灯の影、眠れぬ夜

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灯の影、眠れぬ夜

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大昭国(たいしょうこく)で最も皇帝に慈しまれた姫君が死んだ。 亡骸が見つかったのは、北方を守護する鎮守、鎮北王(ちんほくおう)こと蕭聿...

Chương (1)

第1章

大昭国(たいしょうこく)で最も皇帝に慈しまれた姫君が死んだ。 亡骸が見つかったのは、北方を守護する鎮守、鎮北王(ちんほくおう)こと蕭聿城(しょう いつせい)の屋敷の奥庭。 七日も前に降り積もった雪がようやく溶け、霜で覆われた亡骸が姿を現すまで、姫君の死に気づく者は誰もいなかった。 その亡骸は、大きく膨らんだ腹を片手で庇い、もう一方の手を庭の外へと必死に伸ばすかのような姿のまま、凍りついていた。 だが、その声なき声に応える者はいない。 姫君は、その身に宿した新たな命と共に、吹雪の中で生きながら凍え死んだのである。 意識が遠のいていく最中、趙婉寧(ちょう えんねい)の全身を苛んだのは、燃えるような後悔の念だった。 人の心を持たぬ、氷のように冷たいあの男を愛してはならなかった。 自ら苦しみの道を選ぶべきではなかったのだと。 結果、我が子まで巻き添えにしてしまった、この世の光を一目も見せてやることなく。 もし、来世というものがあるのなら、もう二度と、あの男には関わらない…… 第1話 大昭国(たいしょうこく)で最も皇帝に慈しまれた姫君が死んだ。 亡骸が見つかったのは、北方を守護する鎮守、鎮北王(ちんほくおう)こと蕭聿城(しょう いつせい)の屋敷の奥庭。 七日も前に降り積もった雪がようやく溶け、霜で覆われた亡骸が姿を現すまで、姫君の死に気づく者は誰もいなかった。 その亡骸は、大きく膨らんだ腹を片手で庇い、もう一方の手を庭の外へと必死に伸ばすかのような姿のまま、凍りついていた。 だが、その声なき声に応える者はいない。 姫君は、その身に宿した新たな命と共に、吹雪の中で生きながら凍え死んだのである。 意識が遠のいていく最中、趙婉寧(ちょう えんねい)の全身を苛んだのは、燃えるような後悔の念だった。 もし、来世というものがあるのなら、もう二度と、あの男には関わらない…… …… 「何を泣く。婉寧、これこそがそなたの望んだことだろう!」 趙婉寧は首を締め上げられる痛みで意識を取り戻した。 目を見開くと、自分が生まれ変わたのに気づいた。 鎮北王、蕭聿城が薬を盛られたあの日に。 前世で、婉寧は聿城を深く愛していた。 初めて出会ったのは、大昭国で三年に一度開かれる秋の狩り場であった。 父である皇帝と義兄弟の契りを交わした異姓の王、聿城が馬を駆って現れた。 高く結い上げた髪に玉の冠を戴き、武官の礼装が鍛え抜かれた腰の線を際立たせる。 その姿は、居並ぶ人々の中でも一際目を引く存在だった。 その後、刺客が皇帝を襲い、最も寵愛を受けていた末の姫君である婉寧を人質に取った。 その時、一矢で刺客を射抜き、婉寧をその腕で救い出したのが聿城だった。 墨染めの外套が婉寧の体を包み込み、同時に、少女の恋心をも全て奪い去った。 成人を迎えた年、姫君は九つ年上の鎮北王に想いを打ち明けた。 しかし、それまで婉寧を慈しんできた聿城は血相を変え、幼子の気まぐれに過ぎず、ただの思慕と恋慕の違いも分からぬと厳しく叱責した。 翌日、鎮北王は皇帝に願い出て、北疆(ほっきょう)の地へと発つことを決めてしまった。 当時の婉寧もまた頑固で、皇居の門前で丸一日跪き続け、娘を溺愛する皇帝の心を動かし、ついに北疆へ向かう許しを得たのだった。 北疆に着いてすぐ、鎮北王邸の者たちは皆、婉寧に恭しく接した。 だが、屋敷で一ヶ月過ごしても、聿城に一度も会うことは叶わなかった。 そこで婉寧は、きらびやかな衣を脱ぎ捨て、質素な木綿の服をまとい、一介の民として北鎮軍に加わり、薬師となった。 軍に身を置いて三年目のこと。 聿城が軍内部の裏切りによって薬を盛られた。 婉寧は自ら主帥の天幕へ進み、その身をもって彼の薬を解いた。 翌朝、二人が衣を乱した姿でいるところを、彼の幼馴染であった女将軍、姜浅吟(きょう せんぎん)に目撃されてしまった。 浅吟は深く傷つき、目に涙を浮かべたまま馬で陣営を飛び出していった。 不運にも、浅吟は道中で敵軍の待ち伏せに遭い、絶壁まで追い詰められると、進むべき道を失い崖から身を投げた。 この日を境に、聿城はまるで別人のようになった。 彼は軍の者たちと共に浅吟の墓を立て、彼女に将軍としての追号を贈り、その後、皇帝に婉寧を娶る許しを請うた。 婚姻を認める勅命が北疆に届く頃、婉寧姫に関する噂が大昭中に広まっていた。 