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恋も夜も、終わりにして
結婚して五年目。藤崎結衣(ふじさき ゆい)は、夫が買ってきたビタミンCがあまりにも苦いと文句を言いながら、その薬の瓶を持って桜丘総合病院...
Chương (1)
第1章
結婚して五年目。藤崎結衣(ふじさき ゆい)は、夫が買ってきたビタミンCがあまりにも苦いと文句を言いながら、その薬の瓶を持って桜丘総合病院へ向かった。
医師は瓶をしばらく眺めてから言った。「これはビタミンCじゃありませんよ」
「先生、もう一度言っていただけますか?」
「何度言っても同じですよ」医師は瓶を指さした。「これ、中身はミフェプリストンです。これを飲み続けると、不妊になるだけじゃなく、体にも大きな害があります」
喉に何かが詰まったようで、結衣は瓶を握る手に思わず力が入り、指先が白くなっていた。
「そんなはずありません。これ、私の夫が用意してくれたものなんです。私の夫は藤崎風真(ふじさき かざま)です。この病院の医師です」
医師は一瞬、何とも言えない表情を見せてから、苦笑した。
「あなた、一度精神科にかかったほうがいいですよ。藤崎先生の奥さんなら、皆知っています。ついこの前、赤ちゃんが生まれたばかりです。あまり思い詰めないでください、世の中には叶わないこともあるんです」
第1話
結婚して五年目。藤崎結衣(ふじさき ゆい)は、夫が買ってきたビタミンCがあまりにも苦いと文句を言いながら、その薬の瓶を持って桜丘総合病院へ向かった。
医師は瓶をしばらく眺めてから言った。「これはビタミンCじゃありませんよ」
「先生、もう一度言っていただけますか?」
「何度言っても同じですよ」医師は瓶を指さした。「これ、中身はミフェプリストンです。これを飲み続けると、不妊になるだけじゃなく、体にも大きな害があります」
喉に何かが詰まったようで、結衣は瓶を握る手に思わず力が入り、指先が白くなっていた。
「そんなはずありません。これ、私の夫が用意してくれたものなんです。私の夫は藤崎風真(ふじさき かざま)です。この病院の医師です」
医師は一瞬、何とも言えない表情を見せてから、苦笑した。
「あなた、一度精神科にかかったほうがいいですよ。藤崎先生の奥さんなら、皆知っています。ついこの前、赤ちゃんが生まれたばかりです。あまり思い詰めないでください、世の中には叶わないこともあるんです」
そう言って、医師はスマートフォンを取り出し、一枚の写真を見せた。
写真には、白衣姿の風真が赤ん坊を抱き、その隣にはやさしく微笑む女性が写っていた。
それは、風真がよく「妹のような存在」だと言っていた桐谷玲奈(きりたに れいな)だった。
頭の中が一瞬、真っ白になった。
医師は、あの写真の女性が風真の奥さんであり、赤ん坊がその子どもだと言うのだ。
息が詰まるほど苦しくなり、結衣はよろめきながらエレベーターへと駆け込んだ。十五階に行って、風真に会って、真相を問いたださなければ。
エレベーターの扉が閉まったと同時に、ふたりの聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
今日はしっかりと厚手のコートに身を包み、帽子を深くかぶっていたからか、相手は結衣に気づかず、遠慮もなく会話を続けている。
「風真、本当に結衣さんにバレるの、怖くないのか?最初から玲奈と結婚していれば、子どもをこそこそ隠す必要もなかったのに」
声の主は宮野慎吾(みやの しんご)だった。
風真の声が冷たく響く。「心配いらない。宮野、余計なことは言うな。結衣に何を話していいか、ちゃんとわかってるだろう」
「俺には本当にわからないですよ」宮野は皮肉めいて笑う。「玲奈は五歳のときからお前の家で家族同然に育ったのに、大人になったら結衣さんに夢中になって。
結衣さんのために玲奈を遠ざけたと思ったら、今度はまた手を尽くして彼女を呼び戻して……風真、一体誰を愛しているんだ?」
風真はしばらく黙ってから、ぽつりと言った。「俺は結衣を愛してる。だけど玲奈を完全に切り捨てることもできない。玲奈が海外で辛い思いをしていたと思うと、どうしても気持ちが乱れるんだ。
籍は結衣に与えた。子どもは玲奈に。せめて玲奈には頼れるものを残してやりたいんだ」
宮野がため息をつき、「でも、もし結衣さんと子どもができたら、そのときはどうする?玲奈は俺の従姉妹でもあるんだ」
そのとき、エレベーターの到着を知らせる「チン」という音が鳴った。
扉が開く音と重なるように、風真の低い声が聞こえた。「そんなことは、あり得ない」
宮野はその言葉の意味がすぐにはわからず、少し首を傾げてからエレベーターを降りていった。
だが、結衣にははっきりと分かった。
「子どもはできない」
彼は、結衣に「不妊薬」を飲ませ続けていた。玲奈のために、妻である結衣が母親になる可能性を、最初から排除していたのだ。
エレベーターは人であふれ、蒸し暑ささえ感じたが、結衣の身体は氷の中に閉じ込められたように冷え切っていた。
一階に着いたとき、溺れていた人間がやっと水面に顔を出して息を吸うように、結衣は激しく咳き込んだ。
ポケットの中のスマートフォンが震える。画面には風真からのメッセージが表示されていた。
【結衣、明日のレースで会おう。お守り、ちゃんと持ってきてね】
そのメッセージを見た瞬間、結衣の心に溜まっていた感情が一気に溢れ、涙がとめどなく流れ出した。
どれだけ忙しくても、結婚してからのすべてのレースに、風真は必ず駆けつけてくれた。どんなに夜遅くても、どんなに疲れていても、ゴールで結衣を待っていてくれた。
その日は、あらかじめ予約していたレストランで彼女を迎え、花束を手渡してくれた。毎年、必ず。
彼の友人たちは冗談めかして言っていた。「結衣は風真が命を賭けて手に入れた特別な存在だ」
彼女を森国に呼び戻すため、海外チームと争い、何度も危険な目にあった。
彼女を繋ぎとめるために、一流のコーチを揃え、結衣専用のレーシングクラブまで作った。
