自分らしく生きたい

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自分らしく生きたい

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私はこの家に、百回も無視されてきた。 誕生日には、両親は妹のためだけにケーキを用意したり、 病気のとき、私が一人きりで病室に横たわると...

Chương (1)

第1章

私はこの家に、百回も無視されてきた。 誕生日には、両親は妹のためだけにケーキを用意したり、 病気のとき、私が一人きりで病室に横たわるとき、彼らは妹のそばに集まっていたり。 「我慢しなきゃ。いい子でいなきゃ」と、自分に言い聞かせてきたが、その努力が報われたことは一度もなかった。優しさのかけらも、私には向けられなかった。 そして、結婚式の日。 せめてこの日だけは、自分が主役になれると思っていた。 だが、それも幻想だった。 両親も、兄も、そして私の婚約者であるヤクザの親分である尾崎翔(おざきしょう)までもが、妹の卒業式へ行ってしまった。 彼らは私を結婚式場に一人残し、参列者たちの嘲笑と同情の視線の中、孤独に立たせた。 翔はただ、こう冷たく言い捨てた。 「結婚式なんて、また今度でいいだろう」 これが初めてではない。 婚約式のときも、妹が「お腹が痛い」と言った途端、彼は迷わず妹を病院へ送った。 私はその場で、一人で微笑みながら、参列者たちに頭を下げた。 その瞬間、私は悟った。彼らの心の中では私が永遠に余計な存在なのだ、と。 したがって、私は背を向けた。 一つの秘密を抱えながら、私は荷物をまとめて離れた。私のお腹の中には、彼の子供がいる。 もう誰かの愛を待つことはしない。 これからは、自分と、この子のために生きていく。 第1話 私はこの家に、百回も無視されてきた。 誕生日には、両親は妹のためだけにケーキを用意したり、 病気のとき、私が一人きりで病室に横たわるとき、彼らは妹のそばに集まっていたり。 「我慢しなきゃ。いい子でいなきゃ」と、自分に言い聞かせてきたが、その努力が報われたことは一度もなかった。優しさのかけらも、私には向けられなかった。 そして、結婚式の日。 せめて今日だけは、自分が主役になれると思っていた。 だが、それも幻想だった。 両親も、兄も、そして私の婚約者までもが、妹の卒業式へ行ってしまった。 彼らは私を結婚式場に一人残し、参列者たちの嘲笑と同情の視線の中、孤独に立たせた。 その夜、林京子(はやしきょうこ)は卒業式で家族と撮った写真をSNSに投稿した。 写真の中で、彼女は親と兄に囲まれ、画面の中央に立っている。私の婚約者は花束を手にして背後に立ち、まるで守護者のようだ。注目を浴びる彼女は、眩しいほどに笑っている。 添えられた言葉は、短く、しかし痛烈だ。【偏愛は、待つことはない】 スマホの光が私の顔を照らす。胸の奥が空っぽだ。怒りではない。ただ、疲れ切っている。 私はただ、こう打ち込んだ。【卒業おめでとう。心から嬉しいよ】その後、私は電源を切ろうとした。 しかしその瞬間、ドアが激しく開かれた。 兄の林悠真(はやしゆうま)が踏み込んできたのだ。その声は刃のように鋭い。「君、あのコメント、どういうつもりだ?公の場で妹を皮肉るなんて何考えてる!」 私が説明する間もなく、彼は畳みかけるように続けた。「今日君は結婚式で十分に恥を晒しただろ!それでもまだ京子を巻き込むつもりか?」 私はスマホをベッドの横に置き、静かに言った。「皮肉じゃない。あれは本当にお祝いのつもりだった」 私の静けさに、兄は一瞬だけ言葉を失った。彼は視線が床に置かれた荷物に落ちると、鼻で笑った。 「またその手か?荷物をまとめて家出でもして、みんなの気を引こうって?