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死を図る私を、誰もが愛した
神谷朔(かみや さく)が小山奈美(こやま なみ)のために用意したクルーズでの誕生日パーティーは、突如として転覆事故に見舞われた。 朔はた...
Chương (1)
第1章
神谷朔(かみや さく)が小山奈美(こやま なみ)のために用意したクルーズでの誕生日パーティーは、突如として転覆事故に見舞われた。
朔はためらうことなく、私が乗るはずだった救命いかだの最後の空席を奈美に譲った。
水の中でもがく私を見ながら、十か月の妊娠の末に生まれたはずの息子――神谷陽斗(かみや はると)は、泣きじゃくりながら叫んだ。
「ママを上げさせないで!奈美お姉ちゃんが落ちちゃう!」
私は割れた木板一枚にすがりつき、どうにか岸へとたどり着いた。胸の内は、もうすっかり冷え切っていた。
うつ病の診断書を手に、私はただこの命を早々に終わらせてしまいたいと願うばかりだった。
だが、本気で生きる気力を失った私の姿を前に、朔と陽斗はすがりついて泣き崩れる。
「お願いだ、行かないで。お前がいなければ、本当に俺らはやっていけないんだ」
第1話
私は神谷美桜(かみや みおう)。神谷朔(かみや さく)と結婚して三年になる。けれど、生死の境で彼が迷わず選んだのは、幼なじみの小山奈美(こやま なみ)だった。
朔はびしょ濡れになった奈美をそっと抱き上げ、本来は私が乗るはずだった救命いかだの最後の空席に乗せる。その目には隠しきれない労りが宿っていた。
一方、五歳の息子――神谷陽斗(かみや はると)は、私が渡したただ一枚の乾いた服を脱いで奈美の肩に掛け、子どもらしくも大人びた口ぶりで宥めた。
「奈美お姉ちゃん、こわくないよ。ぼくもパパもずっとそばにいるから」
救命いかだの上は、あたかも三人だけの世界のように温かくまとまっている。水の中でもがく私など、まるで存在しないかのように。
「助けて、助けて!朔、助けて」
必死に声を張り上げた私に返ってきたのは、朔の冷ややかな視線だけだった。
「もう席はないんだ。無理に乗ったら、奈美はどうする?」
その言葉を聞いた陽斗は、声を張り上げて泣き叫んだ。
「だめ!ママ乗らないで!奈美お姉ちゃんが落ちちゃう!」
周囲の人々は私に同情の視線を向けていたが、この切迫した状況では、誰ひとり私を乗せようとはしない。
彼らの遠ざかる背中を見送るうちに、胸が張り裂けるような痛みに襲われた。
この瞬間、もう生き延びる必要などないのだと思った。
もがくのを諦めかけたとき、一本の流木が私をすくい上げ、岸へと押し上げてくれた。
再び目を覚ますと、病院だ。
医師が診断書を手に眉を寄せて言う。
「うつ病がここまで重いとは……身体症状も強く出ています」
私はただ病室の天井をぼんやりと見つめる。心はすでに冷え切り、頭の中にはただ「死」の思いだけが暗く澱んでいた。
医師が出ていくと、私は枕元の引き出しから睡眠薬の瓶を取り出した。五十錠──これさえ飲めば楽になれる。
蓋を開け、錠剤をすべて口に放り込んだ。
頭がふわりと霞み、夢の中に沈むように意識が遠のく。
私は静かに背を横たえ、訪れるはずの死をただ待っていた。
次の瞬間、うつ伏せに押さえつけられ、誰かの指が喉をえぐるように突っ込まれた。
「美桜、何を飲んだ!早く、早く医者を!」
胃の奥をえぐられるような吐き気が込み上げ、錠剤が食道を伝って逆流してきた。私は床に吐き散らした。
目を開けると、片桐悠真(かたぎり ゆうま)が背中を絶え間なく叩き、吐かせようと必死に促しつつ怒鳴っていた。
