共に白髪の生えるまで

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氷川静(ひかわ しずか)と時枝修也(ときえだ しゅうや)の結婚式は、半月後に迫っていた。しかし修也は、この土壇場でまたしても結婚の延期を...

Chương (1)

第1章

氷川静(ひかわ しずか)と時枝修也(ときえだ しゅうや)の結婚式は、半月後に迫っていた。しかし修也は、この土壇場でまたしても結婚の延期を考えている。 なぜなら、彼の義妹・白石由奈(しらいし ゆな)が持病の発作を起こし、「すべてを投げ出してモルディブの海に連れて行って」と泣きながらせがんだからだ。 この結婚式のために、静は二年もの歳月を費やしてきた。彼女はもうこれ以上待つつもりはない。 修也に結婚する気がないのなら、他の男に乗り換えるまでの話だ。 第1話 氷川静(ひかわ しずか)と時枝修也(ときえだ しゅうや)の結婚式は、半月後に迫っていた。しかし修也は、この土壇場でまたしても結婚式を延期しようと考えていた。 なぜなら、彼の義妹・白石由奈(しらいし ゆな)が持病の発作を起こし、「すべてを投げ出してモルディブに連れて行って」と泣きながら彼にせがんだからだ。 この結婚式のために、静は二年もの時間を費やしてきた。もうこれ以上待つつもりはない。 修也に結婚する気がないのなら、他の男に乗り換えるまでの話だ。 …… 修也は試着したばかりのタキシードを慌ただしく脱ぎ捨て、スマホでモルディブ行きの一番早い便を予約した。 「結婚式は数日ずらそう。俺たちの両親には、うまく説明しておいてくれ」 付き合って六年、修也が由奈のために自分を放り出すのは、これで何度目かも数えきれない。 ついさっきまで結婚式への憧れに浸っていたのに、今や静の瞳の輝きは少しずつ消えていった。 由奈のせいで結婚式は何度も延期され、静はとっくに親戚や友人の笑い種になっていた。 込み上げてくる悔しさに、息もできないほど胸が締め付けられ、涙が不甲斐なくこぼれそうになる。 飛行機の予約をした修也が振り返ると、静と視線がかち合った。彼女の涙に濡れた瞳を見て、彼は一瞬たじろいでしまい、バツが悪そうに口を開いた。 「知ってるだろ、由奈は病気なんだ。言う通りにしないと、自分を傷つけてしまうかもしれない。放っておけないんだよ」 静は何かを言おうとしたが、そのとき、修也のスマホが鳴った。 由奈からの催促の電話だ。 修也は優しい声で由奈をなだめ、もう飛行機は予約したからすぐに家へ迎えに行く、荷物の準備をして待っているようにと伝えた。 電話を切り、再び静に視線を戻したとき、修也の目にあったはずの罪悪感はさっぱり消え失せていた。 「もう行かないと、飛行機に間に合わなくなる。試着が終わったら、自分でタクシーを拾って帰ってくれ」 大股で去っていく修也の後ろ姿を見つめながら、静は手のひらを強く握りしめた。 大学時代、修也は学部でも近寄りがたい、孤高の存在として有名だった。彼に想いを寄せる女子は星の数ほどいた。 その高嶺の花を、静は二年かけてようやく手に入れたのだ。 苦労して手に入れた修也を、静はとても大事にしてきた。彼に尽くし、すべてを受け入れ、わがままを言って困らせたことなど一度もなかった。 しかし、どれだけ誠意を尽くしても、修也の態度は常に生ぬるいままだった。 恋人同士のはずなのに、どこかよそよそしい空気が漂っている。 もともとそういう性格なのだと、静は思っていたが、由奈が怪我をしたときの修也の取り乱しようを見て、ようやく気づいた。彼は、決して氷のような人間ではないのだと。 修也に対する由奈の想いは誰もが知っていたが、義兄妹という関係ゆえ、その想いが父親に認められることはなかった。 そのため、由奈は病気を盾にし、静と修也の間に割り込んで仲を引き裂こうとしている。