どうせ誰かに引き止めてもらいたいんだろ? 君、昔からそうやって芝居がかったことばかりしてる。京子を見習って、大人になれよ」 そして、彼は当然のように命令を続けた。「京子がチーズフォンデュを食べたいって言ってる。君が作れ。それと、ちゃんと謝れ」 まるで私が何かを借りているかのような口調だ。 私はいつものように反論せず、ただ一言「分かった」とだけ言い、台所へ向かった。 私の反応に兄は驚いたのか、声を荒げた。「待てよ。料理に何か仕込むつもりじゃないだろうな? なんで今回は素直に言うこと聞く?」 私は振り返り、目の縁が赤くなるのを感じた。「お兄さんの目には、私がそんなふうに見えるの?」 私の表情があまりにも痛々しかったのか、兄は眉をしかめ、視線を逸らしながら言葉を和らげた。「……君にそんな度胸、あるはずがない」 そして、今日の出来事にあっさりと「説明」を与えた。「京子の卒業式は一生に一度だろ。君の結婚式は、また今度やればいい」 「また今度やればいい」? 彼らにとって、私の結婚式はただの行事のひとつで、代わりがいくらでもある、「集まり」に過ぎない。 今日、教会の長いテーブルには街中の名士が並び、メディアのカメラは空いたままの新郎席を映していた。私はスポットライトの中に一人で立ち、十分間、微笑み続けた。そのあと、係員に促され、私は静かに舞台を降りた。 尾崎翔(おざきしょう)、ヤクザの親分であり、いつも「約束を守る男」と呼ばれる彼も、私に発する最初の言葉がこうだった。「また今度やればいい」 私は俯きながら、台所に入り、食材の下処理を始めた。 ホタテの殻をむくと、塩水が手の肌にしみる。指先も、赤く腫れ上がっていく。私は海鮮アレルギーなのだ。 それでも、私は涙が出なかった。痛みにはもう慣れているから。痛いのは、体ではなく、慣れたことそのものだ。 婚約式のとき、京子が「お腹が痛い」と言った。 その瞬間、翔は私の婚約者でありながら、皆の前で私を置き去りにし、一言の迷いもなく彼女を病院へ送っていった。 私はその場に残り、笑顔を作りながら客たちに謝罪し、一人で式を終えた。 私が置き去りにされたのは、あれが九十九回目だ。 そして今日が、百回目になる。 リビングから京子の甘えた声が聞こえてきた。「お兄さん、このお菓子の袋、開かないの」 悠真はすぐに立ち上がり、慌てて駆け寄った。「手を使うな。ケガでもしたらどうする。君の手はピアノを弾くためのものだろ」 その声には、あふれるほどの優しさがある。 私は部屋に戻り、ドアを閉めた。 背中のホックを外すと、ウェディングドレスが波のように床へ落ちた。 机の前に座り、ノートパソコンを開くと、画面の中央でカーソルが瞬いている。そこには、書きかけのメールがある。【国境なき医師団プロジェクト】 私は最後の一文を打ち込んだ。【二週間以内に、いつでも出発可能です】そして、送信ボタンを押した。 彼らに失望したのは、これが初めてではない。 これが百回目であり、最後の一回だ。 スマホを手に取り、彼とのトーク履歴を開いた。最後のメッセージは、あの言葉だ。【結婚式なんて、また今度やればいい】 私は画面を伏せ、机の上に置いた。 彼らが妹だけを愛するなら、それでいい。 私はこの街を出て、この家を出る。私を「延期できる存在」としてしか見ていない、あの男も置いていく。 別れの言葉はいらない。振り返りもしない。 悠真は皿を受け取り、私を見ることなく、京子に向かって言った。「熱いから気をつけろよ」 彼の笑顔が一瞬だけ浮かび、私の存在をすり抜けていった。まるで、私はただの給仕人であるかのように。 第2話 私は手袋をはめ、チーズフォンデュをテーブルに運んだ。 まだ近づく前に、目に刺さるような光景が飛び込んできた。 普段私の話などろくに聞こうともしない父親が、今はソファに腰かけ、京子の学校での出来事を穏やかに聞いている。 