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愛するより愛さない方が幸せ
「システム、クエストを終了したいの」 即座に、システムの無機質な声が返ってきた。 「かしこまりました、静流様。脱退プログラムを起動しま...
Chương (1)
第1章
「システム、クエストを終了したいの」
即座に、システムの無機質な声が返ってきた。
「かしこまりました、静流様。脱退プログラムを起動します。半月後には脱退可能です」
しかし次の瞬間、機械的だった声が一瞬止まる。数秒の沈黙ののち、どこか困惑したようなトーンで尋ねてきた。
「静流様、ここにはあなたを深く愛してくれる夫と、どんな時でもそばにいてくれる息子さんがいます。ここがあなたの家ではないのですか?彼らはあなたの家族でしょう」
「家族」という言葉を聞くと、藤堂静流はゆっくりとテレビへ視線を向けた……
第1話
「システム、クエストを終了したいの」
即座に、システムの無機質な声が返ってきた。
「かしこまりました、静流様。脱退プログラムを起動します。半月後には脱退可能です」
しかし次の瞬間、機械的だった声が一瞬止まる。数秒の沈黙ののち、どこか困惑したようなトーンで尋ねてきた。
「静流様、ここにはあなたを深く愛してくれる夫と、どんな時でもそばにいてくれる息子さんがいます。ここがあなたの家ではないのですか?彼らはあなたの家族でしょう」
「家族」という言葉を聞くと、藤堂静流(とうどう しずる)はゆっくりとテレビへ視線を向けた。
画面に映っていたのは、ちょうど藤堂グループの社長・藤堂和也(とうどう かずや)と、その息子・藤堂慶哉(とうどう けいや)が飛行機から降りてくる場面だった。
和也は息子を抱きかかえ、大股で滑走路を進む。
記者が小走りで近づき、マイクを向けた。
「藤堂さん、昨夜フラニア国での会議を終え、夜通しで帰国されたと伺いましたが……そんなに急がれて、一体何かご用でも?」
ビジネスの世界では常に無口で通っていた和也。けれど、この時だけはカメラに向かって、とても穏やかな笑みを浮かべて言った。
「今日は妻の誕生日ですから。息子と二人で、一緒に過ごさないといけませんので。
私にとって、妻のことがいちばん大事なんです」
その隣で、まだ小さな慶哉がバッグを両手で掲げた。
「ママ、パパと一緒にプレゼント選んだよ!もうすぐ帰るからね!」
記者がさらに質問を投げかけようとした瞬間、和也は「急いでいますので」とだけ告げ、背を向けた。カメラに映ったのは、立ち去るその背中だけ。
記者は感嘆をもらすように言った。
「藤堂さんの奥様への想いは十年前からまったく変わらないんですね。まさに理想の夫です」
「息子さんも、パパにそっくり。あんな素敵なご主人と息子さんがいれば、奥様もさぞお幸せでしょうね」
静流はリモコンを取り、静かにテレビを消した。そして、自嘲するように笑った。
幸せ……か?
一ヶ月前までは、間違いなくそう答えていた。
でも今は、「幸せ」なんて言葉さえ口にできない。
誰も知らない。彼女が、「この世界の人間」ではないことを。
十年前、静流は「クエスト」を背負い、この世界に降り立った。
――両親の死をその目で見て、心を閉ざした少年・和也を救うために。
初めて出会ったときの彼は、陰気で誰とも口をきかず、まるで殻に閉じこもっていた。
彼女は三年かけて、彼の心に少しずつ光を灯していった。そして和也は、今や巨大財閥・藤堂グループの若き社長となった。
彼が会社を完全に掌握した瞬間、静流のクエストはすでに終わっていた。
その時、システムは「脱退」を促してきたが、静流の足は止まった。
和也が、彼女を強く抱きしめ、「行かないで」と懇願した、あの夜のことを何度も思い出した。
彼がかつて両親を亡くしたように、今また大切な人まで失わせてしまったら……静流には、それがどうなるのか想像すらできなかった。
この世界に留まる決意をし、そして和也と結婚した。
結婚式の日、彼女はこう告げた。
――もし私を裏切ったら、この世界からいなくなる、と。
