一つの林檎のため、私は母を捨てた

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一つの林檎のため、私は母を捨てた

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うちの母親は料理を一切しないくせに、私・松浦美月(まつうら みづき)を一流のシェフに育て上げようと躍起になっている。 お菓子を作ってい...

Chương (1)

第1章

うちの母親は料理を一切しないくせに、私・松浦美月(まつうら みづき)を一流のシェフに育て上げようと躍起になっている。 お菓子を作っていると、私がマンゴーアレルギーなのを知っているのに、ただのわがままだと思い込んでいる母は、私が使おうとしている材料に無理やりマンゴージュースを加えようとする。 私がそれを使おうとしないと、母はすぐに不機嫌な顔になる。 「こんなに材料を買ったのに作らないの?もったいないじゃない!」 案の定、私はマンゴーに触れたせいで病院送りになったが、それでも母からは責められる始末だ。 「自分の体の面倒も見られないの!いい大人して、食べちゃいけないものくらい分かるでしょう?」 またある時は、私が豚の角煮を作ろうとすると、母はまた横で腕を組んで指図を始めた。 私が包丁を手に肉を塊に切ろうとした途端、母は私の手をぐっと押さえつけた。 「違う違う!角煮は薄く切らないと味が染み込まないでしょ!」 「でも、角煮って……」 母はそんなことお構いなしに、私に無理やり肉を薄切りにさせた。結果、出来上がったのはどっちつかずの中途半端な代物だった。 その後、私が和食を学ぼうが、フランス料理を学ぼうが…… 何を作ろうとも、母は口を出して仕切りたがった。 今回は勇気を出して、こっそり料理コンテストに申し込んだというのに。 家に帰ると、母はジャム作りに使うはずだった青リンゴを、すでにふじりんごに替えてしまっていた。 冷蔵庫にぎっしりと詰まった、母が「苦労して」買ってきた様々な食材と、食卓にぽつんと置かれた一個のふじりんごを見つめる。 私はため息をついた。 どうやらこのリンゴ一つのために、私は母を捨てるしかないようだ。 第1話 うちの母親は料理を一切しないくせに、私・松浦美月(まつうら みづき)を一流のシェフに育て上げようと躍起になっている。 お菓子を作っていると、私がマンゴーアレルギーなのを知っているのに、ただのわがままだと思い込んでいる母は、私が使おうとしている材料に無理やりマンゴージュースを加えようとする。 私がそれを使おうとしないと、母はすぐに不機嫌な顔になる。 「こんなに材料を買ったのに作らないの?もったいないじゃない!」 案の定、私はマンゴーに触れたせいで病院送りになったが、それでも母からは責められる始末だ。 「自分の体の面倒も見られないの!いい大人して、食べちゃいけないものくらい分かるでしょう?」 またある時は、私が豚の角煮を作ろうとすると、母はまた横で腕を組んで指図を始めた。 私が包丁を手に肉を塊に切ろうとした途端、母は私の手をぐっと押さえつけた。 「違う違う!角煮は薄く切らないと味が染み込まないでしょ!」 「でも、角煮って……」 母はそんなことお構いなしに、私に無理やり肉を薄切りにさせた。結果、出来上がったのはどっちつかずの中途半端な代物だった。 その後、私が和食を学ぼうが、フランス料理を学ぼうが…… 何を作ろうとも、母は口を出して仕切りたがった。 今回は勇気を出して、こっそり料理コンテストに申し込んだというのに。 家に帰ると、母はジャム作りに使うはずだった青リンゴを、すでにふじりんごに替えてしまっていた。 冷蔵庫にぎっしりと詰まった、母が「苦労して」買ってきた様々な食材と、食卓にぽつんと置かれた一個のふじりんごを見つめる。 私はため息をついた。 どうやらこのリンゴ一つのために、私は母を捨てるしかないようだ。 大型連休の初日、私は新幹線で実家へ向かった。ドアを開けるなり、食卓に置かれたふじりんごが目に飛び込んできた。 心臓がどきりとして、私は母に尋ねた。 「お母さん!予約してた青リンゴは?スーパーから電話なかったの?」 母はテーブルを拭きながら、顔も上げずに答えた。 「ああ、スーパーから昨日電話があったわよ。取りに行ったんだけど、青リンゴは酸っぱすぎるじゃない。 歯ごたえも悪いし、ふじりんごに替えてもらったの。