二十七日の懇願、三日遅れの離婚

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二十七日の懇願、三日遅れの離婚

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母が病に倒れ、余命わずかの中で、最後に望んでいたのは私の結婚だった。 私は高嶺辰哉(たかみね たつや)に二十七日間も頼み込み、ようやく...

Chương (1)

第1章

母が病に倒れ、余命わずかの中で、最後に望んでいたのは私の結婚だった。 私は高嶺辰哉(たかみね たつや)に二十七日間も頼み込み、ようやく一緒に婚姻届を出してくれると約束してもらった。 けれど、私は区役所で窓口が閉まる時間まで待っても、彼は現れなかった。 その日のうちに、辰哉の幼なじみ――村瀬冬実(むらせ ふゆみ)が、SNSに一枚の写真を載せた。 【早いなあ。あと三日で、入籍して一か月になるんだ】 その瞬間、私は気づく。最初に彼へ必死に頼み込んだあの日、辰哉はすでに幼なじみと婚姻届を出していたのだと。 同時に、スマホに彼からの謝罪のメッセージが届いた。 【穂花、冬実は家に無理やり結婚させられそうになっていた。放っておけなかったんだ。 あと三日で、俺たちは離婚する。 三日後、必ずお前を迎えに行く】 ――そして三日後。 正装姿の辰哉が区役所の前に現れたとき、彼のスマホに届いたのは、ただ一通の私からの言葉だった。 【辰哉、もう二度と会わない】 第1話 霊安室で、私は母の顔を見つめ、涙がとめどなくあふれ落ちる。 母はたった一人で私を育ててくれた。何ひとつ望みを押しつけたことはなかった。 こんな彼女が病に倒れた後、余命わずかの中で、最後に望んでいたのは私の結婚だった。 それなのに、私は最後の願いすら叶えてあげられなかった。 母の病状を知ってから、私は六年間付き合ってきた高嶺辰哉(たかみね たつや)に婚姻届を出そうと頼み込んだ。母がいなくなった後も、私には寄り添ってくれる人がいると知らせたかったからだ。 二十七日間、必死にお願いした。 けれど辰哉は、いつも理由をつけては先延ばしにした。 最初の日は、幼なじみ――村瀬冬実(むらせ ふゆみ)の車が壊れたと聞いて迎えに行った。 二日目は、彼女の引っ越しを手伝うからと言った。 …… 二十六日目には、冬実が胃を悪くしたと言って、看病に行った。 もし今日、冬実がSNSに婚姻届受理証明書の写真を載せていなければ――私は今も騙されたままだろう。 辰哉を信じ、彼にありとあらゆる理由をつけてきた。けれど、唯一思い至らなかったのは、彼がすでに結婚しているという事実だ。 私は母の前に跪き、夕暮れまで泣き続ける。そんなとき、辰哉から電話がかかってくる。 受話口の向こうから、いつもの優しい声が響く。 「こんな遅くまで、まだ帰らないのか。どこにいる?迎えに行くよ」 口を開きかけたのに、声にならない。 これまでなら、わざと拗ねたふりをして、甘えて彼に機嫌を取ってもらった。そして素直に喜びながら迎えを待っただろう。 だが今は、もう一言も甘えられない。 辰哉の声に、焦りが混じる。 「穂花(ほのか)、今どこにいる?」 「病院にいる」 辰哉は息を呑み、ようやく気づいたようだ。私がこの日々、母の看病を続けていることに。 「……待ってろ。すぐ病院に行く。一緒にいるから」 電話を切り、私は悲しみを堪えて母の後のことを整え始める。 しかし十分後、スマホに届いたのはまた別のメッセージだ。 【穂花、ごめん。冬実の両親に呼ばれて、一緒に顔を出さなきゃならない。また今度必ずお母さんに会いに行くから!】 驚きはない。 ここ二年、彼の口から最も多く出たのは「また今度」という言葉だった。 記念日に来なかった彼は、「また今度必ず埋め合わせる」と言った。 母に会う約束を破った彼は、「次こそ必ず行く」と言った。 婚姻届を出すことを先延ばしにした彼は、「明日なら時間がある」と言った。 私が許してしまうと分かっているからこそ、辰哉は平気で私を傷つける。 けれど――もう二度と「次」はない。 母にとっても、私にとっても。 その夜、私は家に帰らず、病院で一晩を過ごす。 辰哉からは夜通しメッセージが届き、スマホは鳴り続けているのに、私は見ないし、出ようともしない。 翌朝、私は会社に早く出て、退職届を準備する。 辰哉は会社の創業者。 私はただのデザイナーにすぎない。 彼が何も持たなかった頃から、共に立ち上げた会社。 