そして修也はいつも、それを優しく受け止めてしまうのだ。 自分は修也と由奈の茶番劇における、ただの道具なのではないかと、静はときどき感じてしまい、吐き気がするほど不快だった。 この六年間、何度も別れようと考えたが、離れようとするたびに、修也は急に優しくなって引き止めるのだ。 そんな繰り返しで、彼女の心はとっくに絶望で飲み込まれていた。温もりも希望もすべて奪われ、虚しさだけが残った。 自分はこんな人間ではなかったはずだ。いつも明るく前向きで、生命力に満ちていた。 それが今では、自分の殻に閉じこもり、不平不満ばかりを口にする嫌な女になった。 ひたすら我慢を重ねた結果、彼女は自分を見失ってしまった。ふと、鏡に映る自分がひどく哀れな存在に思えた。 もうこれ以上、あの人に振り回されるのはごめんだ。彼が二人の関係を大切にしないのなら、こっちだって、結婚式の直前に花婿を別の男にすげ替えればいいのだから! 第2話 そう思った瞬間、静はスマートフォンを手に取り、母親に電話をかけた。 「もしもし、お母さん?私、修也との結婚、やめることにした。……そういえば、前に勧めてくれた縁談って、まだ断ってない?その話、受けようと思うの。お相手の方に、まだその気があるか聞いてもらえないかな」 突然の心変わりに、母はきっと性急すぎると呆れるだろう──静はそう思っていたが、電話越しの母は、ぱっと笑い声を上げた。 「よかった、やっと目が覚めたのね!わかったわ、すぐ相馬さんに連絡してみるから」 相馬秋彦(そうま あきひこ)。その名前に、静は聞き覚えがあった。 二人は幼馴染と呼べる間柄だったが、両親の都合で彼が海外へ引っ越してからは、自然と連絡も途絶えていた。 知らない相手よりは、いくらかましだろう。静はほっと胸をなでおろした。家柄も釣り合っているし、素性もよく知れている。電撃結婚の相手として、秋彦はまさにうってつけの存在だった。 ほどなくして、秋彦からメッセージが届いた。 【おばさんから話は聞いたよ。いつなら都合がいい?浜城市まで迎えに行く】 静は秋彦の連絡先を知っていた。大学院入試を控えていた頃、母に言われて追加したものだったが、一度もメッセージを送ったことはなかった。 少し考えた後、静はゆっくりと文字を打ち込んだ。【半月だけ時間をちょうだい。その間に全部片付けるから。また連絡するよ】 修也との関係を終わらせると決めた以上、中途半端にはできない。 彼は飛び出していったとき、二人の結婚指輪さえ置き忘れていった。修也は本来、そんなうっかりをする人間ではない。それほどまでに、彼は慌てていたのだろう。 今頃、修也は由奈とモルディブにいるだろう。由奈は挑発するように、修也との親密な写真を何枚もSNSにアップしていた。静に対する、あからさまな示威行為だ。 しかし、静の目を引いたのは、由奈が着ているローズピンクのビーチドレスだ。それは静が新婚旅行の写真を撮るために、用意していたドレスで、先日やっと手に入れたものだった。 パリコレの最新作で、何日も夜更かしして、やっと先行販売で手に入れたものだ。静がどれだけこのドレスを気に入っていたか、修也も知っているはずだ。それなのに彼は、断りもなく由奈にあげてしまった。 怒りで指が震える。静は修也にメッセージを送った。【人のものに勝手に触らないで。妹さんのご機嫌取りだか知らないけど、私のドレスを献上するなんて、どういうつもり?】 しばらくして、ようやく修也から返信が来た。【前から言おうと思ってたけど、ローズピンクは子供っぽくて、君の歳で着るのには正直下品に見える。たかが服だろ、大袈裟だ】 静の心が、ぐらりと揺れた。なんて言い草だろう。 自分は由奈よりたった二歳だけ年上だった。それなのに、修也の中では由奈が「守るべき無垢な少女」で、自分は「ローズピンクに似合わない下品な女」だというのか 。 