結婚後も、寝言で「お母さんに会いたい」とつぶやいただけで、風真はすぐに夜中から動き出し、朝が来る前には母の遺品を手配してくれた。
そんな風真が、裏で別の家庭を築いていたなんて。
結衣はふと、すべてを悟った。
なぜ玲奈が自分より藤崎家のことを知っていたのか。なぜ海外暮らしのはずなのに、全員のあだ名まで知っていたのか。なぜ「妹のような存在」なのに、手術のスケジュールまで動かして、堂々と一緒にレースに参加していたのか。
「妹のような存在」なんかじゃなかった。子どものころから決められていた、正真正銘の許嫁だったのだ。
さっきまでは「もし玲奈が間に割り込んできたら絶対に許さない」と思っていた。
でも今になって分かった。本当に割り込んだのは自分のほうで、身を引くべきなのは自分だった。
足元から這い上がってくるような冷たい絶望に、結衣の四肢は痺れるように麻痺していく。
人は崩れるとき、きっと大声で泣き叫ぶのだと思っていた。だけど、本当に絶望したときは、声さえ出ない。
止めどなくあふれる涙と、どん底まで沈むような心の痛みだけが、「自分はもう限界だ」と教えてくれる。
胸の奥を大きな手で鷲掴みにされ、心臓の最後の一滴の血まで絞り取られるような感覚だった。
スマートフォンが再び震える。画面には玲奈からの家族写真と、冷ややかな一文が添えられていた。
【結衣さん、いい加減に自分の居場所じゃないって分かったらどう?あなたが自分から出て行くかと思ってたのに、本当に図太い女だね。風真さんが「子どもは自分に似ている」って。どう思う?】
結衣は一瞥してすぐ画面を閉じた。
「欲しいなら、あげる」
けれど、結衣は風真の性格をよく知っていた。一度手に入れたものは、たとえ興味をなくしても、簡単には手放さない人なのだ。
指先が電話帳の番号の上でしばらく止まり、ようやく思い出しかけていた番号を押す。
電話がつながった瞬間、自分の声が震えているのに気づいた。
「……遥斗(はると)、あのときの賭け、まだ有効?」
第2話
電話の向こうから、一瞬息をのむ気配が伝わり、瀬戸遥斗(せと はると)の低く落ち着いた声が響いた。
「半月後、瀬戸家は引っ越す。そのとき、迎えに行く」
結衣は一瞬きょとんとしたが、すぐに声をあげて笑ってしまった。
まだ何も言っていないのに、この人はもう自分が出て行くと決めつけている。
だけど、遥斗の読みは正しかった。
「うん、お願い」
遥斗ほどの人なら、半月も経てば、たとえ風真がどれだけ必死に探しても、きっともう自分を見つけることはできないだろう。
この日、夜遅くまで、結衣は風真からのメッセージに一切返事をしなかった。
風真は本当に焦ったのか、早めに仕事を切り上げ、急きょ最も早い便に乗って家に戻ってきた。玄関のドアを開けた瞬間、その場で立ち止まり、張り詰めていた表情が一気に和らぐ。
リビングの柔らかな灯りの中、結衣はソファでテレビを眺めていた。
「結衣?どうして帰ってきてたんだ?」風真は数歩で駆け寄り、「あんなにたくさんメッセージ送ったのに……」
言い終わる前に、結衣を力強く抱きしめ、顎で彼女の髪をすり寄せながら「無事でよかった。本当に心配したんだ……結衣、俺には君しかいないんだ」とつぶやいた。
その瞳に偽りのない愛情が宿っているのは結衣にも分かる。
でも彼の愛は、自分だけに向けられているわけじゃない。それもまた、結衣にはよく分かっていた。
喉の奥が詰まるような苦しさに襲われ、結衣は手のひらをぎゅっと握りしめ、どうにか気持ちを抑え込んだ。
ほんの一瞬、すべてを打ち明けそうになったけれど、その思いはすぐに飲み込んだ。
もし今ここで話してしまったら、本当にもう逃げられなくなってしまう。
そっと風真の腕から抜け出し、できるだけ平静を装って言う。「レースが延期になって、携帯も切れてて、メッセージは見てなかったの」
けれど風真は、その言葉の裏にある動揺には気づかないまま、微笑んで手を伸ばし、結衣の鼻先を軽くつついた。
「見てなくてもいいんだよ。どうして泣きそうな顔してるの?俺は怒ったりしないよ。
お腹空いただろ?」そう言って車のキーをちらつかせる。シャツとスラックスで背筋の伸びた立ち姿、その腕に無造作にかけたジャケット。「ずっと君が食べたいって言ってたすき焼き、予約してあるんだ。行こう、お姫様。思いっきり食べさせてあげるよ」
差し出された手のひらに、結衣はふと目を奪われた。
十八歳のあの日の午後、バスケットコートで、あの少年がこんなふうに手を差し伸べてくれたことを思い出す。汗でびしょぬれの白いTシャツ、腕にはバスケットボール。今よりずっと無邪気な笑顔で「お姫様、今日は好きなだけごちそうしてやるよ!」
あの頃の彼の心には、自分しかいなかった。
結衣は自分の気持ちに嘘はつかず、お腹の声に従ってすき焼き屋に向かった。
風真は相変わらずで、普段は人の世話なんてしないくせに、今夜ばかりは手際よく袖をまくって料理を取り分けてくれる。煮えたばかりの具材を、いつだって最初に彼女の小鉢に入れてくれる。
気づけば器は山盛りに。そのとき、不意にスマートフォンの着信音が鳴った。
もしこの音がなければ、結衣はまたあの愛情に溺れてしまいそうだった。
「出ていいよ」
うつむいて、溶き卵の表面を静かに箸で混ぜた。
風真は着信画面をちらりと見て、結衣をなだめるように一言だけ声をかけ、席を立って外で電話に出た。
しばらくして戻ってくると、どこか焦りと後悔が入り混じった表情で言った。
「結衣、ごめん。病院で急な手術が入って、すぐ行かなきゃいけない。最後まで一緒に食べてあげられなくて本当に申し訳ない。明日、必ず休みを取って君と過ごすから」
結衣は、誰からの着信か最初から知っていたが、あえて嘘を暴くことはせず、静かにうなずいた。「うん、行ってきて」
風真はその返事に安心したようで、すぐに店を出ていった。
目の前の席が空っぽになり、結衣の胸は針で刺されるような痛みに襲われる。
気持ちを立て直そうと箸を手に取ったところで、玲奈からのビデオ通話がかかってきた。