けれど今の私は、この場所で何の意味も持たなくなっている。 消えても、辰哉は気づきもしないだろう。 退職届を書いていると、不意に背後に辰哉の気配を感じる。 振り返らなくても分かる。視線が突き刺さる。 私は平然と紙を手に取る。 「終わった?」 優しい声。 「……うん」 私は答えるが、その声に熱はない。 私の冷たさに気づいていないかのように、辰哉は軽く咳払いする。 「篠原穂花(しのはら ほのか)、ちょっと来てくれ」 その瞬間、周囲の同僚たちの視線が一斉に集まり、ざわめきが走る。 「ねえ、知ってる?高嶺社長、もう結婚してるんだって」 「うそでしょ?じゃあ篠原さんって、ずっと社長の隠し彼女だったってこと?まさか――不倫相手?」 第2話 「それが一番嫌いだっていつも言ってたくせに。自分こそ不倫相手で、よくもまあ格好つけられるよね」 父は他の女のために母と私を捨てた。母と私は半生を苦しみの中で過ごしてきた。 それなのに今、辰哉のおかげで、私まで「不倫相手」と呼ばれる日が来るなんて。 オフィスで、辰哉は私を抱こうとする。 私は一歩下がり、冷たく言う。 「高嶺社長、ここは会社です」 辰哉は眉をひそめる。 「もう怒るなよ。今夜、一緒にお母さんのところへ行こう」 私は首を振る。 「もういいの」 母はもう亡くなっている。 もし母が知ったら――私が辰哉のせいで「不倫相手」と呼ばれていることを。母はきっと私を叱っただろう。 辰哉は私の異変を感じ取ったのか、しばらく沈黙したあと、口を開く。 「あと二日で、冬実と離婚できる。そのときこそ、俺たちが婚姻届を出す番だ」 そう言って、彼は箱を差し出す。 「これはお母さんのために用意した高麗人参だ。体を養うようにって」 私はそれを見つめ、思わず立ち尽くす。 その心遣いが届くには、あまりにも遅すぎた。母にはもう必要ない。 黙り込む私に、辰哉の瞳が焦りを帯びる。彼が何か言いかけた瞬間、急に着信音が鳴り響く。 辰哉はスマホを取り出し、私を一瞥する。 一瞬ためらいながらも、彼は背を向け、そのまま歩き去った。 ――分かっている。相手は冬実だ。 今の彼女こそ、辰哉の妻。 私の心は、もう何の波も立たない。 すでにどうでもよくなっている。 その後、私は退職届を提出する。 突然の辞意に、副社長は落ち着いた表情で答える。 「穂花、心配しなくていい。高嶺社長がちゃんと面倒を見てあげる」 私は唇を噛む。滑稽さに、思わず笑いそうになる。 みんな、私を辰哉に囲われて会社に置かれている女だと思っている。 彼がすでに私のために全てを用意していると、誰も疑いもせずに思い込んでいる。けれど誰一人として受け入れようとしない。本当は私こそが辰哉の恋人で、今その彼に傷つけられ、ここから去ろうとしているのに。 会社を出ようとしたとき、エレベーター前で辰哉と冬実に出くわす。 私を見た辰哉は、視線を揺らし、思わず口を開く。 「誤解するな。冬実を連れてきたのは……」 言葉が終わらないうちに、冬実が辰哉の腕に手を回す。 「夫の会社を見学するの」 私は何も言わない。その代わり、冬実が挑発するように口を開く。 「穂花、気にしないわよね?」 彼女の視線が私を射抜く。私は黙ったままエレベーターを降り、二人に道を譲る。 辰哉の瞳に一瞬ためらいが宿る。何か言いかけたが、結局は冬実に腕を引かれて去っていく。 ――午後。 火葬場で、母が荼毘に付されるのを見届け、骨壺に収められた遺骨を墓地へと納める。 夜の帳が下りるまで、辰哉は現れない。連絡も一つもない。 けれど、私は気にしない。 彼に邪魔されない方が、母も静かに眠れる。 母もきっと、もうこれ以上彼と私が絡み合うことを望まない。 婚姻届を出す姿など、見たくないはずだ。 六年の関係は、ここで終わらせる。 墓地を出て、私は家まで歩いて帰る。 夜道を歩くのは久しぶりだ。 昔は母の手を握りしめて。 その後は辰哉の腕に寄り添って。 そしてこれからは、一人で歩く。 いずれ慣れるだろう。 深夜になってようやく家に戻る。 リビングの灯りがついていて、辰哉がソファに腰掛け、スマホでメッセージを打っている。 私の姿を見て、彼の険しい表情が和らぐ。 すぐに立ち上がり、私の手を掴む。 「どこに行ってたんだ?電話も出ないし、メッセージも返さない。警察に連絡しようかと思ったんだぞ!」 私は一瞬戸惑い、その手を振り払う。 「母と一緒にいたの。誰にも邪魔されたくなかったから」 母のことを口にした途端、辰哉の顔に昼間の言葉を思い出したような後ろめたさが浮かぶ。 