愛が消えた時

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愛が消えた時

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医者に「もう手の施しようがない」と宣告されたのは、ほんの数日前のことだった。 肺がんが全身に転移し、余命はわずか三日。 その言葉を聞い...

Chương (1)

第1章

医者に「もう手の施しようがない」と宣告されたのは、ほんの数日前のことだった。 肺がんが全身に転移し、余命はわずか三日。 その言葉を聞いた瞬間、私はすべてを受け入れた。 何もできない。けれど、何かを残したい。 だから、自ら進んで臓器提供の同意書にサインした。 たとえ命が尽きても、私の体の一部が誰かの命を救えるのなら、それだけで十分だと思った。 病を告げられた時、私は家族に正直に打ち明けた。 でも、医者である姉は私がただの被害妄想に囚われているだけだと一蹴した。 「それは精神の問題で、癌なんかじゃない」と。 両親はすべてを姉に任せ、治療の方針も判断も、彼女の言うとおりに進められた。 その結果、私は確実に死に向かっていった。 そして、私が本当に死んでしまったそのとき、ようやく、両親も婚約者も、私の亡骸の前で泣き崩れた。 第1話 私はちょうど病院の入口に差し掛かったところだった。 その瞬間、鋭く突き刺さるような痛みが肺を襲い、思わず足が止まった。 激しい咳が止まらず、呼吸さえもままならない。 壁にもたれ、肩で息をしながら額には汗がにじむ。 そんなとき、背後から穏やかな男性の声が響いた。 「美月?」 佐藤健太(さとうけんた)だった。 私・中村美月(なかむらみづき)の婚約者であり、この町で裏の世界を牛耳るマフィアのボス。 私はとっさに身を引こうとした。 けれど、その前に大きな手が私の手首をしっかりと掴んだ。 「美月、なんでここに?紗季がずっと探してた。あなたはまた病院から抜け出したのか?治療が嫌で逃げたんだろ?」 私は何も言えずに視線を落とした。 中村紗季(なかむらさき)の「治療」なんて、実際はただの虐待だ。 でも、そんなことを言っても誰も信じてくれない。 もうすぐ死ぬ私が何を言っても、無駄にしか思えなかった。 肺の痛みはどんどん酷くなり、私は堪えきれずに身体を折り曲げた。 健太はそんな私を見て、また仮病だと思ったようで、困ったように眉をひそめて言った。 「美月、もうやめようよ。紗季はあなたのお姉さんだよ?あなたを傷つけるわけないだろ?とにかく戻ろう。紗季があなたの被害妄想が悪化してるからって、新しい治療プランを立てたんだ。ちゃんと治療すれば良くなるって」 健太は私の手を引き、強引に診察室へ連れ戻した。 紗季は誰かと話していたが、私の姿を見るなり表情が一瞬だけ歪んだ。 でもすぐに、作り物のような優しさで取り繕った。 「美月、一人で外に出るなんて危ないでしょ?」 私は彼女を見ようともせず、ただ黙っていた。 けれど紗季は気にも留めず、淡々と続ける。 「また発作が起きたのね。私が彼女を傷つけるって思い込んでるの。新しい治療を始めるしかないわ」 「違う!」 私はかすかに否定しようとした。 だが、紗季は私の言葉を遮った。 「やっぱり、治療への抵抗が強いわね。症状が悪化してる証拠だわ。健太、彼女を見張ってて。私は準備してくる」 私は言葉を失い、下を向いたまま涙を流した。 紗季の「治療」は、私を椅子に縛りつけられ、正体不明の薬を次々に注射されることだった。 味覚を失い、咳き込みがひどくなり、食事すら喉を通らない。 しかし両親も健太も、それを「正しい治療」だと信じていた。 私はただ黙って受け入れるしかなかった。 十二歳のとき、私は人攫いに連れて行かれた。 物乞いを強制され、逆らえば殴られ、食事も与えられない日々。 やっとの思いで逃げ出して帰宅したとき、そこには見知らぬ少女がいた。 彼女の名前は紗季。 両親は「美月がいない間、寂しくて……代わりに娘を迎えた」と言った。 姉ができたなら、もっと愛されるだろう、私はそう思った。 でも、現実は違った。 紗季はいつも私の悪口を親に吹き込み、自分は優しく、気遣いのできる理想の娘を演じた。 