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みんな、さようなら
その日は私――高瀬晴香(たかせ はるか)の誕生日だった。 恋人の田川雅人(たがわ まさと)と、海辺で一緒に花火を見に行けると思っていた―...
Chương (1)
第1章
その日は私――高瀬晴香(たかせ はるか)の誕生日だった。
恋人の田川雅人(たがわ まさと)と、海辺で一緒に花火を見に行けると思っていた――
けれど彼は、朝倉奈美(あさくら なみ)とその子どもを連れてきた。
「奈美は子ども連れで大変なんだ。少し気をつかってあげて。
道にも不慣れだし、荷物も多いから、俺が先にホテルまで送ってくる」
雅人はまるで取るに足らないことでも説明するように、あっさりと言った。
こんな優しさの前では、怒る私のほうが理不尽に見えてしまう。
彼は二人を車に乗せ、子どもには自らシートベルトを締めてやった。
そして私に向かって、穏やかに笑いながら言った。
「すぐ戻るから。余計なこと考えるなよ」
三人は、まるで家族のように去っていった。私は道端に立ち尽くし、ただ見送った。
夜の気配が降りて、海風が肌を刺すほど冷たい。
私はまだ待っていた――スマホ画面に奈美の動画投稿が流れてくる、その瞬間まで。
雅人は奈美の娘を腕に抱き、海辺で花火を見上げている。
それは本来、私が自分の誕生日のために用意していたものだった。
コメント欄はこうだ。
【ほんとお似合い。幸せそうな三人家族】
誰かがどうして私を迎えに行かないと雅人に尋ねた。
彼は笑って答える。
「晴香は気が長いし、怒らないから」
その瞬間、ケーキは溶けて、とろりと崩れていった。
彼は冷たい人ではない。ただ、あまりにも確信していた――
私はいつまでも待っている、と。
けれど、優しさの中で放っておかれる時間が長くなれば、心だって冷えていく。
波が岸を打つたびに、私の最後の幻想も砕けていく。
今度こそ、私はもう、彼の帰りを待たない。
第1話
それは、私――高瀬晴香(たかせ はるか)が丸一か月かけて計画した、海辺で過ごす誕生日旅行だった。
その日くらいは、恋人の田川雅人(たがわ まさと)が私のことを気にかけてくれる――そう思っていた。
海沿いのヴィラを前もって押さえ、レストランも選び抜き、花火が見えるディナーまで特別に予約しておいた。
それは私と雅人だけの、ロマンチックな旅になるはずだった。
出発の日、チャイムが鳴る。
扉を開けると、玄関に立っていたのは朝倉奈美(あさくら なみ)。彼女の腕の中には、四歳の娘美桜(みおう)を抱いている。
「雅人がね、この辺の海を案内してくれるって。ついでに、子どもにも外の空気を吸わせたいって」
奈美は白いシフォンドレスをまとい、隙のないメイクにブランドのバッグ。その姿は、休暇というより撮影にでも行くかのようだ。
彼女は笑みを浮かべて言葉を足す。
「私も、さすがに悪いかなって言ったの。お二人の予定を邪魔しちゃうし。でも雅人が、あなたがいいって言ってくれたって」
私は一瞬、固まった。
そんなこと、言っていない。
階段を下りると、雅人の車がすでに家の前に止まっていた。
雅人の友人が二人、後部座席に座っている。奈美の娘は助手席にもたれかかり、手を伸ばして言う。
「おじさん、だっこして――」
雅人は笑ってその子を抱き上げ、やわらかい声であやした。
「気をつけて。転ばないようにね」
一瞬、いつものように優しい彼が他人のように見えた。
ドアが開き、席はもうすべて埋まっている。
車内には、気まずい沈黙が漂っている。
友人のひとりがすぐに席を立ち、言う。
「じゃあ、俺たち降りるか?晴香を一人で待たせるのもなんだし」
奈美はすぐに手を振り、優しくて気づかいのある口調で言う。
「いいのよ。私と美桜は行かないわ。先に行って。晴香をひとりで暑い中待たせるなんて、かわいそうだから」
少し間を置いて、彼女はさらりと言葉を足す。
「美桜は今夜の海辺の花火をずっと楽しみにしてたの。雅人、写真と動画、たくさん撮って送ってくれる?この子が見たいから」
その瞬間、彼女の気の利き方は、妙にちょうどよかった。気づけば、場違いなのは私のほうになっていた。
