心音は泣かない

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心音は泣かない

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父が破産して以来、私は「もううんざりだ」と言い訳をして、三年間愛人として囲っていた医大生の相良晴嵐(さがら せいらん)を突き放した。 ...

Chương (1)

第1章

父が破産して以来、私は「もううんざりだ」と言い訳をして、三年間愛人として囲っていた医大生の相良晴嵐(さがら せいらん)を突き放した。 あの夜、彼は土砂降りの中で八時間も膝をつき、赤い瞳で私に懇願した。 私には、そのとき既に妊娠四か月であることがわかっていた。 五年後、かつて貧しかった医学部一のイケメンは、兆単位の資産を操る大富豪へと成り上がった。 晴嵐は富豪ランキングの頂点に立った日の会見で、記者にこう尋ねられる。 「相良社長、五年で貧乏学生からここまでの財を成す秘訣は何ですか?」 彼は口元に冷たい笑みを浮かべ、切れ長の目に嘲りを宿して答えた。 「虚栄心の強い彼女を見つけて、思い切り突き放されることだ」 会場は騒然となった。午後には「兆単位の資産の富豪が元カノに裏切られた」という見出しが街中の話題になった。 その一方で、私は今日で八つめの仕事を終えたばかりで、過労により娘を迎えに行く途中で突然倒れて息を引き取った。 そして再び目を開けると、私は空中にふわりと浮かんでいる。 絶望の淵にいた私は、ある事実に気づいて凍りついた。 あの、私を一生後悔させると誓った晴嵐が、娘の通う保育園を突き止めていたのだ。 第1話 父が破産して以来、私は「もううんざりだ」と言い訳をして、三年間愛人として囲っていた医大生の相良晴嵐(さがら せいらん)を突き放した。 あの夜、彼は土砂降りの中で八時間も膝をつき、赤い瞳で私に懇願した。 私には、そのとき既に妊娠四か月であることがわかっていた。 五年後、かつて貧しかった医学部一のイケメンは、兆単位の資産を操る大富豪へと成り上がった。 晴嵐は富豪ランキングの頂点に立った日の会見で、記者にこう尋ねられる。 「相良社長、五年で貧乏学生からここまでの財を成す秘訣は何ですか?」 彼は口元に冷たい笑みを浮かべ、切れ長の目に嘲りを宿して答えた。 「虚栄心の強い彼女を見つけて、思い切り突き放されることだ」 会場は騒然となった。午後には「兆単位の資産の富豪が元カノに裏切られた」という見出しが街中の話題になった。 その一方で、私は今日で八つめの仕事を終えたばかりで、過労により娘を迎えに行く途中で突然倒れて息を引き取った。 そして再び目を開けると、私は空中にふわりと浮かんでいる。 絶望の淵にいた私は、ある事実に気づいて凍りついた。 あの、私を一生後悔させると誓った晴嵐が、娘の通う保育園を突き止めていたのだ。 「相良さん、こちらがお探しの瀬川心音(せがわ ここね)です。ママは毎日仕事でお迎えに来ていますよ」 女教師・山本の案内で、晴嵐は心音の前に立った。 「おじさん、誰を探してるの?」 五歳の娘が顔を上げ、目の前の男を不思議そうに見つめる。 晴嵐は言葉に詰まり、ゆっくり膝を折った。 「瀬川南楓(せがわ みなか)を探している。彼女はどこにいるか知っているか?」 娘は瞬きをして、にこりと甘い笑顔を向けた。 「ママを探してるの?ママはお仕事に行ってるよ」 晴嵐の顔色がさっと変わる。 「まだ働いているのか?で、お父さんは?自分の妻や子を養えないのか?」 娘は唇を尖らせて言った。 「私のパパは遠いところで働いているの。ママが言ってた。パパは外で一生懸命働いて、たくさんお金を稼いでいるんだって。いっぱい稼いだら、迎えに来てくれるんだよ。 おじさんは私のパパを知ってる?」 彼女は期待に満ちた目で晴嵐を見つめる。だが晴嵐の表情はさらに陰った。 