恥知らずにも皇帝の義兄弟を誘惑し、卑劣な手段で薬を盛ったのだと。 大昭一の女将軍であった浅吟を死に追いやっただけでなく、皇帝の権威を盾に、聿城に無理やり自分を娶らせたと。 婚儀の日、婉寧の腹はすでに膨らみ始めていた。 この間、彼女は腹の子を育むことだけに専念し、外界の噂に耳を貸すことなく、ただひたすらに嫁入り衣装の刺繍をしていた。 そして婚儀の日に初めて知ったのだ、聿城が、心の底から自分を憎んでいることを。 その日以降、大昭から、かつての寵愛された姫君の姿は消えた。 在るのはただ、鎮北王邸の奥に閉じ込められ、日夜虐げられる婉寧の姿だけだった。 嫁いでからの三年間で、婉寧は三人の子を失った。 最初の子は、生まれて三ヶ月も経たずに奥庭で亡くなった。 屋敷の薬師は、薬を用いて身ごもったがゆえに、たとえ無事に育ったとしても、おそらくは知恵遅れの子になっただろうと言った。 二人目の子は、妊娠四ヶ月で流産した。 その日は浅吟の命日で、婉寧は浅吟に供えた酒を誤ってこぼしてしまった。 その罰として、屋敷の女中たちに押さえつけられ、位牌の前で三日間も跪かされた。床は、流れた血で赤く染まっていた。 最後の子は、すでに八か月になっていた。 だが、北疆は百年ぶりの大雪に見舞われ、屋敷の他の建物は皆、前もって補強されていたにもかかわらず、彼女の離れだけが何の備えもされていなかった。 雪は一晩中降り続き、翌朝には北の地は晴れ渡っていた。 北疆の民は雪への備えに慣れていたため、都に大きな被害はなかった。 しかし、婉寧とその腹にいた子は、吹雪の中に完全に埋もれてしまった。 死後、魂となって宙を漂っていた婉寧は、聿城が死から戻った浅吟を、その腕に強く抱きしめる姿を見た。 屋敷の者たちも心から喜び、王様が願い続けた結果、天がその想いを聞き届け、ついに愛する人を返してくださったのだと噂し合った。 雪に埋もれて死んだ婉寧は、ただ二人の仲を裂いた邪魔者でしかなかった。 誰一人、気に留める者はいない。 死んでせいせいした。 天が憐れんだのか、婉寧が軍で三年間多くの命を救ったことを見ていてくれたのか、彼女は聿城が薬を盛られたあの日に、再び生を受けたのだ! 今世で、婉寧が望むことはただ一つ。 聿城と浅吟の二人を結ばせること。 第2話 服が聿城によって引き裂かれそうになるのを見て、婉寧は慌てて力を込めて彼を突き放し、素早く天幕から駆け出した。 「寧女医(ねいじょい)、どうして出てきたのですか!聿城様の容態はどうなりました?」 天幕の外を囲んでいたのは皆、蕭聿城の近衛兵だった。婉寧が出てくるのを見ると、一人残らず焦りの色を浮かべていた。 「芳しくない。鍼では効果がなかった。すぐに姜副将(きょうふくしょう)を呼んできて!」 婉寧は固く衣を掴んでいた。北の地の寒さが厳しく、厚着をしていたことだけが今の救いであった。 「容態が悪いのに出てきてどうする?他人を呼びに行くなど、時間の無駄ではありませんか!」 「万が一、聿城様の体に何かあれば、一軍医のそなたに責任が取れるのか?」 体格の良い兵士たちが厳しい声で叱責するが、婉寧は一歩も動こうとしなかった。 幸いにも、誰かが浅吟を呼びに行き、ほどなくして人を連れてきた。 武人の装束に身を包んだ少女が馬から飛び降り、婉寧の前に立つ。 彼女は訝しげに尋ねた。 「寧女医、何のつもりだ?苦心して聿城の側仕えの軍医になったのは、王府に嫁ぎ、己の出世のためだろう?この機に乗じず、逆に私を呼びつけるとは、どういう意図だ?」 風雪が重くのしかかり、婉寧はまるで死ぬ間際のあの日に再び身を置いているかのようだった。 息もできぬほどの絶望が、彼女を襲う。 指を固く握りしめ、婉寧は浅吟を見上げた。 「貴女が早く入らなければ、中の御方は本当に危うくなる」 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、天幕の中から苦痛を堪えるうめき声が聞こえてきた。 浅吟は顔色を変え、鞭で婉寧を打ち払うと、すぐに幕を上げて天幕の中へと入っていった。 まもなく、天幕の中から服が引き裂かれる音が聞こえてきた。 聞く者の顔を赤らめさせるような音だ。 男の低い唸り声と女の甲高い声に混じって、物が地に落ちる大きな音が響く。 二人の激しさが窺えた。 その愉悦の声は、まるで軒先から落ちる氷柱のように、婉寧の胸に突き刺さり、血肉を抉るかのようだった。 「しかし、我らの王も随分と猛々しいな。この声を聞け……やれやれ」 「中に入ったのが姜副将で幸いだったな。もし寧女医が残っていたら、あの細い体では、担ぎ出される頃には息もなかっただろう。そうなれば、高貴も何もない」 「……」 耳元で聞こえる近衛兵たちの卑猥な話も、婉寧の息を詰まらせた。 彼女はまるで精気を吸い取られたかのように、魂が抜けた様子で、よろめきながら主帥の天幕を離れた。 