和也は彼女の手を握りしめ、誓った。
「そんな日なんて、絶対に来ない。俺の愛は、永遠だ」
結婚後、その言葉どおり、彼の愛は燃えるように情熱的だった。
記念日にはどんな仕事も断り、社交の場で女性に言い寄られても一切取り合わなかった。
出産は難産だった。静流が手術室で一昼夜を戦っていた間、和也はその外でずっと膝をついて祈っていた。
出てきた彼女の元へ、足元がふらつきながらも必死にたどり着き、ベッドサイドで泣きながら手を握りしめた。
「静流……全部、俺が悪い。子どもなんて、欲しいって言うんじゃなかった。もう二度と……危険な思いはさせない」
その日、彼は「決意の証」として、パイプカット手術を受けた。
そして息子に名づけた名前は――「慶哉」。静流がこの子を産んでくれたことへの感謝と喜びを表していた。
息子もまた、父に倣って母を大切にした。
小さな頃から果物を切って母の口に運び、静流が怪我をすれば、すぐに傷口に息を吹きかけ、絆創膏を探して手当てをしていた。
周りの人々はよく冗談を言った。
「藤堂家で一番お世話されてるのは、慶哉くんじゃなくて奥さんだね」
慶哉は胸を張って言った。
「だって、ママは僕がいちばん好きな人だもん。守らなきゃダメでしょ!」
和也も微笑みながら息子の頭を撫でた。
「妻は何もしなくていい。俺と息子で全部やるから」
静流は、そんな日々が永遠に続くと信じていた。
しかし、その誓いは、いつしか風に消え、時間の流れとともに崩れ去った。
かつて彼女を愛していたはずの父子は、いまや女性秘書・夏目友香(なつめ ともか)と一緒に、もう一つの「家庭」を築いていた。
彼らは何度も静流を騙し、あの家庭へ友香に会うために向かった。
結婚して五年になる夫は、友香の腰に手をまわし、優しく「友香ちゃん」と呼んだ。
十ヶ月の末に産まれた息子も、友香の腕に抱かれながら、「友香姉ちゃん」と甘えるように呼んだ。
昨日も、フラニア国の会議なんてなかった。二人は揃って、友香とスイロス国にスキー旅行へ行っていた。
あの日、結婚式で交わした言葉が、いまや現実になった。
真実を知った瞬間、静流は決めた。この世界、そしてこの嘘まみれの父子とは、決別すると。
目の前で、誕生日ケーキが静かに溶けていく。静流はぽつりとつぶやいた。
「もう、家族じゃない……
彼らと別れたい」
その瞬間、ふたつの声が同時に、彼女の耳を打った。
「――何が別れたいって?」
第2話
静流が顔を上げると、玄関には和也と慶哉が立っていた。
慶哉は父の腕からスルリと抜け出し、彼女の胸元へ勢いよく飛び込んだ。
「ママ、誰が別れたいって言ってたの?」
静流は優しく言った。
「ママの友だちの話よ。結婚生活がうまくいかなくてね、旦那さんとも息子さんとも別れようとしてるの」
慶哉は彼女の頬に強くキスをした。
「そっか。ママの友だち、かわいそうだね。でもママは安心して。パパも僕も、ずっとママのこと大好きだから」
和也はコートを脱ぎながら、いつもどおりの穏やかな口調で二人を抱き寄せた。
「慶哉の言うとおりだよ、静流。俺たち家族は、これからもずっと一緒だ」
静流は何も言わなかった。長いまつ毛の奥にある瞳が、苦い色を湛えて揺れていた。
「ずっと一緒」なんて、もうこの家族にはないのに。
慶哉がテーブルのケーキに目をとめて、はっと思い出したように手提げ袋を取り出した。
「ママ、これ!パパと僕で選んだプレゼントだよ!」
和也が袋から箱を取り出し、ふたを開ける。中にはエメラルドのネックレスが収められていた。
「静流……実はフラニア国では仕事が立て込んでてさ。ちょっと帰るの遅くなったんだけど、怒らないでくれる?」
どこか申し訳なさそうに笑いながら、彼はネックレスを取り出し、彼女の首にかけようとした。
その瞬間、静流の鼻をある香りがかすめた。
――クチナシの甘い香り。
彼女自身は香水など一切つけない。
その匂いが彼女の胃を急激に刺激した。次の瞬間、込み上げる吐き気に耐えきれず、父子を押しのけてトイレへ駆け込んだ。
和也は、もともと彼女の健康に敏感すぎるくらい気を使う男だった。静流が少し咳をしただけでも、「大丈夫か」と騒ぎ立てるほど。