「知らない」 晴嵐は冷たくそう言うと、立ち上がって去ろうとした。 教室の入口まで歩いてからふと立ち止まり、娘の顔立ちをじっと見た。どこか知らぬ期待を抱いたように。 「お前は……今年でいくつだ?」 娘はきょとんとして、指を折り始めようとしたそのとき、先生が先に答えた。 「心音は六歳です。今年、年長組になったばかりですよ」 その言葉を聞いて、私ははっとする。 そうだった、出生届のことを思い出した。娘が生まれたとき、私は借金に押し潰されそうだった。 仕事の都合で早く保育園に入れて働きに出る必要があり、届け出のときに年齢を一つ大きく書いてしまったのだ。 心音が早く幼稚園に上がれるように――と、自分を納得させて。 その思いに触れた瞬間、唇を噛み切るほどの痛みが走った。 「ごめんね、心音。ママ、あなたの年を変えるべきじゃなかった」と、心の中で叫んだ。 私は晴嵐のいる方を振り返り、声を限りに叫んだ。 ――相良晴嵐、あなたお金があるなら調べて。心音の出生記録を見て! ――心音はあなたの娘なの。置き去りにしていいはずがない! 「六歳だって?」 晴嵐はその場で硬直し、娘を見つめる目に濃い嫌悪を浮かべた。 「はあ、やっぱり瀬川って奴はやることが違うな。 五年前に別れたと思ったら、その間に子供が六歳だなんて」 晴嵐は苦笑いを浮かべたが、瞳には赤みが差していた。 「今日は来なかったことにするよ」 そう言い残すと、彼は先生の手を振りほどき、大股で立ち去っていった。 私は去っていく背中を追いかけ、必死に叫んだ。 ――相良晴嵐、行かないで! ――あなたが行ったら、私たちの娘はどうなるの?五歳よ、彼女一人でどうやって生きていくの? だが誰も、私の声を聞いてはいなかった。晴嵐の足は止まらない。 第2話 教室を出る直前、娘はふと何かを思い出したように、思わず口にした。 「パパ」 晴嵐の足が止まり、信じられないものを見るように娘を振り返る。 「い、今……なんて呼んだ?」 娘は我に返り、頬を赤く染めて恥ずかしそうに俯いた。 「ごめんなさい、おじさん……パパと間違えちゃった。おじさん、まだ何かご用ですか?」 晴嵐の瞳に宿っていた感情は、次第に掻き消され、やがて死んだような色に変わっていった。 彼は白く小さな顔を冷ややかに見やると、それ以上振り返ることなく立ち去った。 娘は唇を尖らせて小さく呟いた。 「間違えちゃった……でも、このおじさんの後ろ姿、ママが引き出しにしまってる写真とすごく似てるんだ」 首を振ると、また大人しく私を待つため席に戻った。 ただ山本だけが、娘に不満げな視線を投げ、まるで大物と縁を結ぶ機会を逃したことを惜しむかのようだった。 夜が次第に濃くなっていく。 幼稚園の子どもたちは次々と迎えが来て、教室は空っぽになった。 残されたのは、絵を描き続ける心音だけ。 「これがわたし、これがパパ、これがママ」 クレヨンを走らせながら、娘は楽しそうに独り言を言う。 そして「ママ」と口にした瞬間、ふと教室の入り口を振り返った。 まるで次の瞬間、私が現れて優しく手を振りながら―― 「心音、迎えに来たよ。さあ、帰ろう」 そう言うのを待っているように。 三十七回目、彼女がドアを見たとき、ようやく人影が現れた。 「瀬川心音、あんたのお母さんはどこ行ったの?なんで電話にも出ないの? まさか年寄りの男と遊んで、あんたを放り出したんじゃないでしょうね?」 電話の向こうでプツリと切れる音。山本は露骨に目を回し、整った顔を尖らせて毒を吐いた。 私は耳を疑った。 ――どうして、こんな言葉が教師の口から出てくるの? 娘はというと、慣れてしまったかのように小さな手でクレヨンを握りしめ、震える声で答えた。 「ママはそんな人じゃない。必ず迎えに来てくれる」 山本は鼻で笑い、娘のつぎはぎだらけの服を見下すように眺めた。 「よく言うわね。陽太のパパから聞いたわよ。あんたのママ、金のためなら何でもやるんでしょ。