姻届の申請者欄に、ゆっくりとこう記入した。 相沢慧奈。 軒也、そんなに彼女が好きなら、思い通りにすればいい。 私は記入済みの婚姻届を窓口の人に渡し、結婚証明書を受け取ると、そのまま役所を後にした。 不思議と悲しくはなかった。むしろ、言い知れぬ爽快感が胸に広がっていった。 前世の私は、両親が公務中に亡くなった後、慧奈とともに陸野家に引き取られた。 慧奈は愛嬌も要領もよく、陸野家の両親に実の娘以上に可愛がられていた。 軒也の母は早くから、慧奈を軒也の嫁にと考えていた。 けれど、慧奈の「お姉さんと争いたくない」という一言で、軒也は私を選ぶことに、何の迷いもなかったのだ。 第2話 実際のところ、慧奈は軒也をキープしていただけだった。だって、あの頃の軒也なんて、ただの中隊長にすぎなかったから。もっといい相手が現れるのを待っていたのだ。 私は学校まで足を運び、大学進学に必要な手続きや、生活費がどれくらいかかるのかなど、色々と確認した。その上でようやく安心して帰路についた。 軒也の家族寮に戻ると、ドアを開けた瞬間、慧奈が甘えた声を出した。 「軒也、お姉さんをほっといて私のところに来てくれて……お姉さん怒らないかな?」 「大丈夫、いつだって彼女の相手はできるさ。 でもお前は、生理のたびに辛そうだから、放っておけないんだよ」 慧奈は嬉しそうに笑い、でもすぐにわざと寂しげな顔をした。 「ねえ、軒也、お姉さんと結婚しても、今みたいに私に優しくしてくれる?」 「もちろんさ」軒也はきっぱりと言った。「お前以外に誰を大事にするっていうんだ?」 「もしお前のお姉さんが、お前に冷たくするようなことがあったら……俺は彼女と離婚するよ」 私はギュッと拳を握りしめ、どうにかして胸の痛みを堪えた。 人生をやり直しても、やっぱり、夫がこんなにも冷たくなるのを聞くと、心が痛むものだ。 気持ちを整えて、何食わぬ顔で部屋に入った。 しばらくして、軒也が慧奈の部屋から出てきた。顔には少し気まずそうな表情が浮かんでいる。 「俺は……慧奈の具合が悪そうだったから、ちょっと様子を見てきただけだ」 私はそっけなく「うん」とだけ返し、部屋へ戻ろうとした。 前世では、こういう曖昧な関係に何度も腹を立てて喧嘩した。 でも、今世ではもう、そんなことに時間も気力も使いたくない。 「楓花(ふうか)」彼が私を呼び止めた。 「ちょっと、家族寮のみんなに、結婚祝いのお菓子を配ろうか?」 私は彼を驚いた目で見た。きっと、私が怒らずに静かにしているから、何か埋め合わせのつもりなのだろう。 「別にいいよ、そんな形式だけのこと、必要ない」 彼は一瞬きょとんとした。まさか私が断るとは思わなかったのだろう。 「お姉さん、軒也が私のことばかり気にしてるから、怒っちゃったの?」 慧奈が部屋から出てきて、いかにも傷ついた、無垢な顔をして言った。 しかも彼女が着ているのは――私が結婚写真のためにわざわざ買ったドレスだった。 それは、前世で半年も節約してようやく買った、大切な一着。一度も着ることなくしまっておいた。 私の視線に気付いた慧奈は、慌てて言い訳した。 「今日、お姉さんのベッドの横にこのドレスがあって、可愛いなと思って……ちょっと着てみたかっただけ。脱ぐのを忘れちゃったの」 うつむいて、指をいじりながら、子供のようにしょんぼりしている。 軒也も思わず口を開いた。「楓花、お前は……」 私はそれを遮り、淡々と告げた。「よく似合ってるよ。あげるわ。私、一度も着てないし」 そのドレスから、ほのかに汗の匂いがした。前世のこの夜、泣きながら家に駆け戻ったことを思い出す。 今思えば、本当に嫌な思い出だ。 二人の驚いた視線を背に、私は自分の部屋へ戻って鍵をかけた。 カバンから書類袋を取り出す。中には深南大学の合格通知書が入っていた。 前世から南の土地が好きだった。特に、あの大学の経済学部は私の憧れだった。 