自分の暖かい天幕に入った途端、涙はついに堪えきれなくなり、競うように目尻から滑り落ちた。 最初は抑えた嗚咽だったが、やがて声を上げて泣きじゃくり、まるで前世と今世の全ての無念を吐き出すかのようだった。 その夜、主帥の天幕の灯りは一晩中消えることはなかった。 婉寧もまた、一睡もできなかった。 夜が明ける頃、彼女は身なりを整えて軍医の天幕から出ると、薬材を買い付けに行く馬車に便乗して陣営を離れ、城で最も大きな薬舗へ向かった。 薬舗の主人は彼女の姿を認めると、すぐに目を赤くして駆け寄ってきた。「姫様、どうして……このようなお姿に?」 婉寧は、自分の今の姿が見苦しいことは分かっていた。一晩中泣いたせいで、両目は赤く腫れている。 着ている服は浅吟の鞭で破られ、今はただ自分で数針縫っただけで、見るからに哀れだった。 もはや姫の面影はどこにもない。 薬舗の主人もまた他人ではなく、皇帝が幼い頃から彼女のそばに仕えさせた護衛の女官、素月(そげつ)であった。 婉寧を赤子の頃から見守り育ててきた者として、その痛ましさに心を痛めるのは当然だった。 だが、婉寧には彼女に事情を説明し、身の上を嘆く時間はない。 一度死んだ姫は、その胸に飛び込み、赤い目で声を詰まらせた。 「素月さん、父上に伝言をお願い。都に帰る、と!」 第3話 「ようございました、姫様、ようやくお心が決まりましたのですね!」 素月は、自分が守り育ててきた姫が今の姿までやつれているのを見て、胸が張り裂ける思いで、その目にも涙を浮かべた。 「陛下はとうの昔から、鎮北王は姫に相応しいお方ではないと仰せでした。姫様が意地を張らなければ、このような苦労をなさることもなかったものを。 ですが幸い、姫様がお気づきになるのが早かった。都にお戻りになれば、陛下が自ら姫様のために良き婿君をお選びくださいます。さすれば都では陛下が後ろ盾となり、二度と姫様に指一本触れさせはしませぬ」 その言葉に、婉寧の赤く腫れた目から再び涙が溢れ出た。 前世で北疆に来る前、父である皇帝も同じように自分を諭した。 だが、自分は聞く耳を持たず、宮門の前で跪いてまで恩典を乞い、北疆へとやって来て一生を無駄にした。 死ぬまで、父の顔を二度と見ることはなかった。 婉寧は固く拳を握りしめ、笑みを作った。 「私がこれまで物分りの悪い娘であった。父上にご心配をおかけしたが、二度とはない」 これより先、二度と聿城に執着することはない。 もはや、その気力すら残ってはいない…… 薬舗を出た後、婉寧は再び馬車に乗って陣営に戻った。 彼女の軍営での身分は正式に登録されているため、このまま素月と共に都に帰るわけにはいかない。 北疆を離れるにしても、手元の仕事を全て片付け、負傷者への処置をきちんと済ませる必要があった。 それに加え、辺境に関する重要な知らせを父に届けねばならぬ。 婉寧が信頼できるのは素月だけである。そのため、筆を執って書状を一つしたため、素月に直ちに都へ持ち帰るよう命じた。 あとは、もう少し待つだけでいい。 自分を愛してくれる人が、迎えに来てくれるのを……家に、連れ帰ってくれるのを。 もうすぐここを去れるのだと思うと、婉寧の心は少し軽くなり、ようやくかすかな笑みがこぼれた。 しかし、天幕の幕を上げて中に入った途端、中に座っていた男と鉢合わせになった。 聿城は中衣を一枚羽織っただけで、腹部にある一筋の傷跡を晒していた。 視線を上に移せば、そこには数え切れぬ程の刻まれた痕があった。 前世で聿城に幾度となく辱められた婉寧は、それが何であるかを当然知っていた。 彼女の顔から笑みが凍りつき、素早く視線を逸らす。 「なぜ、そなたが私の天幕におるのだ?」 聿城は目を細め、彼女の表情を全て見透かすように見つめると、最後にその赤く腫れた目元に視線を落とした。 彼は冷ややかに鼻で笑う。「寧女医は我が軍医だ。我が傷を負ったのだ。そなたに手当てをさせに来て、何がおかしい」 その言葉に、婉寧は眉をひそめた。 聿城の軍医として、手当てのような仕事は日常茶飯事であった。 しかし、これまではいつも主帥の天幕に呼びつけられるばかりで、聿城が自分の天幕にやって来ることは滅多になかった。 だが結局、婉寧は何も問わず、黙って薬箱を取り出し、聿城の薬を交換するために近づいた。 男の腰には一筋の切り傷があり、肉が裂けていた。 昨夜、彼が力を込めすぎたせいで、傷口はさらに酷くなり、血の滲んだ帯を外すと、見るもおぞましい有様だった。 婉寧が軍営に来たばかりの頃であれば、きっと恐ろしさのあまり手が震え、涙を流していただろう。 だが今の彼女に、もはや怯えはなかった。 傷薬を傷口に振りかけた時、聿城が再び冷たい声で口を開いた。 「昨夜の出来事は、寧女医も聞いたであろう。我はすでに触れを出した。