「バカか、お前は。朔に選ばれなかったくらいで、そんな男のために命まで投げ出すのか!」
死にたい一心で、私は彼の手に噛みついた。指先から血が滲んでも、彼は手を離さない。
その間にも医師たちが駆け込み、胃洗浄のための機器を運び入れてくる。
私は必死にもがいたが、結局は押さえ込まれ、ベッドに縛りつけられた。
やがて喉へ管が差し込まれたとき――再び視界の端に、悠真の同情に満ちた眼差しが映った。
悠真は、朔が幼い頃から共に育った親友だ。
だが、朔が家の事情に押されて私と結婚したと知ってからは、何かと理由をつけて私を疎み、孤立させようと仕向けてきた。
去年、陽斗の誕生日に朔に頼まれて悠真がケーキを買ってきた。
私がマンゴーアレルギーだと知っていながら、買ってきたのはマンゴーケーキだった。
私は自分がマンゴーにアレルギーがあるからそのケーキは食べられないと説明した。すると、悠真は陽斗に「お前のママはお前を愛していない。だから一緒に誕生日を祝おうとしないんだ」と吹き込んだ。
陽斗の泣き叫ぶ声は、別荘中に響き渡った。
陽斗に虫歯があるとわかっていながら、悠真は平気で甘い菓子を与えるし、さらに、こっそりゲーム機まで買い与え、幼い陽斗を早くも遊びに夢中にさせてしまった。
私がそれを見つけると、悠真の持ってきたものはすべてまとめて捨てた。
それが陽斗の不満を招き、彼は私の前で泣きじゃくった。
「ママなんて嫌い!これは悠真おじさんがくれたのに、どうして捨てちゃうの!」
そうして、彼の挑発によって、私と陽斗の間には少しずつ深い溝が生まれていった。
その隙を突くように悠真が入り込み、息子の信頼を得ると、私の悪口を吹き込み続けた。そのせいで陽斗は幼い身でありながら、いつの間にか私に反発することを覚えてしまった。
彼はまるで暗がりに潜む幽霊のようだ。
私の生活をめちゃくちゃにかき乱したあげく、今度は何食わぬ顔で救いの手を差し伸べてくる。
第2話
今回の胃洗浄は、私の命を半ば奪いかねないほどだった。
私は干からびた魚のように目に生気のなく、ただベッドに横たわっている。
ベッド脇に悠真が来て、彼は深く息を吸い、震えを必死に抑えた。私に噛みつかれて裂けた手からは、まだ血が滲んでいる。
まるで死線を越えたのは彼のほうだ。
「美桜、命をそんなふうに軽んじていいのか?」
悠真は私に触れようと手を伸ばしたが、何かを思い出したかのように、すぐにその手をぎこちなく引っ込めた。
その顔には、抑えきれない悔しさがにじんで見えた。
今度は何を企んでいるのかを問いかけようとしたとき、彼の顔つきがさっと変わった。
両手をポケットに突っ込み、いつもの癪に障る物言いに戻った。
「言わせてもらうけどさ、なんで薬なんか飲むわけ?そんな小細工で朔が振り向くとでも?逆効果だよ、嫌われるだけ……」
悠真は延々とまくし立て、私の手がそっと枕元の果物ナイフに伸びていることには、まったく気づいていなかった。
刃先を手首に当て、一息に振り下ろす。真っ白なシーツに、赤い滴がぽつ、ぽつと落ちた。
悠真がとっさに刃を握りしめた。鋭い縁が掌を深々と裂いた。
「放して」
私は命じるように叫んだ。
悠真は激痛に顔を歪めながらも、なお刃を握りしめて離さない。
「先にそっちが手を放せ」
刃はさらに肉に沈み、骨に届きそうなほどになっても、彼は決して手を緩めようとはしない。
私はただ死にたかっただけで、誰かを傷つけるつもりはなかった。やがて私はゆっくりとナイフを下した。
彼は血のついたナイフをひったくると、足先で遠くへ蹴り飛ばした。
二度の自殺未遂を経て、悠真はようやく気づいた。これは人目を引くための芝居ではなく、私が本気で死のうとしているのだと。