その彼が、妻の嘔吐を目の当たりにして黙っていられるはずもなかった。すぐに医者を呼びに行こうとする。
だが、静流はその手を掴み、赤くなった目でじっと彼を見つめた。
「平気よ。ただ、友だちの旦那と息子のことを考えてたら、あまりにも腹が立ってきちゃって。
もし……もしあなたが、もう私のこと愛してないって言うなら、私は――」
「しないよ!」
彼女の言葉を遮るように、和也は強く彼女を抱きしめた。まるで、二度と離さないとでも言うように。
「俺の気持ちがわからないのか?俺はこの先の人生、ずっとお前だけを愛していくって決めたんだ。お前を俺から離したりなんかしない!」
慶哉も真剣な顔で拳を握りしめた。
「ママ、心配しないで。パパも僕も、絶対ママを傷つけたりしない。
もしパパがママをがっかりさせるようなことをしたら、すぐ教えて!僕が味方になるから!」
その言葉に、和也は思わず笑った。
「こいつ……俺ってそんなに信用ないのか?」
慶哉は睨みつけるように言い返す。
「ふん!僕はママが一番好きなんだ。だからママを守るの!」
……
父子のやりとりを見ながらも、静流は笑わなかった。
胸の奥に鋭いナイフが突き刺さるような痛みを感じていた。
「愛してる」と言いながら、和也には他の女がいる。
「守る」と言った慶哉も、和也の浮気を知りながら、それを隠していた。
彼らの言葉が本心かどうかなんて、もうどうでもよかった。
翌朝。
和也はいつもどおり朝食を用意し、まるで愛おしくて仕方ないというような顔で運んできた。
「静流、朝ごはん食べたらスキー場に行こうか。
昨日は慶哉と帰りが遅くなったから、今日はちゃんと、昨日のぶんまで誕生日のお祝いするよ」
慶哉も絞りたてのジュースを持ってきて、彼女の腰に腕を回す。
「ママ、行こうよ、スキー楽しいよ!」
彼女はスキーに興味がなかったが、朝食の時間だというのに、父子は既に道具をすべて車に積み込み、当然のように彼女を連れ出した。
そして、スキー場に着いた瞬間、彼女は気づく。なぜ、彼らがここに来たかったのかを。
車から降りると、目の前のゲートに友香が立っていた。
和也と慶哉が姿を現すと、友香の目が輝き、小走りで駆け寄ってきた。彼女はマフラーを外して慶哉の首に巻きつけ、魔法瓶のコップを差し出しながら、嬉しそうに和也を見上げた。
静流は黙って、その一連の滑らかな「慣れた手つき」を見つめていた。
慶哉はもともと家族以外の人に触られるのを極端に嫌う子だった。
そして和也も、6年前に酒に薬を盛られて以降、彼女以外の女性から差し出された飲み物には一切口をつけてこなかった。
和也は咳払いをひとつしたが、どこかぎこちなさが残っていた。
「こちらは秘書の友香だ。今回の旅行は彼女が手配してくれたんだ。連れて来た方が便利だから、一緒に来てもらった」
慶哉もタイミングよく続けた。
「そうだよ、ママ。僕らは遊んで楽しむだけでいいんだよ」
それって便利だから?それとも、ずっと友香と一緒にいたいだけ?
父子の言葉の裏を探ろうとする気力さえ、もう残っていなかった。
その時、友香が少しおどけたように、手を差し出してきた。
「こんにちは、静流さん。ご家族の時間を邪魔するつもりはありませんので」
静流はふと、彼女の手首にかすかに光る緑の輝きを見つけた。
「……それ、何?」
問いかけると、友香は嬉しそうにエメラルドグリーンのブレスレットを嵌めた白い手首を見せながら答えた。
「家族からのプレゼントなんです」
第3話
この五年間で、和也は静流に数えきれないほどの宝石を贈ってきた。彼女は昨夜のネックレスと、今、友香の手首に光るブレスレットが、明らかに同じセットであることに気づいた。
その瞬間、静流の唇が皮肉に歪んだ。
「夏目さん、ご家族からずいぶん愛されてるんですね」
和也と息子は、宝石のセットを二つに分けたのだ。片方は妻の彼女に、もう片方は友香に。
まるで彼らの心のように、きっちりと半分に。
友香は微笑みながら、少し眉を下げた。
「ええ、いつも『いちばん大切な存在』って言ってくれますし……まるで子どもみたいに甘やかしてくれるんです」