結衣はすぐに切ったが、玲奈はしつこく何度もかけ直してくる。十回以上繰り返された後、結衣はついに応じた。
玲奈は、いつもの無邪気な笑みを浮かべながら言った。
「結衣さん、もしかして今、すき焼き食べてる?ほらね、誰かさん、今日『家』に帰ってきたとき、すごくすき焼きの匂いがしてたんだよね」
玲奈は「家」という言葉をわざと強調し、その言い方には明らかな挑発がこもっていた。
結衣は表情を引き締めて言い返す。「玲奈さん、あなたって本当に子どもっぽいわね。
今、誰と誰が本当の夫婦か忘れてないよね?この通話履歴を風真に見せたら、彼はあなたと私、どっちを選ぶと思う?」
玲奈の目が一瞬揺れたが、すぐに強がった笑みを浮かべて言い返す。
「だったら送れば?電話切らないでよ、どっちが子どもっぽいか、ちゃんと見せて」
自分でも理由はわからないが、結衣はなぜか通話を切らずにいた。
しばらくして、画面の背景が動き、風真の姿がそこに映る。
玲奈はすぐに彼に身を寄せ、その腕の中で甘えるように体を預けた。ちょうどその瞬間、彼が画面を覗き込もうとする視線を、玲奈がうまく隠してしまう。
「風真さん、まだ私が昔ほかの人と駆け落ちしたこと、怒ってる?もし私がいなくならなかったら、あなたは結衣さんを選ばず、私と結婚してた?」
風真は眉をひそめて、「そんなもしもは意味がない」と短く答える。
「ただ聞いただけだよ……」玲奈は目を潤ませ、声もか細くなる。「他の意味はないから……」
しばらく沈黙が流れ、やがて風真がしわがれた声で答えた。
「そうだ」
たった一言で、結衣の心は一気に空っぽになった。
そうか。最初から、彼の心は自分だけのものじゃなかったんだ。
結衣の脳裏に、ふたりが結婚したあの日のことがよみがえる。
手をしっかり握られ、たくさんの親族や友人を前にして、風真は敬愛する祖母に誓ってくれた。
「俺、藤崎風真は、過去も未来も、結衣だけを愛し続ける。俺の身体も、財産も、命も、全部彼女のものだ。
彼女がどんなにわがままでも、どんな失敗をしても、たとえ俺のことを愛さなくなっても、誰か他の人を好きになっても、結衣さえ傍にいてくれるならそれでいい」
あのときは涙が止まらないほど幸せで、「世界で一番本物の愛を手に入れた」と思い込んでいた。
でも今になって、あの誓いが最初から全部嘘だったと気づいた。
自分は彼の唯一じゃなかった。これまでも、今も、そしてこれからも。
結衣は結局、彼と玲奈の駆け引きのための道具でしかなくて、一緒に過ごす時間の中で、少しだけ情が移ったから手放せなくなっただけ。
そう気づいた瞬間、無理やり笑顔を作ってみたが、こらえきれずに涙があふれ続けた。
少なくとも、一度だけはあの情熱的な愛を手に入れたと思っていた。けれど実際には、最初から最後まで自分は、誰かの居場所を盗んだだけの存在だったのだ。
下を向いて胸元の服をぎゅっと握り、必死で呼吸を整えようとする。
それでも喉の奥のつかえは消えず、涙だけが静かにテーブルに落ちていった。
その夜、風真は家に戻らなかった。
結衣のもとに届いたのは、玲奈が送ってきた、眠っている風真の写真だった。
結衣はその顔をずっと見つめていた。夜が明ける頃には、心が空っぽになったような静けさだけが残っていた。
結衣はスマートフォンを手に取り、弁護士である友人の白石理沙(しらいし りさ)に電話をかける。
「理沙、離婚協議書の作成、お願いできる?」
第3話
結衣が目を覚ましたとき、家の中はまだ静まり返っていた。
スマートフォンには風真からのメッセージが届いていた。
【結衣、今日は病院が忙しくて、せっかくの休みがダメになっちゃった。怒らないでね。明日、どんなに忙しくても絶対に一緒にいる。プレゼントも用意したから、待ってて】
そのメッセージのすぐ下には、一時間ほど前に玲奈が送ってきた写真が表示されていた。
ふたりが温泉の露天風呂で肩を並べて写るツーショット。幸せそうな笑顔が、結衣の胸を刺した。
スマホを握る指先が熱くなり、今にも電話をかけて「本当に手術が忙しいの?それとも妹さんと温泉デート?」と問い詰めそうになった。
けれど、心の中の計画を思い出して、どうにか気持ちを抑え、【わかった】とだけ返事をした。
帰ってこないのも都合がいい。ちょうど荷物をまとめるのに邪魔されずに済む。
風真が買い揃えた服も、きれいに箱詰めして寄付に出す準備をした。
壁にかかっていたふたりの写真は外してシュレッダーへ。かつて書き溜めた「風真への百の願いごと」カードも、ベランダで灰になるまで燃やした。
あまりにも物を処分しすぎて不審に思われるのが怖くて、あとはそっと片付けるだけにした。
翌日、風真がやっと帰ってきた。
結衣の顔を見た瞬間、彼は手にしていたケーキを玄関に置き、両腕を広げて歩み寄ってきた。
「結衣、今日は本当に疲れた。癒やしの充電がほしいな」
けれど結衣は一歩、さりげなく後ろに下がった。その腕の中に飛び込むことはしなかった。
風真は眉を上げて、少し困ったように言う。
「まだ怒ってるの?もういいだろう、さあ、君のために用意したサプライズを見せてあげる」
結衣が何か言う前に、彼は結衣の手を引いて車へと連れていった。
車はトレーニング場へと向かう。到着すると、彼女を車から引っ張り出した。
「どう?気に入った?」
風真が指差した先には、派手に改造されたレーシングカー。
車体にはピンク色のラメとダイヤモンドがびっしり貼りつけられていて、眩しいほどだった。
結衣は驚きを隠せず、クラブのコーチたちが側でざわめいている。
「この車、改造費でほぼ1億円かかったらしいよ。すごい愛だね」
「値段なんて関係ないさ。聞いた話だと、このダイヤ全部、藤崎さんがひとつひとつ手で貼ったんだって。ほとんど寝ずに作業したってさ」
「結衣、ちょっと試してみてよ。乗り終わったら俺たちにも運転させて!藤崎さん、本当に奥さん大事にしてるんだなぁ」
周りの声を聞きながら、結衣の驚きはやがて冷めていき、胸の奥がじわりと熱くなった。
口元を引きつらせて、どこか自嘲気味に笑う。
みんなが「愛されてる」って言うけど、本当の「妻」は一体誰なの?