「自分の命を粗末にするなよ。世の中に男なんていくらでもいる、一人に執着するな」
そして、彼は気まずそうに咳払いをひとつして続ける。
「振り返ってみれば?もしかしたら、誰かがずっとその場で待っているかもしれない」
応急手当を済ませると、悠真は私を連れて別荘へ戻った。
悠真との会話で知ったのは、あの日のクルーズには救命いかだが本来は全員分、用意されていたということだった。
それなのに朔は、最後のいかだを私が壊したせいで、奈美が危うく乗れなかったのだと疑っている。
「まず奈美に謝れ。彼女が許せばこの件は終わりだ。朔の機嫌をなだめてから、離婚の段取りを考えろ」
私は黙ったまま、ただ顔を横に向けて車窓の外を見つめた。
私は見ていた。事故の日、奈美が倉庫へ向かうのを。最後のいかだを壊したのは彼女だ。
今になって事実をねじ曲げ、罪を私に押しつけて、朔の前では可哀想ぶってみせている。
いつだって、奈美の拙い嘘が、朔にとって私を切り捨てる口実になる。
私は、朔と初めて出会った頃のことを思い出した。
あの頃の私はまだ若く、世間知らずだった。ある日、不良たちに路地裏で行き場を失っていたとき、朔が仲間を連れて現れ、私を救い出してくれた。
その瞬間から、私はこの容姿も財も備えた男に恋をした。彼のためなら、すべてを捧げてもいいと心から思った。
奈美が海外へ行き、彼のもとを離れたとき、私は傍らに寄り添った。あの夜、床が酒瓶で埋まるまで飲み明かした。
朔が奈美の踊りが好きと聞けば、私もすぐに舞踏靴を履いた。脚に青あざや紫色の痕ができても、歯を食いしばって練習を続けた。
けれど、自信を胸に彼の前に立ったとき、朔は一瞥もくれず、「所詮は猿真似だ」と冷たく言い捨てて背を向けた。
朔の胃が弱いこと、夜は接待で遅くなることを知ってからは、帰宅の頃合いに合わせて胃にやさしいスープを用意し、好物を工夫して並べた。深夜まで台所に立ち続けても、苦にはならなかった。
おそらく、私の卑屈さが朔に優越感を与えたのだろう。そうして彼は、少しずつ私の存在を受け入れていった。
ある夜、朔は酔った勢いで私を抱き、私は身ごもった。
家のしがらみに追い立てられ、朔は私と結婚した。
それから、彼の私への感情は完全に冷え切った。
私が仕組んで妊娠し、彼を縛ったのだと。
本当に滑稽だ。
あの夜、痛みに耐えながらも、私は彼と幸せな未来を築けると信じていた。
けれど今になって思えば、私のしてきたことはすべて、自分を欺いていただけなのだ。
第3話
私が別荘の扉を押し開けると、奈美が朔の肩にもたれかかり、得意げな顔で気持ちよさそうに肩を揉んでもらっている。
陽斗まで素直に奈美のそばへ寄り、「奈美お姉ちゃん、奈美お姉ちゃん」と甘える声を重ねる。
部屋の空気は、甘さでむせ返るほどだ。
本来なら私の写真が飾られているはずの場所には、今や彼ら三人の「家族写真」が掛けられていた。まるで奈美が朔の妻であり、陽斗の母であるかのように。
私は見なかったふりをして、自分の部屋へ向かった。
だが朔は私の行く手を塞ぎ、低く圧をかける声で口を開く。
「美桜、奈美から聞いた。お前が倉庫に入って、最後の救命いかだを壊したって。拗ねるくらいならまだしも、奈美を傷つけるようなことまでしたのか?美桜、お前には本当に失望した」
私は横を向き、鼻で笑った。
「彼女の言葉を鵜呑みにするの?」
朔は真顔で言い返す。
「奈美が俺を騙すはずがない。お前みたいに卑しい人間じゃないんだ」
船は沈み、証拠は何ひとつ残っていない。奈美の言葉だけで、私が犯人にされた。
そこへ奈美が朔の前に出てきて、私が余計なことを言い出すのを恐れるように彼の袖をつかんだ。潤んだ瞳で、いかにも儚げに言う。