何か言い返そうとしたとき、修也から送金の通知が届いた 。 【ドレス代だ。由奈を困らせないでやってくれ。やっと機嫌が直ったんだ。邪魔しないでほしい】 静は迷わず受け取った 。ドレスも、この男も、もういらない。修也が自分を貶めれば貶めるほど、自分を大事にしなきゃいけないのだと、ようやく悟った。 修也と無駄話をする気にもなれない静には、もっと大事なことがあった。発送済みの招待状を回収することだ。 派手な式は由奈を刺激するからと修也が嫌がったため、静はそれを受け入れ、浜城市に住む親しい友人や親戚だけを招く、ささやかな式を計画していた 。 友人たちに結婚式が中止になったと伝えると、誰もが驚きを隠せなかった。「どうして急に?ずっと準備してきたじゃない!」 静は力なく笑った。確かに長い間準備してきたが、その間ずっと一人で駆けずり回っていて、修也は一度だって真剣に関わろうとはしなかった 。 もしかしたら、彼は最初から自分と結婚する気などなかったのかもしれない。ただ、彼を追いかける自分の一人芝居だったのではないかと思った。 彼が逃げ、自分が追いかける。そんな関係に、静は疲れ果てていた 。 彼女はもう隠すことをやめ、友人たちに正直に告げた。「結婚はするよ。ただ、花婿が別の人になったの」 しかし、誰もがそれを冗談だと笑い飛ばした。静が修也以外の男と結婚するなど、信じられないのだ 。 静がどれだけ修也を一途に愛してきたか、誰もが知っている。あれほど手に入れようと焦がれた高嶺の花を、簡単に手放すわけがない、と。 これまで修也が式の直前になって日程変更を申し出たときも、静は悲しみを堪え、彼を責めるようなことは一度もなかった 。だから皆、静は無条件で修也を許し続ける女だと、当然のように思っていたのだ。 静は、もう説明するつもりもなかった。六年の月日は、彼女に一つの事実を証明した。自分を大切にしてくれない男を愛し続けるのは、ただただ苦しい。 失った愛はもう返ってこない。だからこそ、今彼女にできるのは、これ以上傷つく前に、損切りすることだけだった 。 第3話 招待状をすべて回収し、家に帰ろうとしたところで、修也から電話がかかってきた。 彼の声は少ししゃがれていた。「招待状の件だけど、とりあえず回収しておいてくれ。結婚のことは後にしよう。由奈の情緒がまだ不安定で、今は刺激したくないんだ」 もし静が反対したら──修也は、いつものように罪悪感を煽って言いくるめるつもりでいた。 だが、静は感情の乗っていない声で、一言だけ返した。「わかった」 修也は一瞬、言葉を失った。電話越しでも、静の変化に気づいた。 自分の私物が他人に触れることを、静が何よりも嫌うと修也は知っていた。それでも由奈のために、あえてその地雷を踏んだのだ。 静に送金したのは、彼女がぐちぐちと文句を言うのを黙らせるためだった。これまで百発百中で効き目があったその手が、今回に限って静があっさりと受け取った。修也は言いようのない違和感を覚えていた。 修也は乾いた唇を舐め、気まずそうに言葉を続けた。「由奈のことで、君に迷惑をかけたのは分かっている。ちゃんと医者に診させて、一日でも早く治るように、俺も協力するから」 「お兄ちゃん、お風呂の準備できたよ。早くして」 場違いなほどの甘い由奈の声が、電話の向こうから聞こえてきた。 修也は慌てて「誤解するな」と言おうとしたが、静は無慈悲に電話を切っていた。 馬鹿馬鹿しい、と静は思った。由奈の診断書には、確かに双極性障害と書かれていたが、彼女はまともな治療を受けたことがなく、その度に修也に付き添ってくれるようせがむだけだった。 修也の約束なんて、決して果たされることのない空手形だ。 そう思うと、静の心は次第に冷え切っていった。彼女は黙々と、自分の荷物をまとめ始めた。 