恐らく、友香との関係がバレるのを恐れているのだろう。和也も慶哉も、道中ずっと静流の顔色をうかがうように彼女を見ていた。
彼女が咳払いを一つすると、和也はすぐ自分のコートを脱いで肩にかけ、魔法瓶からお湯を注ぎ、カップを丁寧に彼女の口元に差し出す。
慶哉も首からマフラーを外して彼女に巻き、大人びた口調で言った。
「冷えないように、ちゃんと温まってね」
けれど静流は、香水の香りが染みついた物に包まれるのが、どうしても耐えられなかった。
「ちょっと休んでくるわ。ホテルで横になる」
それだけを言い残し、彼らの元を離れた。
和也と慶哉は顔を見合わせた後、彼女と一緒にホテルへ戻ることにした。
夕方。
静かな部屋の中で、和也のスマホが震えた。
彼は慌ててミュートに切り替え、ベッドに横たわる静流の方をそっと振り返る。彼女がまだ目を閉じているのを確認して、安堵のため息をついた。
スマホの画面には、「友香」の名が何度も表示されていた。そのとき、慶哉が彼の袖をそっと引っ張り、声を潜めて言った。
「パパ、友香姉ちゃんに会いたい……」
和也は慌てて指を立てて「静かに」と示すと、父子は顔を見合わせ、こっそり部屋を抜け出していった。
ドアが閉まる音を聞くと、静流はそっと目を開け、すぐに服を着て二人の後を追った。
和也と慶哉は足早に、友香の部屋の前に辿り着いた。
ドアが開くと同時に、友香が和也の腕に飛び込んできた。
「和也さん……やっと来てくれたのね!今日、一人でホテルにいるの、すごく不安で……
奥さんとみたいに四六時中一緒にいたいとは言わない。でも……毎日二時間だけでも、あなたと一緒にいられたら、それでいいのに……」
潤んだ目で和也を見つめながら、友香は小さくつぶやいた。
和也は、彼女の涙に弱い。その瞳を見るだけで、何もかも許してしまいそうになる。彼は彼女をぎゅっと抱きしめ、優しく囁いた。
「二時間なんかじゃ足りない。今夜は、慶哉と一緒にずっとお前のそばにいる」
横で聞いていた慶哉も言葉を継いだ。
「ママが寝たのを見てから、パパと二人でこっちに来たんだ。僕たちも、友香姉ちゃんと一緒にいたかったんだよ」
友香は感動したように微笑んだが、すぐに何かを思い出したのか、ふと表情が陰った。
「でも……私、今日すごく寒かったの。あなたはずっと奥さんのことばかり気にしてたし……せっかく用意したマフラーと魔法瓶も、全部あの人に……」
それを聞いて焦ったのか、慶哉は急いで彼女の手を握りしめた。
「ごめんね、友香姉ちゃん……僕たちが悪かったんだ。だから、僕が温めてあげる。僕の手、マフラーよりずっとあったかいんだよ」
和也もくすぐるように彼女の鼻を指でつんと突いた。
「……もう、なんてヤキモチ焼きなんだ。そんなことでスネるなんて。スイロス国で楽しめなかったのは分かってたから、わざわざここを選んだのよ?嬉しいだろう?」
友香はその言葉にふっと笑い、和也の口元に軽くキスを落とした。
「……ありがとう、和也さん」
和也の目がたちまち熱を帯び、彼女の頭を抱き寄せた。次の瞬間、二人は唇を重ね、情熱的に深くキスを交わした。
慶哉は思わず目を覆い、部屋の奥へ駆けていった。
「うわぁ、お邪魔虫にはなりたくない〜っ!」
キスが終わるまで、和也は彼女を放さなかった。友香は頬を赤らめ、彼の胸を軽く叩いた。
「……慶哉、さっきまでここにいたんだからね」
和也はその手を取ると、そっと唇を寄せる。
「だから何だ?あいつ、前にも見たことあるじゃないか」
そして彼は友香の腰に腕を回し、慶哉を部屋へ連れて行き、静かにドアを閉めた。
その光景を、柱の陰から見つめていた静流は、すでに頬に涙が伝っていた。
裏切りは知っていた。だが、実際に目にした瞬間、身体の芯から冷たく凍りついていくのを感じた。耳に残る一言一言が、鋭く研がれた刃のように心をえぐっていく。
昨日の埋め合わせとして用意された彼女の誕生日祝いは、友香の機嫌を取るための舞台でしかなかった。
静流はその場にしゃがみ込み、胸元を押さえた。昨夜のあの二人の言葉が、まだ耳にこびりついていた。
――離したりなんかしない?