日ならずして浅吟を娶る。そなたも軍にいる以上、以前のような馬鹿げたことは二度と口にするな」 婉寧は目を伏せ、静かに答えた。 「そんなことが百も承知、叔父様」 叔父様、という言葉が口にされた瞬間、聿城はその響きにひどく違和感を覚えた。 彼は目の前の少女を、じっと深く見つめた。 その呼び名をどれほどの間、耳にしていなかったか、もはや思い出せなかった。 覚えているのは、都にいた頃、姫がいつも鎮北王邸に入り浸っては、甘えるように「叔父様」と呼んだことだけだ。 それがいつからか、彼女は別の心を抱き、自分への呼び方も変わり、決してその呼び方を口にしようとはしなかった。 彼は眉をひそめ、何かを言おうとしたが、その時、天幕の幕が再び上げられ、二人の間の奇妙な静寂は破られた。 「聿城、私の荷はもう運んできた。寧女医には話したのか?」 聿城は我に返り、すぐに婉寧を突き放すと、立ち上がって浅吟の方へ歩み寄った。 「休んでいるように言ったであろう。後で人を行かせると」 優しい声でそう言ったかと思うと、振り返り、突き飛ばされて地に膝をついた婉寧に向き直った途端、その声は冷徹なものに変わった。 「この天幕は主帥の天幕に最も近い。これより先は浅吟をここに住まわせる。直ちにそなたの物をまとめ、軍医の天幕の方へ移れ」 浅吟は聿城の胸に寄りかかり、甘えた声を出した。 「聿城、このようなことをしてはよろしくないのではないか?寧女医はもう三年近くもここに……やはり、私は元の天幕に」 彼女はそう言って去ろうとしたが、聿城に細い腰を引き寄せられた。 「これより先、そなたは鎮北王妃となるのだ。住みたい場所に住めばよい。まだそなたと婚礼を挙げておらぬゆえこうしているが、本来ならば主帥の天幕に住まわせるところだ」 彼は優しい声で浅吟をなだめ終えると、ようやく婉寧に氷のような一瞥をくれた。 「寧女医は、己の身分というものを、そろそろ弁えるべきであろう」 婉寧は、ようやく理解した。 聿城がここに来たのは、彼の心に自分の居場所など永遠にないということを、彼女に思い知らせるためだったのだ。 自分を追い払い、彼の愛する人を少しでも近くに置くために。 彼女は込み上げる苦々しさを抑え、衣の埃を払って立ち上がった。 「ただちに荷をまとめ、すぐに立ち退こう」 どうせ、もうすぐここを去るのだ。 都へ、父上の元へ。 この北疆の地を離れ、二度とこの土を踏むことはないのだから。 第4話 婉寧は、軍営に来たばかりの頃に与えられた、あの小さな天幕に再び戻った。 寝台一つの周りには、鼻を突く薬材の匂いが充満し、隅には洗濯を待つ血のついた包帯が積まれている。 婉寧は、初めてこの天幕に来た時、どれほどここを嫌ったかを覚えていた。 聿城に何度もねだって、ようやく主帥の天幕の隣に移ることができたのだ。 今、再びここに戻ってきたが、心境は全く異なっていた。 少なくとも、前世で死ぬ前に住んでいた場所に比べれば、ずっとましだ。 吹雪の中で凍え死ぬことはないのだから。 それから数日、婉寧は負傷者たちを他の者に引き継ぎ、毎日薬草採りの馬車について早朝に出ては夜遅くに戻り、ただひたすらに素月が都から迎えに来るのを待っていた。 その数日、軍営はひどくにぎやかだった。 婉寧がどこを歩いていても、聿城がいかに浅吟を慈しんでいるかという話が聞こえてきた。 愛する人を一日も早く娶るため、聿城は最も近い吉日を選び、一月後には大婚の儀を執り行うという。 そうは言っても、格式は少しも欠くことがあってはならぬ。 姜家が浅吟のために用意した嫁入り道具が少ないと聞くと、聿城は特別に自らの蔵を開き、貴重な品々を姜家へ運び込み、浅吟の嫁入り道具とした。 それに加えて聿城が贈った結納の品々を合わせると、この度の婚礼はまさに、世に二つとないほどの盛大なものと言えた。 婉寧はただ静かにそれを聞いていた。 時折、周りの者たちに合わせて相槌を打ち、王と王妃が末永く仲睦まじく、白髪になるまで添い遂げられますようにと、祝いの言葉を口にした。 その日も、彼女はいつも通り早くから薬草採りの馬車について陣営を出ようとしていた。 しかし、踏み台を踏んで馬車に乗り込もうとしたその時、手首に鋭い痛みが走った。 聿城が彼女の細い手首を掴み、傍らへと引きずり下ろした。 「ここ数日、我を避けているな?」 「叔父様、そのようなことはおらぬ」 婉寧は首を横に振った。 聿城は黒く沈んだ瞳で彼女を見つめ、じりじりと追い詰める。 婉寧が後ずさる場所もなくなった時、彼は冷たい声で口を開いた。 「まだ無いと言うか?我が軍医でありながら、毎日薬草採りの馬車について早朝に出ては夜遅くに戻り、我を見ても挨拶しない。これが我を避けていると言わずして何だ? なぜだ?我が浅吟を娶るからか?」 婉寧は慌てて首を振った。 「違う、叔父様。