いつの間にか両親は私を「乱暴で、誘拐されたせいで性格がねじ曲がった子」と決めつけるようになった。 健太も、私の幼馴染で婚約者のはずの彼さえも、知らないうちに紗季を褒めるようになっていた。 帰宅して間もなく、私は咳と血に悩まされるようになった。 呼吸が苦しく、夜は眠れないほど咳き込んだ。 両親は紗季の働く私立病院で検査を受けさせた。 結果は「ただの肺の炎症」で、抗生物質を飲めば治ると言われた。 でも、私は信じられなかった。 あんなに血を吐いているのに? 夜通し咳き込んで、息もできないのに? 何度も再検査を訴えたけれど、紗季は私に言った。 「あなたは精神の病気よ。被害妄想がひどくなってるの」 そして両親は言った。 「紗季は名医だ。彼女の言う通りにするんだよ」と。 私は治療を拒んで何度も逃げようとしたが、そのたびに健太が連れ戻した。 今回も彼は私を責めるように言ってくる。 「紗季はあなたのために、あれだけ頑張ってるのに……それを無視して逃げるなんて、ひどいと思わない?美月、いい子にして、もう騒がないで。ね?」 私は彼を悲しそうに見つめていた。 かつて「ずっとあなたを信じる」と言ってくれた健太に、わずかな希望をかけて。 けれど今の彼は紗季の言葉しか信じていない。 「健太、彼女を縛っておいて。すぐ逃げようとするから」 健太は私に優しく言った。 「美月、治療は辛いって分かってるよ。でもあと少しだけ、頑張ってくれない?三日後は僕たちの結婚式なんだから」 涙が止まらなかった。 心は恐怖でいっぱいだった。 それでも、私は静かにうなずいた。 「うん、治療、受ける」 私は自分からベッドに横たわり、抵抗せず手足を固定されるままにした。 健太は嬉しそうに顔をほころばせた。 「美月、やっと素直になってくれたんだね。本当にえらいよ」 彼が驚くのも当然だった。 以前の私は治療のたびに暴れ、何人もの手で押さえつけなければならなかったのだから。 手首にロープが食い込むたび、私はぽつりとつぶやいた。 「健太……治療、すごく痛いの……」 私はそっと目を閉じ、心の中でこっそり思った。 私が死んだあの日、内臓から出血して、息もできなくなって……きっと、こんなふうに痛かったのかな。 でもわからないのは、治療のときの痛みと死ぬ瞬間の痛み、どっちのほうが辛かったのかってこと…… 健太は去る前に私の頬にキスをしてから言った。 「美月、本当によく頑張ったね。ちょっと痛むかもしれないけど、すぐ終わるから。 美月なら絶対に乗り越えられる。外で待ってるよ」 彼が部屋を出ていったあと、紗季の顔が変わった。 彼女は見下すように私を見つめ、冷笑を浮かべた。 「美月、あのまま乞食でいればよかったのに。なんで帰ってきて私の居場所を奪おうとするの?中村家の娘は一人だけ。健太の婚約者も私だけよ」 私は唇を噛みしめ、何も言わなかった。 紗季は勝手に話を続ける。 「あなた、健太のこと好きなんでしょ?でも、あなたが死んだらどうなると思う?彼は泣いちゃうかな?でも安心して。あなたが死んだら、私がちゃんと慰めてあげる」 そう言って、紗季はボタンを押した。 治療台の下から這い出した電線が、青白い光を放ちながら電流を走らせた。 全身がビクビクと痙攣し、私は必死に叫ぶのを堪えた。 でも紗季は容赦なく出力を上げていく。 「あ!」 ついに悲鳴が漏れたとき、紗季はガーゼを私の口に無理やり詰め込んだ。 私は歯を食いしばり、苦しみながらも必死に耐えた。 焦げた匂いが鼻を刺し、口の中には血の味が広がっていった。 第2話 どれほど時間が経ったのか分からないが、ようやく電流が止まった。 私は全身汗まみれで、大きく息を吐きながら、まるで水の中から引き上げられたかのようにぐったりとしていた。 紗季は私の口に詰めていたガーゼを乱暴に引き抜き、汚らわしそうに床に放った。 「なんで……紗季……」 私は荒い息の合間に、かすれた声で問いかけた。 「私は何を間違えたの?どうしてそんなに私を憎むの?」 彼女は私を見下ろしながら、冷たく吐き捨てた。 「美月……どうして両親があなたを探し出したのか、本当に理解できない。あなたなんか、とっくにいなくなってたのに!一度捨てられたものは、二度と戻るべきじゃないのよ。この世界に余計な人間なんて必要ない!」 そう言い捨てると、彼女はドアを乱暴に閉めて出ていった。 