でも、もう決めたの。
和也、慶哉――
私は、あなたたちと別れる。
第4話
翌朝。
静流が目を覚ますと、ちょうど和也と慶哉が朝食のトレイを手に、部屋へ入ってきた。
彼女が上半身を起こしたのを見て、和也はにこやかに近づき、朝食をそっと差し出す。
「静流、もうちょっと寝かせてあげたくてね。俺と慶哉が、朝ごはんを取るために早く起きたんだ」
慶哉はベッドにちょこんと上がり、静流の肩にもたれかかった。
「ママ、ちょっと会えなかっただけなのに、すごく寂しかったんだよ」
隣から伝わるいつもの冷たい気配に、静流は目元に薄く自嘲の色を滲ませた。
一晩中この部屋に戻らず、友香のベッドからやっと出てきたばかりだったが、この父子は彼がただ朝食を取りに行っただけだと言い張った。
彼らの演技が、こんなに自然だったなんて、知らなかった。
朝食を終えると、そのままスキー場へと向かった。
友香はすでに準備万端で、入り口の前で待ち構えていた。
けれど、静流はどうしてもスキーを楽しむ気分にはなれなかった。
和也が不安げに尋ねる。
「静流、最近……どうしたんだ?俺たち、何かお前に不快な思いをさせたかな?」
静流は小さく首を振った。
「……いいえ。ただ、友人のことで気が重くて」
それを聞いた和也はホッとしたように息をつき、彼女の額に軽くキスを落とす。
「心配いらないよ。うちの家族は、そんなことには絶対ならないから。もしスキーしたくないなら……」
言い終える前に、友香のためらいがちで何か言いたげな声が聞こえた。
「藤堂さん……」
友香の欲望に満ちた目を見て、和也の喉仏が動き、口から出そうとしていた言葉を飲み込んだ。
「……じゃあ、ここでゆっくりしてて。俺と慶哉、それに夏目さんの三人でちょっと滑ってくるよ」
慶哉は何も言わなかったが、静流はふと彼の指先が、さりげなく友香のジャケットの裾をつまんでいることに気づいた。
……三人だけの時間を楽しむのに、もはや隠す必要はなかったのだろう。
静流は微かに頷いた。
和也はホテルスタッフに気を配らせ、静流の手袋を丁寧に装着させた。
「寒いから体調崩さないか心配だよ。何かあったらすぐ電話するんだ」
慶哉も真面目な顔つきで、彼女のジッパーを引き上げながら言った。
「僕も……ママが風邪ひくの、絶対やだ」
そんな様子を見ていた友香は、思わず小さくため息をついた。
「奥さん、藤堂さんも慶哉くんも……本当にお優しいんですね」
それを聞いた静流は、ゆっくりと彼女を見上げた。友香の瞳の奥には、かすかに拭いきれない嫉妬が滲んでいた。
静流は意味深に微笑む。
「ご家族は、きっとあなたのことをもっと大切に思っているはずですよ」
父子が彼女を騙し、友香とともに別の家庭を築けたという事実は、静流の気持ちをまったく顧みず、ただ友香と一緒にいることだけに固執していた証だった。
そう思った瞬間、遠くからゴロゴロと雷鳴が響き、足元の地面が微かに揺れ始めた。
静流は何が起きたのか分からず、咄嗟に周囲を見渡す。次の瞬間、真っ白な雪の塊が、恐ろしい速さでこちらに向かって押し寄せてくるのが見えた。
周りの人々はたちまち大混乱に陥った。
静流は無意識のうちに、近くにいた和也のコートの裾を掴んだ。
しかし、次の瞬間、彼の裾は彼女の手から滑り落ちた。気づけば、和也は友香の方へと駆け出していた。
そして、静流のすぐ前にいた慶哉までもが、振り返ることなくその後を追った。
「友香っ!」
「友香姉ちゃん!」
ドカン!
轟音とともに、巨大な雪の塊が静流を襲った。
静流の視界が一気に白く染まり、意識が遠のいていく。
最後に見たのは、「愛してる」と言ってくれたはずの和也が、「絶対にママを守る」と誓っていた慶哉が、別の女性をしっかりと抱きしめている姿だった。
第5話
静流が意識を取り戻したのは、それから一週間後のことだった。
目を開けた瞬間、側にいた看護師が慌てて医師を呼びに行きながら、なおも嬉しそうに言葉を続ける。
「藤堂さん!目が覚めたんですね!
ご主人と息子さん、街中の名医をほとんど呼び集めたんですよ。藤堂さんの無事を祈って、ご主人は慈善団体に二億円も寄付されましたよ。本当に奇跡ですよね、こうして目を覚ましてくださって…
藤堂さんが目を覚ましたと知ったら、きっと喜ぶでしょうね」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、病室のドアが開いた。和也と慶哉が駆け込んできた。
彼女が目を覚ましたのを見た瞬間、二人とも感情を抑えきれずに彼女を強く抱きしめた。
「静流……本当によかった……どれだけ心配したか……!」
慶哉も目を真っ赤にしながら必死に言葉を探す。
「ママ……僕、もう会えないんじゃないかって、怖くてたまらなかったんだ……!」
男は滅多に涙を見せないというが、彼の頬を伝う涙は確かに温かかった。
だが、この二人の涙に、静流の心は揺れなかった。
ただ、皮肉にしか感じられなかった。
雪崩の瞬間、彼らは反射的に友香を守った。
彼女の目には、その光景が焼きついて離れなかった。
かつて心から愛した夫、幼い頃から自分の手で育てた息子。
けれど、友香はほんの数ヶ月でその立場を奪い去った。
慌てたように、和也と慶哉が口々に弁解を始めた。
「静流、あのときは本当に緊急で……お前の顔すら一瞬、分からなくなってて……誰を守るべきか、間違えてしまったんだ」
「ごめんなさい……パパも僕も、もう絶対にママを傷つけたりしない。本当に……全部、僕たちの責任だ」
けれど静流は、体力も戻らぬ中、彼らのつく嘘を正す気にもなれなかった。
あと一週間、ここを離れて、この嘘ばかりつく父子と別れるんだ。
その後の数日間、父子は罪悪感か何かに駆られて、静流のそばを離れずに過ごした。
だが、和也のスマホは鳴り止まなかった。常に通知音が響き続けていたが、彼は一度も出なかった。
そんなある日。
いつものようにスマホが震え、彼の瞳孔が一瞬だけ揺れた。
数秒後、彼は気まずそうに口を開いた。
「静流……会社で急用が入ったんだ。ちょっとだけ、対応してくるね」
慶哉もスクリーンを覗きこみ、画面に映るメッセージを見て慌てたように口を開いた。
「ママ、僕も一緒に会社行く!」
静流はそんな二人を、静かに見つめた。
「会社で」、一体何があったら、あの歳の慶哉まで連れて行く必要があるっていうの?