年寄り相手だろうと、犬みたいに尻尾を振ることだって。 こんな子、なんで園長が入れたのかしら。縁起でもない」 そう言うと、娘のクレヨンを乱暴に取り上げ、彼女を電話の前に押しやった。 「さっさとお母さん呼びなさいよ。私の退勤を邪魔しないで」 受話器を押しつけると、山本はそのまま背を向けて出ていった。 残された心音は、唇を噛みしめ、小さな体を震わせていた。 私は涙を拭いてあげようと手を伸ばした。だが、その手は娘の身体を虚しくすり抜けてしまう。 それでも、娘は自分で自分をなだめるように呟いた。 「心音は大丈夫。泣かない……心音はママが大好きだから」 涙を拭った彼女は、小さな体を精一杯伸ばしてダイヤルを回した。 「0……8……0……1……3……7……3……4……5……8……6……」 呼び出し音が鳴り響く。 「ママ!また残業なの?疲れてない?心音は今日いい子にしてたよ。ちゃんとごはん食べて、どこにも行かなかった。 いつ迎えに来てくれるの?」 返ってきたのは、冷たい話し中の音だけだった。 娘はじっと受話器を見つめ、そして大人のようにため息をついた。 「ママはきっと忙しいんだね。でも大丈夫。心音、わかってるから。心音は自分でちゃんとするよ」 第3話 彼女は受話器を置くと、先生に捨てられたクレヨンを拾い上げて、また絵を描き始めようとした。 しかし、腹の中が思いがけず鳴った。ぐうっ――すごくお腹が空いている。 心音は自分の小さなリュックを探したが、食べ物は入っていなかった。 引き出しの中をもう一度探しても、何もない。 見渡した視線は、最後にゴミ箱の中で半分だけ残されたおやつへと止まった。 幼稚園では毎日、子どもたちにおやつが配られる。だが、心音の分は配られた瞬間に誰かに奪われてしまった。 彼女は先生に訴えたが、先生はこう言った。 「心音、女の子なんだから譲ってあげなさいよ、男の子たちがどうしても食べたいんでしょ? 彼らはたくさん食べて大きくならないといけないのよ。あんたみたいにいつも細かいことを気にしてばかりじゃないの。 いい?今日のおやつだけじゃなく、これからずっと、あんたにはあげない。先生の言うことを守れない子は、おやつなんか食べられないんだから」 その言葉を思い出すたびに、心音の瞳は少しずつ曇っていった。 彼女はゴミ箱に近づき、ずっと我慢していたのを振り絞るように手を伸ばした。 上に積もった埃をどけ、唾を飲み込んで、そっと口へ運ぶ――その瞬間、入口から怒鳴り声が飛んだ。 「瀬川心音!」 担任の山本が教室に駆け込み、娘の手に握られていたおやつを乱暴にひっくり返した。 娘のぽかんとした表情を見下ろし、山本は荒い息を二つほど吐くと、腕の薄い肉をつかみ上げて、力いっぱいつねった。 「このクソガキ!あんた、盗みを働いただろ! どこで取ってきたのか言いなさい。いつ盗んだの!」 心音は痛みで涙をこぼしながら、何度も説明した。 「先生、わたし、盗んでないよ。ゴミ箱から拾っただけなの。痛いよ。つねらないで」 私は怒りで飛び出し、山本の手を引き離そうとした──しかし、何もできなかった。触れようとした手は娘の身体をすり抜けてしまう。 娘の流した涙を見て、山本の瞳に薄らとした満足が走った。 「拾っただって?誰が信じるものか。園中のみんな知ってるわよ、あんたの家がどれほど貧しいかって。 貧しい家の子ほど盗みをする。あんたも例外じゃないだろ?さあ、いつ盗んだのか言いなさい!」 三分も経たないうちに、娘の腕には五ヵ所のあざが浮かんだ。最初は抵抗していた心音も、やがて震えながら縮こまるようになった。 「先生、本当に盗んでないよ。ママが見たら悲しむよ」 その言葉が、山本の感情の針をさらに刺激した。薄く笑うと、心音を地面に放り投げるように落とした。 「親を持ち出す覚えがついたか。まだ懲りないのね」 山本は娘の髪の束をつかみ、引きずるようにして物入れの前へ連れて行った。 