その言葉が何度も何度も頭の中を反響する。 余計な人間。消えるべき存在。 でも私は……私は両親の本当の娘なのに…… 誘拐されたのは私のせいなの? やっと戻ってきた自分の家なのに、帰ることさえ許されないの? 意識が遠のき、私はそのまま気を失った。 どれくらい経っただろうか。 外から紗季の声が聞こえてきた。 「健太、ねえ……今夜、私と一緒にいてくれない?」 ガラス越しに、紗季が健太の首に手を回す姿が見えた。 その仕草はどう見てもただの友達ではなかった。 けれど、健太はすぐに彼女の手を振り払った。 「紗季、僕は前にも言ったはずだ。僕が愛してるのは美月だけだ!僕の心の中には美月しかいない。僕たちはもうすぐ結婚するんだ。頼むから、これ以上距離を詰めないでくれ」 彼はそう言い残すと、振り返ることもなくその場を去っていった。 私は呆然と立ち尽くした。 本当に、健太の心には私だけがいるの? でも、もしそうなら、どうして私の言葉は、彼の心に届かないの? あれほど信じていると言ってくれたのに、どうして紗季の「治療」ばかりを信じて、 私の苦しみを見ようとしないの? もし、彼がいつか気づいたら、この「治療」が、私の命を早く終わらせるものだったとしたら、彼は後悔してくれるのかな…… 胸が切り裂かれるように痛い。 私は静かにドアを閉め、自分の部屋へ戻った。 ベッドの下から、隠していた診断書を取り出す。 肺がん・末期。 その文字が目に突き刺さるようだった。 医者は言った。 「あなたは、あと三日しか生きられません」と。 三日後、ちょうど私と健太の結婚式の日だった。 でも、私はもうその日を迎えることはできない。 私は力なく微笑んで、部屋の整理を始めた。 そこには、健太との思い出がたくさん詰まっていた。 彼と一緒に作った陶器の人形。 不器用な出来で、私は笑い転げたっけ。 初めて二人で見に行った映画のチケット。 私はこっそり日記帳に挟んでいた。 このネックレスは彼が私につけてくれたもの。 「ずっと好きだよ」そう言ってくれた。 思い出が甘ければ甘いほど、現実の痛みは残酷でしかない。 私はそれらをひとつひとつ箱に詰め、涙を拭うことなく、そっと蓋を閉じた。 そして階下へ向かい、食卓についた。 両親はすでに席についていて、紗季の皿に料理を取り分けていた。 私を見ると、父がにこやかに声をかけた。 「美月、早く座りなさい。ごはんが冷めちゃうぞ」 母もにこにこしながら私の皿に料理を盛る。 「そうよ、美月。病人なんだから、たくさん食べなきゃ」 私は無言でうなずき、席についた。 けれど、テーブルの上には紗季の好物ばかりが並び、末期がんの私が口にできるものはひとつもなかった。 私は唇を噛み、箸を置いて言った。 「お父さん、お母さん……話があるの」 「何だい?」父が答える。 「この数日だけ、治療を休んでもいいかな?三日後の結婚式の準備に集中したいんだ」 私の言葉が終わるか終わらないかのうちに、父は眉をしかめた。 「ダメだ。治療は何よりも優先だ」 健太もやさしく言った。 「美月、身体が一番大事だよ。式の準備は僕に任せて、あなたは元気な花嫁になることだけ考えて」 紗季は申し訳なさそうな顔で言う。 「ごめんね、美月……今回の治療は痛みが強くて辛いのよね……」 けれどその目には、私への勝ち誇ったような挑発が浮かんでいた。 父はすぐに紗季をかばった。 「紗季は悪くないぞ。全部、美月のためにやってくれてるんだ。美月、だめよ、治療を休んだら、式の日に倒れるかもしれないじゃないか」 母も同意する。 「そうよ、美月。紗季の言う通りにしなさい。毎日欠かさず治療を受けるのよ。ね、いい子でしょ?」 私は手のひらをぎゅっと握りしめた。 お父さん、お母さん…… もし、あなたたちがこの「治療」が私の命を削ってると知ったら、それでも今と同じことを言えるのかな? そのとき、紗季がにっこりと笑いながら私に近づいてきた。 「さあ、美月。治療の時間よ」 私は反射的に拒否した。 「いや……」 健太の声が少し冷たくなる。 「美月、もうわがまま言わないで。治療はあなたのためなんだ」 父も母も口を揃える。 「そうよ、美月、言うことを聞きなさい。もし聞かないなら、健太との結婚式は延期するよ!」 以前の私だったら、きっと大声で怒鳴り返していただろう。 