「朔、そんなふうに美桜を責めないで。だって彼女はあなたの妻なんだから、あなたが私に優しくするのを、妬いてしまうのも仕方ないわ……」
――パシン、と澄んだ音が響いた。
奈美の頬に、真っ赤な手形が浮かぶ。
病み上がりで力が戻っていなければ、とっくに三メートル先まで吹っ飛ばしていたのに。
乾いた鋭い音に、場にいた全員が呆然と立ち尽くした。
朔は大きく目を見開いたが、その驚きはすぐに怒りへと変わった。
朔は一気に私の髪をつかむと、力任せに地面に叩きつけた。続けざまに、無数の拳と蹴りが流星のように私めがけて降り注ぐ。
私は身をよじることもしなかった。ただ、このまま朔に打ち砕かれてしまえばいいと思った。
「へえ、それだけしか力がないの?それとも、力は愛人に吸い取られたの?」
朔はまるで挑発に火を点けられたかのように、さらに力を込め、私の腹部めがけて容赦なく拳を振り下ろした。
打撲で私の体は青紫に染まっていく。
少しだけ後悔した――もっと痛みの少ない、あっけない終わり方を選べばよかったと。
次の拳が私の目元へ迫ったその瞬間、悠真の拳が割って入り、それを叩き落とした。
続けざまにもう一撃を叩き込み、朔の体を床にねじ伏せると、そのまま動きを封じ込めた。
私の全身は青紫に覆われ、無傷の皮膚などどこにもなかった。腹の底はぐるぐると煮え返るようで、今にも死ねそうなほどだったのに、悠真のせいでその望みは奪われてしまった。
悠真は朔の上に馬乗りになって押さえつけ、その噴き出す怒りを抑えながら言う。
「お前、分かってるのか?彼女、もう死ぬ寸前だ!お前が殺しかけてるんだ!」
朔はもがき、吐き捨てる。
「それでも自業自得だ。先に奈美にちょっかいを出したのは彼女だ」
「まだ見えないのか?彼女はわざとお前を怒らせようとしている。美桜は重いうつだ。強い自殺衝動がある」
「自殺?そんなことできるかよ。やっと俺の妻の座を手に入れたくせに、手放すものか?」
陽斗も傍らで泣き叫ぶ。
「ママひどい!ママが奈美お姉ちゃんを叩いたんだ!あの人がママなんて嫌だ!」
頭がじんじんとうるさく鳴り響き、私はその騒ぎの隙に階段を上った。
別荘は四階建て。落ちても死なないかもしれない。けれど、芝生の向こうに立つ鋼のフォークが目に入る。あれに貫かれれば、終われる。
私は大きく息を吸い込み、風に髪を乱されるまま身を任せた。
かつては高所が怖かったのに、今は恐怖など微塵もなく、ただ死への期待だけが胸にあった。
私は躊躇なく身を躍らせた。だが、足が地を離れたその瞬間、強い力が私を抱きとめ、再び地面に戻された。
第4話
振り返ると、また悠真だった。
何度も私の死を阻んできた張本人だ。
彼は顔色を失い、荒い息を吐きながら座り込んでいた。まるで残っていた力すら使い果たしたかのように。
「またあなたなの?」
私は眉を寄せて問い返す。
「ほっといて。私がいなくなったほうが、みんなのためだよ」
悠真は歯を食いしばり、手のひらを振り上げて私の顔を叩こうとしたが、ぐっと引っ込めると、代わりに床めがけて力いっぱい拳を打ちつけた。
包帯で覆われていた手のひらの傷が裂け、手はたちまち血に染まったが、彼は痛がる素振りひとつ見せない。
「たった一人の男のために、命を投げ出す価値があるのか?離婚すればいいだけだろう?
美桜、しっかりしろよ。お前が死んだら、お前を大事に思ってくれる人たちはどうなるんだよ」
悠真は両手で私の肩をつかみ、悔しさを湛えた目で私を見つめた
彼の口調が急に柔らかくなり、唇を噛んで私の肩に頭を寄せた。
ほんのわずかに体が震えているのが伝わってきた。
彼は怯えているのだろうか?
少し間を置いてから、悠真は言い続ける。
「俺にどうしろっていうんだ?