風真の愛は、たしかに真夏の太陽みたいに激しい。でも、その熱は自分だけに注がれているわけじゃない。それだけは、結衣にも痛いほど分かっていた。
何日も押し殺してきた感情が、今になって一気に溢れ出しそうになる。
結衣は運転席に座ると、思いきりアクセルを踏み込んだ。レーシングカーは矢のようにコースを駆け抜けていく。
ぐるぐるとサーキットを回り続け、悔しさも、怒りも、やりきれなさも、全部エンジンの轟音にぶつけた。
風真はコース脇で両手をポケットに突っ込み、微笑みながら結衣の走りを見守っている。
四十周目、結衣がふと視線を上げると、風真が彼女に向かってハートマークを作って見せていた。
一瞬気を取られ、ハンドルを握り損ねて、車体が「ガン」とサイドフェンスにぶつかった。
足の指先に鋭い痛みが走る。
呆然としていると、すぐに風真が駆け寄り、結衣を抱き上げて休憩室へと運んだ。
「大丈夫?」風真は眉をひそめ、そっと結衣の足を持ち上げる。消毒液をコットンに含ませ、傷口にやさしく塗りながら、「無理させてごめん。俺のせいだね」とつぶやく。
その仕草はまるで壊れやすいガラス細工を扱うように繊細で、瞳には溢れるほどの優しさが宿っていた。
でも、結衣の心は冷え切ったままだった。
愛って、こんなにも巧みに演じられるものなんだ。
ぼんやりと風真の髪に手を伸ばそうとしたとき、彼がその手首を掴み、ふいに唇を寄せてきた。
「ドン!」
突然、休憩室のドアが勢いよく開かれた。
風真は顔も上げず、テーブルのミネラルウォーターを手に取り、入り口に向かって投げつける。
「出ていけ!」
結衣が顔を向けると、そこには玲奈が立っていた。
ようやく風真も顔を上げ、驚いたように言った。
「玲奈?どうした、こんなところに」
玲奈は額を押さえながら、唇を噛みしめてうつむいている。服には泥がついていて、見るからにボロボロだった。
「練習中にブレーキを踏み損ねて、クラッシュしちゃって……救急箱を取りに来たの」
風真は数秒黙り、玲奈を無視して絆創膏を取り出すと、結衣の足の指に優しく貼った。
「ここで座ってて。足を怪我してるんだから、無理しちゃダメだ」
そう言って結衣の耳元の髪を撫で、そっと頬にキスを落とす。「ちょっと様子見てくる。すぐ戻るから、すぐそこにいる。何かあったら呼んで」
救急箱を手に、風真は部屋を出ていった。
休憩室は急に静かになり、外からは風の音だけが聞こえてくる。
しばらくして結衣がそっとドアを開けてみると、誰もいなかった。
「すぐそこにいる」なんて、やっぱり嘘だった――
そんなわずかな失望も、すぐに胸の奥に押し込めた。
最初から分かっていたことなのに。
壁をつたってゆっくりと歩き、結衣はあのレーシングカーのほうへと向かう。
本当にあの車が好きだった。空が曇ってきたから、ガレージにしまっておこうと思った。
けれど、車の近くまで来たとき、結衣の足がぴたりと止まった。
車体がかすかに揺れている。閉まりきっていない窓からは、誰かの話し声が漏れ聞こえていた……
第4話
車の窓ガラスには、二つの影が重なって映っている。ほんの指一本分ほどの隙間が残っていた。
風真は玲奈を運転席に押し倒し、指先で玲奈の額を優しくなぞった。「さっき、痛かったか?」
玲奈は顔を上げて風真の唇にそっと触れ、媚びるような笑みを浮かべる。
「痛くないよ。私がふたりの邪魔をしちゃいけなかったの。自業自得だよ」
風真は眉をひそめ、玲奈の頬に軽く噛みついた。
「バカ言うな。お前も結衣も、どっちも俺の大事な人だ」
そう言いながら彼女の腰を軽くつまみ、どこか不敵な色をにじませる。「口が減らないな。まだ懲りてないみたいだな」
言い終わるが早いか、片手で玲奈の手首を頭の上で押さえつけ、もう一方の手で彼女の腰に沿って滑らせ、唇を激しく奪った。
玲奈は少し身をよじって風真を押し返し、わずかに拗ねた声で言う。「これは結衣さんに贈った車だよ。ここではしたくない……
それに結衣さんはまだ休憩室で待ってるよ。すぐ戻るって約束したんじゃなかった?」
風真は玲奈の手首を片手で押さえつけたまま、もう一方の手をさらに腰のラインに沿わせる。声はかすれて低く、欲望が滲む。「今は他のことなんて考えなくていい。お前なら、数分で十分だ」
すぐに、玲奈の吐息は細く甘いものに変わり、柔らかく風真の肩にすがりついた。
そのときにじむようなふたりの声が、風に乗って外まで漏れた。
結衣はその場に釘付けになり、全身の血が凍りついたようだった。膝が崩れそうになり、胸の奥に大きな穴が空いたみたいに痛くて、視界が一気に真っ暗になった。
思い出すのは、あの日のこと。
クラブを創設した日、風真はまるで飴をねだる子どものように結衣の褒め言葉を待っていた。でも結衣はあまりに嬉しすぎて、涙があふれて言葉にならなかった。
そんな結衣を、風真はレーシングカーの後部座席に抱き寄せ、熱い息を吐きながら服をはだけさせた。結衣も心が高ぶっていたけれど、必死に我慢して彼を押しのけた。
「風真、レーシングカーは私の大切な夢なの。ずっと純粋なままでいてほしい」
そのとき、風真は一瞬固まった。結衣は怒られるかと不安になったが、彼は急いでふたりの服を整え、真剣な眼差しで誓った。
「約束する。これからはレーシングカーを自分の夢にする。生まれ変わっても、この車にはずっと敬意を持つ。絶対に車の中で……」
後半の言葉は耳元でそっと囁かれ、結衣の顔が熱くなった。
この約束があったから、結衣は、この人とずっと一緒に生きていくんだ、と心から思った。
なのに今、彼は他の女と自分のレーシングカーの中で、自分が一番大切にしてきたものを踏みにじっている。
結衣はあまりの痛みに立っていられなくなり、手に持っていた車のキーを「カタン」と落としてしまった。我に返って逃げ出そうとしたが、中のふたりは外の気配など全く気づいていない。
泣き顔よりも酷い笑みを浮かべ、指を噛みしめて、嗚咽が喉の奥で詰まる。
ちょうどそのとき雨が降り出し、車の窓の隙間が「カチッ」と音を立てて閉じられた。
結衣は最後にもう一度、まだかすかに揺れる車体を見て、そっと鍵を拾い上げ、そのまま隣の側溝に放り投げた。
ちょうどそのとき、後部座席の玲奈が顔を上げて、ミラー越しに結衣の背中を見送り、得意げに微笑んだ。
にわか雨はすぐにやみ、空気が静まり返った。
やがて風真が休憩室のドアを開けたとき、結衣はさっきと同じ姿勢のまま座っていた。