服はそれほど多くない。スーツケース一つで事足りた。 しかし、六年も暮らしたこの家には、至る所に彼女の痕跡が残っている。 ベッドサイドのテーブルには、修也とのツーショット写真。キッチンには、彼女専用のピンクのエプロン。洗面所には、お揃いの歯ブラシスタンド……。 彼女は、自分のものを一つ一つゴミ箱に捨てた。二人で写った写真は、自分ははさみで切り取り、修也だけ残した。 彼からの贈り物は、価値のあるなしに関わらず、すべて処分した。燃やせるものは燃やし、燃やせないものは直接ゴミ箱に捨てた。 永遠を誓ったはずの結婚指輪も買取店に持ち込み、手にしたお金はそのまま寄付した。 浜城市は、急に冷え込んだ。そのせいか、夜になって静は高熱を出した。 両親の元を離れ、修也と暮らし始めてから、自分の面倒は自分で見るようになった。 熱で意識が朦朧としても、彼女は気力を振り絞って救急車を呼んだ。 いつ眠りに落ちたのか、どれくらい眠っていたのかも分からない。 目が覚めると、心配そうな顔をした修也がベッドのそばに座っていた。今回は、由奈の姿はなかった。 修也はかすれた声で言った。「どうして病気だって言わないんだ。電話しても出ないし、マンションの管理人さんから連絡がなければ、君が入院したことさえ知らなかった。心配したよ」その瞳に浮かぶ心配の色は、演技には見えなかった。 静は口元がかすかに動いたが、瞳は冷え切っていた。「言ってどうなるの?大事な妹さんと一緒だったでしょう?」 自分が必要なとき、修也がそばにいてくれたことなど一度もなかった。彼の気遣いや優しさは、決して自分に向けられるものではない。だからこの六年間、何でも自分一人で対処する術を身につけてしまった。 静の言葉に、修也は思わず眉をひそめた。「俺のことを責めてるのか?君が倒れたと聞いて、すぐに飛行機で帰ってきたんだ。これ以上、俺にどうしろって言うんだ?」 静は思わず鼻で笑った。「別に帰ってきてなんて頼んでない。私一人で十分やっていけるから」 その言葉に、修也の心がずしりと重くなった。これは本当に、いつも自分を頼り、必要としていたあの静なのだろうか。 修也はしばらく黙り込んでいた。その沈黙を破ったのは、彼のスマホの着信音だった。 また由奈からだ。電話越しにでも、彼女のけんか腰の声が聞こえてくる。 「お兄ちゃん、私をモルディブに一人残して、あの女のところへ行ったわけ?」 修也はベッドに横たわる、血の気のない唇をした静をちらりと見やり、声を潜めて由奈に言った。 「静が入院したんだ。何か用なら、また後にしてくれ」 それを聞いた由奈は、軽蔑を込めて鼻を鳴らした。「よりによってこんな時に病気になるなんて、そんな偶然あるわけないじゃない。どうせ仮病よ。そんな女に騙されないで、お兄ちゃん」 由奈の声は、はっきりと静の耳に届いた。静は怒りを抑え、じっと修也を見つめた。 彼は眉をひそめるだけで、いつものように、ただ優しく由奈をなだめすかした。「心配しないで、静が退院したら、すぐにそっちに戻って、また一緒にいてやるから、いい子にしてね」 第4話 由奈はモルディブで修也を待つことなく、翌日には病院まで追いかけてきた。 ベッドに横たわって治療を受ける静の姿を見て、由奈は軽蔑した表情を浮かべた。 「ずいぶん演技が上手いじゃない。でも、そんな古臭い手口、お兄ちゃんくらいしか信じないわよ」 由奈の言いたいことは分かっていた。かつて、静が修也を振り向かせようと、雨の中、男子寮の前で一晩待ち続けたときのことだ。 あの夜は、ひどい土砂降りだった。プレゼントするために選び抜いたギターを抱え、静はずぶ濡れで立ち尽くした。 薄いシャツに染み込んだ雨水が、容赦なく彼女の体温を奪っていった。 結局、雨の中で意識を失うまで待っても、修也が情けをかけてくれることはなかった。 