雅人は眉間にしわを寄せ、わずかに不機嫌な調子で言う。
「もういい、押しつけ合うなって。たいした距離じゃないし、俺が先に送ってくる」
そう言ってから、彼は私に目を向け、声色を和らげた。
「奈美は子ども連れで動きづらいんだ。ここで待っててくれる?すぐ戻るから」
私は彼を見つめながら、ゆっくりと手のひらを握りしめる。
彼の顔に浮かぶ、あの確信――私が怒らないという確信、いつでも分別を守るという確信――が、息苦しかった。
「雅人」
私は小さく彼を呼びかけた。これが本来、私の誕生日旅行なのだと、気づいてほしかった。
けれど彼は小さくため息をつき、気まぐれな子どもをあやすみたいに言う。
「晴香、もういいって。彼女は子どもを連れてるんだ。本当に不便なんだよ。君はいつも一番、分別があるから分かってくれるだろ?」
そう言って、彼は一瞬だけ私を見つめ、ほんのわずかにためらった。まるですぐ戻るという言葉で、自分を納得させようとしているように。
その瞬間、鼻の奥がつんとした。
「分別がある」という言葉は、彼が私を無視することを正当化するための言い訳なのだ。
そばにいた友人たちが視線を交わし、ためらいがちに言う。
「雅人、やっぱり彼女も一緒に連れて行ったほうがいいんじゃないか?こんな日差しの下でひとりで待たせるのは、さすがによくないだろ」
雅人の声が、わずかに冷えた。
「余計なこと言うな」
奈美はすぐに笑顔をつくり、場を取りなそうとする。
「本当に大丈夫だ。私のせいで揉めないで。ここで少し待っててもらっても別に大したことじゃないわよ」
そう言って私のほうを見て軽くうなずき、やさしい声で続ける。
「暑いのに、ごめんなさいね。
私なら、とっくにこの日差しは無理だわ。あなた、本当に我慢強いのね」
私は彼女を見つめ、その笑みの奥に潜むわずかな得意の色をはっきりと見た。
雅人が車のドアを閉める。
車は砂ぼこりと海風を巻き上げ、遠ざかっていく。
私はその場に立ち尽くした。容赦のない陽射しが肌を刺し、視界が白くかすむ。
汗が首筋をつたって落ちる。水も持ってきていなかった。
足もとに落ちる影は、夕陽に引き延ばされ、まるで余計な人間の輪郭みたいだった。
電話をかけて、早く戻ってきてと伝えようとした。
けれど、さっきの「分別がある」と言う彼の声を思い出し、私はスマホを握った手をそっと下ろした。
ただ、確かめたかった。彼が本当に、戻ってくるのかどうかを。
スマホの画面がふっと明るくなった。奈美のSNSが更新されている。
彼らはすでに海辺に着いていて、動画の中で雅人は美桜を抱き上げ、海辺でカモメに餌をやっている。
次の投稿では、風に乱れた奈美の髪を、彼が身をかがめて整えている。
キャプションには、こう書かれていた。
【美桜にとって、いちばん楽しい一日】
コメント欄には【お似合い】、【ほんと家族みたい】と並ぶ。
奈美は否定せず、笑顔のスタンプだけを残していた。
その瞬間、画面の光がやけにまぶしく感じた。
幸せそうな二人の動画を見つめながら、指先に力がこもる。
心は陽に焼かれたように、からからに乾いて、じりじりと熱をもった。
頬をかすめる風には、塩の苦さが混じる。
容赦ない陽射しに焼かれ、目の前が何度も暗くなった。ほとんど熱中症だ。
手のひらのスマホは静かに横たわり、画面は明滅をくり返す。
無意識にダイヤル画面を開き、指先は雅人の名前で止まった。
「いつ帰ってくるの?」――そう聞きたかった。
けれど結局、私はその名前を見つめているだけだ。
どうしても、確かめたかったのだ。彼が、私のことを思い出すかどうか。
海風が吹き抜け、潮の匂いとほのかな冷たさが肌を撫でた。
その冷たさは、ゆっくりと胸の奥まで沁みていく。
私はわかっていた。これが彼に与える最後の猶予だ。
私が彼に期待を抱くのも、これが最後だと。
第2話
私は道端で三時間も待ち続けた。
昼から夕暮れへと移りゆくあいだ、海風は熱を失い、少しずつ冷たくなっていく。
空の光は次第に色を失い、私の影も薄れていった。
それでも、雅人からの連絡は、とうとう来なかった。
スマホのバッテリーが残り1%になったところで、私はしかたなくタクシーを拾い、家に戻った。