風真はホッとしたように息をつき、襟元を引っぱって結衣の前にしゃがみこむ。
「結衣、帰ろう。家に戻ろう」
結衣が俯くと、ちょうど彼の首筋に新しい赤い痕が見えた。
不思議なことに、心は何も波立たなかった。
結衣は風真に背負われるのを断り、壁づたいに自分でゆっくりと車まで歩いた。助手席のドアを開けると、運転席には玲奈が座っている。
風真は慌てて説明する。
「玲奈が小さなレースに出ることになって、この道で練習させてやりたいんだ。結衣、指導してやってくれないか?」
結衣は一瞬迷ったが、頷いた。
どれほど玲奈が嫌いでも、本気でレースを愛している人は尊重したい。そう思ったからだ。
けれどまさか、玲奈が普通免許さえ持っていないとは知らなかった。そんなことを知っていたら、絶対にこのドアを開けなかったのに。
車が急に蛇行して走り出した瞬間、結衣の心臓は喉元まで跳ね上がった。慌ててハンドルを掴もうとしたが、玲奈は容赦なく結衣の手を突き飛ばした。
「死にたくなければ離して!」結衣は涙ぐみながら叫んだ。
けれど玲奈はまったく手を離さず、アクセルを床まで踏み込んでいた。
轟音と同時に、風真の叫び声が響いた。
「結衣!」
第5話
結衣は足に激しい痛みを感じながら、遠くで誰かが自分の名を呼ぶ声に必死で応えようとした。
「風真……私、ここにいる……」
しかし、誰も返事をしてくれない。
ぱっと目を開くと、視界は血で霞み、車内には自分一人しかいなかった。
あの声で呼んでくれた人は、結局、助けには来なかった。
意識が遠のいたその瞬間、結衣は夢の中に落ちていった。
夢の中で、風真がロサンゼルスまで追いかけてきたあの日を思い出す。
当時、所属していたクラブに引き留められて帰れずにいた結衣を、風真は目を赤くしてクラブに乗り込み、「彼女を連れて帰る」とクラブ相手にレース勝負を申し込んだ。勝ったら結衣を連れて帰る、そう言い切った。
その頃、彼は結衣のためにプロのライセンスまで取得し、初めて本格的なレーシングカーで山道を攻めていた。結衣は助手席に座り、緊張しながら彼をサポートしていた。だが、コーナーでハンドル操作を誤り、車はガードレールを突き破り、崖の下へ転がり落ちた。
混乱の中、風真は身を呈して結衣を守り、頭を打って血を流しながらも決して彼女を離さなかった。最後の力を振り絞って、彼女を車の屋根の岩の上へと押し上げ、「しっかりつかまれ!」と掠れた声で叫んだ。
彼自身は、変形した車体とともに崖から落ちそうになり、半身が宙ぶらりんになりながらも、もう少しで命を落とすところだった。
助けられてからも、風真は結衣の腕の中で意識が朦朧としながら、「結衣……向こうは君にお金を稼いでもらいたいだけなんだ。俺は君に安全でいてほしい……これからどんなに危険でも、絶対に俺が守る。だから、一緒に帰ろう」と呟き続けていた。
結衣はその言葉に応えようとしたが、夢の光景は急に暗転し、意識はふっと引き戻された。
でも、今回ばかりは、彼はもう自分を守ってはくれなかった。
結衣はまぶたを震わせて目を開ける。一粒の涙が頬を伝い、枕元に落ちた。
ベッドのそばで、「結衣、目が覚めたんだね!」と明るい声が響いた。
看護師も笑顔で、「やっと目覚めてくれましたね。藤崎先生、あなたのこと一日中付き添っていましたよ、目が真っ赤になるまで。あんなに大事にしてもらえるなんて、私も妹になりたいくらいです」と声をかける。
結衣はまだぼんやりとした頭で、「妹?」と尋ねる。
看護師は「ええ、あなたは藤崎先生の妹さんですよね?」と答えながら、「今朝は奥さんの玲奈さんもお見舞いにいらして、泣きながら『結衣さんが目覚めたら必ず連絡してほしい』って頼まれましたよ」と続けた。
その瞬間、「パリン!」と音を立てて、風真の手からガラスのコップが床に落ちて砕けた。
看護師は驚き、すぐに片付けを呼びに出ていった。
その音で結衣もすっかり目が覚め、バラバラだった記憶が一気につながった。
風真が玲奈を抱えて去っていく背中、死にかけた自分が必死で手を伸ばしたのに、まるで空気のように無視された絶望。
結衣は風真を見つめ、彼の動揺を見抜いた。
口元を引きつらせ、冷たい声で言う。「説明して」
風真は一瞬動揺し、慌てて結衣の手を握る。「みんなが勝手に勘違いしたんだよ!俺たちが親しそうだったから、妹と間違われたんだ、絶対にそうだよ……」
「わかった。信じる」
結衣はそれをさえぎり、感情の一切こもらない声で言った。
風真はその言葉に詰まり、それ以上何も言えなくなった。
おかしい。本来の結衣なら泣いたり、怒ったり、玲奈を先に助けたことを責めたり、「どうして自分たちの関係を誤解されたままにしたの」と問い詰めたりするはずだ。
なのに今の結衣は、まるで何も感じていないかのように静かだった。
背筋を伝って恐怖が這い上がる。風真はなおも何か言いかけるが、結衣は「眠いの」とだけ言い、目を閉じた。
風真の胸に募るのは、やり場のない罪悪感だけだった。
「結衣、全部俺が悪いんだ。玲奈に運転させたのも後悔してる。ちゃんと玲奈には叱っておいたし……もし怒ってるなら、俺のこと、怒鳴っても叩いてもいい、我慢だけはしないでくれ」
結衣はそっと手を引き抜き、再び目を開いたときには、その瞳に生気はなく、ただ虚ろな光だけが残っていた。
「本当に、眠いの」
どうしてもおかしい。
風真は混乱し、手のひらからこぼれ落ちるような焦燥感に飲み込まれていった。
それでも謝罪の言葉を口にする前に、回診の医師に呼ばれて病室を出ることになった。
風真が出て行くと、結衣の目元に赤みが差した。
だけど今度ばかりは、どれほど胸が痛くても、もう涙は出てこなかった。
彼が病室を出ていったその瞬間、結衣の心も完全に死んだ。
乾いた目元をそっと拭い、結衣はただ静かに眠りたかった。目が覚めたら、この男のもとを去ろう。そう思った。
けれど、目を閉じた途端、隣のベッドから騒がしい声が聞こえてきた。
「泣かないの!隣のベッドのお姉さんはレーサーだったのよ。今は足を骨折して、もう二度と車を運転できなくなったのに、一度だって泣き言なんか言わなかったんだから。ちょっと足をくじいただけで、何をそんなに大げさに泣いてるの!」
「やだ!ぼく、足が折れるのは嫌だ、絶対に嫌だ!」
男の子の泣き声が病室中に響き、結衣の耳にも届いた。
足を骨折!?