そなたが愛する御方と結ばれること、年下の者として、私は心から嬉しく思っているのだ。叔父様と想い人が末永く結ばれることをお祝い申し上げる。そなたと王妃が都に戻り、皇族の名簿に名を連ねる際には、必ずや心を込めた祝いの品を用意しよう。 叔父様、ご安心を。私はすでに己の身分を弁え、そなたが私を好むことはないと理解したのだ。ゆえに、もう叔父様のことは諦め、二度とそなたを困らせるようなことはしないのだ」 彼女が心からの想いを穏やかな口調で語るほど、聿城の顔はますます険しくなり、その言葉がひどく耳障りに聞こえた。 我を諦めた、だと? これほど馬鹿げた戯言は聞いたことがない。 「婉寧よ、我にそのような駆け引きは通用せぬぞ!」 「叔父様、そのようなつもりはおらぬ!」 「無いだと?」 聿城は鼻で笑い、婉寧の手を掴んだまま天幕の中へ彼女を放り投げた。 もともと薬材が置かれていた卓の上に、今、一つの木箱が置かれていた。 婉寧は顔色を変えた。 「無いと言いながら、なぜわざわざこれらの書状や絵姿を浅吟の天幕に残し、彼女の気を悪くさせる。そなたは長年、死に物狂いで都から北疆まで我を追いかけてきた。それが突然、諦めたと?そなた自身、その言葉を信じているのか?」 婉寧は卓上の木箱を見つめ、目の奥が熱くなった。 その中に入っているのは、この数年、彼女が聿城に宛てて密かに書いた恋文と、彼の姿を密かに写し取った絵姿だった。 生き返ってからというもの、彼女は心の最も深い場所に隠したこの小さな木箱のことを忘れてしまった。 まさか、聿城自身の手によって、目の前に投げつけられることになるとは。 諦めたなどという言葉が、いかに滑稽に聞こえるかは分かっていた。 彼のそばにいるためなら、これまでもこのような小細工を弄してきたのだから。 そして目の前の男は、自分が一度死んだことなど知る由もない。 また何か企んでいると思うのも当然だ。 しかし、彼女は本当に、もう彼を好きでいる勇気はなかった。 「叔父様、私が長年そなたを慕っていたことは事実だ。だが、そなたと姜副将の婚礼はすでに決まったこと。私が姫である以上、人の縁を奪うような真似はしない」 彼女は赤くなった目で、じっと聿城を見つめた。 そして、箱の中の紙を全て取り出すと、聿城の目の前で、天幕の中の炭火の中へと投げ入れた! 「趙婉寧!」 炎が燃え上がった一瞬、聿城の怒りを帯びた声が、鋭く響き渡った。 第5話 燃え盛る炎の光が横顔を照らす中、婉寧は、聿城の顔に喜びの色はなく、むしろ一層険しさを増しているのを見た。 自分が見間違えたのかと疑ったその時、聿城の氷のような声が突き刺さった。 「芝居を続けろ!趙婉寧、よく覚えておけ。そなたがどのような手を使おうと、我が愛する者は浅吟たけだ!」 怒りに満ちた声が婉寧の胸に重くのしかかり、息もできぬほどだった。 その時、天幕の外から突然、急報がもたらされた。 聿城の近衛兵が伝えたところによると、近くの村が蛮族の略奪に遭い、兵を率いて駆けつけた浅吟が、その中で包囲され、至急支援を必要としているという。 それを聞くや否や、聿城の顔色が変わった。 「すぐに薬箱を持って、我に続け!」 彼は婉寧を一瞥すると、幕を上げて足早に去っていった。 まるで、浅吟の身に何かあったらと、恐れるかのように。 天幕の中の火はまだ消えていなかったが、婉寧の全身は、まるで雪の中に長時間いたかのように冷え切っていた。 以前の聿城であれば、決して彼女を戦場に連れて行くことはなかった。 たとえ戦が終わり、戦場を片付けるようなことであっても。 一つの原因は自分の身分のためであり、もう一つは、自分が少なくとも彼の庇護の下で育った者だからだ。 戦場に行って、不測の事態が起こらぬと誰が保証できよう。 そのため、この三年間、自分はずっと軍営の中で、運び込まれてくる負傷者の手当てをしていた。 聿城が自分を外に連れ出すのは、これが初めてだった。 それは、ひとえに姜浅吟が傷を負い、すぐに治療を受けられぬことを恐れてのことだろう。 婉寧は胸に込み上げる苦い思いを抑え、手際よく薬材を準備した。 どうであれ、今の自分の身分は軍営の軍医だ。軍令は絶対である。最後の務めは、きちんと果たさなければならぬ。 浅吟を案ずるあまり、聿城は先に兵を率いて村へ向かった。 婉寧は、聿城の近衛兵と共に向かった。 到着した時には、蛮族はすでに追い払われ、兵士たちは村人たちの事後処理を手伝っていた。 婉寧は聿城の姿を探したが、見当たらないので、薬箱を提げて負傷者の手当てに向かった。 しかし、一人の負傷者の手当ても終わらないうちに、呼びつけられた。 浅吟が蛮族に切りつけられ、聿城がひどく動揺し、名指しで軍医を寄越せとのことだった。 「早くしてください、寧女医。もし聿城様のお咎めを受けでもしたら、我々では責任が取れません!」 