愛が実らないなど、大したことではない。そう自分に言い聞かせ、諦めようとした矢先だった。 修也が、お試しで付き合ってもいいと、折れてくれたのだ。焦がれてやまなかった高嶺の花を、静はついに手に入れた。 あの雨は彼女に恋をもたらし、同時に肺炎をもたらした。 幸い命に別状はなかったが、後遺症は残った。 ここ数年、少しでも体を冷やすと咳が止まらなくなる。 静は、無意識に修也の方に視線を向けた。一瞬だけ、彼が自分の前に立って庇ってくれることを心のどこかで期待してしまった。 しかし、彼がそんなことをするはずがないと、よく分かっていた。 いつも高圧的な由奈を前に、静は耐えるしかなかった。 どうせもうすぐ修也と別れる。この計算高い女に、これ以上、我慢する必要はない。 静は、反撃の口火を切った。「お芝居の上手さなら、あなたには敵わないわ。……でも無駄なことよ。あなたは一生、修也の可愛い妹でしかいられないんだから」 静の言葉は、由奈の逆鱗に触れ、一瞬で彼女の怒りに火をつけた。 由奈は狂ったように静に掴みかかってきた。静がとっさに腕で防ぐと、注射の針がぐにゃりと曲がり、骨を刺すような激痛が走った。静は思わず悲鳴を上げた。 次の瞬間、点滴と混じった血液が、真っ白な病衣に飛び散った。 先に手を出したのは由奈だ。静も黙ってやられるつもりはなかった。手の甲の痛みも忘れ、由奈の頬を打とうと腕を振り上げた。 その腕が振り下ろされる寸前、修也が由奈の前に立ちはだかった。乾いた平手打ちの音が響き渡り、修也の頬に、くっきりと赤い手の跡が浮かび上がった。 修也は眉をひそめた。その顔は、嵐の前の黒い雲のように、息苦しいほどの威圧感を放っていた。 「静、いつからそんなに物分かりの悪い女になったんだ? 由奈は情緒不安定で、自分をコントロールできないって知ってるだろう。それなのに手を出すなんて」 静は彼の瞳をじっと見つめ、強く拳を握りしめて、込み上げる感情を抑え込んだ。 そして、苦しさを滲ませながら問い詰めた。「彼女は病人だって言うけど、私もそうでしょう。どうしてそんなにも都合よく物差しを変えるの?」 修也はわずかに唇を開いたが、まるで何かに縛られたかのように、一言も発することができなかった。 それを見ていた由奈は、悲劇のヒロインを気取って涙を拭いながら訴えた。「お兄ちゃんの嘘つき!もう私のことなんてどうでもいいんでしょ!……もう死んでやる、うわあああん……」 そう言うなり、由奈は病室を飛び出していった。修也は、一瞬の躊躇もなくその後を追いかけた。病室には、呆然と立ち尽くす静だけが取り残された。 口の中に、苦い味が広がった。静は自嘲せずにはいられなかった。今さら何を悲しんでいるのだろう。こんなことは、これまで何度も繰り返されてきたではないか。 そんな感傷に浸っていた時、スマホが鳴った。画面には秋彦の名前が表示された。 第5話 この数日、静から何の連絡もなかったので、秋彦は少し不安になっていた。 秋彦は恐る恐る切り出した。「静、結婚式、準備し始めてるからね。そっちのほうは、どうなった?」 静が口を開くまでの数秒が、秋彦には永遠のように感じられた。彼女が後悔して、「結婚はなかったことにしてほしい」と告げるのではないかと恐れていたのだ。 静は急いで気持ちを切り替え、彼に気づかれないように努めた。 一度鼻をすすり、彼女は答えた。「うん、もうほとんど片付いた。あとは仕事の引き継ぎだけ済ませたら帰るよ。準備、大変だったでしょう。ありがとう」 その返事に秋彦は安堵したが、注意深い彼は、やはり静の異変に気づいた。 「声がかすれてるけど、大丈夫?体調でも悪いの?浜城市も最近冷え込んでいるから、出かけるときは暖かくして。……昔から、あまり体は強いほうじゃなかっただろう」 秋彦の優しい気遣いに、じんわりと温かいものが胸の中に広がっていく。 