結衣の頭の中で、何かが炸裂するような衝撃が走った。
第6話
結衣は思わず自分の足を触った。指先に触れたのは硬いギプスの感触。
足はまだあった。
だが次の瞬間、心臓がぎゅっと縮み上がる。
さらに下へと触れてみても、どんなに軽く揉んでも強くつねっても、その脚は全く何も感じなかった。まるで自分の身体にくっついた、見知らぬパーツのようだった。
「そんなはず、ない……」
結衣は呟きながらシーツを掴んで上半身を起こそうとしたが、身体を半分ほど持ち上げたところで、右足が突然力を失い、全身が床に倒れ込んだ。
ちょうどそのとき、病室の扉越しに風真の切羽詰まった声が聞こえた。
「先生、本当にほかに方法はないんですか?彼女はレーサーなんです……」
「これは経過次第ですね」と、別の医師がため息混じりに答える。「ただ、本当にもう一度サーキットに戻るのは勧められません。あの強度のレースで再び傷めれば、取り返しがつかなくなりますよ」
短い沈黙の後、風真がかすれた声で「……分かりました。ありがとうございます」と答えた。
その一言一言が、結衣の最後の希望を砕く重い石のようだった。
結衣は、レースのために生きてきた。
初めてハンドルを握ったときから、自分の命はエンジンの鼓動と一つになっていると信じてきた。
でも今、もう二度とレーシングカーには乗れないと宣告された。
死ぬよりも苦しかった。
その時、風真が部屋に飛び込んできて、床にうつ伏せになっている結衣を見つけ、慌ててしゃがみ込んで抱き起こそうとした。結衣の顔が涙で濡れているのに気づき、動きが止まる。
「聞いてたのか……?」
結衣は風真を見ずに、差し伸べられた手を振り払い、震える声で尋ねた。
「玲奈さんは?」
風真の表情がわずかに変わり、結衣が何かしないか心配するように急いで弁解した。
「玲奈はまだ若くて、よく分かってなかったんだ。免許も持ってないのに車を運転したこと、ちゃんときつく叱っておいた。玲奈自身も怪我してるし……結衣、もう彼女を責めないでくれないか?」
結衣は怒りを込めて風真を見上げ、目は真っ赤だった。
彼は玲奈が免許を持っていないのを知っていて、運転させただけでなく、レースにまで出場させていた。
これで4回目だ。
4回も事故を起こし、4回とも自分が病院のベッドに寝かされる羽目になった。
そのたびに玲奈は、きちんとした謝罪の一言すらなかった。
ふいに笑いたくなったのに、あふれる涙のせいで唇が引きつり、痛みさえ感じた。
大粒の涙が次から次へと落ちて止まらない。
それでも風真は、玲奈をかばい続ける。
「じゃあ、私は?」結衣の声はかすかだった。「彼女を責めなかったら、誰を責めればいいの?自分を責めろっていうの?立てなくなったこの足は私のせい?彼女じゃないっていうの?それなのに、あなたはまだ彼女の肩を持つなんて」
風真は眉をひそめ、少し苛立ちを含んだ声で答えた。
「結衣、玲奈だってわざとじゃないんだ。どうしていつまでも責め続けるんだよ?」
少し間をおいてから、まるで責めるような口調で続けた。
「それに、もし君があの時ハンドルを奪わなければ、もしかしたら何も起きなかったかもしれない。自分のことを少しも考えなかったのか?」
まるで氷水を頭から浴びせられたようだった。結衣の全身から血の気が引いていく。
けれど一瞬ののち、結衣は無理やり笑った。
その笑顔は、泣き顔よりもずっと哀しかった。
玲奈のことになると、どこまでも自分が悪者にされる。
心はすでに死んでしまっていたのに、最後の砦すら踏みにじられ、粉々にされてしまったようだった。
結衣は目を閉じて、力のない声で言った。
「もういいよ。疲れたから、出ていって」
結衣の顔に浮かんだ絶望的な表情を見た瞬間、風真の胸はぎゅっと締めつけられた。
自分がどれだけひどいことを言ったのか、ようやく気づいて謝ろうとしたが、結局言葉にならず、足取りもふらついたまま部屋を出ていった。
それからの三日間、風真はほとんど病室を離れず、苦い漢方薬を手ずから飲ませたり、昔よく作っていた料理を工夫して用意したり、夜はベッドの隣に折りたたみベッドを広げて、少しでも物音がすればすぐに飛び起きた。
結衣は、魂の抜けた人形のようだった。薬を飲めと言われれば口を開き、起きろと言われれば体を起こす。ほとんど言葉も交わさず、ただぼんやりと天井を見つめていた。
そしてついに、風真が「玲奈と偽装結婚することにした」と告げたとき。結衣は初めて、反応を見せた。
「わかった。出席するよ」
その声は、相変わらず乾いていた。
風真の心は、さらに沈んだ。
彼は結衣が泣いたり、責め立てたりするものと予想していた。けれど、こんなふうに何も感じていないような態度をとられるとは思っていなかった。
風真は慌てて言い訳をしようとするが、その声には動揺がにじんでいた。
「違うんだ、結衣。瀬戸家が玲奈を狙っていて、どうしてもあの家に嫁がせたくないんだ。兄として、妹をそんな地獄に送り込むわけにはいかない。だから世間には君と離婚したと発表して、玲奈と結婚するふりをするだけなんだ。離婚も、結婚も全部偽装で、瀬戸家のことが落ち着いたら、また元に戻るつもりだから」
結衣はそれを聞いて、ふっと小さく笑った。
それは自嘲でも嘲笑でもなく、本当にほっとしたような笑いだった。
遥斗が、ようやく動き出した。
風真は「瀬戸家は地獄みたいな家だ」と言っていたけれど、結衣にとっては、むしろこの窒息しそうな牢獄から逃げ出せる、唯一の希望だった。
第7話
結衣が微笑むと、風真の顔から不安の色が消えた。
「結衣、安心して。俺の心の中には君しかいない。
この前は言い過ぎた。どんな願いでも言ってくれ。君が許してくれるなら、俺は何だってする」