一方、母親は優しく彼女を抱きしめ、髪を整えてやっている。 悠真もその隣に座り、目を細めて微笑んでいる。 三人そろって彼女を囲み、まるで今日の主役が彼女であるかのようだ。 私は入口に立ち尽くし、まるで余計な存在のように感じた。 「夕食の準備、できたよ」と、私は静かに声をかけた。 すると、京子は顔を上げ、口元にわざとらしい笑みを浮かべながら、悲しそうに言った。 「お姉さん、まだ怒ってるの?もしかして……私のせいで結婚式が台無しになったから?」 母親の顔がすぐに険しくなった。「淑美(よしみ)、何その態度?京子の卒業式は一生に一度なのよ。文句があるなら胸の中にしまっておきなさい。皆の前で水を差さないで!」 父親も眉をひそめて叱りつけた。「早くこい。ぐずぐずするな!」 母親はさらに冷たい声で言った。「もし京子に文句でもあるなら、もう『お母さん』なんて呼ばないで!」 京子はわざとらしく母親の手を取り、やさしい声で言った。「お母さん、お姉さんを責めないで。お姉さんの結婚式がなくなって、きっと悲しいんだよ……」 彼女は「なくなって」を強調し、挑発的な視線を私に向けた。 私はその視線を受け止め、静かに言った。「怒ってないよ。卒業式は確かに大事だもの。祝うべきことなんだから」 一瞬、彼らは驚いたように固まった。まさか私が素直にそう言うとは思わなかったのようだ。 その時、ドアが開いた。 翔が入ってきた。手には上品なケーキの箱を提げ、声は私には向けられたことのないほど柔らかい。 「京子、卒業おめでとう。特注のケーキだよ。ケーキの上にあるピアノの飾りは、有名な職人の手作りなんだ」 京子は花のように笑い、得意げに言った。「ありがとう、翔。でも……お姉さんへのプレゼント、忘れてない?」 その時になってようやく、彼は思い出したように、後ろから小さなティラミスを取り出した。「淑美、これ、君に。大好きなココア味だ」 私はその惨めなティラミスを見つめ、さらにテーブルの上の華やかな苺のケーキを見比べると、心の中で小さく笑った。 彼は一度だって、私の好みを覚えたことがない。 私はココアが苦手なのに、彼はいつもココアを選ぶ。 そしてこの数年、京子の手に渡ったのは、デザートだけではない。みんなの視線も、関心も、いつも彼女のものだ。 私は手を伸ばし、微笑んで言った。「ありがとう」 その際、私の指先がポケットの中の妊娠検査薬に触れた。 二本の赤い線が、頭に鮮明によみがえった。 今朝、シャワールームでそれを見つめながら、心臓が激しく跳ねていた。 本当は結婚式の日に彼に伝えるつもりだった。彼がどんな顔をするか想像し、驚き、喜び、私を抱き上げてくれるかもしれないという、そんな夢を見ていた。 でも今となっては、すべて無意味だ。 この子は誰からも望まれない命だ。 だが、私がこの子を守る。 たとえ一人でも、私はこの場所を離れて生きていく。 私は思考を押し込み、テーブルへ向かった。 テーブルの上は、私が作った料理以外、ほとんどが京子の好物ばかりだ。 父親も母親も兄も、彼女の皿に次々と料理を取り分けながらこう言った。 「京子はうちの誇りだよ。卒業してすぐ交響楽団に入るなんて、すごいじゃないか」 「そうだな。君のお姉さんみたいに、料理しか取り柄がないわけじゃない」 「京子、お姉さんみたいになっちゃだめよ。油や水は手を傷めるんだから、ピアノを弾く手は大事にしないとね」 京子は甘く笑いながら、わざとらしく付け加えた。「お父さん、お母さん、お姉さんの料理も食べてみて。お姉さん、けっこう頑張ったんだから」 母親はようやく私の存在を思い出したように、形だけ一尾のエビを皿に入れた。「淑美、お疲れさま。食べなさい」 私は静かに箸を置いた。「もうお腹いっぱいだけど」 母親の表情がすぐに険しくなった。京子は無邪気なふりをして言った。