「もし何か困ったことがあったら、必ず電話してくれ。一人で抱え込まないで。これからは僕がいるから、絶対君に辛い思いはさせない」 静は、小さく「うん」と頷いた。「大丈夫、自分のことは自分でやるから、心配しないで」 電話を切ると、静は窓の外に目を向けた。さっきまで黒い雲に覆われていた空は、いつの間にか晴れ渡っていた。まるで今の自分の心のようだ、と静は思った。 由奈を家まで送る車の中、修也は何か悪いことが起こりそうな予感がして、まぶたの痙攣が止まらなかった。 修也は諭すように由奈に言った。「由奈、いつまでもそんな風ではダメだ。静は、どうあろうか君の未来の義姉さんなんだから」 「未来の義姉さん」という言葉に、由奈の瞳から涙がとめどなく溢れ出した。 彼女は唇を震わせながらに尋ねた。「お兄ちゃん……あなたにとって私って、ただの邪魔者なの?」 修也は由奈の涙に一番弱かった。彼は心が和らぎ、力なく弁解した。「そういう意味じゃない。静とはもう六年付き合っているんだ。今責任を取らなかったら、世間から後ろ指をさされるだろう」 その言葉に、由奈はようやく泣き止んで笑顔を見せ、親しげに修也の腕に絡みついた。「じゃあ、お兄ちゃんがあの女と結婚するのは、周りを黙らせるためだけなのね? お兄ちゃんの心の中では、私が一番大事で、いつだってあの女より優先してくれるってこと、だよね?」 修也は上の空で「うん」と頷いた。正直なところ、彼自身も混乱していた。 静と付き合い始めたのは、確かに一時的な感情の高ぶりだったかもしれない。だが、この六年、彼女が自分に注いでくれた愛は本物だった。 結婚相手として、静はこれ以上ないほど相応しい女だと、彼は分かっている。 感情面では、彼女はいつも惜しみなく愛してくれた。仕事の面でも、静は一番の支援者となる存在だ。 だから、静から結婚を切り出されたとき、彼は頷いたのだ。 しかし、由奈が泣くたびに、彼はどうしても心が揺らいでしまう。なにしろ、子供の頃から一緒に育ってきたのだ。彼女が悲しむ姿は見たくなかった。 静は由奈よりも強い人間だと、心のどこかで思い込んでいた。だから、いつも由奈のほうを慰めてきた。 由奈の病気が治れば、心置きなく静と結婚できる。彼はいつもそう考えていた。 いつしか彼は、由奈への自分のえこひいきが、静を深く傷つけているという事実を、見て見ぬふりをしていたようだ。 それでも、静が自分から離れていくはずがないと確信していた。愛されているという自信が、彼を傲慢にさせていたのだ。 第6話 静が病院で過ごした二日間、修也は一度も姿を見せなかった。 SNSを開くと、案の定、また由奈と修也がべったりしてる写真がアップされている。 修也のSNSのプロフィール画像は由奈の自撮り写真で、投稿も全て由奈に関することばかり。 笑えることに、本物の彼女である静が、彼のSNSに一度たりとも登場したことがないのだ。 以前は、そんなことを考えるだけで心がささくれ立った。修也と過ごしたこの六年間で、自分はすっかり不平不満ばかり言う、嫌な女になってしまった。 「こんな惨めな恋を手放せるのはある意味、解放かもしれないわ」静は、苦笑いを浮かべた。 体調もほぼ回復したため、静は身の回りのものを片付けて退院手続きをした。 浜城市を離れる前に、どうしても須藤円(すどう まどか)に会っておく必要があった。 円は、静の一番の親友だ。大学卒業後、二人は共にこの浜城市に残った。静は愛のために、円は夢のためだ。二人は共同でカフェを経営していた。 「円、このカフェの私の持ち株、安く買い取ってくれないかな。私、両親に言われた通り、地元に帰って結婚することにしたの。もう、浜城市には戻らないわ」 「……えっ?マジで?修也さんを諦めて、別の人と結婚するってこと?」 