身を乗り出した風真は、今にも泣きそうな顔で必死に訴える。
かつての結衣なら、こんな風真を見ればすぐに心が緩んでいた。でも今は、目の前の彼がとても遠い存在に思え、心は凍りついたままだった。
結衣は、じっとそのまなざしを見つめ、口元にかすかな笑みを浮かべる。
「じゃあ、玲奈さんを別の人と結婚させて」
風真の笑顔が一瞬で凍りついた。無理に作ったような引きつった笑みだけが残る。
「結衣、そんな冗談やめて」
手を伸ばして結衣の頬に触れようとしたが、結衣は顔をそらした。
「玲奈は君の妹のような存在でもあるでしょ?そんなことで嫉妬するなんて子どもっぽいよ。他のお願いにしてくれない?君の願いなら何でも叶えてあげるから」
結衣はさらに大きく笑った。
分かっていた。玲奈のことが絡めば、風真のどんな固い約束だって、紙のように簡単に破れてしまうのだ。
「冗談よ」結衣はすっと笑みを消し、淡々と告げた。「何をしようと、もう私にいちいち報告しなくていい」
結衣がもう玲奈のことを責めないと分かると、風真はほっとしたように笑い、彼女の頭をやさしく撫でた。
「やっぱり結衣は一番わかってくれるんだな。じゃあ、仕事に戻るよ。ゆっくり休んで」
彼の足音が廊下の向こうに消え、静寂が病室に戻った。そのとたん、結衣の顔からはすべての表情が消えた。
これが、風真がこの数日間、優しく付き添っていた理由なのか。
罪悪感でも哀れみでもない。ただ、結衣が騒ぎを起こして玲奈のための道筋を邪魔しないか、それだけを恐れていたのだ。
結衣は自嘲気味に口元を歪め、枕の下からスマートフォンを取り出し、理沙に電話をかけた。
「理沙、離婚協議書、できた?」
電話の向こうで長い沈黙が続き、一瞬通信が切れたかと思うほどだった。ようやく聞こえた理沙の声は、苦しげに震えていた。
「結衣……君と風真さん、法律的には夫婦じゃないの。前に送ってくれた婚姻関係の書類、あれ全部偽物だった」
結衣は全身が固まり、耳の奥で激しい音が鳴り響いた。
信じられずにスマートフォンを握りしめ、かすれた声で問いただす。
「……どういう意味?」
「本当なの。知り合いに戸籍を調べてもらったの。結衣は未婚で、風真さんには離婚歴がある。戸籍上、君たちは夫婦じゃなかった。彼の前の妻は桐谷玲奈で、二ヶ月前に離婚したばかり。君が持っていた婚姻関係の書類は全部偽物で、印鑑も安物の偽物だった……」
理沙の声は途中で詰まり、すすり泣き混じりになった。
あの日、結衣の結婚式は町中の噂になり、誰もがうらやむ幸せの絶頂だと思っていた。でも、最初から全部が嘘だったなんて――
理沙が送ってきた調査結果のスクリーンショットを開く。
スマートフォンの青白い光が、結衣の青ざめた顔を照らした。
画面いっぱいに並ぶ冷たい文字が、毒針のように結衣の目に突き刺さる。
何度砕けても、その都度かき集めてきた心は、いままた誰かに強く踏みつけられ、完全に粉々にされてしまった。
知らぬ間に、結衣は他人の家庭を壊した女になっていた。
十年もの間、十七歳から二十七歳まで、人生で一番美しい時間をこの男に捧げてきたのに、正式な妻ですらなかった。
なんて、滑稽なんだろう。
激しい足の痛みと、胸を締めつける絶望がいっぺんに押し寄せてきて、もう平然とはしていられなかった。
その瞬間、病室に結衣の叫び声が響き渡る。絶望のあまりの嗚咽は、隣のベッドの患者まで涙を浮かべるほどだった。
やがて、結衣はベッドを降りて、憎しみに突き動かされるまま杖をついて風真のオフィスへ向かった。
風真は、結衣の姿を見つけると、最初はうれしそうに笑顔を見せたが、彼女の震える足と青ざめた顔に気づくと表情が凍りついた。
「結衣、どうしたんだ。足はもう大丈夫なのか?」
手を伸ばして支えようとしたが、結衣はその手を振り払った。
結衣はスマートフォンを風真の前につきつけ、涙に濡れた目でじっと見つめる。
「風真。私、本当にあなたと出会ったことを後悔してる」
風真は慌ててスマートフォンを手に取り、画面を素早くスクロールし始めた。指先の動きはどんどん速くなり、その顔色も次第に険しくなっていく。やがて、結衣と理沙の【離婚したい】というやり取りのメッセージで指が止まった。
「……離婚したいのか?」
突然顔を上げた風真の瞳には、焦りと敵意が宿っていた。
「君は、俺から離れたいのか?」
結衣は鼻をすすり、涙に濡れたまなざしで風真を睨み返す。
「そうよ。あなたなんか怖い。もう二度と近づきたくない」
叫ぶように言い放ち、すぐにスマートフォンを奪い返して遥斗の番号を押しかけた。
だが、電話がつながる前に風真が力ずくでスマートフォンを奪い取り、床に叩きつける。
「バキッ」という音とともに、画面は粉々に砕けた。
結衣は驚きで顔を上げ、血走った風真の視線とぶつかる。
そこには、かつての優しさや情けのかけらもなく、ただ狂気じみた独占欲だけが宿っていた。
「君を絶対に逃がさない」
結衣は全身を震わせながらも、歯を食いしばって背を向けて歩き出す。
だが、二歩踏み出した瞬間、首筋に鋭い痛みが走り、目の前が真っ暗になって意識が遠のいていった。
第8話
結衣が再び目を開けたとき、自分が車の中に閉じ込められていることに気づいた。
首にはまだ痛みが残っていた。助手席のグローブボックスに手を伸ばし、非常用ハンマーを握りしめたその瞬間、車のドアが開け放たれた。
外には風真が立っていた。表情は険しく、目には怒りが宿っている。
「どこへ行くつもりだ、結衣」
結衣は答えなかった。身を乗り出そうとしたところで、風真に腕を掴まれ、座席に強く引き戻された。
風真はドアに身を預け、奥歯を噛み締めながら、充血した目で睨みつけてくる。
「言ったはずだ。どこにも行かせない。ずっと俺のそばにいろ」