「お母さん、お姉さんはまだ結婚式のこと怒ってるんじゃない?」 母親は私をにらみつけながら言った。「食べたくないなら勝手にしなさい!誰も無理に食べろなんて言ってないわ!」 その瞬間、京子が突然、首を押さえた。 「お母さん……息が……できない……」 見る間に、彼女の肌が赤く腫れ上がっていく。アレルギー反応だ。 父親が勢いよく立ち上がり、鋭い目で私をにらんだ。「淑美、料理に何を入れたのか!」 母親の悲鳴のような声が響いた。「やっぱり!不満があるからって、京子を傷つけようとしたのね!」 悠真は京子の前に立ちふさがり、壊れ物を守るように叫んだ。「そうか、さっき妙に静かだと思ったら、何か企んでたんだな!」 翔の視線も私に向いた。冷たく、よそよそしく、ためらいなど一切ない目だ。 四人の視線が一斉に私に突き刺さった。 何もしていないのに、私は「毒を盛った犯人」にされている。 私は胸の奥が、すうっと冷えていった。 なるほど、彼らの中で、私はどうでもいい人間なのか。 私は娘でも、姉でも、婚約者でもない。 ただの、いつでも無視され、罪を背負わされる影。それだけだ。 第3話 翔の視線が私を射抜いた。冷たく、まるで見知らぬ人間を見るような目だ。 「まずは京子を病院へ連れていこう」 迷いも、問いただす気配もない。彼は、これっぽっちの疑いすら抱いていない。 悠真は慌てて京子に上着をかけ、支えながら玄関へと急いだ。 三人の足音が遠ざかっていく。その中で、誰ひとりとして私を見る者はいない。 扉が閉まる音が響いた瞬間、家の中は嘘のように静まり返ってきた。 そこで私はようやく気づいた。彼らは本当に行ってしまったのだ。残されたのは、私ひとりだ。 私は硬くなった体を引きずるように、自分の部屋へ戻った。 部屋はあまりに静かで、呼吸の音さえ耳障りに感じるほどだ。 私はクローゼットを開け、よく着る服を何枚か畳んでスーツケースに入れた。パスポート、マイナンバーカード、銀行カード、一つひとつ確認していった。 引き出しを開けると、一冊の分厚いノートが落ちた。八歳の頃から書き続けてきた日記帳だ。 私はその表紙を見つめ、震える指でゆっくりと開いた。 黄ばんだ紙の上には、私の成長と孤独がびっしりと刻まれている。 子供の頃家は貧しく、両親は「一番いいものは兄と妹に」と言っていた。 兄は成績が優秀で、名門の私立校に進学した。一方、妹は体が弱く、両親の手厚い看病が必要だった。 そして私は、ある寄宿学校へ送られた。 その日から十年間、帰ることはなかった。 休みになるたび、寮は空っぽだった。同級生たちはみんな両親に迎えられ、笑顔で帰っていっていた。 私はひとり、静まり返った廊下で、次々と運び出される荷物を見送るしかなかった。 たまに届く手紙には、決まって同じ言葉が並んでいた。「しっかりしなさい」とか、「家に迷惑をかけるな」など、それしかなかった。 そして大学に合格したとき、私はようやく「帰る資格」を得た。 だが、彼らが用意してくれたのは、抱擁でも懐かしさでもなく、一階の隅にある狭くて暗い部屋だけだった。 その瞬間、私ははっきりと理解した。この家での私は、ただ「置かれている」だけの存在なのだと。 最初のうちは泣いた。夜になると、枕に顔を埋めて声を殺して泣いていた。 でも、やがて私は自分に言い聞かせた。沈黙を覚えよう、と。 「役に立つ」人間になれるように、私は家事を覚え、言われなくても気を利かせようとしていた。 そうすれば、いつか彼らは振り向いてくれる。そう信じていた。 だが、現実は何度も私を突き放した。努力では手に入らないものがあるのだ。 たとえば、彼らの愛。それは、最初から私のものではなかった。 私の指があるページで止まった。紙がわずかにしわになるほど、強く押さえている。 私は深く息を吸い込み、日記を閉じてスーツケースに入れる。 