「さっさと中に入れ。盗んだって認めるまで、出てくるんじゃないよ」 暗く狭い物入れの穴を見つめる心音の目に、深い恐怖が光る。 「やだ、先生。ごめんなさい。入れないで。 ママ、ママ、どこにいるの?助けて、閉じ込められたくないよ」 娘の叫びは教室中にこだました。 私の胸は鋭い刃で抉られるように痛んだ。 心音、怖がらないで、ママがここにいる――何度もそう叫び、手を伸ばしたが、どれだけ大声で叫んでも誰の耳にも届かなかった。 私は、娘のすぐそばにいるのに、ただそれを見ていることしかできなかった。 娘は汚名を着せられ、殴られ、狭い物入れに押し込められていった。 ほんの一瞬、私は全てを止めてしまいたくなった。こんな光景を二度と見たくない、ただ消えてしまいたい――と、胸の底から思った。 ついに山本の堪忍袋の緒が切れた。舌打ちをし、娘を強引にロッカーに押し込んで鍵をかけ、教室の灯を消した。 第4話 「ほんっとに、あんたたちみたいな子供が一番嫌い。気持ち悪いわ」 娘は膝を抱えて、声がかすれるほどに泣いた。 事務所に座っていた晴嵐の胸に、突然鋭い痛みが走る。彼は眉を寄せ、冷たい目を脇に立つ部下へと向けた。 「南楓の連絡はまだか?」 部下は汗を拭い、震える声で答えた。 「瀬川さんの同僚によると、今日はお嬢さんの誕生日で、瀬川さんは特別に休みを取って一時間前に退勤したらしいです。 ですが、なぜかまだお迎えに来ていないと…… 相良社長、もうすぐ七時です。先にお嬢さんを連れて帰られてはどうですか?」 男は少し黙り込み、やがて何かを思いついたように唇を歪ませて冷笑した。 「行かない。 俺の娘でもない。迎えが来ないなら来ないでいい」 そのころ、娘は暗闇の物入れの中で三十八分も閉じ込められていた。目は既にクルミのように腫れ、私の涙もほとんど枯れかけている。 絶望の中、教室の電気が突然つき、低く落ち着いた男の声が響いた。 「心音?瀬川心音か?」 娘の瞳の光が一瞬にして戻った。彼女は慌てて叫んだ。 「佐々木先生、ここにいるよ!」 物入れの扉が開かれ、娘は外に引き出された。出てきた男は佐々木明(ささき あきら)先生で、優しく娘を抱き上げた。 「心音、大丈夫か?」 娘は涙をぬぐい、にっこりと笑った。 「佐々木先生、助けに来てくれたの?」 しかし、男の視線は暗く沈み、娘を見つめるその眼差しには、大人の濁った欲望がにじんでいた。 「もちろんさ。先生は心音を助けに来たんだよ」 娘は嬉しそうに頷き、感謝の目を向ける。 私は凍りつくほど震え、寒気が全身を貫いた。 思考が追いつかないまま、必死に娘の名を叫び、逃げるように促した。 ――心音、走って!走って! だが、娘には私の声が届かない。彼女は男に向かって真剣に話しかけている。 「佐々木先生、ママがまだ迎えに来てくれないの。ママに電話してくれる?」 佐々木は唾を飲み込み、娘の白い肌に手を伸ばした。 「心音、心配しないで。ちょっと先生と遊ぼうか? 先生は心音のこと好きなんだよ」 娘はその言葉に戸惑い、わたしに教えられた「触らせてはいけない」という約束を思い出して後ずさった。声には震えが混じっていた。 「佐々木先生、心音は遊びたくない。心音はママがいいの」 私は娘の前に立ちはだかり、豹のように狂った声で男を罵った。 だが男は軽蔑の色を浮かべ、娘を壁際へと追い詰めた。 「いい子だ。先生はちょっと遊ぶだけだ。いい子にしてなさい」 そう言いながら、男は娘の手を掴み、無理やりスカートをめくりあげた。 淡いピンクのフワフワしたスカートが腰までまくれ上がる。 男のべたついた手が、私が自分で選んで履かせた小さなクマ柄の下着にまで伸びようとする。 私はその瞬間、正気を失った。 男に飛びかかり、噛みつかんばかりに暴れた。 ――心音、走って!心音、逃げて! 誰にも届かない叫び。 娘は震えながら必死にもがき、男の手を振りほどこうとする。 「佐々木先生、離して!ママ、ママはどこにいるの?