結衣は仰ぎ見るように彼を睨みつけ、一言も返さなかった。
風真はしばらくじっと見つめていたが、突然、手を伸ばして結衣の服を引き裂いた。
冷たい空気が肌を刺し、結衣は身を震わせる。
「風真、何をするつもり?」
返事はなく、彼は乱暴に結衣の服を脱がせ、そのまま強く唇を奪った。
手は容赦なく結衣の身体を押さえつけ、抗うことを許さなかった。
このとき初めて、結衣は彼が何をしようとしているのかを悟り、必死にもがいた。しかし、どれだけ抵抗しても風真の腕の力には敵わなかった。
「やめて。そんなことをしたら、一生あなたを恨むから」
叫び声も、泣き声も、肩を噛むほどの抵抗も、風真には届かなかった。
ついに結衣は力尽き、泣きながら懇願するしかなかった。
「風真……車の中はやめて。これは私の大事なレーシングカーなんだから……」
その言葉も、痛みと共に途切れた。
風真の動きは一層激しくなり、耳元に熱い息を吹きかけながら、不気味なほど優しい声で囁く。
「結衣、これは君への罰だ。まだ俺から逃げたいと思うのか?」
結衣は唇を強く噛み、血の味が舌に広がった。
涙が黒いレザーシートにぽつぽつと落ち、そこに小さな染みを作っていく。
玲奈が結衣の足を壊し、風真は結衣そのものを壊そうとしている。
その後数日間、風真は正気を失ったかのように、結衣をサーキットへ連れ出し、すべての車の中で同じことを繰り返した。
結衣は最初こそ泣きながら懇願し、次第に罵声を浴びせたが、最後には何も感じなくなった。
ただ虚ろな目で天井を見上げ、どんなに扱われても抵抗もせず、魂の抜けた人形のように、涙すらもう出てこなかった。
すべてが終わったあと、最後の車の中で、風真は結衣を抱きしめて尋ねた。
「まだ俺から離れたいと思うか?結衣」
結衣は機械的に首を振った。
もう逃げたいとも思えなかった。ただ、死にたいと思った。
それで風真はようやく結衣を家に連れ戻した。
家に入ると、リビングのテーブルに未開封のケーキが置いてあった。見るだけで吐き気がした。結衣は無言で自分の部屋に戻り、ドアを閉めようとしたが、風真に阻まれた。
「素直じゃないな」
風真は手錠を取り出し、結衣をベッドのヘッドボードに繋いだ。そして彼女の手から刃物のかけらを取り上げた。
「言うことを聞け。俺を怒らせたら、困るのは君だ」
結衣が睨みつけていると、部屋のドアが開いた。
玲奈が、何かをぶら下げて入ってきた。
「風真さん、結婚式にはどれを付けたら可愛いと思う?」
結衣の瞳孔が一気に縮まった。
それは、結衣が全国優勝した時のメダルと、母の形見のペンダントだった。
「風真!」結衣は声を張り上げ、嗄れた声で叫んだ。「それは私の大切なものなのに!」
風真は、してやったりというような顔で、ベッド脇に膝をつき、ペンダントを指で弾いた。
「大事なものだって分かってる」
彼は冷たく笑いながら結衣を見上げる。
「また自殺しようとしたら、これらをどうするか分からないからな」
結衣は歯を食いしばり、瞳には果てしない憎しみが浮かんだ。
「俺を恨んでいるのか?」風真が眉を上げる。「なら、もう二度と逃げようなんて考えるな。さもないと、もっと辛い目に遭わせるぞ」
最初のうち、結衣はそれがただの脅しだと思っていた。だがあの夜、風真は結衣をベッドから無理やり引きずり起こし、床にひざまずかせて、彼女の顔を乱暴に掴み、寝室の中央に向けて無理やり向かせた。
そこには、乱れた服のまま風真に抱かれている玲奈の姿があった。
「悔しいのか?それとも気持ち悪いか?」風真の声は毒を含んでいた。「ちゃんと見ろ。絶対に目をそらすな」
これもすべて、言うことを聞かなかった結衣への罰だという。
でも結衣は何の反応も示さなかった。瞬きひとつせず、ただただ見つめていた。
心はとっくに死んでしまったのだ。もう、どうでもよかった。
再び死のうとしないように、風真は結衣の食事を制限し、水とパンだけを少しずつ与えるようになった。手首を噛む力さえ残らないほど衰弱していった。
結局、ペンダントは玲奈の首にかけられ、風真は玲奈の頭を撫でながら言った。
「まだ出て行こうとするなら、このペンダントはずっと玲奈のものだ」
結婚式の前日、風真は珍しく結衣に手を出さなかった。
ベッドに横たわる結衣を後ろから抱きしめ、顎を肩に乗せたまま、優しい声で何度も囁いた。
「お願いだ、結衣。俺を憎まないでくれ。俺はただ、君を愛しすぎただけなんだ。
玲奈との式が終わったら、瀬戸家との関係も片付く。そしたら君を役所に連れていく。本物の婚姻届を出そう。な?」
結衣は目をぎゅっと閉じて、何も答えなかった。
結婚式当日の朝、玲奈は純白のドレス姿で結衣の部屋に現れた。わざと首元のペンダントを見せびらかすように、ぐっと顔を近づけてくる。
「本当にかわいそうだね、結衣さん」玲奈は勝ち誇ったように笑った。「前から言ってたでしょ、早く出ていけばよかったのに。このペンダント、ダサすぎるけど、風真さんが絶対に付けて行けってうるさくてさ、仕方なく嫁入り道具にするんだ」
そんなことを言われても、結衣はもう生きる気力を失っていた。
ペンダントどころか、たとえ今ここに母の遺骨を持ってきて脅されたって、もはや一瞬たりとも心は動かない。
だから、風真と玲奈が腕を組んで家を出ていくその瞬間、結衣は体を横に倒し、まだ動く右手で手首を探った。
歯を食いしばって思いきり噛みつく。痛みは感じない。ただ、生温かい血だけがゆっくりと滲み出てきた。
血がシーツを少し染めたとき、「ガシャッ」と大きな音を立てて寝室の窓ガラスが割れた。
中に投げ込まれたのはダミー人形だった。その後ろから、見慣れた顔が現れる。
遥斗がガラスの破片の中に立ち、手を差し伸べて言った。
「行こう。迎えに来たよ、結衣」