見て、このふじりんご、立派でしょう。大きくて甘くて、絶対美味しいわよ」 そう言いながら、母はふじりんごを一つ手に取って拭くと、私の目の前に差し出した。 「ほら、食べてみなさい。青リンゴよりずっと美味しいから」 差し出されたふじりんごを見て、私は怒りで指先が震えた。 料理コンテストのアップルパイに使うために、あの青リンゴを買ったのだと、あれほど繰り返し強調したのに。 ふじりんごは柔らかくて煮崩れしやすいから、ジャムには向かないのに。 その時は分かったと頷いていた母が、結局は私の青リンゴをふじりんごに替えてしまったのだ。 小さい頃から、母は一度だって私の選択を尊重してくれたことがない。 私は昔からマンゴーアレルギーだ。 それなのに母は、私が作るお菓子にいつもマンゴージュースを加えたがった。 私が使わないでいると、小言を言い始める。 「こんなに材料を買ったのに作らないの?もったいないじゃない!」 私がマンゴーを脇にやけると、今度はそれをジュースにして、私の材料に混ぜ込むのだ。 ある週末、私は新しいお菓子の試作をしていた。 何も考えずにジュースを少し加えたが、色を見て何かがおかしいことに気づいた。 私のパイナップルジュースが、マンゴージュースにすり替えられていたのだ! 私は思わずボウルをテーブルに叩きつけ、なぜまたこんなことをするのかと問い詰めた。 すると母は、心外だという顔でこう言った。 「あなたのためを思ってやったんじゃない。マンゴーは甘いんだから、パイナップルより美味しいお菓子になるに決まってるでしょ!」 私は怒りと焦りで頭に血が上り、悪びれもしない母の様子にカッとなって、残りのマンゴージュースを全部ボウルに注いでしまった。 案の定、十分も経たないうちに、マンゴージュースに触れたせいで全身が赤く腫れ上がり、呼吸さえ苦しくなってきた。 私はその夜のうちに病院へ運ばれた。点滴を受けている間、母はベッドのそばに座り、心配の一言もなく、ため息をついてこう言った。 「わがまま言うからこうなるのよって言ったでしょ。おかげで入院費までかかって、本当に自分の体を大事にしないんだから」 第2話 あの時の私は、病院のベッドの上で、心が冷え切り、あまりの悔しさに一言も発することができなかった。 今、テーブルの上のふじりんごを見ていると、この数年間、どこにでもあったマンゴーの姿と、病院のベッドで受けた非難の言葉が蘇ってくるようだ。 十数年も溜め込んできた悔しさと怒りが、この瞬間、堰を切ったように溢れ出し、私は拳を固く握りしめた。声が、抑えきれずに震える。 「お母さん、一度でいいから私の言うことを聞いてくれるの?」 私の怒鳴り声を聞いて、母はリンゴを拭いていた手をぴたりと止めた。 彼女は私をちらりと見やると、少し口の端を歪めて、馬鹿にしたように言った。 「酸っぱいだけの青リンゴが、ふじりんごより美味しいわけないでしょ?あなたのためを思ってやってるのよ。作ったって誰も食べなかったら困るでしょうが!」 その声には謝罪の気持ちなど微塵もなく、私が繰り返し強調した言葉など、まるで意に介していないようだ。 私が口を開き、何かを言い返そうとした時、父が書斎から出てきた。 父はこわばった私の顔と母の手にあるリンゴに目をやると、すぐに駆け寄り、いつものなあなあな態度で私の肩を叩いた。 「大したことないじゃないか。たかがリンゴ一つだろう?お母さんも良かれと思ってやったんだから、そんなにムキになるなよ。家族なんだから、波風を立てるな」 「良かれと思って?」 私は父の手を荒々しく振り払った。声が、思わず大きくなる。 「お母さんはいつだってこう!私がマンゴーアレルギーなのに、毎日マンゴーを買ってきて無理やり作らせようとするし、料理もできないくせに、いつも私のそばで指図ばっかり!」 私の言葉が終わらないうちに、母は「バン!」とリンゴをテーブルに叩きつけ、寝室へと足早に消えていった。 分かっている。また、あの手で怒ってみせるのだ。 小さい頃から、母はいつもこの方法で私を思い通りにしてきた。 昔は私も幼くて、その手にまんまと乗せられていた。 でも、もう私は大人だ。これ以上、我慢するつもりはない。 私は踵を返し、家を飛び出してスーパーへ向かった。 風が顔に当たって少し痛い。けれど、頭の中は母のあの馬鹿にしたような表情と、父のいつものなあなあな言葉でいっぱいだった。 