そして視線を枕元に移した。そこには、静かに横たわる妊娠検査薬がある。 二本の線は、はっきりと、痛いほどに鮮やかだ。 今朝、私は結婚式でそのことを伝えようと考えていた。 翔が驚き、喜び、私を抱き上げてくれる。そんな場面を、何度も頭の中で描いていた。 でも今はもう分かっている。この秘密を、もう誰にも告げる必要はないのだ。 第4話 スーツケースの留め具が「カチリ」と音を立てて閉まった瞬間、部屋の中には、自分の呼吸の音しか響いていない。 そのとき、スマホが突然震えた。画面に浮かんでいるのは、あの見慣れた名前だ。それを見るなり、私は指先がわずかに震えた。 それでも、私は通話ボタンを押した。 「……もしもし?」と、私の声が掠れている。 スマホの向こうから聞こえた翔の声には、もうあの頃の優しさの欠片もなく、あるのは冷たさと怒りだけだ。 「林淑美!京子が病院に運ばれたのに、なんで来ない?謝罪の言葉ひとつもないのか!」 その口調は刃物のようで、私の言い訳をすべて断ち切った。 私は唇を強く噛み、少し沈黙のあとで、ようやく言葉を絞り出した。 「翔……私、人の命をもてあそぶようなことは、絶対にしない」 だが、彼は聞く耳を持っていない。その声はさらに冷たく、突き刺さってきた。 「言い訳するな!京子がそんな嘘をつくはずがない!」 私は指先が真っ白になるほど、手の中のスマホを握りしめている。胸の奥に、どうしようもない苦味が広がっている。 なぜ、誰も私の言葉を聞こうとしないの? 最初から最後まで、彼らはただ「犯人」を求めているだけだ。 私は深く息を吸い、低く、震える声で問いかけた。 「翔は、私を信じてくれる?」 向こうが一瞬だけ静まり返った。だが、次の瞬間に落ちてきた言葉は、氷水のように冷たい。 「俺は、自分の目で見た事実しか信じない」 その後、無機質な音だけが残る。 私はスマホをそっと置いた。胸が押し潰されそうに重い。 目を閉じると、過去の光景が次々と浮かんできた。 デートの最中でも、彼は笑いながら、京子からのメッセージにすぐ返信していた。「彼女、一人でいるのが怖いから」 食事のたび、私の苦手な食材は忘れるくせに、京子の好物だけは、一度も間違えなかった。 喧嘩をするたび、彼は決まって同じ言葉で終わらせていた。 「君は考えすぎだ。俺はただ彼女を気にかけてるだけさ」 家族も同じだった。「嫉妬深いのはやめろ」とか、「小さなことで怒るな」とか言っていた。 私はずっと、彼だけが違い、彼だけが私を救ってくれると、そう信じていた。 だが今になってわかる。彼も、結局は私の家族と同じなのだ。 私はもう何も言い訳せず、だた静かに呟いた。 「……私が悪かった。京子が戻ったら、謝る」 そう言って私は通話を切った。 そして引き出しを開け、準備していた書類を取り出した。 画面には、教授からのメールがある。「国境なき医師団プロジェクト」の正式採用通知だ。 ビザ、航空券、証明書。すべて、スーツケースの中に揃っている。 今度こそ、本当に行くのだ。 スーツケースを引きながら玄関へ向かう途中、リビングから両親の声が聞こえた。 母親の声には、ため息まじりの未練があった。「最初から京子と翔をくっつければよかったのにね。京子は生まれつき『組の嫁』の器よ。でもあの頃は親分が翔の兄だったでしょ?まさか兄が亡くなって、翔が跡を継ぐなんて……」 父親の声は、どこか安堵の気持ちも含み、それに応じた。「まあ、結果的にはよかったじゃないか。ヤクザの世界なんて血にまみれた争いばかりだ。京子をそんな場所に嫁がせるなんて危険すぎる。銃口、裏切り、暗殺、どれも親分の妻が背負うものだ。淑美を行かせて正解だったよ。今では翔も京子を大事にしているしな」 私は、その場で足を止めた。胸の奥が氷の針で貫かれたように痛んできた。 そういうことだったのか。