それでも彼は、どこか期待するような眼差しで私を見つめ、慎重に小さな箱を取り出した。 私は無意識に受け取り、蓋を開ける。中には一つのダイヤの指輪。 その瞬間、息が止まる。 ――かつて、辰哉は私の手を強く握りしめ、誓った。 「必ずダイヤの指輪をはめて、結婚して、お前の幸せをお母さんに見せる」 私はその日を幾度も待ち望んだ。 何度も夢見た。 ――でも、それは過去のこと。 第3話 私は箱を閉じ、そのまま辰哉に返す。 辰哉はわずかに眉を寄せ、何か思い出したように気まずく言う。 「もう零時を過ぎた。あと一日待てば、冬実と離婚できる。 安心しろ。あの約束はずっと覚えてる。 明日、俺がお前の指にこの指輪をはめて、そのあと二人で婚姻届を出しに行こう」 私は彼の言葉に心を動かされることもなく、ただ淡々と答える。 「分かった。少し疲れたから休むね」 辰哉の笑みが固まり、初めて私の冷たさに気づく。 目の奥にわずかな焦りが走り、私の手を取ろうとしたそのとき――寝室から冬実が現れる。 私のパジャマを身にまとい、眠たげな目でこちらを見ると、すぐさま辰哉の腕に絡みつき、甘え声を出す。 「辰哉、穂花も帰ってきたし、早く休もうよ」 辰哉は慌てて私を見る。 「冬実は家族と喧嘩して、今日は別の部屋に泊めただけなんだ」 そう言って、慌てて私の顔をうかがう。誤解されまいとする視線。 私は軽く頷き、感情を見せずに言う。 「大丈夫。私は母のところで一晩過ごすから」 辰哉は立ち尽くし、私のあっさりした返事に言葉を失う。 けれど冬実は、私に言い返す隙すら与えず、勝ち誇ったように踵を返して部屋へと消えていく。 私はキャリーバッグを引きながら玄関へ向かう。その間も、辰哉はリビングに立ち尽くしたままだ。 彼は唇を固く結び、私の手を強く握ったまま離そうとしない。 その瞳には、後ろめたさがますます色濃く滲んでいく。 やがて冬実のせかす声が飛んできて、辰哉は押し殺した声で言う。 「明日、婚姻届を出したら、一緒にお母さんに会いに行こう」 ――夜が明ける。 私はすべてを整理し、会社へ最後の引き継ぎに向かう。 会社のドアをくぐった瞬間、同僚たちの視線が刺さる。 通り過ぎるとひそひそ声が背中にまとわりつき、指先が私を指しているのを感じる。 視線の先に、私の席に腰掛ける冬実の姿。 その瞬間、この異様な空気の理由を悟る。 全員がパソコンの画面に目を落とすふりをしながら、視線だけが絶えずこちらに泳いでいる。 ――まるで修羅場を見物しているかのように。 私が姿を見せると、冬実は勝ち誇ったように私を見下ろす。 「今日から入社するの。ここに座るわ。あなたは別の席に行って」 私は彼女を見つめ、静かに頷く。 「分かった。荷物を片づける」 言葉は淡々としているのに、私の姿を見た同僚たちは勘違いする。 ――妻である冬実を前にして、不倫相手の立場にある私は気後れしたのだ、と。 けれど当人の私たちが目の前にいるため、誰も口には出せない。 ただキーボードを叩く音だけが響き、そこに込められた軽蔑を私に突きつける。 弁解したい気持ちはある。けれど言葉が見つからない。 事実、冬実は辰哉と婚姻届を出した「妻」なのだ。 これ以上何を言っても、私自身を貶めるだけ。 荷物をまとめ、席を離れようとしたとき、辰哉が現れる。 私が荷物を詰め込んだ箱を抱えているのを見て、彼の顔色が変わる。 「どこに行くんだ」 「私は……」 その言葉を遮るように、冬実が声を張る。 「ここは私の席よ。私が気に入ったから」 私が歩き出すのを見て、辰哉は慌てて腕を掴む。 「駄目だ。ここはお前の席だ。誰にも……」 最後まで言わせず、私は冷たく切り捨てる。 「彼女が気に入ったなら、譲ればいい。私はもう退職したんだから」 ――誰がどこに座ろうと、私には関係ない。 辰哉はその場から動けず、暗い表情を浮かべたままだ。 私が箱を抱えて去っていく背中を見送るだけ。 そして我に返った瞬間、彼は机を片づけていた冬実を突き飛ばし、同僚たちの前でその頬を打つ。 「俺とお前は形だけの結婚だ。本気で勘違いするな! 俺が何度も言っただろう、穂花に手を出すなと!」 会社を離れたあと、私のスマホに辰哉からメッセージが届く。 【明日、区役所の前で待ってる。 お母さんのために専門医を呼んだから。 婚姻届を出したあと、一緒にお母さんに会いに行こう】 私は思わず笑みを浮かべ、すぐに苦く歪む。 ――辰哉、もう二度と会わない。 荷物をすべて持ち、私は空港へ向かう。 翌日。 辰哉は、離婚届の受理証明を手に、区役所の前に立っている。