「我慢すればいいじゃないか、お母さんは君のためを思ってやってるんだから」 「そんな些細なことで、事を荒立てるなよ……」 結局、自分の身に降りかからないと、痛みなんて分からないのだ。 考えれば考えるほど喉が詰まるような怒りがこみ上げてきて、私は冷たい顔でスーパーに入った。 店に入るなり、私は果物コーナーに直行した。 遠くからでも、山のように積まれた青リンゴが見えた。先週、私がわざわざスーパーに予約しておいた、あの青リンゴだ。 私はそこへ歩み寄り、屈んで青リンゴを二箱抱え上げ、カートに入れた。 体を起こした時、ふと隣の棚にある輸入アメリカンチェリーが目に入った。暗赤色の果実が一粒一粒、つややかに実っている。 その瞬間、大学を卒業したばかりの頃を思い出した。 会社からスーパーの商品券をもらい、私はお正月用に奮発してアメリカンチェリーを買った。 そのことを母に知られると、私は無理やりスーパーに引きずって行かれ、その二箱のアメリカンチェリーを返品させられ、安くて量の多いリンゴとバナナに替えさせられた。 「こんな高いもの、一口でなくなっちゃうじゃない。食べたって何になるの?リンゴに替えれば、どれだけ持つと思ってるのよ!」 あの時、私は俯いて、母がスーパーの店主と言い争っているのを見ていた。「食べたい」という言葉を飲み込んだけれど、心の奥の渇望だけが、小さな虫のように、何年も這いずり回っていた。 今、私はアメリカンチェリーをじっと見つめると、手を伸ばし、大きなパックを二つ、ためらいなくカートに入れた。 「お嬢さん、旬の特売オレンジはいかが?入荷したてで、とっても瑞々しいわよ!」 スーパーの店員のおばさんが、オレンジでいっぱいのワゴンを押しながら近づいてきて、カットされたオレンジの一切れを私の前に差し出した。 第3話 一口食べてみると、想像通りの甘さだった。 しかし次の瞬間、母の声が突如として耳元で蘇った。 「オレンジは体に熱がこもるから、食べすぎると口内炎ができるのよ。毎回半分までしか食べちゃダメ!」 昔はいつも素直に言うことを聞いて、どんなに食べたがっていてもそれ以上は食べなかった。でも今、店員のおばさんの手にあるオレンジを見ていると、心の底からまた怒りが込み上げてくる。 どうして母はいつも、私が何を食べられて、何を食べられないのかを決めつけるのだろう? 「おばさん、このオレンジ、三袋ください」 私はカートの中を見下ろした。青リンゴ、アメリカンチェリー、オレンジ…… 色とりどりの果物が、カートの取っ手から溢れんばかりに積まれている。まるで、昔の自分を慰めているかのようだ。 私はカートを押してレジに向かった。今回ばかりは、ようやく自分で決められるのだ、と心の中で思った。 しかし、レジで思わぬ事態が起きた。 私はスマートフォンを取り出し、決済アプリを開いて、支払い用のQRコードを読み取った。 しかし、画面には何度やっても「取引失敗」と表示されるだけだった。 電波が悪いのかと思い、もう一度試したが、結果は同じだった。 列に並んでいた他のお客さんたちが小声で話し始め、何人かがこちらを覗き込んでいる。私の顔は一気に熱くなった。 「他のお支払い方法はいかがでしょうか?」レジ係の声には、少し遠慮が滲んでいた。 私は頷き、急いでバッグの中からキャッシュカードを取り出して手渡した。 POS端末が「ピッ」と音を立てたが、すぐに画面に一行の文字が浮かび上がった。 【カードの状態が異常です。ご利用になれません】 一体どういうこと? 給料は振り込まれたばかりなのに、どうして支払いができないの? 私は一旦レジの列を離れ、後ろのお客さんに先を譲ってもらうと、銀行のカスタマーサービスに電話をかけた。 電話が繋がり、私は早口で本人確認を行い、カードが使えない理由を尋ねた。 受話器の向こうから、優しくも冷たい声が聞こえてきた。 「お客様、お調べしましたところ、お客様名義のすべてのキャッシュカードおよびクレジットカードは、三十分前に利用停止の申請がされておりました。利用停止理由の備考欄には『カード紛失』と記載されております」 「紛失?」 私は思わず声を荒げた。周りの人々がまたこちらを見ている。 「カードは失くしていませんし、利用停止の申請なんてした覚えもありません!」 「申し訳ございません。システム上、利用停止申請はお客様ご本人の実名認証情報を用いて提出されております。もしご本人様による操作でない場合は、お早めに最寄りの支店にてご確認の上、関連手続きを行っていただくことをお勧めいたします」 カスタマーサービスの言葉は、まるで冷水のように私の背筋を凍らせた。 