言うまでもない。友香だ。
彼女が静かに頷くと、父子は足早に病室を後にした。
静流はすぐに起き上がり、彼らの後を追った。
廊下の突き当たり、陰になった場所で、友香が涙をこぼしながら和也に抱きついていた。
和也の表情には、どこか陰りが差していた。警告するような口調で、静かに彼女の手を払いのけた。
「どうして病院に来たんだ!静流の体はまだ完全に治っていない。今は家にいてくれって言っただろ。姿を見せるなって」
けれど友香は、なおも強く彼の腰にしがみつき、嗚咽混じりに言った。
「……我慢できなかったの。もう十日も会ってないのよ……あなた、毎日少なくとも二時間は一緒にいてくれるって、そう言ったじゃない……」
慶哉も焦ったように言葉を継ぐ。
「友香姉ちゃん……僕もパパも、会いたかったよ。でも、ママがまだ完全に回復してないから、一緒にいてあげなきゃで……
パパ、友香姉ちゃんをちゃんと慰めてあげてよ」
胸の奥にじんわりと湿り気を感じながら、息子の説得に耳を傾けた和也は、ふうっとため息をつき、わずかに表情を緩めた。
「……泣くな。そんな顔、見たくないよ。……これからの二日間、ちゃんと付き添うから」
その瞬間、友香の涙はぴたりと止まった。
「ほんと……?」
彼の肯定に、彼女はふわっと笑みを浮かべ、両腕を和也の首に回す。
和也の目が暗くなり、喉が上下する。次の瞬間、彼は彼女の後頭部を掴み、貪るように口づけた。
二人のキスは深く、長く、滴る水のように重なっていた。あの十日間の「会えなかった想い」が、すべてそこに流れ込んでいるようだった。
慶哉はその様子を見て、思わず顔を背けた。
「……ちょっと、パパと友香姉ちゃん、恥ってものを知ってくれない?」
静流は、まるで操り人形のように病室へと戻っていった。涙が静かに目尻から零れ落ち、枕を濡らしていく。
唇を噛んで声を殺しながら、心の中で何度も唱えた。
――もう少し。あと少しだけ耐えれば、ここを離れられる。これが、この父子のために流す、最後の涙。
第6話
会えない時間が長く続き、ついに友香は危機感を覚えて仮面を剥ぎ取り、本性を現した。
翌朝、静流が目覚めると、彼女のスマホには昨夜届いた挑発的なメッセージの連打が残されていた。
【静流さん、見たでしょう?どうだった?目の前で旦那が別の女と堂々とキスしてるのを見せつけられる気分って、どんな感じ?しかも、その息子にまで庇われてるのよ】
【和也はね、私が泣く顔が一番好きなの。ベッドの中で泣かせたら、特に満足するって言ってたわ】
【私が泣くたび、彼は……もっと激しくなるの。声が出なくなるまでね。『24時間そばにいたい』って言ってくれたこと、あなたにはなかったでしょ?】
【それに、あなたの息子さんも、私といるとすごく安心するのよ。寝たふりをしていた私に、こっそり『ママ』って呼ばれたこともあるのよ】
【藤堂の奥さんって、ほんとに失敗わね】
静流は、それらの言葉に眉一つ動かさず、淡々とスクリーンショットを撮った。
離れるまであと三日。これが和也と慶哉に贈る「最後のプレゼント」になる。
午前中、静流は退院したいと申し出た。その連絡が和也の元へ届くと、すぐに彼から電話がかかってきた。
「静流……最近、会社の都合でなかなか迎えに行けないんだ。誰か送るから、家でゆっくり休んでくれ。息子のことは俺がちゃんと見るから」
静流は、彼がいま友香のそばにいることを、もうすでに知っていた。答えることもなく、ただ静かに頷いた。
この世界を離れるまで、あと三日。
彼女は家に戻ると、使用人たちに命じた。
「私の持ち物、すべて処分して」
使用人たちは恐る恐る尋ねた。
「……奥様、新しい物に買い替えますか?」
静流は、穏やかな微笑を浮かべてうなずいた。
「ええ」
彼らは知らない。「新しい物」に替えられるのは、持ち物だけじゃない。この家の「女主人」そのものもだ。
この世界を離れるまで、あと二日。
静流は、和也と慶哉と自分だけが知る「秘密の部屋」へと足を踏み入れた。
部屋の壁一面には、この十年間に撮られた写真と、慶哉の誕生以来毎年撮影された家族写真が、ぎっしりと貼られていた。