婉寧はその役目を他の者に押し付けたかったが、近衛兵の催促に抗えず、薬箱を提げて向かうしかなかった。 暖かな室内では、浅吟が聿城の胸に寄りかかり、婉寧が入ってくるのを見ると、ゆっくりと右腕を差し出した。 華奢な白い腕には、ごく浅い擦り傷が一本あるだけで、血の跡すらなかった。 婉寧は眉をひそめた。このような傷で自分を呼びつける意味が理解できぬ。 外にいる、腕を失いかけた兵士たちの方が、よほど軍医を必要としているのではないか? 「大した怪我ではないと言ったのに、聿城が大袈裟なのだ。どうしても寧女医に診てもらえと聞かなくて」 婉寧が動かないのを見て、聿城もまた声を低くした。 「人の言葉が聞こえぬのか?」 婉寧は彼を一瞥し、唇をきつく結ぶと、薬を取り出して彼女の傷口に塗った。 「っぐ……」 傷薬が浅吟の傷口に振りかけられると、彼女は苦痛を堪えるような声を漏らした。 「痛むか?」 聿城の心配そうな眼差しがすぐに注がれ、続いて不満げな声が婉寧に突き刺さった。 「もっと優しくできんのか」 婉寧は、彼の瞳の奥にある警告の色をはっきりと見て取った。 自分が嫉妬に駆られ、わざと浅吟の傷に手荒く処置していると思っているに違いない。 彼女は弁解しなかった。 弁解しても、無駄だと知っていたからだ。 「もうよい、聿城。寧女医にそんなに厳しくしてどうするのだ?もともと些細な傷なのだから、少し我慢すれば済むものを。そなたが事を大きくするからだ」 浅吟は聿城の胸に顔を埋め、甘えるように言った。 聿城は真顔で答えた。 「そなたはもうすぐ鎮北王妃になる。些細な傷一つ負ってはならん」 二人はまるで婉寧など存在せぬかのように、人目も憚らず睦み合っている。 婉寧は今、この傷が小さかったことを幸運に思った。 薬を振りかければすぐにここを離れられる。 これ以上、この場で苦痛に耐える必要はない。 彼女は足早にその部屋から逃げ出した。 もう一刻ここにいれば、息が詰まってしまいそうだった。 だが残念なことに、彼女を見逃す気のない者もいた。 婉寧が負傷者全員の手当てを終え、薬箱を提げて隊と共に軍営へ戻ろうとした時、浅吟が彼女の行く手を遮った。 「婉寧姫?私の記憶違いでなければ、そなたは姫君でありましたな?」 婉寧は眉根を寄せ、目の前の女を黙って見つめた。 鎮北軍(ちんぽくぐん)の中で、彼女の身分を知っているのは聿城の数人の近衛兵を除いて誰もいないはずだ。 幼い頃から北疆で育った浅吟が、どうして知っているのだろうか? しかし、彼女が口を開く前に、相手は軽蔑と嘲りをたっぷりと含んだ笑い声を上げた。 「大昭国の姫君も、この程度か。自ら堕落し、その身分を貶め、男ばかりの軍営にやってきて一介の軍医になるとは。恥ずかしくはないのか?」 その言葉は、婉寧の耳にひどく突き刺さった。 彼女は眉をひそめた。 「そなたも軍営にいるではないか。何を私に言うことがある。ましてや、そなたも私も、大昭の兵士と民のためにここにいるのだ。なぜそのようなことを言う必要がある」 浅吟は笑った。 「私と姫は違う」 婉寧は彼女を無視した。 浅吟の言う「違う」とは、女将軍である彼女に対し、自分は手当てをするただの軍医だと言いたいのだろう。 反論する価値もない。 彼女が薬箱を提げて去ろうとすると、目の前の浅吟が突然ひざまずき、目に涙を浮かべて泣き訴えた。 「姫様、私が鎮北王を望むべきではなかったと存じております!私をどのようになさろうと構いませぬ、どうか、姜家には何卒ご容赦を……」 婉寧がその場で呆然としていると、彼女が反応する間もなく、背後から聿城の心配そうな声が聞こえた。 「浅吟!」 聿城は足早に駆け寄り浅吟を抱き起こすと、その場に立ち尽くす婉寧を見て、その瞳に怒りの色を宿し、手を振り上げた! パシン―― 婉寧は横殴りにされ、両耳がキーンと鳴った。 周りの音が全て消え、聿城の怒声だけが鳴り響いているように感じた。 「趙婉寧!どうりで最近おとなしいと思ったが、陰では己の権勢で人をいじめていたとはな!」 第6話 その一撃は凄まじく、婉寧は地面に叩きつけられた。 彼女の顔はみるみるうちに赤く腫れ上がり、口の中には血の味が広がった。 婉寧は震える手で自らの頬に触れた。その平手の跡に指が触れた瞬間、涙が堰を切ったように流れ落ちた。 前世と今世を合わせても、聿城が彼女を殴ったのは、これが初めてだった。 彼女が顔を上げても、何もはっきりと見えなかった。視界は涙でぼやけ、ただ、自分を見下ろす一つの影だけが見えた。 「まさか、寧女医が婉寧姫だったとは?なぜ姫が北疆の軍営におられるのだ」 「聞いた話では、婉寧姫はずっと鎮北王を狙っていたそうだ。王はもともと都で安穏と過ごしておられたのに、姫のせいで辺境に戻られたのだとか」 「彼女が婉寧姫なら、王のことを叔父様と呼ばねばならぬのでは?