三十分前、私はスーパーで果物を選んでいた。私以外に、誰が私の情報を使ってカードを利用停止にできるというの? その答えはほとんど瞬時に頭に浮かび、私は全身が冷たくなった。 電話を切り、事態を飲み込めないでいると、スマートフォンが震えた。母からのメッセージだった。 開いてみると、そのメッセージは棘を含んでいた。 【どうせかんしゃく起こして無駄遣いすると思ったわ。こんな果物、高くて実用的じゃないんだから。あんたのカード、利用停止にしといたから、もう好き勝手できないでしょう。さっさと品物戻して家に帰りなさい。外で恥をかかないで】 最後には「お仕置きよ」といったニュアンスのスタンプまで付いている。まるで私が、彼女の一言で言いなりになる子供のままだとでも思っているかのようだ。 怒りが一瞬にして頭に血を上らせ、私はすぐに母に電話をかけた。力を込めすぎて、指が白くなっていた。 しかし、呼び出し音は一度鳴っただけで、すぐに切られてしまった。 諦めきれずにもう一度かけると、受話器から聞こえてきたのは、機械的なアナウンス音だった。 「おかけになった電話は、ただいま通話中です。しばらく経ってからおかけ直しください」 一度、二度、三度…… 第4話 同じアナウンスが繰り返される。スマートフォンを握る手が、震え始めた。 そうか、母はすべてお見通しだったのだ。私のカードを利用停止にして、メッセージで挑発し、電話を拒否する。そうやって私の退路を断ち、頭を下げて屈服させようとしているのだ。 小さい頃から、母はいつもこうだった。「あなたのため」という言葉を盾に、最も自己中心的な行いをし、私の反抗をその支配下に踏みにじる。 スーパーの冷房が肌を撫でるが、胸は息苦しいほどに締め付けられていた。 カートに山盛りの果物を見つめ、自分がまるで道化のようだと思った。 私は深呼吸して喉の奥の嗚咽を抑え込むと、カートを押してレジに戻り、店員に無理やり引きつった笑顔を向けた。 「すみません、ちょっと事情があって、いくつか品物を戻さないと」 私は棚の前にしゃがみ込み、三袋のオレンジを元の場所に戻した。そして、あの大きなアメリカンチェリーのパックを二つ手に取る。昔、母がチェリーを返品した時の、あの心の喪失感は、昨日のことのようにはっきりと覚えている。 しかし今、私は歯を食いしばり、それらを冷蔵ケースに戻すしかなかった。 バッグの隅々まで探って、やっと六千円ほどの現金を見つけ出した。ちょうど青リンゴ代には足りる。 店員が袋を手渡してくれた時、冷たいビニール袋に触れて、ふと鼻の奥がツンとした。 私が望んでいたものは、決して多くない。ただ、誰にも干渉されずに何かを選ぶという、ささやかな自由だけ。 それなのに、何年も、こんな些細なことさえ叶わなかった。 支払いを終え、私は果物を提げて近くの銀行の支店へと直行した。 ガラスのドアを押し開け、カウンターへと早足で向かう。身分証明書と異常の出たキャッシュカードを差し出し、まだ少し震える声で言った。 「すみません、カードが悪意のある第三者によって利用停止にされたようなんです。私本人が操作したものではありません。新しいカードを再発行したいのですが」 行員は私の情報を確認し、再発行の手続きを進めてくれた。 「確かに、お客様の情報で利用停止の申請が出されておりますね。ご心配なく。今すぐ再発行の手続きができますので、一週間後のこの時間には新しいカードをお受け取りになれますよ」 その答えを聞いて、張り詰めていた心がようやく少しだけ軽くなった。 申込書に記入し、控えを慎重にバッグにしまうと、私は踵を返して銀行を出た。 外の風は、先ほどよりも一層冷たく感じられた。私は果物を提げ、通り沿いをゆっくりと歩きながら、心に一つの思いだけを巡らせていた。 もう、ここにはいられない。 私はスマートフォンを取り出し、チケット予約アプリを開き、一週間後の一番早い新幹線で自分の住む街へ帰る切符を予約した。 すべてを終え、空の夕焼けを見上げると、心は急にずっと軽くなっていた。 一週間後、新しいカードを受け取ったら、私は完全にここを離れる。もう二度と、誰にも私の人生に指図させたりしない。 一週間後の朝早く、まだ眠りから覚めきらないうちに、寝室のドアが乱暴に開けられ、私は一瞬で飛び起きた。 目を開けた瞬間、全身の血が凍りつくかと思った。 