十年の間に、写真に写る人々は若者から大人へと成長し、最初は二人から今では三人に増えている。
だが今、「一人」の顔だけが消えるのだ。
静流はこの部屋に閉じこもり、ハサミを手に取ると、朝から晩まで一枚ずつ、すべての写真から自分の姿だけを切り取っていった。
そして、五年前に和也が大切に金庫にしまった、記念としての「結婚届の写し」を取り出す。
写しの裏には、彼が式当日に誓った言葉が書かれたのだ。
【静流へ 君は俺のすべてだ】
【君がいるだけで、俺の毎日が晴れになる】
……
【ずっと、ずっと君を愛し、守るから。一緒に歳を重ねていこう。永遠に】
彼女はそれを一字一句丁寧に読み進めた。ぎっしりと書き込まれたそのメモは、22歳の和也が静流に抱いた深い愛情を物語っていた。
静流はそれを、最初から最後まで読み切り、頬にうっすらと涙が浮かんでいた。
結婚届の写しと切り取った写真をまとめ、庭の中央で火を点ける。
パチパチと燃え上がる炎の中で、婚姻届の写しも、愛の言葉も、写真も、すべて灰に変わっていった。
静流はただ、まっすぐにそれを見つめ続けた。
この世界を離れる前日。
友香がこれまで送り続けてきた写真とメッセージ、静流はそれらをすべて印刷し、整理した。
写真には、裸の和也が、キスマークだらけの友香を抱きしめる姿。
慶哉が、友香の腕に頬を寄せ、穏やかな笑みを浮かべる姿。
三人でお揃いのカチューシャをつけて、遊園地ではしゃぐ姿。
かつてなら、胸が張り裂けそうだっただろう。だが今、静流の心は静まり返っていた。
プリントアウトされた写真をファイルに詰め、結婚指輪も外して同封した。
そして、この世界を離れる当日。
その日は、和也との結婚記念日だった。
朝早く、数日ぶりに父子が家に戻ってきた。
和也は手にケーキを抱えていた。
「静流!最近ずっと仕事でバタバタしててごめん!今日は結婚記念日だろ?お前と、慶哉と、一日中一緒に過ごそう!」
慶哉も拳を上げて、大げさな口調で続けた。
「僕、証明するよ!パパは毎日残業ばっかりだよ!パパの世話はちゃんとしたし、一瞬も忘れたことなんてないよ!」
静流は、二人の「芝居」を黙って見つめていた。
「……疲れてるの?」
彼女と友香の間を行ったり来たりして、自分の前では「いい夫」と「いい息子」を演じて……疲れないの?
第7話
和也と慶哉は声をそろえて言った。
「ぜんっぜん疲れてないよ!」
慶哉は彼女の手をぎゅっと握り、輝く瞳で見つめてくる。
「ママのことなら、何やっても疲れるわけないんだよ」
和也は笑いながら、愛おしそうに彼女の頬を指でつまんだ。
「どれだけ忙しくても、お前の顔を見るだけで全部吹き飛ぶんだ。
今日は結婚記念日だろ?どんなに仕事が詰まってても、必ず戻ってくるよ。毎年、君と一緒に祝ってるだろ?」
静流はただ微笑み、何も言わなかった。
和也はケーキをテーブルに置くと、キッチンへ向かい、てきぱきと動き始めた。
この日のために、使用人たちには全員休暇を出していた。彼女の好物ばかりを、自分の手で用意するつもりだった。
慶哉も張り切って、小さな椅子を持ち出し、果物を切ったり、ジュースを絞ったりと忙しそうに手伝っている。
やがて昼になり、料理が一通り並べられた。
テーブルの中央には、大きなケーキと「7」の数字が刻まれたキャンドルが灯された。和也は静流の手を取り、あふれんばかりの愛情を込めて言った。
「静流……あのとき、お前がそばにいてくれなかったら、きっと俺は……」
慶哉は横で手を叩きながら、嬉しそうに声を上げた。
「わぁ、パパとママってほんとロマンチック!」
だがその温かい空気を破るように、突然スマホの着信音が鳴り響いた。
静流は手を引き、画面に「友香」と表示されていたスマホを手に取り、和也へ差し出した。
和也は一瞬だけ視線を逸らし、微笑んで言った。
「今日はね、誰の電話にも出ないって決めたんだ」
それでも静流は、かすかに首を横に振った。和也は画面に目をやり、一瞬だけ表情を固めた。やがて、スマホを受け取った。
「これは……会社の秘書からだよ。ちょっと急ぎの件かもしれないから、出るよ」