こ、これはまさか……」 「皇室の顔に泥を塗るものだ!」 「……」 四方八方から聞こえてくる噂話に、婉寧はふと、前世の婚礼にいるかのような錯覚に陥った。 誰からの祝福もなく、ただ冷たい嘲笑と皮肉だけがあった。 恥知らずにも鎮北王に薬を盛り、大きな腹を抱えて王府に嫁いだと。 世の倫理も顧みず、父である皇帝の義兄弟に嫁ぐと言って聞かなかったと。 蛇蝎のごとき心を持ち、卑劣な手段で蕭聿城の想い人を謀殺したと…… 前世と今世の記憶が次第に重なり合い、魔の囁きのように婉寧の頭の中で鳴り響く。 そしてついに、無数の声はすべて聿城の怒声へと変わり、雷鳴のごとく、婉寧の脳内で炸裂した。 「趙婉寧、浅吟に謝罪しろ!」 婉寧は腕を支えに、地面から立ち上がった。その両目は真っ赤に充血していた。 「なぜ私が謝らねばならぬ?」 前世では、自分が過ちを犯した。だから無惨な死を遂げたことも受け入れよう。 だが、今世で、自分は一体何を間違えたというのだ?なぜ謝罪などせねばならぬ! 凍てつくような冷たい風が四方から吹きつけ、ただでさえ華奢な彼女の体を、さらに頼りなく揺らした。 しかし、彼女は倒れなかった。 まっすぐに聿城を見据え、その瞳には反抗な光が満ちていた。 「私は、しておらぬこと、間違っておらぬことについて、謝罪はせぬ!」 聿城は怒りを抑えきれなかった。 「姫という身分を笠に着て人をいじめておきながら、まだ自分が正しいと申すか?」 その言葉に、婉寧は思わず笑い声を漏らした。 自分が姫の身分を笠に着て人をいじめた? もし本当にそうするつもりなら、なぜ軍営で三年間も身分を隠し通したというのか。 この三年間、その身分のせいでどれほどの屈辱を耐えてきたと思っているのだ。 もし本当に浅吟をいじめるつもりなら、なぜ今まで待つ必要があった! これらの理屈は火を見るより明らかだったが、残念ながら聿城は彼女に対して深い偏見を抱き、その心はすべて浅吟にあった。 彼女の弁解など、聞く耳を持つはずもなかった。 そうであっても、婉寧は決して頭を下げて謝罪しようとはしなかった。 自分がしていないことに対して、頭を下げることなどあり得ぬ。 「趙婉寧、我に軍法でそなたを裁かせたいのか!」 聿城は彼女の赤く腫れた顔を見つめ、胸の内に怒りの炎が燃え盛るのを感じた。 理解できなかった。 かつて、彼の屋敷で甘やかされ、素直で愛らしく育ったあの女の子が、なぜ今のようになってしまったのか。 両者が膠着状態に陥ったその時、人垣の中から突然、騒ぎが起こった。 「雪崩だ!」 「雪崩だ、逃げろ!」 人々が村の山頂を見上げると、山頂の白雪が、まるで崩れ落ちる巨大な山のように、こちらへ向かって押し寄せてくるのが見えた。 「行くぞ!」 聿城は浅吟を腰から抱え上げると、馬に飛び乗り、迅速に人々を率いて撤退を始めた。 婉寧に残されたのは、ただ、男の背中だけだった。 かつて、狩りの場で矢から自分を救ってくれたあの大きな背中が、まるでこの瞬間、轟音と共に崩れ落ちたかのようだった。 それは、背後から押し寄せる雪崩のごとく、逃げ遅れた人々と共に彼女を飲み込んでいく…… 婉寧は、また死ぬ間際のあの光景に戻ったかのように感じた。 骨まで凍みるような厳しい寒さが、外から内へと、ゆっくりと彼女を蝕み、包み込んでいく。 心臓の鼓動が次第に遅くなり、意識もますます朦朧としていくのを感じた…… そしてついに、彼女はゆっくりと目を閉じ、完全に意識を失った。 第7話 再び目覚めた時、婉寧は自分が鎮北王邸に寝かされていることに気づいた。 寝台の傍らには、厳しい表情をした聿城が座っていた。 彼女が目覚めたのを見て、彼はようやく安堵の息を漏らした。 「ようやく目が覚めたか」 婉寧は驚いた。 彼が、自分が死ぬことを恐れていたとでもいうのか? しかし、考え直すと、すぐに納得がいった。 自分は少なくとも姫である。 もし北疆で死ねば、父に申し開きが立たないに違いない。 「後で浅吟が来る。きちんと彼女に謝罪し、礼を言うのだ。これ以上、わがままを言うな。 此度の件、そなたが浅吟をいじめ、皆の行程を遅らせなければ、雪崩に遭うこともなかった。浅吟が兵士たちの前でそなたのために情けを乞うてくれたおかげで、そなたの罰は免れたのだ。丁重に礼を言え。 そなたが我に邪心を抱いていることは知っている。だが婉寧よ、そなたと我の身分は、世が許さぬ。我は、自分より九つも年下の娘を好むことなどあり得ん。そなたと我は、永遠に結ばれることはない!」 婉寧は寝台に身をもたせ、心中に無数の思いが巡った。 しかし結局、それは長いため息へと変わった。 「百も承知、叔父様……」 彼女は本当に、もう彼を好いてはいなかった。 聿城が望んだ通り、浅吟がやって来ると、婉寧は弱った体を引きずって彼女に謝罪し、そして礼を述べた。 彼が望むことなら、自分は全てその通りにした。 