だって私は、健太のことが大好きで、彼と結婚できることを何よりも楽しみにしていたから。 でも今の私はただ唇を噛みしめ、涙を静かに流す。 私は痛みが怖いんじゃない。 この「治療」が、私に残された三日さえも奪ってしまうのが怖いんだ。 もし、あの治療室に入ってしまったら、私はもう二度と出てこられないかもしれない。あなたたちの顔を見られないかもしれない。 私は、まだ死にたくない。 私が泣いているのを見て、母の目に涙が浮かび、そっと私の頬を拭って優しく囁く。 「泣かないの、いい子ね。治療が終われば、きっと楽になるから……」 紗季は優しさを装いながら、無理やり私の腕を掴み、上の階へと引っ張っていく。 「さあ、行くわよ、美月」 彼女は私の耳元で低く囁く声は、凍るように冷たかった。 「もしまた逆らったら……さっきよりもっと強い電流を流してあげる」 私はとっさに健太の方を見た。 助けて! 心の中で叫びながら、目で訴えた。 でも彼はただ、「頑張れ」とでも言いたげに微笑んだだけだった。 私は実験室に運ばれ、治療台に縛りつけられた。 紗季は注射器を手に取り、声を潜めて言った。 「ねえ美月……末期の肺がんって、どんな気分?どうせ死ぬなら、私の薬の実験台になってくれよ」 そう言って、彼女は薬をぐいっと私の体に注射した。 冷たい液体が血管を流れ、私の意識はだんだんと遠のいていった。 筋肉は痙攣し、全身が痛みに引き裂かれていく。 死ぬのかな。 もう、二度とお父さんにも、お母さんにも、健太にも会えないのかな…… 第3話 再び目を覚ましたとき、私は病室のベッドに横たわっていた。 扉の外から、紗季の声が聞こえてくる。 「健太、ごめんなさい……私も分からないの。美月が急に倒れたのは、たぶん薬のアレルギー反応かも……」 健太の声は少し冷たかった。 「薬のアレルギー?紗季、どうして美月にそんな勝手な薬を使ったんだ?」 「もともと体が弱い子なのに……」 紗季は泣きそうな声で言い訳を続けた。 「そんなつもりじゃなかったの、健太……ほんとに。私だって、美月に元気になってもらって、最高の状態で結婚式に出てもらいたかっただけなの……」 健太はため息をついた。 「今度から気をつけてくれ。美月は病気で体力も落ちてるんだ。無理はさせちゃダメだよ」 それだけ? たったそれだけで、彼は紗季を許したの? 別の医者に診てもらおうとは思わないの? たったそれだけで済ませるの? もしちゃんと検査してくれたら、私が本当に末期の肺がんなのが分かるはずなのに。 胸の奥がぎゅっと締めつけられた。 私はそっと目を閉じ、頬を伝う涙を止められなかった。 でも、たとえ気づいたとしてももう遅い。私は死ぬ運命から逃げられないんだから。 しばらくして、扉が開いた。 健太がそっと入ってきて、私が目を覚ましたのを見て、彼は心配そうに私を見つめた。 「美月、目が覚めたんだね。気分はどう?」 私は首を振ってから尋ねた。 「先生は私の容態なんて言ってた?」 一瞬、彼の目が揺れた。 でもすぐに、無理やり笑顔を作って答えた。 「大丈夫。精神的なストレスで一時的に意識を失っただけだって。ちゃんと治療を続ければ問題ないってさ」 そう。やっぱり、私が紗季を責めないようにって…… そのために、平気で嘘をつけるんだね。 私が黙っていると、健太は話題を変えようとした。 「もうすぐ僕たちの結婚式だよね。さっき式場から連絡があって、ウェディングドレスが仕上がったって。試着に行こうよ」 私はそっとうなずいた。 健太と手を取り合ってバージンロードを歩くことはできないかもしれないけれど、せめてドレス姿を写真に残せたら、それだけでも十分だと思った。 鼻の奥がつんとして、思わず口を開いた。 「健太……私が死んだら、悲しんでくれる?」 彼の表情が一変し、私の手を強く握った。 「美月、そんなこと言わないで。あなたは死なないよ、絶対に」 「でも……もし、死んじゃったら?」 「私、肺がんなんだよ……」 「佐藤さん!紗季先生が倒れました!」 看護師の声が廊下から響いた。 健太は顔色を変え、慌てて飛び出していった。 私の言葉の続きを、彼は聞いていなかった。 私は呆然と彼の背中を見送った。 どれくらい時間が経っても、彼は戻ってこなかった。 私はベッドを降り、ドアまで歩いて行き、通りかかった看護師を呼び止めた。 