お前、俺のことを振り返ってくれよ」
悠真の言葉のすべてを、ちょうど上がってきた朔が耳にしていた。
朔の顔は怒りで青筋が浮かぶ。
次の瞬間、堪えきれず悠真に拳を叩き込んだ。
「お前、ふざけんなよ!ガキの頃から一緒に育って、兄弟みたいに思ってきたのに。どんな女に手を出そうとしてるか分かってんのか?相手は俺の妻だぞ!」
悠真もついに怒りを抑えきれず、長年の親友だったという情けなど顧みずに朔へ飛びかかった。
二人は床に転げ回り、悠真の目は血走り、拳を振り上げて朔に叩きつけた。
「最初に好きになったのは俺だ。大雪のその日、心臓発作で路上に倒れた俺を、病院まで運んでくれたのは美桜だ。
彼女が俺を救ったんだ。なのに、どうして俺の愛した人をお前はこんなふうに踏みにじれる?愛していないなら、なぜそんなにいい顔をしているんだ?
本当に気持ち悪い」
朔は悠真の首をつかみ、怒鳴りつけた。
「気持ち悪いだと?じゃ、人の妻を狙うお前はどうなんだ?そっちの方がよっぽど気持ち悪いだろ」
二人は互いに掴み合い、どちらも一歩も引かず、相手を離そうとはしなかった。
傍らの陽斗は恐ろしくて泣き叫ぶ。
頭が割れそうだ。
静かに死にたいだけなのに、どうしてこんなに難しいのか?
「全部、黙れ!」と私は一喝した。
その声で二人の手は止まり、陽斗の泣き声も止んで、ただ鼻をすするだけになった。
私は悠真の前に歩み寄った。彼の目はどこか落ち着かず、居心地の悪そうな光を帯びている。
私は平然と彼を見返した。感情の波は何一つなかった。
「悠真、あなたの言う愛ってのはただ私をいじめて反発させることだけなのね。そんなものを愛だなんて、笑わせるわ。
もしあのとき、あなたが将来私をこんなふうに扱うって分かっていたら――あの雪の日、置き去りにして死なせておけばよかった。
気持ち悪さで言えば、あなたは朔よりもひどいわ。消えて。二度と目の前に現れないで」
その言葉が、悠真の胸を深く突き刺し、彼の目尻から一粒の涙がこぼれ落ちた。
「俺は……どうやって人を愛せばいいのか分からない。ただ、俺はお前にちゃんと生きていてほしいだけなんだ。
もし俺がいなくなることでお前がもっと幸せになれるなら、俺は身を引くよ」
悠真が去ると、屋上に残っていたのは朔と陽斗だけになった。
「芝居はもう十分だろ?さっさと降りてこい、子どもを驚かすな」
朔はそう言って手を伸ばし、私を引き戻そうとした。
次の瞬間、執事の声が響いた。
「大変です、小山様が気を失われました」
その一言で、朔は手を引っ込めた。
「今すぐ行く!」と叫ぶと、彼は慌ただしく駆け出していった。またしても、私を置き去りにした。
陽斗もそれに続こうとしたが、数歩で戻ってきて、私に針のような言葉を投げつける。
「ひどい!パパをけんかさせて、奈美お姉ちゃんまで倒れさせたんだよ。こんな人、ママなんかじゃない!」
十か月もお腹に抱えて、陣痛に耐えながら産んだその子を見つめながら、思わず感慨に沈んだ。
奈美の影響で、我が子が彼女のために私と袂を分かつまでになってしまった。
どうせ死ぬなら、最後に彼に「贈り物」をしてやろう。――そんな歪んだ思いが胸をよぎる。
「こうしよう。陽斗、奈美お姉ちゃんをあなたの新しいお母さんにしてあげる。いい?」
「ほんとに?」と、彼は潤んだ大きな瞳をぱちぱちと瞬かせた。
私は頷いた。
「本当よ。よく見ていなさい」
陽斗の小さな手を握り、屋上の縁へと連れて行く。子どもは無邪気に私についてきて、このあと何が起こるのかなど知る由もない。ただ、奈美が自分の新しいお母さんになることへの期待だけを胸に抱いていた。
私は彼の憎しみを抱えたまま、その無垢な視線を受け止めながら、屋上から身を投げた。
その一瞬、陽斗は目を見開き、転げるように駆け寄って私をつかもうとしたが、間に合わなかった。
彼が身を乗り出して下を覗いたとき、私の身体のまわりに広がった血は花火のように四方へ散り、緑の芝生を赤く染めていった。
それが、彼に贈る私からの最後の贈り物だ。