前世では、軒也のために学業を諦め、家に引きこもって義両親の世話をした。 でも、今世はまだ間に合う。もう、私の人生は私だけのものにしたい。 カレンダーをめくる。あと十日で、私はこの場所から出て行ける。 時間はない。一秒でも無駄にせず、準備しなければ。 トントン、と突然ドアがノックされた。私は少しイライラしながらドアを開ける。 軒也が、両手でラーメンを持って立っていた。優しい声で言う。 「お腹空いただろ?ラーメン作ったよ」 一瞬、心が揺れた。 前世では、彼が私に優しくしたことなんて、ほとんどなかった。冷たくされたり、傷つく言葉を浴びせられたり、そればかりだった。 第3話 こんなにも優しげな軒也の姿を見るのは、もうずいぶん久しぶりだった。 「結構よ、外で食べてきたから」 「そんなはずないだろ?いつもお金にシビアだったじゃないか」 その一言が、胸にチクリと刺さった。 確かに、私は昔はお金を惜しんでいた。食費も生活費も切り詰めて、バイトで稼いだお金のほとんどを彼のために使って、色々買ってあげていた。 でも、これから私は大学生になる。お金がかかることなんて山ほどあるし、一円だって無駄にはできない。 私は彼を見上げて、落ち着いた声で言った。 「そういえば、数日前に結婚用品を買うよう二万円渡したよね。 あなた買ってないみたいだから、返してもらえる?」 彼は一瞬動きを止めたが、すぐに気まずそうに言い訳した。 「そのお金……慧奈のために靴を買ったんだ」 私は思わず口をへの字に曲げた。本当にこれだもの、呆れてしまう。 「もういい。用はないから、私は寝るね」 「明日ちゃんと返すよ」 彼は少しイラついた声で言った。「俺たち夫婦なのに、そこまで細かくする必要ある?」 私は冷たく鼻で笑った。「じゃあ、私が苦労して貯めたお金で他の女に物を買ってあげても、文句の一つも言っちゃいけないわけ?」 彼は自分が悪いのを分かっているはずなのに、まだ強がって「理不尽だな」とぼそっと呟いた。 私はもう関わる気もなく、バタンと勢いよくドアを閉めた。 数日後、私は家にあるガラクタをいくつか売り払った。前世では思い出が詰まった品々だったけど、今となっては安物のゴミにしか見えない。 全部まとめて、安値で回収業者に売った。手に入ったのはほんのわずかなお金。 午後も引き続き荷物整理をしていると、軒也がやってきた。 手にはあの二万円を握りしめて、ぶっきらぼうに言う。「ほら、返すぞ」 私は黙って受け取って、うなずいた。「ありがとう」 彼は複雑そうな目で私を見て、それから荷物の山に目をやった。 「慧奈を先に連れて、京市に行こうと思う。お前はもう荷造りしなくていい」 私は手を止めずに、軽くうなずいた。 彼は私の態度に戸惑ったのか、少し落ち着かない様子で言った。 「最近……どうしたんだよ。まるで別人じゃないか」 私は煩わしさに顔をしかめ、そっけなく答えた。波風を立てたくなかった。 軒也は私を愛していない。でももし彼が、婚姻届に慧奈の名前が書かれていると知ったら、慧奈のためにまた私と再婚するかもしれない。 そんなクズ男女と、もう二度と関わりたくない。 「別に。ただ荷物をまとめたいだけ。あなたが京市に行ったら、私は田舎に戻るつもりだから」 彼はほっとしたように息をつき、言い訳めいた口調で続けた。 「お前を連れて行かないわけじゃないんだ。ただ慧奈が京市を見てみたいって言うから、しばらく二人で行ってくる。数ヶ月したら迎えに来るさ」 私は上の空でうなずいた。 前世では、八年もの間、彼は私を迎えに来なかった。 慧奈が京市の名家出身の軍官と結婚して、ようやく私を京市に呼んだのだ。 彼は落ち着かない様子で私を見た。 昔なら、二人きりになれば私はずっとおしゃべりしていたのに。 今の私は必要なことしか話さない。それが逆に彼を不安にさせているようだった。 「お前、ずっと結婚写真を撮りたかっただろ?