母が、見知らぬ中年男性を連れてベッドのそばに立っていた。 男は四十歳前後で、私を見るなり、その視線は私の体に釘付けになった。 私ははっとして視線を落とし、自分がゆったりとしたコットンの寝間着一枚で、襟元が肩までずり落ち、腕もすねも剥き出しになっていることに気づいた。 羞恥と恐怖が一瞬で私を捕らえ、私は慌てて布団を掴み、体に固く巻き付けながら、甲高い悲鳴を上げた。 「お母さん!どうやって入ってきたの?!」 しかし母は、私の狼狽ぶりなど目に入らないかのように、その男に親しげな笑顔を向けた。その口調は、まるで私の方が部外者であるかのように馴れ馴れしかった。 「翔悟(しょうご)さん、うちの娘です。寝坊が好きで、今日はお恥ずかしいところを」 そう言うと、彼女は私の方に向き直り、その目には有無を言わせぬ催促の色が浮かんでいた。 第5話 「田村おばさんが、わざわざあなたのために紹介してくれた方よ。翔悟さんは公的機関にお勤めで、お給料は毎月きちんと出て、福利厚生もしっかりしてるのよ。 わざわざ上司にお願いしてお休みを取って会いに来てくれたんだから、早く起きて着替えて支度しなさい。後でそこの角のレストランでご飯にしましょう」 「会いにきたって?」 私は自分の耳を疑った。怒りが心の底から一気に込み上げ、先ほどの狼狽を押し流していく。 私は布団の端をめくり、ベッドから降りて二人を部屋から追い出そうと、声を張り上げた。 「出て行って!まだ着替えてないの!誰がノックもせずに部屋に入れなんて言ったの?会いたい人なんていないわ!」 母の顔から笑顔が消え、代わりに怒りの色が浮かんだ。彼女は一歩前に出て、私の布団を剥ぎ取ろうとする。 「お客さんに対してなんて口の聞き方なの?翔悟さんと上手くいけば、家族になるのよ。見られて困るものなんてないでしょう? もうすぐ三十路にもなるのに、毎日外でふらふらして、相手もいないくせに、まだそんなに物分かりが悪いの!」 その時、父も部屋に駆け込んできた。彼は部屋の散らかり具合に目をやると、慰めの言葉一つなく、眉をひそめて母に加勢した。 「君のためを思って言ってるんだぞ。見てみろ、都会でボロい部屋を借りて、その日暮らしじゃないか。翔悟さんはこんなに条件がいいんだ、一度会うくらいどうってことないだろう?いつまでも子供みたいに拗ねるな。わがままにも程があるぞ」 私は父のその当たり前だというような顔つきと、翔悟と呼ばれた男を見た。 彼は気まずそうな素振りも見せず、逆に母に頷いて同意している。 「おばさん、そんなに怒らないでください。大丈夫ですから。私はリビングで彼女が支度するのを待っています。急いでいませんから、急かさないであげてください」 その瞬間、私の心の中に残っていたこの家への最後の未練が、粉々に砕け散った。 彼らは一度も私が何を望んでいるか尋ねたことがなく、一度も私の境界線を尊重したことがなく、私が持つ唯一のプライベートな空間でさえ、好き勝手に踏み込み、破壊する。 私は深呼吸をして喉の奥の嗚咽を抑え込み、冷たく言い放った。 「分かったわ、支度するから。先に外に出て」 母と父は私が「折れた」のを見て、ようやく表情を和らげ、翔悟を連れて寝室を出て行った。 私は素早くベッドの脇に置いてあった服に着替え、昨日からまとめてあったスーツケースを引き寄せると、身分証明書とキャッシュカードの再発行控えがバッグに入っていることを確認した。 ほどなくして、ドアの外から母の声が聞こえてきた。 「翔悟さん、先に下で待ちましょう。あの子にも早くするように言っておきますから。お待たせするのも悪いですしね」 そして、足音が次第に遠ざかっていく。 これが、私にとって唯一のチャンスだと分かった。 私はスーツケースを手に、そっと寝室のドアを開け、リビングに誰もいないことを確認すると、足早に玄関で靴に履き替え、ほとんど逃げるように外へ飛び出した。 私は団地の入り口まで早足で歩き、タクシーを捕まえて新幹線の駅へと直行した。 新幹線に乗り込もうとしたその時、突然スマートフォンが鳴った。母からの電話だった。 私が電話に出ると、受話器からすぐに母の甲高い怒鳴り声が聞こえてきた。 「どこへ行ったの?翔悟さんがまだ下で待ってるのよ!また拗ねてるんでしょう?さっさと戻ってきなさい!」 私は受話器に向かって冷笑した。 「もう戻らない。あなたは人の話が聞けないんでしょう?なら、これからは、もう私に話す必要もないわ」