「健太……どこに行きましたか?」 「佐藤さんは紗季先生の看病をしていらっしゃいますよ」 私は無言でスマホを取り出し、SNSを開いた。 ちょうど更新されたばかりの紗季の投稿が目に飛び込んできた。 そこには、レストランで笑顔を浮かべる彼女と健太が並んで写っていた。 【ずっと来たかったお店、やっと来れた!健太、ごちそうさまでした!】 手が震え、スマホが床に落ちた。 胸の奥がぎゅっと締めつけられ、次の瞬間、私は大きく咳き込み、血を吐いた。 健太…… もし、あなたが私の病状を本当に知っていたら、こんなときに紗季と過ごすことを選んだりしなかった? 私の残された時間があとわずかだと知ったら、少しは後悔してくれるのかな…… 私は痛み止めを飲み、病院を出た。 向かったのは家ではなく、結婚式の準備をしているウェディングプランナーのもとだった。 試着したウェディングドレスは少し緩くなっていて、鏡の中の私は、それでも綺麗だった。 スタッフが私のドレスの裾を整えながら、ぽつりと言った。 「美月さん、本当に細いですね……そこまでダイエットしちゃ体に悪いですよ。何度もサイズを直したのに、今日また痩せたみたいで」 私は笑って誤魔化しながら、心の奥に広がる痛みをどうすることもできなかった。 見ず知らずの他人でさえ、私がやせ細っていくことに気づいてくれるのに。どうして、家族も、健太も、それに気づこうとしないの? ドレスを抱えて帰宅すると、リビングには紗季と健太が並んでソファに座っていた。 二人の表情は険しかった。 私の姿を見た紗季の目が、わずかに冷たく光った。 健太が口を開く。 「美月……あなたが病院に薬剤ミスの報告をしたのか?」 「何のこと?」 「とぼけるなよ」 健太の声が冷たくなる。 「病院に、不適切な薬を使ったっていう告発書類が届いたんだ。こんなことをするのは、あなたしかいないだろ?」 「健太、そんな言い方はやめて」 紗季がかばうように私を見た。 「美月、今回は確かに私のミスだった。けど、病院に告発なんて、あんまりよ…… もし本当に処分されたら、私は医者としての資格を失うかもしれないのよ?」 私は唇を噛み締めた。 私は何もしてないのに。 「私じゃない……」 「また嘘をつくのか!」 健太の怒りが爆発した。 「あなたはいつもそうだ。なんでいつも紗季に突っかかるんだよ?彼女はあなたのお姉さんなんだぞ!」 彼は私の腕を掴み、部屋に連れて行こうとした。 「美月、ちょっと頭を冷やしたほうがいい。ここでしっかり反省して、間違いに気づいたら出てくればいい」 そう言って、私を部屋に押し込み、ドアを閉めた。 私は膝を抱えて座り込み、涙が静かに床に落ちていく。 その中に、赤い滴が混じっていた。 口と鼻から血が溢れ、白いウェディングドレスに広がっていく。 私はそのまま力なく横たわり、視線の先にある時計の針をぼんやりと見つめた。 死まで、あと8時間。 もうすぐ、すべてが終わる。 夜ごはんの前、健太がふと二階の部屋を見上げた。 「美月の様子、見てくるよ」 両親もうなずく。 「行ってあげて。ご飯も持っていって。明日は結婚式だし、空腹じゃ式の最中に倒れちゃうよ」 「待って」 紗季がすっと立ち上がる。 「私が先に食事を届けておいたから、行かなくていいわ」 そして健太の腕をそっと取って、優しく囁いた。 「健太、あなたってすごく優しいけど……だからこそ、美月はその優しさにつけ込もうとするの。今は突き放して、反省させないと、ずっと甘えるわよ?」 健太はしばらく無言で天井を見つめていたが、やがて、静かに座り直した。 「わかった」 翌朝。 健太は早起きして、結婚式の準備に追われていた。 家の中もお祝いムードに包まれている。 出発の時間が迫るなか、両親が言った。 「美月、まだ降りてきてないの?またすねてるのかしら?健太、ちょっと様子を見てきて」 健太は階段を上がりながら、なぜか胸騒ぎを覚えていた。 その違和感はドアの前に立ったときにさらに強くなった。 手を伸ばし、ノブを回す。 扉が開いた瞬間、鼻を突く鉄のような匂いが広がった。 視線の先には、血に染まった純白のウェディングドレス。 そして、部屋の中には、床一面に広がる赤。 息が詰まった。 まるで見えない手が喉元を締めつけるような衝撃。 「美月!」