明日写真館に行こうか?」 それは困る。明日は大学生活のための買い物に行く予定なのだ。 私は断る理由を考えていると、慧奈が部屋に入ってきた。甘えるように軒也の腕に絡む。 「軒也、写真館って何?慧奈も一緒に写真撮りたいなぁ」 軒也は笑いながら慧奈の頭を撫でた。「いいよ、明日みんなで行こう」 第4話 「二人で行けば?私、明日用事があるの」 軒也は眉をひそめて言った。「結婚写真より大事な用事なんてあるのか? 先に写真撮ってて。買い物には俺が付き合うから」 彼は強引な口調で、一切の拒否を許さない雰囲気を醸し出していた。 慧奈は甘えるように言う。「ねえ、お姉さん、もしかして、私のせいで行きたくないわけじゃないよね?」 これ以上揉めるのも面倒だったので、私は頷いて承諾した。 朝早く、軒也が慧奈の部屋で、低い声で彼女を起こしているのが聞こえた。 カレンダーの赤い数字が目に入る、あと四日。 四日後には、この生活ともきっぱりおさらばできる。 私はもう待ちくたびれてイライラし始めていた頃、やっと二人はのんびり部屋から出てきた。 軒也はやけに親切に慧奈の顔を拭いてあげていた。 昔の私、本当に馬鹿だった。ただ結婚すれば、彼も私にこんな風にしてくれると、無邪気に信じていたのだから。 ぼんやりしていると、軒也が妙に照れくさそうに近寄ってきて、小さな指輪を手にして言った。 「俺たち、正式な結婚式を行ってないじゃん。だから買ってきた」 私は受け取らなかった。前世ではそんな指輪、そもそも無かった。 慧奈が見るなり、口を尖らせて「わぁ、可愛い!私も欲しい!」と言った。 私はあっさりと「じゃあ、あげるよ」と言った。 途端に軒也の顔が真っ黒になった。「やめろよ、それは俺たちの結婚指輪だぞ!」 慧奈は指輪を奪って自分の指にはめ、軒也に手を振ってみせる。 「軒也、私似合う?」 軒也は慧奈を見て、目に甘さを滲ませながら、馬鹿みたいに頷いた。 そして、気まずそうに私の方をちらりと見て、小声で言う。 「次は、次はちゃんとお前に買うから」 私はどうでもいいという顔で頷いた。 そんな約束、何度も聞いた。けれど、一度だって守られたことはない。 写真館に着くと、まず慧奈が一人で撮影した。しかも、軒也とのツーショットもたっぷりと。 いよいよ私と軒也の番。カメラマンが一度レンズを構えたが、すぐに困ったように言った。 「すみません、フィルムがもう切れちゃって……」 内心ガッツポーズしながらも、顔には何の感情も浮かべずに言う。 「じゃあ、もういいよ」 写真館を出ると、軒也がポケットから切符を一枚差し出してきた。 四日後、京市行きの立ち席の切符だった。 「お前を置いていくつもりはない。先に俺が京市で準備して、お前を待ってる」 ここから京市までは三日三晩。彼は私が立ちっぱなしで大丈夫だと思ってるのか。 しかも、同行できる軍人家族の枠は一人だけ。 私が行ったところで、どこに住めって言うの? 今さら聞いたところで、良い答えなんて返ってこないだろう。 私が切符を受け取ると、軒也はほっとしたように息をついた。 「心配しなくていい。たとえ家族寮に住めなくても、お前は俺の唯一の妻だ。慧奈のことは妹としか思ってない」 彼がこんなに優しい言葉をかけてきたことなんて、今まで無かった。 少しだけ心が揺れる。 その時、角を曲がって一台の車が突っ込んできた。まっすぐ私たちの方へ。 軒也は慧奈を抱き寄せて、素早く身をかわした。 誰かに押されたのか、私はバランスを崩して道に飛び出す。 視界の中、車が私に向かって迫ってきた。けれど、体が恐怖で固まって動けない。 車が急ハンドルを切って、私を跳ね飛ばし、引きずっていく。 激痛で視界が暗くなり、冷たい汗が止まらない。 運転手が慌てて車から飛び出し、おろおろしながら私に尋ねる。 「お、お嬢さん!大丈夫ですか!?」 人だかりが次第にできはじめ、あちこちから指さされたり、ひそひそと噂されたりした。 