円は自分の耳を疑うというように、目を丸くして静を見つめた。 彼女がそんな顔をするのも無理はない。かつて「修也じゃなきゃ絶対イヤだ」と周りに宣言していたのだから。今思えば、今回の選択は自分の顔に泥を塗るようなものだ。 静は、できるだけ明るく笑ってみせた。「うん。こっちの用事を済ませたら、すぐ帰るつもり。そのときは、ブライズメイド、お願いできる?」 このカフェには、二人の多くの心血が注がれている。その株をあっさり手放すというのなら、彼女は本気でこの町を去る覚悟なのだろうと、円は思った。 「もちろんよ。一人の男に執着しないのは成長よ。友達として、心から嬉しいわ」 円に言われるがまま契約書を作成し、二人はサインを交わした。これで、浜城市での心残りは、すべてなくなった。 カフェを出ると、修也から電話がかかってきた。 「親父が帰ってきた。君を連れて、家で食事でもどうかって。うちの家政婦がもう準備を始めてるんだ。今どこにいる?迎えに行く」 静は行く気はなかったが、ふと考え直した。修也が結婚式をまた延期したがっていること、彼の父親はまだ知らないはずだ。 どうせもうすぐここを離れるから、この機会に、おじさまにはっきり話をしておいたほうが、後腐れがないだろう。 ほどなくして、修也が車で迎えに来た。静はちょうど母親とLINEで結婚式の相談をしていた。 修也は、その画面に「結婚式」がちらっと見えた途端、顔色をわずかに変えた。 「結婚式は延期だって、お前の両親に伝えてくれって言っただろ。まだ話してないのか?」 その反応に、静の胸が締めつけられた。結婚を何度も延期することが、親たちに受け入れられないと分かっているから、その面倒事はすべて静に丸投げしていたのだ。 彼と一緒にいると、なぜかいつも自分ばかりが矢面に立たされる。そして修也は、それをただ黙って見ているだけ。 静は、ふっと軽く笑った。「もう伝えたわ。安心して、あなたに無理やり結婚させようなんて思ってないから」 修也は一瞬言葉を失い、弁解しようとした。「そういう意味じゃなくて、俺はただ……」 「もういいの。どうでもいいことだから」静は彼に弁解の隙を与えず、助手席のドアを開けて乗り込んだ。 車に乗り込むと、静は窓を開けて外を眺めた。風が彼女の長いまつ毛を揺らす。二人の間に、それ以上の会話はなかった。 付き合い始めた頃は、彼に話したいことが尽きなかった。今では、話す気力さえ愛とともに消えていたようだ。 修也の実家に着くと、二人は前後して家の中へ入った。 修也の父・時枝国弘(ときえだ くにひろ)は実業家で、普段は息子に厳しいが、静に対してはいつも愛情深い年長者だった。 「おお、静、よく来たね。菊池さんに、君の好きな料理をたくさん作ってもらったんだ。もうすぐ食事ができるよ」 国弘がそう言ったとき、時枝綾子(ときえだ あやこ)と由奈が腕を組んで、階段から降りてきた。 静の顔を見るなり、二人はあからさまに不機嫌な顔をした。 食事の時、由奈はわざと修也と静の間に割り込んで座り、修也にあれこれと取り分けさせようと騒ぎ立てた。 「やっぱり、小さい頃から一緒に育っただけあって、絆が深いわね」綾子はそう言うと、意味ありげに静へ視線を送った。 静は吐き気をもよおし、まったく食欲がなかった。箸を置くと、国弘に向き直って言った。 「おじさま、修也との結婚式ですが、当分見送ることにしました。この件、修也からもう伺っていますか?」 第7話 国弘は一瞬言葉を失った。どうやら完全に初耳のようだ。 「見送るだと?招待状も送ったというのに、どういうことだ?」 修也は俯いた。延期の件を、国弘に切り出すタイミングをまだ掴めずにいたのだ。まさか、静の口から先に、その話が出るとは思ってもみなかった。 静は、その問いを修也へと流した。「詳しいことは修也にお聞きください。