家に入って間もなく、奈美のSNSがまた更新された。
動画の中で、彼らは海辺に立ち、花火を見上げている。
雅人は美桜を抱き上げ、風に乱れた奈美の髪をそっと整えてやっていた。
彼らの背後の海は、幾重にも重なる金色の光でゆらめいている。
笑い声ははっきり聞こえるのに、どこか遠い――まるで別の世界から響いてくるようだ。
奈美のキャプションはこうだ。
【花火はきらめいて、ロマンチックな光がしあわせを連れてくる】
その瞬間、私は息が止まりそうになった。
あの花火は、本来、私が自分の誕生日のために用意したものだった。
流す曲だって、私が決めていた。
画面ではコメントが次々と流れる。
【幸せそうな三人家族】
【その子、雅人にそっくり】
奈美は返事をせず、例の笑顔のスタンプだけを残していた。
その動画の向こうから、誰かの声が聞こえる。
「雅人、晴香を迎えに行くんじゃなかったの?」
雅人の声は低くて、穏やかだった。
「少しくらい遅れても平気だよ。晴香は気が長いし、怒らないから」
その優しい口調で、私は完全に悟った――
彼は意地悪で私のことを無視したのじゃない。
ただ、私が許してしまうことに、あまりにも慣れきっているのだ。
私は画面を見つめ、指先でスマホの縁をそっとなぞる。
胸の奥がひやりと冷えて、痺れるような感覚が広がる。
彼の目には、私は決して怒らない人間に映っている。
いつでも分別があって、決して彼のもとを離れない人間に。
ソファにもたれ、過去の記憶がふっと脳裏をよぎる。
あの冬、雪は果てしなく降り続いていた。
私が体調を崩して休んだとき、彼は夜通し車を走らせ、薬を玄関まで届けてくれた。
彼は言った。
「覚えておいて。俺はいつだって、そばにいるから」
私は微笑んで返した。
「私たち、ただの友だちよ」
彼はしばらく黙ってから、静かに言った。
「じゃあ、俺は一生、君を待つ友だちでいるよ」
数か月後、私の誕生日に彼は告白した。
あの夜の花火は、今夜のと同じようにまぶしく輝いていた。
彼は私の手を握り、真剣な眼差しで言った。
「晴香、君と一緒に世界中の海を見てまわりたい」
私は信じていた。
海を見に行こうと言いだしたのは彼のほうで、だから彼はきっと覚えているはずだと、私は思っていた。
画面の中で花火がひとつ、またひとつと弾けるたび、私の心も、少しずつ砕けていく。
私はソファから立ち上がり、窓辺へ歩いた。
冷たい風が、かすかに潮の匂いを含んで部屋に流れ込む。
私はうつむき、指に光る指輪を見つめる。
それは、婚約披露宴の日に彼が自分の手で嵌めてくれたものだった。
「これからの人生、ずっと君を守りたい」と彼は言った。
私は、その言葉を信じていた。
けれど今の私は、彼からのひと言の気遣いさえ待ちきれない。
私は指輪を外し、引き出しのいちばん奥へしまう。心の中ではもう答えが出ている。
私が待ち望んでいたあの結婚式は、もう永遠に訪れない。
花火を眺めながらのディナーが終わったあと、彼らは近くのキャンプ場へも行ったらしい。
私の友人もそこにいたのだが、奈美が私のテントを使っていたことに腹を立てて、危うく口論になりかけた。
「それ、晴香のテントよ。何勝手に使ってるの?」
奈美は弱々しく言う。
「ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったの。
ただ、こんな時間だし、私と美桜、行く場所がなくて……」
友人は冷ややかに笑って言う。
「行くところがないなら、自分の家に帰れば?なんでここに居座ってるの?」
奈美は言葉に詰まり、友人はもう我慢できず、彼女たちの荷物を外に放り出した。
このときになって、ようやく雅人は私のことを思い出す。
「晴香、ひとりであっちにいるんだよな。俺、迎えに行ったほうがいいかな?」
彼はため息をついて車の鍵を取りに向かうと、奈美がすぐに歩み寄り、やわらかな声で言う。
「雅人、私も一緒に行くね。
晴香に直接説明したほうがいいと思うの。そうすれば、少しは怒りもおさまるかもしれない」
奈美はそう言いながら、ついでのように雅人のシャツの襟を整えた。
雅人は少し迷ったように間を置いたが、結局うなずいた。