軍営の方も、聿城からもう行かなくてよいと言われた。 今や誰もが彼女の身分を知っている上、此度の雪崩で数名の兵士が命を落とし、その責めは皆、婉寧にあった。今行ったところで、良い顔をされるはずもない。 軍営では、彼女に関する様々な聞くに堪えない噂まで広まり始めていた…… 婉寧は思ってもみなかった。生き返ってもなお、自分はまたしても悪評紛々たる結末を迎えることになるとは。 彼女は今、ただ父が自分を責めないことだけを祈っていた…… そして、素月が早く来てくれることを願っていた。 早く、自分を家に連れ帰ってくれることを…… しかし、婉寧はついに素月を待つことはできなかった。 王邸で数日療養している間、屋敷は聿城と浅吟の婚礼の準備で忙しく、彼女にかまう者はいなかった。 婉寧は気楽でよかった。 しかし、庭を歩けるまでに回復した翌日、何者かに殴られ、気を失ってしまうとは思ってもみなかった。 再び目を開けると、自分が崖の縁に縛り付けられていることに気づいた。 その傍らでは、浅吟も同じように縛られていた。 そして彼らの前には、刀をもつ二人の蛮族の男が立っていた。 婉寧の心臓が凍りついた。 王邸にいたはずの自分が、なぜ浅吟と共にここに縛られているのか…… そして、前世で浅吟は一体どうやってこの崖から生還したのか、彼女が姿を消していた数年間、一体どこにいたのか…… 谷間を吹き抜ける冷たい風が、婉寧の耳元で鳴り響く。 突如、大胆な考えが彼女の脳裏に浮かんだ――浅吟は、この蛮族たちと知り合いなのだ! しかし、問い質すことはできぬ。口から発しようとした言葉は、全て風の音にかき消された。 声が出ぬ! 浅吟は彼女の困惑を見て取ったのか、笑みを浮かべた。 「姫よ、無駄なことはおよしなさい。この薬の効果は明日まで解けぬ。大人しく待つことだ。 別に他意はない。ただ、本物の生死を前にして、あの人が一体どちらを選ぶのか、見てみたいだけだ」 その言葉を聞き、婉寧の心は悲しみに沈んだ。 もはや、選ぶまでもないことだ。 先日の雪崩で、まだ証明が足りなかったとでもいうのか? ましてや前世では、浅吟の死を誤解したせいで、彼は自分に命で償わせたのだ。 それも自分の命だけではなく、自分の子らの命までも。 まもなく、知らせを受けた聿城が、ただ一人で崖の縁に姿を現した。 彼の冷徹な眼差しが二人を捉え、最後に蛮族の男たちに向けられた。 そして、厳しい声で問い詰めた。 「何が望みだ。話せば分かる、彼女らを放せ!」 「大昭の王よ、俺たちがこいつらを攫ったのは、何かを望んでのことではない」 聿城の表情がわずかに変わった。 「どういう意味だ?」 蛮族の男は、刀を二人の首筋に近づけた。 「お前たち大昭は、俺たちの同胞を沢山も殺した。聞くところによると、この二人の女は、一人がお前の間もなく妻になる女で、もう一人がお前が守り育てた姫だそうだ。お前が救えるのは一人だけだ。もう一人は……この谷底に投げ落とし、俺の同胞たちへの供物となってもらう!さあ、選べ!」 そう言うと、蛮族は手にしていた縄をわずかに緩めた。 崖に縛られた二人は、今にも底の見えぬ谷へと落ちそうになった。 浅吟は恐怖で顔面蒼白となり、その声は抑えきれずに震えていた。 しかし、彼女は泣きながら婉寧のために情けを乞うた。 「聿城よ、姫をお救いのだ!私はそなたの副将、もとより蛮族の手に掛かって死ぬべき身!姫を救えば、陛下もそなたをお咎めにはなりますまい。私も、この腹の子も、本望だ!」 聿城の心臓が跳ね上がった。 「浅吟を放せ!」 答えは、もう出ていた。 蛮族は満足げに笑い、わざと怯えた様子を見せていた浅吟も、安堵の息を漏らした。 彼女は蛮族によって縄を解かれ、涙を流しながら、感動した様子でゆっくりと聿城の方へ歩み寄った。 しかし、聿城は無意識のうちに、もう一方にいる婉寧に視線を向けていた。 彼は、婉寧が泣き崩れ、絶望するだろうと思っていた。しかし、彼女の顔には、ただ静けさだけがあった。 なぜかは分からぬ。その静かな様子を見ていると、聿城の胸はわけもなくざわついた。 その何の感情も浮かばぬ横顔を、彼はどこかで見たことがあるような気がした…… 脳裏に、吹雪の中で凍りつき、青白くなった顔が浮かんだ。しかし、はっきりと見る前に、その幻は一瞬で消え去った。 聿城は動悸を抑え、手を上げ、密かに配置していた部下に合図を送ろうとした。 しかし、その動作が終わる前に、突如、体に重みがかかった。 「聿城!私、子を身ごもった。もうそなたと、この子に会えなくなるかと……」 聿城は、胸に飛び込んできた人を、無意識に強く抱きしめた。 次の瞬間、彼の瞳孔が収縮した。 婉寧を縛っていた縄が、一振りで断ち切られ、彼女の体はまるで翼の折れた蝶のように、吹き荒れる寒風の中、まっすぐに谷の底へと落ちていった! 「婉寧――」