私はその人混みの向こう、軒也をまっすぐ見据えた。 彼は慧奈を抱きしめ、彼女を必死に慰めている。私のことなど、まるで見えていないかのように。 第5話 もしかしたら気づいていたのかもしれないし、そもそも全く気にしていなかったのかもしれない。 私はかすかに笑みを浮かべた。その瞬間、心に残っていた最後の迷いも跡形もなく消えてしまった。 なるほど、これが彼の言う「これからはお前を大事にするよ」ってやつなのか。 運転手は私を病院まで送ってくれた。一通りの検査を受けた結果、幸いにも外傷と内臓の軽いずれだけで済んだ。 ベッドに横たわる私は、体中が痛むのに、不思議と心は静かだった。 夜も更けた頃、軒也が疲れきった顔で病室に入ってきた。 私が目を覚ましているのを見て、彼の顔には一瞬だけ動揺が走った。 「楓花、体の具合はどう?少しは楽になった?」 私は彼を冷ややかに見つめ、何も言わなかった。 軒也は手をもじもじさせながら、落ち着かない様子で言い訳を始めた。 「慧奈がすごく取り乱してて、だからずっとそばにいてやらなきゃって思って……」 私の視線に気圧されたのか、彼は言葉を止めた。 「楓花、聞いてくれ。あの時は本当に急だったんだ。慧奈が近くにいたから、つい……」 彼は言葉を選ぶように一度止まり、「お前が車にぶつかるなんて、思ってなかったんだ」と続けた。 私は彼の言葉を遮る。「京市には、いつ出発するの?」 彼はおずおずと答えた。「明日」 「わかった。もう休みたいから、出てって」 私は目を閉じ、明らかな追い出しの合図を送った。 軒也は何か言いたげだったが、結局空気を読んで病室を出て行った。 翌日、軒也の母がやって来た。 保温ポットを手に、満面の笑みで「楓花、軒也から聞いたのよ、私がお世話するからって」と話しかけてくる。 「体調はどう?少しは良くなった?」 「だいぶ良くなりました。ありがとう、おかあさん」 軒也の母は私にスープをよそいながら、ぺらぺらとしゃべり続けた。 「軒也もね、ほんとにドジで。慧奈のお世話なんて、できるのかしら……」 ふと、何かに気づいたように黙り込む。 「おかあさん、実は軒也と結婚するのは慧奈なんです」 軒也の母は呆然とした顔で、ぽかんと口を開けた。「な、何て?」 「婚姻届、私が代わりに慧奈の名前で出しました」 一瞬の沈黙のあと、彼女は信じられないといった表情から一転、満面の笑みに変わった。 「楓花、なんて良い子なの!おかあさん、あなたが一番しっかりしてるって、前から思ってたのよ!」 興奮気味に私の手を握りしめ、「楓花、ありがとう!二人のために身を引いてくれて本当にありがとう!」と何度も言った。 私は静かに微笑んだだけだった。 二人のため?ただ自分のために決断しただけだ。 思えば、前世でも彼女は最初から慧奈を気に入っていた。 私がどれだけ尽くしても、結局老後には全ての遺産を慧奈に残したのだ。 「おかあさん、このことは、まだ軒也と慧奈には言わないでください」 軒也の母は大きく頷きながら笑みを絶やさなかった。「はいはい、分かったわ!おかあさん、口は堅いから!」 「それで……これからあなたはどうするの?」 「数日したら、私もどこかへ行くつもりです」具体的な行き先は告げなかった。 彼女はまだ何か聞きたそうだったが、頭の中は二人の結婚のことでいっぱいなのだろう。 私は目を閉じて、眠ったふりをした。 退院の日、誰にも知らせずに病院を後にした。 出発前、私は軒也に手紙を書いた。 【軒也、この手紙を読んでいる頃、私はすでに南へ向かう列車の中です。 あなたがずっと慧奈を好きだったこと、私は知っています。 私は、あなたたちの幸せを願っています。 私たちの縁はこれで終わりです。どうかお幸せに】 手紙と京市行きの列車の切符、それから結婚証明書を封筒に入れ、京市の住所へ送った。 スーツケースを引き、私は静かに駅へと向かった。