それから奈美は、ゆっくりと荷物をまとめ、子どもをなだめ、お菓子を探し……
ぐずぐずと、気づけば一時間が過ぎていた。
その間に、彼女はスマホを構え、笑顔で動画も撮った。
「これから親友を迎えに行くところ。晴香、怒ってないといいけど」
その動画が投稿されたとき、私も目にした。
画面の中の彼女は優しく笑っているが、目の奥には勝ち誇った色が揺れている。
私はメッセージ画面を開き、一行の文字を打ち込む。
【迎えに来なくていい。自分で家に帰ったから】
送信。
画面が暗くなる。
部屋の中は完全に静まり返った。
私は椅子の背にもたれ、目を閉じる。
胸の中の空白の部分が、ついに完全に崩れ落ちた。
第3話
雅人は奈美と美桜を連れて、ようやく私を置いていったあの道へ戻ってきた。
道の街灯はぼんやりと黄ばんでいて、風には潮の匂いが混じっている。
私はもうそこにはいない。あるのは、がらんとした通りと、寄せては返す海風だけ。
雅人は眉をひそめ、胸のあたりに言葉にならない焦りがにじむ。
そのとき、彼のスマホが震えた。
画面には、私からのメッセージが浮かび上がる。
――【迎えに来なくていい。自分で家に帰ったから】
彼は思わずほっと息をついた。
だがその息がこぼれた途端、胸の奥はますます空しくなった。
私は別荘で荷物をまとめている。
部屋に残る馴染んだ匂いが、息苦しい。
雅人から電話がかかってきたが、私は画面に浮かぶ名前を見つめるだけで、出なかった。
泣くべきか、笑うべきか、それすら分からない。
もしかしたら、最初から期待なんてするべきじゃなかったのかもしれない。
奈美と初めて会った日のことを思い出す。
私が十歳の時だった。里親の家庭から、私は生みの両親のもとへ引き取られた。
あの家こそ、夢が始まる場所だと信じていた。そこには、ぬくもりと笑い声、そして家族が待っているはずだと思っていた。
けれど扉を開けると、両親は別の女の子を抱きしめていた。
彼女はつややかな髪をして、私が一度だって持ったことのない白いワンピースを着ていた。
「この子が奈美よ」
母はやさしく笑いながら紹介した。
「あなたが行方不明だったあの数年間、彼女はずっと私たちのそばにいてくれた」
父は続けて言った。
「晴香、奈美は君より年下なんだ。分別を持って、妹の面倒を見てやりなさい」
そのとき「分別」という二文字が、胸の中をちくりと刺した。
それでも私は笑ってうなずいた。
「うん、わかった」
けれど奈美はかすかに笑っただけで、その目には温もりはなかった。
あとになって知った。
私がいなくて、里親のもとで暮らしていたあの年月、奈美は私の部屋に住み、私のベッドで眠り、私の両親を「お父さん」「お母さん」と呼んでいた。
そして両親もまた、彼女を本当の家族として扱っていた。
両親は口をそろえて「奈美は何も悪くない」と言った。
そして私は、分別よく振る舞うことを求められる側になった。
あるとき、彼女が食卓でうっかりグラスを割った。
私は立ち上がって手伝おうとしただけなのに、彼女は手を押さえて泣き出した。
「晴香、怒らないで。私が悪いの」
両親が駆けつけ、すぐに彼女をかばった。
母は眉をひそめて言った。
「晴香、もっと優しくしなさい。彼女はまだ幼いのよ、怖がらせないで」
そのとき、私は初めてわかった――
この家では、彼女が泣けば、それだけで私のせいになる。
やがて奈美は、留学へと送り出された。
両親はこう言った。
「彼女には外の世界も見てほしいし、あなたたちがまたぶつからないためにもね」
けれど、その日を境に、両親の私を見る目は変わった。
そこには、警戒と失望、そしてどこか他人行儀な冷たさが混ざっていた。
そのころから、私は口をつぐむことを覚えた。
あの頃――みんなが私を避けていた時期に、雅人が現れた。
その大雨の日の放課後、校門のベンチで私はぼんやりしていた。
彼は近づいてきて、ホットココアを私に差し出した。
「無理に笑わなくていいよ。今日はうまくいかなかったんだろ?」
私は彼を見つめた。初めて、そんなふうに見抜かれたのだから。
それからは、私が責められるたび、彼がそっと寄り添ってくれた。
あるとき、私は泣きながら「みんな、私のこと信じてくれない」と訴えた。