怖いよ、ママ!」 その叫びが教室の外へと響くと、物入れに娘を押し込んだあの山本が引き寄せられてきた。 二人の様子を見て、彼女の顔に怒りが走った。 「佐々木明、何やってるの!」 男の動きはピタリと止まり、慌てて手を引っ込めて取り繕うように笑った。 山本は鼻で嘲り、一歩踏み出して娘の前に立つと、ハイヒールのかかとを鳴らして掌を振り下ろした。 「このクソガキ!いつもそうやって男を誘惑するんだから、こんなに小さいのに!」 第5話 「ぺっ!」 娘の驚愕した瞳を見下ろし、山本の目はさらに鋭くなる。 ハイヒールのかかとが娘の胸に容赦なくめり込み、娘は苦悶の声を上げて倒れた。 「見てんじゃないよ、このクソガキ。母親にさえ見捨てられたくせに」 口から血を一口吐き出しながら、それでも娘は頑なに反論する。 「嘘よ。ママはわたしを捨てたりしない。ママはわたしのことが大好きなの」 言い終えると、ついに嗚咽を上げて大声で泣き始めた。 山本は娘を一瞥すると、嫌悪をこめて男に向かって言いすて、二人はそのまま立ち去っていく。 「何度言えばわかるのよ、あの子はただのクソガキよ。触るんじゃない、縁起でもないわ」 男の方は平然と鼻を鳴らす。 「どうせあの家はコネもないし、訴える余地なんてあるかよ」 二人の声は次第に遠ざかり、残されたのは衣服を乱して床に横たわる娘、あざだらけの小さな身体だけだった。 「ママ……」 娘は教室の出口を見つめ、大きな瞳は次第に生気を失っていく。 「ママ、いつ迎えに来てくれるの?ママに会いたいの」 私は娘の前にしゃがみ込み、涙が止めどなくあふれ出す。 抱きしめたい。守りたい。そう言ってあげたい。 「心音、ママはいるよ、いつでもそばにいるよ」――そう言いたいのに、口からは言葉が出ない。 どうして私の娘に、私が目の前にいるのに、こんなことが起きているのか。 私は何ができる?どうすればいい? 月光が窓の格子から差し込み、娘の机に置かれた家族の絵が白く照らされた。 三人家族の真ん中に描かれた人物――父親?私の頭に浮かんだのは、晴嵐の顔。 私は涙をぬぐい、娘の額にそっとキスを落とした。 そのまま、私は幼稚園の外へと舞い出た。何の役にも立たないかもしれないとわかっている。でも、わずかでも望みがあるなら、娘のためにできることを試してみたい。 一方、晴嵐も会社を出て帰途についていた。車の中で、娘の姿がふと脳裏をよぎる。 「心音……心音……」 彼はつぶやき、気づけば自分でハンドルを切り、幼稚園の門前まで車を走らせていた。 塀越しに教室の灯りを見つめ、躊躇する。降りるべきか。南楓はまだ迎えに来ていないのか。ハンドルを握る手がぎゅっと強ばる。彼は自嘲の笑みを漏らした。 「どうせ俺の子じゃない。俺が慌てる理由なんてあるか」 晴嵐は視線を逸らし、イグニッションキーを回した。 私は必死に車の窓を叩き、叫び続けた。 ――行かないで!お願い、行かないで!子どもを見て、助けて! その声が、突如どこかへ届いたかのように感じられた。 晴嵐は視線を引き戻し、表情が一変して涙で目が赤くなる。 「瀬川南楓!おまえか?瀬川南楓!会ってくれ!」 彼は大声で叫び、周囲を見回した。 「瀬川南楓、出て来い!なんで顔を見せないんだ!瀬川南楓!」 そのとき、交差点から白い光が近づいてきた。 二台のパトカーがけたたましく駆けつけ、険しい表情の警察官たちと、目を赤く腫らした若い女性警察官が車から降りてきた。 「すみません、瀬川心音さんをご存じですか?」と、若い女性警察官は嗚咽混じりに訊ねる。 「お母さんが一時間ほど前に円山通りで倒れているのを発見され、救急隊が来た時には既に反応がありませんでした。ご遺体は……」 バタン! 晴嵐は車のハンドルに激しくぶつかるようにのしかかり、目の周りに血走りが走った。 「何だって?」 同じ瞬間、幼稚園から絶叫が上がった。 数人が反応し、慌てて教室の方へ駆け込んでいった。