私の結婚も、未来も、人生そのものさえも、すべては「京子を守るための駒」だったのだ。 スーツケースの取っ手をあまりにも強く握りしめているため、指先が白くなってきた。 胸の奥から、熱い決意がゆっくりと湧き上がった。 私は深く息を吸い、勢いよくドアを開けた。 リビングの声がパッと止まった。両親が驚いたように見上げた。まさかこのタイミングで私が現れるとは思ってもいなかったのようだ。 「淑美、どこへ行くつもり?」 今までにない、何の期待もない眼差しで、私は彼らを見つめ、スーツケースの取っ手をだんだんと握りしめていった。 第5話 悠真は最初に私の意図が分かった。その目には疑念と敵意が宿り、まるで罪人を裁くようだ。 「逃げるつもりか?京子がアレルギーを起こした責任を、なかったことにしたいのか?」 すぐに両親も続き、顔には失望と非難の色が浮かんできた。 母親が冷たい声で言った。「淑美、なんてそんなに自分勝手なの?京子はまだ病院にいるのよ。それなのに出て行くなんて」 父親も眉をひそめた。「責任感というものがないのか」 彼らを見つめながら、胸の奥がすっと冷えていく。 そうだ、私のすることは、いつだって「自分勝手」にしか見えない。 「逃げる?」と、私は口の端を少し上げて笑った。その笑みは苦く、どこか乾いている。「私、いつ『逃げる』って言った?」 私はスマホを手に取り、彼らの目の前で京子に電話をかけた。そして、スピーカーもオンにした。 数回の呼び出し音のあと、あの弱々しくも、傲慢な声が聞こえた。 「お姉さん?どうしたの?今さら文句でも言いに来たの?」 彼女はまだ、私が執着していると思っている。 その瞬間、目の前の家族が滑稽にさえ見えてきた。 「京子のアレルギーがどうして起きたのかはわからないけど……ごめんなさい」 私の声は静かで、どこか冷めきっている。 「本当にごめんね。今日からもう、あなたの邪魔はしない」 なぜなら、私はもうすぐこの家を出ていくから。 向こうで一瞬、京子が息を呑んだ気配がした。どう返せばいいのか分からないのだろう。 だが、もう聞く必要もない。 私はそっと通話を切り、両親と兄を見上げた。 「これで、出て行ってもいい?」 三人の表情が固まっている。その目には驚愕すら浮かんでいる。 まるで、まさか私が本当に出ていくのを予想もしなかったかのように。 私はそれ以上一言も発さず、スーツケースの取っ手を握り、家を後にした。 扉を閉めた瞬間、自分の心が砕ける音が聞こえた気がした。 空港に着くころ、またスマホが鳴った。 画面に映る名前を見て、胸が少しだけ痛んだ。 通話ボタンを押すと、翔の焦った声が飛び込んできた。その声には、怒りと抑えきれない焦燥が混じっている。 「どこにいる?京子の検査はまだ終わってない。彼女はひとりで不安なんだ。放っておけるわけがないだろ」 その声は冷たく、しかしどこかで必死に感情を押し殺しているようだ。 私は思わず苦笑した。 彼の口からは、私を気遣う言葉が出たことなど一度もない。いつだって「京子が俺を必要としている」だけだ。 「もう大人のくせに、家出みたいな真似をするな」 その言葉に怒気はなく、ただ、疲れたような響きがある。 でも、もう私には、説明も暗示も何の意味もない。 両親が言っていた。翔は家の利益のために私を選んだだけだ。彼の心の中にいるのは、ずっと京子なのだ。 「翔」と、私は静かに口を開いた。「私たち、別れよう」 向こうが一瞬にして凍りついた。 少しの沈黙のあと、彼が低く聞いた。その声にどこか痛みも感じられる。「……今、なんて言った?」 私は深く息を吸い、もう一度はっきりと言った。「別れよう」 そして私は迷わず電話を切った。さらに電源も落とした。 スーツケースを引き、私は搭乗口へ向かった。 飛行機はすぐに離陸する。 今度こそ、逃げるんじゃない。新しい人生を、始めに行くのだ。