彼は私の隣に腰を下ろして、小さな声でささやいた。
「俺は信じるよ。それで、もういいんじゃない?」
あの時から、私の世界に光が差し込んだ。
優しさは作り物じゃないと、最初に教えてくれたのは彼だった。
長い青春の中で、彼だけが私の救いだった。
記憶の中から我に返ったときには、涙がすでに襟元を濡らしていた。
あの光は、たしかにかつては私の人生のすべてを照らしていた。
でも今、光の先にいるのは――別の誰かだ。
その時、チャイムの音が鳴り響き、記憶の糸をぷつりと断ち切る。
私はドアを開ける。
雅人が飛び込んできて、私を強く抱きしめた。
夜風にまぎれて、潮の匂いがふっと立った。
「晴香、ごめん。わざとじゃないんだ」
彼の声は低く、どこか切羽詰まっていた。
「本当に……時間に気づかなかっただけなんだ」
私が口を開くより先に、玄関口からか細い声が聞こえた。
「晴香、ごめんなさい。全部、私のせい」
奈美が美桜を腕に抱いて、そこに立っている。
目尻はうっすら赤く、震える声はちょうどよく哀れを誘う。
「責めるなら私を責めて。雅人は悪くないの。海辺の花火を、どうしても見たかったのは私だから……」
彼女はそう言いながら近づいてくる。その眼差しはあまりにも優しくて、見ているだけで胸が痛くなるほどだ。
雅人は手を伸ばし、そっと彼女の手首を軽くつかむ。
「奈美、君のせいじゃない。自分を責めるな。気が回らなかったのは俺のほうだ」
そのとき、私の目に映ったのは――
彼が、別の女を優しく慰めている姿。
その瞬間、私はふと悟った。
彼は、わざと私を傷つけたわけじゃない。
ただ、弱く見える人を先に守ることに、あまりにも慣れてしまっているのだ。
彼はそれを責任だと思っている。
けれど気づいていない――その「気遣い」が、少しずつ私を壊していることに。
空気は不気味なほど静かだ。
二人を見つめて、私はこの光景がたまらなく皮肉だと感じる。
私のことを婚約者だなんて言いながら、彼は私の目の前で別の女をかばっている。
私の唇がかすかに動き、喉の奥が締めつけられた。
「雅人」私は小さな声で呼ぶ。
「あなたは、本当に人を慰めるのが上手」
彼は一拍置いて硬直し、視線が茫然とほどける。
私は言葉を続ける。
「ただ――相手を、いつも間違える」
彼はその場に立ち尽くし、ようやく何かに気づいたようだ。
私は顔を上げ、天井の灯りを見つめる。
眩しすぎる光が、目にしみた。
「私がまだ怒ってると思う?」
私は苦笑して首を振る。
「もう怒ってないよ。だって、もうどうでもいいから」
彼は手を伸ばし、私を引きとめようとする。
「晴香、俺はただ……」
私は一歩引いた。
「説明しなくていい。分かってるから」
自分でも驚くほど、私の声は淡々としていて、よそよそしい。
背を向けて、私は寝室に入る。
その瞬間、胸の奥がからんと虚しく響いた。
砕ける音ではない。墜ちていく静けさだ。
その空っぽな響きは、どんな謝罪よりも強く響いた。
第4話
雅人の顔に、はっきりと驚きの色が走った。
こんなふうに彼を突き放したのは、これが初めてだ。
彼は部屋の前に立ち、眉間に皺を寄せ、かすれた声で言う。
「晴香、ごめん。怒らないで。君につらい思いをさせるつもりはなかったんだ」
言葉を返そうとしたその瞬間、不意に唐突な泣き声が響く。
――美桜だ。
奈美はしゃがみ込み、美桜の背中をやさしく撫でながら言う。
「もう泣かないの。ママは平気よ。さっきは晴香おばさんがちょっと怒っちゃっただけ」
その声はひどくやさしく、子どもをあやす調子。けれど、言葉の端々には――「私のほうが悪い」と言外の響きがあった。
美桜は唇をきゅっと結び、涙がぽろぽろと頬を伝った。泣き声は次第に大きくなる。
雅人は反射的に手を伸ばし、ドアを開けようとしたが、その泣き声に押しとどめられたように、手を下ろした。
泣き声を聞きつけて、母が部屋から出てくる。
奈美と美桜の泣きはらした目を見た瞬間、母の眉間に皺が寄る。
「晴香、これが、あなたのいけないところよ」
口調はやさしいのに、その言葉はまるで裁きのようだ。
「あなたはいつも感情に振り回されすぎるのよ。奈美は帰ってきたばかりなのに、少しは気を遣ってあげられないの?