そう言うと、彼はリビングの反対側へと歩いていき、通話ボタンを押した。
数分後、戻ってきた彼の顔には、いつもの「申し訳なさそうな笑み」が浮かんでいた。
「静流、ごめん。会社でトラブルが起きたみたいで、俺の手が必要なんだ」
慶哉は電話の向こうで何が話されていたのか分からなかったが、友香からの電話だと分かると、すぐに立ち上がり、和也のもとへ駆け寄った。
「ママ、僕も一緒に行っていい?パパの仕事、早く終わるように手伝うから!そしたらすぐ帰ってこれるよ!」
二人の焦った様子を見ながら、静流はほんの少し微笑んで、静かに頷いた。
「……行って」
その言葉に、和也は安堵したように息をつき、慶哉を抱き上げた。そして二人そろって、彼女の両頬にキスを落とす。
「ちゃんとで待っててね、すぐ帰るから」
「ママ、またね!」
そう言って、二人は急ぎ足で玄関を出て行った。誰一人、静流の沈黙の意味に気づく者はいなかった。
この日が、三人が最後に顔を合わせる日になることも、まだ誰も知らない。
窓辺に立った静流は、車が完全に視界から消えるまで黙って見送った。そして、テーブルにろうそくの火が消えたケーキを静かにゴミ箱へと捨てた。
そのまま寝室へ向かい、事前に用意しておいたファイルバッグを手に取り、外出へと歩き出した。
第8話
十年前。
静流と和也は、郊外の小さな私立療養所で初めて出会った。
あれから長い時が経ち、その建物は今や廃墟となり、壁はツタに覆われていた。
記憶を辿るように小道を歩くたび、和也との思い出が、静かに、そして容赦なく心を打ってきた。
初めて出会ったとき、彼は何も話さなかった。だが次第に、彼女の存在に心を許し始め、やがて激しい雨の中で彼女を強く抱きしめ、絶対に離さないと誓った。
静流は裏庭のガジュマルの木の前で立ち止まった。
十年前と変わらず、緑の葉を茂らせ、たくましく生きている。
彼女の手が、幹に刻まれた二つの名前をそっと撫でる。彼女の目には、再び少年時代の和也が映っているようだった。執念じみた表情を浮かべながらも、その瞳には愛しさと緊張が滲んでいた。
彼はかつて、こう言った。
「静流、一生、君だけを愛する」
「君を絶対に離さない。永遠に一緒にいるんだ」
そして、二人の名前を一文字ずつ、丁寧に刻みつけた。
けれど、和也の心は、やがて二つに割れた。一つは自分に、もう一つは別の女に。
その「永遠」は十年で終わった。
十九歳だった彼は、十年後に自分が「永遠」に静流を失うとは夢にも思わなかっただろう。
静流は木の根元に石で土を掘り始めた。あらかじめ用意していたヤスリ袋を埋め、丁寧に土をかぶせる。
そして、彼女は和也に最後の電話をかけた。
電話はすぐにつながった。相変わらず、彼の声は優しかった。
「静流?どうしたの?何かあった?」
静流はガジュマルを見上げながら、静かに言った。
「……療養所のガジュマル、まだ覚えてる?」
一拍おいて、彼の笑い声が聞こえた。
「ああ、もちろん。あの木の下でお前に告白したよな。懐かしいな……気づけば、もう十年近く経ったんだな」
静流もまた、微笑みながら答えた。
「そう……それで、あなたと慶哉へのプレゼントを、ガジュマルの根元に埋めておいたの。忘れずに取りにきてね」
「えっ、本当か?慶哉はこの話を聞いたら喜んでいるよ。ありがとう、静流。仕事が終わったらすぐ行くよ。今夜は三人で一緒に見ような」
彼女は、それには何も答えず、通話を切った。
三人の家族は、もう存在しない。
彼女には分かっていた。今夜、彼らは家には戻れない。
自分も、二度とあの家には帰らない。
これで、藤堂家に「静流」という名は、永遠に消える。
その瞬間、耳に微かな機械音が響いた。
「静流様、脱退プログラムの準備が完了しました。脱退してもよろしいですか?」
「ええ」
次の瞬間、彼女の目の前にまばゆい白い光が差し込み、まるで通路のように空間が割れていく。
強風が吹き抜け、舞い散ったガジュマルの葉が、渦を巻くように宙を舞った。
静流は、ためらいもせず、その中へと歩き出した。
和也、慶哉……もう二度と会うことはないわ!