彼が決めたことですから」 国弘は、厳しい顔で修也を睨みつけた。「お前の人生の一大事より大切なことなどあるのか!招待状も出したのに、親戚や友人に我が家の恥を晒すつもりか?」 修也が口を開く前に、由奈が甘えた声で割り込んだ。「お父様、お兄ちゃんを責めないで。結婚式を延期したのは、私の看病のためなの」 「馬鹿なことを言うな!」国弘は激怒した。「お前もいい歳だろう、なぜそう物事の分別がつかんのだ。母親からどういう教育を受けてるんだ!」 由奈は国弘の実の娘ではないが、綾子と共にこの家に来てから、実の娘と同然のように可愛がられてきた。 そんな国弘が、こんなに厳しい口調で由奈を叱るのは、極めて稀なことだ。由奈はそれに耐えられず、涙をこぼしながら家を飛び出した。 「ここまで家を騒がせて、満足か?」 修也は躊躇うことなく、その後を追う。 「あなた!どうして由奈にあんな大声を出すの!あの子が思い詰めて何かあったら、絶対許さないからね!」 綾子は静を睨みつけ、腕を振り払って二階へ上がっていった。 「静、すまないが少し待っていてくれ。君のおばさんと、ちゃんと話をしてくる」国弘も、綾子の後を追って階段を上った。 こんな光景を目にするのは、一体何度目だろう。静は、もう何も感じなくなっていた。 ひどく、馬鹿馬鹿しい。長すぎた茶番劇は、彼女を心底からうんざりさせていた。 由奈がこれほど好き放題できるのは、修也の無条件の寵愛と、綾子の甘やかしの結果だ。 由奈が彼女の両親にとっての宝物であるように、自分も両親にとってはかけがえのない宝物なのに。 もう、ここから立ち去りたい。しかし、目上の人に挨拶もなしに姿を消すことは、彼女の教養が許さなかった。 国弘に別れの挨拶を告げようと、静は二階へ向かった。 彼の部屋の前にたどり着いたとき、ドアの隙間から声が聞こえてきた。 「なんて愚かなんだ。会社には四億円の資金が必要なんだぞ。銀行はまだ融資を渋っている。氷川家は金持ちだ。静が嫁いできたら、うちの会社に投資してもらえるかもしれないんだぞ!会社が潰れたら、今まで通り贅沢できないんだ! 由奈の修也に対する気持ちはよく知ってる。もう少しだけ、我慢させることはできんのか?会社の経営が持ち直せば、修也が由奈と一緒になりたいと言っても、俺は絶対に反対せんから。それまで、あの子をしっかり見張っておけ。これ以上、問題を起こさせるな!」 静の表情が、みるみるうちに暗くなっていった。慈愛深いと思っていたおじさまの優しさは、すべてお金のためで、自分は、ただ利用されていた。 それなら、修也は?結婚を承諾したのも、自分を利用するためだったのだろうか。 指先は冷たくなっていた。静は重い足取りでその場を離れた。 一刻たりとも、この家にはいたくない。修也とその家族のことを考えると、吐き気がした。六年間の青春を、ドブに捨てたようなものだ。 家に着くと、入れ違いのように修也が帰ってきた。 彼は慌てた様子で、まっすぐ寝室へ向かうと、着替えを二、三枚掴んだ。そのとき、ふとクローゼットの横に置かれたスーツケースが目に入った。 「なにこれ?」 静は適当に言い訳をした。「季節の変わり目だから、いらない服を寄付しようと思って」 修也は頷いて、その言葉を疑う様子はなかった。 「由奈がまた怪我をして、入院した。二、三日病院で付き添うから、しばらくは帰らない」 修也は、家の中の物がなくなっていることにさえ気づかず、慌ただしく出て行った。 玄関で彼の姿が消えるのを見ると、静の心には、不思議なほどの解放感が満ちていた。 静は、修也の連絡先をすべてブロックしてから、メモを書き残した。 【修也、さようなら。私、別の人と結婚するから】 そのメモと鍵を玄関の靴箱の上に置くと、彼女はスーツケースを持って、空港へと向かった。 これをもって、修也の世界から、氷川静という存在は完全に消え去るのだ。