小さいころから変わらないわね。何かと心配ばかりかけて。奈美は違うのよ。昔から本当にしっかりしてた」
何気なく放たれたその言葉は、ただの事実のように響いた、けれど、私の心の奥に深く裂け目を刻んだ。
母の目に映る私は、いつだって「心配をかける子」だ。
雅人は何度か口を開きかけたが、言葉は出てこなかった。
うつむいたまま、誰を先に気遣うべきか迷っているように見える。
部屋の空気が、ぴたりと止まった。
その時、二階から、弟の高瀬直輝(たかせ なおき)が駆け下りてきて、奈美を見るなり目を輝かせた。
「奈美!帰ってきたんだ!」
彼は私をすり抜け、まっすぐ奈美の前へ走っていく。
奈美は笑って直輝の頭を撫で、優しく言う。
「直輝、立派な大人になったね」
ようやく私に気づいた直輝の表情が、わずかに曇る。
「晴香、なんでここにいるの?」
その声には、無意識の警戒が滲んでいる。
「晴香、もう奈美に当たるのはやめてよ。
帰ってきたばかりなんだから」
私は彼を見つめ、思わず笑ってしまった。
その笑みには、少しの諦めと、少しの自嘲が混じっている。
本当は私こそが、この家の実の娘で、彼の実の姉なのに――
それでも、みんなが守るのは奈美だ。
長いあいだ、私は従順でいようとし、頑張ってきた。
分別をわきまえていれば、いつか好きになってもらえると思っていた。
でも、今になってやっとわかった――
「分別を持つ」なんて、彼らが心安らかに私を無視するための口実にすぎない。
私は微笑み、やわらかい声で言う。
「お母さん、私、奈美に何もしてないよ。
ただ、雅人に久しぶりに会えて、少し舞い上がっちゃっただけ。
奈美が帰ってきたなら、また別荘に戻ってもらえばいいじゃない?」
部屋がしんと静まる。
母は一瞬たじろいだ。私がそう言うとは思っていなかったのだろう。
母は一度私を見て、それから奈美のほうに目を向け、やがてうなずいた。
「そうね。じゃ、これからは仲よくしていきなさい」
奈美はうつむき、かすかな声で答える。
「ありがとう」
そして、その目に一瞬、得意げな色が走った――彼女はきっと隠したつもりなのだろう。
その様子を見て、私の胸の奥がすっと冷える。
みんなは私を、分別があって、物わかりのいい姉だと思っている。
けれど誰も知らない。
その「分別」は、もうこの家を出ていく覚悟のことだ。
部屋に戻って、私は服を数枚、そしてクレジットカードとスマホをカバンに入れる。
そして、何事もないように部屋を出て、声をかける。
「お母さん、ちょっと出てくるね」
私は笑って言い続ける。
「奈美もせっかく帰ってきたし、何かおいしいものでも買ってきてお祝いしようと思って」
母の顔がたちまち和らぐ。
「じゃあ、早く帰ってきなさい。寄り道はだめよ」
そして奈美に視線を移し、さらにやさしい声で言う。
「奈美、何が食べたい?晴香に買ってきてもらおう」
奈美はふわりと笑って言う。
「なんでもいいよ。晴香の好きなもの、私も好きだから」
そのひと言は無邪気に聞こえたが、どこか誇らしげな響きがあった。
私は何も返さず、背を向けて家を出た。
後ろから雅人が追ってくる。
「晴香、送っていくよ」
彼の声は少し焦っていた。
私が口を開こうとしたそのとき、背後から、あの聞き慣れた泣き声がまた届く。
――美桜だ。
奈美が彼女のそばにしゃがみ込み、あやしながらささやく。
「いい子、いい子。ねえ、雅人おじさんが行っちゃうから、寂しいのね?」
泣き声はいっそう大きくなり、ねっとりした甘えが混じている。
雅人の足がふと止まった。
彼のためらいと逡巡が、私の目にありありと映った。
彼は自分に言い聞かせている――子どもが泣きやんでからでも、追いかければ間に合う、と。
けれど彼は知らない。
その一瞬のためらいが、私を完全に手放させたことを。
「大丈夫」私は淡々と言う。
「自分で行くから」
そのまま、私は家を出た。
深く息を吸う。
そのとき、ようやく理解した。
みんなは私を分別があると褒める。
けれど、誰も知らない。本当の分別は、誰の邪魔にもならないように、静かに離れることだ。